2023年07月16日

浅草観音(その4)

観音力は火中にあつても焼亡せず、海中にあつても溺没しないといふ経文そのまま

と茂吉が書いているのは、「観音経」の次の箇所を指している。
https://www.zen-essay.com/entry/kannongyou

仮使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
(たとえ害意を興され、大なる火の坑へ推し落とされるも、彼の観音力を念じれば、火の坑は変じて池と成る。)

或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没
(或いは巨海に漂流して、龍や魚や諸鬼の難あっても、彼の観音力を念じれば、波浪に没すること能わず。)

「観音力」という言葉は、ここに由来しているのであった。火にも水にも負けない強い力である。

そもそも浅草観音は、言い伝えによれば今から約1400年前の飛鳥時代に、隅田川で漁をしていた兄弟が網に掛かった仏像を祀ったことに始まっている。つまり、「水」に負けない力である。そして、関東大震災では「火」に負けないことが示された。

それが、東京大空襲で覆されてしまったのである。そこから「浅草の観音力もほろびぬ」という言葉が出てきた。

もっとも、茂吉自身は観音力が滅びたとは思っていない。「西方の人はおもひたるべし」、つまり西洋人はそう思うだろうと言っているに過ぎない。

前回引いた随筆「観音経と六区」の続きには、こう書かれている。

欧羅巴のいづれの大都市にも、殆ど必ずこの浅草的なローカルがある。久しぶりで田舎から帰つて来た自分は、この浅草に無限の愛惜を感ずる。さういふ意味で観音力は滅びないからである。

土地に根差したローカルな信仰や精神、地霊といったものは、敗戦くらいのことでは失われないという思いであろうか。

戦後、本堂や五重塔が再建され、初詣には毎年約280万人もが参拝する浅草観音。今ではインバウンドにも人気の観光スポットになっている。75年前に茂吉が残した「観音力は滅びない」という予言は的中したと言っていいのかもしれない。

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2023年07月15日

浅草観音(その3)

浅草の観音力(くわんおんりき)もほろびぬと西方(さいほう)の人はおもひたるべし
               斎藤茂吉『つきかげ』

昨日、中村さんがコメントをお寄せくださった通り、この歌については塚本邦雄が『茂吉秀歌『霜』『小園』『白き山』『つきかげ』百首』で取り上げて、

霊験あらたかと言はれて来た浅草寺の、純金一寸八分の聖観世音も、日本の敗戦を防ぐ神通力は持つてゐなかつた。

と書いている。つまり、塚本は「浅草の観音力もほろびぬ」を、日本の敗戦を防げなかったという意味に受け取っている。

私は少し違う考えを持っていて、これは浅草寺が空襲で焼けてしまったことを指しているのだと思う。

1945年3月10日の東京大空襲で浅草寺は大きな被害を受け、旧国宝の観音堂(本堂)も五重塔も焼失した。秘仏の本尊は避難して無事だったものの、22年前の関東大震災で奇跡的に残った建物が今度はすべて焼け落ちてしまったのだ。

茂吉の歌は、おそらくその事実を詠んでいる。

なぜなら、1948年に茂吉の書いたエッセイに、次のような箇所があるからだ。

壮大な浅草寺も仁王門も無くなつて、小さい観音堂が建つてゐた。(…)五重塔も無くなり、二基の露仏、鐘楼を前景にして、対岸の麦酒会社まで一目で見えるまでになつてゐた。(「浅草」)
関東大震災の時には、仲見世まで焼けたに拘らず、仁王楼門も本堂も焼けなかつた。そこで観音力は火中にあつても焼亡せず、海中にあつても溺没しないといふ経文そのままだと思つてゐたが、焼ける物は焼けるといふことになつてしまつた。(「観音経と六区」)

関東大震災では焼けなかった浅草寺が東京大空襲で焼けてしまった。そのことが、茂吉に多大な衝撃を与えたのである。

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2023年07月14日

浅草観音(その2)

短歌の世界で浅草観音と言えば、斎藤茂吉だろう。

14歳で上京した茂吉がまず住んだのは浅草であった。「浅草医院」を開いていた斎藤紀一方に寄寓したのである。

その頃の浅草観世音境内には、日清役平壌戦のパノラマがあって、これは実にいいものであった。東北の山間などにいてはこういうものは決して見ることが出来ないと私は子供心にも沁々しみじみとおもったものであった。(「三筋町界隈」)

こうした少年時代から戦後の最晩年に至るまで、茂吉と浅草観音には深い結び付きがあり、歌にもしばしば詠まれている。

あな悲し観音堂に癩者ゐてただひたすらに銭欲りにけり
             『赤光』
みちのくより稀々(まれまれ)に来るわが友と観音堂に雨やどりせり
             『ともしび』
浅草の五重の塔をそばに来てわれの見たるは幾とせぶりか
             『石泉』
浅草のみ寺に詣で戦にゆきし兵の家族と行きずりに談(かた)る
             『寒雲』
浅草の観音力(くわんおんりき)もほろびぬと西方(さいはう)の人はおもひたるべし
             『つきかげ』

最後の歌は茂吉が戦後に疎開先から東京に戻って詠んだ「帰京の歌」(1948年)に入っている。この「観音力もほろびぬ」とは、どういうことを意味しているのだろうか?

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2023年07月13日

浅草観音(その1)

今年は関東大震災(1923年)から100年。

アララギ発行所編『灰燼集 大正十二年震災歌集』(1924年)を読んでいる。「アララギ」の同人・会員159人の詠んだ震災詠計931首を収めたアンソロジーだ。

その中で、浅草観音(浅草寺)を詠んだ歌が目に付く。

  浅草寺は焼けず
十重二十重炎みなぎる中にして観世音菩薩あはれまします
             草生葉爾
  浅草観音堂
たふとさよなべてほろびし焼原にかくし残れる観音の堂
             池田清宗
  浅草観音堂境内にて、救はれしといふ友に逢ふ
み堂やけばすべてむなしと念じたる命尊し救はれにけり
             鹿児島寿蔵
 九月四日本所に住む浪吉を気づかひ行く途中浅草寺にて二首
焼け跡のちまたを遠く歩み来てしみじみあふぐ浅草のみ堂
ことごとく焼け亡びたる只なかになほいましたまふ観世音菩薩
             藤沢古実
  浅草観世音を憶ふ三首
もろともに過ぎばすぎめどうつつ世になほ残りたまふ御ほとけの慈悲
             土田耕平
  浅草観音堂
焼原にのこるみ堂をいつくしみうれしさ充ちて詣でけるかも
             平福百穂

とにかく浅草観音を詠んだ歌が多い。震災による火災で甚大な被害を受けた東京の下町にあって、浅草観音は奇跡的に延焼を免れたのであった。

「関東大震災100年 浅草寺 焼け残りの謎を追う NHK」
https://www.nhk.or.jp/shutoken/shutobo/20230711a.html

『灰燼集』の歌からは、猛火を退けて多くの避難民の命を救った浅草観音への畏敬の念と、焼けずに残った建物に希望を見出す心情が伝わってくる。
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2020年09月21日

続・斎藤茂吉の城崎温泉問題

どうして城崎温泉を訪れていない斎藤茂吉が、訪れたような話が広まってしまったのか。

その最初のきっかけは『内川村誌』にあったようだ。内川村は兵庫県城崎郡にかつて存在した自治体で、1955(昭和30)年に(旧)城崎町と合併して(新)城崎町となっている。(ついでに言えば、城崎町も2005年に豊岡市や出石町と合併して、今では豊岡市に含まれている。)

その内川村の資料や歴史をまとめた『内川村誌』の「第9編 わが村と文学」に、茂吉の手帳の記述が引用されているのである。内川村は城崎温泉を擁する(旧)城崎町と違ってあまり文化人が訪れる場所ではなかったのだろう。茂吉の手帳に沿線風景が記されているのを、わずかな例として取り上げたのだ。

その後、そこに書かれた内容が引用される過程で、おそらくだんだんと尾鰭が付いていったのではないか。茂吉は城崎町を通過しただけだったのが、いつしか城崎ゆかり人物となり、城崎温泉を訪れたという話になってしまったのである。


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2020年09月19日

斎藤茂吉の城崎温泉問題

「斎藤茂吉は本当に城崎温泉を訪れたか問題」について調べた結果、茂吉は城崎を列車で通っただけらしいことが判明した。

歌集『白桃』に、下記のような歌がある。

ひとびとは鮎寿司くひてよろこべど吾が歯はよわし食ひがてなくに
丹波より但馬に汽車の入りしころ空を乱して雨は降りたり
かきくらし稲田に雨のしぶければ白鷺の群の飛びたちかねつ
白鷺がとどろく雨の中にして見えがくれするさまぞ見にける
西北の方より降りて来しものか円山川に音たつる雨

これは昭和9年7月21日に茂吉が大阪から列車で島根県の大田市に行った時の車窓風景を詠んだものである。その行程は「手帳31」に詳しい。

○福地〔知〕山(十一時十二分、ベン当、鮎ずし売ル。/○豊岡〈ベン当〉に近づくころ、大雷雨降る、/○大川〈円山川〉に沿うて走る、帆船浮ぶ 玄武洞駅ノアタリ也 小舟浮ぶ 渡舟也
0時三十三分城崎/○香住〈トマラズ〉コヽヨリ大乗寺ノ応挙ヲ見タリシ也。/

「鮎ずし」「円山川」など、歌に対応する記述が確認できる。

ここで注意したいのは、城崎駅で降りてもいなければ、まして温泉に浸かったりなどしていないことだ。ただ列車で通っただけである。

当日の日記を見ても

  七月二十一日 土曜、晴、后大雨
朝八時五分大阪駅ヲタツ。土屋、高安、岡田氏等オクル。途中ヨリ大雨フリ。午后六時五十八分石見太〔大〕田着橋本屋ニ投宿。入浴、食事シ何モセズ寐。雨降リ止マズ。

とあるばかり。城崎温泉のことになど一言も触れていない。

ちなみに大阪駅で見送った人々の中に「高安」とあるが、これは高安国世ではなく母の高安やす子のことである。


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2020年09月16日

斎藤茂吉は本当に城崎温泉を訪れたのか問題

現在、調査中。

ネットでは城崎温泉を訪れた文人として、あちこちに茂吉の名前が挙がっているのだけれど、本当なのかな。どうも誤った情報をコピペしているだけのものが多いようだ。ネットの情報を軽々しく鵜呑みにはできない。

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2020年09月09日

蓮華寺(その2)

蓮華寺は鎌倉時代末の元弘3年(1333年)5月9日に北条仲時以下432名が亡くなった場所としても知られている。仲時は京都の六波羅探題北方であったが、後醍醐天皇方に付いた足利尊氏らに攻められ、中山道を通って東国へ逃れる途中で自害したのであった。享年28。

 このみ寺に仲時の軍やぶれ来て腹きりたりと聞けばかなしも
              斎藤茂吉『ともしび』
 北条の軍といふともはばまれて亡ぶる時はこの山の陰
              土屋文明『自流泉』

もっとも、東国まで無事に落ち延びたとしても同じ運命だったのだろう。5月22日には北条氏の本拠地鎌倉が新田義貞らによって攻略され、仲時の父基時をはじめ一族の多くが戦死または自害している。


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北条仲時以下四百三十余名自刃の供養墓碑。

亡くなった方々の姓名と年齢を記した過去帳の写しも本堂内に展示されていて、見ることができる。


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門の前を流れる「血の川」。
今はもう血は流れていない。


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2020年09月08日

蓮華寺(その1)

滋賀県米原市にある蓮華寺に行ってきた。
JR米原駅から約4キロ、旧中山道の番場宿から少し入った所にある。


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本堂の額は後水尾天皇の宸筆で、元禄11年(1698年)のもの。

この寺の第49世の佐原窿應(「窿」は正しくはウ冠)は、斎藤茂吉が幼少時に手習いを受けた人物。茂吉の生家近くの宝泉寺の住職を長く務めた後、大正8年に蓮華寺住職となり昭和6年に亡くなった。


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本堂左手に立つ茂吉の歌碑。

「松かぜのおと聞くときはいにしへの聖のごとくわれは寂しむ」


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本堂の脇には、こんなふうに茂吉の歌の掲示もある。


斎藤茂吉は生涯に4度この寺を訪れ、それぞれ歌を残している。

この寺に窿應和尚よろこびて焦したる湯葉われに食はしむ
 『つゆじも』 大正10年「長崎を去り東上」に3首
茂吉には何かうまきもの食はしめと言ひたまふ和尚のこゑぞきこゆる
 『ともしび』 大正14年「近江蓮華寺行其一、其二」計12首
となり間に常臥しいます上人は茂吉の顔が見えぬといひたまふ
 『たかはら』 昭和5年「近江番場八葉山蓮華寺小吟」19首
窿應上人のつひのはふりとわが妻も二人はともにこの山に居り
 『白桃』 昭和8年「番場蓮華寺」5首

さらに『石泉』の昭和6年「窿應上人挽歌」10首も加えれば、茂吉が蓮華寺を詠んだ歌は約50首にのぼる。まさに「斎藤茂吉のファンなら一度は行ってみたい場所」(永田和宏『京都うた紀行』)なのである。

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2018年10月12日

呉秀三

精神科医の呉秀三(1865〜1932)の生涯を描いた映画「夜明け前」が完成したらしい。
http://www.kyosaren.or.jp/yoakemae/

呉については、斎藤茂吉との関わりで名前を聞いたことがある。東京帝国大学医科大学精神学教室の教授として、また巣鴨病院の院長として、茂吉の指導に当った人物である。

茂吉の随筆や短歌にも登場する。

呉秀三先生は本邦精神病学の建立者である。即ち、
“Begründer” だと謂つてもいいとおもふのである。

私は東京府巣鴨病院院長としての先生に接して、常に
先生の態度に『道』を見たのであつた。

              「呉秀三先生を憶ふ」
 罪業妄想といへる証状ありこの語は呉秀三教授の訳
               斎藤茂吉『つきかげ』

この映画はぜひ見に行きたいと思う。

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2015年10月09日

東京へ(その2)

続いて、青山脳病院・茂吉自宅の跡へ。
茂吉の墓から徒歩15分くらいである。

現在は「王子グリーンヒル」というマンションが建っていて、その駐車場の入口に茂吉の歌碑と説明板がある。

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碑に彫られているのは『あらたま』に載る代表作。

あかあかと一本の道通りたり
霊剋るわが命なりけり

「霊剋る」と書いて「たまきはる」。

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説明板の文字がだいぶ傷んでいるのが悲しい。

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歌碑の最後には「童馬山房跡」「昭和丁巳 霜月」とある。
「丁巳」を調べてみると、この碑が建てられたのは昭和52年(1977年)のことだとわかる。

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2015年10月08日

東京へ(その1)

1泊2日で東京へ行ったついでに、前から行きたいと思っていた場所を訪れた。
まずは青山霊園にある斎藤茂吉の墓である。

地下鉄「外苑前」駅から歩いて10分ほど。
広々とした霊園の中を番地(1種イ2号13側15番)を頼りに探すと、割と簡単に見つかった。

  P1040897.JPG

表には「茂吉之墓」とだけ刻まれた小ぶりな墓である。

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墓誌には「斎藤茂吉」「斎藤てる子」が仲良く(?)並んでいる。
(斎藤輝子の本名は「てる子」)

茂吉の墓と言えば、石田比呂志の「シンジケート非申込者の弁」(「現代短歌雁」21号)を思い出す。「穂村弘の歌集『シンジケート』に私は何の感興も湧かない」という一文から始まる文章の中に、

もしこの歌集に代表されるようなバブル短歌(俵万智以後の異常現象)が、新時代の正風として世を覆うとしたら(…)本当にそういうことになったとしたら、私は、まっ先に東京は青山の茂吉墓前に駆けつけ、腹かっさばいて殉死するしかあるまい。

という有名な一節がある。
まさに石田比呂志の面目躍如といった感じだ。
今、こんなことを言う人はもういないだろう。

  P1040902.JPG

茂吉の墓のすぐ近くには、大久保利通の墓もある。
この霊園には有名人の墓がごろごろあって、眺めているだけで楽しい。

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2015年02月13日

あゝそれなのに

映画『喜びも悲しみも幾歳月』を見ていたら、昭和12年、長崎県五島列島の女島(めしま)灯台に勤務する主人公が同僚と一緒に「あゝそれなのに」を歌うシーンがあった。

♪ ああ、それなのにそれなのに、ねえ、おこるのはおこるのはあたりまえでしょう

「あゝそれなのに」は作詞:星野貞志(サトウハチロー)、作曲:古賀政男。昭和11年に発売され、翌12年に映画の挿入歌となると40万枚とも50万枚とも言われる大ヒットとなった曲である。

茂吉の歌に登場することからも、そのヒットぶりが窺える。

鼠の巣片づけながらいふこゑは「ああそれなのにそれなのにねえ」
              斎藤茂吉『寒雲』(昭和15年)

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2014年12月09日

小池光と茂吉

小池光の「球根」には、茂吉の歌を踏まえた歌がいくつかある。

板の間に横たはりつつ「ぼろきれかなにかの如く」なりたる猫は

 街上に轢(ひ)かれし猫はぼろ切(きれ)か何かのごとく平(ひら)たくなりぬ
      斎藤茂吉『白桃』

わが知らぬ南蛮啄木(けら)といふ鳥を茂吉うたへり四十九歳

 くれなゐの嘴(はし)もつゆゑにこの鳥を南蛮(なんばん)啄木(けら)と山びと
 云へり  斎藤茂吉『たかはら』

紙をきる鋏に鼻毛きりたればまつしろき毛がまじりてゐたり

 München(ミュンヘン)にわが居りしとき夜(よる)ふけて陰(ほと)の白毛
 (しらげ)を切りて棄てにき  斎藤茂吉『ともしび』

こんなふうに読み比べてみるのも、なかなか楽しい。

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2014年09月08日

斎藤茂吉のアイヌの歌

昭和7年の夏に斎藤茂吉は北海道を旅行している。
歌集『石泉』には、その旅で見かけたアイヌの遺跡やアイヌの人々のことを詠んだ歌が数多く収められている。あまり言及されることのない歌なので、すべて引いておこう。漢字では「愛奴」という字を当てていたようだ。

 「層雲峡」
愛奴語(あいぬご)のチャシは土壁(どへき)の意味にして闘(たたかひ)のあと残りけるかも
愛奴等のはげしき戦闘(たたかひ)のあとどころ環状石は山のうへに見ゆ
とりかぶとの花咲くそばを通りつつアイヌ毒矢(どくや)のことを言ひつつ
 「支笏湖途上」
藪のそばに愛奴(あいぬ)めのこの立ちゐるを寂しきものの如くにおもふ
木群(こむら)ある沢となりつつむかうには愛奴(あいぬ)の童子(わらべ)走りつつ居り
こもりたるしづかさありて此沢に愛奴(あいぬ)部落(ぶらく)のあるを知りたり
 「白老」
白老の愛奴酋長の家に来て媼(おうな)若きをみな童女(わらはめ)に逢ふ
白き髯ながき愛奴の翁ゐて旅こしものを怪(あや)しまなくに
降る雨を見ながら黒く煤(すす)垂(た)りし愛奴のいへの中に入り居り
 「登別」
刀抜きて舞へるアイヌがうたふこゑわが目の前に太々(ふとぶと)と鋭(と)き

時代的な制約や限界はもちろんあるけれども、茂吉がアイヌの文化や歴史、人々に関心を持って接している様子が感じられるのではないだろうか。単なる観光や物珍しさだけではない心寄せがあるように思う。

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2014年02月26日

ムッソリーニと色紙(その2)

『寒雲』の歌には「ムソリニ首相に与へし」という詞書が付いている。「与へし」は何やら偉そうな気もするが、実際のところはイタリアへ行く石本巳四雄に託したわけである。

では、この色紙はその後どうなったかと言うと、これには後日譚がある。
前回引いた「ムツソリニ首相」という文章には、昭和19年8月に書かれたと推定される追記があるのだ。
○後記。あれほど高安夫人が私をせきたてて作らせたこの一首と、いそがしい時に慌ただしく書いた金の色紙とは、つひに石本博士の手からムツソリニ氏に手渡されなかつたのみならず、外交官某氏の手に渡したまま、石本博士は帰朝してしまつた。さうしてゐるうち、石本博士も死んでしまつた。自分はこれまでも色紙短冊のたぐひに歌かくことを好まぬが、かういふことがあると、いよいよ以ていやになつてしまふ。

というわけで、色紙は結局ムッソリーニの手には渡らず、茂吉はそれに対して少々憤慨しているのであった。もっとも、この追記が書かれた前年に、ムッソリーニはクーデタにより失脚して北イタリアに逃れており、昭和20年4月には処刑されている。

色紙のことであるが、石本巳四雄はイタリアでムッソリーニに会う機会がなかったのだろうか。それで茂吉から託された色紙を渡すことができなかったのか。

実はそうではない。美佐保の本には、昭和13年5月3日から9日にかけてヒトラーがローマを訪問した話があり、その後、
十日にパパはムッソリーニと会見、ようやく訪伊の最後の目的を果たす。

と書かれているのである。

ここからはただの推測であるが、石本巳四雄にとって、義母の短歌の師から託された色紙は、もともと気の重い預かり物だったのではないだろうか。「外交官某氏」に渡して済ませた気持ちが、とてもよくわかる。

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2014年02月25日

ムッソリーニと色紙(その1)

『斎藤茂吉全集』をぱらぱら読んでいると、興味深い話がたくさん出てくる。第六巻(随筆二)には「ムツソリニ首相」という文章がある。
 石本博士夫人は高安やす子夫人の令嬢であるから、博士が伊太利に行かれるにつき一首作りてはどうかと申越したから次の一首を作つた。そして色紙にかいて贈つた。(昭和十二年十二月)
  七いろのあやどよもして雲にのる天馬(てんま)したがふ君をあふがむ

ここに登場する「石本博士」は地震学者で東京帝国大学教授であった石本巳四雄であり、その夫人は石本美佐保(高安国世の次姉)である。

美佐保の『メモワール・近くて遠い八〇年』によれば、石本夫妻は昭和13年1月7日に船で日本を出発して、2月7日にナポリに到着している。イタリアでは大学で講義を行ったほか、さまざまな文化交流に参加。その後、ヨーロッパ各地をめぐったのち、ニューヨークへ渡ってアメリカ旅行をして、7月7日に帰国している。

斎藤茂吉『寒空』(昭和15年)には
   ムソリニ首相に与へし
七(なな)いろの綾とよもして雲に乗る天馬(てんま)従ふ君を仰(あふ)がむ

という歌が載っている。先の文章に引かれていたのと同じ歌だ。
この「君」はムッソリーニを指している。当時イタリアで絶大な権力を誇ったムッソリーニを讃える内容と言っていいだろう。

ただし、私が興味を引かれたのは、もう少し別の点についてである。

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2013年11月13日

精神病院の歌

「歌壇」11月号の特集は「斎藤茂吉『赤光』刊行百年をめぐって」。
小池光、品田悦一、花山多佳子が「『赤光』とは何だったのか」と題して鼎談を行っている。その中で、次のようなやり取りに注目した。
小池 『赤光』は大正元年、二年の歌で六、七割くらいを占めている歌集で、突然、この辺で歌があふれるように出てきたという感じがするが、どうしてなんですか。
品田 (…)やはり精神病医になったことが大きいんじゃないかな。そこからしか、今のところ、説明ができないんです。(…)
小池 年譜を見ると、大正元年に勤務医になっているんです。その動機はすごく関係しているのかもしれない。

『赤光』には、例えば「狂人守」(大正元年)という一連など、勤務先の巣鴨病院での見聞を詠んだ作品がたくさんある。
うけもちの狂人(きやうじん)も幾たりか死にゆきて折(をり)をりあはれを感ずるかな
くれなゐの百日紅は咲きぬれど此(この)きやうじんはもの云はずけり
このゆふべ脳病院の二階より墓地(ぼち)見れば花も見えにけるかな

この時期、他の歌人の歌集にも精神病院を詠んだ歌が出てくる。
 前田夕暮「九月狂病院を訪ひて 歌二十五首」(大正2年) 『生くる日に』所収
狂人(きちがひ)のにほひからだにしみにけり狂病院(きやうびやうゐん)の廊下は暗し
きちがひの眠れる部屋にあかあかと狐のかみそり一面に生えよ
「此の男は直(ぢ)きに死ぬる」とまのあたり医員がいへりうごかぬ瞳よ
 古泉千樫「瘋癲院」(大正2年) 『屋上の土』所収
狂女ひとり風呂に入り居り黄色(わうしよく)の浴衣(よくい)まとひて静けきものを
ものぐるひの若きをみなご湯につかり静かに飯(いひ)を強ひられにけり
夕あかりうすら匂(にほ)へる病室にならびねて居る狂人の顔

前田夕暮の年譜には、大正2年の9月に斎藤茂吉の案内で巣鴨病院を見学したことが記されている。おそらく古泉千樫の歌も同様だろう。現在の目で見ると、用語も含めて差別的な印象を免れないが、特にそういう意識はなかったのだと思う。

人間の心や精神の働きに対する関心が、こうした歌の背景にはあるのだろう。歌を作ることは、自分の心を覗き込むことでもあるから、歌人がそうした部分に関心を持つのはよくわかる。さらに、精神医療は当時もっとも新しい分野であったので、歌人たちの強い興味を引いたのにちがいない。

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2013年10月16日

赤彦と赤彦が妻

「歌壇」11月号の特集は「斎藤茂吉『赤光』刊行百年をめぐって」。
特集の内容については後日また触れることにして、少し別の話を。

『赤光』には「赤」という色がたくさん出てくることが知られている。
有名な歌を挙げれば
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳(たらち)ねの母は死にたまふなり
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程(いくほど)もなき歩みなりけり
赤き池(いけ)にひとりぽつちの真裸(まはだか)のをんな亡者(もうじや)の泣きゐるところ

など、いくつもある。「紅」「あかき」なども含めれば、かなりの数にのぼるだろう。

今日、用があって「悲報来」10首を読んだのだが、ここにも「赤」は登場する。
氷(こほり)きるをとこの口(くち)のたばこの火赤(あか)かりければ見て走りたり

そして、もう一首。
赤彦(あかひこ)と赤彦が妻吾(あ)に寝よと蚤とり粉(こな)を呉れにけらずや

もちろん、この歌の「赤彦」は人名であって、REDの意味はない。けれども、それではどんな名前でも良かったのかと言えば、おそらくそうではないだろう。やはり「赤」彦だったからこそ、歌に名前を詠み込んだのではあるまいか。

「悲報来」の一連を改めて読んでみて、ふとそんな感想を持った。

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2013年06月08日

練乳(その3)

芥川が鵠沼滞在中に書いた「鵠沼日記」には、散歩の途中に道で出会う様々なものに、敏感に反応している様子が描かれている。
僕は路ばたの砂の中に雨蛙が一匹もがいてゐるのを見つけた。その時あいつは自動車が来たら、どうするつもりだらうと考へた。しかしそこは自動車などのはひる筈のない小みちだつた。しかし僕は不安になり、路ばたに茂つた草の中へ杖の先で雨蛙をはね飛ばした。
僕はやはり散歩してゐるうちに白い水着を着た子供に遇つた。子供は小さい竹の皮を兎のやうに耳につけてゐた。僕は五六間離れてゐるうちから、その鋭い竹の皮の先が妙に恐しくてならなかつた。その恐怖は子供とすれ違つた後も、暫くの間はつづいてゐた。

神経過敏と言っていいだろう。「鋭い竹の皮の先が妙に恐ろしくてならなかつた」というあたりが、おそらく「煉乳の鑵のあきがら棄ててある道おそろし」という心情と共通しているものなのだと思う。

芥川龍之介は「大正十五年秋」から一年も経たず、昭和2年の7月に睡眠薬を飲んで自殺する。その睡眠薬は茂吉が芥川に処方したものであった。

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2013年06月07日

練乳(その2)

煉乳(ねりちち)の鑵(くわん)のあきがら棄ててある道おそろしと君ぞいひつる
              斎藤茂吉『ともしび』

この歌に詠まれている「君」とは、誰のことだろうか。

「煉乳の鑵のあきがら」を「おそろし」と言っているのだから、やや神経質な感じを受ける。ギザギザになった缶の切り口が嫌だったのか、あるいは道に空き缶が捨てられていること自体が嫌だったのか。

この歌は、歌集では5首の連作に入っていて、次のような詞書が付いている。
九月廿五日土屋文明ぬしと鵠沼に澄江堂主人を訪ふ。夜ふけて主人は「安ともらひの蓮のあけぼの」といふ古川柳の事などを語りぬ

つまり、茂吉の歌に出てくる「君」とは澄江堂主人、芥川龍之介のことなのだ。

茂吉の日記の大正15年9月25日を見ると
午前中診察ニ従事シ、直グ食事ヲシテ渋谷ヨリ品川ニ行ク、土屋君待チヰタリ。ソレヨリ一直線ニ鵠沼ノ芥川龍之介サンヲ訪フ。あづま屋ニ一室ヲタノミ、ソレヨリ女中ニ案内シテ貰ツテ芥川サンヲ訪フ。漢文ノ小説ヲ読ンデヰタ。新潮社カラ出ル随筆類ヲ整理中ダトカニテ俳句ヤ歌稿ヲ見ル。(…)

と記されている。

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2013年06月06日

練乳(その1)

「塔」5月号に花山多佳子さんが「練乳」という題の5首を載せている。その中から3首引く。
昭和の子なれどもわれは練乳を苺にかけたる記憶のあらず
またの名を練乳といふを知らざりきコンデンスミルクにパン浸しつつ
大正十五年秋 道ばたに棄てられてありし煉乳(ねりちち)の鑵(くわん)のあきがら

かつて苺はそのまま食べるのではなく、練乳をかけたり、牛乳(+砂糖)をかけたりして食べることが多かった。1首目はそれを踏まえた歌。

2首目の「コンデンスミルク」は「牛乳に砂糖を加え、煮つめて濃縮したもの」(広辞苑)。砂糖を加えていないものはエバミルクと言うらしい。練乳は「牛乳を煮つめて濃縮し、保存性をもたせたもの」(広辞苑)であるから、細かく言えば、練乳のなかにコンデンスミルク(加糖練乳)とエバミルク(無糖練乳)があるわけだ。

3首目の「煉乳(ねりちち)」は「れんにゅう」とも読むが、これが「練乳」の本来の表記である。戦後、「煉」が常用漢字に入らなかったため、同じ音の「練」で代用するようになり、新たに「練乳」という表記が生まれたのである。

「牛乳を煮つめて」なので、本当は「火」偏の付いた「煉」でないとおかしいわけだ。こういう例は、「稀薄」→「希薄」、「訣別」→「決別」、「熔接」→「溶接」などたくさんある。

この歌に「大正十五年秋」とあるのは、斎藤茂吉の次の一首を踏まえている。
煉乳(ねりちち)の鑵(くわん)のあきがら棄ててある道おそろしと君ぞいひつる

歌集『ともしび』の大正十五年の歌だ。
では、この歌に出てくる「君」とは、誰のことだろうか。

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2012年05月16日

岡井隆と品田悦一


岡井隆の『今から読む斎藤茂吉』は全24章から成っているが、18章に「品田悦一著『斎藤茂吉』の問題点」という文章がある。また20章に「『柿本人麿』をどう読むか」という文章もあり、こちらでも品田の本が取り上げられている。

岡井は、茂吉と直接会った日のことや茂吉の葬儀に参列した思い出を記しつつ、品田の本に対する「言ひにくい異和感」や「若干の疑義」を述べている。戦争責任の追及や第二芸術論の高まりにより茂吉の評価が低かった時代を肌で知っていて、また自らも歌人としての長いキャリアを持つ岡井が、若い研究者である品田の書く文章に対して覚える違和感はわからないではない。

ただ、それは「無いものねだり」ではないだろうか。1959年生まれの品田が戦後すぐの時代を肌で知っているはずはないのだし、また歌人でない品田に〈歌人とは「無限の前進が可能だ」などと思ふものだらうか〉と問いかけてみても仕方がない。歌人、研究者それぞれの読み方や捉え方があっていいことだ。

この二人は、角川「短歌」5月号の鼎談「今、茂吉を読む意義とは」でも、司会の川野里子を交えて話をしている。「今日は岡井さん、品田さんという、茂吉を読むならこの人、というお二人をお迎えして」という川野の言葉は、全くその通りである。ただ、対談や鼎談が難しいのは、ベストな人同士が話をしたからと言って、必ずしも話が噛み合うわけではないということだ。

不完全燃焼に終った印象の強い鼎談を読んで、何とも残念な気がしてならない。

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2012年05月14日

のど赤き

今日は斎藤茂吉の誕生日。1882(明治15)年の5月14日生まれ。

今年は生誕130年ということで、「角川短歌」5月号で58ページにわたる特集が組まれているほか、各地で様々なイベントが行われている。

今朝の朝日新聞の「天声人語」も、この茂吉のことを取り上げている。「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり」を引いて、その後、最近の燕の減少へと話を続けている。
▼野鳥の会は、原発事故による放射性物質の影響も懸念する。子育て中のツバメはせわしない。1時間に何十回もエサの虫を運ぶと聞く。無心な親鳥と、「のど赤き」新しい命を思えば、罪の意識がチクリと痛い

この部分を読んで、ちょっと立ち止まった。執筆者は「のど赤き玄鳥」をツバメの雛だと読んでいるようだ。巣から雛の頭がのそいている場面を想像しているのだろう。しかし、雛はまだのどの部分が赤く(赤茶色く?)なってはいないので、これは成鳥だと思う。

それにしても、家の梁にツバメが止まっていることも、家の中で人が死ぬことも、今ではほとんど見られなくなってしまった光景だ。こんなところにも、時代の変化を感じることができる。

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2012年04月07日

貞淑な

斎藤茂吉は、「覇王樹」昭和6年4月号(橋田東声追悼号)に「橋田東声君」という追悼文を寄せている。(『斎藤茂吉全集』第六巻)

文章は、昭和5年8月にアララギの安居会で高野山を訪れ、別の用事で近くまで来ていた東声と電話で話をし、その後、偶然北見志保子と出会った場面から始まる。その時、茂吉は「橋田君も高野山に来てゐますね」と言いかけて、口を噤んだのであった。
 (…)橋田君に就いて最も印象の深いのは、橋田君が大学を出られ、奥さんのあさ子さんと一しよに青山の長者丸に住まはれた時である。その時橋田君は病弱で、僕もたまたま聴診器などを持つて見舞つたことをおぼえてゐる。(…)あさ子夫人は所帯のさう豊かでないなかを甲斐甲斐しく世話して居られたので、僕は橋田君を深く感ずると共にあさ子夫人に対する印象もまた深いのである。
 
茂吉はこう述べたのち、高野山で志保子に東声のことを言いかけたのも「僕にとつては極めて自然の心の動きで、そこにちつとも無理がないといふ気がしてならぬのである。即ち、僕は橋田夫妻のしみじみとした生活の時代を知つてゐて、後年の葛藤生活の時代のことは知らぬからである」と記している。

その後も東声を偲ぶ文章は続くのだが、「橋田君にはその後貞淑な新夫人が出来て」といった書き方を見ると、やはり、そこには「貞淑でなかった前夫人」というニュアンスが感じられる。これが、文明や茂吉から見た北見志保子像なのかもしれない。

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2012年03月25日

耳かき

この頃、耳かきはすっかり悪者になってしまった。

昨日の朝日新聞の別刷には「耳かき必要なし」という記事がイラスト入りで大きく載っている。それによると、耳には自浄作用があり、耳そうじは必要ない。それでも耳かきしたい場合は「数ヵ月〜半年に一回が目安」「入り口から1センチくらいまでをくるりと一周」「1秒で終わり」となっている。

息子が小学校からもらってきた「ほけんだより」3月号にも、耳あか掃除は「1か月に1回、2〜3分程度」すれば十分であり、気持ちが良いからと言って長い間掻いていると、傷ができ、さらに痒くなってまた掻くという悪循環に陥るとある。

そんな感じで、今やすっかり悪者とされてしまった耳かきだが、私が子どもの頃は、「きれいに耳あかを取るように」とか「こまめに耳かきをすること」とか、耳かきが奨励されていたように思う。いつの間にか時代が変ったのだろう。

こういうことは、他にもいくらでもある。「熱が出ても解熱剤は使わない方がいい」とか「うさぎ跳びはダメ」とか「腹筋する時は膝を曲げて」とか「運動中にこまめに水分を摂らないといけない」とか。

もちろん、医学的にそれが正しいのだろう。ただ、その正しさも、何十年か経てばどうなっているかわからない。また新しい説が生まれて、別の教え方がされているかもしれない。結局、そういう曖昧な中に私たちは生きているわけだ。

そんなことを思いつつ、今日も机の前で何となく耳かきをしている。
耳掻(みみかき)をもちて耳のなか掻(か)くことも吾がひとり居(ゐ)の
夜(よる)ふけにけり   斎藤茂吉『暁紅』

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2011年12月20日

黒溝台(その7)

茂吉が昭和5年に黒溝台を訪れるより早く、大正14年に平福百穂がこの地を訪れている。平福百穂は画家であるとともにアララギの歌人で茂吉の友人であった。

百穂(本名貞蔵)には長兄恒蔵、次兄善蔵、三兄健蔵という三人の兄がいたが、このうち三兄である大和健蔵が、この黒溝台で戦死しているのである。百穂は大正14年に朝鮮美術展覧会の審査のため朝鮮に渡ったのち、満洲へも足を運び、黒溝台を訪れている。

百穂の歌集『寒竹』(昭和2年)には、「弔黒溝台戦蹟」21首、「黒溝台にて」16首がある。
夜をつぎて戦ひ止まぬこの原にみちのくの兵士多くはてける
この原に屍(かばね)重なりはてにける我がみちのくの兵をかなしむ
土凍てて見とほす原のま面(おもて)に戦ひはてしかあはれ吾が兄は
玉の緒の絶えなむとせしきはみまで銃(つつ)を握りてありけむわが兄(せ)
わが兄の斃れし原に日は暮れてきびしき凍りいたりけむかも
ここでもキーワードは「みちのく」である。自分の兄の死を悼むのはもちろんのこと、「みちのくの兵」全体を悼む内容になっている。平福百穂もまた東北は秋田県角館町の出身であった。

百穂の三兄健蔵は将校ではなかったようで、『第八師団戦史』を見ても「黒溝台会戦に於ける準士官以上死傷者」には名前が載っていない。ちなみに、準士官とは陸軍では「特務曹長(のちの准尉)」のことを指す。

しかし、この本の巻末附録には「第八師団戦死者の武勲表彰」が載っており、「黒溝台戦死者と金鵄勲章」の中の歩兵第17聯隊の戦死者として
功七級勲八等 軍曹 大和健蔵
の名前を確認することができる(138ページ)。平福百穂の三兄健蔵は、黒溝台で戦死して、功七級勲八等に叙せられたのである。

*「黒溝台」については、今回でひとまず終わりにします。お読みいただき、ありがとうございました。

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2011年12月19日

黒溝台(その6)

さて、日露戦争は、日本人が初めて経験した本格的な対外戦争であった。人々が初めて身近に戦死者を感じることになったのである。それは、茂吉が自らの子ども時代のことを描いた随筆「念珠集」の中の「日露の役」という文章にも、よく表れている。
日露戦役(にちろせんえき)のあつたときには、僕はもう高等学校の学生になつてゐた。日露の役には長兄も次兄も出征した。長兄は秋田の第十七聯隊から出征し、黒溝台(こくこうだい)から奉天(ほうてん)の方に転戦してそこで負傷した。その頃は、あの村では誰彼が戦死した。この村では誰彼が負傷したといふ噂が毎日のやうにあつた。恰(あたか)も奉天の包囲線が酣(たけなは)になつた時であつただらう。夜半を過ぎて秋田の聯隊司令部から電報がとどいた。そのとき兄嫁などはぶるぶるふるへて口が利けなかつたさうであつた。父は家人の騒ぐのを制して、袴を穿きそれから羽織を着た。それから弓張を灯(とも)し、仏壇のまへに据わつて電報をひらいたさうである。そのことを僕が偶々(たまたま)帰省したりすると嫂(あね)などがよく話して聞かせたものである。
近隣の村々から戦死者や戦傷者が次々に出て、不安な気持ちで日々を過ごしている家族の様子が伝わってくる。そんな折に、聯隊司令部から電報が届いたのだ。おそらく家族たちは広吉の死を覚悟したことだろう。

幸いなことに、広吉は死んではいなかった。広吉は黒溝台会戦(1905年1月25日〜29日)のあと、陸軍の最大の戦いであった奉天会戦(同年3月1日〜10日)に参加し、そこで負傷したのである。

こうした戦いの詳細については、明治39年に出版された『第八師団戦史』という本に詳しい。これは、現在、近代デジタルライブラリーで全編を読むことができる。

その125ページを見ると「奉天附近会戦における富岡旅団将校戦死負傷者人名は左記の如し」として戦死者、戦傷者の名前が列挙されている。その中に、富岡旅団岩本聯隊(後備歩兵第8師団後備歩兵第17聯隊)の戦傷者として
 歩兵中尉 守谷広吉
の名前を確認することができる。

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2011年12月18日

黒溝台(その5)

茂吉の第1歌集『赤光』には、日露戦争に行っている兄のことを詠んだ歌が入っている。明治38年の歌で、茂吉の最も早い時期の作品である。(引用は改選版より)
書(ふみ)よみて賢(かしこ)くなれと戦場(せんぢやう)のわが兄(あに)は銭(ぜに)を呉(く)れたまひたり
戦場(せんぢやう)の兄(あに)よりとどきし銭(ぜに)もちて泣き居たりけり涙おちつつ
真夏日(まなつひ)の畑(はたけ)のなかに我(われ)居(を)りて戦(たたか)ふ兄(あに)をおもひけるかな
日露戦争には長兄広吉、次兄富太郎の二人が出征している。1、2首目に登場する兄は、そのうち次兄の富太郎ではないかと言われている。

これらの歌を読むと、茂吉はまだ少年で実家にいるような感じを受けるのだが、実際はそうではない。茂吉は既に23歳。東京にいて旧制第一高校から東京帝国大学へと進学する時期である。また、子規の『竹の里歌』を読んで、本格的に歌作りを始めたところであった。

『赤光』は初版(大正2年)と改選版(大正10年)では歌の並べ方をはじめ大きな違いがある。上記の1、2首目も改作が施されているが、3首目などは全く違う歌になっている。初版ではこういう歌であった。
かがやける真夏日のもとたらちねは戦(いくさ)を思ふ桑の実くろし

なんと、初版では母が戦争を思っている歌であったのが、改選版では自分が戦場の兄を思っている歌に変っているのである。このあたりの茂吉の心理もなかなか興味深いところだ。

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2011年12月17日

黒溝台(その4)

茂吉は「童馬山房夜話」でも「黒溝台戦」(昭和10年5月号)、「第八師団戦記」(昭和10年6月号)の2回にわたって、黒溝台のことを取り上げている。
 日露戦争三十周年に当るので、新聞で回顧座談会を載せ、とりどりに有益であつた。ある日、某将軍が黒溝台戦の話をして、『東北の師団の兵は鈍重だが、大敵にむかふと強い』といふことを云つて居られた。
 私は昭和五年の初冬に、八木沼丈夫君に導かれて親しく黒溝台の戦蹟を訪ひ、陣歿した、私の小学校の友達などの霊を弔つたのであつた。
 この劇戦に長兄守谷広吉は中尉小隊長として、従弟、高湯温泉の斎藤平六は軍曹分隊長として戦つた。二人とも幾遍も死を覚悟し直した話をした。四昼夜の劇戦で、しまひには眠いので、死が恐ろしくなくなつた話などをした。
 この三十周年記念に、私は、『三とせまへ身まかりゆける我が兄は黒溝台戦に生きのこりけり』といふ一首を作つた。これは雑誌改造に載つた筈である。
ここでも「東北の師団の兵」の活躍が誇らしげに記されている。「小学校の友達」が戦死していることからもわかるように、日露戦争は茂吉にとっても他人事ではなかったのだ。

また、『暁紅』に収められた「三とせまへ・・・」という歌が作られた理由もこれでよくわかる。兄の死から三年経ってこの歌が詠まれたのには、日露戦争三十周年記念という契機があったのだ。
A うつせみのいのち絶(た)えたるわが兄は黒溝台(こくこうだい)に生きのこり
  けり          第9歌集『石泉』(昭和26年刊)
B 三年(みとせ)まへに身まかりゆけるわが兄は黒溝台戦(こくこうだいせん)に
  生き残りけり     第11歌集『暁紅』(昭和15年刊)
では、AとBとは、どちらが早く作られた歌なのだろうか? Bが昭和10年の作であることは、この「童馬山房夜話」の文章からも明らかだろう(初出と歌集とでは細かな異動があるが)。

一方のAについてだが、昭和19年に書かれた「作歌四十年」の中で、当時まだ刊行されていなかった『石泉』の歌として、この一首が引かれている。つまり、昭和6年の広吉の死〜昭和19年の間に作られた歌ということになる。

はたして、それは昭和10年より前なのか後なのか。結論はまだ出ない。普通に考えればAの歌が先に作られたとなるのだろうが、もしかするとBの歌の方が先にあって、その後でAの歌が作られたという可能性も捨てきれない気がするのである。

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2011年12月16日

黒溝台(その3)

ここで黒溝台戦当時の日本陸軍の編成について、簡単に触れておきたい。関係のある部分だけ簡略に記すと次のようになる。

◎第2軍
  ○第3師団
  ○第4師団
  ○第5師団
  ○第8師団
    ・歩兵第5聯隊(青森)
    ・歩兵第17聯隊(秋田)
    ・歩兵第31聯隊(弘前)
    ・歩兵第32聯隊(山形)
  ○後備歩兵第8旅団
    ・後備歩兵第5聯隊
    ・後備歩兵第17聯隊
    ・後備歩兵第31聯隊
  ○騎兵第1旅団(旅団長 秋山好古)

茂吉の長兄広吉は「第8師団」とは別に編成された「後備歩兵第8旅団」の「後備歩兵第17聯隊」所属ということになる。次兄の富太郎も日露戦争に出征しているが、こちらは後備歩兵第32聯隊の所属で、朝鮮に渡っていたらしい。

「後備」とは戦争が長引いた時などに投入される補充部隊のこと。7年間の常備兵役(現役3年+予備役4年)を終えた後備兵役(5年間)の人員で編成されており、当然平均年齢も高かった。

日露戦争の開戦当時、長兄広吉は30歳、次兄富太郎は28歳。二人とも既に常備兵役は終えて後備兵役の期間であった。つまり、戦争が長引きさえしなければ、出征することもなかったのだ。

一方の茂吉は1882年生まれの22歳。まさに現役兵の年齢である。東京に出て、旧制第一高校から東京帝国大学へという人生をたどらなければ、あるいは茂吉の方こそ黒溝台で戦っていたかもしれないのである。

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2011年12月15日

黒溝台(その2)

茂吉は長兄広吉が亡くなる前年の昭和5年10月に、満鉄に招かれて満洲各地を旅している。その際に黒溝台も訪れ、ここから広吉に宛てて手紙を出している。
[十月二十三日 日本山形県南村山郡堀田村金瓶 守谷広吉様 黒溝台より]
昭和五年十月廿三日遼陽県黒溝台にまゐり兄上の苦戦の跡を偲ぶ 斎藤茂吉
この時の生々しい記憶が、「黒溝台に生きのこりけり」の歌にも当然反映しているのだろう。茂吉はこの地で「黒溝台」19首を残している。
わが兄の戦ひたりしあとどころ蘇麻堡(そまほ)を過ぎてこころたかぶる 『連山』
八師団の兵の築きし土堡(どほ)一部残れるがうへに暫したたずむ
こもごもに心に迫(せま)るものありて黒溝台の夜(よる)をねむらず
機関銃の音をはじめて聞きたりし東北兵(とうほくへい)を吾はおもひつ
2首目に出てくる「第八師団」は日清戦争後に増設された師団で、東北出身者の多い師団として知られていた。4首目の「東北兵」にも、もちろん山形県出身である茂吉のふるさとに対する思いがこめられている。

この黒溝台行きのことは「満洲遊記」にも描かれており、これらの歌の背景を詳しく知ることができる。
この蘇麻堡は黒溝台戦の激戦地で、黒溝台を退却した第八師団の兵は暫く此処に拠つて防戦したところである。長兄のゐた後備歩兵第八旅団も此処を防ぎ、山形の歩兵第三十二聯隊もこの蘇麻堡の前面に立止まつたのである。長兄はよく蘇麻堡のことを話したものである。其処を行くと、一面勾配のゆるい畑地で、其処に、秋田の第十七聯隊、青森の第三十一聯隊、山形の第三十二聯隊の兵等の嘗て築いた土堡のあとが未だ処々に残つてゐる。(…)東北兵は、事実上雲霞の如き敵に対し、雪の上にへばりついて此処を突破せしめなかつた処である。私の小学校の友も、村の貧農のせがれも此処に命をおとした。
「山形」「秋田」「青森」といった言葉が続々と登場する点に注目したい。「歩兵第三十二聯隊」で十分なところを、わざわざ「山形の」と付けているのだ。この文章を読むと、茂吉の黒溝台に対する思い入れは、単に兄が戦った場所というだけにとどまらないことがよくわかる。キーワードは「東北」なのである。

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2011年12月13日

黒溝台(その1)

先日の品田悦一さんの講演の中で、斎藤茂吉の次の歌が取り上げられた。
うつせみのいのち絶(た)えたるわが兄は黒溝台(こくこうだい)に生きのこりけり
昭和6年11月13日の長兄広吉の死を詠んだもので、第9歌集『石泉』に収められている。この歌の面白さについては、小池光『茂吉を読む』に詳しい。黒溝台は日露戦争の激戦地として有名な場所。(詳しくは→こちら

今回、問題にしたいのは、これによく似た歌がもう一首、茂吉にあるということである。
三年(みとせ)まへに身まかりゆけるわが兄は黒溝台戦(こくこうだいせん)に生き残りけり

第11歌集『暁紅』に収められた歌で、昭和10年の作品。先に挙げた歌と、何ともよく似ている。

普通に考えれば、昭和6年に先の歌を詠んだ茂吉が、約3年後の昭和10年になって再び後の歌を詠んだということになるだろう。しかし、茂吉の歌について考える場合、そう簡単に結論を出すことはできない。詠われている時期と、歌を作った時期とに大きなズレがあるからだ。

歌集の出版年で言えば、『石泉』は昭和26年で、『暁紅』が昭和15年。後者の方がはるかに早いのである。つまり、「うつせみの・・・」の歌の初出を調べない限り、どちらが先に作られた歌かという結論は出ないわけだ。

ちなみに、昭和6年当時の手帳(手帳26)を見ると、そこには歌の原型となったと思われる、次のようなメモが残されている。
はげしかりしことをもへはわが兄は黒溝台にいきのこりたり


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2010年05月30日

検閲について

『斎藤茂吉全集第一巻』の後記には歌集『つゆじも』について「本全集においては、第一刷発行当時の事情によつて削られた歌九首を復活せしめた」として、次のような歌を挙げている。

  日つぎの皇子国を見ますといでたたす筑紫の国の春もなかなり
  二十万の大御たからは真心の一つ心をたてまつるなり
  陸軍大将の大礼服をわれ等見つすべて尊しおほろかならず

『つゆじも』の発行は昭和21年8月なので、こうした歌がGHQの検閲により削除されただろうことは予測がつくのだが、はっきりとした証拠がなかった。

そこで、先日、メリーランド大学のプランゲ文庫から『つゆじも』のゲラの写真を取り寄せたところ、確かにこの九首に「delete」という書き込みがされ、赤線が引かれて削除されていた。『つゆじも』の九首の削除はGHQの検閲によるものであることが、確認できたのである。
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