2025年04月09日

啄木の「半日」評

啄木が「スバル」で鷗外の「半日」を読んだときの感想が1909(明治42)年の日記に残されている。一昨日「半日」について書いたときに記し忘れたので書いておく。

三月八日 月曜
 スバル三号とゞいた。森先生の(半日)を読む。予は思つた、大した作では無論ないかも知れぬ。然し恐ろしい作だ――先生がその家庭を、その奥さんをかう書かれたその態度!

啄木は作品の出来よりも、家庭生活を克明に描いた鷗外の態度に感銘を受けている。それは、どこまで赤裸々に描けるかという問題が啄木にとっての関心事であったからだ。

この約1か月後の4月7日から、啄木の「ローマ字日記」が始まる。啄木のもっとも赤裸々な作品と言っていいだろう。

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2025年04月05日

明星研究会「与謝野寛・晶子を偲ぶ会」

5月17日(土)に第19回明星研究会「与謝野寛・晶子を偲ぶ会」が行われます。今回のテーマは「Beyond Meiji ―平出修・山川登美子・石川啄木」。若くして亡くなった3名の文学者について考えます。

私も「評論・詩・短歌から読み解く啄木晩年の思想」という題で講演します。啄木の晩年におけるクロポトキンからの影響について主に話す予定です。

参加費は2000円。会場(武蔵野商工会議所「市民会議室」)とZoomの両方あります。ご興味のある方はぜひ!

https://www.myojo-k.net/

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2025年02月26日

明治41年冬の釧路

今日から少し寒さが緩むという話だが、さてどうなるだろう。

そう言えば、啄木も釧路時代に筆が凍る寒さを経験していたなと思って、「明治四十一年日誌」を開いてみる。

一月二十二日
 起きて見ると、夜具の襟が息で真白に氷つて居る。華氏寒暖計零下二十度。顔を洗ふ時シヤボン箱に手が喰付いた。
一月二十三日
 (…)二階の八畳間、よい部屋ではあるが、火鉢一つ抱いての寒さは、何とも云へぬ。
一月二十四日
 寒い事話にならぬ。(…)
 机の下に火を入れなくては、筆が氷つて何も書けぬ。

華氏−20度は摂氏に換算すると−28.9度になる。えっ?と驚くような寒さなのだが、釧路港文館(旧釧路新聞社の建物を復元した観光施設)のHPの「啄木滞在期間の気温一覧」 によれば、

1月22日 最高−12.8℃ 最低−22.0℃
1月23日 最高− 8.2℃  最低−26.1℃
1月24日 最高− 8.5℃  最低−29.3℃

という寒さで、1月27日には最低気温−33.1℃に達している。この年は例年に比べてもかなり寒かったようだ。

1月30日の啄木の手紙(金田一京助宛)にも、こうした釧路の寒さが記されている。

雪は至つて少なく候へど、吹く風の寒さは耳を落し鼻を削らずんば止まず、下宿の二階の八畳間に置火鉢一つ抱いては、怎うも恁うもならず、一昨夜行火(?)を買って来て机の下に入れるまでは、いかに硯を温めて置いても、筆の穂忽ちに氷りて、何ものをも書く事が出来ず候ひし(…)

何ともすさまじい寒さである。今と違ってエアコンもストーブもなく、部屋にあるのは火鉢や行火だけ。部屋全体が温まることはない。

また、筆ではなくペンを使えば字が書けるかと言えば、それもまた難しい。

 こほりたるインクの罎(びん)を
 火に翳(かざ)し
 涙ながれぬともしびの下(もと) 『一握の砂』

今度はペンではなくインクが凍ってしまうのであった。

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2025年01月28日

「角川短歌」2025年2月号

「角川短歌」2月号の連載「啄木ごっこ」(第76回)の題は「啄木死す」。ついに啄木が亡くなった。連載は80回で終了予定なので残り4回。いよいよゴールが見えてきた。

他にも「啄木と帽子」「啄木とルナパーク」「啄木と何となく歌」など、連載に書けなかったネタが残っているので、またどこかで気楽に書いてみたいと思う。

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2025年01月22日

澤地久枝『石川節子』

副題は「愛の永遠を信じたく候」。

堀合節子が石川啄木と出会って結婚し、さまざまな苦労を重ねながら亡くなるまでを描いた評伝。節子の未発表書簡の引用もあり、啄木全集からは見えてこない節子の心情が浮き彫りになっている。

数多くのノンフィクション作品を手掛けた著者の筆力ならではの一冊と言っていいだろう。読みやすく、ぐいぐい引き込まれる。そして、中身も濃い。

「吾望みのすべては君なり」という節子の手紙は、孤独な窮地にいる啄木の心を甘く揺らし涙を誘った。しかし活路はどこにも見出せず、敗残者として心萎えたと伝えるには重すぎる、枷のような信頼と讃美の恋文でもある。
この歌が詠まれる現実的な情景は小樽のこの朝のほかにない。そして常に啄木の歌よりは現実の世界の方がはるかに苛酷である。
「古今を通じて名高い人の後には必ず偉い女があつた事をおぼへて居ます。私は何も自分を偉いなどおこがましい事は申しませんが、でも啄木の非凡な才を持てる事は知つてますから今後充分発展してくるやうに神かけていのつて居のです」

啄木の没後に日記を焼却せず、多くの遺稿とともに整理・保存した節子は、後に啄木が世に知られるようになる立役者と言っていいだろう。27歳で亡くなった節子に対する著者の心寄せも胸に沁みる。

1981年5月12日、講談社、980円。

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2025年01月09日

連載で文章を書く

「角川短歌」に連載中の「啄木ごっこ」の第77回を書いている。2018年11月号から始まった連載は、気づけば丸6年を超えた。

これまで、雑誌の連載をもとに2冊の本を出している。

『高安国世の手紙』(2013年)は2009年から2011年まで「塔」に計35回連載した文章をまとめたものだし、『樺太を訪れた歌人たち』(2016年)も「短歌往来」に2013年・14年に計24回連載した文章が中心になっている。

連載で文章を書く際に大事なのは、「黙々と書く」ことだ。読者からの反応は連載の初めの数回だけで、それ以降はほとんど(あるいは全く)反響はない。書いているうちに、一体自分は何をしているんだろうという疑問も湧いてくる。

そんな時に忘れてはならないのが「黙々と書く」ことである。反応があろうがなかろうが、ひたすら書き進める。書いていくうちに自分なりの発見もあるし、道筋が見えてくることもある。とにかく、黙ってこつこつ書くだけだ。

幸いなことに「啄木ごっこ」は連載の終わりが見えてきた。第80回の完結に向けて、引き続き残りの4回を黙々と書いていきたい。

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2025年01月08日

七宮A三『晩年の石川啄木』

1972年に冬樹社より刊行された単行本(宮守計名義)の新書化。著者名がペンネームから本名に変っている。

啄木と啄木が晩年に親しくしていた丸谷喜市(1887‐1974)の関わりを記した本。丸谷は当時、東京高等商業学校専攻部(現在の一橋大学)の学生で、後に経済学者となり神戸経済大学(現在の神戸大学)の学長などを務めた。

許嫁七宮きよとは、大正三年に結婚。息子四人、娘二人を得たが、二人の娘には、それぞれ、京子、節子と名づけた。

丸谷が二人の娘に、啄木の娘と妻の名を付けていたという事実を初めて知った。これは丸谷の啄木に対する深い尊敬を示す話だろう。

著者は丸谷の義理の甥であり、1970年に晩年の丸谷から直接数々の貴重な証言を聞き出している。

丸谷 啄木は、当時、五十年前のロシヤの青年のヴ・ナロード≠ノ非常に感激していたことは事実だ。しかし、その受け取り方は感情的、空想的なものだったと思う。
丸谷 啄木はやはり無政府主義を文学者の見方で見ている。どうしてそこにいくか、それをどういう風にするか、そこまでは考えておらんのですわ。可能性も考えていない。

こうした証言は、啄木の晩年の思想を理解する上で大きな示唆を与えてくれる。

1987年3月10日、第三文明社レグルス文庫、680円。

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2024年12月08日

明星研究会シンポジウム

今日は第18回明星研究会シンポジウムをZoomで視聴した。時間は14:00〜16:30テーマは「大逆事件に震撼した時代 〜 平出修・啄木・晶子」。

最初の講演は中川滋さんの「〈平出修研究会〉の沿革〜平出洸氏を偲んで」。

中川さんは平出修の孫。平出の息子や研究者を中心として1965年頃に発足した「平出修研究会」の60年にわたる歩みを語られた。平出は35歳の若さで亡くなったが、「明星」「スバル」の歌人として、また大逆事件の弁護人として数多くの足跡を残した。研究会は「平出修研究」第1集〜第50集、さらに『定本 平出修集』全4巻を刊行。平出の書いたものはほぼ全て網羅されているそうだ。

続いて池田功さんの講演「大逆事件・啄木・平出修」。

池田さんは明治大学教授で国際啄木学会の会長を務めている。大逆事件と啄木や平出修の関わりをたどった上で、平出が事件をもとに記した3篇の小説「畜生道」「計画」「逆徒」について詳しく語った。事件に対する平出の考えや態度は小説のなかに明確に記されており、彼の強い信念がよく伝わってきた。

最後に松平盟子さんの講演「晶子とスガ子〜修を介して交差した二人」。

大逆事件で処刑された菅野スガ子はもともと短歌を詠んでおり、平出を通じて獄中に「スバル」と晶子の歌集『佐保姫』を差し入れてもらっていた。時おり劇団青年座の津田真澄さんによる作品朗読を挟みながら、明治に生きた二人の女性に共通する部分と相違する部分を生々しく浮き彫りにする内容であった。

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2024年11月08日

長浜功『啄木の遺志を継いだ土岐哀果』


副題は「幻の文芸誌『樹木と果実』から初の『啄木全集』まで」。

石川啄木との関わりを中心に、土岐哀果(善麿)の業績について記した本。1978年に『石川啄木全集』(新訂増補決定版、全8巻、筑摩書房)が刊行されて以降途絶えている新たな啄木全集への期待も述べられている。

最後に、改めて第三次の『啄木全集』の出版が望まれる、ということである。とはいってもこれは並大抵なことではない。なによりこの大事業を引き受けてくれる人物がいるだろうかということ、また全集は莫大な費用を要する。出版不況の現在ではこの事業を引き継いでくれる出版社はないだろう。

啄木に限らず、「全集」が出版できるのかという問題は、今後ますます深刻になっていくにちがいない。

全体に良い内容の本なのだが、誤記や誤植が多いのが惜しまれる。10か所、20か所くらい軽く見つかる。もっと丁寧に校正を行ってほしいものだ。

2017年5月24日、社会評論社、1700円。

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2024年11月03日

国際啄木学会関西支部研究会

昨日は15:00から立命館大学朱雀キャンパスの教室で、国際啄木学会関西支部の研究会に参加した。

啄木学会所属の方と学生など十数名が参加。他に、オンラインで視聴された方もいらっしゃった。

18:00前に終って、その後、近くの居酒屋で懇親会。ふだんは歌人とばかり話をしているので、研究者の方と話をするのは新鮮で楽しい。これも、すべて啄木のおかげ。感謝、感謝。

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2024年10月11日

石川啄木と「ゴールデンカムイ」

中川裕『ゴールデンカムイ 絵から学ぶアイヌ文化』には、石川啄木の話が出てくる。啄木は漫画「ゴールデンカムイ」に何度か登場するのだが、両者の関係はそれだけではなかった。

主要登場人物の「ソフィア」のモデルの一人であるロシアの革命家ソフィア・ペロフスカヤ(1853ー1881)が、実は啄木と関わりがあるのだ。

彼は『悲しき玩具』という歌集の中で、「五歳になる子に、何故ともなく、ソニヤといふ露西亜名をつけて、呼びてはよろこぶ。」という歌を詠んでいますが、ロシア人研究者の報告の中に、このソニヤというのがアレクサンドルU世暗殺を指揮したソフィア・ペロフスカヤのことだ(ソーニャはソフィアの愛称)と書いているものがあるということです。確かめてみると日本の啄木研究者も同じように考えているらしいということがわかりました。

これは、まさにその通り。

岩城之徳は『石川啄木伝』に「女性革命家ソフィア・ペロフスカヤ」という一章を設け、この問題を丁寧に論証している。

現実の歴史とフィクションが不思議な符合を見せているのが面白い。

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2023年12月16日

林芙美子と啄木

林芙美子を読んでいると、しばしば啄木の歌が出てくる。

「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」(放浪記)と書く芙美子と「石をもて追はるるごとく/ふるさとを出でしかなしみ/消ゆる時なし」(一握の砂)と詠む啄木には、通じ合う部分が多かったのだろう。

明日の十二日は啄木の記念日だと云うのだけれども、啄木が生れた日なのか亡くなった日なのか、それさえわたしは知らない。読むにはどんな歌がいいだろうと、わたしはトランクから啄木歌集を出してあっちこっちめくってみた。

  百年(ももとせ)の長き眠りの覚めしごと
  呿呻(あくび)してまし
  思ふことなしに

  山の子の
  山を思ふがごとくにも
  かなしき時は君をおもへり

 こんな歌が眼にはいった。辛くなるような気持ちだった。
 「田舎がえり」
  さいはての駅に下り立ち
  雪あかり
  さびしき町にあゆみ入りにき

 雪が降っている。私はこの啄木の歌を偶(ふ)っと思い浮べながら、郷愁のようなものを感じていた。
 「新版 放浪記」
ええめんどうくさい、「いくたびか死なむとしては死なざりし、わが来しかたのをかしく悲し」啄木の歌のせいでもないだろうけれど、いざ日本を遠く離れてみると、妙に涙っぽくもなって来る。
 「下駄で歩いたパリー」

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2023年11月26日

国際啄木学会2023年度秋の大会

国際啄木学会2023年度秋の大会にオンラインで参加した。
13:00〜17:00の4時間。

〇開会挨拶 池田功(国際啄木学会会長)
〇研究発表 工藤菜々子「石川啄木『漂白』論」
      廣瀬航也「啄木短歌における都市歩行」
〇研究情報 森義真「石川啄木記念館の今後」
〇研究交流 中川康子×平山陽
      細川光洋×松平盟子
      ルート・リンハルト×池田功
〇閉会挨拶 河野有時(国際啄木学会副会長)

刺激的な話をたくさん聴くことができて楽しかった。

来年の春の大会は与謝野晶子倶楽部と共催で堺にて開催されるとのこと。ぜひ現地に足を運びたいと思う。

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2023年11月06日

啄木の「かな」問題

先日、大阪歌人クラブの秋の大会で「啄木短歌の超絶技巧」という講演を行ったところ、参加者の方から「啄木の歌には「かな」が多く使われているが、どう思うか?」というご質問をいただいた。

その問題について、少し考えてみたい。

会の終了後に安田純生さんから、桂園派の歌には「かな」が多く使われていると教えていただいた。

大空のみどりになびく白雲のまがはぬ夏になりにけるかな
一むらの氷魚かと見えて網代木の浪にいざよふ月の影かな
/香川景樹

桂園派の歌人に「けるかな」が多いことについては、当時から批判や揶揄があったらしい。「けるかなと香川の流れ汲む人のまたけるかなになりにけるかな」という狂歌が詠まれたりもしている。

気の変る人に仕へて
つくづくと
わが世がいやになりにけるかな

子を負ひて
雪の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな

/石川啄木『一握の砂』

啄木の歌には「けるかな」も「名詞+かな」も多い。
桂園派の歌からの影響という線については、今後調べてみたい。

もう一つ思ったのは、蕪村との関連である。
啄木は一時期、蕪村の句集を愛読していた。

楠の根を静にぬらすしぐれ哉
山は暮て野は黄昏の薄哉
狩衣の袖のうち這ふほたる哉
/蕪村

蕪村に「けるかな」は見当たらないが「名詞+かな(哉)」は頻出する。こちらも、今後の検討課題としよう。

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2023年11月04日

谷村新司と啄木

昨日のフレンテ歌会に、先月亡くなった歌手の谷村新司を悼む歌が出た。その時にも少し話したのだが、谷村の代表作「昴」の歌詞は石川啄木『悲しき玩具』の冒頭2首を踏まえている。

目を閉じて何も見えず 哀しくて目を開ければ
荒野に向かう道より 他に見えるものはなし
(略)
呼吸(いき)をすれば胸の中 凩は吠(な)き続ける
されどわが胸は熱く 夢を追い続けるなり
(略)
/谷村新司「昴」
呼吸(いき)すれば、
胸の中(うち)にて鳴る音あり。
 凩よりもさびしきその音!

眼閉づれど、
心にうかぶ何もなし。
 さびしくも、また、眼をあけるかな。
/石川啄木『悲しき玩具』

この2首は実は啄木の自筆ノート(192首)には入っていない。没後に歌集を編んだ土岐善麿が「最初の二首は、その後帋(紙)片に書いてあつたのを発見したから、それを入れたのである」と記している。この2首を加えて『悲しき玩具』は最終的に194首となった。

谷村新司が本歌取り(?)したのは、そんな特別な2首なのだ。

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2023年02月27日

犬を飼はむ、犬を飼はう

庭のそとを白き犬ゆけり。
 ふりむきて、
 犬を飼はむと妻にはかれる。

石川啄木『悲しき玩具』(1912年)

(長い沈黙)

夫 犬でも飼はうか。
妻 小鳥の方がよかない。

(長い沈黙)

岸田國士『紙風船』(1925年)

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2022年10月21日

啄木の予言?

啄木は「歌のいろいろ」(1910年)の中で

仮に現在の三十一文字が四十一文字になり、五十一文字になるにしても、兎に角歌といふものは滅びない。

と書いている。

いくら何でも51文字なんて大袈裟だろうと思うかもしれないが、なんとそれから20年後の『プロレタリア短歌集1930年版』を見ると、50音以上ある歌がいくらでも載っているのである。

自分(づぶん)で作つた米をみんな地主(づぬし)にとられて冬がくる、小作はひいひい飢えとる亀ちやのとこじや二升鍋で藁、煮てくつとるだよ/岡部文夫
どんなに俺等が懸命に働こうとよ、原綿が悪くつて運転が早やけりやいつでも糸がモツコモツコになる/吉田龍次郎
おまへらの言ひさうなこつた、臨時同情週間だなんて、人間の一生は永いんだよ、臨時じやだめさ/田邊一子
がらんとした湯槽(ゆぶね)の中にクビになつたばかりの首、お前とおれの首が浮んでゐる、笑ひごつちやないぜお前/坪野哲久

まるで啄木の予言が的中したみたいだな。

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2022年09月13日

啄木と電話

啄木の生きていた明治時代、個人間のやり取りは主に葉書や手紙で行われていた。まだ電話は一般には普及していない。

明治23年に日本で初めて東京・横浜間で電話の取り扱いが始まったが、加入数はわずか197件。明治40年でも5万8000件であった。

それでも、啄木が下宿していた蓋平館別荘には電話があったようで、明治41年9月11日の日記に、啄木はこんなふうに書いている。

 明日午後二時から徹宵の歌会をやるといふ平野君の葉書。
 並木から電話。実は電話はイヤだつた。イヤと云ふよりは恐ろしかつた。四年前にかけた事があるッ限、だから、何といふ訳もなく、電話に対して親しみがない。今煙草をのんでるので立たれぬからと無理な事を言つて、女中に用を聞かせると、平野から葉書が来たけれど、何にも書いてないと言ふ。仕方なしに立つて電話口に行つたが、何でもなかつた。これからは、いくら電話がかかつて来てもよい。兼題を知らしてやつた。

下宿先に友人から電話が掛かってきて女中が取り次いでくれたのに、電話に慣れてないので啄木は尻込みする。電話機の扱い方がよくわからなかったのだろう。

結局、電話に出るはめになって友人と話をするのだが、そうすると一転して強気になって、「いくら電話がかかつて来てもよい」と思う。このあたり、いかにも啄木らしくて面白い。

遠方に電話の鈴(りん)の鳴るごとく
今日も耳鳴る
かなしき日かな  『一握の砂』

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2022年08月27日

啄木日記

今日は朝日カルチャーセンターくずは教室で、「啄木日記から見た短歌」という講座を行った。啄木日記の面白さや魅力を少しでも伝えたいと思って喋っていたら、あっという間に90分が過ぎた。

講座では取り上げなかった箇所を2つご紹介。
まずは北原白秋について書いている部分。明治41年9月10日の日記。

北原君などは、朝から晩まで詩に耽つてる人だ。故郷から来る金で、家を借りて婆やを雇つて、勝手気儘に専心詩に耽つてゐる男だ。詩以外の何事をも、見も聞もしない人だ。乃ち詩が彼の生活だ。それに比すると、今の我らは、詩の全能といふことを認めぬ。

裕福で生活にゆとりのある白秋を羨み、また嫉みつつも、詩に対する考え方の違いを明らかにしている。

続いて源氏物語を読んでの感想。明治41年10月1日の日記。

其色と、其才とを以て、天が下の光の君と讃えられた源氏も、二十が二十五になり、二十五が三十になり、三十が三十五になつた。浅間しい。人は生れて、おのづからにして年を老る。そして遂に死ぬ。年を老らずに死ぬものなら、世の中は如何に花やかな、そして楽むべきものだらう。老ゆるに増す浅間しさ悲しさが、またとあらうか。

当時、啄木は満年齢で22歳、数えで23歳。
若さゆえの傲慢さ全開といった感じだが、啄木が老いることなく26歳で亡くなる現実を知っているだけに、複雑な気持ちになる。

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2022年08月23日

講座「啄木日記から見た短歌」

8月27日(土)に朝日カルチャーセンターくずは教室で「啄木日記から見た短歌」という講座を行います。時間は13:00〜14:30。

啄木の日記は読み物としても面白くすぐれた日記文学だと思います。教室受講とオンライン受講があり、またアーカイブ配信(1週間限定)も行いますので、当日ご都合の付かないという方もぜひお申込み下さい。

【教室受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/2a607214-6ffc-c1e6-31e2-6257d8c59df4

【オンライン受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/ad7c6aca-05a5-a88c-7b5d-6257d9b4ca63
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2022年08月14日

講座「啄木日記から見た短歌」

8月27日(土)に朝日カルチャーセンターくずは教室で「啄木日記から見た短歌」という講座を行います。時間は13:00〜14:30。

啄木の日記は読み物としても面白くすぐれた日記文学だと思います。教室受講とオンライン受講の両方ありますので、関心のある方はぜひご参加下さい。

【教室受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/2a607214-6ffc-c1e6-31e2-6257d8c59df4

【オンライン受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/ad7c6aca-05a5-a88c-7b5d-6257d9b4ca63

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2022年06月23日

講座「啄木日記から見た短歌」

8月27日(土)に朝日カルチャーセンターくずは教室で「啄木日記から見た短歌」という講座を行います。時間は13:00〜14:30。

啄木の日記は読み物としても面白くすぐれた日記文学だと思います。教室受講とオンライン受講の両方ありますので、関心のある方はぜひご参加下さい。

【教室受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/2a607214-6ffc-c1e6-31e2-6257d8c59df4

【オンライン受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/ad7c6aca-05a5-a88c-7b5d-6257d9b4ca63

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2022年05月22日

講座「啄木日記から見た短歌」

8月27日(土)に朝日カルチャーセンターくずは教室で「啄木日記から見た短歌」という講座を行います。時間は13:00〜14:30。

教室受講とオンライン受講の両方ありますので、興味のある方はぜひご参加下さい。

【教室受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/2a607214-6ffc-c1e6-31e2-6257d8c59df4
【オンライン受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/ad7c6aca-05a5-a88c-7b5d-6257d9b4ca63

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2022年05月19日

「国際啄木学会研究年報」第25号

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「国際啄木学会研究年報」第25号を読む。

注目すべきは巻頭に掲載された論文「石川啄木とアイヌ」(安元隆子)。15ページにわたって、啄木とアイヌの関わりを記すとともに並木凡平や違星北斗の短歌も紹介している。まさに私の関心にドンピシャの内容で、こういう論文が読めるのは本当にありがたい。

啄木はアイヌと直接の関わりは持たなかったが、親友の金田一京助がアイヌ語学者だったこともあり、手紙や日記にアイヌに関する記述をいくつか残している。
https://matsutanka.seesaa.net/article/484953538.html

国際啄木学会に入会して良かった。

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2022年05月15日

国際啄木学会2022年度春のセミナー

今日は13:00から国際啄木学会の春のセミナー(明星研究会との共催)がZOOMを使って行われた。

研究発表(各30分)が3つと講演(100分)が1つという内容。

・「晶子の小説『呂行の手紙』の分析ージェンダーの
  視点から」
   アロラ・シュエタ(シンガポール国立大学大学院)
・「明治四十四年一月十八〜二十五日における啄木日記と
  新聞報道について」
   目良卓(国際啄木学会会員)
・「啄木を詠む吉井勇――「渋民村訪問記」をめぐって」
   細川光洋(静岡県立大学)

・「「血に染めし歌」とは何か〜「明星」初出の啄木短歌を
  めぐって」
   松平盟子(歌人・『プチ★モンド』代表)

さまざまな観点から調査・研究・分析をしている方々がいることに、あらためて感心する。晶子の小説も読んでみたい。

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2022年01月21日

啄木と絵画

啄木は東京でよく美術展を見に行っている。
明治41年6月7日の日記。

二時から、金田一君と二人、大学構内の池を見て、上野の太平洋画会を見た。吉田博氏の作に好いものがある。月夜のスフインクス、それから、荒廃した堂の中に月光が盗入つて一人の女が香を炷いて祈禱をしてる図など。

ここに出てくる吉田博は、後に新版画で活躍する人物。この時点では版画ではなく洋画を描いていた。

啄木の挙げた2点の絵はどんな作品かと思って調べてみたが、わからない。大正14年の版画作品「スフィンクス」は見つかるけれど、もちろんこれのことではない。
http://inventory.yokohama.art.museum/11359

既に失われてしまった絵画なのだろうか。

【追記】
6月15日の日記に、さらに言及があった。

金を欲しい日であつた。此間太平洋画会で見た吉田氏の(魔法)、(スフインクスの夜)、(赤帆)などを買ひたい。

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2022年01月20日

講座「『石川啄木』こんな歌もあったの?」

1月23日(日)に講座「『石川啄木』こんな歌もあったの?」を行います。主に歌集に収録されてない歌に焦点を当てながら、啄木短歌の魅力に迫ります。ご興味のある方は、ぜひご参加下さい。

日時:2022年1月23日(日)13:00〜15:00
場所:JEUGIAカルチャー京都 de Basic.(地下鉄四条駅すぐ)

https://culture.jeugia.co.jp/lesson_detail_2-46106.html?PHPSESSID=1bv8aiijrc9nr28pg1os6j88d2

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2021年12月25日

啄木とアイヌ

啄木が釧路に住み始めて間もなくの頃の手紙に、アイヌに関する記述がある。

アイヌには忙しくてまだ逢はず候が、当町より十四五町の春採(ハルトリ)湖と申す湖の近所に部落あり、道庁で立てたアイヌ学校ありて永久保春湖と申す詩人が校長の由、遠からず訪問して見るつもりに候。それから社長の所に、明治初年の頃何とかいふアイヌ研究者が編纂したアイヌ語辞典(但し語数順にしたる)の稿本(未だ世に公にせられざる)がある由、これもいつか見たく存居候(金田一京助宛書簡、明治41年1月30日)

永久保秀二郎(春湖、1849〜1924)は春採尋常小学校でアイヌ教育に尽力した人物。「遠からず訪問して見るつもり」とあるが、啄木の釧路生活は短く、結局会うことはなかった。

その後上京した啄木が北海道について書いた文章にも、アイヌについての話が出てくる。

 誰か北海道から帰つて来ると、内地の人は必ず先づ熊とアイヌの話を聞く。聞くのは可(よ)いが、聞かれる方では大抵返事に窮する。何故と云へば、如何に北海道でも、殊に今日に於ては、さう熊が出て来て大道に昼寝する様な事は無い。(…)
 アイヌにしても然(さ)うだ。旅行家とか、さもなくば特別の便宜ある土地に居た人でなければ、随分北海道に永く住んで居ても、アイヌを知らぬ人が多い。偶(たま)にあるとしても、路で遭遇(でつくは)したとか、汽車が過る時停車場に居たのを見た位なもの。地図には蝦夷島(えぞたう)と書いてあつても、さう行く人の数がアイヌと隣同志になつて熊祭の御馳走に招待される訳ではない。(「北海の三都」明治41年5月6日起稿)

北海道に行ったからと言って簡単にアイヌに会えるわけではないというわけだ。啄木もアイヌと関わることはなかったのだろう。そのためもあってか、アイヌ語学者である金田一京助から樺太のアイヌについての話を聞くのを喜んだようだ。

雹を見ながら、金田一君と語つた。粉屋の娘の水車で死んだ話。コルサコフの露人の麵麭売の話。アイヌ人の宴会の話。(明治四十一年日誌、6月8日)
十時頃から一時頃まで金田一君と語つた。樺太の話はうれしかつた。鳥も通はぬ荒磯の、太い太い流木に腰かけて、波頭をかすめとぶ鶻の群を見送つたり、単調な波の音をかぞへたりした光景! アイヌ少女のさき!(明治四十一年日誌、7月23日)

このアイヌの少女「さき」の名前は、金田一の樺太調査の日記によく出てくる。

サキ ハヤクモ入リ来ル。 端ニ掛ケテ ニコニコシテル 柳ノ眉 メジリ 口モト 可愛ラシイ子ダ。 飯タベナガラ 色々聞ク。手島氏来ル。 晩餐ハ四人デニギハフ。 食ヒナガラ 又 サキニ アイヌ語ヲ問ヒ試ミ 声ニ応ジテ タメラハズ サハヤカニ 問フ。(明治40年8月9日)

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2021年07月16日

信綱と啄木

  立待崎に啄木の墓を訪ふ
さすらへ来(き)て喜び見けむ海を見つつ詩人啄木は眠りてありけり
            佐佐木信綱『豊旗雲』

昭和2年に北海道を訪れた時の歌。
明治45年の啄木の死から15年後のことである。

啄木は森鷗外宅で開かれる観潮楼歌会に6回出席しており、信綱とも顔を合わせていた。初対面の明治41年5月2日の日記には

信綱は温厚な風采、女弟子が千人近くもあるのも無理が無いと思ふ。

とある。

この日の歌会は、鷗外15点、平野万里14点、啄木12点、与謝野鉄幹12点、吉井勇12点、北原白秋7点、信綱5点、伊藤左千夫4点という結果だった。

親譲りの歌の先生で大学の講師なる信綱君の五点は、実際気の毒であつた。

と、啄木は楽しそうに記している。
この時、啄木22歳、信綱35歳。

その4年後に啄木は26歳で死に、一方の信綱は91歳まで長生きして昭和38年に亡くなった。

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2021年07月14日

矢ぐるまの花(その3)

お花やお花、撫子(なでしこ)の花や矢車の花売、月の朔日(ついたち)十五日には二人三人呼び以(も)て行くなり。
       泉鏡花「草あやめ」(明治42年)

「矢車の花」は、当時花売りが売りにくるほどの花であったことがわかる。これは当然、山野に自生するヤグルマソウではなく、明治期にヨーロッパから渡ってきたヤグルマギクであろう。

朝ごとに一つ二つと減り行くに何が残らむ矢ぐるまの花
俛首(うなだ)れてわびしき花の耬斗菜(をだまき)は萎みてあせぬ矢車のはな
風邪引きて厭ひし窓もあけたればすなはちゆるる矢車の花
快き夏来にけりといふがごとまともに向ける矢車の花
       長塚節『長塚節歌集』(大正6年)

大正3年5月の歌。

入院中の作者が見ているのは壜に活けられた花。「いつの間にか、立ふぢは捨てられ、きんせんはぞろりとこぼれたるに、夏の草なればにや矢車のみひとりいつまでも心強げに見ゆれば」と詞書にある。

部屋に飾られているだけでなく、「まともに(正面に)向ける」という言葉からも、この「矢車の花」はヤグルマギクだとわかる。

要するに、明治・大正期に「矢ぐるまの花」とあれば、それはヤグルマギクで間違いないと言っていいだろう。

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2021年07月13日

矢ぐるまの花(その2)

「古い時代の言葉の意味を知るには、その当時の辞書を調べるのが一番」と、かつて安田純生さんに教わったことがある。「矢ぐるまの花」についてはどうだろう。

そんな時に辞書ではないけれど役に立つのが青空文庫である。青空文庫の検索機能を使って「矢車の花」を調べると、古い用例がいくつも見つかる。

中華民国の旗。煙を揚げる英吉利(イギリス)の船。『港をよろふ山の若葉に光さし……』顱頂の禿げそめた斎藤茂吉。ロティ。沈南蘋。永井荷風。
 最後に『日本の聖母の寺』その内陣のおん母マリア。穂麦に交じつた矢車の花。
      芥川龍之介「長崎」(大正13年)

長崎の名物を列挙した文章に「矢車の花」が出てくる。ここで注目すべきは「穂麦に交じった」だ。ヤグルマギクは英語で corn flower と言い、麦畑などの穀物畑に咲く花という意味なのである。

雛罌粟(コクリコ)の花が少しあくどく感じる程一面に地の上に咲いて居る。矢車の花は此國では野生の物であるから日本で見るよりも背が低く、菫かと思はれる程地を這つて咲いて居る。
      与謝野晶子「巴里の旅窓より」(大正3年)

フランスを訪れて見かけた花についての描写。ヤグルマソウが日本の在来種であるのに対して、ヤグルマギクはヨーロッパ原産。フランスの国花の一つにもなっている。

つまり、芥川の「矢車の花」も晶子の「矢車の花」も、どちらもヤグルマギクを指している。

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2021年07月12日

矢ぐるまの花(その1)

 函館の青柳町こそかなしけれ
 友の恋歌
 矢ぐるまの花
      石川啄木『一握の砂』

啄木の有名な一首だが、この歌の「矢ぐるまの花」については2つの解釈がある。「ヤグルマソウ(ユキノシタ科)」と「ヤグルマギク(キク科)」である。「ヤグルマギク」を「ヤグルマソウ」と呼ぶこともあるので、余計にややこしい。

矢ぐるまの花 ― 矢車草。ユキノシタ科の多年草。北海道、本州の深山に生える。高さ一〜一・五メートル。普通五枚の小葉が矢車形につく。夏、黄白色の無弁の小花を円錐状に多数つける。
      上田博『石川啄木全歌鑑賞』
「矢ぐるまの花」これは矢車草の花ではなく、セントウレアつまりヤグルマギクの花です。花形が矢車に似ているのでこの名があります。啄木がうたっているのはおそらく青紫色のヤグルマギクでしょう。イメージされているのは五月下旬か六月初旬ころのことでしょうか。
      近藤典彦『啄木短歌に時代を読む』

前者はヤグルマソウ説、後者はヤグルマギク説である。

ここに書かれているように、二つの花は全く別の花であり印象も大きく異なる。ヤグルマソウは6〜7月頃に白い小さな花(萼)が密生して付き、ヤグルマギクは4〜6月頃に青紫(白やピンクもあるが)の花を咲かせる。ヤグルマソウは葉が矢車に似ているのに対して、ヤグルマギクは花が矢車に似ていることから命名されている。

では、啄木の歌の「矢ぐるまの花」はどちらなのか?

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2021年03月17日

小樽啄木会編『啄木と小樽・札幌』

1962年発行の『啄木と小樽・札幌』と1947年発行の『秘められし啄木遺稿』に収められた小樽啄木会同人の文章を合わせて一冊にまとめたもの。

特に後者は、今から70年以上前に啄木がどのように捉えられていたかを伝えていて興味深い。

啄木が歌壇に新風をもたらしたとき、これを俳体歌または俳諧式実感歌と呼び、いはゆる専門歌人から白眼視された。(略)一見、平明蕪雑な表現方法は、因習技巧家たる彼らをして、徳川時代の俳諧歌と同い卑俗な歌人と蔑視せしめたものであらう。啄木の歌の一般普及性といふことは、彼の芸術の卑俗性を指してゐるものとは今日では誰も信じてはゐないのである。/油川鐘太郎「啄木雑記」

ここで「俳諧歌」(滑稽味のある歌)という捉え方が出ている点に注目したい。啄木自身が「へなぶり」(狂歌の一種)と言っていることにもつながる話だと思う。

1976年10月20日、みやま書房、850円。

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2020年08月28日

不来方

朝日新聞「折々のことば」(鷲田清一)に啄木の歌が引かれている。


 P1070968.JPG


不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心

国語の教科書にもよく採られている有名歌だが、「不来方」の部分の読みに注目した。

「不来方」は盛岡の雅称。自分は何者か、何になるのか。その漠とした不安もそこには託されていたかも。

地名・固有名詞である「不来方」に意味を持たせる読みは、以前はあまり一般的ではなかったように思う。例えば、上田博『石川啄木歌集全歌鑑賞』(2001年)では、

不来方のお城―盛岡城とも呼ばれた南部藩の居城。明治維新後廃城。

と書かれているだけだ。

それが、近年少し風向きが変わってきた。
小池光『石川啄木の百首』(2015年)では、

「不来方」の地名がよく効いている。ふたたび来ることのない方。お城が別の名前だったなら啄木はこうは詠まなかったろう。もう二度と来ない、早熟な青春だったから十五歳のこころは空に吸われるのであった。

と、「不来方」にかなり力点を置いた読みを展開している。そう言われてみると、確かにこの歌において「不来方」はかなり決定的な役割を果たしている気がする。


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2020年05月27日

安房北条

啄木の死後、妻の節子は千葉県北条町で療養生活を送り、次女の房江を出産する。「房江」の名前は「房州(安房)」に因んでつけられたものだ。

啄木の編集した雑誌「小天地」を読んでいたところ、細越夏村の小説「痩達磨」にも、この北条町が出てきた。

都大路は、落花の雪に埋もるゝ頃、転地療養にとて、房州は北条の浜辺へ島流し。

東京で肋膜炎を患った主人公が、療養のために房州北条へ行くのである。少し調べてみると、明治・大正期の北条は転地療養の町として知られていたらしい。なるほど、そういうことだったのか。明治42年には療養中の歌人石井貞子のもとを、若山牧水も訪れている。

ちなみに、大正時代に開業した「安房北条駅」は現在の「館山駅」である。

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2020年05月25日

長浜功『『啄木日記』公刊過程の真相』


副題は「知られざる裏面の検証」。

最も新しい啄木の全集『石川啄木全集』(筑摩書房、1978〜1980)は、全8巻のうち第五巻と第六巻の2冊が「日記」となっている。啄木の日記は、現在、啄木研究に欠かせない資料である。

しかし、この日記は啄木の死後すぐに公開されたわけではない。出版されたのは戦後のことで、1948年〜49年に出た『石川啄木日記』(全3巻、世界評論社)が最初である。啄木が亡くなって実に36年が経っていた。それまで日記は公開されず、啄木の遺言通り焼却される可能性さえあったのだ。

啄木の書き残した日記は、どのような経緯をたどって公刊されるに至ったのか。著者は綿密な調査によって、それを明らかにしている。本の中で引用されている宮崎郁雨の言葉を引こう。

自ら焼棄すべきであつた彼の日記を其儘現世へ遺して逝つた啄木、焼けと言はれた遺志に悖つてそれを形見として贈つた節子さん、筐底深く私蔵すべきであつたそれを図書館に寄託して閲読の機縁を作つた私、見すべきでなかつたそれを特殊の人達に繙読させて不識不知の間に公開出版の輿論を培つた岡田氏。その何れもが夫夫に批判さるべき過誤を犯した事になるのであらう。私は然しそれ等の事態の奥底に絡はる、情理を超えた愛着の強さと人力を絶した運命の奇しさとに深く考へさせられる。

石川節子、宮崎郁雨、土岐哀果、岡田健蔵、金田一京助、丸谷喜市、吉田狐羊、石川正雄。多くの人々の力によって、今、啄木の日記を手軽に読めることに深く感謝したいと思う。

2013年10月20日、社会評論社、2700円。

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2020年04月20日

アニメ「啄木鳥探偵處」

4月13日から放送が始まったテレビアニメ「啄木鳥探偵處」の第1話がGYAOで無料配信されている。
https://gyao.yahoo.co.jp/p/00198/v08810/

伊井圭(2014年逝去)の原作も面白いが、アニメも良かった。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138705.html

啄木が探偵をしていたというのは、もちろんフィクションだが、友人の金田一が蔵書を売って啄木の下宿代を払ったエピソードなどは事実である。その時の啄木の言葉も、本人が日記に書いている。

予は、唯、死んだら貴君を守りますと笑談らしく言つて、複雑な笑方をした。それが予の唯一の心の表し方であつたのだ! (明治41年9月6日)

ここは何度読んでもグッとくる。

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2020年03月31日

知らない漢字

啄木の全集を読んでいると、しばしば見たことのない漢字に出くわす。今日はこの中央の字。

P1070662.JPG


調べてみると「セン」という字だった。「潺湲」という熟語になっていて、「さらさらと水の流れるさま。涙がしきりに流れるさま」を意味するとのこと。

かつて谷崎潤一郎が過ごした京都の書斎が「潺湲亭」という名前だったそうな。
https://nissin.jp/sekisontei_project/02.html


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2020年01月12日

姉崎正治のこと

島田裕巳著『日本の8大聖地』を読んでいたら、姉崎正治の名前が出てきた。天理教の二代真柱として教団の近代化を進めた中山正善についての記述の中である。

正善は東京帝国大学文学部の宗教学科に入学し、そこで日本の宗教学の開拓者である姉崎正治に学んだ。卒業論文は天理教の伝道活動をテーマとしたものだったが、そこにはキリシタンの研究を行っていた姉崎の影響があった。

姉崎正治(嘲風)については、これまで啄木との関わりについてしか知らなかった。『石川啄木全集』には姉崎宛の手紙が4篇収められている。

明治37年12月14日、啄木が詩集出版のために上京した際の手紙は、「師よ。窓の外に聞ゆるは、雪の声ならずや」に始まり、十数回も「師よ」という呼びかけが使われている。

Wikipediaによれば、姉崎はこの年東京帝国大学教授となり、翌年には宗教学講座を開設、現在も東京大学宗教学研究室には姉崎の写真が飾られているとのこと。

時々こんなふうに別のアプローチ(宗教と啄木)から同じ人やモノに行き着くことがある。そうした「交点」を僕は大切にしている。そこには、きっと何かあるから。

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2019年09月18日

毎日文化センター 「石川啄木−詩、小説、そして短歌へ」

9月25日(水)11:00〜12:30、大阪梅田の毎日文化センターで
一日講座「石川啄木−詩、小説、そして短歌へ」を開催します。

http://www.maibun.co.jp/wp/archives/course/36106

石川啄木は歌集『一握の砂』や『悲しき玩具』を生んだ歌人として知られていますが、そのデビュー作は詩集であり多くの詩を作っています。また、小説家になることを目指して小説をたくさん書いた時期もありました。

他にも日記や評論など様々な表現方法を模索した末に、何を求めて啄木は短歌にたどり着いたのか。そして、その歌はなぜ今も多くの人々に親しまれ続けているのか。具体的な作品を紹介しながら、わかりやすくお話しします。

皆さん、ぜひご参加ください。

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2019年08月01日

毎日文化センター「石川啄木ー詩、小説、そして短歌へ」

9月25日(水)11:00〜12:30、大阪梅田の毎日文化センターで
一日講座「石川啄木ー詩、小説、そして短歌へ」を開催します。
皆さん、ぜひご参加ください。

http://www.maibun.co.jp/wp/archives/course/36106

石川啄木は歌集『一握の砂』や『悲しき玩具』を生んだ歌人として知られていますが、そのデビュー作は詩集であり多くの詩を作っています。また、小説家になることを目指して小説をたくさん書いた時期もありました。

他にも日記や評論など様々な表現方法を模索した末に、何を求めて啄木は短歌にたどり着いたのか。そして、その歌はなぜ今も多くの人々に親しまれ続けているのか。具体的な作品を紹介しながら、わかりやすくお話しします。
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2019年04月13日

啄木忌

1912(明治45)年4月13日に石川啄木が亡くなってから107年。

 靴裏に都会は固し啄木忌      秋元不死男
 本棚のあたりより暮れ啄木忌    鈴木真砂女
 便所より青空見えて啄木忌     寺山修司
 鮨台更けて一人が睡る啄木忌   長谷川かな女
 城の堀いまもにほへり啄木忌    山口青邨

没後100年以上も作品が読まれ続けていることになる。
考えてみるとすごいことだ。

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2019年04月12日

『石川啄木入門』

著者 :
思文閣出版
発売日 : 1992-11

監修:岩城之徳、編集:遊座昭吾・近藤典彦。
20年以上前の本だが、写真資料が豊富で今でも役に立つ。

自己の真実直視の苦闘、これは当時にあっては自然主義の文学的営為であった。しかし啄木にあっては、それを前述したごとく小説執筆において行なうことは不可能であった。啄木は日記において期せずしてその自然主義的営為を行なったのである。
                 近藤典彦「北海道・東京時代の啄木」
(『ローマ字日記』)なぜ、ここまで率直な内面告白がこの時期にだけ、ローマ字で行われたか、ということが問題になる。答えとしては、近年、池田功の出した説がおそらく最も的を射ている。要するに、啄木はここで、徹底して自己をえぐる一首の私小説を試みているのであって、これは単なる日記ではなく、独立した一つの作品だ、というのである。              今井泰子「石川啄木名作事典」

啄木の小説・日記・短歌の関わりを考える上で非常に興味深い指摘だ。

1992年11月1日、思文閣出版、2000円。

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2019年02月21日

凌雲閣

 浅草の凌雲閣(りょううんかく)のいただきに
 腕組みし日の
 長き日記(にき)かな
             石川啄木『一握の砂』

凌雲閣は1890年に竣工した12階建ての展望塔で、高さは52メートル。当時、日本一の高さを誇る建物であった。別名「十二階」と呼ばれることもある。

観光名所として人気を集めた建物であったが、1923年の関東大震災で上部が崩落し、その後、解体された。

『一握の砂』の序文を書いた渋川玄耳の『藪野椋十日本見物』(1910年)という旅行案内を読んでいたら、この凌雲閣の話が出てきた。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762983

凌雲閣!なる程丁度十二階ある。一体何の為に建てたものぢやらうか、滅法に高いものぢや。少し歪んで居る様ぢや。筋金が打つてある。是は険呑ぢや。彼(あ)れが崩れたら其麼(どんな)ぢやらう、考へて見てもゾツとする。流石に東京者は胆が据つて居る哩(わい)、彼(あ)の危険物を取払はせずに、平気で其近所に住んで居るのは。尤も博覧会は東京に雨が降らぬものとして建てた相ぢやから、此十二階も地震の無い国の積ぢやったらう。

最後の「此十二階も地震の無い国の積ぢやつたらう」は、13年後の地震による崩壊を予言したかのような一文ではないか。

渋川玄耳、すごい!

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2019年02月20日

松本健一著 『石川啄木望郷伝説』


「近代日本詩人選」の一冊として1982年に筑摩書房より刊行された『石川啄木』を中心に、その他の啄木関連の文章を増補してまとめた一冊。著者の「伝説シリーズ」の第3巻となっている。

「故郷喪失」や「敗北の自己認識」「大衆性」をキーワードに、ロマン主義から自然主義そして晩年の社会主義への接近といった啄木の作風の変化を読み解いている。

著者とは生前に一度、「短歌往来」2012年1月号で対談させていただいたことがある。笑顔は柔和だったが言葉にも表情にも一本芯が通っていて、怖いくらいの鋭さを感じる方であった。

2007年6月、勁草書房、2300円。

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2019年02月07日

吉田孤羊著 『啄木を繞る人々』


啄木の研究者として知られる著者が、「啄木の周囲を描くことによつて、その円の中心点に、客観化された彼の面影を少しでも髣髴せしむることが出来たら」という意図のもとに記した本。啄木と交流のあった50人あまりの人々を取り上げている。

啄木の没後17年という時点で書かれた本なので、まだ存命の関係者も多く、直接会って様々な話を聞いたりしているところが面白い。啄木と関わった人たちのその後の人生も知ることができる。

それにしても、この吉田狐羊の啄木研究にかける熱意というのは凄まじいものがある。岩手毎日新聞から改造社に入り、後に盛岡市立図書館の館長などを務めた人物だが、啄木に取り憑かれた人生を送ったと言ってもいいくらいだ。

1929年5月10日、改造社、1円。

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2018年11月04日

三浦光子著 『兄啄木の思い出』


著者は石川啄木の妹。伝道師として布教活動を行ったのち、夫の三浦清一とともに神戸の養護施設「愛隣館」で働いた。

啄木に関する貴重な証言が多く収められているほか、いわゆる「不愉快な事件」や啄木の墓をめぐる問題についても自らの主張を述べている。

兄について書かれたもののなかには、じつに的はずれな批評、考察、曲解などをまことしやかに語り伝えているものもあります。こうしたことに触れるにつけて、私は驚くと同時に、ただ一人の妹として、できるだけ訂正しておきたいものと考え、このたび本書をまとめました。真実の啄木を知っていただきたいと思ったからです。

当時76歳だった著者の思いは、この「あとがき」の文章からもよくわかる。批判の矛先は啄木の妻・節子の実家である堀合家、金田一京助、宮崎郁雨、岩城之徳にも及んでいて、一人の人間の「真実」を捉えることの難しさを思わせられる。

1964年、理論社、420円。

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2018年10月08日

岩城之徳編 『回想の石川啄木』

石川啄木にゆかりのある人々の手記34篇を収めた本。

執筆者は、金田一京助、与謝野寛、与謝野晶子、宮崎郁雨、近江じん(小奴)、平野万里、北原白秋、土岐善麿、若山牧水など。

啄木の少年時代から中学時代、渋民での代用教員時代、北海道放浪の時代、東京での暮らし、そして死に至るまで、時代順に回想が並んでいる。一つ一つの文章はある一時期の啄木の一面を伝えるものに過ぎないが、それが34篇集まることで、啄木の生涯が立体的に浮かび上がってくる巧みな構成だ。

啄木の妹の三浦光子と、節子の弟の堀合了輔の手記も載っている。

啄木と節子は多くの困難に直面しながらも最後まで互いへの信頼を失わなかったように思うが、二人が亡くなった後の遺族同士はそうも行かなかったらしい。石川家と堀合家の間の確執とでも言うべきものが、二人の文章には露骨に表れている。

人間啄木の受けた最大の苦盃、これあってむしろ死期も早められたかの感がますます深くなってゆくのである、それは最愛の妻より裏切られた事件それ自体であって、最も大きな確証を握って居る者は二人生存して居る。一人は妹の私、一人は姪の稲。(・・・)この意味に於て兄の遺骨を何らの係りもない北海の海辺に置く事は正しく故人の意志を無視したいたずらに過ぎないと思う。
                三浦光子「兄・啄木の思い出」
今石川家が存続し居るのも畢竟(堀合)忠操によって遺児が育てられ、結婚し子を持ったからである。

この母(堀合とき子)も節子の死後遺児を見て居ったが、大正八年十二月十八日肺を患ってなくなった。私達は石川家からうつされたものだと思った。
                堀合了輔「啄木の妻とその一族」

まさに泥仕合といった感じで読んでいて辛い。
これも啄木の生前の行動がもたらした結果ではあるのだが。

1967年6月20日、八木書店、1000円。
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2018年09月10日

『石川啄木全集 第三巻』


啄木の小説15篇(「雲は天才である」「葬列」「漂泊」「病院の窓」「菊池君」「天鵞絨」「二筋の血」「刑余の叔父」「札幌」「鳥影」「赤痢」「足跡」「葉書」「道」「我等の一団と彼」)と明治42年および43年の創作ノートを収録。

啄木の小説は生前も死後も、あまり評価が高くない。
でも、「天鵞絨」「道」「我等の一団と彼」は良い作品だと思った。
処女作「雲は天才である」も前半はおもしろい。

1978年10月25日、筑摩書房。

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2018年09月08日

石川啄木論


「角川短歌」11月号(10月25日発売)から3年間、石川啄木についての
連載をします。啄木は私の短歌の出発点なので、この機会に自分なりの
新たな啄木像を提示できればと思います。


posted by 松村正直 at 23:25| Comment(0) | 石川啄木 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする