2024年02月12日

パプアニューギニア

今日の朝日新聞の朝刊に「パプアニューギニア 要衝めぐる綱引き」という記事が載っている。
https://www.asahi.com/articles/DA3S15862108.html

南太平洋のパプアニューギニアをめぐり、米国とオーストラリア(豪州)が中国と綱引きを繰り広げている。中国が警察や安全保障面の支援をパプアニューギニアに提案したことが明らかになると、豪州も支援強化を表明。米高官が中国の提案を拒否するよう忠告までする事態になっている。

地図や写真も添えて、かなり大きく取り上げている。

ニューギニア島の東半分を占めるパプアニューギニアは、1975年にオーストラリアから独立した。第二次世界大戦中は「東部ニューギニア」と呼ばれていた地域である。1944年9月15日に米川稔が亡くなったのがこの地であった。

日本軍が戦っていた相手は「米濠軍」、アメリカとオーストラリアの連合軍である。つまり、80年が経った今も、日本が中国に変っただけで、この地は大国同士の争いの最前線であり続けているのだ。そう考えると暗澹とした思いになる。

近年、地政学という言葉が流行っているけれど、島の位置が変わらない以上、この地が南太平洋の要衝であることに変わりはない。現地の人々の意向とは無関係に、大国同士の争いが繰り返されるのである。

posted by 松村正直 at 11:04| Comment(0) | 米川稔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年02月07日

丸エキさんのインタビュー

米川稔と関わりの深い人物に丸エキさんという方がいる。以前、このブログでも少し触れたことがある。

「丸エキさんという人」
https://matsutanka.seesaa.net/article/490667545.html

この丸エキさんに関する新しい資料を入手した。


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「かまくら図書館だより」第60号(1996年2月)である。

「助産婦として、保母として歩んだ道 丸エキさん、まだ88才! 人生はいつだってこれから」と題して、全8ページにわたるインタビューが掲載されている。

米川稔に関する部分を少し引いてみよう。

――米川先生が出征なさったのは昭和18年ですか。
 ええ、18年の12月に赤紙がきてね。19年の1月4日に入隊だって言うの。暮れもおしせまって、28日に召集がきたんです。軍刀やピストルを用意するのに苦労しました。48歳で召集されたんですよ。私は、もちろん、宇都宮まで送っていきましたけどね。軍医さんだから、どこか陸軍病院のお留守番にさせられるんだろうと気楽に考えて帰ってきたんですよ。そうしたら、そうじゃない。そのまま九州にまわってね、どんどん戦地へ行っちゃったの。ニューギニアへね。そして怪我をして、若い従卒に水を探してくるよう命令した後、ジャングルの中で手榴弾で自決されたんですって。戦争が済んでから伺ったはなしですけどね。お子さんがいなかったから、何も思い残すことがなかったんでしょう。いい人でしたのよ。歌詠みでね。北原白秋先生のお弟子さんだった。でも、北原先生が亡くなって死に水をおとりして、そして自分も逝ってしまいました。
――米川先生のどんなところを尊敬していらしたんですか。
 難しい人だと言われて来たんですけどね。まあ、私はそんなに難しいと思わなかったし、それで、わりあいとかたい方だったのね。歌の勉強をするくらいだから。その頃、私もあまり丈夫でなかったりして、よく具合が悪くなると注射なんかもしてくれましたよ。

これ以外にも初めて知るエピソードがたくさん出てくる。どれも50年以上前の話であるが、細かな日付などもはっきりと覚えている。

この時、丸さんはまだ現役の助産師として働いていた。お産のカルテが助産所に約8500枚あり、それ以前に働いていたところの約1500枚をあわせると、約1万人のお産に立ち会ってきたとのこと。

何ともすごい人なのであった。

posted by 松村正直 at 22:54| Comment(0) | 米川稔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月22日

第三回多磨全日本大会と米川稔

1940(昭和15)年8月11日から13日まで、北原白秋の主宰する「多磨」の全国大会が鎌倉の円覚寺で開かれた。2泊3日の日程である。

大会の詳細については、「多磨」1940年9月号に報告が載っている。大会は第一回の信貴山(1936年)、第二回の高尾山(1937年)に続いて三年ぶりの開催で、参加者は100名を超える盛況だった。

1日目:自己紹介、多磨賞授与式、歌会、支部の状況報告
2日目:実作指導、記念撮影、講演(見沼冬男、穂積忠)
3日目:講演(北原白秋)、鎌倉見学、懇親会(日比谷松本楼)

開催地が鎌倉ということで、現地に住む米川稔は世話役を担った。3日目の昼食は鶴岡八幡宮の池の畔にある茶店に入った。

此処で供されたあじの寿司はまた、格別のものだつた。地元の世話役の米川稔氏は鎌倉中の寿司屋を試食して歩いた後漸く此の店に決めたさうだが、今更乍ら、同市の熱心で労を惜しまないことに対して感謝の念が湧いた。(鈴木杏村)

「鎌倉中の寿司屋を試食して歩いた」というのだから、何とも念入りな準備である。また、大会終了後の後始末についても、白秋が次のように絶賛している。

尚地元をはじめ在京の人々の行きとゞいた接待と斡旋とに対してその労をねぎらいたい。その中にも況して讃へておかねばならぬことは、医学博士米川稔ともあらう人が一同の退出を見送つてから、二三の女性と共に不浄場の清掃を虔ましく済ませて一足おくれて日比谷に駈けつけられたことである。而も氏はこの幽かしい陰徳については一言も語らなかつた。これこそ多磨の精神とするところのものである。

こうして大会は賑やかに幕を閉じた。

その一方で、「皇軍将士への黙禱」が行われるなど、徐々に戦時色も強まっていた。多磨賞の受賞者の一人であった宮柊二も、この時既に戦地に赴いていた。

翌1941(昭和16)年、三崎町の本瑞寺で予定されていた第四回多磨全日本大会は中止となる。第四回大会が開催されるのは、戦中・戦後の混乱期を経た1949(昭和24)年のことであった。

その間、1942(昭和17)年に白秋は病没し、1944(昭和19)年には米川稔が軍医として出征したニューギニアで亡くなった。そうした歴史を振り返ると、「第三回多磨全日本大会」は戦前の最後の輝きだったという印象を受ける。

posted by 松村正直 at 10:29| Comment(6) | 米川稔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年06月29日

堀之内、小出、只見(その1)

京都から長岡まで夜行バスに乗り、朝早く「越後堀之内」駅に到着。


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まずは、9:00に永林寺へ。

「日本のミケランジェロ」(!)とも言われる彫工・石川雲蝶が13年かけて制作した本堂の彫物108点を見ることができる。今回は魚沼市観光協会を通じて石川雲蝶ガイドの方に来ていただいた。説明を聞きながら見ると、雲蝶の技量の巧みさや遊び心が一段とよくわかる。


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続いて、10:30に念願の「宮柊二記念館」へ。


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昨年からずっと来たい来たいと思っていて、ようやく実現した。


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下村正夫館長の立ち合いのもと、2時間ほどかけて米川稔関連の資料21点をすべて見せていただく。


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「昭和11年前後の作歌ノート」

歌集『鋪道夕映』より前の時期のもの。
ニ・二六事件のことなどが詳しく記されている。


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「作品ノート 歌稿」

『鋪道夕映』のもとになった歌稿で、全部で4冊ある。吉野秀雄と宮柊二が選歌していて、採った歌の上にそれぞれ印を捺している。


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「陣中詠定稿」

昭和18年末に米川稔がニューギニアの戦地から送ったもの。
80年経った今も残っているのが奇跡のような一冊である。


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記念館の前に立つ歌碑。

「冬の夜の吹雪の音をおそれたるわれを小床に抱きしめし母」


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「亡き父のありし昔の聲のごと魚野川鳴るその音恋ひし」

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2022年12月23日

「コスモス」2023年1月号

奥村晃作さんが、8月に行ったオンラインイベント「軍医の見た戦争 ― 歌人米川稔の生涯」のことを歌に詠んで下さっている。

正に〈死地に赴(おもむ)きし〉老軍医なる四十五歳の米川稔
「自決ではなく病死かも」新説を交えて松村正直語る
              奥村晃作

ありがとうございます。
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2022年09月05日

大佛次郎と吉野秀雄の口論

以前、米川稔が死んだかどうかをめぐって、大佛次郎と吉野秀雄が口論した話を書いた。
https://matsutanka.seesaa.net/article/490112646.html

大佛次郎が昭和20年8月21日の朝日新聞に書いた「英霊に詫びる」の中で、米川稔を死者の一人に挙げたことに対して、吉野秀雄が反発したのである。

この出来事が大佛の日記だけでなく、吉野の日記にも記されていることがわかった。

「短歌研究」2003年6月号〜8月号に、吉野秀雄「艸心洞日記」の昭和20年5月24日から8月31日分(全集未収録)が載っているのだが、その8月25日に次のようにある。

○夜、大佛氏、村田氏宅より電話、病気の故をもちて断る。本人酔ひて来り、蚊帳の外に頑張りてどうしても来いとてきかず。即ち同行して痛飲す。座に相馬、木原、夏目等あり。相馬、例のうるさき酔ひ方に閉口す。大佛氏の「英霊に詫びる」といふ文中、米川を戦死者として書きのめしたる件、不謹慎なりとて突つ込み、「外へ出ろ」といふところまで至る。余のいひ方も悪かりしか。大佛氏の「絶交」云々も見当違ひならん。深夜帰宅す。

双方酒に酔っていたせいもあるだろうが、殴り合い一歩手前のかなり激しい口論になったようだ。

それだけ吉野の米川に対する思いは深く、万一の生還に望みをつないでいたということかもしれない。

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2022年08月23日

長崎医学専門学校

米川稔(1897-1944)・宮柊二(1912-1986)・野村清(1907-1997)の3人は、北原白秋に「多磨」の三人組と呼ばれていた。その一人である野村が書いた「米川稔と柊二」という文章がある。

角川「短歌」1987年12月号の特集「宮柊二の世界」の中の一篇だ。前年に宮が亡くなり、野村は三人組の唯一の生き残りとなっていた。

この文章に、「多磨」入会以前の米川のことが書かれている。

宮と私は「多磨」が出る少し前から白秋の所へ行っていたが、米川は「多磨」の創刊によって初めて登場したのであった。(…)巽聖歌の話によると「多磨」への入会申込書には歌歴らしいものは全くなく、長崎で斎藤茂吉の講義を聞いたことがあると書いてあったという。(…)このように米川稔は「多磨」創刊とともに忽然と出現したのであった。

ここで「長崎で斎藤茂吉の講義を聞いた」とあるのは、短歌の話ではない。医学の講義である。

米川は1915(大正4)年から1919(大正8年)にかけて、長崎医学専門学校に通っていた。(この学校は、1923(大正12)年に長崎医科大学となり、戦後、長崎大学医学部となっている。)

そして、斎藤茂吉は1917(大正6)年から1921(大正10)年まで、この学校の精神科教授として赴任していた。つまり、米川は長崎医学専門学校で茂吉の授業を聞いていたというわけだ。

何とも不思議な縁だと思う。

posted by 松村正直 at 21:54| Comment(0) | 米川稔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年08月22日

米川稔の「陣中詠定稿」

米川稔が出征前に残した作品ノート4冊と戦地から送った「陣中詠定稿」が、宮柊二記念館(新潟県魚沼市)に収蔵されていることがわかった。これは嬉しい。

他にも、米川の葉書・手紙11通や写真9枚、自作の茶碗、横顔スケッチの陶板など、数多くの貴重な資料が残っている。これは、ぜひ一度行ってみなくては!

越後堀之内駅までは、京都から新幹線を乗り継いでも約5時間かかる。しかも、せっかく行くなら「日本のミケランジェロ」石川雲蝶の彫刻も見たいし、10月に全線復旧予定の只見線にも乗ってみたい。

あれこれ考えていると、たちまち旅の予定が膨らんでいく・・・

posted by 松村正直 at 22:04| Comment(4) | 米川稔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年08月13日

丸エキさんという人


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寿福寺に立つ米川稔の歌碑の裏面である。

  南海の果にて自決された
  軍医中尉米川稔先生を
  偲びて
   昭和四十六年六月
        丸エキ建

と刻まれている。

丸エキさんの名前は遺歌集『鋪道夕映』の米川稔の略歴の中にも出てくるし、宮柊二の後記にも

丸エキ氏(略歴の資料と参考事項をお聞かせ下され、なお別冊に収載し得た鎌倉在住の稔の知人の方々の原稿を頂戴して下された)

と記されている。
また、吉野秀雄の文章(『米川稔短歌百首』あとがき)の中に

「米川稔略歴」の事項内容は丸一恵の奔走によつて集め、更に柊二が援け、秀雄が綜合し作成した。

とあるが、この「丸一恵」も「丸エキ」のことである。丸エキさんは既に20年ほど前に亡くなっているが、このたび娘さんと連絡が取れて、改名によって名前が変ったのだと教えていただいた。

丸エキさんは、もともと鎌倉の米川稔の自宅に併設されていた助産所で働いていた方で、戦後はそこに住んで仕事を続けられた。助産師として雑誌に文章を書いたりもしている。

例えば、「保健と助産」1951年3月号には「開業十年の分娩取扱統計」という3ページにわたる報告が載っている。

 私は慶応の養成所を卒業して現在の地(注:鎌倉市大町一〇五〇)に開業して十五年になる一助産婦です。昭和二十一年に開業十周年を迎えましたので、その十年の自分の仕事を反省するため、各種の統計として整理しましたので、御目にかけたいと思います。
 十年間の歩みは実は微々たるものです。皆さまの一年に取り扱われる数にも足りないこととは存じますが、私としては、この十年間が一生の仕事の基盤となつたものと信じます。自分では真剣に努力したと確信するこの期間の成果を、こうして数字にして見ますと、今更ながら最も尊い体験を与えられたことをしみじみ感じます。

昭和11年から21年と言えば、そのほとんどが戦時中である。けれども、そんな暗い時代を彼女は仕事に励みつつ、逞しく生き抜いてきたのであった。

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2022年08月12日

宮柊二について詠んだ米川稔の歌

  越後堀之内―柊二が故郷なり
家竝の低く寒けき町にして五月の昼を人かげもなし
町裏は春ゆたかなる川水に橋一条(すぢ)が白くかかりぬ
雪解水(ゆきしろ)のゆたかにはれる山川のそこごもるひびき偲(しぬ)びをらむか
/米川稔『鋪道夕映』

昭和15年の歌。
米川稔は新潟旅行の途中に宮柊二の故郷の町を訪れている。

  柊二より来翰
崇高なるものに向ひて出でたつと生きざらむ心短くしるす
ひさびさのたよりに必死を告げてをり滾滾とわれの悔はふかしも
  その後
山西の殲滅戦を想ふとき一人の命肝にひびかふ

昭和16年の歌。
死の覚悟を記した葉書が届いて、戦地の柊二のことを案じている。

  柊二留守宅
夕闇の玄関にひそともの言ひてしばし見ぬ間(ま)にをとめさびにけり
母刀自はさみしくまさむ相まみえのたまふことのあとさきもなし

昭和16年の歌。
出征中の宮柊二の家を訪れて、家族の話し相手になったりしている。1首目の「をとめさび」は柊二の妹だろうか?

この昭和16年の時点で米川稔44歳、宮柊二29歳。『鋪道夕映』の後書に柊二は「召集される筈もなかろうと思われていた年齢の稔が召集されて戦死するに到り、稔より先に戦地へ赴いていた若い私が命ながらえて帰り、いま、稔のこの遺歌集の後記を書いている。これもまた運命と呼ぶべきか」と記している。何とも痛切だ。

宮柊二も米川稔も、まさか米川が死に柊二が生き残ることになるとは、思ってもいなかっただろう。そうした事情も、柊二がさまざまな困難を乗り越えて遺歌集『鋪道夕映』の刊行にこぎつけた理由の一つだったのだと思う。

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2022年08月09日

米川稔、宮柊二、北原白秋

米川稔の『鋪道夕映』の刊行は1971年のこと。この時期の歌を収めた宮柊二『獨石馬』には、米川に関する歌が30首近くある。

戦地より還りし我を知るもなくかの密林に死にゆきしなり
肖像のこの若さはも別れたる日より三十二年過ぎたり
秋の日は洩れきて砂に動きをりもう一度だけ会ひたきものを
/宮柊二『獨石馬』

米川稔は宮柊二より15歳年上である。しかし短歌を始めたのは遅く「多磨」では同期といった間柄であった。1939年に宮柊二は召集されて中国大陸に行く。この時が二人の終の別れとなった。

柊二27歳、米川42歳。1943年に柊二が召集解除となり帰国した時には、既に米川はニューギニアに渡っていたのである。

太平洋戦争中の1942年11月2日に、二人の師であった北原白秋が亡くなる。米川稔は前日の夕方から白秋宅を見舞いに訪れていて、家族や親族とともに白秋の最期を看取った。米川の報告記「十一月二日の朝とその前夜」(「多磨」昭和17年12月号)には、白秋の亡くなるまでの様子が生々しく描かれている。

「米川さんの眉が険しくなつて来た。」
 低いお声であつた。先生の右手首に脈搏を一心に診つづけてゐた自分の顔に、先生が何時の間にか視線を投げてゐられる。切ない笑を自分は笑はねばならなかつた。
 発作は名状し難い苦痛といふ外に形容のしやうはない。胸内苦悶も、悪心も、祛痰の困難も看てゐて区別が出来ない。恐らくこの苦痛自体が区別出来る性質のものではないのであらう。

脈を診る米川の深刻な表情を見て、苦しみの中で場を和ませるような冗談を口にする白秋の姿である。

しづかなる時うつりつつみおもてに石膏の厚(あつ)み乾きゆくらし
デスマスクとり終へにけりぬぐひつつそのかほばせのつやめくものを
/米川稔『鋪道夕映』

白秋の亡くなった後にデスマスクをとっている場面である。現在、複製品が白秋の生家に展示されているようだ。
https://www.travel.co.jp/guide/article/38245/

この時、宮柊二は戦地の中国山西省にいた。まず11月4日に軍用電話で、6日には知人より至急報が届き、白秋の死を伝えられる。

こゑあげて哭けば汾河の河音の全(また)く絶えたる霜夜風音(しもよかざおと)
凌(しの)ぎつつ強く居るとも悲しみに耐へかぬる夜は塹(ざん)馳けめぐる
跟(つ)き来(こ)よと後見(あとみ)告(の)らししみ言葉は今日にあれども直(ただ)に逢(あ)はぬかも
/宮柊二『山西省』

師を失った悲しみと師のもとに駆け付けることのできない苦しさが、全身の叫びとなって詠まれている。

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2022年08月05日

米川稔をたずねて(その2)


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墓地のところどころに昔ながらの手押しポンプの井戸がある。
手桶に水を汲んで、米川稔の墓と歌碑を探す。


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米川稔の墓と歌碑。

事前に鎌倉文学館に問い合わせて大体の場所を聞いていたにもかかわらず見つけるのに苦労した。墓は背後の崖の窪んだ側面に埋め込まれるように建てられていた。


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「米川家塋」と刻まれている。
「塋域(えいいき)」の「塋」なので、墓、墓地という意味だろう。

この墓は生前に米川自身が建てたものだ。歌集『鋪道夕映』には「営墓」と題する一連がある。

うつしかるもののかなしきこころどにわれは祖先(みおや)の墓づくりせり
みぎりには右大臣家の在(おは)しけりひだりはそこな無縁仏たち
土に委して無縁の塔の堆し山はみどりの冥(くら)からむとす
必定は埋(うづ)もれ果てむ墓ならめ卯の花垂れて咲きにけらずや

ここには米川が出征に際して残した遺髪が納められているが、遺骨はない。遺骨は今も海の彼方、約5000キロも離れたニューギニア島のどこかに眠っているのだろう。


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米川稔の歌碑。

米川のもとで働いていた助産師の丸エキさんによって、1971年に建てられたもの。高さ1メートルもない小さな歌碑である。『鋪道夕映』の最後の一首が刻まれている。

ぬばたまの夜音(よと)の遠音(とほと)に鳴る潮の大海の響動(とよみ)きはまらめやも

お墓参りを終えて、次は米川稔の自宅のあった場所を探す。


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教恩寺。

米川の自宅・病院(助産所)は、この寺の前にあった。自宅では月に1回、吉野秀雄らとともに「鎌倉短歌会」が催されていた。

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2022年08月04日

米川稔をたずねて(その1)

日帰りで横浜と鎌倉へ行く。
鎌倉は大学生の時以来、実に30年ぶり。


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まずは「港の見える丘公園」へ。
天気が良くて眺めが素晴らしい!


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神奈川近代文学館。

米川稔の吉野秀雄宛の書簡約50点などの特別資料を閲覧する。まさに宝の山という感じの貴重な資料ばかり。戦地のニューギニアから届いた葉書には、細かな字でびっしりと歌などが記されていた。

その後、鎌倉の寿福寺へ。


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寺の入口に立つ案内板。

多くの文学者の墓や碑とともに、米川稔の墓と歌碑があることも明記されている。寿福寺は鎌倉五山の第三位という歴史を持つ大きな寺だが、境内は一般公開されていない。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映にあわせて鎌倉の町は盛り上がっているけれど、この寺はまったく観光化されておらず、ひっそりと静まり返っている。


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寺の裏手の墓地へまわると、背後の崖に「やぐら」と呼ばれる横穴が数多くあり、北条政子と源実朝の墓と伝わる供養塔もある。

ここも案内板は朽ちていて、観光客向けの要素はまったく見当たらない。昼なお暗い墓域にひぐらしの声が響いているばかり。

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2022年07月27日

米川稔と吉野秀雄、宮柊二、大佛次郎

米川稔の遺歌集『鋪道夕映』は様々な紆余曲折を経て、没後27年となる1971年に刊行された。米川の歌が今に伝えられている背景には、二人の人物の尽力があった。

一人は米川と同じ鎌倉に住み鎌倉短歌会を開催していた吉野秀雄であり、もう一人は北原白秋の結社「多磨」で一緒だった宮柊二である。

  九月二十九日南方戦線なる米川稔より一書至る
君が便り夫人の前に読む折のこらへし涙夜半に落ちたり
諸共に命なりけりウエワクの暗き蝋の灯に書きしこのふみ
たたかひの激しきにゐてわがために下痢の処方を記し給ひぬ
/吉野秀雄「博物」1943年11月号
  米川稔既に亡し。ニユーギニヤ島ブーツ地点密林内に於て昭和十九年九月十五日自決せる由。昭和二十一年一月廿四日速達ありて急遽鎌倉に遺宅を訪ふ。
たたかひがかもす悲劇に膚接して還らずなりし老軍医君
髭少し蓄へし顔うつしゑに残ししからにさらに悲しも
/宮柊二『小紺珠』(1948年)

大佛次郎『終戦日記』(文春文庫)に、こんな記述がある。終戦後の昭和20年8月25日のもの。

夕方村田宅へ呼ばれて行く。木原夏目相馬と加わり三升も飲みし由。吉野君と口論す。過日の文章で米川稔をもう死んだように書いたのが軽率だという非難である。

口論相手の「吉野君」は吉野秀雄のことである。「過日の文章」とあるのは昭和20年8月21日の朝日新聞に掲載された「英霊に詫びる」。

その中で大佛は「私の身のまわりからも征いて護国の神となった数人の人たち」の中に「和歌に熱心な町のお医者さん」を挙げていた。これが米川稔を指している。しかし、この時点で米川はまだ生死不明の状況であった。

米川稔が昭和19年9月に死んだことが明らかになるのは、昭和21年1月17日に所属部隊の生存者が日本に帰還してからのこと。戦死公報もこの日付となっている。

大佛も吉野もいわゆる「鎌倉文士」で、鎌倉に住む米川と交流があった。大佛は米川の遺歌集『鋪道夕映』の別冊に「追想」という一文を寄せている。

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8月12日(金)19:30〜21:00に、野兎舎主催のオンラインイベント「軍医の見た戦争 ― 歌人米川稔の生涯」を開催します。

https://yatosha.stores.jp/items/62d7d504dbe7441ad67fb62b

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2022年07月22日

「軍医の見た戦争 ― 歌人米川稔の生涯」

8月12日(金)19:30〜21:00に、野兎舎主催のオンラインイベント「軍医の見た戦争 ― 歌人米川稔の生涯」を開催します。

https://yatosha.stores.jp/items/62d7d504dbe7441ad67fb62b

米川稔(1897-1944)は北原白秋の結社「多磨」に所属する歌人で、本業は産婦人科医。1942年に45歳で召集され、軍医としてニューギニア島の東部に渡りました。ここはマラリアや飢餓のために多くの兵が苦しみ、生存者はわずか7%であったと言われる地域です。

瀬戸物などの毀(こは)れしごとく死にてゆくこの死(しに)ざまを何とか言はむ
密林の長き夜ごろをさめやすく鼠額(ぬか)を超え蜥蜴は脛(すね)を這ふ
爆弾破片に傷(やぶ)れし病床日誌を展(の)べ戦死を誌すその二日のちに

米川はこうした生々しい作品を現地で詠み、短歌誌に次々と発表しました。そして1944年に「病衰のために行軍不能に陥り」自決したと伝えられています。

彼の残した短歌を読みながら、一個人が戦争をどのように見たのか、また戦争が個人の人生をどのように変えてしまうのかについて考えたいと思います。皆さん、ぜひご視聴ください。

posted by 松村正直 at 03:44| Comment(2) | 米川稔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする