2019年02月09日

悲恋塚と山野井洋


先日、「短歌研究」昭和12年6月号を読んでいたら、山野井洋の「「悲恋塚」お光の歌」と題する7首を見つけた。

 P1070105.JPG


私は調べものが好きで、いくつか継続的に調べていることがある。

その一つが「悲恋塚」。
かつて樺太の真岡にあった石碑で、このブログでも取り上げたことがある。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387139069.html
http://matsutanka.seesaa.net/article/387139070.html
http://matsutanka.seesaa.net/article/387139071.html

そして歌人の「山野井洋」。
http://matsutanka.seesaa.net/article/444573067.html
http://matsutanka.seesaa.net/article/447662274.html
http://matsutanka.seesaa.net/article/447862617.html

「悲恋塚」×「山野井洋」。「短歌研究」掲載の7首はまさにドンピシャという感じで、なかなか興奮が収まらない。

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2017年03月13日

戦後の山野井洋

『樺太を訪れた歌人たち』を書いた時点では、戦後の山野井洋のことはほとんどわからなかったのだが、先日の東京での聞き取りを含めて随分とわかってきた。

山野井が「山野井博史」の名でも作品を発表していたという事実を手掛かりに、今回二つの資料を入手した。

一つは新日本歌人協会編『人民短歌選集』(伊藤書店、1948)。
赤木健介、大岡博、岡部文夫、小名木綱夫、窪田章一郎、館山一子、坪野哲久、土岐善麿、中野菊夫、矢代東村、山田あき、渡辺順三ら53名のアンソロジーである。

その中に、山野井博史「戦後」20首がある。

ねずみの巣の如き屋根裏をわが家と妻子とくらす『焼け出され』われは
雨風のただに吹きこむ屋根裏も我が家と思う住みつかんとす

という戦後の厳しい生活を詠んだ歌がある一方で、

私が盗んだのだからわるいのよといいながら死んでいつたと書いてある南瓜ひとつ
性欲も食欲も充たされぬままのその眼の色をさげすんで済むことではない

など、自由律のような作品も含まれている。

もう一つは、山野井博史作詞、山田耕筰作曲の「つばくろの歌」「焦土の秋」である。「つばくろの歌」は1945年9月の作品(初出は『音楽文化』3巻2号、1945年10・11月号)で、山田耕筰が戦後最初に手掛けたものであるらしい。「焦土の秋」も同じ時期のもの。
http://www.craftone.co.jp/yamada_k/KYS_006.html

葉桜の 南の風に
かえり来し つばくろよ
宮居(みやい)をめぐる いらかはいずこ
焼けにし跡に 緑はめぐむ
火の雨に 燃えしと知らず
さまよえる つばくろよ
やさしき人の 住居(すまい)はいずこ
焼けにし跡に 柳は揺るる

「つばくろの歌」の1番と3番を引いた。
5・7・5・5・7・7・7・7という音数になっている。
空襲で焼けてしまった東京の町にやって来た燕を詠んだ内容だ。

山野井洋と山田耕筰、二人の接点はどこにあったのだろうか。

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2017年03月06日

山野井洋のこと

『樺太を訪れた歌人たち』の中で、山野井洋という歌人のことを取り上げた。これまで詳しい経歴などがほとんど知られていなかった人物である。

その山野井洋のご子息とたまたま連絡を取ることができ、おととい東京でお会いしてお話をうかがってきた。何とも言えず嬉しい。

いくつもの新たな情報を得ることができたので、備忘のために書いておきたい。

○1908年生まれ、1991年逝去(82歳)。
○歌集『わが亜寒帯』の再版本には、初版にはない「批評抄」が付いている。
○昭和13年に樺太から東京に移って以降は東京暮らし。第2歌集で満州の開拓地を詠んでいるのは、旅行による滞在の結果である。
○戦後は保険の業界紙のコラムを書くなど、文筆業で生計を立てた。
○「山野井博史」の名でも作品を発表しており、山野井作詞・山田耕筰作曲の曲がいくつか残されている。

今回お聞きした話をもとに、今後もさらに調査研究を続けていきたい。

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2016年12月10日

山野井洋と幼児(その7)

「ポドゾル」の編集をしていた山野井洋は、幼い一人息子を病気で亡くしてしまう。先に引いた「四月集への挨拶」の続きに、山野井はこんな決意を記している。

 浄を死なしめてよりひとしほ、私は亜寒帯への使命感を覚えて居ります。ささやかな志の一端として、本誌の編輯にもいよいよ心を籠めてゆきたいと思ひます。
 浄と同じ年のこのポドゾルは私の力のつづく限り伸ばしてゆきたく、文化的にも意義のあるものにしたいと切に思つてをります。

「ポドゾル」が創刊された昭和12年は山野井の息子の浄が生まれた年でもあったのだ。その息子が亡くなり、「ポドゾル」は山野井にとって息子代わりの存在になったのだろう。

         *

その後の「ポドゾル」についてであるが、太平洋戦争開戦後の昭和17年6月に樺太歌壇を二分していた「樺太短歌」と合流し、「ポドゾル」の名前は消えることになる。その「樺太短歌」もまた、昭和20年6月号で終刊のやむなきに至った。

「ポドゾル」も「樺太短歌」も幻の雑誌と言ってよいほど、現物が残っていない。その一つの理由として、戦後樺太がソ連に占領され、日本人が引き揚げる際に雑誌等の持ち出しが禁じられたことが挙げられる。わずかに残っている雑誌は、終戦前に内地に転居した人が保存していたものということになる。

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2016年12月09日

山野井洋と幼児(その6)

山野井洋と九鬼左馬之助の深い関わりを示す資料を一つ。

山野井の歌集『わが亜寒帯』(昭和11年)を古本屋で入手したところ、見返しに献辞が書かれていた。

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「この歌集を生ましめたまへる
 九鬼左馬之助先生に捧ぐ
            著者」

なんと、山野井洋が九鬼左馬之助に贈った一冊であったのだ。

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2016年12月08日

山野井洋と幼児(その5)

山野井洋はまだ樺太に住んでいた頃、『樺太人物論』(昭和12年)所収の「九鬼左馬之助論」に、こんなことを書いている。

 樺太庁関係の役人の中で彼くらゐ覇気にみちた鼻ツぱりの強い男はなからう。彼の覇気とは単なる強がりでなくて、身うちにあり余る実力と情熱の噴出の謂である。
 彼の魅力は彼が未完成の人物だといふ感じをすぐ対者に与へながら、とてつもなく博学であり、人の眼の玉を射るごとくみつめながらズバズバ物をいふ、将来大成する器かも知れぬといふ感じは、彼と対座してゐて大ていの人は思はせられるらしい。

山野井が九鬼という人間を非常に高く評価している様子が伝わってくる文章だ。さらに、こんなエピソードも書いている。

昨年の話、或人が腎臓を悪くして、はるばる東大へ診て貰ひに出掛けたところ
「腎臓だつたら何も旅費をかけて東京くんだりまで来るには及ばん。樺太には日本一の腎臓の博士がゐる。」と教へられて樺太へ舞ひ戻り、彼の治療を受けたといふ実話がある。

山野井が息子を九鬼に診てもらえばと思った背景には、こういう話があったのである。

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2016年12月07日

山野井洋と幼児(その4)

「ポドゾル」昭和14年4月号には、山野井洋の「四月集への挨拶」という文章も載っている。その中で、山野井は盟友である九鬼左馬之助(雲心学人)について、こんなふうに書いている。

 浄が入院中電報でご病状を見舞つて下すつた時
 コワバレルアコノテアシヲサスリツツ、クキセンセイハ、ハルカナリケリ
と病状に添へて御返電申上ましたが、実はとつおひつ思ひ悩んで次の文言を控へたのでありました。
 ワレ一セウノネガヒナリ、ヒカウキニテオイデコフ
しかし、今は打てば良かつた、おいで願へずとも諦めがついたであらうと話し合つてゐます。かへりみれば手ちがひばかりして死ぬべからざる子を死なしめました。

九鬼は樺太庁立豊原病院長を務める医師であった。樺太から東京までは随分と遠い。九鬼も忙しい身である。それでもなお、病気の子を診てもらうように頼めば良かったという後悔である。

もちろん、九鬼が診たところでおそらくは助からなかった命であろう。でも、子を亡くした親としては、「あの時、ああすれば、こうすれば」と、どうしても考えてしまうのだ。それが悲しい。

 神の寄託といへば適切でせうか、浄は立派な稟質を有つた子でありました。私ごとに死なしめてはならぬ子であつたとの思ひが肉身別離の感情の中に消すことが出来ずにをります。
 九鬼博士診(み)てたまひなば死なぬ子ぞ確信をもちて思ふなり今も
は歌にはならぬと思ひますが、ありのままの心であります。

九鬼先生に診てもらっていたらと考えることは、山野井をさらに苦しめたかもしれない。けれども、同時にそれは山野井にとって一種の救いでもあったように思うのである。

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2016年12月06日

山野井洋と幼児(その3)

必死の看病の甲斐もなく、山野井の子は2歳に満たない命を終えてしまう。「ポドゾル」昭和14年4月号には「幻の幼児」と題する山野井の作品10首が掲載されている。

光さす北のみどり野(ぬ)肩はばのたくましき子をしかとい抱きぬ
手ごたへのたしかなりしも夢なれや高あげし吾子(あこ)わが手になしも
子が逝きて四十九日のあけがたに命ある子を抱きし夢を見ぬ
病みてより門歯にはかにのびて見ゆ吾子(あこ)のあはれは妻にはいはず
春来(く)とも草は萌ゆとも我が家(いへ)に病みやつれたる妻と二人(ふたり)ぞ
いやいやと臨終(いまは)のきはに泣きたりしあはれを思ひ真夜に泣くかも

一連は夢の場面から始まる。「光さす北のみどり野」には生命力が溢れている。けれども、そこに出てきた子はもう亡くなっているのだ。

残された妻と二人きりの日々。折しも季節は春を迎えようとしている。けれども、愛する子はもうこの世にいない。

死ぬ間際にまるでいやいやするかのように泣いた子。近代短歌には子を亡くす親の歌が数多くあるが、山野井の歌も哀切きわまりない。

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2016年12月05日

山野井洋と幼児(その2)

その後、山野井の妻と幼児も東京に移り、三人の暮らしが始まったようだ。けれども、幼児は病気にかかり入院する事態となる。

「ポドゾル」昭和14年1月号に、山野井洋は「生命の苦闘」という文章を書いている。全文を引こう。

 十二月八日以来四十度の熱を出してゐる幼児の痛み声を聞きつつ本号を編輯した。
 急性肺炎と中耳炎と脳症を併発して慈恵医大付属東京病院の一室に、生きてゐるのが不思議と医師のいふ小さな生命の苦闘を看つつ、ただに慟哭するばかりである。
 本号がお手許に届く頃、この幼児の運命がどうなつてゐるであらうか? 生長途上の我がポドゾルが、かやうな私事に足踏してはならないが、新年を期してのいろいろのプランも、何も出来るものではなかつた。
 眠つてゐないのと十分の後をはかれぬ我が子にひかれる思ひがもつれて、何を書いてゐるか分らない、昭和十三年十二月十九日午前一時の私である。

何と悲痛な文章であろうか。

「坊や、坊や」と呼び掛けていたのは、わずか半年前のことである。その二歳にもならない幼児が、今は四十度の熱が続いて命の危機を迎えている。そんな中で山野井は「ポドゾル」を編集し、この文章を書いたのだ。

今から78年前の冬の夜のことである。

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2016年12月04日

山野井洋と幼児(その1)

「ポドゾル」の創刊は昭和12年6月。その一年後の昭和13年6月に、山野井洋は雑誌「樺太」の東京支社長として東京に赴任する。

妻と前年に生まれた幼い息子を樺太に残しての上京であったようだ。「ポドゾル」昭和13年8月号に山野井は「郷愁通信」と題して、次のような文章を書いている。

 豊原駅で抱つこして別れて来たばかりであるのに、どうしてかうも思はれるのであらう。微風に光る海の上に、幼な児の笑顔が見えるのである。
 坊や、坊や!
 坊や、坊や、坊や!
海に向つて呼べば、海の光と涙の中に坊やが浮んで来る。
 人により、環境により、子を思ふ心の深浅はあらうが、親心のかなしさが、このやうにはげしいものであらうとは――。

  汝(なれ)の顔海に見ゆるぞ波まくら音(ね)にさへ泣きて汝(な)を思ふ父ぞ

子を思ひつつ甲板に立てば、能登呂半島の稜線が海霧(がす)にかすんでゐる。

「能登呂半島」は樺太の南西端に伸びる半島。樺太から北海道へ渡る連絡船の上で、別れたばかりの息子を思い出して涙している姿である。何度も繰り返される「坊や!」という呼びかけがせつない。

posted by 松村正直 at 00:06| Comment(0) | 山野井洋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする