2020年12月08日

近藤芳美の12月8日の歌

十二月八日今宵妻に書く吾が葉書遺書めき行きて二枚にわたる
                『吾ら兵なりし日に』
一生のことはるかとなる日十二月八日の今日の上海の曇り
                『アカンサス月光』
十二月八日今日とし思う一生(ひとよ)埠頭の氷雨に戦場を
追う兵として          『樹々のしぐれ』
ガーデンブリッジと呼び馴れて過ぐる兵なりし十二月八日
戒厳の下            『祈念に』
十二月八日誰さえいわず死地に急ぐ兵としありし冬の上海
                『磔刑』
空の曇り降りみ降らずみ遠くめぐる十二月八日世に残り生く
                『希求』
五十年過ぐるとをいえ今の怖れ十二月八日生きし兵として
                『希求』
よみがえる忘れいしころの怖れとし十二月八日今日とも思え
                『岐路』

近藤は1941年12月8日を上海の陸軍病院で迎えた。

十二月八日米英両国に宣戦。病兵らは病棟ごとに集つてラヂオを聞いた。同日午後、軽症患者に一斉に緊急退院命令が出る。武器を持つて戦ひ得るものは武器を把れといふ軍医の訓示があり、わたしたちは受領した軍衣を久々に白衣に替へて、病院の門を出るため軍用トラックに乗つた。(『吾ら兵なりし日に』)

開戦の慌ただしさと緊迫感に包まれている。軽症だった近藤も軍服に着替えて上海市内に向かう。4首目の「ガーデンブリッジ」(外白渡橋)は1907年竣工の橋。開戦後すぐに上海の共同租界は日本軍が占領した。

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2020年11月03日

近藤芳美と差別語

「現代短歌」2020年5月号の座談会「短歌と差別表現」(加藤英彦、染野太朗、松村由利子)のなかで、差別語を用いた作品が削除された例が取り上げられている。

『寺山修司青春歌集』(角川文庫、初版1972年)は2005年の改版で

作文に「父を還せ」と綴りたる鮮人の子は馬鈴薯が好き
屠夫らうたふ声の白息棒となり荒野の果てにつき刺さり見ゆ

などを削除しているらしい。
また、岸上大作『意志表示』(角川文庫、初版1972年)も1991年の改版で

北鮮へ還せと清潔なシュプレヒコールくりかえされる時も日本語
豚飼いて貧しく暮す鮮人村いちじくの葉の緑の濃さよ

といった歌が削除されているとのこと。
いずれも、「鮮人」「屠夫」「北鮮」といった言葉が差別語に該当するという判断なのだろう。

『近藤芳美集 第一巻』(岩波書店、2000年)においても、これと似たケースが見られる。一首丸ごとの削除ではないが、改変が行われているのだ。『定本近藤芳美歌集』(短歌新聞社、1978年)と比較してみよう。(Aが前者、Bが後者)

A自らはなれ土掘る朝鮮人人夫と苦力の人種意識もあはれ
B自らはなれ土掘る鮮人人夫と苦力の人種意識もあはれ
A移動刑事おそれて共に帰郷せる朝鮮人の友を思ふこの頃
B移動刑事おそれて共に帰郷せる鮮人の友を思ふこの頃
A朝鮮人に媚びて物喰ふ少女あり時報は街のいづくかに打つ
B鮮人に媚びて物喰ふ少女あり時報は街のいづくかに打つ
A北朝鮮に国興り行く選挙には吾らが残せし日本語を用ふ
B北鮮に国興り行く選挙には吾らが残せし日本語を用ふ

今日では差別語とされる「鮮人」が「朝鮮人」に、「北鮮」が「北朝鮮」に変っていることがわかる。

巻末の「書誌」を見ると、

なお、歌中・文中に今日から見て差別的な表現がある場合は、著者自らが改めた。

とある。改変は近藤自身が行ったもののようだ。その是非はともかく、こういう場合には改変箇所の一覧を載せて欲しいと思う。

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2020年10月22日

24冊

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『近藤芳美集』(全10巻、岩波書店、2000〜01年)は近藤の歌集と代表的な散文を収めていて、便利なシリーズである。こうした形でまとまっているのは本当にありがたい。

ただ、このシリーズは近藤の生前に刊行されているために、歌集は22冊目までしか収録されていない。

第1巻 『早春歌』『吾ら兵なりし日に』『埃吹く街』『静かなる意志』『歴史』『冬の銀河』
第2巻 『喚声』『異邦者』『黒豹』
第3巻 『遠く夏めぐりて』『アカンサス月光』『樹々のしぐれ』『聖夜の列』
第4巻 『祈念に』『磔刑』『営為』『風のとよみ』
第5巻 『希求』『甲斐路百首』『メタセコイアの庭』『未明』『命運』

そのため、近藤の歌集を全部読もうと思ったら、第23歌集『岐路』(砂子屋書房、2004年)と第24歌集『岐路以後』(砂子屋書房、2007年)は別途買う必要がある。

まあ、それがまたいいのかもしれないな。


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2020年10月21日

近藤芳美『無名者の歌』


1974年に新塔社から刊行された単行本の文庫化。

1955(昭和30)年から1973(昭和48)年までに「朝日歌壇」の近藤芳美選に入選した作品から数百首を引いて、戦後の歴史を振り返った一冊。

「療養所の歌」「炭鉱の歌」「農の歌」「愛情の歌」「教師の歌」「学園紛争の日々の歌」「戦争の死者らの追憶の歌」といったテーマに分けて、鑑賞・説明文が記されている。

雨の陣地に田植を語り五分後に爆死せり君は泥に埋もれて
                   吉田文二
むらさきに新芽吹きたる槻の木に揺籠を吊り夫と炭出す
                   池田朝美
ひろげたる行商の魚遠山の雪を映していたく青めり
                   武山英子
綴じ合いて白根の光るをほぐしつつ蒔く種籾の風に片寄る
                   小室英子

こうした歌の持つ力は、今も少しも色褪せていないと思う。

てるみちゃんくにしげ君も流されて根場保育所に香あぐる湖端
                   中村今代
昭和四十一年の秋、一夜の激しい台風の雨に、富士五湖の一つである西湖の岸辺の村が山津波の土砂に埋れ、村人の命を失ったことがある。根場という村落の名である。

「根場」という集落の名を読んで、あっと思う。
以前、この地を訪れて砂防資料館を見学したことがある。
https://matsutanka.seesaa.net/article/452571279.html

資料館では土砂に埋れた集落の無惨な写真や映像を見たのだが、てるみちゃんも、くにしげ君も、その犠牲者であったのだ。

1993年5月17日、岩波同時代ライブラリー、1050円。

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2020年10月20日

近藤芳美『歌い来しかた』


副題は「わが戦後短歌史」。

近藤が自らの6冊の歌集(『早春歌』『埃吹く街』『静かなる意志』『歴史』『冬の銀河』『喚声』)から歌を引きつつ、戦後の社会や生活を振り返った本。必要があって久しぶりに再読した。時代は1944年から1960年まで。

既に60年以上が経っている歌ばかりなので、社会的な背景や歌の元になった事件などがわかるとずいぶん理解が深まる。その意味で、近藤の初期の歌を読む際の参考になる一冊である。

わが家にある本は1986年の初版であるが、現在も版を重ねていて新刊で入手可能だ。定価は780円になっているけれど。

1986年8月20日、岩波新書、480円。

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2020年10月15日

手旗信号

果てしなき彼方(かなた)に向ひて手旗打つ万葉集をうち
止まぬかも           近藤芳美『早春歌』

応召して戦地に行った作者が、手旗信号の練習をしている場面。イロハニホヘトではなく万葉集の歌を一字一字、両手に持った赤旗と白旗で表していく。

先日カルチャーセンターでこの歌を取り上げたところ、お二人の生徒さんが手旗信号を知っていて、実際にやってみせてくれた。子どもの頃に習ったり、戦争ごっこの際に使ったりしていたのだそうだ。

基本的な姿勢がいくつかあって、その組み合わせでカタカナの文字の形を作っていくとのこと。手旗信号を身体で覚えている人は、この歌を読んだ時にまず身体が動くみたいだ。

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2020年10月12日

すべての歌の中の一首

近藤芳美の全24冊の歌集を読み終えた。
(いや〜、長かった!)

01:早春歌
02:埃吹く街
03:静かなる意志
04:歴史
05:喚声
06:冬の銀河
07:異邦者
08:黒豹
09:遠く夏めぐりて
10:吾ら兵なりし日に(収録作品の時期としては第2歌集)
11:アカンサス月光
12:樹々のしぐれ
13:聖夜の列
14:祈念に
15:磔刑
16:営為
17:風のとよみ
18:希求
19:甲斐路・百首
20:メタセコイアの庭
21:未明
22:命運
23:岐路
24:岐路以後

短歌にとって一首一首の歌の良し悪しが大切なのはもちろんだが、24冊読んで感じるのは、短歌は一首一首の良し悪しだけではないということだ。

美術館で絵を見る時に、絵に近づいたり少し離れたりすることがある。見る距離によって絵の印象はかなり変ってくる。短歌も同じで、一首で読んだ時と連作で読んだ時、歌集で読んだ時、全歌集の中で読んだ時、それぞれ印象が違ってくる。

一首を純粋な一首として読むことも大切だし、その歌人のすべての歌の中の一首として位置付けることも同じように大切なのだろう。全歌業を見渡す中でその一首の持つ意味があらためて浮き彫りになるのだ。


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2020年10月10日

近藤芳美と下部温泉

近藤芳美の第19歌集『甲斐路・百首』は、上野久雄が主宰する「みぎわ」の創刊十周年記念号のために、1992年秋と1993年春の2回にわたって山梨県内の14か所をめぐって詠まれたものである。

その中に、下部温泉を詠んだ歌が7首ある。

谷の磧の軍療養所のあとながらホテルの灯る赤松のまに
磧あり赤松高き影のあり今宵石走る水を聞く泊り

下部温泉に軍の療養所があったという話は知らなかったので調べてみたところ、下部温泉駅前にある下部ホテルのことであった。1929(昭和4)年に開業後、1939(昭和14)年に陸軍病院の療養所となり、戦後にホテルを再開したとのこと。


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母の家の最寄り駅が下部温泉駅なので、このホテルはよく知っている。入口に高浜虚子の句碑があり、フロントに新渡戸稲造の英語の書があり、館内には石原裕次郎の写真ギャラリーがあるなど、見どころが盛りだくさん。

格安レンタカー「ニコニコレンタカー」の代理店もやっているので、最近はいつもここでレンタカーを借りて、母の家まで行っている。

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2020年10月03日

近藤芳美と高安国世記念詩歌講演会

1990年から94年まで五回にわたって京都で「高安国世記念詩歌講演会」が行われた。第1回のプログラムは、近藤芳美「高安国世と現代短歌」と中西進「現代短歌と万葉集」。

この第1回の講演会の記録などは見当たらないが、永田和宏さんがかつて話の中で触れたことがある。

近藤芳美さんを第一回の高安国世記念詩歌講演会にお呼びしたんですが、その時おっしゃった言葉よく覚えています。これから君たちが高安国世を語り継いでいかないとだめなんだというふうに近藤さんおっしゃいました。
  講演「高安国世の世界」(2009年現代歌人集会秋季大会)

この時のことも、近藤芳美は歌に残している。

夏盛る街を追憶のために来つ高安国世君に知ること
蟬の声しみらに昼の街にあり高安国世生死を隔つ
生き方といえることばの直接にその日歌あり若くして遭う
「詩」は「思想」日本の戦後に相求めうたう歌ありきなべてときのま
苦しめば東京に出るを待ちて迎う炎のごとかりき吾ら分けしとき
一度の青春一度なる友情と壇にいえば和子夫人の涙拭きます
                  『風のとよみ』

戦後の一時期の近藤と高安の交流の深さが窺われる内容だ。
「塔」1990年9月号の編集後記に永田和宏は、

□七月二十九日、高安国世記念シンポジウムが無事終った。百五十名程度の参加を見込んでいたのだが、その予想を見事に突破して、参加者数は約二百五十名。(…)会場は満席で、冷房の効きもいまひとつといった熱気であった。

と書いている。講演会は予想以上の盛況だったようだ。

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2020年10月02日

近藤芳美と「としまえん」

近藤芳美は1953(昭和28)年に練馬区向山に家を建てる。1927年に開園して今年8月に営業を終了した「としまえん」(豊島園)の近くである。

遊園をとざす夜ごとのオルゴール降り行く雨に長くきこゆる
                『冬の銀河』(1954年)

遊園地の閉園の音楽が毎日家まで聞こえてくるのだろう。

ジェットコースターつねに声湧く夜空冷え年々に来る森の路あり
観覧車森になおめぐるひかりいくつ夏ごとに来て妻と路つたう
回転木馬めぐる初むれば妻とあり木むらのひかり園閉じむとして
踊り終えし一団はフィリピンの男おみな季過ぐる遊園に人の乏しく
                『磔刑』(1988年)

遊園地の中を散策している場面である。毎年夏に訪れていたようだ。

さらに、こんな歌もある。

喇叭吹くは回転木馬の天使たち年々に来て吾が小馬車あり
回転木馬めぐる初むれば吾らあり老いの遊びを人あやしまず
回転木馬の共に幼きものの中妻とよろこびというも淡きに
                『風のとよみ』(1992年)

1990年の作品なので、当時近藤は77歳。妻と一緒にメリーゴーラウンドに乗っている。馬に跨るのではなく馬車タイプに二人で座ってるんだな。いや、これはすごい歌だ。

「としまえん」の回転木馬と言えば、「カルーセルエルドラド」。1907年にドイツで製作された世界最古級の回転木馬である。
https://trip-s.world/carousel-eldorado

これに近藤夫妻が乗っていたとは!


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2020年10月01日

近藤芳美と「高安国世の死」

1982年から84年の作品を収めた近藤芳美の第14歌集『祈念に』に、こんな一連がある。

  夏のくるめき
杖つきて今日の死を知る街の歩みひかり照り返す夏のくるめきに
声呑みて知りたる死あり吾は行かず暑き葬りの街に過ぐるころ
死は思わねば衰えて山荘に行きにけむひとりの終り君もひそけく
この詩型ついに「詩」とする生涯を少年にして君と分けにしを
寂寥を語るなかりし晩年に逢いに来よというつたえ或るとき

「君」としか書かれていないが、高安国世の死を詠んだものである。高安は1984年7月30日に70歳で亡くなった。近藤と高安は同じ1913(大正2)年生まれ。3首目の「山荘」は長野にあった高安の山荘のことだ。

この一連を読むと、近藤は高安の葬儀には行かなかったらしい。その理由の一つとして近藤の母のことがあったのだろう。この一連の直後に母の死を詠んだ作品が並んでいる。年譜によれば近藤の母の死は、この年の8月であった。

近藤が高安の墓を訪れたのは1984年の年末のことであった。同じく『祈念に』にその時の作品が載っている。

  冬の墓
和子さん寂しき人となりて連るるしぐれの雲の切れて日の寒く
冬雲の切れてひかりの耀うをつねに来る墓の道に君迷う
悲しみの過ぎてしずけき君の歩み先立ちたまう冬の墓原
墓のことばかりを告ぐる佇みに落葉乏しく朝を降りし雨
細く彫る文字新しき墓のめぐり花に埋めてゆく白き薔薇など
白き薔薇白き百合もて墓を埋めむ枯れはつるもの音にかすかに
ドゥイノの城ともに覓(と)めゆける終りの旅いいて回想のつぎほもあらず

1首目の「和子さん」は高安の妻。7首目は1983年に高安がイタリアなどを旅行して、リルケゆかりのドゥイノを訪れたことを指している。墓参りに「白き薔薇白き百合」を供えるのが珍しく、近藤らしさの表れかもしれない。

『高安国世全歌集』の栞に、近藤はこの日のことを記している。

昨年の暮、京都に久々の旅をし、高安君の新しい墓を訪れた。そうして、そのあと、しばらく加茂川の堤に添って歩いた。暗く雪雲が垂れていた。歩みながら、わたしの京都への追憶がすべて高安君との長い交友と共にあるのを思った。たちまちに過ぎてしまったものを追う寂しさを、生き残ったものとして知らなければならぬ。

美しい文章だと思う。

高安の墓がある来光寺は、北大路通より北側にある。京都の「鴨川」は、一般的に高野川との合流地点より北では「賀茂川」または「加茂川」と表記する。ここでもおそらくその意味で使われている。

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2020年09月30日

近藤芳美と高安国世

近藤芳美の歌集を読んでいると、高安国世に関する歌もちらほら出てくる。

気弱くして同じ時代に苦しめば高安君の歌にいらだつ
                   『静かなる意志』
追ひつめらるる思ひ語りしあくる朝訳詩にむかふ君がひととき
                   『歴史』
今の日に無知を羨しとただひとり高安君の葉書吾にあり
                   『歴史』
吾がためにリルケを読めり沈黙より意外にはげしき君の
ドイツ語               『歴史』
ドイツ語の夜学終へたる部屋くらく貧しき青年に君交り居き
                   『冬の銀河』
ミュンヘンに発ち行く友よ土解けし木の間の夜道送り歩みつ
                   『喚声』

名前ではなく「君」「友」と書かれているものも多いが、近藤芳美『歌い来しかた』に歌の背景が記されている。

その高安が突然に上京し、わたしに逢うために来た。四八年の秋だったのか。京橋の職場に来たのを咄嗟にはわからなかった。上京が一つの決意であったと彼は告げた。京都にいて戦災を知らず、戦後の東京の動きを心の焦燥としてその日まで見守っていた。初めて逢い、互いに若者のように語り合った。

戦後の一時期、ふたりの交流は盛んであった。

他にも、大辻隆弘『子規から相良宏まで』に収められている講演「高安国世から見た近藤芳美」では、両者の交流が詳細な年譜とともに語られている。興味のある方は必読です。

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2020年09月28日

近藤芳美と稲妻

近藤芳美の歌集を読んでいると、稲妻の歌がたくさん見つかる。

白じらと乱るるかもめ又遠く立ちて対へり冬の稲妻
                『静かなる意志』
野の低きはてにときなくはためきてはがねの色の一つ稲妻
                『歴史』
カナリヤの雛はとまり木に身をよせて今宵しきりに光る稲妻
                『冬の銀河』
降ることもあらぬ夜毎を野をおおう靄に光りて青き稲妻
                『喚声』
試掘櫓立ちて町ありホルストの地平に蒼き間なき稲妻
                『異邦者』
羽化とげし幼き揚羽窓にいて雨降らぬ夜を間なき稲妻
                『黒豹』
この関りに生き行くかぎり秘めむことば眼覚めてありき梅雨の
稲妻              『遠く夏めぐりて』

キリがないので、これくらいにしておこう。
結句の最後が「稲妻」で終っている歌に限っても、こんなにある。

自伝&自歌自註の『歌い来し方』にも、稲妻に関する記述がある。

 遠い稲妻が、しきりに雲を染めて地平にはためいていた。暗い銅の色である。梅雨が明けると草丘の家のめぐりに、夏野を思わせる夜ごとの靄が立ち沈んだ。

  あかがねの色に照り合ふ稲妻に茫々と野の夜靄立ちつつ

 その稲妻が落雷となるときがあるのか。鋭いひかりが雲を走るが、音は聞えない。

  むかひ立ち吾が息苦し音もなく野の遥かにし落つる稲妻


近藤が稲妻の光のなかに見ていたものは、はたして何だったのか。
歌を読みながら、そんなことを考えている。

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2020年09月27日

近藤芳美とコンクリート

近藤芳美の歌集を読むと、コンクリートを詠んだ歌も出てくる。

一日コンクリート片などいぢりし手の透きとほり又静脈は浮く
今日も又コンクリートに荒れし指水に洗へば寂しさは沁む
                 『静かなる意志』
コンクリート打ちし護岸にむしろ敷き雨は降り覆う海と枯原
                 『喚声』

近藤は昭和36年に東京工業大学から博士号を授与されているが、博士論文のタイトルは「コンクリートの早期亀裂とその防止対策の研究」であった。

なるほど。どうりでコンクリートの歌があるわけだ。

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2020年09月26日

近藤芳美と地下工事

近藤芳美の歌集を読んでいると、地下の工事を詠んだ歌がいくつも出てくる。

地に深くシートパイルを打つひびき夜となる街にひとつ聞ゆる
鉄のやぐら暗くともりて杭を打つ銀座の地下の泥層の中
打ちかけて月に影立つ鉄の矢板かたむきざまに舗装路の上
                『歴史』

これは掘削した穴の側面が崩れないようにシートパイル(鋼矢板)を打ち込んでいる場面だろう。近藤は清水建設に勤める技術者であったが、昭和32年には「地下室構築方法」という特許の発明者となっている。

これは、軟弱地盤の下部に硬質地盤がある場合、まず構造体となる鉄骨柱を地上から地下硬質地盤の中に達するまで圧入または打込み、つぎに上から掘削しながら鉄骨バリを順次かけわたしてゆき、同時に掘削に従つて外側鉄骨柱の外側に山留板を圧入するかまたは土留用の矢板打ちを行い、(以下略)
     「土木学会誌」第42巻第5号の「特許紹介」より

なるほど。どうりで地下の歌が多いわけだ。

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2014年04月08日

近藤芳美の高安国世宛の葉書

ネットのオークションに、近藤芳美の高安国世宛の葉書が3点出品されていた。
残念ながら落札できなかったのだが(落札価格は8000円)、葉書の文面はネットで読むことができる。
http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/177756566


【昭和48年1月2日】
賀正
かくひそかに明日に満ち行くものは聞け冬芽のこずえすでにうるむ空
                    芳美
元旦

年賀状である。
書かれている短歌は、歌集『アカンサス月光』に「冬芽 ― 一九七三年新年詠 ―」と題して収められているものだ。

【昭和48年11月30日】
「高安やす子」資料をお送りいただき、何とか原稿をまとめました。御礼申上げます。
わたしは新米の教師となりましたが、学生問題で少々閉口しています。
勉強のつもりと、精を出してはいますが。 十一月二十八日

近藤が「高安やす子」について、何か文章を書いたのだろう。あるいはアララギの女流歌人について、というような内容かもしれない。詳細はまだわからない。

この年、近藤は清水建設を退職して、4月から神奈川大学工学部建築科の教授となっている。「新米の教師」は、それを指している。

【昭和?年7月18日】
カフカの訳書拝受。
御礼申上げます。大変なことと察します。年のせいか、いろいろめんどうになりました。早く歌だけ作る生活に入りたい思いしきりです。 七月十七日

消印が読めないのだが、おそらく昭和46年のもの。
葉書の郵便料金が7円であったのは、昭和41年7月〜47年1月まで(その後、10円に値上げ)。その間に、高安が刊行したカフカの訳書は

・『変身・判決・断食芸人 ほか2篇』 講談社文庫 昭和46年7月
・『変身・判決ほか』 講談社、世界文学ライブラリー24 昭和46年10月

の2点である。葉書には7月の日付があるので、高安から近藤に贈られたのは、おそらく講談社文庫の一冊であると思われる。

「早く歌だけ作る生活に入りたい」という思いが、翌々年の清水建設退職につながったのだろうか。

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