2024年06月30日

『やちまた』の続き(3)

本を読んでいると、別々の出来事がふいにつながる時がある。

四月に墨水書房から出た佐佐木信綱著『盲人歌集』(…)には、春庭の『後鈴屋集』が紹介された。(…)『盲人歌集』は日本盲人文学史の要約のようなおもむきがあり、わたしはそのころ出た本のなかでもっとも深い感銘をおぼえた。

昭和18年刊行の『盲人歌集』には歴史上の盲目の人の歌とともに、戦傷によって失明した兵の歌も載っている。そこには私が今もっとも関心を持っている村山壽春の6首も含まれている。

その席で一番いきいきして、意気のあがっていたのは腸であった。娘の手前もあったのであろうが、その会の直前の七月、かれが多年書きためていた戦争体験『ニューギニア戦記』が河出書房新社から出版され(…)

腸(俳号)は足立巻一の親友で学生時代に同居生活を送った人物。それが金本林蔵だったのだと下巻の半ばを過ぎて初めて知った。

金本林造『ニューギニア戦記』
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I1673714

確かにあとがきを見ると「この記録を書くことを切にすすめてくれたのは、三〇年来の親友、足立巻一であった」とある。

美濃は春庭の妹のうちでもっとも学問好きで達筆であった。春庭が失明したために『古事記伝』の版下が遅れたとき、巻二十五から巻二十九も書いたし、(…)終始実家に出入して兄のために代筆代読をつとめたらしく、後半生を春庭のことばの探究と終始同行した。

失明後の春庭は、妹の飛騨や美濃、妻の壱岐らの助けを借りて文法の研究を続けた。代筆代読だけでなく、日常生活のさまざまな面でサポートを受けたことだろう。そこからは、正岡子規を支えた妹の律のことなども思い出される。
https://matsutanka.seesaa.net/article/417163506.html

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2024年06月28日

『やちまた』の続き(2)

まずは松阪という町について。

宣長は京都遊学ののちは終生松阪を動こうとはしなかったが、そのころの松阪はすでに見てきたようにかなり自由な町人都市であり、その商業をつうじて江戸、京都、大阪とは密接に結ばれ、そのうえ宣長自身諸国に有能な門人を持っていたので、その情報と協力とを受けることができた。
宣長の学問が成熟する背景にはこの小津、長井、さらには小西家などの経済力があったのだが、ことに長井家は春村の小西家とともに宣長に多大な援助をおくりつづけた。長井家には二百五十両という宣長の借金証文が残っていて表装されていたそうである。

松阪という町の経済力や文化資本が、本居宣長の学問を生み出す豊かな土壌となっていたのである。それは、さらに春庭や小津久足、松浦武四郎らを生んでいくことになる。

次に、春庭と大平の関係について。

以後、春庭は本居大平厄介という名義になった。春庭は年願を果たせて、安堵をおぼえたであろう。それとともに、本来ならば自分が相続するところであり、失明の悲運があらためて身にしみたであろうし、大平にいささかの嫉妬をおぼえなかったとは決していえないだろう。
大平はこんなふうにまで血統をいいたてるのである、大平は宣長の最古参の門人として実子同様にかわいがられ、春庭の失明のために家督をついだが、血筋を受けていないことに、いつも一種の負い目を持ちつづけていたのであろう。

春庭は幼い頃より宣長から英才教育を受け、宣長の助手のような役目を果たしてきたが、失明のために家督相続から身を引いた。代わりに相続したのが7歳年上で養子になっていた大平である。

二人は表面的には終生穏やかな関係を保ち続けたけれど、どちらも内心は複雑な思いがあったにちがいない。もし失明していなければ、春庭の学問はどうなっていただろうか。

『詞の八衢』『詞の通路』を越えてさらに多くの業績を残せたかもしれないし、一方で、失明という不運や苦しみがあったからこそ、それらの業績を残せたという見方もできるかもしれない。

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2024年06月27日

『やちまた』の続き(1)

『やちまた』は本居宣長の長男、本居春庭(1763‐1828)の評伝である。春庭は30代で失明するという不運に見舞われながらも、『詞八衢(ことばのやちまた)』『詞通路(ことばのかよいじ)』という国語学史に残る本を著した。

『やちまた』は春庭の生涯や業績をたどるだけの本ではない。著者の足立巻一(1913‐1985)が専門学校の授業で初めて春庭を知ってから50代に至るまで、途中に戦争を挟みつつ、長い時間をかけ調査や探究を進めてきた軌跡も記されている。

さらには、春庭と関わりのあった人物や家族のこと、そして自身の友人や恩師や研究に関わる人々のことなどが、それぞれ群像劇のように生き生きと描かれているのである。

読んでいて震えるような素晴らしい内容だ。

印象に残った箇所をいくつか引いておこう。

紀州藩は松阪に城代を派遣してその配下には二人の勢州奉行をおいていたが、武士の圧力は一般の城下町のように強いものではなかった。城内には城代屋敷と牢屋があるくらいで、奉行所、役宅は堀の外側にあり、武士の数も至って少なく、その点でも松阪は町人の世界であった。

江戸時代、松阪は紀州藩の飛び地であった。三井財閥の三井家が松阪発祥であることや、宣長が一時紀州藩に仕えたこと、さらに養子の本居大平が和歌山に移住するようになったことには、こうした背景が関わっている。

春庭は活用をハタラキと名づけた。かれはそのことばのハタラキを文献から搔き集めるようにして探っては法則へ帰納していったのだが、その苦渋に満ちた作業は木版本の活用表に凝固しているように見える。

現在では活用と言えば、古文の時間に活用表を暗記させられ、無味乾燥な世界のように思われている。しかし、当り前の話だが、先に活用表があって言葉の活用が生まれたのではない。多くの活用をもとに活用表が生み出されたのだ。

そして、その表は、春庭をはじめとした国学者たちが膨大な用例からサンプルを抽出し、試行錯誤して作り上げたものだ。まさに活きて働き、言葉のさまざまな意味を生み出すものとして、活用がある。

一枚の活用表の裏に、多くの先人たちの苦闘が秘められていることに気づかされた。

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2024年06月26日

足立巻一『やちまた』(上)(下)



1968年から1973年まで雑誌「天秤」に連載され、1974年に河出書房新社から単行本が刊行された本の文庫版。今から50年前の本ということになる。

この本を最初に知ったのはもう40年近く昔のこと。高校の先生にすすめられたのである。その時は「やちまた」という不思議なタイトルが印象に残った。「やまたのおろち」や「ねこまた」のような、妖怪的なものを思い浮かべたのだ。

「やちまた」が漢字で書くと「八衢」で「道がいくつにも分かれた所」を指す言葉だというのはだいぶ後になって知った。

その後、1995年に朝日文庫から『やちまた』が出た時に書店で見かけた。「あっ、先生がすすめてた本だ!」と思ったものの、手に取ることはなかった。2015年に中公文庫から再び『やちまた』が出て初めて購入したが、長らく積んだままになっていた。

今回、読み始めたきっかけは、一昨年松阪を訪れたことである。
https://matsutanka.seesaa.net/article/495260781.html

本居宣長記念館でたまたま「宣長と春庭」という企画展をやっていた。その春庭という人物が、まさに『やちまた』の主人公なのだ。

その後、国学についても少し関心が向いてきて、ようやく上下巻ともに500ページを超える厚さの『やちまた』を読んだ次第。本を読むにもちょうど良いタイミングというのがあって、すこぶる面白かった。

もし高校生の時に読んでいても、きっと退屈でしかなかっただろう。

(上)2015年3月25日、中公文庫、1200円。
(下)2015年3月25日、中公文庫、1200円。

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2024年06月18日

安田敏朗『「国語」ってなんだろう』


歴史総合パートナーズ12。
このシリーズは読みやすく、内容も充実している。

題名の通り「国語」の意味や成り立ちを解き明かした本。明治以降、国家を運営する制度(道具)としての「国語」と国民的精神(ナショナリズム)を宿す象徴としての「国語」という二つの面のバランスを取りながら、「国語」が生み出されてきた流れがよくわかる。

それまで、日本語の研究は、江戸時代に発達した国学の方法によっておこなわれていましたが、上田はヨーロッパの言語学の理論にもとづいた研究を主張したのです。
言文一致は、たんに語ったままが記述されて完成するものではなく、速記術や新聞というメディアの媒介があって成立してくるともいえます。
1895年の台湾植民地化、1910年の韓国併合を経るなかで、植民地支配における「国語」の役割が明確に意識されてきました。

「国語」をめぐるさまざまな問題を通じて、著者は国家のあり方にも迫っていく。

基本的にはだれであれ、近代国民国家という大きな「型」のなかで成長せざるをえない以上、その「型」から逃れることは簡単ではありません。問題は、教育をふくんだ国民国家の「型」のなかで育ってきたのである、ということを自覚できるかどうかにかかっていると私は考えます。

自らの中に滲み込んでいる「型」を相対化して、検証・批判する目を養うこと。これは今後ますます大事になってくる話だと思う。

2020年7月3日、清水書院、1000円。

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2024年05月07日

森田良行『時間をあらわす「基礎日本語辞典」』


1989年に刊行された『基礎日本語辞典』から時間に関する項目を選んで再編集・文庫化したもの。

細かな言葉のニュアンスの違いや日本語文法に関する分析など、興味深い記述がたくさん出てくる。

遠い過去をさす「以前」は「将来」と対応し、「以後」とは対応していない。
気が進まないながら不承不承におこなう場合には「さっそく」は使わない。逆に言えば「さっそく」と言うからには、やりたい気持ちがあるから行う≠ニ考えてよい。
一般に、時間の流れに対して「過去/現在/未来」の区切り方をし、ことばの表現においても、過去は「……した」、現在は「……する」、未来は「……するだろう」と使い分けるものと思われている。しかし、日本語の時の表現≠ヘ必ずしも現実の時間の区分「過去/現在/未来」に対応して語の使い分けがなされているわけではない。
「あの選手は毎試合同じ手を使ってくる」これを、「‐ごとに」に変えたら「あの選手は試合ごとに違う手を使ってくる」とした方が自然である。

「過去/現在/未来」に関する誤解には、英語の文法を学ぶ影響が作用している気がする。実際の日本語では「……するだろう」は、推量に使っても未来に使うことはない。「明日買物に行く」であって「明日買物に行くだろう」とは言わない。

2018年2月25日、角川ソフィア文庫、720円。

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2024年04月10日

藤井貞和『日本語と時間』


副題は「〈時の文法〉をたどる」。

「き」「けり」「つ」「ぬ」「たり」「り」など多くの助動詞を持っていた文語の時間表現のありようを確認しながら、その変遷と現代につながる道筋を記した本。

いわゆる文法に関する本なのだが、「文法がけっして学習にとっての検閲≠ノなりませんように! より深く文章を味わうための道しるべになってほしい」とあるように、非常に豊かな内容を持っている。

古文の七〜八種の時間の差異を知ってのち、近代文学や現代詩歌に接すると、われわれの近代や現代での文体を創る苦心とは、それら喪われた複数の時間を復元する努力だと知られる。
「……だろ!」「……行こ!」などと、「だろう」「行こう」の「う」をゼロ化(厳密には促音化)してさえ、未来〜推量(〜意志)は成立するのだから、文法はおもしろい。
当然のことながら、古代人はやすやす「たり」と「り」を使い分ける。別語だから「たり」と「り」との二種があったので、それらの使い分けが難しいのは現代人にとってだ、ということを銘記しよう。
一方、俳句(発句)形式はどうだろうか。/5−7/5/という形式は、非音数律詩だと言うほかない。(…)音数律詩が成立する直前で投げ出された、その意味で自由@・として俳句形式はある。

助動詞の相関図としての「krsm四面体」モデルをはじめ、著者の独創的なアイデアが随所に出てきておもしろい。一つ一つ自分の頭で根源から考え抜く姿勢の大切さを教えられた。

2010年12月17日、岩波新書、800円。

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2023年08月23日

齋藤希史『漢文脈と近代日本』


2007年に日本放送出版協会より刊行された『漢文脈と近代日本 もう一つのことばの世界』を文庫化したもの。

江戸から明治・大正にかけての文献をたどりつつ、漢文脈(漢文や訓読体など)が近代の日本語において果たした役割や、そこからの脱却の過程を論じている。この本も非常におもしろかった。

漢字文化圏というタームは、漢字が流通した地域の共通性を探ることに重点が置かれる傾向がどうしてもありますが、むしろ、漢字や漢文は、それが流通した地域の固有性や多様性を喚起したという側面にこそ、ほんとうは注目すべきであるように思います。
思考の問題と文体の問題は、切り離して論じることはできません。漢文こそが、天下国家を論じるにふさわしい文体であり、それがなくては、天下国家を語る枠組み自体が提供されなかったのです。
文語と口語の違いは、文章で用いるか口頭で用いるかという使用の局面以上に、その学習過程に決定的な違いがあることに留意する必要があるでしょう。
漢詩文における公と私の二重性を熟知し、また、自らの生き方としても、その二重性を全うしようとした明治の文学者として森鷗外は重要です。

漢文脈について考えることは、私たちが現在使っている日本語について考えることに直結している。そもそも漢文脈を抜きにして、日本語を論じることはできないのだ。

先人たちは漢文脈と格闘し、ある者はそこに生き、ある者はそこに風穴を開け、ある者はそこから外へ出て行きました。それによって、今の私たちのことばが成り立っているとすれば、私たちのことばが何であるかを知るためにも、今度は逆の方向から、漢文脈の世界へと足を踏み入れる時期に至ったとは言えないでしょうか。

なるほど、これは言ってみれば中国との関係を抜きに日本史を語れないのと同じことなのだろう。

2014年5月25日初版、2021年3月5日4版。
角川ソフィア文庫、840円。

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2023年08月12日

『日本語の「常識」を問う』の続き

本の後半から印象に残った箇所を引く。

『新古今和歌集』に結実した流派(九条流)は、旧来の『古今和歌集』の歌ぶりに立つ者たちにとっては、新奇を狙うわけのわからないものに映っていた。それゆえ、新しく流行りはじめた禅宗の開祖の名をとって「達磨歌」と揶揄した。
中国では、初唐、盛唐の詩を重んじる『唐詩選』は、ほとんど見むきもされない。漢詩の古典を代表するのは、南宋の周弼により編纂された中唐、晩唐の詩を多く集めた『三体詩』である。
漢詩も古典語の世界だった。が、公安派は、当代の語を用いることを主張し、のちの白話詩を準備した。日本の漢詩の世界に、この動きが興ったことによって、香川景樹が和歌に当代語を用いてよいとし、調べを重んじる桂園派を興した、とわたしは推測している。
「定家仮名遣い」もそうだが、「契沖仮名遣い」は、それよりも、一般的には、ひろがらなかった。町人むけの版本などには参考にされなかったという意味だ。時代が下るにしたがって、いわゆる変体仮名の使用などが盛んになり、仮名遣いは乱れに乱れる。
日本語についての研究らしい研究は、国語学がはじまる以前に、江戸時代の「国学」で行われていた。「国学」をはじめた人びとは漢文によく通じていた。本居宣長が、白文で書かれた『日本書紀』は、最初から「訓読」されてきたと主張するまで、誰もそうは思っていなかった。

とにかく博学で、ものの見方が多面的でおもしろい。和歌革新運動や短歌における口語・文語の問題なども、こうした幅広い視野に立って考える必要があるのだろう。

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2023年08月10日

鈴木貞美『日本語の「常識」を問う』


日本文化論の立場から日本語について考察した本。歴史や文化や政治など多様な観点を踏まえて、日本語について問い直している。

話題が次々と展開して著者の頭の回転についていけない部分もあるのだが、刺激的な本であるのは間違いない。近代国民国家の枠組みで築かれた日本語についての常識を次々と揺さぶってくる。

森鷗外や夏目漱石をはじめ、明治の知識人はかなり立派な漢文が書けた。実は明治時代は、日本の歴史のなかでも最も漢詩が盛んな時代だった。
「ヤマト言葉にこそ、日本人の心が宿っている」というのは、ある意味では、とても近代的な考え方だ。
神仏が出てこない能など、わずかしかない。能は宗教芸能だったからだ。それなのに、すばらしい演劇だとか芸術だとかいう。もちろん、そういってもよい。近代的コンセプトをズラしていることをよく承知してさえいれば、である。
文字をもたなかったヤマト民族が漢字を借りてヤマト言葉を書くようになったというストーリーを想い描くのは、世界のどの地域も、まず無文字状態があり、そこからしだいに文字文明が発達してきたかのように見る考え方だ。
天皇が歿したのちには、中国風と和風のふたつの名前をもつ習いだった。桓武は中国風で、和風は日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてらすみこと)である。この天皇の諡号が、中国語と日本語の二重性をもつ日本文化のあり方を象徴していた。

まだまだ引きたい箇所はたくさんあるけれど、今日はこのあたりで。

2011年5月13日、平凡社新書、900円。

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2021年04月14日

今野真二『漢字とひらがなとカタカナ』


副題は「日本語表記の歴史」。

現代日本語の標準的な書き方がどのような歴史的な経緯をたどって生まれたのかを、時代を追って考察した本。

仏像の銘文、木簡、万葉集、源氏物語、平家物語、人情本、辞書、教科書など、多くの実例を挙げながら様々な可能性を検討していく。

特に、「漢字片仮名交じり」と「漢字平仮名交じり」では、成り立ちや基本的な考え方に大きな違いがあるという点が印象に残った。

片仮名は漢字とともに使用される。その場合、漢字はほぼ楷書体であるので、片仮名も連綿はしない。連綿する平仮名とともに使われる漢字は、そのような平仮名と親和するために、行書体あるいは草書体のかたちで、平仮名とともに使用される。
漢文を背景にしている「漢字片仮名交じり」では漢字のみで書くことを起点とし、漢字で書けない言語要素を必要最小限示すことを基調としていると思われる。一方、和文を背景にしている「漢字平仮名交じり」は、ほとんど仮名で書くことを起点とし、そこに漢字を交えていったと思われ(略)

和歌・短歌に関わる記述もいくつかある。

和歌を書くということが平仮名の発生を促したというと、言い過ぎであろうが、和歌と平仮名とはつよく結びついていた、とみることは自然であろう。
俗語雅語対訳辞書『詞葉新雅』である。富士谷御杖の著作で、凡例にあたる「おほむね」には、歌作にあたって、この本が出版された江戸時代の「話しことば」=「里言」から「古言」=歌作にふさわしい過去のことばを探し出すことができるように編集されていることが述べられている。

それにしても、近年、著者の日本語関連の本は毎年のように出版されている。ものすごい仕事量だ。あとがきに「必要があって、現代の短歌を集中的に読んだ」とあるので調べたところ、昨年『ことばのみがきかた 短詩に学ぶ日本語入門』という本を出したらしい。

第一章 斎藤茂吉の短歌をよむ
斎藤茂吉の『赤光』をよむ/連作の意図/情報の組み合わせ/虚構的【ことがら】情報/具体から抽象へ―写生から象徴へ/岡井隆と吉本隆明のよみ/茂吉の「難解歌」/茂吉の自己劇化

第二章 茂吉と二人の歌人
書きことばと読み手/恂{邦雄と岡井隆/塚本邦雄のよみ/芥川龍之介のよみ/よみの違いはなぜ生まれるか/「私詩」と〈事実〉/岡井隆のよみ

目次を見ると第二部はこんな感じになっていて、またちょっと興味をそそられてしまう。

2017年10月13日、平凡社新書、840円。

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2020年11月14日

橋本陽介『「文」とは何か』


副題は「愉しい日本語文法のはなし」。

学校文法の話から始めて、新しい言語学の知見を随所に織り交ぜながら、文法の面白さや奥深さについて記した本。体系的に記述されているわけではないが、非常に教えられるところの多い一冊であった。

学校の文法とは、古文(文語)を理解するために超実用的に作られているものであって、それは今でも変わっていない。
「いま、ここ」にあることは、言語以外でも表すことができる。指でさすこともできるし、「フエエ」と叫び声を上げて注意を向けることもできる。だが、「いま、ここ」にないことまで表現できてしまうのが言葉のすごいところだ。この機能のおかげで、嘘八百もつけるし、様々な物語を創作できる。
言語化されていないものは省略されているのではない。最初からないのだ。
言語の使用において、意味上の主語のデフォルトは自分自身、つまり一人称である。話し手から見て、自分自身は見えないから言語化されない。
引用部分では、「一度その行為が起こった」ことを表す文脈でも、タ形ではなく、ル形が使用されている。タ形は現実の時間軸にその出来事を位置づけるので、現実的になるが、ル形が使用されることによって全体として非現実的な印象になっている。

著者の語り口はいつも歯切れが良い。もっと、いろいろ読んでみたいと思わせてくれる。

2020年8月30日、光文社新書、840円。


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2020年05月23日

清水由美『すばらしき日本語』


日本語の魅力や日本語教師の仕事についてのエッセイをまとめた本。

(指示詞「こう」「そう」「ああ」について)
二つめの文字だけを見ると「う」と「あ」で統一がとれていないように見えるかもしれませんが、これは「長音」という制服なのです。「こ」「そ」というオ段の音、「あ」というア段の音、それぞれを「コー」「ソー」「アー」と伸ばしているという点では、やっぱりきっちりそろっております。

(「乗る」「載る」などの同訓異字について)
同訓異字は、どうして発生したかといいますと、日本語のその単語の意味の守備範囲が、中国語のその単語(=漢字)のそれより広かったから、です。逆にいえば、(それらの語のカバーする範囲においては)中国語のほうが意味区分が細かかったから、です。

現代日本語では、この「未然形+ば」の形は一部の格言などを除いて消えてしまい、「已然形+ば」に一本化されてしまった。しかし、意味のほうは両方残っている

日本語のあれこれがよくわかるし、もっといろいろ知りたくなってくる。日本語教育能力検定試験の勉強をしてみようかな。

2020年3月9日、ポプラ新書、860円。

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2020年05月06日

『日本語の個性』の続き

40年以上前の本なので、女性に関する記述など現在の目から見ると古い部分がある。一方で、かなり的確に未来を予測している部分も多くあって注目する。

これまでわれわれは自分の国の言葉を国語≠ニ呼びならわしてきた。外へ向いていた目が内へ向うようになって発見した言葉は、その国語とはすこし違っているように感じられる。その気持がこのごろ使われる日本語≠ノこめられる。

「国語」から「日本語」へ、という流れを既にはっきりと見通していることに驚く。

アメリカの大学の講義では、先生がはじめに一年間の予定をプリントか何かにして学生に渡す。よほどのことがないかぎり、その予定は変更されることがない。われわれの行き当たりばったりとは大変な違いである。

現在は日本の大学でもシラバスに基づいた講義が行われている。そうした変化を先取りした記述と言っていいだろう。

単語一つでも翻訳不能のものがいくらでもある。このごろ日本でも使われるようになったプライヴァシイという語にしても、まだ訳語はない。このままカタカナの日本語になる気配もある。

実際にその通りになっている。こうした実証に耐えられた本だけがロングセラーとなって残っていくのだろう。

日本語の辞書の始末の悪いところは、引く人間が日本語を知っているだろうという前提に立っていることである。わかる人にはわかる。しかし、わからぬ人にはついにわからない。これでは辞書の存在理由はない。

私たちの使っている「国語辞典」は、「日本語辞典」としての役割を十分に果たしているのか。例えば、外国人が日本語を学習する際にも使える辞典かということだ。この問い掛けは、今もなお有効なままだと思う。

1976年5月25日初版、2018年12月20日第32版、中公新書、740円。

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2020年05月05日

外山滋比古『日本語の個性』


日本語についてのエッセイ15編を収めた本。日本語から見た言語論や文化論でもある。

40年以上前に書かれた本だが、今でも版を重ねている。随所に鋭い洞察があり、ユーモアも辛口の提言もある。こういう味わい深い文章を書ける人はなかなかいないと思う。

もともと日本文の重心は下のほうの動詞にあったのだが、翻訳文化になって名詞に引きずられて重心が上のほうへ移った。近代の日本語がどこか不安定なのは動詞構文がこうして名詞構文化しているところに起因しているのではあるまいか。
シェイクスピアの作品は一般に、たいへんおしゃべりな感じがする。とくに、人の死にあたっての愁嘆のせりふがいかにも口数が多くて迫真感を殺ぐように思われる。(…)そういう特色も、要するに、シェイクスピアの芝居が、戸外を頭においてつくられていることによるのである。
われわれは自分のまわりに他人が侵入してくることを好まないし、ことばですら直接にさわられることを嫌う。むやみに他人の名を呼ぶのは失礼になる。「グッド・モーニング・ビル」「グッド・モーニング・ジャック」だが「おはよう、三郎」「おはよう、健治」は日本語的ではない。
政治のことばは、一般有権者に向っての公的発言と、仲間や後援者を相手にする私的発言との両極に二分されている。これまで日本の政治家は、どちらかと言うと私的発言を中心に活動してきたと思われる。滋味のある座談のできる政治家は相当たくさんいるのに、ひとたび大向うを相手にすると味もそっけもない演説しかできなくて、失望を与えるという例がすくなくなかった。

いずれも思い当たることばかり。言葉の問題は、文章、会話、演劇、生活、政治など、私たちのすべてに深く関わっている。

1976年5月25日初版、2018年12月20日第32版。
中公新書、740円。

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2020年04月16日

清水由美『日本語びいき』


2010年に世界文化社より刊行された『日本人の日本語知らず。』を改題・加筆修正して文庫化したもの。日本語教師、日本語教師養成講座講師を務める著者が、数々の具体例を挙げながら日本語の魅力や不思議を教えてくれる。

動詞から名詞への転成は、日本語ではたいへん簡単にできます。(・・・)今ざっと机の上を見まわしただけでも、はさみ、下敷き、爪切り、ものさし、ペン立て、筆入れ、があるのですが、これらも、はさむ、敷く、切る、などの動詞から作られた名詞です。
「歌う」と言ったら「今から」歌うのです。未来です。「結婚する」と言ったら、「近々」結婚するのです。将来の予定です。動詞のタイプによっては、辞書に載っている形が「現在」形とは限らないのでした。
「やめる」に意志があれば、「〜で」は〈手段〉や〈道具〉を表し、意志がなければ〈原因〉を表すことになるのです。
日本語に移入された時期の早い外来語は、「チ」が多く、歴史の浅い外来語ほど、「ティ」で書かれる例が増えます。つまり「ティ」のほうが、新しいのです。

全21章、どこを読んでも新しい気付きに満ちている。日本語教師になろうかなと思うくらい面白い。

2018年8月25日、中公文庫、700円。

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2019年05月18日

窪薗晴夫著 『通じない日本語』


副題は「世代差・地域差からみる言葉の不思議」。
世代や地域によって異なる言葉を数多く例に挙げて、日本語の仕組みについて解説した本。

関西ではニク=牛肉であり、豚肉はブタ、鷄肉はカシワ(もしくはトリ)と呼ぶのが普通です。
(外来語の)促音はもともと英語に入っているものではなく、日本語話者が英語の発音を聞いて感じるものです。
どの言語の赤ちゃんも[s]より[t]を先に獲得すると言われています。(・・・)いずれの言語でも[s]をまだ発音できない子供は、その音を[t]で代用しようとします。

他にも、「五七五」の「ご」が「ごー」と伸ばして発音される理由や「チャック」が「巾着」から作られた略語であること、バ行音に対応する無声の音はハ行音ではなくパ行音であることなど、雑学的な知識も豊富で楽しい。

2017年12月15日、平凡社新書、780円。

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2018年08月11日

牧野成一著 『日本語を翻訳するということ』


副題は「失われるもの、残るもの」。

翻訳のノウハウについての本ではなく、翻訳とは何かといった本質論、あるいは翻訳を通じて見えてくる日本語の特徴について論じた本である。

言葉というのは話者が世界をどのように見ているかという認知に深く関わっている。そのことが翻訳によって浮き彫りになるということだろう。

対象と距離を置いて客観的な事実を表現する際には口蓋破裂音を含む語が選ばれ、主観的な気持ちを表現するときは鼻音を使った語が選ばれているのではないかという仮説です。
比喩のない言語はないのですから、比喩は人間共通の「認知作用」に基づいているのではないか、という仮説が出てきます。
換喩は、一見、隣接要素の省略のように見えますが、実は省略ではありません。
受動文というのは、しばしば、主語の人間がコントロールできないような事態を表す主語の声、あるいは、それを言わせているナレーターの声なのです。
日本文学には受動の声がたくさん出てきますが、英語に翻訳する英語人は受動の声を原則として回避します。

金子みすゞの詩、芭蕉や蕪村の俳句、俵万智の短歌、夏目漱石や村上春樹の小説など、実例が豊富に挙げられていてわかりやすい。歌づくりのヒントにもなりそうな一冊だ。

2018年6月25日、中公新書、780円。


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2017年11月22日

『物語論 基礎と応用』 の続き


短歌を含めた文学全般に通じる話題も多い。

物語論では一般的に、絶対的で固定的な意味はないと考える。この場合、テクストと読者との相互作用によってその都度意味が発生することになる。
物語においては、詳しく説明しすぎないこともテクニックの一つである。詳しく説明されれば余韻が出るはずはない。語られない部分を読者が様々に補うように仕向けることによって、情感がでるのである。
一般に、文学的な小説では、「説明はせずに描写せよ」と言う。「かわいい」ことを書くのに、「かわいい」と言うのではなくて、それを具体的に、出来事の中で表現していくのが物語化することである。

どれも、短歌の入門書に書いてあってもおかしくない内容である。

こうした話を読むことは、おそらく短歌表現にとってもプラスになるに違いない。何が文学全般に共通する点で、何が短歌に特徴的な点であるかといった区別がはっきりするからである。

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2017年11月20日

橋本陽介著 『物語論 基礎と応用』



物語論(ナラトロジー)とは、「物語とは何なのか」「物語とはどのように出来上がっているのか」を論じるもの。本書は第一部が理論編、第二部が分析編となっている。

理論編ではプロップ、ブレモン、バルトらこれまでの物語論の歴史や、物語の中の「時間」、視点と語り手、日本語の特徴といった問題が取り上げられている。

一方の分析編では、『シン・ゴジラ』『エヴァンゲリオン』『百年の孤独』『悪童日記』『この世界の片隅に』など実際の映画や小説などを例に、どのように物語が描かれているかが分析されている。

印象に残った部分をいくつか引こう。

日本語では物語現在を現在として語るが、その際に「た」を使用する。「た」は通常は過去形と考えられるが、物語現在的語りの場合、過去の意味はない。
語り手が自分の言葉でまとめてしまうのがtelling、できるだけその場面を映すように描こうとするのがshowingである。
電話等で「(私は)今からそこに行くね」という時、日本語では一人称主語を基本的に言わない。これは単に、わかりきったことだから省略しているというわけではない。「私」からみて「私」は見えないので、言語化されないのである。

短歌の「私性」や時制の問題なども、短歌の枠組みの中だけで考えるのではなく、こうした物語論を踏まえて考えると随分論点がわかりやすくなる。

もちろん、物語論をそのまま当て嵌めれば事足れりということではない。物語論を踏まえることで、小説とは違う短歌表現の特徴や特質も自ずと浮かび上がってくると思うのだ。

全体にとても面白い本なのだが、分析編はやや駆け足な印象がある。一つ一つの作品についてもう少し詳しく書いて欲しかった。

2017年4月10日、講談社選書メチエ、1700円。

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2017年07月31日

日本語文法と短歌


「角川短歌」に書いた歌壇時評「日本語文法と短歌」について、「塔」の短歌時評で花山周子さんに、さらに東郷雄二さんにも「橄欖追放」で触れていたただきました。ありがとうございます。

松村正直「日本語文法と短歌」(「角川短歌」2017年2月号)
花山周子「歌を死なせては元も子もない」(「塔」2017年7月号)
東郷雄二「日本語の「現在形」について」(「橄欖追放」第214回)

口語短歌の読みが深まるきっかけになればと思っています。

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2017年07月09日

笹原宏之著 『日本の漢字』



日本人が日常的に使っている「漢字」について、表記の多様性、俗字、国字、漢字制限、位相文字、地域文字、地名、造字など、様々な角度から分析した本。多くの実例が挙げられているので、わかりやすく説得力がある。

 「ひと」ということばを「人」と書くのと「ひと」と書くのでは、印象が異なるだろうし、「ヒト」や「他人(ひと)」と書けばさらに異なるニュアンスを与えるであろう。
 当用漢字の新字体は、戦後の創作ではない。根拠のないものではなく、実際にはほとんどすべてが、当時使われていた手書きの「俗字」を採用したものである。
 姓では「藤」が東日本では「佐藤」「斎藤」など「〜トウ」が多く、西日本では「藤原」「藤田」など「ふじ〜」が多いという分布の差も見出される。
 「淫(みだ)ら」と「妄(みだ)り」と「乱(みだ)れ」の間に、何らかのつながりを感じることが漢字の字面によって妨げられてはいないだろうか。

雑学的なこともたくさん載っているのだが、基本的には非常にまじめで学術的な内容である。特に面白かったのは幽霊文字の話。JIS漢字に含まれている幽霊文字(実在しない謎の文字)のルーツを調べて解き明かすところなど、まさに圧巻と言っていいだろう。

日本人が日本語を書くために長年にわたって磨き上げてきた日本の漢字。それに対する著者の深い愛情が伝わってくる一冊である。

2006年1月20日、岩波新書、740円。

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2017年06月22日

広瀬友紀著 『ちいさい言語学者の冒険』


副題は「子どもに学ぶことばの秘密」。
岩波科学ライブラリー259。

子どもたちの言い間違いを手掛かりに、なぜそのような言い方が生まれるのか、人間はどのように言葉を学んでいくのかを実例に沿って解き明かした。大人になると忘れてしまう言葉の不思議や秘密が、子どもの眼を借りて生き生きと描き出されている。

つまり、「た―だ」「さ―ざ」「か―が」の間に成立している対応関係が成り立っているのは、「ぱ(pa)」と「ば(ba)」の間のほうなんですね。
「おんな」+「こころ」は「おんなごころ」で「こころ」が濁音化(連濁)するけど、「おんな」+「ことば」で「おんなごとば」になることはない。なぜだろう?という問いの答えは「ライマンの法則」とよばれています。
「タニシ」と発音した音声のなかにtanという音があるかを尋ねた場合は、日本語話者のほとんどはYESボタンを押さなかった一方、英語話者とフランス語話者は(…)YESと反応したと報告されています。

日本語話者が日本語の仕組みをわかっているかと言えばそんなことはなく、かえって当り前すぎて気が付かないことが多い。そうした点をあらためて知るには、子どもや外国人が日本語を学ぶ方法が参考になる。

「日本語の授業で、「っ」ってどう習いましたか?」
「次の音の構えをしながら、つまりスタンバイしながら1拍分の長さをおくことです」

自分が普段使っている言葉について深く知ることは刺激的で、新たな可能性を開いてくれることだと思う。

2017年3月17日、岩波書店、1200円。

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2017年04月20日

橋本陽介著 『日本語の謎を解く』


副題は「最新言語学Q&A」。

著者は高校で「言葉の謎に迫る」という授業を始めるにあたって、生徒から言語に関する疑問を募集した。この本はその疑問に答える形で73個のQ&Aを収めている。

日本語の起源、音声、語彙、言語変化、書き言葉と話し言葉、「は」と「が」、主語、活用形と語順、「た」と時間表現など、話題は多方面に渡っているが、全体を通して著者のものを考える姿勢が一貫しているのでバラバラな感じは受けない。

7か国語をほぼ独学でマスターしたというだけあって、英語や中国語など様々な外国語との比較も多く、日本語の性質や特徴がよく見えてくるところも良かった。

印象に残った部分をいくつか引く。

形の上では「全然+肯定形」でも、話者の気持ちは依然として否定なのです。文法を見る時に、文字だけ見て分析すると、本質を取り逃すことがあります。
主語の本質とは何でしょうか。主語というくらいですから、文のメインになるものだと思ってしまいそうですが、じつはそうではありません。文の主役は述語です。
日本語では、ものごとを上から客観的に眺めるのではなく、状況の内側からの視点に同化してしまうのが普通です。
日本語の小説で、「タ形」と「ル形」が混在しているのは、過去の出来事を振り返って語るのではなく、物語の場面(物語現在)を現在として語っているからです。
タ形を使うと、その動作の終わったところを点で捉えます。一方、ル形を使うと、線で捉えるような感じになります。最近の小説、特に流行小説はスピード感を出すためか、ル形の使用が増えています。

最後の引用部分など、近年の口語短歌における「ル形」の多さとも関連してくる話のようで、とても興味深い。

2016年4月20日、新潮選書、1300円。
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2016年07月14日

笹原宏之著 『訓読みのはなし』


副題は「漢字文化と日本語」。
2008年に光文社から刊行された『訓読みのはなし―漢字文化圏の日本語』を改題し、文庫化したもの。

日本語が漢字をどのように取り入れてきたのかという問題を、訓読みというユニークな方法を中心に紹介し、さらには朝鮮・韓国やベトナムなど東アジア圏における漢字の受容の歴史にまで話を広げている。

一つの漢字に対して音読みと訓読みの二つがあるというのは、普段あまり意識しないけれども、実はかなりユニークなことなのだ。

体系的な記述と言うよりは雑学的な部分が多いのだが、新しい発見がいろいろとあって楽しい。

日本における漢語は、亜「ア」、小「ショウ」、白「ハク」など、一音節か二音節と拍数が短い。また、二拍目に来る音は、(・・・)「イ」「ウ」「キ」「ク」「チ」「ツ」「ン」といった限られたものしかないなど、発音の種類が一定であり、概して硬質な感じが漂う。
「キク」は、花そのものが身近なこともあって、訓読みのように意識されがちであるが、音読みなのである。「胃(イ)」も、胃腸をまとめた語は別として、その臓器そのものと一対一で対応する和語がなかったようで、字音が単語として定着した。
江戸期には、その(漢文訓読の)技術を応用して、オランダ語や英語などの横書きの文に対しても、レ点や一・二点のような記号を単語と単語の間に加えながら読んで訳す「欧文訓読」「英文訓読」が行われることがあった。
奈良時代までさかのぼれば、和語のハ行はP音で発音されていたことが万葉仮名や擬音語に関する分析などから知られており、(・・・)「ひかり」は、奈良時代には「ぴかり」のように発音されていたのであった。

「ひかり」だとあまり光っている感じがしないけれど、「ぴかり」だと確かに光っている。

2014年4月25日、角川ソフィア文庫、760円。

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2016年06月12日

円満字二郎著 『昭和を騒がせた漢字たち』


副題は「当用漢字の事件簿」。

1946年の当用漢字の公布から始まる戦後の漢字の歴史について、社会を賑わしたいくつかの出来事を中心に、時代を追って記している。

『青い山脈』(1947年)の「恋」、郵政省改名騒動(1958年)の「逓」、誤字を理由にした解雇問題(1967年)の「経」、水俣病患者の幟(1970年)の「怨」、「よい子の像」碑文裁判(1976年)の「仲」など、漢字にまつわるエピソードが数多くあることに驚く。

当用漢字という制度は、一つの思想であった。漢字を制限し、日本語を一般民衆にとって覚えやすく使いやすいものに作り変えていくことは、民主主義のために必要だ、という思想である。
「当用漢字字体表」は、たしかに漢字の字体の基準を示している。その基準が、極端に厳密に求められるようになったのである。それは、漢字に関する「基準を求める心」が、受験戦争と結び付いた結果であった。
教育の平等が行きわたれば行きわたるほど、当用漢字の存在価値は、軽くなっていく。(・・・)その結果、あらわになってくるのは、自己表現の手段としての漢字の自由の拡大である。

漢字の制限と漢字の自由という相反する考えは、互いに消長を繰り返しつつ、長い目で見れば自由の拡大へと向かってきた。これは、戦後の日本の歩みとも深く関わっている。

今年に入ってからも、漢字の「とめ」や「はね」の有無を広く許容するというニュースが話題になった。現在、文化庁のホームページにて公開されている「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)の概要」には、「字の細部に違いがあっても,その漢字の骨組みが同じであれば,誤っているとはみなされない」とある。

これも本書の描いた戦後の流れに位置づけられる話であろう。

2007年10月1日、吉川弘文館歴史文化ライブラリー、1700円。

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2016年06月07日

日本語記述文法研究会編 『現代日本語文法3』


現代日本語文法の本。
第5部「アスペクト」、第6部「テンス」、第7部「肯否」を収録。

むちゃくちゃ面白い。
夢中になって読んでいたら付箋が50枚くらい付いてしまった。

日本語の文法について、いかに自分が知らないかということがわかって、実に新鮮である。

アスペクトの表現には、表現者である話し手がその事態をどのように観察しているかということが反映される。
テンスは、非過去形と過去形という述語の形態によって表し分けられるので、非過去形・過去形の対立をもたない述語には、テンスがない。
動き動詞の非過去形には、目の前で展開している動きを観察して述べる用法がある。
過去形を用いると、話し手が何らかの形で直接体験したようなニュアンスが生じるのに対し、非過去形にはそのようなニュアンスはないという違いがある。
否定文は、現象をそのまま述べる文よりも、話し手の判断を述べる文で用いられやすい。

印象に残った部分を少し抜粋した。これだけ読んでも何のこと?という感じだが、本の中では一つ一つ例文を挙げながら体系的に説明しているので、非常にわかりやすい。

全7巻のシリーズなので、他の巻も読んでいきたい。

2007年11月25日第1刷、2012年4月1日第2刷、くろしお出版、2800円。

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2016年03月17日

飯間浩明著 『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』


季刊誌「楽園」の2006年4月号〜2015年4月号までの連載に、大幅に加筆修正を行い、再編集したもの。

『三省堂国語辞典』編集委員を務め、「国語辞典編纂者」の肩書きを持つ著者が、コミュニケーションや分かりやすい表現などについて、言葉の面から記している。

ことばの中には、指すものの実態が変わっても、なおも使われ続けているものが少なくありません。靴を入れても「下駄箱」、ペンを入れても「筆箱」と言うのは、その典型的な例です。
従来の常用漢字表にあって、すでによく使っている漢字も、改めて見ると、活字のとおりに書くとおかしいものがあります。典型的なのは「人」です。誰だって、こんなとんがり屋根のような形には書きません。
一般に、形容詞を多用すると、感情や評価を含む主観的な表現になりがちです。一方、動詞を使うと、批判も称賛も含まない、客観的な言い方がしやすくなります。このことは、形容詞「汚い」と動詞「汚れる」を比較するとよく分かります。

最後の引用部分は、短歌にも関わる内容であろう。さらに、形容詞の中にも、「うれしい」「おそろしい」「恥ずかしい」などの感情形容詞と、「広い」「長い」「赤い」などの属性形容詞があることが別の個所で述べられている。

このあたり、少し前にブログに書いた「描写の言葉」と「心情の言葉」の話とも、深く関係してくる。

2015年5月1日、PHP新書、780円。

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2015年10月13日

益岡隆志著 『24週日本語文法ツアー』


全24回にわたって、「補足語」「ヴォイス」「テンスとアスペクト」「ムード」「主題」「副文」「品詞」など、日本語文法の見どころと面白さを記した本。『基礎日本語文法―改訂版―』とあわせて読むと良い。

紹介の場面を文で表現しようとすれば、どのような言い方になるでしょうか。文の中心は、「紹介する」という動詞ですね。(…)「紹介した。」と言うだけで、「誰かが誰かを誰かに紹介した。」といった内容の文であることが了解されるはずです。

日本語文法においては、文の構造を「主語―述語」とは見なさない。文の中心は「述語」であって、それが「補足語」を伴うという考え方である。例えば「紹介する」という述語は「ガ格」「ヲ格」「ニ格」を必要とする。そこでは、従来主語と呼ばれていた部分(「ガ格」)は「ヲ格」や「ニ格」と同じ補足語に過ぎない。

テンスは、過去・現在・未来という時間の流れに関係すると言いましたが、日本語の述語の表現は、基本形とタ形という2つの形を区別するだけです。時間そのものには過去・現在・未来という3つの区別が考えられても、述語の表現は2つの区別しかないわけです。

「テンス」(「今」を基準として出来事の時を位置づける述語の形式)と「アスペクト」(動きの時間的展開の段階を表す形式)の話も大切だ。口語短歌や文語短歌の「時制」の話をする時も、「テンス」と「アスペクト」をきちんと区別して考える必要があるだろう。

その他、「限定的(制限的)な修飾」と「非限定的(非制限的)な修飾」の違いや、「連用形並列」と「テ形並列」の違いなど、短歌を読んだり作ったりする上で示唆に富む話がいくつも出てくる。

短歌を読んだり作ったりする上で文語文法を学ぶことは大切だが、現代の日本語文法を知ることも、それに劣らず大事なことであるに違いない。

1993年10月31日 第1刷、2014年5月8日 第13刷。
くろしお出版、2200円。

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2015年09月23日

今野真二著 『盗作の言語学』


副題は「表現のオリジナリティーを考える」。

小説、俳句、短歌、辞書など、数多くの実例を引きながら、「盗作」と呼ばれる現象を日本語学的に分析し、さらには表現におけるオリジナリティーとは何かを考察した本。

最近話題になったオリンピックのエンブレム問題とも関わる話だろう。ただし、刺激的なタイトルが付いているものの、「盗作」の事件性や話題性について書かれているわけではない。あくまで言語表現自体についての話である。

木俣修や北原白秋の添削指導、寺山修司「チェホフ祭」、白秋の同一テーマによる短歌と詩など、短歌作品も多く取り上げられている。

言語は始まりがあって終わりがあるという「線状性(linearity)」を備えている。だから、情報がどのような順序で提示されるかということは重要である。
和歌や俳句をかたちづくる言語は、語そのものはいわゆる「散文」と同じであっても、働き方は「散文」とまったく異なると考える。
俳句のような短詩型文学では、説明はしない方がいい。というより、説明しないのが短詩型文学であろう。
誰も使ったことのない単語というものをつくりだして使うということは通常はできないし、言語に関しては、複合語として新しいとか、語句(=単語の組み合わせ)として新しいとか、さらに大きな言語単位として新しいとか、そうした「新しさ」以外は考えられない。

このあたり、どれも短歌の実作の手引と言っても良い内容だろう。
それにしても、近年、著者の今野真二さんの本が続々と刊行されている。おそろしいほどの仕事量だ。

2015年5月20日、集英社新書、720円。

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2015年09月01日

荒川洋平著『日本語という外国語』


日本語教師になりたい人向けの入門書であるが、そうでない人が読んでも十分におもしろい。国文法(いわゆる学校文法)とは違う日本語文法についても、概略が記されており、知らなかったことがいっぱい出てくる。

国文法における動詞の終止形と連体形は同じ形ですが、日本語教育ではこれを「辞書形」として、一つにまとめ上げています。

国文法においては文語(古文)との継続性を重視して、口語の動詞の活用でも「終止形」「連体形」を区別しているが、確かに口語だけに限って考えれば区別する必要はないわけだ。

学校で勉強した英文法では「十二時制」と呼んで、時制を現在進行形や過去完了形などに分類していますが、これは「テンス」と、後で述べる「アスペクト」を一緒にしたものです。

この「テンス」と「アスペクト」の区別というのが、けっこう大事なのだろう。学校では国文法でも英文法でも、そのあたりは習わなかった気がする。

実は日本語の動詞には(…)前のことを示す「過去形」と、そうではない「非過去形」しかありません。
動作を示す動詞が、現在のことを示すためには、「いま食べている」のように、「食べる」をテ形「食べて」に変え、それにプラスして「いる」の助けを借りなければなりません。

こうした日本語文法の基本的な知識は、例えば角川「短歌」9月号に大辻隆弘さんが書いている「口語の時間表現について」という問題を考える際にも、大いに役に立つのではないかと思う。

2009年8月20日、講談社現代新書、800円。

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2015年08月14日

原沢伊都夫著 『日本人のための日本語文法入門』


東郷雄二さんや中西亮太さんとの議論の中で、「ル形」という用語が出てきた。どうも日本語文法と呼ばれるものは、学校で習った文法とは随分と違うらしい。そんな興味から読んだ一冊。

現在、日本語文法というとき、日本人のための国語文法(本書では学校文法と呼ぶことにします)と外国人に教えるための日本語文法があり、両者には共通する用語も多くありますが、基本的な文の構造に対する考え方はまったく異なっているのです。

読んでみると実におもしろい。今の文法はこんなことになっていたのか!とワクワクすることばかり。「ル形」「タ形」「テイル形」「テアル形」「ガ格」「ヲ格」「イ形容詞」「ナ形容詞」「子音動詞」「母音動詞」といった用語も初めて理解した。

「主題と解説」「自動詞と他動詞」「ボイス」「アスペクト」「テンス」「ムード」といった基本的な事項を、具体例をいくつも挙げながら丁寧に説明してくれる。また、横書きというスタイルや「〜なんですね」「〜わけではないんですよ」といった語りかける口調の文章など、読みやすいようによく工夫されている。

これはざっくりとした印象なのだが、文語短歌を読むには古典との継続性を重視した学校文法の知識で良いが、口語短歌について考える時には日本語文法の知識が求められるのではないか。

このテーマはしばらく追ってみたい。

2012年9月20日、講談社現代新書、740円。

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2015年07月04日

金水敏著 『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』


「もっと知りたい!日本語」シリーズの一冊。

「そうじゃ、わしが博士じゃ」という博士に会ったことがありますか?「ごめん遊ばせ、よろしくってよ」としゃべるお嬢様に会ったことがありますか?

といった疑問を出発点として、特定のキャラクターと結びついた特徴ある言葉づかいを「役割語」と名づけ、その起源や意義などを考察した本。非常におもしろく、刺激的な一冊だ。

著者は、江戸時代以降の文章や小説、童謡、マンガなど様々な資料を用いて、役割語の起源を追求し、その変遷を描き出す。

結局、〈老人語〉の起源は、一八世紀から一九世紀にかけての江戸における言語の状況にさかのぼるということがわかった。当時の江戸において、江戸の人たちの中でも、年輩の人の多くは上方風の言葉づかいをしていたのであろう。

さらには、物語の中で「標準語」と非「標準語」を話す人物が登場する場合、読者は「標準語」を話す人物に感情移入する点を指摘する。その上で、中国人を描く際に使われる〈アルヨことば〉などを踏まえて、

異人たちを印象づける役割語は、(…)〈標準語〉の話し手=読者の自己同一化の対象からの異化として機能し、容易に偏見と結びつけられてしまう

といった問題点に言及するのである。

「役割語」という見方・捉え方をすることによって、言葉をめぐる実に多くの可能性や問題点が浮き彫りにされてくる。

この本はもう10年以上前のものだが、著者はその後も『コレモ日本語アルカ? 異人のことばが生まれるとき』(岩波書店、2014年)、『〈役割語〉小辞典』(研究社、2014年)といった本を出している。引き続き読んでいきたい。

2003年1月28日 第1刷発行、2014年11月14日 第13刷発行、岩波書店、1700円。

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2014年05月31日

リービ英雄著 『我的日本語』


副題は「The World in Japanese」。

1967年、17歳の誕生日前日にたどり着いた新宿。
やがて日本語で小説を書くようになる著者が、自らの人生や小説をたどりながら、「日本語による世界」「日本語を通してはじめて見える世界」とはどういうものか、語った一冊である。

そこから浮かび上がってくるのは、中国とアメリカという二つの巨大な国家・文明との関わりの中で日本がたどって来た歴史であり、日本語の歴史である。

日本語を書く緊張感とは、文字の流入過程、つまり日本語の文字の歴史に否応なしに参加せざるを得なくなる、ということなのだ。誰でも、日本語を一行書いた瞬間に、そこに投げ込まれる。

こうしたことを普通私たちはあまり意識しないが、言われてみるとなるほどと頷かされる。漢字かな(カタカナ、ローマ字)混じりの文章を書くこと自体に、既にこの国の歴史が深く刻まれているわけだ。

9・11(アメリカ同時多発テロ)に関する話も実におもしろい。当初、アメリカにおけるニュースの映像には「9.11 8:30」というテロップしかなかったのが、翌日には「攻撃されるアメリカ(America under attack)」という字幕が付き、アフガン攻撃が始まると「アメリカが打ち返す(America strikes back)」となる。

そのようにして物語が作られて行き、そして物語ができると誰もが安心して、それ以上は考えなくなるのだ。その心理は実によくわかる。おそらく短歌で社会詠を詠む時の難しさも、そのあたりにあるのだろう。

2010年10月15日、筑摩選書、1500円。

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2014年01月28日

井上ひさし・平田オリザ著 『話し言葉の日本語』


2003年に小学館より刊行された本の文庫化。

1996年から2001年まで、戯曲専門雑誌「せりふの時代」に掲載された二人の対談13篇が収められている。

「せりふ」「助詞・助動詞」「敬語」「方言」「対話」「流行語」など、毎回決められたテーマに沿って交わされる二人の話はとてもおもしろい。

初回の対談時の年齢は井上が62歳、平田が34歳。親子ほども年の離れた二人が率直に意見を出し合っている。異なる世代の二人が語り合うからこそ、それぞれに新しい発見があるのだろう。
平田 自分でも思いもよらなかったせりふが出てくるというか、まさに前のせりふに導き出される。そういうことがよくあると思いますね。
井上 言葉を組み合わせたり、つむぎ出したり、いろいろしながら、演劇というのは、結局は言葉で表現できないものを表現しようとします。
平田 寺山修司さんがかつて「演劇の半分は観客がつくる」という名言を残してくれましたが、これを九〇年代風に言い替えますと、「演劇のリアルの半分は観客の認知が支える」ということになると僕は思うわけです。
井上 戯曲を書こうと思ったときに、たとえば原爆をテーマにしようとか敗戦間際の大連を書こうとかといったテーマや思想や構想を最初にもって書き出すと、必ずと言っていいほど、失敗します。

演劇や戯曲、さらには日本語全般を考える上で、示唆に富む言葉がたくさん出てくる。

2014年1月1日発行、新潮文庫、590円。

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2013年12月06日

西村義樹・野矢茂樹著 『言語学の教室』


副題は「哲学者と学ぶ認知言語学」。

哲学者の野矢が西村から認知言語学の講義を聴くというスタイルで、6回にわたって行われた対談をまとめたもの。すこぶる面白い。

「雨に降られた」は自然な日本語なのに「財布に落ちられた」はヘンなのはなぜか、とか、「花子は交通事故で息子を死なせてしまった」と「息子に死なれてしまった」とどちらでも表現できるのはなぜか、とか、「ブザーを押す」と「ブザーが鳴る」ではブザーの指す場所が違っている、とか、そんな話がたくさん出てくる。

専門的な内容もだいぶ含まれているのだが、講義という形で話が進んでいくので理解がしやすい。しかも一方的に「教える―教わる」のではなく、生徒役の野矢さんがしばしば反論したり、自分の意見を述べるのがいい。
野矢 ラネカ―には悪いけど、認知主義の意味の捉え方を示すのに、そんなにいい例だとは思えませんでした。
西村 えーっ、そうですか?

こんなところ、ほとんど漫才みたいで楽しい。

2013年6月25日、中公新書、840円。

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2013年04月10日

わぐりたかし著 『ぷらり日本全国「語原遺産」の旅』

日本語の旅人「語源ハンター」を自称する著者が、さまざまな日本語の語源を探して全国各地を旅してまわった記録。2010年から12年まで読売新聞に連載した文章から17編を選び、大幅に加筆して一冊にまとめている。

「春一番」が壱岐に伝わる悲劇が元になっていることや、「銀ブラ」が「銀座をぶらぶらする」のではなく「銀座までぶらぶらする」ことだったという話など、どれも新しい発見があり推理小説を読むような面白さがある。

そして、大事なことは、それが雑学や蘊蓄レベルにとどまっていないということだろう。
文献、資料をあさり、言葉の由来と特定の土地が結びつくケースを見つけたら、これ幸いとばかりに電車とバスを乗り継いで現地へ出かけてぷらりぷらり。袖振りあうも多生の縁。地元の方と、よもやま話のひとつやふたつ。ついでに語源の話をする気ままな一人旅。

つまり、「言葉」だけでなく「土地」や「地元の方」が必要なのである。言葉をきっかけにして、その背後にある土地や人の物語を探り当てることこそ、著者の狙いなのであり、この本の見どころであるわけだ。

おそらく日本でたった一人の「語源ハンター」が書いたこの本を読んでいると、自分の興味や関心を最優先することの大切さを改めて感じる。他人がどう思うかではなく、自分が興味があるかどうか。そこに一番の力点がある。

2013年3月10日、中公新書ラクレ、860円。

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2013年02月28日

柳父 章 著 『翻訳語成立事情』

著者名は「やなぶ・あきら」。

幕末から明治にかけて生まれた翻訳語の成立過程を分析しながら、翻訳語の持つ問題点や西洋思想を翻訳して取り入れたことで日本が抱えた難しさについて論じた本。取り上げられている言葉は「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」の10個。30年以上前に出た本だが、名著と言われるだけのことはあり、刺激的な一冊である。

著者の考えによれば、翻訳語と原語は同じ意味を持つのではなく、漢字を用いた難しそうな翻訳語は、そこに何か重要な意味があるのだと示す働きをしているということになる。
日本語における漢字の持つこういう効果を、私は「カセット効果」と名づけている。カセットcassetteとは小さな宝石箱のことで、中味が何かは分らなくても、人を魅惑し、惹きつけるものである。

次の文章も基本的に同じことを言っているだろう。
しかし、およそ物事は、すっかり意味が分った後に受け入れられる、とは限らない。とにかく受け入れ、しかる後に、次第にその意味を理解していく、という受け取り方もある。私たちの翻訳語は、端的に言えば、そのような機能をもったことばなのである。

幕末から明治にかけて、手探りで西洋語を翻訳した福沢諭吉、西周、森鴎外、中村正直といった人々の苦闘の跡が甦ってくる。また、翻訳をめぐる問題が決して過去のものではなく、現在にも受け継がれている問題なのだということをまざまざと感じさせられた。

1982年4月20日、岩波新書、720円。

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2013年01月27日

『百年前の日本語』のつづき

第4章「統一される仮名字体」では、異体仮名(変体仮名)のことが取り上げられている。
(…)一つの仮名に複数の字体が存在していることが、日本語の歴史においては長く一般的であった。この複数の仮名字体のことを「異体仮名」と呼ぶ。

こうした複数の字体が統一される大きな要因となったのが、明治33(1900)年に出された「小学校令施行規則」なのだそうだ。この規則の中で「小学校ニ於テ教授ニ用フル仮名及其ノ字体ハ第一号表ニ(…)依リ」と定められた。
明治三十三年以降、「第一号表」の仮名字体が小学校で教えられ、次第に標準的な仮名字体として定着していくことになる。

こうして「標準的な仮名字体」が決まったために、それ以外の字体は今では「変体仮名」と呼ばれるようになったわけだ。

『現代短歌全集』(筑摩書房)の第一巻は明治42年以前の歌集を収録している。それを読むと、そうした変体仮名がしばしば使われている。使用されている変体仮名を元になった漢字で示してみると、次のようになる。

・與謝野鉄幹『東西南北』(明治29年) は(八)、に(爾)、お(於)
・金子薫園『かたわれ月』(明治34年) し(志)、お(於)、こ(古)、そ(曽)、え(江)
・與謝野鉄幹『紫』(明治34年) そ(曽)、こ(古)、お(於)、え(江)
・服部躬治『迦具土』(明治34年) し(志)
・鳳晶子『みだれ髪』(明治34年) なし
・みづほのや(太田水穂)『つゆ艸』(明治35年) そ(曽)、お(於)、え(江)
・佐々木信綱『思草』(明治36年) し(志)、は(八)
・尾上紫舟『銀鈴』(明治37年) なし

当り前の話ではあるけれど、短歌の歴史が日本語の歴史と深く関わっていることを、あらためて感じた。

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2013年01月24日

今野真二著 『百年前の日本語』

副題は「書きことばが揺れた時代」。

今から100年前、明治時代の日本語はどのように書かれていたのか。漱石の自筆原稿や当時の新聞、雑誌、辞書などを取り上げて、現在との違いやその意味するところを論じている。

本書の特徴は、数多くの図版を載せて、明治時代の書きことばの豊富な例を具体的に示している点にあるだろう。漢字や平仮名の字体、仮名遣い、振仮名、漢語の読みなどの多様さが、実に印象的である。まさに、百聞は一見に如かずだ。

私たちは「漱石の小説は当て字が多い」などとよく言ったりするが、この本を読むと、それが当時の日本語の書き方としては別に特別なことではなく、むしろ普通のことだったことがわかる。そのあたりは、現在の眼で見ていてもわからないのだ。
明治期とは、「和語・漢語・雅語・俗語」が書きことば内に一挙に持ち込まれ、渾然一体となった日本語の語彙体系が形成された「和漢雅俗の世紀」であった。

といったあたり、明治の和歌革新ともつながる話であろう。日本語と短歌というテーマで考えてみるのも面白そうだ。

2012年9月20日、岩波新書、700円。

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2013年01月15日

『ちんちん千鳥のなく声は』のつづき

山口仲美さんは、擬音語・擬態語をはじめとした日本語学の専門家。『犬は「びよ」と鳴いていた』『日本語の歴史』など、おもしろい本を数多く出している。以前、「短歌研究」で小池光さんとも対談をしていた。

近代・現代短歌で鳥の鳴き声を詠み込んだ短歌はないかと考えると、まず思い付くのはフクロウの歌だ。
梟(ふくろふ)はいまか眼玉(めだま)を開くらむごろすけほうほうごろすけほうほう
                       北原白秋『桐の花』
ほろすけほう五(いつ)こゑ六(む)声郊外の夜霧に鳴きて又鳴かずけり
                       古泉千樫『屋上の土』
病める子よきみが名附くるごろさんのしきり啼く夜ぞゴロスケホウッホウ
                       宮 柊二『日本挽歌』
ごろすけほう心ほほけてごろすけほうしんじついとしいごろすけほう
                       岡野弘彦『飛天』

それぞれ「ごろすけほうほう」「ほろすけほう」「ゴロスケホウッホウ」「ごろすけほう」という言葉でフクロウの鳴き声を表している。こうした例をいろいろと探してみるのも面白そうだ。

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2013年01月14日

山口仲美著 『ちんちん千鳥のなく声は』

副題は「日本語の歴史 鳥声編」。
1989年に大修館書店より刊行された『ちんちん千鳥のなく声は―日本人が聴いた鳥の声―』を文庫化したもの。

和歌や狂歌、物語、狂言、童謡、唱歌など数々の文献を調査して、日本人が鳥の鳴き声をどのように言葉で表してきたかを歴史的に考察している。取り上げられているのは「カラス」「ウグイス」「ホトトギス」「トビ」「ヌエ」「スズメ」「フクロウ」「キジ」「チドリ」「ウトウ」「ガン」「ニワトリ」の12種類の鳥。

著者は「写声語」(実際の声をできるだけ忠実に再現したもの)と「聞きなし」(普段使っている言葉に当てはめて声を聴くもの)という二つの概念を用いて、鳥の鳴き声を探り当てていく。

その結果、明らかになるのは、実にさまざまな鳴き声の変遷である。そこではウグイスが「ヒトクヒトク」と鳴いたり、スズメが「シウシウ」と鳴いたり、ニワトリが「カケロ」と鳴いたりしている。

こういう本を読むと、やはり学者というのはすごいなあと思う。専門的な知識や文献の調査力ももちろんだが、その成果を一般の人にもわかるように伝える力というものに驚かされる。

2008年11月6日、講談社学術文庫、1050円。

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2012年10月14日

鷲田清一著 『「ぐずぐず」の理由』


さまざまなオノマトペ(擬音語、擬態語)を取り上げて、その言葉の肌触りや成り立ち、働きなどを論じた一冊。オノマトペ論であると同時に、オノマトペを切り口にして、言語や身体、人間について考察した内容となっている。

この本の最大の特徴は、著者が文章を書き進めながら、常に考え続けていることだろう。何か一つの結論へ向かってまっすぐに進んでいるのではない。まさに手探りといった感じである。

日本語のオノマトペは、実詞を基に作られた「境界オノマトペ」(くどい―くどくど)とそれ以外の「真正オノマトペ」に分けられることなど、言語学的な説を参照しつつ、それを答えとするのではなく、さらにそこから考えを展開していく。

例えば、
「ね」は、それを発音するとき、「に」以上に舌が横に広がるので、下と上顎の接触面は、その接触によって音を出すナ行のなかでももっとも大きい。(…)この接触面の大きさによって、「ね」は粘着性や執拗さ、つまりはしつこさの音声的表現にぴったりである。
といった音声的な分析から始めて、「ねちねち」「ねっとり」「ねとねと」「ねばねば」といったオノマトペ、さらに「ねぶる」「ねたむ」ねだる」といった動詞や「ねんごろ」「ねぎらい」「ねじれ」といった名詞、そして「ねえ」という感動詞にまで話は広がっていく。

オノマトペの持つ身体性は、人間と言葉の関わりを考える上で、一つの大切な鍵になるのかもしれない。

2011年8月25日、角川選書、1600円。

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2012年09月28日

山口仲美著『日本語の歴史』


「話し言葉」と「書き言葉」のせめぎ合いという観点から描いた日本語の歴史。

章立ては「漢字にめぐりあう―奈良時代」「文章をこころみる―平安時代」「うつりゆく古代語―鎌倉・室町時代」「近代語のいぶき―江戸時代」「言文一致をもとめる―明治以後」となっていて、トピックを絞ってわかりやすく書かれている。

この一冊を読めば、文字の誕生から現在へ至るまでの流れが一貫したものとして見渡せるとともに、今後の日本語に対する問題提起も含んだ内容だ。

いくつも面白い指摘がある。
例えば、漢文を和語で訓読することに関して。
 その訓読に使う和語が、日常会話で使う和語とは異なっている。ここが面白い。たとえば、「眼」と書かれた漢語を「ガン」と音読みにしないで、「まなこ」という和語に翻訳して訓読する。ところが、日常会話で一般に使う和語は「め」。こんなふうに、漢文訓読の時にだけ用いる和語がたくさんあります。
あるいは、尾崎紅葉の「である」体について。
 それまで地の文で説明に用いられる文末は、「でございます」「であります」「です」「だ」です。ところが、これらは、いずれも読み手に直接働きかけてしまう文末なのです。地の文で客観的に説明したい時には、向かない表現形式なのです。
 それに対して、「である」は、客観的に説明するのに向いています。
自分が文章を書く際にも参考になる話だと思った。

2006年5月19日、岩波新書、740円。

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2011年03月26日

小池和夫 『異体字の世界』


副題に「旧字・俗字・略字の漢字百科」とあるように、狭義の異体字だけでなく漢字のさまざまな字体について、その歴史的な経緯や現状を詳しく記した本。著者はJIS規格(第3・第4水準漢字)の開発に関わった方。
正字と俗字、その他の異体字が混在した一見無秩序な日本語表記の世界。その混乱を解決しようとする努力が、「漢字制限」と「字体整理」でしたが、押さえつければどこからか漏れ出すのが世の習い。

とあるように、漢字を秩序立てて整理しようという試みはこれまで何度も行われてきたものの、いまだに整理できていないのが現状。というより、完璧に整理しようと思うのがそもそも間違いなのだろう。ある程度の差異や揺れ幅、不統一を許容する方がむしろ合理的なようだ。

口語・文語の問題にも似ているのだが、手書きの字体と印刷字体に差が生まれるのは当然のこと。手書きの字体が省略などによって変化しやすいのに対して、印刷字体は一度決まれば変化しない。その差を埋めていく作業は、いたちごっこにも似ている。

また、戦後の旧字から新字への移行も、いくつもの問題を抱えている。この移行は当用漢字字体表に記載された一部の漢字についてだけ行われたものであった。

 A→a (旧字→新字)
 B→B (変更なし)
 c→c (変更なし)

これが、やがて字体整理を表外の漢字にまで当て嵌めた拡張新字体「B→b」を生み出す。さらには、歴史的に存在しなかった拡張旧字体「C←c」までも生み出してしまうという奇妙な現象を引き起こしている。

読めば読むほどその混乱ぶりに頭が痛くなってしまうのだが、それをむしろ豊かさとして楽しむようなゆとりが必要なのかもしれない。

2007年7月20日、河出文庫、640円。
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2010年11月25日

柳瀬尚紀『日本語は天才である』


ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の翻訳をしたことでも有名な著者が、翻訳を通じて感じた日本語の特性や豊かさを自由に論じた本。どの話も翻訳の現場や自らの体験から生まれており、説得力がある。

柳瀬はカタカナ・ひらがな・漢字・ルビなどの多彩な表記と古語や文語、日常あまり使われない言葉まで駆使した語彙によって、翻訳不可能と思われる言葉遊びやアナグラムまでも翻訳してしまう。その手腕の根底にある言葉に対する愛情は、この本からもひしひしと伝わってくる。

翻訳の日本語と言うと、得てして「翻訳調」といった感じに日本語が貧しく狭くなる方向へ向かうものだが、柳瀬の場合はそれが反対に日本語の豊かさや可能性へと向かっている点が特徴的だと思う。その他に、生まれ育った根室の話や、愛猫ぶり、将棋に対する思いなど、著者の素顔も垣間見ることができる。

2009年10月1日、新潮文庫、400円。
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2010年06月28日

山口謠司『日本語の奇跡』

日本語関連本。

副題は「〈アイウエオ〉と〈いろは〉の発明」。五十音図といろは歌の成り立ちを軸に、漢字伝来から明治時代までの日本語の歴史をたどる本。空海、明覚、藤原定家、本居宣長、大槻文彦といった人物が取り上げられている。

新書サイズで通史を描いているので、内容的にはそれほど深くはないが、日本語の歴史の全体像を把握するには良いと思う。
八つの母音を持つ万葉時代の音韻体系は、平安時代初期に突如として消失する。どうして消失したのか……。これについては、いくつかの研究がなされているが、実は『古事記』『日本書紀』『万葉集』を編纂したのが帰化人だったからではないかと筆者は考えるのである。

上代特殊仮名遣いに関するこのような説に、特に興味をそそられた。専門家の間では、どういう議論になっているのだろうか。

全体を通じて気になったのが、日本語礼賛の口調。「日本人の語学的なセンスのレベルの高さ」「世界広しといえども、日本しかないのである」「このような仕組みの言語は、日本語以外にはないだろう」など、どれも日本人にしか通用しない論理だと思う。

2007年12月20日、新潮新書、680円。


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2010年06月10日

川口良・角田史幸『「国語」という呪縛』

日本語関連本。

副題は「国語から日本語、そして○○語へ」。タイトルや副題にある通り、国語=日本語=日本人=日本国=日本文化といった図式を検証することに焦点を当てた一冊。最近はやりの「美しい日本語」論や藤原正彦『祖国とは国語』などへの批判の書でもある。

著者の主張には半ば同意するのだが、イデオロギー臭の強さに辟易させられる。「国語」という思想が差別や排除といった暴力と結び付いてきたのは確かなことだと思うが、そうした考えをすべて「思い込み」「欠陥」「虚妄」「迷妄」と切り捨てて、「今こそ、十分な反省がなされなければいけません」といった文言を繰り返すのはいかがなものか。

「国語」という呪縛から抜け出ようとするあまり、別の呪縛に囚われているような印象を受ける。バランスの良い記述をすることの難しさを考えさせられた。

2010年2月1日、吉川弘文館、1700円。
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2010年06月01日

安田敏朗『「国語」の近代史』

日本語関連本。
副題は「帝国日本と国語学者たち」。

明治から戦後にかけての「国語」の移り変わりや国家の言語政策に、国語学者たちがどのように関わってきたのかを描いた本。登場するのは上田万年・保科孝一・金田一京助・新村出・山田孝雄・時枝誠記など。

明治の近代国家樹立期に地域差や階層差をなくすために生み出された「国語」が、やがて植民地を含めた大東亜共栄圏の共通語という役割を担うようになっていく様子が明らかにされている。

また、表音仮名遣や漢字制限といった国語改革についても、敗戦後に急に巻き起った議論ではなく、明治以来の長い試行錯誤の繰り返しの末に行われたものであることが述べられている。

日本の近代の流れがコンパクトにまとめられており、「国語」の変遷が非常によくわかる。引用文献に関する目配りもいい。ただ、全体としてやや引用に頼る部分が多く、著者自身の言葉で語る部分が弱い印象も受けた。

2006年12月20日、中公新書、880円。


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