庭のそとを白き犬ゆけり。
ふりむきて、
犬を飼はむと妻にはかれる。
石川啄木『悲しき玩具』(1912年)
(長い沈黙)
夫 犬でも飼はうか。
妻 小鳥の方がよかない。
(長い沈黙)
岸田國士『紙風船』(1925年)
庭のそとを白き犬ゆけり。
ふりむきて、
犬を飼はむと妻にはかれる。
石川啄木『悲しき玩具』(1912年)
(長い沈黙)
夫 犬でも飼はうか。
妻 小鳥の方がよかない。
(長い沈黙)
岸田國士『紙風船』(1925年)
仮に現在の三十一文字が四十一文字になり、五十一文字になるにしても、兎に角歌といふものは滅びない。
自分(づぶん)で作つた米をみんな地主(づぬし)にとられて冬がくる、小作はひいひい飢えとる亀ちやのとこじや二升鍋で藁、煮てくつとるだよ/岡部文夫
どんなに俺等が懸命に働こうとよ、原綿が悪くつて運転が早やけりやいつでも糸がモツコモツコになる/吉田龍次郎
おまへらの言ひさうなこつた、臨時同情週間だなんて、人間の一生は永いんだよ、臨時じやだめさ/田邊一子
がらんとした湯槽(ゆぶね)の中にクビになつたばかりの首、お前とおれの首が浮んでゐる、笑ひごつちやないぜお前/坪野哲久
明日午後二時から徹宵の歌会をやるといふ平野君の葉書。
並木から電話。実は電話はイヤだつた。イヤと云ふよりは恐ろしかつた。四年前にかけた事があるッ限、だから、何といふ訳もなく、電話に対して親しみがない。今煙草をのんでるので立たれぬからと無理な事を言つて、女中に用を聞かせると、平野から葉書が来たけれど、何にも書いてないと言ふ。仕方なしに立つて電話口に行つたが、何でもなかつた。これからは、いくら電話がかかつて来てもよい。兼題を知らしてやつた。
遠方に電話の鈴(りん)の鳴るごとく
今日も耳鳴る
かなしき日かな 『一握の砂』
北原君などは、朝から晩まで詩に耽つてる人だ。故郷から来る金で、家を借りて婆やを雇つて、勝手気儘に専心詩に耽つてゐる男だ。詩以外の何事をも、見も聞もしない人だ。乃ち詩が彼の生活だ。それに比すると、今の我らは、詩の全能といふことを認めぬ。
其色と、其才とを以て、天が下の光の君と讃えられた源氏も、二十が二十五になり、二十五が三十になり、三十が三十五になつた。浅間しい。人は生れて、おのづからにして年を老る。そして遂に死ぬ。年を老らずに死ぬものなら、世の中は如何に花やかな、そして楽むべきものだらう。老ゆるに増す浅間しさ悲しさが、またとあらうか。
・「晶子の小説『呂行の手紙』の分析ージェンダーの
視点から」
アロラ・シュエタ(シンガポール国立大学大学院)
・「明治四十四年一月十八〜二十五日における啄木日記と
新聞報道について」
目良卓(国際啄木学会会員)
・「啄木を詠む吉井勇――「渋民村訪問記」をめぐって」
細川光洋(静岡県立大学)
・「「血に染めし歌」とは何か〜「明星」初出の啄木短歌を
めぐって」
松平盟子(歌人・『プチ★モンド』代表)
二時から、金田一君と二人、大学構内の池を見て、上野の太平洋画会を見た。吉田博氏の作に好いものがある。月夜のスフインクス、それから、荒廃した堂の中に月光が盗入つて一人の女が香を炷いて祈禱をしてる図など。
金を欲しい日であつた。此間太平洋画会で見た吉田氏の(魔法)、(スフインクスの夜)、(赤帆)などを買ひたい。
アイヌには忙しくてまだ逢はず候が、当町より十四五町の春採(ハルトリ)湖と申す湖の近所に部落あり、道庁で立てたアイヌ学校ありて永久保春湖と申す詩人が校長の由、遠からず訪問して見るつもりに候。それから社長の所に、明治初年の頃何とかいふアイヌ研究者が編纂したアイヌ語辞典(但し語数順にしたる)の稿本(未だ世に公にせられざる)がある由、これもいつか見たく存居候(金田一京助宛書簡、明治41年1月30日)
誰か北海道から帰つて来ると、内地の人は必ず先づ熊とアイヌの話を聞く。聞くのは可(よ)いが、聞かれる方では大抵返事に窮する。何故と云へば、如何に北海道でも、殊に今日に於ては、さう熊が出て来て大道に昼寝する様な事は無い。(…)
アイヌにしても然(さ)うだ。旅行家とか、さもなくば特別の便宜ある土地に居た人でなければ、随分北海道に永く住んで居ても、アイヌを知らぬ人が多い。偶(たま)にあるとしても、路で遭遇(でつくは)したとか、汽車が過る時停車場に居たのを見た位なもの。地図には蝦夷島(えぞたう)と書いてあつても、さう行く人の数がアイヌと隣同志になつて熊祭の御馳走に招待される訳ではない。(「北海の三都」明治41年5月6日起稿)
雹を見ながら、金田一君と語つた。粉屋の娘の水車で死んだ話。コルサコフの露人の麵麭売の話。アイヌ人の宴会の話。(明治四十一年日誌、6月8日)
十時頃から一時頃まで金田一君と語つた。樺太の話はうれしかつた。鳥も通はぬ荒磯の、太い太い流木に腰かけて、波頭をかすめとぶ鶻の群を見送つたり、単調な波の音をかぞへたりした光景! アイヌ少女のさき!(明治四十一年日誌、7月23日)
サキ ハヤクモ入リ来ル。 端ニ掛ケテ ニコニコシテル 柳ノ眉 メジリ 口モト 可愛ラシイ子ダ。 飯タベナガラ 色々聞ク。手島氏来ル。 晩餐ハ四人デニギハフ。 食ヒナガラ 又 サキニ アイヌ語ヲ問ヒ試ミ 声ニ応ジテ タメラハズ サハヤカニ 問フ。(明治40年8月9日)
立待崎に啄木の墓を訪ふ
さすらへ来(き)て喜び見けむ海を見つつ詩人啄木は眠りてありけり
佐佐木信綱『豊旗雲』
信綱は温厚な風采、女弟子が千人近くもあるのも無理が無いと思ふ。
親譲りの歌の先生で大学の講師なる信綱君の五点は、実際気の毒であつた。
お花やお花、撫子(なでしこ)の花や矢車の花売、月の朔日(ついたち)十五日には二人三人呼び以(も)て行くなり。
泉鏡花「草あやめ」(明治42年)
朝ごとに一つ二つと減り行くに何が残らむ矢ぐるまの花
俛首(うなだ)れてわびしき花の耬斗菜(をだまき)は萎みてあせぬ矢車のはな
風邪引きて厭ひし窓もあけたればすなはちゆるる矢車の花
快き夏来にけりといふがごとまともに向ける矢車の花
長塚節『長塚節歌集』(大正6年)
中華民国の旗。煙を揚げる英吉利(イギリス)の船。『港をよろふ山の若葉に光さし……』顱頂の禿げそめた斎藤茂吉。ロティ。沈南蘋。永井荷風。
最後に『日本の聖母の寺』その内陣のおん母マリア。穂麦に交じつた矢車の花。
芥川龍之介「長崎」(大正13年)
雛罌粟(コクリコ)の花が少しあくどく感じる程一面に地の上に咲いて居る。矢車の花は此國では野生の物であるから日本で見るよりも背が低く、菫かと思はれる程地を這つて咲いて居る。
与謝野晶子「巴里の旅窓より」(大正3年)
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花
石川啄木『一握の砂』
矢ぐるまの花 ― 矢車草。ユキノシタ科の多年草。北海道、本州の深山に生える。高さ一〜一・五メートル。普通五枚の小葉が矢車形につく。夏、黄白色の無弁の小花を円錐状に多数つける。
上田博『石川啄木全歌鑑賞』
「矢ぐるまの花」これは矢車草の花ではなく、セントウレアつまりヤグルマギクの花です。花形が矢車に似ているのでこの名があります。啄木がうたっているのはおそらく青紫色のヤグルマギクでしょう。イメージされているのは五月下旬か六月初旬ころのことでしょうか。
近藤典彦『啄木短歌に時代を読む』
啄木が歌壇に新風をもたらしたとき、これを俳体歌または俳諧式実感歌と呼び、いはゆる専門歌人から白眼視された。(略)一見、平明蕪雑な表現方法は、因習技巧家たる彼らをして、徳川時代の俳諧歌と同い卑俗な歌人と蔑視せしめたものであらう。啄木の歌の一般普及性といふことは、彼の芸術の卑俗性を指してゐるものとは今日では誰も信じてはゐないのである。/油川鐘太郎「啄木雑記」
不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心
「不来方」は盛岡の雅称。自分は何者か、何になるのか。その漠とした不安もそこには託されていたかも。
不来方のお城―盛岡城とも呼ばれた南部藩の居城。明治維新後廃城。
「不来方」の地名がよく効いている。ふたたび来ることのない方。お城が別の名前だったなら啄木はこうは詠まなかったろう。もう二度と来ない、早熟な青春だったから十五歳のこころは空に吸われるのであった。
都大路は、落花の雪に埋もるゝ頃、転地療養にとて、房州は北条の浜辺へ島流し。
自ら焼棄すべきであつた彼の日記を其儘現世へ遺して逝つた啄木、焼けと言はれた遺志に悖つてそれを形見として贈つた節子さん、筐底深く私蔵すべきであつたそれを図書館に寄託して閲読の機縁を作つた私、見すべきでなかつたそれを特殊の人達に繙読させて不識不知の間に公開出版の輿論を培つた岡田氏。その何れもが夫夫に批判さるべき過誤を犯した事になるのであらう。私は然しそれ等の事態の奥底に絡はる、情理を超えた愛着の強さと人力を絶した運命の奇しさとに深く考へさせられる。
予は、唯、死んだら貴君を守りますと笑談らしく言つて、複雑な笑方をした。それが予の唯一の心の表し方であつたのだ! (明治41年9月6日)
正善は東京帝国大学文学部の宗教学科に入学し、そこで日本の宗教学の開拓者である姉崎正治に学んだ。卒業論文は天理教の伝道活動をテーマとしたものだったが、そこにはキリシタンの研究を行っていた姉崎の影響があった。
靴裏に都会は固し啄木忌 秋元不死男
本棚のあたりより暮れ啄木忌 鈴木真砂女
便所より青空見えて啄木忌 寺山修司
鮨台更けて一人が睡る啄木忌 長谷川かな女
城の堀いまもにほへり啄木忌 山口青邨
自己の真実直視の苦闘、これは当時にあっては自然主義の文学的営為であった。しかし啄木にあっては、それを前述したごとく小説執筆において行なうことは不可能であった。啄木は日記において期せずしてその自然主義的営為を行なったのである。
近藤典彦「北海道・東京時代の啄木」
(『ローマ字日記』)なぜ、ここまで率直な内面告白がこの時期にだけ、ローマ字で行われたか、ということが問題になる。答えとしては、近年、池田功の出した説がおそらく最も的を射ている。要するに、啄木はここで、徹底して自己をえぐる一首の私小説を試みているのであって、これは単なる日記ではなく、独立した一つの作品だ、というのである。 今井泰子「石川啄木名作事典」
浅草の凌雲閣(りょううんかく)のいただきに
腕組みし日の
長き日記(にき)かな
石川啄木『一握の砂』
凌雲閣!なる程丁度十二階ある。一体何の為に建てたものぢやらうか、滅法に高いものぢや。少し歪んで居る様ぢや。筋金が打つてある。是は険呑ぢや。彼(あ)れが崩れたら其麼(どんな)ぢやらう、考へて見てもゾツとする。流石に東京者は胆が据つて居る哩(わい)、彼(あ)の危険物を取払はせずに、平気で其近所に住んで居るのは。尤も博覧会は東京に雨が降らぬものとして建てた相ぢやから、此十二階も地震の無い国の積ぢやったらう。
兄について書かれたもののなかには、じつに的はずれな批評、考察、曲解などをまことしやかに語り伝えているものもあります。こうしたことに触れるにつけて、私は驚くと同時に、ただ一人の妹として、できるだけ訂正しておきたいものと考え、このたび本書をまとめました。真実の啄木を知っていただきたいと思ったからです。
人間啄木の受けた最大の苦盃、これあってむしろ死期も早められたかの感がますます深くなってゆくのである、それは最愛の妻より裏切られた事件それ自体であって、最も大きな確証を握って居る者は二人生存して居る。一人は妹の私、一人は姪の稲。(・・・)この意味に於て兄の遺骨を何らの係りもない北海の海辺に置く事は正しく故人の意志を無視したいたずらに過ぎないと思う。
三浦光子「兄・啄木の思い出」
今石川家が存続し居るのも畢竟(堀合)忠操によって遺児が育てられ、結婚し子を持ったからである。
この母(堀合とき子)も節子の死後遺児を見て居ったが、大正八年十二月十八日肺を患ってなくなった。私達は石川家からうつされたものだと思った。
堀合了輔「啄木の妻とその一族」
百年(ももとせ)の長き眠りの覚めしごと
呿呻(あくび)してまし
思ふことなしに
路傍(みちばた)に犬ながながと呿呻(あくび)しぬ
われも真似しぬ
うらやましさに
いらだてる心よ汝はかなしかり
いざいざ
すこし呿呻(あくび)などせむ
腹の底より欠伸(あくび)もよほし
ながながと欠伸してみぬ、
今年の元日。
三味線の弦(いと)のきれしを
火事のごと騒ぐ子ありき
大雪の夜に 『一握の砂』
小奴に似たる娼婦と啄木が五月の浮世小路をあゆむ
栗木京子『ランプの精』
ああ、その女は! 名は花子、年は十七。一眼見て予はすぐそう思った。
「ああ! 小奴だ! 小奴を二つ三つ若くした顔だ!」
程なくして予は、お菓子売りの薄汚い婆さんと共に、そこを出た。そして方々引っぱり廻されてのあげく、千束小学校の裏手の高い煉瓦塀の下へ出た。細い小路の両側は戸を閉めた裏長屋で、人通りは忘れてしまったようにない。月が照っている。
「浮世小路の奥へ来た!」と予は思った。
借金を返さぬ啄木 千束(せんぞく)の浮世小路ををみなとあゆむ
『ランプの精』
しかし一は、生まれた時から歌人群のなかで成長してきたといってよい。
啄木が四千首に及ぶ歌稿『みだれ芦』を編んだ歌人としての父をもったこと、また歌人対月の妹を母としたこと、この血のつながりが彼をして文学、なかんずく和歌に向かわした要因であることは論をまたない。
・「ローマ字日記」私見
・「東海の歌」の定説をめぐって
・啄木と橘智恵子の場合
・詩への転換とその前後
・「不愉快な事件」と「覚書」について
・詩集「あこがれ」発刊について
・啄木負債の実額について
・啄木敗残の帰郷
・啄木釧路からの脱出とその主因
・金田一氏の文章論争
・「手が白く」の歌のモデル
・啄木筆跡の真偽について
私は日記形式を採用して自然主義的私小説を意図したのではないかと考えるのである。
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花
しんとして幅広き街の
秋の夜の
玉蜀黍(たうもろこし)の焼くるにほひよ
かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路の海の冬の月かな
確かに日記や書簡には啄木独特のある種の“粉飾”が施されている事があるのは事実である。
啄木が有名になり出すのは一般的には土岐哀果(善麿)の奔走で漸く出版された『啄木全集 全三巻』(新潮社版 一九一九・大正八年)あたりからで、この『全集』はたちまち三十九版を重ね、啄木の名は全国的に広まった。
啄木には困難な状況に陥ると決まって彼をその困窮から救ってくれる誰かが現れるから不思議である。
私はこれら諸家の『あこがれ』評(低い評価:松村注)に同意できない。
これら二篇の詩は、わが国の詩史上、注目すべき作品である。
明治期の短篇小説の中で、石川啄木の「天鵞絨」を珠玉の一篇として推すことを私は躊躇しない。
私は「鳥影」をすぐれた作品とは考えていないし、「雲は天才である」は未完結であり、かつ失敗作と考える。
石川啄木ほど誤解されている文学者は稀だろうと私は考えている。
啄木には歌の師匠がなかったので、独学で歌の伝統的な詠み方を覚えました。そして、五・七・五・七・七と文語にしたがいながら、溢れる情熱をもって新鮮な歌を詠みました。
一禎は四千以上の短歌を残しました。平凡なものばかりですが、明らかに短歌に相当な関心がありました。また、田舎の僧侶としてめずらしいことに詩歌の雑誌を購読していました。
啄木の父は名もない農民の出であったが、母は由緒正しい南部藩士工藤条作常房の娘で、その兄の対月は当時盛岡の名刹龍谷寺の住職で、学僧として誉れ高い人物であったから、啄木も気位高く育てられた。生涯彼を支配した病的なほどの自負心は、実はこうした啄木の生い立ちに根ざすものである。
啄木は上京後森鷗外の知遇を得たが、東京朝日新聞社に入社してからは、その直前に料亭八百勘で起こった朝日の政治部記者村山定恵の鷗外暴行事件のため、鷗外とは自然疎遠となり、(・・・)以後両者の交渉はとぎれている。
日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上つた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
さうしてる間に金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかゝつた。質屋から出して仕立直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。
母の容態は昨今少し可いやうに見える。然し食慾は減じた。
「病気をしたい。」この希望は長いこと予の頭の中にひそんでいる。病気! 人の厭うこの言葉は、予には故郷の山の名のようになつかしく聞える――ああ、あらゆる責任を解除した自由な生活! 我等がそれを得るの道はただ病気あるのみだ!
・秋韷笛語 明治35年10月30日〜12月19日
・甲辰詩程 明治37年1月1日〜4月8日、7月21日〜23日
・MY OWN BOOK FROM MARCH 4. 1906 SHIBUTAMI
明治39年3月4日〜12月30日
・丁未日誌、戊申日誌
明治40年1月1日〜12月31日、明治41年1月1日〜1月12日
・明治四十一年日誌 明治41年1月1日〜12月11日
啄木の日記は、かれの生涯と作品とに関連して重要な資料であるだけでなく、それじたいとしてきわめてすぐれた文学作品となっている。これほどにおもしろい日記を書いた作家は、日本には類が少ない。
天口堂主人より我が姓命の鑑定書を貰ふ、五十五歳で死ぬとは情けなし、
原稿料がうまく出来たら、吉井君と京都へ行く約束をした。
予には才があり過ぎる。予は何事にも適合する人間だ。だから、何事にも適合しない人間なんだ!
高安月郊氏 京都市新烏丸頭町