会場の岩国市民文化会館。
10:00から始まって、午前は私の講演「短歌と省略」。
昼食を挟んで午後からは投稿作品(小・中・高校生の部、一般の部)の講評と表彰式があり、16:00に終了。
20年以上前に岩国の「草笛短歌会」にお呼びいただいた時にお会いした方々と再会できて何とも懐かしかった。また、現代短歌社賞を受賞して歌集『かたへら』を出された森田アヤ子さんともお会いすることができた。
岩国短歌協会のみなさま、ありがとうございました。
路の上の牛の糞をばわが小田に放りこみつつ百姓われは
代田搔く親にすがりて牛の仔の無理無体にし乳のまむとす
五月雨の雨に重たき蓑ぬぎて田植がへりは夕映のそら
田の土の煮ゆる土用は吾命(わぎのち)にあくまでも暑しひびかひにけり
泥の手をわれは術(すべ)なみ二の腕にしたたる顔の汗をしごき捨つ
早稲いねの花ざかり田にちりうける花粉(はなこ)を池の鯉あがり食ふ
牛馬は草に放ちて遊ばしむ早苗振すぎてとみに閑けさ
遠き海を過ぎ居るといふ颱風は青天にかぎりなき雲を飛ばせり
田植傭人顔見知る頃は入れかはりこの多き人の中にぞ暮す
月にわたるわが家の田植のけふはてて大早苗振は星合の空
とどろきて花ざかり田に吹きあるる野分に一夜こころ揉まるる
冬に向ふ小庭の池のしづかなる鯉もくはれて少くなりぬ
米の値の下りに下る嘆きつつ月夜明かきに稲を扱くなり
そろばんに合はざる米をつくりつつ百姓われの愚を押しとほす
生きがたき生活(たつき)に黙(もだ)す田作のその日暮しを政治救はず
塩びきの鮭に茶漬をかき込みて開墾業(わざ)は腹減りにけり
いささかの傷には土をなすりつけて百姓われの恙もあらず
厩より首伸べて馬は土を嗅げり春雨はれてとみにぬくとし
きのふけふにはかに花に咲きにける菜は鶏(とり)にやり豚にたべさす
下男(しもべ)らと競ひ働(ばたらき)にはたらきてをりふし眠る直土のうへ
少女等に放りてくばる苗束の苗のちぎれは手に青青し
向日葵の花にかけ干す仕事着のしたたる汗は乾きたるらし
とり入るる西瓜は馬車に積みあまれり二つ三つ紅く土に割れたり
荒莚畳の上に敷き並めて籾はこぶ人ら土足にはこぶ
土の中に鋤きおこしたる寒蛙生きてゐる眼にものは見ぬらし
しやぼんの泡まねくぬりたるわが手足いよいよ黒し泡の中にて
家堀に養ふ鯉の日和田にあがりてけふも波を押し寄す
現在の鶴岡八幡宮は純然たる「神社」であるが、これは明治時代の神仏分離によって仏教色が一掃された後の姿である。明治以前には、「鶴岡八幡宮寺」という名称もあり、寺院と神社が一体となった「神仏習合」の形態をとっていた。
鎌倉の港として、もう一つ忘れてはならないのが、六浦の港である。(…)天然の良港を備えた六浦は、鎌倉とは朝比奈峠を越える陸路で結ばれ、鎌倉の外港として重要な位置を占めていた。
鎌倉の主こそが関東の支配者であるという観念が、当時の人々のあいだに広く存在していたとみられる。関東の戦国大名にとって、鎌倉や鶴岡八幡宮の存在は、勢力拡大の大義名分のために無視できない魅力を持っていたのである。
横須賀線の開通は、東京から鎌倉への観光客の利便を図るためのものではなかった。軍事的に重要性を増していた横須賀と東京を連絡することが、主な目的であった。
・第11回佐藤佐太郎短歌賞 一ノ関忠人『さねさし曇天』
・第12回現代短歌社賞 上川涼子「水と自由」300首
・第5回BR賞 野川りく「ここではじまっている」
ユンカーやジェントリー、そして平安末期の武士たちに共通しているのは、領有する地名を名乗っていること、戦陣には領地の若者をひきいてゆくこと、それに家紋をもっていることである。
後白河法皇は、稀代の政略家だったというほかない。古来、分を越えて官位を得る者は暴落するという考え方が京にあり、一方、没落させたいと思う相手には、官位をその相応以上に与えたりすることがあった。官打ち≠ニよばれた。
鎌倉幕府は、もともと頼朝と北条氏の合資会社で、頼朝の死後は、北条氏に権力が移るべくして移ったとみるほうが自然である。奇妙なことに、頼朝の血流が絶えてからのほうが、政権が安定した。
大正から昭和初年にかけて、海軍士官の多くは、鎌倉や湘南地方に住んだ。たとえば、日露戦争における日本海海戦の作戦を担当した少佐秋山真之も、その若い晩年、逗子に住んだ。
最後に、改めて第三次の『啄木全集』の出版が望まれる、ということである。とはいってもこれは並大抵なことではない。なによりこの大事業を引き受けてくれる人物がいるだろうかということ、また全集は莫大な費用を要する。出版不況の現在ではこの事業を引き継いでくれる出版社はないだろう。
この元寇は、軍事のかたちをとった普遍性の高い文明と、特殊な条件下で育った民族文化とのあいだの激突であったといってよく、つまりは日本が普遍的文明というおそるべきものに触れた最初の経験であったといっていい。
江戸時代の小藩というのは、津和野、宇和島、大村、飫肥などの諸藩の例でわかるように、大藩よりもかえって教養主義の傾向がつよかった。平戸藩が、何人かいる家老のうち、山鹿、葉山というふうに二人までも学問で名が通っていたというのは、壮観といっていい。
ヨーロッパの航海者というのは、じつに不遠慮なものであった。たとえば、幕末にいたっても、英国でできた海図には、九州、瀬戸内海あたりの島や岬、海峡の多くが英国名称になっていた。つまりは、かれらが「発見」したからである。
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |