2021年11月12日

カワラナデシコと石竹(その2)

けれども、これは子規の間違いだったわけでもないようだ。子規は8月4日に「石竹」の絵も描いていて、「カハラナデシコ」とは明らかに区別している。


 石竹.jpg

(国立国会図書館デジタルコレクションの画像より)

さらに気になるのは、河野自身が2002年に次のような歌を詠んでいることである。

    子規記念博物館にて「草花帖」を求む
励まして絵筆励まして描きし子規カハラナデシコよき淡彩に
紅紫濃きと薄きを工夫してカハラナデシコ四輪を描く
たいせつなこの世の時間の一筆(ひとふで)の濃淡考へて置きしこの色
            河野裕子『庭』

この歌を詠んだ時点では、河野もこの花が「カハラナデシコ」であることに何の疑いも持っていない。それがどういう経緯で2009年の歌では子規の「間違ひ」と思うようになったのだろう?

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2021年11月11日

カワラナデシコと石竹(その1)

なでしこの画を一枚飾るゆゑ暮しの中に子規ありいつも
「カハラナデシコ」と子規直筆にあるなれどこれは石竹(せきちく)、赤紫の花
子規がなぜこんな間違ひをしたのかと百六年後のわたしは思ふ
            河野裕子『葦舟』

正岡子規が「草花帖」に花のスケッチを描いたのは1902(明治35)年8月のこと。8月7日の『病牀六尺』には「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分つて来るやうな気がする」という有名な一文を記している。

河野はその「草花帖」の1枚、8月12日に描かれた「カハラナデシコ」を見て、石竹の間違いではないかと詠んでいるのだ。


 カハラナデシコ.jpg

(国立国会図書館デジタルコレクションの画像より)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288389

歌が発表されたのは「塔」2009年7月号だが、「百六年後」から計算すると2008年に詠まれた歌なのかもしれない。

日本の在来種であるカワラナデシコ(ナデシコ、ヤマトナデシコ)と中国原産の石竹(カラナデシコ)は、どちらもナデシコ科ナデシコ属の花でけっこう似ている。でも、河野は「なぜこんな間違ひをしたのか」と手厳しい。

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2017年08月12日

8月12日


今日は河野裕子さんの亡くなった日。
もう7年になるのか。

今死ねば今が晩年 あごの無き鵙のよこがほ西日に並ぶ
やはらかな縫ひ目見ゆると思ふまでこの人の無言心地よきなり
アメンボの私の脚がまぶしいから 土曜の水面は曇つてゐてほしい
欠詠の若きらをもはや頼まざり私にはもう時間がない
先の世といふはあらずよ親とより長く暮らしし君が髪刈る

歌集『家』(2000年)は、僕が初めて読んだ河野さんの歌集である。
1995年から1999年までの歌が収められている。

歌集の最初のページにメモが挟まっていて、2000年1月21日に「『家』を読む会」という勉強会をしたことがわかる。参加者は、なみの亜子、川本千栄、深尾和彦、澤村斉美、西之原一貴、松村正直の7名。

「全体の感想」として

・松村・・・意外に上手い
      上手い歌(上手さ)、散文的な歌(思い)
      残り時間、晩年意識
      家 子供が出ていき自分が残る タイトル

と書かれている。自分の先生の歌に対して「意外に上手い」とは、何て失礼なやつだろう。この時はまだ結婚前で、大分に住んでいて、29歳だった。

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2016年08月25日

「自分の歌に耐える」ということ (その2)

2007年に「塔」の全国大会が和歌山で行われた。
メインは河野裕子さんの講演「作歌四十余年」。
http://toutankakai.com/magazine/post/4390/

その中で、河野さんが「自分の歌に耐える」という話をされたのが、とても印象に残った。

この間ふと思ったのは、私は私の歌に堪えるということがとても大事だということでした。自分の歌に堪える。自分の歌に堪えるということは本当に大変難しいことだ。いろんな時期があって、いい時も悪い時もあります。かっての自分ならばもっといい歌が作れたはずなのに、ああ、できないということが必ずあるんですね。もっといい、若い時にはもっと自分には勢いもあったし、よかったのに、今それが自分にはできない。でもね、やっぱりそれは自分の歌に堪えるしかしょうがないんじゃないかと思うんです。堪える、堪えて、そしてその水準にまで達せなくっても、やっぱり作り続けることがとても大事。

講演を聴きながら、河野さんほどの人でもそんなことを思う時があるのだと、少し驚いたことを覚えている。


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2016年08月12日

6年

河野裕子さんが亡くなって、今日で6年。
月日の経つのは本当に早いものだ。

6年前の8月12日は職場のお盆休み前の打ち上げの飲み会があって、終了後、店からぶらぶら歩いて家に帰る途中で訃報を聞いたのだった。

あれから6年。
僕の人生にもいろいろと大きな変化があった。

水たまりをかがみてのぞく この世には静かな雨が降つてゐたのか              河野裕子『蟬声』

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2015年09月19日

暖房車

河野裕子の歌集を読んでいて、小さな発見をした。

  一月十五日 晴れ 「塔」睦月歌会 暖房車に不意に泣きゐる私かな
  他人ばかりの車輛に緩(ゆる)みて
評者らは初句をつきくる甘いなりなるほど暖房車は即(つ)きすぎだ
                    『日付のある歌』

2000年1月の歌会に河野さんが出した歌について、「初句が甘い」という批評があったのだろう。このやり取りはかすかに覚えている気がする。

で、この歌がその後どうなったか。

最終ひかりに不意に泣きゐる私かな他人ばかりの車輛に緩(ゆる)みて
                    『季の栞』

なるほど、初句が「暖房車」から「最終ひかり」に改作されたわけだ。
歌会の批評を受けて推敲した跡が、こんなふうに歌集に残されていたとは。

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2014年11月01日

講演会「河野裕子と歌」

11月22日(土)午後2時〜3時半、滋賀県湖南市立甲西図書館で、「河野裕子と歌」という講演会を行います。

入場は無料。定員70名。
本日より図書館にて受付を開始しました。(TEL 0748−72−5550)

詳しくは、下記のチラシをご覧ください。
http://lib.edu-konan.jp/image/201409kawano.pdf

湖南市立甲西図書館は、JR草津線「甲西駅」より徒歩約15分。
11月23日(日)まで、「歌人河野裕子〜夫(恋人)を歌う〜展」という展示も行っています。


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2014年03月13日

『河野裕子作品集』の歌の脱落のこと

河野裕子の第1〜第5歌集を収めた『河野裕子作品集』(1995年、本阿弥書店)は便利な本だ。『森のやうに獣のやうに』『ひるがほ』『桜森』『はやりを』『紅』の5冊を完本で収録し、巻末には年譜、初句索引、四句索引が載っている。全歌集がまだ刊行されていない今、歌を探す時には特に重宝する。

先日、歌を探していて、この『河野裕子作品集』に歌の脱落があることに気が付いた。

『ひるがほ』の「ほたる」の6首目「生臭くぞよぞよとして蠢ける昼のほたるは草に幽(ひそ)みて」から「木の耳」の1首目「逝かせし子と生まれ来る子と未生なる闇のいづくにすれちがひしか」までの計5首がまるまる抜け落ちている。

20年近く前に出た本で、今さらどうすることもできないのだが、備忘のためにこのブログに書いておくことにする。

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2013年09月01日

角川「短歌」の古い号から(その3)

1996年6月号より。

「わたしの歌の出発」という特集があり、30名の歌人が短歌を作り始めたきかっけを書いている。その中に河野裕子さんの「サフランの歌など」という文章がある。

河野さんは、田舎で小さな呉服雑貨商をしていた家に、母親が買った中城ふみ子『乳房喪失』『花の原型』、明石海人『白描』という3冊の歌集があったことを述べ、さらに次のように書く。
短歌好きの母は、折りにつけて、娘時代に覚えた歌を口遊んでいた。聞くともなしに聞いていて、すっかり覚えてしまった歌が何首もある。

  ゆふぐれになりにけらしな文机(ふづくえ)の鉢のサフラン花閉ぢにけり

という歌は、作者名もわからないまま母から私に伝えられた歌であり、早春の光りが射す頃になると、決まって思い出す歌である。

河野さんが耳で覚えたというこの一首は、一体だれの歌なのだろう。

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2013年08月26日

角川「短歌」の古い号から(その2)

河野裕子さんの作品が初めて総合誌に載ったのは、角川短歌賞を受賞した時(1969年6月号「桜花の記憶」50首)だと思っていたのだが、そうではなかった。

その前年の1968年2月号に「学生短歌の新鋭九人」の一人として、河野さんの作品「紫紺の眼」14首が掲載されている。他のメンバーは、伊藤洋子、大林明彦、川戸恒男、清宮剛、佐藤和之、下村光男、田中仁巳、松見健作。

この「紫紺の眼」14首は、第一歌集『森のやうに獣のやうに』に収録されている歌が多いが、それ以外に、
温み来る真昼の水に指あそばせて幾度つぶやきぬなつかしき名を
天心に散華し終へし猛禽の瞑らぬ紫紺の眼を見たきかな
いななきは遂のまぼろし猛禽のこゑかんかんと十月の天を打つ

といった歌がある。

ちなみに永田さんの総合誌デビューは、角川「短歌」1969年2月号。「新人登場」という欄に、「疾走の象」8首が掲載されている。

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2013年08月20日

数へつつつひには

長生きして欲しいと誰彼数へつつつひにはあなたひとりを数ふ
たれかれをなべてなつかしと数へつつつひには母と妹思ふ

よく似ていると思う。

1首目は、河野裕子さんの最後の歌集『蝉声』(2011年)の終りの方にある歌。2首目は河野さんの第1歌集『森のやうに獣のやうに』(1972年)の最初の方の歌である。

40年という歳月を挟んで、まるで呼応し合うように、この2首が詠まれている。

以前、「長生きして」の歌が口述筆記された時の様子を録音したテープが、テレビで放送されたことがあったが、それによると、この歌の初案は
誰彼を長生きして欲しいと数へつつつひにはあなたひとりを数ふ

というものであった。語順まで瓜二つであったわけだ。

河野さんの晩年の歌に出てくる「母系」「蝉声」「茗荷」といったモチーフも、実は初期の歌に既に見られるものだ。こうした、初期の歌と晩年の歌のつながりについては、いずれ詳しく考察してみたいと思う。

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2013年08月12日

桜とお墓

今日は河野裕子さんの命日。
あれから、もう3年が過ぎたのだ。

河野さんにはお墓がない。遺骨はまだ永田家にあるのだろう。お墓があればお墓参りに行けるのにと思ったりもするのだが、それは河野さんの望まなかったことだ。
喪(も)の家にもしもなつたら山桜庭の斜(なだ)りの日向に植ゑて
                 『蝉声』(2011年)

最終歌集『蝉声』には、こんな遺言のような一首があり、現在、永田家の玄関近くの斜面に桜が一本植えられている。これが河野さんのお墓代りと言っていいのだろう。

お墓の代わりに桜をという話は、河野さんが長いこと言い続けていたことらしい。それは乳癌になる前からのことである。
三年まへの遺言を子らにくり返す墓はいらない桜を一本
                 『家』(2000年)

初出は1998年の「短歌研究」なので、まだ元気だった頃である。

そして、この考えは、もともとは河野さんの祖母のものであった。河野さんのエッセイ集『桜花の記憶』の中に、こんな文章がある。
 私が死んだら、どこの墓に埋められるのだろうと時々考える。私は、どこの家の墓にも埋められたくない。
「婆ちゃんが死んだら、裏の畑に埋めて桜の木ば一本植えて欲しかね」と、生前の祖母がよく言っていた。彼女は九州で生まれて滋賀県で死んだのだが、どこの家の墓にも入りたくない私は祖母のように、裏の畑の桜の木の下を自分の墓にしたい気がしきりにする。
 裏の畑の一本の桜の木の下。それは、おそらくかなえられない夢でしかないだろう。祖母がそうだったように。祖母が生きていて、裏の畑の桜の木のことを話していた時、それは実現可能な夢のように私は考えていたのだが。

初出は1989年の「京都新聞」。
実際に亡くなる20年以上も前から、河野さんはお墓の代りに桜をと思い続けていたのだ。そして今、その願いは叶えられている。

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2013年06月15日

原稿の催促

原稿の催促をされて嬉しい人はいない。締切に遅れているのは自分が一番よくわかっているのだから、それを相手に言われるのは嫌なものである。

でも、催促をされるより、催促をする人の方が、きっと何倍も嫌なのだ。「塔」の編集長という立場上、しばしば原稿の催促をしていて、そう感じる。

河野裕子さんが亡くなる数ヶ月前に、電話で原稿の催促をしたことがあった。河野さんの病状が良くないのはもちろん知っていた。「あなたにはいつもご面倒をかけてしまって」と河野さんは私に謝った。

あの時ほど、編集長をやっていなければと思ったことはない。今、思い返しても胸が痛む。

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2012年12月16日

ユウコサーン(その1)

「角川短歌年鑑」平成25年版には、「特別論考 金井美恵子の歌壇批判に応える」という見出しのもと、島田修三の「もの哀しさについて」という文章が載っている。

この論考を読んだのだが、結局何が言いたいのだかよくわからなかった。しかも、6ページの文章を書いてきた挙句に、
金井の文章を読み、それから「風流夢譚」をひさしぶりに読みかえし、最初しばらくはなにやらむかっ腹が立ったけれども、やがて深いもの哀しさと脱力感に襲われたのであった。

と述べるのである。これでは、読んでいる方が脱力してしまう。

島田は、金井が取り上げた河野裕子の歌〈こゑ揃へユウコサーンとわれを呼ぶ二階の子らは宿題に飽き〉を引いて、次のように書く。
金井が文中に掲げた河野の歌は毎日新聞短歌欄の新刊紹介に引用された、この一首だけである。(…)いくらなんでも一首だけではフェアではないと思うが、これは短歌サイドにいる者の身びいきかも知れない。いやしくも短歌が文学を名乗るなら一首一首のテキストで勝負せよ、という正論を金井は説いているわけだから……。掲出歌は幸せな主婦の何の変哲もない日常報告の域を出ていないし、「大衆に支持される巨大で歴史的な言語空間であることを踏まえたうえで特別な言葉を書きつけることがまかり通る私的空間」だけに通用する言葉とされてもしかたがない。

ずいぶんな言い方をするものだなあと思う。

本当にこの歌は「幸せな主婦の何の変哲もない日常報告」の歌なのか。
それで、本当にこの歌を「読んだ」と言えるのだろうか。

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2012年10月01日

古い会員の方々を


2005年に「塔」の編集長になる前に、永田家に呼ばれたことがある。永田さんと河野さんからいろいろ話を聞いたのだが、その時に河野さんに言われたのは「古い会員の方を大事にして下さい」ということだった。

その時は、ちょっと意外な気がしたものだ。「良い誌面を作って下さい」でも「会員が増えるように努力して下さい」でもなくて、「古い会員の方を大事にして下さい」。何だか拍子抜けがした。

河野さんのあの言葉の意味がようやくわかってきたのは、たぶん最近のことだろう。歌壇的には全く無名でも、結社の中でコツコツと歌を作り続けている人が、世の中には大勢いる。そうした方々を抜きにして、結社や短歌を語ることはできない。

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2012年09月10日

どくだみと河野裕子(その2)

どくだみの生葉(なまば)の何かが作用して洗ひゐる間(ま)に元気になれり
                                        『母系』
からからに乾きゆくまでの何日か取込みしどくだみ夜中(よるぢゆう)にほふ
どくだみは好きな花です二、三本挿したる壜を見える所に
カミソリ負けしてゐる顔にぬりてゆくドクダミ化粧水焼酎の香つよし  『蝉声』
手作りのドクダミ化粧水なじませて肌おちつけり今は眠らむ
ドクダミの葉を摘んだり、乾かしたりしたのは、化粧水を作るためだったらしい。このドクダミ化粧水については、河野さんがかつて「塔」の編集後記に次のように書いていた。
六月はドクダミの季節。せっせと採集している。これで一年分の煎じ薬と化粧水を作るのだ。水洗いしているだけで元気が出るという効能もある。 「塔」2006年6月号
3か月後の編集後記では、さらに詳しく作り方について記している。
六月の白い花が咲くころ、全草を採ってきてよく水洗いする。細かく刻んでミキサーに入れ、十薬と同量くらいの焼酎を加えてよく混ぜる。これをガーゼで丁寧に濾す。冷蔵庫に二週間ほど入れておいて、グリセリンを混ぜてできあがり。焼酎やグリセリンの量は適当でいい。この化粧水を使い続けて五年。化粧水を買ったことがない。とてもいい。因みにどくだみ茶も毎日愛用している。 「塔」2006年9月号
とにかくドクダミがお気に入りだったようだ。さらに
ドクダミの生茎(なまくき)齧りて歌つくる可笑しくなりぬ河野裕子を  『母系』
という強烈な歌もある。ドクダミの茎って、一体どんな味(?)がするんだろう。

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2012年09月09日

どくだみと河野裕子(その1)


IMG_3104.JPG

河野裕子・永田和宏著『たとへば君』の中で、永田さんは河野さんと初めて出会った時のことを、次のように書いている。
私の所属しはじめた「塔」という結社誌を見せたら、彼女はその表紙にとても興味を示した。須田剋太(こくた)画伯によるドクダミの表紙だった。「塔」は創刊以来、主宰者の高安国世先生の友人ということで、須田画伯の表紙絵を半年ごとにいただいていたのである。私が河野に見せたのは、たぶん七月号だっただろう。グレイの単色刷りの表紙だが、切り絵のようなタッチのドクダミの白十字の花が数片、鮮やかに浮き出している。
昭和42年7月、京都の学生が集まって作った同人誌「幻想派」の顔合わせの歌会の場面である。須田剋太は司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズに同行して挿絵を描いたことでも有名な画家。「塔」は昭和29年の創刊から平成2年に須田が亡くなるまでの37年間、表紙に須田の絵を使わせていただいていた。

文章はさらに、次のように続く。
河野は、付きあいはじめた頃から植物に対しては異常なほどの興味を示し、特に特徴のない野の草花の名前をよく知っていた。ドクダミも好きな花らしく、その号を手にとってしげしげと眺め、そして載りはじめたばかりの私の歌なども、そこで読んだはずである。
確かに河野さんはどくだみが好きだったようで、どくだみを詠んだ歌がたくさんある。第1歌集『森のやうに獣のやうに』でも、悲しい場面でその印象的な白い十字の花(苞)が詠まれている。
にくしみに冷えつつ摘みし十薬の白十文字の花逆さ干す 『森のやうに獣のやうに』
今さらに恨むせんすべなきものをどくだみは匂ふ闇に光りて
肌ざむき欠落の時もどくだみは闇に十字に連なり咲けり

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2012年08月17日

力あるまなこ

力あるまなこはわれを測りゐき宮柊二五十九歳卓を隔てて
                  河野裕子『体力』
この歌に似た場面のことを、河野さんは次のように語っている。昭和44年の角川短歌賞の授賞式の場面。
(…)ふと顔を上げると、斜め向かいに宮先生がおられて、瞬きもせず、じーっとこっちを見ていらした。見竦(みすく)められるって、あれですね。私はハッと固まってしまいました。宮柊二先生はあのとき、まだ二十二、三歳の私を「これはどれだけのものか」と計っていらしたんですね。         『私の会った人びと』
ただし、この時点(昭和44年6月)では宮は56歳なので、歌に詠われているのは別の時のこと。おそらく、昭和47年5月に第1歌集『森のやうに獣のやうに』を出版したあと、横浜に住むことになり、永田さんと二人で宮柊二の自宅に挨拶に行った際のものだろう。当時、宮柊二59歳、河野裕子25歳である。

ちなみに、宮柊二(1912年生まれ)と河野裕子(1946年生まれ)の歳の差(34歳)は、高安国世(1913年生まれ)と永田和宏(1947年生まれ)の歳の差と一緒。

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2012年08月16日

河野裕子と宮柊二


河野裕子の第5歌集『紅』には、1986年の宮柊二の死を詠んだ一連「宮柊二」がある。
死者として額(ぬか)ふかぶかと宮柊二この世の涯のひと夜をありつ
白骨となりてしまひし先生に黒き靴はき会ひにゆくなり
宮柊二の死をばはさみて歩みつつ昔のこゑに人は黙せる
当時、河野さんは「コスモス」の会員であり、宮柊二は河野にとっての先生であった。
これ以降、河野の歌にはしばしば宮柊二を偲ぶ歌が登場する。
ゆつくりと湯槽(ゆぶね)よりあげし顔貌は宮柊二言ひし 壮年の修羅  『紅』
歌書きて妻子を食はせし宮柊二せつなや明日まで十首が足りぬ
力あるまなこはわれを測りゐき宮柊二五十九歳卓を隔てて
その肌(はだへ)死灰と詠みし宮柊二寒かりしならむ最後の一年  『体力』
押入れに顔入れて泣きし宮柊二、折ふし思ひ四十代終る  『家』
栞ひも切れてしまひし『宮柊二歌集』開きてをれば歯科医がのぞく  『葦舟』
4首目の「死灰」の歌は、宮柊二の次の歌を踏まえている。
昼寝する己れを夢に見下せり死灰の肌は亡き父に似る  『緑金の森』

「死灰(しかい)」はあまり目にしない言葉であるが、広辞苑によると「火の気のなくなった灰。転じて、生気のないもののたとえ」とのこと。自らを凝視する冷徹な目を感じさせる歌だ。

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2012年07月03日

夜の駅舎(その3)


書評に引かれていた3首の歌は「乳癌が見つかった」こととは関係がない。それは、『歩く』の巻末の初出一覧を見れば明らかである。
さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見てをり
                     「朝日新聞」1996年3月16日夕刊

死んだ日を何ゆゑかうも思ふのか灰の中なる釘のやうにも
   「塔」1999年2月号(初出一覧には2000年となっているが、これは誤り)

どのやうな別れをせしか爪立ちて鞍を置きゐる人と馬とは
        競詠「歌ことば・春の饗宴」2000年5月、「塔」2000年5月号
というように、3首とも2000年9月の「乳癌が見つかった」時より前の歌なのである。

別に、その間違いを指摘したいわけではない。大切なのは、乳癌が見つかる前から「死や別れを意識した作品」が、河野さんには多かったということだ。

今はどうしても河野裕子=乳癌というイメージが強いので、それに引きずられた読みをしてしまうのは仕方がない。でも、そろそろ冷静に河野さんの歌そのものを読んでいくべき時期に来ているのではないだろうか。

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2012年07月02日

夜の駅舎(その2)

さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見ており
                 河野裕子『歩く』
先日、届いた「青磁社通信」24号にも、この歌が取り上げられていた。
シリーズ牧水賞の歌人たちVol.7 『河野裕子』の書評の中で、石川美南は次のように書いている。
 本書にも再録されている牧水賞受賞時の講評では、四人の選者全員が「寂しさ」というキーワードを用いている。確かに、『歩く』には、「さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見てをり」のように直接「さびしさ」という語を用いた歌や、「死んだ日を何ゆゑかうも思ふのか灰の中なる釘のやうにも」「どのやうな別れをせしか爪立ちて鞍を置きゐる人と馬とは」など、死や別れを意識した作品が目立つ。『歩く』と『日付のある歌』が制作された頃は、一度目に乳癌が見つかった時期と重なっており、作者の心の揺らぎが、短歌にも滲み出てきていたのだろう。

長い引用になったが、「さびしさ」が河野短歌のキーワードであるというのは、その通りだろう。
しかし、それは、はたして「乳癌が見つかった」ためなのだろうか。

河野さんは2000年の発病と手術、2008年の再発、そして2010年の死まで、自分の病気のことをすべて短歌に詠んできた。そのため最近では、河野さんの歌が病気に重点を置いて読まれるようになっているようで、そこに少し違和感を覚えるのである。

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2012年06月30日

夜の駅舎(その1)


「塔」6月号を読んでいたら、こんな歌があった。
さびしさや夜の駅舎に佇める河野裕子を思ひて泣きぬ
             田口朝子
河野さんが亡くなって、もうすぐ2年。
今でも誌面には、こうして河野さんを偲ぶ歌が載る。

この歌は、もちろん
さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見てをり
             河野裕子『歩く』(2001年)
を踏まえたもの。

「よ」「世」「世」「夜」「雪」と繰り返される「Y」の音が、沁み透るような韻律を生み出している。
シンプルな歌であるが、どの言葉も動かない。

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2012年05月01日

養子娘

河野裕子の『うたの歳時記』を読んでいたら、「養子娘」という言葉が出てきた。
田舎の大きな家に、老いた両親が二人きりで暮らしている。次郎という犬が一匹いたが、その犬も去年死んでしまった。養子娘の身が、親を残して家を出てしまったという負い目が、ずっと私の中にある。

養子娘というのは、婿養子を取った娘、あるいは婿養子を取るべき娘といった意味なのだろう。河野さんは二人姉妹の長女だったから、自分が河野家を継ぐべきという考えを持っていたわけだ。「負い目」という強い言葉を使っていることに、ちょっと驚く。

そのあたりの、河野さんの実家に対する思いや「家」についての考え方が、僕には今ひとつわかりにくい。河野さんは「嫁」という言葉が大嫌いで、歌会でも「嫁」という語を使った歌に否定的であったくらいだが、僕から見ると「養子娘」という言葉も似たようなものに思えるのだ。

河野さんの家族像や家族観には、古風な部分と現代的な部分とが奇妙に入り混じっている。そんな印象を受ける。

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2012年01月25日

発見! 生方たつゑ選

ついに、生方たつゑ選で載った河野裕子の作品を見つけた。

大阪府立中央図書館で5時間かけて2年分のマイクロフィルムを見て、その中から河野さんの歌を5首見つけ出すことができた。この一年、ずっと気にかかっていた事だったので、何とも嬉しい。

こんな歌がある。
醜悪な老猿のごとく背を曲げて飯喰う父を今は憎まず
             滋賀県 河野裕子

産経新聞(大阪本社版)昭和40年3月3日付の「サンケイ歌壇」に載ったもの。
病気で高校を休学中だった頃の歌である。

他の雑誌で見つけた詩もあるので、近いうちにまた「塔」に追加分の「河野裕子初期作品」を載せたいと思う。

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2012年01月18日

生方たつゑ選(その2)

河野さんが高校生の頃と言うと、昭和37年4月から昭和41年3月まで(途中休学のため計4年間)である。生方さんは昭和39年から毎日歌壇の選者をしているので、最初はそれを探せば簡単に見つかるだろうと思っていたのだ。それなのに、見つからない。東京本社版ではなく大阪本社版も探したが見つからない。

結局、追悼号には載せられなかった。

最近になって、生方たつゑ著『急がない人生』(日本経済新聞社)という本を図書館で見つけた。昭和39年に出たエッセイ集なのだが、その著者略歴を見ると、生方さんが「産経新聞、婦人公論、主婦の友、女性明星、週刊文春」などの選をしていると書いてある。

そんなにあちこちで選歌をしてたのか!

急いで、当時の「婦人公論」や「主婦の友」を書庫から出してもらって、調べていく。なるほど、短歌の投稿欄があり、生方さんが選歌をしている。こうなると気分はまるでお宝探し。1冊1冊、見落としのないように調べていく。調べて、調べて、調べて・・・結局、見つからなかった。

まあ、それでも少しずつ目標に近づいているのは間違いないだろう。何としてでも見つけ出したいと思う。

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2012年01月17日

生方たつゑ選(その1)

河野裕子さんの初期作品を探している。

「塔」の河野裕子追悼号(2011年8月号)に22ページにわたる「河野裕子初期作品一覧」を掲載したが、あれで全てが網羅できているわけではない。調べた私自身の感触で言えば、多分8割程度ではないだろうか。きっとまだ見つかっていない作品が残っている。

未確認の作品のなかで、最も可能性が高いのは「生方たつゑ選」に採られた歌である。これについては、河野さん自身が次のような歌を残している。
  高校生の頃、生方たつゑ選に幾度か入った
昨夜(きぞ)の雪藪に垂(しづ)るはしづかなり若き日知らざりし選者のこころ
                 『日付のある歌』

また、「新聞歌壇をめぐって」という座談会でも、次のように発言している。
河野 (…)生方たつゑさんとこにも出したなあ。生方さんが私の歌にではないけど、「短歌は短いからたくさんのことを書いてはいけません」て評してらしたりしたの、よく覚えてるんですよ。         「塔」2010年1月号

つまり、確実に「ある」のだ。
それなのに見つからないものだから、悔しくて仕方がない。

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2011年10月16日

たっぷりと

10月14日の読売新聞(大阪本社版)夕刊の「言葉のアルバム」という欄に、日本語学者の山口仲美さんが出ている。山口さんは『犬は「びよ」と鳴いていた』(光文社新書)などの著者であり、以前「短歌研究」でオノマトペをめぐって小池光さんと対談をしていた。
 インタビューが終わる間際に、「では、私から問題を一つ」と言ってフフフと笑い、「俵万智さんの短歌〈○○○○と君に抱かれているようなグリンのセーター着て冬になる〉の冒頭に入る言葉は?」と続けた。選択肢は〈ふんわり、こんもり、がっしり、たっぷり、さっくり〉―。
 物質的、心情的な充足感を同時に与える「たっぷり」は正解。(…)
これまで気にもとめていなかったが、こうして説明されると「たっぷりと君に抱かれて」という表現には工夫のあることがよくわかる。

そして、この文章を読んで思い出したのが、「河野裕子を偲ぶ会」の時の岡井隆さんの話である。岡井さんは「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」について、次のように述べていた。
 (…)あの実は、「たつぷりと」というのは、たっぷりと聞かせてくださいとか、たっぷりと何かが盛られてる感じでしょう。そうすると、「抱く」というのとは直接は結びつかない副詞ですよね、細かく言えばですよ。(…)
 ところが、不思議にこれで落ち着くんですね。我々は何となく「たつぷりと」というのが「抱く」という動詞にかかっても構わないんじゃないか。(…)
「たつぷりと真水を抱きて」と「たっぷりと君に抱かれて」、こんな所にも意外な共通点があるのだった。面白いなあと思う。

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2011年09月09日

公開講座のお知らせ

11月30日(水)に〈「私の好きな歌」家族と読み解く河野裕子〉という公開講座を行います。ご興味のある方は、ぜひご参加ください。

日時 11月30日(水) 14:00〜16:00(13:30開場)
場所 「ラポルテ」本館3階・ラポルテホール (JR芦屋駅北すぐ)

 (対談)永田 淳 × 永田 紅
 (司会)松村正直

受講料 一般3675円 朝日カルチャー会員3360円

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2011年09月06日

東京駅の地下通路

「ビッグコミックオリジナル」に連載中の「テツぼん」を立ち読みしていたら、東京駅の地下通路を車椅子を押して歩く場面が出てきた。「あっ!」と思い当たったのは、河野さんの歌を思い出したから。
 十一月八日 はれ、くもり   NHK歌壇収録のため上京、淳がつき添う。
 京都駅も東京駅も車椅子。とある扉より古い迷路のような東京駅の地下に入る

カビ臭く暗き通路を押されゆく古井戸を寝かせしやうな壁に沿ひつつ
押しくるる駅員無言息子無言とある扉よりスルリと出でつ
2000年10月11日の乳癌の手術後、初めて上京した時の歌である。この時のことは、『河野裕子読本』の永田さんと淳さんの話にも出てくる。
和宏 あの手術のあとも、結局一度も休まずにNHKに行ったものね、淳が車椅子を押して。あれはお母さん、ずいぶん印象深く、喜んでいたみたいだ。車椅子で、京都駅から新幹線に乗って、東京駅ではふだんは人が入らないような地下を車椅子で通っていっただろ。
 そう。あの地下道は戦中に造ったものだとか。特殊なエレベーターで地下に行き、古いレンガ造りの、湿った暗い地下を車椅子を押していった。なんか不思議な体験。丸の内に出たのかな。
この地下通路は、もともとは丸の内口にある旧東京中央郵便局と東京駅のホームを結んで郵便物の運搬に使っていたもの。かつてはこの通路にレールが敷かれていて、郵便物をトロッコ輸送していたのだ。

現在は駅員や車椅子の方、また商品搬送業者用の通路となっていて、残念ながら一般の人は立ち入ることができない。鉄道によって大量に郵便物が運ばれていた時代も、はるか昔のことになってしまった。

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2011年08月19日

永田耕衣と河野裕子

河野さんの歌集を読み返していたら、こんな歌が目にとまった。
夢の中はもつとさみしい 工場のやうな所で菊の世話して
                     『季の栞』
下句の「工場のやうな所」に妙なリアリティがあって、印象に残る。

この歌を読んで思い出したのは、次の俳句である。
夢の世に葱を作りて寂しさよ
永田耕衣の代表作の一つ。永田耕衣が生前に自分でつけた戒名「田荷軒夢葱耕衣居士」に「夢」「葱」の文字が入っていることからも、自信作であったことがうかがわれる。

そう言えば、河野さんには永田耕衣を詠んだ歌があったなと思って調べてみると、
赤ままの赤い花穂がこそばゆし而今而今(ニコニコ)の句の神戸の耕衣
誓子死に耕衣死にたる神戸かなだしぬけに九月といふ月終る
                        『家』
といった歌がある。二首目は1997年に耕衣が亡くなった時の歌。
同じ時の歌に
泥鰌の句葱を作る句晩年を長いこと生きし神戸の耕衣
という一首もある。「葱を作る句」はもちろん、先に引いた「夢の世に葱を作りて寂しさよ」であろう。このように見てくると、本歌取りとまでは言わないが、河野さんの歌には永田耕衣の句が無意識に影響したのではないかという気がするのである。

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2011年07月25日

続河野裕子情報

○再放送「この世の息〜歌人夫婦 40年の相聞歌〜」

ETV特集「この世の息〜歌人夫婦 40年の相聞歌〜」(7月10日放映)の再放送が決まりました。再放送の日程は、7月31日(日) 午前10時05分〜 NHK総合です。

○角川「短歌」8月号

角川「短歌」8月号に「愛しの河野裕子」という全55ページの特集が組まれています。私も「青き林檎―河野裕子ができるまで」という文章を書いていますので、皆さんどうぞお読みください。

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2011年06月18日

河野裕子情報

河野裕子さん関連の出版やテレビ番組などが相次ぎますので、お知らせします。

○河野裕子歌集『蝉声』(青磁社) 2800円
2011年6月12日発行

○永田和宏「河野裕子と私 歌と闘病の十年」
「波」(新潮社PR誌)6月号〜連載 定価100円、年間購読1000円(送料込)

○ETV特集(NHK教育テレビ)河野裕子特集
7月10日 22:00〜放映

○河野裕子著『たったこれだけの家族 河野裕子随筆コレクション』(中央公論新社)
2011年7月10日発売予定

○永田和宏・河野裕子著『たとへば君 四十年の恋歌』(文藝春秋)
2011年7月中旬発売予定

○『河野裕子読本 角川「短歌」ベストセレクション』(角川学芸出版)
2011年7月22日発売予定

○角川「短歌」8月号 特集「愛しの河野裕子」
2011年7月25日発売

○「塔」8月号 河野裕子追悼号
2011年8月10日頃発行



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2011年04月24日

二冊の歌集

河野裕子の第一歌集『森のやうに獣のやうに』(1972年)を読んでいると、しばしば永田和宏の第一歌集『メビウスの地平』(1975年)の歌を思い出す。例えば、以下のような感じ。Aが『森のやうに…』、Bが『メビウス…』である。
「ゆたゆたと血のあふれてる冥い海ね」くちづけのあと母胎のこと語れり
あなた・海・くちづけ・海ね うつくしきことばに逢えり夜の踊り場

青年は背より老いゆくなだれ落つるうるしもみぢをきりぎしとして
背を抱けば四肢かろうじて耐えているなだれおつるを紅葉と呼べり

海くさき髪なげかけてかき抱く汝が胸くらき音叉のごとし
重心を失えるものうつくしく崩おれてきぬその海の髪
駆けてくる髪の速度を受けとめてわが胸青き地平をなせり

こんなふうに二首を対にして鑑賞するのは邪道かもしれないが、相聞歌のやり取りのようにも思われて、私には面白い。もっとも、こうした見方は既に岩田正が『現代短歌 愛のうた60人』で述べていることでもある。岩田は『森のやうに…』と『メビウス…』からそれぞれ五首ずつを引いて、「呼応して歌いあっているわけではないが、(…)あきらかに呼応しあって歌っているようにみえる」と記している。
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2011年04月04日

河野裕子と「コスモス」

昨年行われた「河野裕子を偲ぶ会」の席で、来賓挨拶に立った高野公彦さんが、河野さんについて
つまり歌人としての前半生は「コスモス」の人だったんですね。

とおっしゃっていた。これは知っている人にとっては当り前のことだけれど、最近では「塔」の中でも意外に知らない人が増えていることのように思う。

河野さんは1964年〜1989年までの25年間「コスモス」に在籍していた。「塔」は1990年〜2010年までの20年間ということになる。私自身、もちろん以前からそのことは知っていたのだが、例えば『みどりの家の窓から』を読んでいて、
飯綱高原に着くなり、亭主と光田先生は、塔の全国大会に行ってしまったから、私と子供たちが、キノコ狩りの主力部隊になった。

という文章などを読むと、一瞬「えっ?何で河野さんは全国大会に行かないの?」と思ったりしてしまう。

それだけ、〈河野さん=塔〉というイメージが強くなってしまったということなのだろう。その良し悪しは問わないが、「河野さんは永田さんと二人三脚でずっと塔を支えてきて・・・」みたいなことが平気で言われたり書かれたりしている現状を見て、戸惑うことも多い。事実とはズレた話がどんどん広がって行くことに対して、不安を覚えてしまうのである。
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2011年02月23日

歌集は買って読む

河野裕子さんに言われたことでよく覚えているのは「歌集は買って読むように」ということ。身銭を切ったものでないと身につかないという意味で、河野さんはそうおっしゃっていた。

この教え(?)は今も守っている。新刊の歌集は送っていただくことが多くなったが、それでも他に目についたものがあれば買うし、古い歌集なども基本的に買う。総合誌5誌の定期購読も含めてかなりの出費になるが、短歌に使うお金は惜しいとは思わない(ようにしている)。

以前、何かの本で、資本主義社会においては個人が何にお金を使うかによって、社会を変えて行くことに参加できるという話を読んで、非常に納得したことがある。みんながコンビニで物を買えば世の中にコンビニが増えるし、マクドナルドにお金を使えばマクドナルドが増える。

別に社会を変えたいなんて思わないが、お金の使い方が自分の価値観の表明(?)になるという思いは強く持っている。だから自分が大事だと思うものには、できるだけお金を惜しまない(ようにしたい)。

「短歌が好き」とか「短歌が大切」という気持ちも大事だけど、実際に短歌にお金を使うことは、もっと大事かもしれない。今日も本屋で、何度も自分にそう言い聞かせて、一冊の高い本を買った。
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2011年02月07日

続・花電車(その2)

京都の岡崎と言えば、国立近代美術館、京都市美術館、京都市動物園、京都会館、みやこめっせなどが立ち並ぶ、京都随一の文化ゾーンである。そこに京都府立図書館もある。

京都府立図書館には、古い京都新聞がマイクロフィルムで収蔵されている。早速、係の方に昭和39年9月の分を出してもらい、専用の投影機にかけて最初から順番に見ていく。

まず、目に付いたのがオリンピックの聖火リレーの記事である。聖火リレーであれば滋賀県内を通ることもあるだろうし、花電車と何か関係があるかもしれない。しかし、残念なことに滋賀県を通るのは9月29〜30日の予定となっていた。

次々と流れる画面に目をやるが、それらしい記事は載っていない。もともと花電車の記憶自体がどこまで確かなことなのかわからないし、これはどうも無理かもしれないと諦めかけていたころ、その記事に出くわした。

花電車の写真が載っている。

見出しは「開通ムードを満載 琵琶湖大橋 江若が花列車の試乗」というもの。昭和39年9月20付朝刊の第二滋賀版の記事であった。(つづく)
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2011年02月06日

続・花電車(その1)

どうにも花電車のことが気にかかって仕方がない。わからないままで終わるのは後味が悪い。

「捜査に行き詰ったら現場に戻れ」という鉄則もあるので、ひとまず現場に戻ってみたいと思う。と言っても、滋賀の堅田に行くわけではない。『京都うた紀行』というテキストに戻るのだ。そもそも『京都うた紀行』という本に、なぜ滋賀の話が載っているのだろうか? 話はまず、そこからである。

この本は、京都新聞出版センターから出ていることからもわかるように、もともと京都新聞に「京都歌枕」として連載されたものである。京都新聞になぜ滋賀の話が?というのは簡単な話で、京都新聞は京都と滋賀の両方をテリトリー(?)にしているからだ。会社としても本社(京都市)のほかに滋賀本社(大津市)がある。

これは京都に移り住むまで知らなかったことだが、京都と滋賀の結び付きは非常に強い。京滋地方といった言い方もあるくらいだ。東京に住んでいた頃は、京都と言えば、「奈良・京都」あるいは「京阪神」といった枠組みでしか考えていなかったが、実はこの「京滋」という枠組みもかなり強い。地理的にも歴史的にも近いものがある。また、滋賀に住んで京都に勤めている人や、その逆の人たちもたくさんいる。

つまり、滋賀で起きたことを調べたければ京都新聞を見ればいいのである。花電車の走った場所と走った日付は前回までの推理でだいたいわかっている。となれば、あとはその新聞にあたるだけではないか。

まあ、そんなに簡単なことではないだろうけど。(つづく)
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2011年02月03日

花電車(その4)

最後に、この花電車が何を祝うためのものだったかについて考えたい。

1964(昭和39)年と言えば、まず思い浮かぶのは東京オリンピックである。この年の10月10日(旧体育の日)から24日まで、アジアで初めてのオリンピックが東京で開催された。この東京オリンピックを記念して花電車が走ったということが、まずは考えられる。

しかし、オリンピックの会場は東京を中心とした地域であったので、東京都内で花電車が走るならともかく、滋賀県の江若鉄道で花電車が走るかどうかという点に疑問が残る。むしろ、もう一つの大きな出来事、東海道新幹線の開通の方ではないだろうか。東海道新幹線は東京オリンピックの開催にあわせて、10月1日に東京―新大阪間が開業している。

東海道新幹線であれば滋賀県内も通っているし、同じ鉄道関連ということもあって、江若鉄道で花電車が走る理由にはなるような気がする。何しろ日本の鉄道のあり方を大きく変えた新幹線である。新幹線の開業(10月1日)と花電車の運行(9月20日頃の予想)との間に若干のズレがあるのは気になるところだが。

・・・で、最終的によくわからないままなのである。

鉄道史資料保存会『江若鉄道車輛五十年』(1978)や大津歴史博物館編『ありし日の江若鉄道―大津・湖西をむすぶ鉄路』(2006)なども調べてみたのだが、花電車に関する記述は載っていない。江若鉄道に関する資料は、思ったよりも少ないのだ。

河野さんが花電車を見てからわずか5年後の1969年10月31日、江若鉄道は湖西線建設の決定を受けて廃止されてしまった。翌11月1日には花で飾られた「さよなら列車」が運行され、48年の歴史に幕を下ろしている。
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2011年01月31日

花電車(その3)

次に、この花電車がいつ走っていたものかを考えてみたい。

これについては、河野さんの文章の中に「十八歳の秋、ちょうど九月のなか頃」とある。つまり1964年の9月中旬ということだ。

さらに細かく見ていくことにしよう。

「はなやかに月が照り、湖はいちめんに銀色に輝きわたり」という描写がある。ここから、満月かそれに近い夜だったことがわかるだろう。当時の月の出の時刻や月齢を調べてみると、9月21日(月)が満月であったようだ。月の出は大津市で18:03となっている。この文章の舞台となっている堅田は琵琶湖の西岸にあるので、東から昇る満月をちょうど湖の正面に見あげる形になる。

もう一つの手掛かりは、泊りに行った先が中学校時代の先生の所だということだ。この先生は「存命ならば八十六歳になっておられるはずだ」と書かれているので、1964年当時は40歳くらい。まだ中学校の先生を続けていたと考えていいだろう。となると、平日に泊まりに行くよりも、週末に泊まりに行ったと考える方が自然だ。9月19日(土)か20日(日)という線が浮かんでくる。(つづく)

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2011年01月29日

花電車(その2)

まず、この花電車がどこを走っていたのかということを考えたい。

琵琶湖の西岸と言えば真っ先に思い浮かぶのはJR湖西線である。琵琶湖西岸を通り、京都の山科駅と滋賀県の近江塩津駅(琵琶湖の北)を結ぶ路線。関西と北陸を行き来する特急「サンダーバード」「雷鳥」は、米原経由で琵琶湖東岸を通るのではなく、この湖西線で琵琶湖西岸を通って行く。

しかし、どうも違う。湖西線というのはほとんどが高架とトンネルで出来ている路線であり、「琵琶湖のほとりを一輌の花電車が走っている」といった雰囲気ではないのである。それもそのはずで、湖西線は1974(昭和49)年開通という比較的新しい路線なのだ。

エッセイに書かれている場面は、河野さんの「十八歳の秋」とあるので、1964(昭和39)年の秋のこと。湖西線はまだ誕生していない。湖西線以前に琵琶湖の西岸を走っていたのは民営の江若(こうじゃく)鉄道である。地元の人々の出資で1921(大正6)年に開業した鉄道で、琵琶湖南岸の浜大津から北西岸の近江今津までの51キロを結んでいた。

江若鉄道は、その名前の通り、当初近江と若狭を結ぶ路線として計画されたが、結局若狭への延伸は実現することなく、近江今津止まりの非電化のローカル線であった。付近には琵琶湖の水泳場などが多く、夏のシーズンには賑わっていたようだ。

終点の近江今津の二つ前には「饗庭駅」があった。永田さんの生まれた土地である。
単線の江若鉄道いまは無く母無くかの日の父と子もなし
                     永田和宏『やぐるま』(1986年)

(つづく)
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2011年01月28日

花電車(その1)

文学作品に出てくる鉄道ということでは、私にも取り上げたいものがある。昨年出版された永田和宏・河野裕子著『京都うた紀行』だ。この中で、滋賀県の琵琶湖西岸の地「堅田」について、河野さんが印象的な文章を書いている。高校三年生の時に入院して休学をすることになった河野さんが、外泊を許されて、堅田に住む中学時代の先生の所に泊まりにいった場面である。
夜に縁側で、昼間、摘み溜めておいた彼岸花の茎を折って手遊びをしていると、カラカラと軽やかな音がする。目をあげると、琵琶湖のほとりを一輌の花電車が走っている。はなやかに月が照り、湖はいちめん銀色に輝きわたり、ちいさな花電車は明るく、この世のものではないように美しい。わたしは夢を見ているのだと思った。

エッセイの最後には次のような歌が載っている。
しろがねに月輝(て)る湖辺(うみべ)を北に向き彼(か)の花電車いづく行きにし

この花電車の正体(?)について、少し考えてみたいと思う。

花電車とは花や電球などで飾り付けをほどこした電車のことで、祝いごとやイベントなどの際に運行された。戦前は皇室関係の「御成婚」「御即位御大礼」などのほか、「天長節」「帝都復興式典祭」「東亜勧業博覧会」「明治神宮鎮座祭」「満州国皇帝陛下御来訪」「大英帝国皇太子殿下御来朝」「大阪城公園落成」など、実にさまざまな機会に花電車が走っている。

戦後もこうした習慣は長く続いたようで、祭やイベントなどの際に市内を走る路面電車で花電車の走る姿がよく見られた。各地で路面電車が廃止されたのちは、代わりに花バスなどが走ることもあったが、最近では花電車も花バスもほとんど見かけなくなったように思う。(つづく)

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2011年01月10日

卵かけごはん

河野さんの歌を読んでいると、卵かけごはんや卵を詠んだ歌がいくつも登場する。
たれもかれも故人のごとく思はるる卵かけごはん食ひつつをれば  『家』
玉子うどんの湯気をふうふうさせながら黄身が食べたいと子供が言へり 『季の栞』
卵かけごはんはと言はなければ卵かけごはんを食べざり君は  『庭』
ひつそりと卵はひとつ 夫より先に帰りし娘に食はす  『庭』
籾殻の中よりのぞける赤卵ふたつみつと嬉しく数ふ  『葦舟』

「卵かけごはん」と言うと、私などにとっては、手軽で安い食べ物というイメージしかないのだが、河野さんの歌をそのイメージで読んではいけないだろう。高度成長期以前の日本において卵は高級品だったのであり、河野さんにとっての卵もまたそういうものなのである。

それは、河野さんのエッセイ「卵かけごはん」(初出「桟橋」24号、1990年10月、『河野裕子歌集』所収)を読めば、よくわかる。
一個の卵をひとりで食べられる贅沢とは、八歳の子供にとって、この上ないことだった。家でなら、卵かけごはんの時は、卵一個を妹と半分ずつ分け、半分の卵にごはんを乗せられるだけ乗せて、おしょう油をかけると、それはもう、卵かけごはんか、しょう油かけごはんかわからなくなってしまう。それでもしょう油味のつよい卵かけごはんは、大変おいしかったのである。

「一個の卵をひとりで食べられる贅沢」という言葉に、河野さんの卵に対する思いが良く出ている。
また、卵は高級品であるとともに、栄養価の高いものというイメージがあった。病人へのお見舞いに卵を贈ることもあったのである。
卵かけごはんを二杯かつこめり滋養じやうと呪文をかけて  『歩く』

卵の持つこの栄養価に対して、河野さんはほとんど信仰にも似たものを持っていたように思う。先に引いたエッセイは乳癌を発症する前のものであるが、そこに既に次のように書いている。
 パチンとお茶碗に割った卵の、むっくりとした黄身の存在感と、ほとんど山吹色の濃い黄色は、食べ物という以上の、何か生きることそのものであるような力を持っていた。
 実際、病気をしたときや、病後に食べさせてもらえる卵には、他の食べ物以上のふしぎな力があるような気がしたものである。おとな達は、「滋養がある」ということばを、そういう時使った。

今、卵かけごはんがちょっとしたブームである。『365日 たまごかけごはんの本』が出たり、卵かけごはん専用醤油が売られていたりと、話題になっている。しかし、それはかつての「高級品」や「栄養価」といったイメージとは、まったく違う人気であろう。

短歌と時代との関わりとは、つまりそういうことなのである。何も難しいことを言っているのではない。短歌を読む時に、その歌が作られた時代背景を踏まえなければ、歌を全く違うイメージで読んでしまうことになりかねないのだ。

カルチャーセンターの教室で、このような話をしたところ、生徒さんたちから「それはそうよねえ」とむしろ当惑したように言われた。主に六十代以上の生徒さんにとって、卵が「高級品」で「栄養価」のあるものといったイメージは、むしろ当り前のものなのであった。

でも、私より若い世代には、そのイメージがだんだんとわからなくなっていくだろう。そうなった時に、河野さんの「卵かけごはん」の歌も、歌が作られた時代に立ち返って理解することが重要になっていくと思うのである。

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2010年10月23日

内向する世相?

10月22日の毎日新聞(東京本社版)朝刊の金言というコラムに「内向する世相、映す歌」という文章が載っている。専門編集委員の西川恵さんの書いたもの。

河野さんが亡くなって以降の「河野ブーム」について述べた後で、そのブームについて次のように分析している。
河野さんの歌は時代への関心や社会との関係性、といったものからは遠い。言い換えればこれは内向する今の世相に強く響くものがあったのではないか。河野さんの個人の思いとは別に、そのブームは内向きな世相の反映でもある

本当にそうだろうか?

河野さんの歌に人気があるのは、何も今に始まったことではないのに、なぜ「内向の世相の反映」などと言えるのだろう。それに、いわゆる時事詠や社会詠を詠むことだけが時代や社会への関心の証だと思っているのなら、それは大きな間違いではないか。

先に引用した部分に続いて筆者はこう書いている。
最近、心に残った言葉は、ノーベル化学賞を受賞した根岸英一・米パデュー大特別教授の「若者は海外に出よ」だ。そう、外国に出てもまれよう。己を知り、日本の良さも欠点も過不足なく、等身大で知るには、世界の中で日本を相対化することが大事だ。

筆者が「内向きの世相」という言葉をネガティブな意味で使っているのは、この部分からも明らかだろう。なぜそうしたネガティブな文脈の中で河野さんのことを取り上げる必要があったのだろうか。

こうした文章が、他でもない毎日新聞(河野さんは長年毎日歌壇の選をしてきた)に載ってしまうということに対して、私は憤りを通り越して強い悲しみを感じる。

posted by 松村正直 at 13:19| Comment(4) | 河野裕子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月26日

河野裕子を偲ぶ会

「河野裕子を偲ぶ会」を下記の日程で開催することになりました。多くの方にご参加いただき、河野裕子さんのことを偲んでいただければと思います。

日時 10月17日(日)13:00〜17:00

場所 グランドプリンスホテル京都 プリンスホール (京都市左京区宝ヶ池)
     地下鉄烏丸線「国際会館駅」下車徒歩すぐ

主催 「河野裕子を偲ぶ会」実行委員会、塔短歌会、永田家

連絡先 松村正直(実行委員会代表)
  〒612-0847 京都市伏見区深草大亀谷大山町20-3-202
  TEL/FAX 075-643-2109 メール masanao-m@m7.dion.ne.jp

  *事前の申込み等は必要ありません。どなたでも自由にご参加ください。
  *当日は平服でお越し下さい。入場は無料です。

posted by 松村正直 at 19:53| Comment(0) | 河野裕子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする