
第24回「あなたを想う恋のうた」(福井県越前市)の作品募集が始まりました。今年も審査員を務めます。
締切は10月31日(月)。投稿は無料で、最優秀賞(1首)10万円、優秀賞(3首)3万円、秀逸(10首)1万円、佳作(15首)5千円、入選(30首)QUOカード3千円という豪華な賞が出ます。
ネットからの応募もできますので、皆さんぜひ作品をお送りください。お待ちしています!
https://www.manyounosato.com/
生まれつき耳が聴こえないお母さんに育てられているだなんて、誰にも知られたくなかった。とにかく恥ずかしい、とさえ思っていた。
衝撃的だった。自分のような生い立ちの人間をカテゴライズする言葉があるなんて、考えたこともなかったからだ。同時に、胸中に不思議な安堵感が広がっていく。
コーダは「聴こえない親を守りたい」という肯定的な気持ちと、「聴こえない親なんて嫌だ」という否定的な気持ちとの狭間で大きく揺れ動くこと。(…)自身の境遇を「可哀想」とは思っていないのに、社会からの偏見により半ば強制的に可哀想な子ども≠ノされてしまうこと。
左折し、民家が固まっている狭い山道を抜けると、じきに達磨寺へ到着した。
ゴーンと急に鐘の音がした。
むしろあたりが静かになった気がした。
みうらさんも言った。
「今、すべてが消えた」
「まさに円空。これ、滞在期間長いね」
みうらさんが言った。確かにいわゆる木っ端仏でなく、ある程度腰をすえて作ったものだった。仏像の作りがそのまま円空のいた時間をあらわすというのは慧眼だ。いずれ円空という時間単位になるかもしれない。
近眼のしづかな少女だつたから雨が降る日は雨と話せた
友人の涙こらふる目を見たり星座のやうに誰もが孤り
マフラーを巻いたら足が見えなくて顔から上が歩く感じす
「えべれすと。仕事の量が、えべれすと」呟きながら歩く同僚
ぬるま湯のやうなあなたのてのひらがうなじにあれば私はうなじ
昼食の稲庭うどん橙や赤が見たくて七味を振りぬ
胎児よりあなたの体が心配と母は言ひたり母のみ言ひたり
絶叫が陣痛室にこだまする はじめて聞いたわれの絶叫
産院の授乳室の灯ひそやかに二十四時間消えることなし
幼児にも玩具は玩具でしかなくて触りたいのは財布とスマホ
スーパーで時々見かける泣き喚く子は、本日は私の子です
数人が死ねばただちに孤児となる子と歩きをり地球の上を
登山と画(え)とは、今では私の生活から切り離すことのできないものとなっている。画は私の本業であるが、その題材として、山のさまざまな風景ほど、私の心を惹きつけるものはない。
山には歩き方がある。歩き方一つでどんな人でも一万尺の高峰に登ることができる。(…)面白いのは下山の時にすっかり参ってしまっている男は、きまって登山の時には最も元気だったものに限るようである。
瑞西のアルプスでは、世に名だたる名山と、その反対にごく平凡な山との両方に鉄道が通じている。平凡な山というのは、なかなか面白い思いつきで、その目的とするところは、山それ自身は鑑賞の価値に乏しくとも、つまりその山の高い部分から、相対する名山を眺望しようというのである。
調理場や道具をきれいに手入れしておけば、不思議なことに、仕事に追い込まれた時に道具が味方してくれ、自分(の仕事)を守ってくれていると感じるのです。
毎度「○○を入れてもいいんですか」と確認されます。味噌汁に入れたくないものはあっても、味噌汁に入れていけないものなんてありません。それが味噌汁の凄さです。
料理の決まり事の多くはハレの日のために洗練されたプロの仕事です。ハレの日やプロの仕事が日常の暮らしに入りこんでしまったから料理が「面倒なもの」になったのです。そんな箍はすべて外せばいい。
一人暮らしでも、自分でお料理して食べてください。そうすれば、いつのまにか、自分を大切にすることができるようになっています。
同じ学生組でも、東京帝国大学の木下、平野がそれぞれ医学、工学を極めるため真面目に勉強をしていたのに比して、早稲田組の吉井、北原はほとんど学校に行っていなかった。
江戸時代、長崎の人口六万人のうち、一万人は中国人であったという。密貿易を防ぐため竹矢来で囲ったなかで、中国の人たちはどのような暮らしをしていたのだろうか?
この旅、福岡、江津湖、柳河、どこでも舟遊びがもてなしになっている。私が小さい頃も、不忍池でボート、東京湾でハゼ釣りなど、小船で遊ぶことは多かった。
近代になると、雲仙は日本国内の宣教師や上海在住の欧米人たちの格好の避暑地になった。上海から船で一晩寝れば長崎に着いたのだという。
本書を書いた一の動機はまず『五足の靴』にいかに『即興詩人』の影響が大きいかを見ることである。鷗外を敬慕した与謝野鉄幹と若い仲間たちは、西洋に行くことは難けれど、せめて九州の、宣教師がやってきて布教したところ(…)
かつて信楽焼は火鉢の8〜9割のシェアを占めていたそうです。火鉢を含めて信楽焼が産業として発展してきたことから、住民たちから鉄道輸送を望む声が高まります。
こうした取り組みの背景にあるのが、嵐電が掲げる「沿線深耕」という言葉です。「振興」ではなく「深耕」。地域と鉄道は一体であるという考えに基づき、沿線の資源や良さを深く発掘・再構築し、沿線を住んでみたい、魅力ある地域にするため、鉄道会社として積極的にお手伝いをしていこうという思いが込められています。
本格的な人口減少時代に突入した日本で、これから地域に新しい鉄道や路線をつくることは基本的に難しい。そう考えると、今ローカル線が走っている地域は、他の地域が持てない「資源」を持っていると言い換えることもできるのです。
私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサムのようなところがある?! たとえ、自分でシサムですと口で言い得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない、そんな口先でばかりシサムになったって何になる。シサムになれば何だ。アイヌだから、それで人間ではないという事もない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。
(知里幸恵 日記)
古老たちの少なくなったことにもよるが、私たちの身辺から素朴な信仰の対象であったイナウ(木幣)が完全に消えていた。盆だとか正月、あるいは命日などに行なっていたシン・ヌラッパ(仏の供養儀式)の、厳かなうちにも華やかな集いも、ほとんど見なくなった。偏見視され蔑まれる直接的なものは、若い層から強硬に頑に否定されてしまったのである。それが祖母の力説する「アイヌもシャモも変わりない時代!」を造り上げたのかもしれなかった。が半面に、私たちが帰依する真の場がなくなってしまっている。
(鳩沢佐美夫「証しの空文」)
祖父らが文字を学び新しい文化を吸収しようと、学校をたて日本人の先生を招いたのは、明治二五年であった。その時は、アイヌ文化とアイヌ語、アイヌ精神まで失うとは、エカシの誰も予期しなかったと思う。
父は学校で受けた教育で、先生の影響を受けて日本人化した代表的なアイヌとなった。天皇を崇拝し、日本民謡を唄い、晩年には、酒が入ると軍歌「戦友」をうたい自己満足していた。
(貝澤正「母(フチ)のこと」
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