2025年04月07日

森鷗外「半日」

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森茉莉『父の帽子』や朝井まかて『類』を読んで、森鷗外の短篇「半日」が読みたくなった。

私達は、父の小説の中の一つによって永遠に、「狂人染みた女から生れた系族」という感じを受け、永遠にそれに纏わられて生きて行かなくてはならない。
/森茉莉『父の帽子』
「あれだけは全集に収めないでおくれ。どうか、私の遺言だと思って」
「わかってるよ」
 そう言えど母はこだわり続ける。(…)
「お母さん、約束する。『半日』は載せさせない」
/朝井まかて『類』

「半日」は青空文庫にも入っているが、やはり紙で読みたい。全集を借りるのも面倒だなと考えていたら、初出の「スバル」1909年3月号の復刻版が家にあることに気づいた。早速、読む。

おもしろい。

「半日」は嫁姑の不仲とそれに端を発する夫婦喧嘩を描いた作品である。鷗外と妻の志げ、母峰子がモデルになっている。

或る冬の午前の家の中の様子が丁寧に細かく記されている。小説としての出来はいいと思う。

もちろん、志げにとっては愉快でなかっただろう。小説は小説であって、現実そのままではない。でも、「半日」の奥さんの描写は印象的で、それが志げのイメージを決定づけてしまったのだ。

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2025年03月27日

ロールキャベツ

このところ無性にロールキャベツが食べていなと思っていたら、『類』のなかに出てきたので驚いた。

類が好きなのは、このキャベツ巻だ。柔らかくなるまで蒸した半切りのキャベツの隙間に、塩胡椒した挽肉をぎっしりと詰めて蒸し煮にしてある。コンソメで味を調えたスウプの中にそれは置かれていて、蠟燭の灯で艶光りしている。

子どもの頃のクリスマスの夜の食事風景。俵状のロールキャベツではなく、大きな半球状のものを切り分けて食べているようだ。「類、キャベツ巻を切ってやろうか」という鷗外の発言も出てくる。

そういえば先日、懐かしいものを食べました。シュウ・ファルシという仏蘭西の昔ながらの家庭料理で、そんなものを出す食堂があるんです。ナイフで切って驚きました。まだパッパが元気だった頃に、お母さんが時々拵えていたキャベツの肉詰めでした。クリスマスによく食べましたね。あれは独逸の料理かと思っていましたが、仏蘭西でしたよ。

類が杏奴とともにパリに留学したときに食べたロールキャベツ。類にとっては父の思い出につながる食べ物だったのだろう。
https://www.e-gohan.com/recipes/5026/

そう、ロールキャベツは記憶と深く結びつく食べ物なのだ。

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2025年03月26日

朝井まかて『類』


森鷗外の末子(三男)の森類を主人公にした小説。

以前、森鷗外記念館を見学したとき、「森類 ペンを執った鷗外の末子」という展示会をやっていて、それ以来気になっていた人物だ。

類の目から見た父の姿や母と祖母との確執、二人の姉(茉莉、杏奴)の様子などが描かれていて興味深い。特に、鷗外没後の与謝野家や「冬柏」との関わりに注目した。

杏奴は踊りの稽古と仏蘭西語を続けながら、文化学院の『源氏物語』や漢学の講座にも通っている。源氏は父と交流のあった与謝野晶子先生が講師で、時々、親しく声をかけてもらっているようだ。
茉莉はまたモウパッサンの翻訳を手がけていて、『それが誰に分るのだ』をこの三月から「冬柏」に連載を始めている。「冬柏」は昨年創刊された新詩社の機関誌で、「明星」廃刊後の与謝野寛、晶子夫妻が最も力を注いでいる雑誌だ。
類と杏奴の巴里行きについて尽力してくれたのは、与謝野夫妻だった。その昔、寛先生が巴里滞在中に晶子先生も渡欧したいと願い、それに力を貸したのが父だったらしい。
杏奴は頰杖をついたまま右手のペンを走らせている。(…)今、巴里での暮らしを文章にしている。与謝野夫妻から「冬柏」に寄稿するように勧められたのは、日本を発つ前だった。
茉莉はロチやドーデなどの翻訳をまた「冬柏」で発表して、他にも原稿料を得られる仕事が入りつつあるらしい。
杏奴はパリのアパルトマンで、父についての追懐文も書いていたらしい。『晩年の父と私』という題がついたその小文は「冬柏」に掲載され、さらに『父上の事』などと題を変えて、今も連載されている。

森茉莉、小堀杏奴の文筆家としての出発には、森家と与謝野家の深い関わりがあったのだ。

2023年7月30日、集英社文庫、1150円。

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2025年02月27日

森茉莉『父の帽子』


1957(昭和32)年刊行の『父の帽子』(筑摩書房、第5回日本エッセイスト・クラブ賞受賞)に、「父の底のもの」「人間の「よさ」を持った父」を加えた全16篇のエッセイ集。

父森鷗外に対する作者の深い思慕はよく知られているが、それは幼少期に孤独だったためでもあるようだ。

次の弟の不律が死んでから杏奴が生れて、それが遊び相手になるまでの八年位の間、私は一人だった。兄は大きくてたまにしか相手にならない。女中と遊ぶことは禁じられている。唯一の話し相手であった父は、朝から薄暗くなるまで何処かへ行っていて居ない。母は小説を読んでいたり、考え事をしていたり、戸棚から行李を出して片づけものをしたりしていた。

作者の描く父の印象と母の印象は大きく違う。「お茉莉は上等よ」といつも褒めてくれる父に対して、母はしつけなどに厳しい人であったようだ。

私は父の顏を思い出す。微笑している顔、考える顔、しかめた顔、どんな場合の顔を思い出しても、父の顏には不愉快な影がない。浅ましい人間の心が覗いていた事がない。父は人間の「よさ」を持った稀な人間だった。
母は厳しかった。いつもきっとして、「まりちゃん」と呼んだ。母に呼ばれると、いつもぐにゃりとして、どこかしらんによりかかったりしているような私も、直ぐに起き上って、ピアノを復習(さら)ったり、勉強をしたりしなくてはならないようになるのだった。

森鷗外が主催していた観潮楼歌会の話も出てくる。

時々、観潮楼歌会というのがあって、二階の観潮楼に大勢の人が集まって、夜遅くまで賑やかに笑ったり、話したりしていた。(…)私は父の傍へ行って坐り、紙を貰って字を書いたり、絵を描いたりした。人々は、何か考えたり、書きつけたりし始める。

観潮楼歌会に参加していた石川啄木も、森茉莉のことを手紙や日記に書いているので、引いておこう。まずは、1908(明治41)年7月7日、岩崎正宛の書簡。

森先生の奥様は美しい人だよ。上品な二十八九位に見える美しい人だよ。令嬢は一人で六歳。茉莉子といふ名から気に入る。大きくなつたらどんな美人になるか知れない程可愛い人だ。一ケ月許り前からピアノを習ひに女中をつれて俥でゆくさうで、此頃君が代を一人でやる位になつたさうだ。羅馬字でMARI,MORI.と書いて見せたりする。可愛いよ。

続いて、同じ年の9月2日の日記から。

二時半頃、与謝野氏と平野君と突然やつて来た。平賀源内の話などが出た。一時間許りして、三人で千駄木の森先生を訪うた。話はそれからこれと面白かつた。茉莉子さんは新らしいピヤノで君が代を弾いたり、父君の膝に凭れたりしてゐた。

ピアノで弾いているのが「君が代」というのがおもしろい。これも時代だろうか。

1991年11月10日第1刷、2023年11月16日第37刷。
講談社文芸文庫、1200円。

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2024年06月04日

森鷗外と国学

中澤伸弘『やさしく読む国学』を読んで思い付いたことの一つに、森鷗外と国学の関わりがある。鷗外の活動と重なる話がいろいろと出てくるのだ。

真淵の著作には『○○考』という書名が多くあります。『国意考』『文意考』『歌意考』『書意考』『語意考』で、以上の五つを五意考と言います。(…)ほかに『萬葉考』、枕詞について述べた『冠辞考』、延喜式祝詞について述べた『祝詞考』などがあります。

こうした書名は鷗外最晩年の『帝諡考』や未完に終わった『元号考』を想起させる。

一方、古書に引用されて残った逸文の採集も積極的に行なわれ、江戸の考証学者・狩谷棭斎の『諸国採輯風土記』をはじめ、同じく江戸の前田夏蔭や黒川春村らの地道な研究により、「古風土記逸文」は今日の形となっています。

狩谷棭斎(かりや・えきさい)は鷗外の史伝小説で有名な渋江抽斎の師で、鷗外は狩谷の史伝も執筆しようとしていた。

この表音表記については、明治時代末ごろから、表記法として認めるべきだといった声があがってきましたが、伝統的な立場に立つ人はこれに反対しました。森鷗外の『仮名遣意見』などは、この立場に立って表音表記を批判したものでした。

ここには鷗外の名前が出てくる。

歌人でもあり、その一方で古代研究、古器古物に興味をもち、正倉院宝物の調査に従った穂井田忠友は、これらの物品を描写した図録『埋麝発香』を刊行することを計画しました。

穂井田忠友(ほいだ・ただとも)については、鷗外の「奈良五十首」の中に次の歌がある。

少女をば奉行の妾(せふ)に遣りぬとか客(かく)よ黙(もだ)あれあはれ忠友(たゞとも)

以上のような点から考えると、鷗外は特に晩年において国学にかなり近づいていたのではないかという気がする。

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2023年11月02日

小堀杏奴『晩年の父』


このところ鷗外が気になって仕方がない。
著者の小堀杏奴は鷗外の次女(1909−1998)。

父は何時も静かであった。葉巻をふかしながら本を読んでばかりいる。子供の時、私はときどき元気な若い父を望んだ。自分の細かいどんな感情をも無言の中に理解してくれる父を無条件で好きではあったが、父はいつでも静かだったし、一緒に泳ぐとか走るとかいう事は全然なかった。
父は物事を整然(きちん)と整理する事が好きだった。私たちが何か失くしたというと、
「まず」
といってから、そのものには全然関係のない抽出からはじめて、一つ一つゆっくり整頓して行った。/すっかり整然と片付けてゆくと、また不思議になくなったと思うものも出て来た。
不律が死に、残った姉までが既(も)う後廿四時間と宣告された時、父は姉の枕許に坐ったまま後から後から涙の零れるのを膝の上に懐紙をひろげてうつむいていると、その紙の上にぼとぼとと涙が落ちる。/廿年近い結婚生活の中で、父の涙を見たのはこの時が初めてでそしてまた終りであったと母は言っているが、その時は吃驚して父の顏ばかり見ていたそうである。

どの文章からも鷗外の姿がなまなましく浮かび上がる。回想の甘やかさと懐かしさと不確かさ、そして父に対する愛情が混然一体となって、独特な味わいを醸し出している。初出は与謝野寛・晶子の雑誌「冬柏」で、与謝野夫妻のプロデュース力はさすがなものだ。

この本は、1936年刊行の『晩年の父』に1979年発表の文章を「あとがきにかえて」として追加して一冊にまとめている。

・「晩年の父」(1934年執筆)
・「思出」(1935年執筆)
・「母から聞いた話」(1935年執筆)
   以上は『晩年の父』(1936年)収録
・「あとがきにかえて」(1978年執筆)
   (原題は「はじめて理解できた「父・鷗外」」)

つまり、25〜26歳の頃に書かれた文章と69歳の時の文章が一緒に収められていることになる。そこに年齢的な変化があるのはもちろんだが、それ以上にキリスト教への入信が大きな影響を与えたことが見て取れる。

鷗外47歳の時に生まれ13歳で父と死に別れたこと、鷗外と後妻の志げとは18歳の年の差があったこと、嫁姑の仲が良くなかったことなど、家族というものについてあれこれ考えさせられる内容であった。

他の子どもたちの書いた本も読んでみようと思う。

1981年9月16日第1刷、2022年7月27日第18刷。
岩波文庫、600円。

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2023年10月17日

吉野俊彦『鷗外百話』


日本銀行に勤めるエコノミストであり、また鷗外研究者として知られる著者の、鷗外に関するエッセイや講演70篇を集めた本。

当初は題名通り100篇を収める予定だったのが、分量の関係で70篇に絞ったとのこと。それでも376ページという厚さである。

文学者であり軍医でもあった鷗外の作品を、著者は「サラリーマンの哀歓」という観点から捉える。二足のわらじを履いた人生の苦悩を読み取るのである。

いままでの鷗外文学の研究は、専門の文学者かお医者さんか、いずれかの見方であったのですね。ところがサラリーマンという眼で、われわれと同じ悩み、喜びを持った、何十年も同じそういう生活をした鷗外の全作品を見直すと、その本質はサラリーマン文学なんだということを痛感せずにはいられない。
彼は大学を出て、軍医中尉格の「陸軍軍医副」に任官し、下級のサラリーマンとして世に出たのです。そしてそれを出発点としてずーッと何年も勤めたあげく、最後に最高の地位に到達したに過ぎない。その間、実に多くの迫害を受け、まさに辞職の一歩手前までいっているので、決して順風満帆の生涯ではなかったのです。
陸軍省医務局長という地位は軍医として最高の地位であったには違いないにしても、陸軍次官、さらに陸軍大臣という上級職の指揮下にあり、また形式的には同格の軍務局長、人事局長などに対しても、事実上劣位にあったことは否定できず、ある意味では中間管理職に似た苦境に立つ可能性を内包するものだったとみるべきである。

こうした観点に立って、著者は鷗外が味わった様々な人生の苦み(小倉への左遷、文芸活動に対する批判、陸軍次官との衝突)を具体的に記している。著者もサラリーマン生活をしながら、鷗外研究を長年続けるという二足のわらじを履いた人であった。鷗外に対する共感と敬愛の深さが滲む。

人間には必ず「興味」というものがある。この興味というのは天の啓示であり、神のおぼしめしである、と私は思っている。それを徹底的にやりなさいということを、天が命じているのだといってもよい。

専門の経済関係の本とは別に鷗外に関する研究書を十数冊刊行した著者の言葉だけに重みがある。

百年のちのベルリンへ人は出発し日が暮れて読む『鷗外百話』
       永井陽子『モーツァルトの電話帳』

1986年11月30日、徳間書店、2000円。

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2023年08月29日

中島国彦『森鷗外』


副題は「学芸の散歩者」。

森鷗外の誕生から死までの軌跡を鷗外の作品や周囲の人々の証言によって描き出した評伝。昨年は森鷗外の没後100年ということで多くの本が出たが、本書もその一冊である。

鷗外には、津和野を正面から描いた文章は、なぜか見当たらない。実は、生前一度も津和野に帰ってはいないのである。
鷗外の翻訳文体は、『即興詩人』で高度の達成を見せる。有名な、「国語と漢文とを調和し、雅言と俚辞とを融合せむ」という言葉をそのまま体現する、見事な文体である。
『青年』が、漱石の『三四郎』の影響で、鷗外が「技癢」(腕がムズムズすること)を感じて書かれたことは、よく知られている。東京人漱石は地方から上京する門下生を見ているが、鷗外はそれとは違い、自身が上京の体験を持っていた。

このところ、いろいろな本の中で鷗外と出会うようになってきた。鷗外作品をもっと読まなくてはと思う。

2022年7月20日、岩波新書、880円。

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2023年07月27日

宗像和重編『鷗外追想』(その2)

古い文章を読んでおもしろいのは、現在の見方や価値観とは違う内容が記されているところかもしれない。

例えば、観潮楼歌会についての北原白秋の書いた「千樫君と私」には、

その頃のアララギは歌壇的勢力からいうと、いまのアララギのみを見ている人から思うと、それは想像外に微々たるもので、私などもそれまでの左千夫さんの存在も知らなければ、アララギと云う雑誌を一度も見たことがなかったのです。

とある。明治40年頃の話だ。これを読むと初期の「アララギ」はごくごく小さな勢力であり、短歌の新しい時代を切り拓いたのは圧倒的に「明星」の力であったことがわかる。この文章が書かれたのは昭和2年なので、別の言い方をすれば大正期に「アララギ」が勢力を急拡大したということだろう。

また、岡田正弘「大正十年二月十四日の晩」には、鷗外が文壇を離れた大正7年頃の話が出てくる。

その頃鷗外の著書は既に新刊書を売る店には無かった。菊判の全集が出たのは先生の歿後であるから、わたくしは鷗外の著書やその作品の載ったスバル、三田文学等の古雑誌を求めてあたかも逢引の如き心のときめきを感じながら、本郷、神田から場末の古本屋に至るまで一軒一軒と尋ね歩いた。

鷗外の亡くなるのは大正11年のことだが、その晩年には既に鷗外の著書は本屋にはなく、古書店で買うしかなかったのだ。今では漱石と並ぶ二大文豪という扱いを受けている鷗外だが、生前はそうでもなかったということだろう。

最後に、大阪毎日新聞社長の奥村信太郎「追憶の森鷗外博士」から。

わたくしの従事している大阪毎日新聞社では、ライヴァル・ペーパーである朝日新聞が夏目漱石氏を迎えて紙価を高からしめているので、何とかしてこれに対抗する文芸の大家を聘しようと、いろいろに焦慮した。

これを受けて、鷗外は大正5年から6年にかけて新聞に「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北条霞亭」といった史伝物を連載する。けれども、新聞社の求めたのは購読者を増やしてくれるような人気の出る小説であった。

有態にいうと当時かかる読み物は、新聞紙上において大衆から余り歓迎を受けられないのであったが、わが社は執拗にこれを続けて行った。そしてわたくしは何か別に創作をお願いしたのであったが、博士は伝記物に興味を持たれていて、終にわが社には一篇の創作すら掲載することなくして、美術院長に任ぜらるると同時に、わが社を辞されたのであった。

事情や背景がよくわかるだけに、何だか読んでいるうちに鷗外が可哀そうになってくる。

2022年5月13日、岩波文庫、1000円。

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2023年07月26日

宗像和重編『鷗外追想』(その1)


森鷗外について書かれた追悼文や回想など55篇を収めたアンソロジー。執筆者は、与謝野晶子、坪内逍遥、佐佐木信綱、小山内薫、平塚らいてう、芥川龍之介、小堀杏奴、森類、森茉莉など。

鷗外の素顔や人柄などが多面的に浮かび上がってくる内容で、すこぶる面白い。没後100年を記念して編まれた本であるが、鷗外のことが非常に身近に感じられる。

どうも病気が重いようだったから、私が劇しい手紙を出して、医者に見て貰って薬用しろと云うと、その返事に、馬鹿を云うな、一年かそこらの生命はなんだ、一行りでも一字でも調べて行くのが自分の生命だ、それゆえ仕事を継続しているのだ、それをやめて養生して一年二年生き延びても、自分において生きてるとは思わない、再び云ってよこすな……と先ずそういう精神なので(…)(賀古鶴所「通夜筆記」)
兄は自分の周囲は綺麗に整頓して置くのが好きで、机は大小二脚を備え、右手の小の方に硯、インキ壺、筆、ペン、鉛筆、錐、鋏その他文房具を浅い箱に入れて載せ、正面の大机に書籍なり原稿紙なり時に応じて置くという工合にし、小机の横から自分の背後に参考書その他必要書類を一山一山正しく重ねて置き、暗中でも入用にものは直ぐ分るようになっている。(森潤三郎「兄の日常生活」)
私の思うままを有体に云うと、純文芸は森君の本領では無い。劇作家または小説家としては縦令第二流を下らないでも第一流の巨匠で無かった事を敢て直言する。何事にも率先して立派なお手本を見せて呉れた開拓者では有ったが、決して大成した作家では無かった。が、考証はマダ僅に足を踏掛けたばかりであっても、その博覧癖と穿鑿癖とが他日の大成を十分約束するに足るものがあった。(内田魯庵「森鷗外君の追憶」)
先生は一体、所謂天才らしい所の無い方であった。夏目さんや芥川龍之介や晶子夫人などに見る如き才華煥発の趣きは、若い時のことは知らないが、私どもが知る限りでは微塵も無い。人物の上にも無い、作物の上にも無い。その反対に理性の権化のような先生が規帳面に作られた文章が、返って落付きがあって奥光りがして人をして永く厭かしめざること、所謂天才家のそれに優っていることは驚くべきことである。(平野万里「鷗外先生片々」)
先生はいつも独りである。一所に歩こうとしても、足の進みが早いので、つい先きへ先きへと独りになって仕舞うのだ。競争と云うような熱のある興味は先生の味おうとしても遂に味えない処であろう。自分は先生の後姿を遥かに望む時、時代より優れ過ぎた人の淋しさという事を想像せずに居られない。(永井荷風「鷗外先生」)

引用が長くなったので、これくらいにしておこう。
どれも鷗外に対する深い思いのこもった良い文章ばかりだ。

2022年5月13日、岩波文庫、1000円。

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2023年07月23日

森鷗外『ウィタ・セクスアリス』


昨年は森鷗外(1862‐1922)の没後100年だったので、関連する本が多く出版された。本書も版を改め「鷗外を、読んでみよう」という帯を付けて出たもの。初出は「スバル」1909(明治42)年7月号。

タイトルは「性欲的生活」を意味するラテン語だが、想像していた内容とは全然違った。過激なところはまったくなく、自らの生い立ちを丁寧に記した小説という感じ。鷗外の生真面目さが窺える。これがどうして発禁処分を受けたのかわからない。

印象的だったのは、自分の容貌が醜いと繰り返し書いていること。かなりのコンプレックスがあったようだ。

同じ小倉袴紺足袋の仲間にも、色の白い目鼻立の好い生徒があるので、自分の醜男子であることを知って、所詮女には好かれないだろうと思った。
その美しい夢のようなものは、容貌の立派な男女の享ける福で、自分なぞには企て及ばないというような気がする。それが僕には苦痛であった。
青年男女のnaivelyな恋愛がひどく羨ましい、妬ましい。そして自分が美男に生れて来なかったために、この美しいものが手の届かない理想になっているということを感じて、頭の奥には苦痛の絶える隙がない。
生んでもらった親に対して、こう云うのは、恩義に背くようではあるが、女が僕の容貌を見て、好だと思うということは、ちょっと想像しにくい。

鷗外が自分の容貌のことで悩んでいたなんて、不思議な気がする。
最後に、一番印象に残った部分を引こう。

僕はどんな芸術品でも、自己弁護でないものはないように思う。それは人生が自己弁護だからである。あらゆる生物の生活が自己弁護であるからである。

鷗外に対する興味がだんだん強くなってきた。

1935年11月15日第1刷、2022年3月15日改版第1刷。
岩波文庫、480円。

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2022年01月19日

続・奈良へ

森鷗外は晩年、帝室博物館の総長として奈良にしばしば滞在した。
当時、博物館の官舎があった場所に、建物の門だけが残されている。


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東大寺大仏殿に入る交差点の角にあるのだが、知らなければ気づかないと思う。それくらい、ひっそりと立っている。写真では見にくいが、門の裏手に鹿が寝そべっていた。


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「鷗外の門」と名付けられている。
刻まれているのは「奈良五十首」の歌。

猿の来し官舎の裏の大杉は折れて迹なし常なき世なり

この門を鷗外が出入りしていたわけだ。
常なき世ではあるけれど、あなたの通っていた門は100年後も残っていますよ、と教えてあげたい。

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2022年01月10日

平山城児『鷗外「奈良五十首」を読む』


1975年に笠間書院から刊行された『鷗外「奈良五十首」の意味』を改訂、増補して文庫化したもの。森鷗外「奈良五十首」(「明星」1922年1月)に関する詳細な注釈書だ。

鷗外は陸軍軍医総監を退任したのち帝室博物館総長となり、毎年正倉院の宝物の曝涼に立ち会うために奈良を訪れた。その際の歌をまとめたのが「奈良五十首」である。

難解な歌も含まれるその1首1首について、著者は資料に当たるだけでなく、実際に現地を訪れ、関係者の話を聞くなどして、実に細かく調べていく。かなりマニアックな内容と言ってもいい。

その熱意の奥にあるのは、

鷗外の文学活動はあらゆるジャンルにわたっているために、鷗外の短歌は、これまでひどく不遇な位置におかれてきたようである。

という思いであった。

まるでミステリーを読み解くような一冊で、実証的な文学研究の醍醐味を味わうことができる。鷗外の足跡を訪ねて奈良にも行ってみたくなった。

2015年10月25日、中公文庫、1000円。

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2021年11月17日

モルゲンシュテルン(その2)

森鷗外『沙羅の木』を見ると、翻訳詩はデーメルの8篇から始まって、次にモルゲンシュテルン1篇、そしてクラブント10篇が続く。

その選びや並べ方の意図について、鷗外自身が序文で述べている。

ドイツの抒情詩は、先づ方今第一流の詩人として推されてゐるデエメルの最近の詩集から可なりの数の作が取つてある。後には又殆ど無名の詩人たる青年大学々生の処女作がデエメルと略同じ数取つてある。

デーメルとクラブントの二人についてこのように記した後で、モルゲンシュテルンについては次のように書く。

そして其中間に、盲目に籤引きをしたやうに、さ程でもないモルゲンステルンの詩一篇が挟まれてゐる。ドイツ人が見たら、いよいよ驚くであらう。しかしデエメルたることを得ずして、僅に名を成してゐる詩人の幾百幾千は誰を以て代表させても好いかも知れない。偶モルゲンステルンが其代表者となつて出ても、忌避すべきではないかも知れない。

くじ引きで選んだように、凡庸な詩人の中から、たまたまモルゲンシュテルの1篇を選んでみたというわけだ。ちょっとモルゲンシュテルンが可哀そうになってくる。

もっとも、ここには鷗外一流の韜晦がある。本国のドイツ人も「驚くであらう」という選びには、鷗外の目利きとしての自信があったに違いない。

ユーモア、ナンセンス、風刺の詩人として今では多少知られているモルゲンシュテルン。当時のドイツでの評価はどうだったのだろう。

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2021年11月16日

モルゲンシュテルン(その1)

坂井修一『森鷗外の百首』を読んでいたら、クリスティアン・モルゲンシュテルン(Christian Morgenstern、1871‐1914)の詩の翻訳が出てきた。

かかる珠いくつか吹きし。
かかる珠いくつか破(や)れし。
ただ一つ勇ましき珠
するすると木(こ)ぬれ離れて、
光りつつ風のまにまに
國原の上にただよふ。

「月出」(Mondaufgang)という詩の一部で、パンの神が吹いたシャボン玉の一つが空に昇って満月になったという内容だ。原詩は『In Phanta's Schloß』(1895)のもので、鷗外の詩歌集『沙羅の木』(1915)に収められている。

モルゲンシュテルン!

という驚きがあった。もう30年近く昔の話になるが、私が大学(ドイツ文学科)の卒業論文で取り上げたのが、このモルゲンシュテルンの『パルムシュトレーム』という詩集だった。

当時、モルゲンシュテルンの邦訳はほとんどなく、苦労して書いた覚えがある。今も、生野幸吉・檜山哲彦編『ドイツ名詩選』(岩波文庫、1993)や種村季弘訳『絞首台の歌』(書肆山田、2003)、池田香代子訳『モルゲンシュテルンのこどものうた』(BL出版、2012)があるくらいではないだろうか。

1篇だけとはいえ鷗外が訳していたことを、迂闊にも知らなかった。

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2021年11月14日

坂井修一『森鷗外の百首』


小池光『石川啄木の百首』、大島史洋『斎藤茂吉の百首』、高野公彦『北原白秋の百首』に続くシリーズ4冊目。

次は晶子か牧水が来るのかと思っていたら鷗外だったので、ちょっと意外な感じを受けた。けれども、読んでみると鷗外の歌の魅力が存分に伝わってきて、確かにこれは外せないなと納得した。

わが足はかくこそ立てれ重力(ぢうりよく)のあらむかぎりを私(わたくし)しつつ
日の反射店の陶物(すゑもの)、看板の金字、車のめぐる輻(や)にあり
火の消えし灰の窪みにすべり落ちて一寸法師目を睜りをり

「重力」という漢語の持つ力強さ、人力車の車輪の「輻」(スポーク)に反射する光の描写、火鉢の灰に落ちた一寸法師という奇想、どれも不思議な味わいがある。

これまで「文人短歌」といった枠組みで余技のように扱われることも多かった鷗外の歌であるが、著者はそこに現代短歌が失ってしまったものを見出している。

大正以降、専門歌人の間では職人的な美意識が強くなりすぎたかもしれない。
鷗外の歌の構図や構想の大きさは、歌壇には継がれなかったようである。

こうした評に、著者の短歌観がよく表れている。

「森鷗外の百首」というタイトルであるが、取り上げられているのは短歌だけでなく、翻訳詩や創作詩も含まれている。「短歌だけ選んで解説したのでは、この巨人の抒情詩人としての魅力を伝えきれない」(解説)という意図によるものだ。

詩歌全般にわたる作品が選ばれたことで、鷗外の文学者・知識人としての広がりが感じられるようになったと思う。伝統と近代、西洋と日本、医学と文学など、さまざまな要素を抱えた鷗外の全貌が垣間見える一冊である。

2021年8月8日、ふらんす堂、1700円。

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2021年11月08日

今野寿美『森鷗外』


副題は「短歌という詩型に生涯愛情を持ち続けた文豪」。
コレクション日本歌人選67。

文豪と呼ばれる鷗外が、多面的かつ膨大な実績を残すなかで、短歌という小さな詩型を終生身近にしていたと思えば、それだけで感慨を覚えるし、じゅうぶん読む価値がある。

森鷗外の詠んだ短歌977首の中から48首を選んで鑑賞している。巻末の「観潮楼歌会をめぐって」や随所に挟まれるコラムも充実しており、鷗外にとって短歌とは何であったのかが少しずつ見えてくる。

特に鷗外が新派和歌、中でも与謝野晶子の歌をどう見ていたかという話は面白かった。初めは批判・反発しながらも気になって仕方がなく、やがてその作風の摂取を試みるようにもなる。

  七瀬八峰
むこ来ませ一人はやまのやつをこえひとりは川の七瀬わたりて
書(ふみ)の上に寸ばかりなる女(をみな)来てわが読みて行く字の上にゐる
かすれたるよき手にも似てたをやめのまよふすぢある髪のめでたき

これまで鷗外の短歌にはほとんど関心がなかったのだが、この本を読んで興味が湧いてきた。明治から大正にかけて、旧派と新派、日本と西洋、伝統と革新のせめぎ合いの中に生きた知識人の姿が浮かび上がってくる。

2019年2月25日、笠間書院、1300円。

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2021年10月08日

根津神社の水飲み場

根津神社(東京都文京区)の本殿左手の西参道わきに、小さな水飲み場がある。


 P1090311.JPG

どこにでもあるような水飲み場であるが、「我武維揚」と篆書体で刻まれているのが目に付く。調べてみると、書経が出典の言葉で、かつて軍人勅諭に使われ「わがぶこれあがりて」と訓読したらしい。

なぜ、そんな言葉が水飲み場に刻まれているのか?

それは、この台座はもとは水飲み場ではなく、戦利品の砲弾を載せていたものだったからだ。


 P1090312.JPG

台座の背面には

戦利砲弾奉納
 陸軍々医監 森林太郎
 陸軍少将  中村愛三
明治三十九年九月十日建之

と刻まれている。
日露戦争の勝利を記念して、戦利品の砲弾を奉納したのである。

森林太郎は、森鷗外の本名。森鷗外記念館で上映されている映像には、砲弾の前に整列して撮られた記念写真も登場する。

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2012年02月05日

岡井隆著 『森鴎外の『うた日記』』


日露戦争に第二軍の軍医部長として出征した森鴎外が著した『うた日記』(明治40年)。そこには新体詩58篇、訳詩9篇、長歌9首、短歌331首、俳句168句が収められている。本書はその『うた日記』を読み解いていく内容である。

と言っても、難しいものではない。エッセイと評論と研究が入り混じったような、岡井ならではの散文で、楽しく読み進むことができる。既刊の『「赤光」の生誕』『鴎外・茂吉・杢太郎―「テエベス百門」の夕映え』よりも分量が少なく、一番読みやすいかもしれない。

と言っても、もちろん単にやさしく楽しいだけではない。非常に複雑な本である。これは「日露戦争」についての本でもあり、「日露戦争に出征した森鴎外」についての本でもあり、「日露戦争に出征した森鴎外の著した『うた日記』」についての本でもあり、さらには「日露戦争に出征した森鴎外の著した『うた日記』を読む岡井隆」についての本でもあるのだ。

岡井の散文の特徴は、連載期間(2009年6月〜2011年5月)の出来事が折々文章の中に差し挟まれることだろう。東京国立博物館の阿修羅展の話があり、NHKドラマ『坂の上の雲』の話があり、東日本大震災の話がある。そのため、「既に書かれた本」ではなく「今まさに書かれつつある本」を読んでいるような印象を受ける。

わかりやすい例を一つ挙げよう。

8章目の文中に「佐佐木弘綱・佐佐木信綱校註」という言葉が出てくるのだが、この部分について、直後の9章目で次のように書いている。
もう一つ、前章の記述で、『日本歌学全書』の『万葉集』の校註者は佐々木弘綱、佐々木信綱であってその姓は佐佐木ではない。このころはまだ戸籍名の佐々木を使っておられたので、後に、よく知られているように筆名の佐佐木を使われるようになった。わたしの記載を校正の方が、誤記と思って直して下さったとしても、これは仕方がない。

こうした部分は、連載中はともかく、一冊の本にまとめる段階で訂正・削除することもできただろう。しかし、あえてそれをしないのである。こうした部分を残すことによって、読み手もまた岡井と一緒になって「今まさに書かれつつある本」をたどっている気分になれるのだ。

これが、岡井の散文の一番大きな特徴だろう。少し話を広げれば、これは短歌の作り方にも共通するもののような気がする。「既に詠まれた歌」ではなく「今まさに詠まれつつある歌」として歌を詠むこと。岡井の散文の文体は、短歌の実作の中からヒントを得て生み出されたものなのかもしれない。

まあ、長々と書いてはみたが、結論は「岡井隆の散文は面白い」ということに尽きる。

2012年1月15日、書肆山田、3200円。

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