2023年07月24日

旧陸軍第16師団司令部庁舎

京都伏見はかつて陸軍第16師団が置かれた軍都であった。今でも師団街道や第一軍道、軍人湯といった名前にその痕跡をとどめている。

その第16師団司令部庁舎が現在も「学校法人 聖母女学院」の本館として活用されている。私の家から歩いて20分ほど。


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煉瓦造銅板葺2階建。1908(明治41)年竣工。

正面にマリヤ像が立っている。予約をすれば内部を見学することもでき、担当の方が丁寧に説明をしてくださる。
https://seibo.ed.jp/tour-2


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入口付近。


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入口。


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入口を入ってすぐの中央階段。
当時のままの階段が残っている。


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2階の理事長室。

ここが旧師団長室。残念ながらこの部屋は見学できなかった。廊下から覗くと美しい天井飾りが見える。


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白大理石のマントルピース。
部屋ごとに暖炉があるが、装飾はそれぞれ違う。


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こちらは黒大理石のマントルピース。


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窓もオシャレだ。かつては伏見深草の町を一望できたとのこと。


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建物の全景。

戦前・戦中の軍隊の建物が、戦後は学校の建物になった。担当の方が説明してくださった通り、戦争から平和へと正反対の目的に使われていると言っていい。

一方で、軍隊と学校はどちらも近代国民国家の産物であった点も忘れてはならないだろう。集団を統率するという意味では共通する面もあるのだ。

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2023年04月03日

深草散歩

暖かな春の一日。
京都市伏見区深草周辺(家の近所)を散歩する。


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深草飲食(いじき)町で見つけた国旗掲揚柱(掲揚台)。
「紀元二千六百一年」とあるので1941(昭和16)年のもの。

このあたり旧陸軍の第十六師団のあった地域で、戦争遺跡が数多く残っている。国旗掲揚柱は近くの深草小学校の前にもあるし、藤森神社の境内にもある。
https://matsutanka.seesaa.net/article/478145112.html


続いて、墨染寺(ぼくせんじ)で行われている「さくらまつり」へ。

深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け
     /上野岑雄(古今和歌集832)

と詠まれた墨染桜の伝説の残る寺で、境内にはいろいろな桜が咲いている。


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これは、薄緑の花が咲く「御衣黄」(ぎょいこう)。


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青空やソメイヨシノの薄紅を背景に、御衣黄の薄緑が鮮やかだった。

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2021年08月22日

境界標石探訪

京都の伏見にはかつて陸軍の第十六師団が置かれ、軍都として賑わった歴史がある。今でも師団司令部庁舎(現・聖母女学院本館)の建物や「師団街道」「第一軍道」「軍人湯」といった名前があちこちに残っている。

わが家の近くにも軍用地を示す標石が残っていることを最近ネットの情報で知り、探しに行ってみた。


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家から徒歩2分。

墨染街道に面した個人宅の石垣に埋もれるようにして、大亀谷陸軍練兵場の境界標石が残っている(写真中央の白っぽいところ)。日常的によく通る場所なのだが、これまで全く気が付いていなかった。


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文字はだいぶ薄れているが「陸軍省」と読める。その下は石垣に埋まっていて、おそらく「陸軍省所轄地」と刻まれていたものだろう。


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家から徒歩10分。

古御香宮の参道わきの藪の中に、伏見陸軍射撃場の境界標石がある。こちらは「陸軍省所轄」まで、はっきりと読むことができる。

敗戦から76年。軍用地の跡には龍谷大学や京都教育大学ができ、伏見は今では大学の町になっている。それでも、こうした身近なモノから昔の歴史を知ることができるのであった。

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2021年06月14日

お台場の歌

あるテーマに関する歌を探して、このところ筑摩の『現代短歌全集』を読んで(眺めて)いる。そうすると、探しているテーマとは別の歌があれこれ目に入ってくる。

例えば、こんな歌。

風ふけば海路をわたす夕潮の揺れわたるなかに台場島見ゆ
お台場の石垣に寄る浪の穂のくづれてはしろし夕霧の間に
潮騒のこゝの入江にうかぶ島台場に夏の草生ひにけり
              /橋田東声『地懐』

大正6年の「品川の台場」10首より。
現在のお台場エリアも104年前はこんな感じだったのだ。

さらに、こんな歌も見つかる。

梅雨はれし海の上のかぜは砲台のあたりのこはき芝にふきつく
空溝(からみぞ)に草はびこりし台場の原ぐみの木群(こむら)と合歓と松とよき
品川に近き台場の幾つあり木群やうやく夕昃(ゆふかげ)りたり
              /鹿児島寿蔵『潮汐』

昭和9年の「品川沖」8首より。

昭和3年に第三台場が現在も続く台場公園として整備され、公開されている。作者は船に乗って公園に上陸したようだ。

ちなみに、現在の状況はと言えば

第1台場 1963年に埋立地の一部に
第2台場 1961年に撤去
第3台場 現存(台場公園)
第4台場 1939年に埋立地の一部に
第5台場 1962年に埋立地の一部に
第6台場 現存
第7台場 1965年に撤去

となっていて、7つあった台場のうち2つが残っている。

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2021年06月10日

風来堂編『ダークツーリズム入門』


副題は「日本と世界の「負の遺産」を巡礼する旅」。

「Part1日本篇」16か所、「Part2欧米篇」8か所、「Part3アジア・アフリカ篇」6か所の計30か所の訪問記と、井出明、角田光代、下川裕治のインタビューが載っている。

「実際に現地を訪れること」にはやはり大きな意味があると思います。人間というのは不思議なもので、現地を歩いて巡っていると思いもよらないものが目に入ったりするし、いろいろ考えたり、覚醒が起きたりする。

私が訪れたことがあるのは、豊後森機関庫(大分県)、陸軍丹賀砲台園地(大分県)、原爆ドーム・平和記念公園(広島県)、大久野島(広島県)、旧海軍司令部壕(沖縄県)の5か所。

まだまだ知らない場所、行ってみたい場所がたくさんある。

2017年9月29日、イースト・プレス、1500円。

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2021年05月09日

古川浩司・ルルケド薫編著『知っておきたいパラオ』


ブックレット・ボーダーズ7。
副題は「ボーダーランズの記憶を求めて」。

このところパラオに対する関心がぐいぐいと高まっている。かつて南洋群島として日本の委任統治下にあった歴史や、中島敦の足跡、ペリリュー島の戦跡、そして現在のパラオの置かれている状況など、興味は尽きない。

旅行業界はマスツーリズムで成り立っている。(…)隣のグアムが安近短のマスツーリズムであるのに対し、パラオは、以前からダイビングスポットのメッカであり、ある意味では、エコツアーを実践してきたデスティネーション(目的地)でもある。
仕事の後、飲みに行くことをパラオでは、ツカレナオス(疲れ治す)と言います。そこから派生して、ビール自体のことを、そう呼ぶこともあります。
時代が変わり簡素化してくる伝統儀式が多いなか、パラオの葬送は、ご遺体の冷凍という新時代の技術を取り入れて、伝統より長く大きくなっているのは興味深い。その理由は、香典が葬儀費用の大部分を担うため、給料日を待ったり、海外からの参列者を待っているからである。
日本統治の名残りが顕著なのは、一部の州憲法だろう。パラオ語で、憲法はKempoと言う。アンガウル州憲法は第一二条(A)で公用語の一つに日本語を定めている。

海外旅行に行けるようになったら、ぜひ一度訪れてみたいと思う。
2018年に運航休止になってしまった日本からの直行便が復活してくれると良いのだけど。

2020年8月10日、国境地域研究センター、900円。

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2020年10月28日

森岡皐中将

藤森神社の国旗掲揚柱についてネットで調べていて、近くの京都医療センターにも戦争関連の記念碑があることを知った。神社から歩いて約10分の距離。

私の住む京都府伏見区深草地域は、かつて陸軍の第16師団が置かれていたところなので、戦争に関わるものがたくさん残っている。

京都医療センターは旧国立京都病院。その前は京都陸軍病院だったところである。正門から入って一番奥まったところ、敷地の南東の隅に記念碑は立っていた。


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「京都陸軍病院跡」の碑。
これは昭和59年に建てられた比較的新しいもの。


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行啓記念碑。
昭和16(1941)年5月18日に皇后が京都陸軍病院を慰問されたことを記念したもので、こちらは古い。


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近寄ってみると左側に「京都師団長森岡皐謹書」とある。
当時、第16師団長を務めていた森岡皐(すすむ)中将の揮毫だ。


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森岡皐。
歌人森岡貞香の父である。

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2020年10月27日

国旗掲揚柱

藤森神社の古い石碑に刻まれた「大東亜戦争◎◎」の「◎◎」は「記念」であり、この石碑は国旗掲揚柱であることを教えていただいた。


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再度、神社に行ってアップで写真を撮ってきた。今日は晴れていたので前回よりはっきり見える。確かに「記念」で間違いない。


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石碑の全体はこんな感じ。
碑の後ろ側に高さ数メートルの木の柱が留められている。これに国旗が掲げられていたのだろうか。


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裏側から見るとこうなっている。
石碑と柱はボルトで上下二か所を留める構造になっている。


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碑の左側面。
何か町名らしきものが刻まれているようだが判読不能。


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碑の右側面。
こちらもかなり薄れているが、「昭和十六年十二月」だと思う。


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2020年10月25日

藤森神社の石碑

近所にある藤森神社を散策。


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手水舎の裏側の目立たないところに立っている忠魂碑。
観光客も来る境内にあってエアポケットのようになっている。


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近づいてみると、けっこうな大きさだ。
揮毫は大阪の第4師団の師団長を務めていた塚本勝嘉中将。


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裏面を見ると、建立されたのは1906年6月とわかる。
日露戦争が終った翌年である。


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境内北側の通用門近くにある「京都歩兵聯隊跡」の碑。
第9聯隊(京都)と第38聯隊(伏見)の業績を伝える内容で、1968年の建立。


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歩兵聯隊跡碑の近くに、古い小さな石碑を見つけた。
「大東亜戦争」までは読めるが、その後の2文字(?)が薄れて読めない。何て書いてあるのだろう?



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2020年08月24日

掩体壕

敵の攻撃から戦闘機などを守る「掩体壕」は、戦争遺跡としてはよく見かけるもので、全国各地に残されている。


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この写真は宮崎空港の近くにあるもの。

掩体壕は過去の遺物だとばかり思っていたのだが、実はそうではないらしい。今日のニュースにこんな記事があった。
https://news.yahoo.co.jp/article

「過去、掩体の存在が戦争の趨勢に大きな影響を与えることさえあったにも関わらず、航空自衛隊はその発足以来、慢性的に掩体が不足している致命的な問題を抱えています」とのこと。

令和の時代になっても、いまだに掩体壕が必要とされていることに驚く。掩体壕は今後も各地に設置されていくのだろうか。


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2020年03月13日

武漢作戦

日中戦争は1937(昭和12)年7月に始まり、12月には中国の首都南京が陥落する。蒋介石率いる国民政府は、長江を遡るように南京から中流の武漢を経て上流の重慶へと移り臨時首都とした。

これを追うように日本軍は1938年(昭和13年)6月から「武漢作戦」と呼ばれる攻略戦を行い、10月に武漢を占領する。斎藤茂吉『寒雲』には戦勝の喜びを詠んだ歌が多数収められている。

あやまれる蒋介石の面前に武漢おちて平和建立第一歩
武漢三鎮なだるるなして落ちしかば我が心今日も呆(ほ)けたるごとし

「武漢三鎮」とは漢口、武昌、漢陽の三つの町のことで、現在はいずれも武漢市となっている。

漢口は燃えつつありといふ声のそのかたはらに人声(ひとごゑ)きこゆ
漢口にすでに雪ふるありさまが映画となりてわれに見しむる

いずれもニュース映画を見ての作品だろう。茂吉が「平和建立第一歩」と詠んだ武漢占領であったが、その後も中国が降伏することはなく、戦争は泥沼化していくのであった。

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2019年08月18日

ハーフムーン、シュガーローフ

古市憲寿著『誰も戦争を教えられない』に、新都心開発が進む沖縄の「おもろまち」を訪れた時の話が載っている。

激戦地の一つだったハーフムーンという森は、区画整理により住宅地や道路に変わった。同じく激戦地だったシュガーローフの丘も、当時を偲ばせるものはほとんどなく、ようやく貯水タンクの側に小さな碑文を見つけたくらいだ。
戦争の記憶をコンクリートで塗り固め、その上に商業施設を建てていく。この場所は、まるで戦後日本そのもののように思えた。

そう言えば、知花くらら歌集『はじまりは、恋』にもこんな歌があった。

   沖縄戦で那覇が激戦地に
 こつそりと買ひ食ひをした通学路はハーフムーンとよばれし場所
 シュガーローフの丘にはビルが建ち並ぶ傷あとおほふかさぶたの
 ごとく

ハーフムーンもシュガーローフも、沖縄戦でアメリカ軍が付けた名前。ハーフムーンは半月形の丘という意味で、沖縄では大道森(ダイドウムイ)と呼ばれていた場所である。

一方のシュガーローフは円錐形の砂糖菓子の名前で、沖縄での呼び方は慶良間チージ。日本軍は安里52高地と名付けていたが、これは標高が52メートルであったためである。

こうした地名や呼び方にも、戦争の記憶は刻み込まれている。

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2017年02月10日

宮崎へ(その3)

2日目は古い町並みが残っている日向市の美々津へ。
古くから港町として栄えた町で、重要伝統的建造物群保存地区となっている。

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「日本海軍発祥之地」の碑。

かつて神武天皇の船がここから東征に発ったとの神話に基づいて、海軍発祥の地とされたらしい。紀元2600年記念事業の一環として、昭和17年に建立されたもの。

どこかで見たことのあるような造形だと思ったのだが、宮崎市にある「八紘一宇の塔」と同じ人の手によるものであった。


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「海軍両爪錨」。

「両爪」は両側に爪がある錨のことで、「片爪」に対する言葉らしい。
これも昭和17年に製造されたもの。海軍のシンボルとして展示されているのだろう。


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日向市駅に立つ若山牧水像。
「ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ秋もかすみのたなびきてをり」。

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2017年02月09日

宮崎へ(その2)


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掩体壕の内部。
コンクリートが剥げてところどころ鉄筋が見えている。


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後ろから見た掩体壕。
屋根に草が生えているところなど、歳月を感じさせる。


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すぐ近くにある別の掩体壕。
入口がフェンスで覆われて中に入れないようになっている。


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3基の掩体壕から歩いて5分ほどのところにも、
コンクリート製の弾薬庫(?)が2基残っている。


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2017年02月08日

宮崎へ(その1)

吉川宏志さんが第21回若山牧水賞を受賞されるということで、授賞式と記念講演会が開催される宮崎へ行ってきた。

授賞式の様子などは他でもいろいろと紹介されると思うので、このブログでは個人的なことだけを書いておこう。

宮崎空港はもともと旧日本海軍赤江飛行場として建設されたもので、今でも飛行場近くに戦争関連の史跡が残っている。今回せっかくの機会なので、それらを見てきた。

まずは、空港の西側にある宮崎特攻基地慰霊碑へ。

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赤江飛行場から出撃した特攻隊員385名と宮崎県出身で他県から出撃した隊員を含めた約800名を祀っている。一人一人の名前が記され、また遺書や遺詠なども彫られていて、戦争の犠牲の大きさをあらためて感じる。

続いて、空港の北西側に残る掩体壕へ。
敵の攻撃から飛行機を守るためのコンクリート製の構造物である。

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空港ターミナルから歩いて30分ほどの畑の中に3基現存している。
特に史跡として保護されているわけではないが、保存状態は悪くない。

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2016年01月24日

鯖江・武生(その2)

三六町から南へ一駅分歩いて福井鉄道の水落駅付近にやって来る。
ここには嶺北忠霊場、かつての鯖江陸軍墓地だったところがある。

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雪の中に立ちならぶ兵の墓。

数多くの兵の墓の他に、日露戦争の戦死病歿合葬碑、上海事件陣歿者合葬碑、満州事変陣歿者合葬碑なども立っている。

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昭和16年建立の忠霊塔。
扉の中には日中戦争以降の遺骨2万5千柱あまりが納められているとのこと。

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福井県平和祈念館。
2007年に建てられたもので、鯖江市水落児童館と一緒の建物に入っている。

見学には事前の連絡が必要で、当日の急な連絡だったにも関わらず館長の岩堀修一さん(鯖江市遺族連合会会長)が対応をして下さった。父親を戦争で亡くして大変な苦労をされた方である。

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館内の展示は非常に充実している。軍服や水筒、軍隊手帳などの備品、出征兵士に贈られた寄せ書きの日の丸、当時の写真など、実物がたくさん保存されている。戦争と平和を考えるには恰好な場所だろう。

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町で見かけた緑のスコップ。

「みどりのスコップひとかき運動」「信号待ちの時間、歩道の除雪に御協力をお願いします。」と書かれている。雪国ならではの光景だ。

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2016年01月23日

鯖江・武生(その1)

「万葉の里 あなたを想う恋の歌」の選考会のため、福井県の越前市へ。
時間があったので、まずは鯖江市に寄る。

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福井鉄道(越前武生〜福井駅前〜田原町)に乗って、鯖江市の神明駅で降りる。駅から歩いてすぐの所に「三六史跡公園」がある。かつて歩兵第三十六連隊があった場所。神明駅も戦前は兵営駅という名前であった。

わが家の近くに京阪電鉄の藤森という駅があるが、ここも戦前は師団前駅という名前であった。深草の第十六師団の最寄り駅だったからだ。

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三十六連隊営門。
兵営の敷地面積は約16ヘクタールで1500〜2000人が駐屯していた。

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鯖江聯隊史蹟碑。

この他にも、「鯖江聯隊兵営跡」「鯖江聯隊の歌」「皇太子殿下行啓記念碑」「軍旗一〇〇年記念碑」「迫撃第三聯隊記念碑」など、多くの碑が立っている。

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「三六史跡公園」の少し南の「三六公園」にある昭和11年当時の鯖江歩兵第三六連隊兵営図。この公園も兵営の跡地である。現在の地図も表示されていて、兵営の範囲がどこまでだったのかよくわかる。

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この付近一帯には「三六町」という町名が付いている。

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公立丹南病院の前にある「三六酒店」。
丹南病院(旧国立鯖江病院)のルーツも、戦前の「鯖江衛戍病院」まで遡ることができる。

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2015年05月31日

伏見桃山

「まいまい京都」主催の「日本陸海軍の聖地、伏見桃山をめぐる―巡礼で賑わった伏見桃山、戦後忘れられた先人たち―」というツアーに参加してきた。
伏見桃山駅→御香宮→服部道→乃木神社→伏見桃山陵というコース。

この地には日露戦争から太平洋戦争へと到る時代を物語る石碑や建物が数多く残っている。その一方で、戦後の価値観の転換によって失われたもの(在郷軍人会記念碑など)もある。普段よく訪れている場所なのだが、ガイドさんの説明によって初めて知ることが多かった。

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義和団の乱で戦死した服部雄吉海軍中佐、日露戦争で戦死した服部直彦陸軍中佐の墓。戦前は大きな敷地にあって参拝者も多かったらしいが、今では狭い敷地に無縁仏となっている。服部兄弟の事績も忘れられてしまったし、説明板などもないので、前を通っても気づくことはないだろう。

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乃木神社の門の扉。台湾から献木された檜の一枚板で出来ているとのこと。
何という大きさだろうか。

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伏見桃山陵(明治天皇陵)からの景色。それほど標高は高くないと思うのだが、眺めはすこぶる良い。戦前と違って参拝する人は少ないが、緑が多くて散歩するには良い場所である。

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