2023年02月27日

犬を飼はむ、犬を飼はう

庭のそとを白き犬ゆけり。
 ふりむきて、
 犬を飼はむと妻にはかれる。

石川啄木『悲しき玩具』(1912年)

(長い沈黙)

夫 犬でも飼はうか。
妻 小鳥の方がよかない。

(長い沈黙)

岸田國士『紙風船』(1925年)

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2022年10月21日

啄木の予言?

啄木は「歌のいろいろ」(1910年)の中で

仮に現在の三十一文字が四十一文字になり、五十一文字になるにしても、兎に角歌といふものは滅びない。

と書いている。

いくら何でも51文字なんて大袈裟だろうと思うかもしれないが、なんとそれから20年後の『プロレタリア短歌集1930年版』を見ると、50音以上ある歌がいくらでも載っているのである。

自分(づぶん)で作つた米をみんな地主(づぬし)にとられて冬がくる、小作はひいひい飢えとる亀ちやのとこじや二升鍋で藁、煮てくつとるだよ/岡部文夫
どんなに俺等が懸命に働こうとよ、原綿が悪くつて運転が早やけりやいつでも糸がモツコモツコになる/吉田龍次郎
おまへらの言ひさうなこつた、臨時同情週間だなんて、人間の一生は永いんだよ、臨時じやだめさ/田邊一子
がらんとした湯槽(ゆぶね)の中にクビになつたばかりの首、お前とおれの首が浮んでゐる、笑ひごつちやないぜお前/坪野哲久

まるで啄木の予言が的中したみたいだな。

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2022年09月13日

啄木と電話

啄木の生きていた明治時代、個人間のやり取りは主に葉書や手紙で行われていた。まだ電話は一般には普及していない。

明治23年に日本で初めて東京・横浜間で電話の取り扱いが始まったが、加入数はわずか197件。明治40年でも5万8000件であった。

それでも、啄木が下宿していた蓋平館別荘には電話があったようで、明治41年9月11日の日記に、啄木はこんなふうに書いている。

 明日午後二時から徹宵の歌会をやるといふ平野君の葉書。
 並木から電話。実は電話はイヤだつた。イヤと云ふよりは恐ろしかつた。四年前にかけた事があるッ限、だから、何といふ訳もなく、電話に対して親しみがない。今煙草をのんでるので立たれぬからと無理な事を言つて、女中に用を聞かせると、平野から葉書が来たけれど、何にも書いてないと言ふ。仕方なしに立つて電話口に行つたが、何でもなかつた。これからは、いくら電話がかかつて来てもよい。兼題を知らしてやつた。

下宿先に友人から電話が掛かってきて女中が取り次いでくれたのに、電話に慣れてないので啄木は尻込みする。電話機の扱い方がよくわからなかったのだろう。

結局、電話に出るはめになって友人と話をするのだが、そうすると一転して強気になって、「いくら電話がかかつて来てもよい」と思う。このあたり、いかにも啄木らしくて面白い。

遠方に電話の鈴(りん)の鳴るごとく
今日も耳鳴る
かなしき日かな  『一握の砂』

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2022年08月27日

啄木日記

今日は朝日カルチャーセンターくずは教室で、「啄木日記から見た短歌」という講座を行った。啄木日記の面白さや魅力を少しでも伝えたいと思って喋っていたら、あっという間に90分が過ぎた。

講座では取り上げなかった箇所を2つご紹介。
まずは北原白秋について書いている部分。明治41年9月10日の日記。

北原君などは、朝から晩まで詩に耽つてる人だ。故郷から来る金で、家を借りて婆やを雇つて、勝手気儘に専心詩に耽つてゐる男だ。詩以外の何事をも、見も聞もしない人だ。乃ち詩が彼の生活だ。それに比すると、今の我らは、詩の全能といふことを認めぬ。

裕福で生活にゆとりのある白秋を羨み、また嫉みつつも、詩に対する考え方の違いを明らかにしている。

続いて源氏物語を読んでの感想。明治41年10月1日の日記。

其色と、其才とを以て、天が下の光の君と讃えられた源氏も、二十が二十五になり、二十五が三十になり、三十が三十五になつた。浅間しい。人は生れて、おのづからにして年を老る。そして遂に死ぬ。年を老らずに死ぬものなら、世の中は如何に花やかな、そして楽むべきものだらう。老ゆるに増す浅間しさ悲しさが、またとあらうか。

当時、啄木は満年齢で22歳、数えで23歳。
若さゆえの傲慢さ全開といった感じだが、啄木が老いることなく26歳で亡くなる現実を知っているだけに、複雑な気持ちになる。

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2022年08月23日

講座「啄木日記から見た短歌」

8月27日(土)に朝日カルチャーセンターくずは教室で「啄木日記から見た短歌」という講座を行います。時間は13:00〜14:30。

啄木の日記は読み物としても面白くすぐれた日記文学だと思います。教室受講とオンライン受講があり、またアーカイブ配信(1週間限定)も行いますので、当日ご都合の付かないという方もぜひお申込み下さい。

【教室受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/2a607214-6ffc-c1e6-31e2-6257d8c59df4

【オンライン受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/ad7c6aca-05a5-a88c-7b5d-6257d9b4ca63
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2022年08月14日

講座「啄木日記から見た短歌」

8月27日(土)に朝日カルチャーセンターくずは教室で「啄木日記から見た短歌」という講座を行います。時間は13:00〜14:30。

啄木の日記は読み物としても面白くすぐれた日記文学だと思います。教室受講とオンライン受講の両方ありますので、関心のある方はぜひご参加下さい。

【教室受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/2a607214-6ffc-c1e6-31e2-6257d8c59df4

【オンライン受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/ad7c6aca-05a5-a88c-7b5d-6257d9b4ca63

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2022年06月23日

講座「啄木日記から見た短歌」

8月27日(土)に朝日カルチャーセンターくずは教室で「啄木日記から見た短歌」という講座を行います。時間は13:00〜14:30。

啄木の日記は読み物としても面白くすぐれた日記文学だと思います。教室受講とオンライン受講の両方ありますので、関心のある方はぜひご参加下さい。

【教室受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/2a607214-6ffc-c1e6-31e2-6257d8c59df4

【オンライン受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/ad7c6aca-05a5-a88c-7b5d-6257d9b4ca63

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2022年05月22日

講座「啄木日記から見た短歌」

8月27日(土)に朝日カルチャーセンターくずは教室で「啄木日記から見た短歌」という講座を行います。時間は13:00〜14:30。

教室受講とオンライン受講の両方ありますので、興味のある方はぜひご参加下さい。

【教室受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/2a607214-6ffc-c1e6-31e2-6257d8c59df4
【オンライン受講】
https://www.asahiculture.jp/course/kuzuha/ad7c6aca-05a5-a88c-7b5d-6257d9b4ca63

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2022年05月19日

「国際啄木学会研究年報」第25号

DSC00238.JPG


「国際啄木学会研究年報」第25号を読む。

注目すべきは巻頭に掲載された論文「石川啄木とアイヌ」(安元隆子)。15ページにわたって、啄木とアイヌの関わりを記すとともに並木凡平や違星北斗の短歌も紹介している。まさに私の関心にドンピシャの内容で、こういう論文が読めるのは本当にありがたい。

啄木はアイヌと直接の関わりは持たなかったが、親友の金田一京助がアイヌ語学者だったこともあり、手紙や日記にアイヌに関する記述をいくつか残している。
https://matsutanka.seesaa.net/article/484953538.html

国際啄木学会に入会して良かった。

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2022年05月15日

国際啄木学会2022年度春のセミナー

今日は13:00から国際啄木学会の春のセミナー(明星研究会との共催)がZOOMを使って行われた。

研究発表(各30分)が3つと講演(100分)が1つという内容。

・「晶子の小説『呂行の手紙』の分析ージェンダーの
  視点から」
   アロラ・シュエタ(シンガポール国立大学大学院)
・「明治四十四年一月十八〜二十五日における啄木日記と
  新聞報道について」
   目良卓(国際啄木学会会員)
・「啄木を詠む吉井勇――「渋民村訪問記」をめぐって」
   細川光洋(静岡県立大学)

・「「血に染めし歌」とは何か〜「明星」初出の啄木短歌を
  めぐって」
   松平盟子(歌人・『プチ★モンド』代表)

さまざまな観点から調査・研究・分析をしている方々がいることに、あらためて感心する。晶子の小説も読んでみたい。

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2022年01月21日

啄木と絵画

啄木は東京でよく美術展を見に行っている。
明治41年6月7日の日記。

二時から、金田一君と二人、大学構内の池を見て、上野の太平洋画会を見た。吉田博氏の作に好いものがある。月夜のスフインクス、それから、荒廃した堂の中に月光が盗入つて一人の女が香を炷いて祈禱をしてる図など。

ここに出てくる吉田博は、後に新版画で活躍する人物。この時点では版画ではなく洋画を描いていた。

啄木の挙げた2点の絵はどんな作品かと思って調べてみたが、わからない。大正14年の版画作品「スフィンクス」は見つかるけれど、もちろんこれのことではない。
http://inventory.yokohama.art.museum/11359

既に失われてしまった絵画なのだろうか。

【追記】
6月15日の日記に、さらに言及があった。

金を欲しい日であつた。此間太平洋画会で見た吉田氏の(魔法)、(スフインクスの夜)、(赤帆)などを買ひたい。

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2022年01月20日

講座「『石川啄木』こんな歌もあったの?」

1月23日(日)に講座「『石川啄木』こんな歌もあったの?」を行います。主に歌集に収録されてない歌に焦点を当てながら、啄木短歌の魅力に迫ります。ご興味のある方は、ぜひご参加下さい。

日時:2022年1月23日(日)13:00〜15:00
場所:JEUGIAカルチャー京都 de Basic.(地下鉄四条駅すぐ)

https://culture.jeugia.co.jp/lesson_detail_2-46106.html?PHPSESSID=1bv8aiijrc9nr28pg1os6j88d2

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2021年12月25日

啄木とアイヌ

啄木が釧路に住み始めて間もなくの頃の手紙に、アイヌに関する記述がある。

アイヌには忙しくてまだ逢はず候が、当町より十四五町の春採(ハルトリ)湖と申す湖の近所に部落あり、道庁で立てたアイヌ学校ありて永久保春湖と申す詩人が校長の由、遠からず訪問して見るつもりに候。それから社長の所に、明治初年の頃何とかいふアイヌ研究者が編纂したアイヌ語辞典(但し語数順にしたる)の稿本(未だ世に公にせられざる)がある由、これもいつか見たく存居候(金田一京助宛書簡、明治41年1月30日)

永久保秀二郎(春湖、1849〜1924)は春採尋常小学校でアイヌ教育に尽力した人物。「遠からず訪問して見るつもり」とあるが、啄木の釧路生活は短く、結局会うことはなかった。

その後上京した啄木が北海道について書いた文章にも、アイヌについての話が出てくる。

 誰か北海道から帰つて来ると、内地の人は必ず先づ熊とアイヌの話を聞く。聞くのは可(よ)いが、聞かれる方では大抵返事に窮する。何故と云へば、如何に北海道でも、殊に今日に於ては、さう熊が出て来て大道に昼寝する様な事は無い。(…)
 アイヌにしても然(さ)うだ。旅行家とか、さもなくば特別の便宜ある土地に居た人でなければ、随分北海道に永く住んで居ても、アイヌを知らぬ人が多い。偶(たま)にあるとしても、路で遭遇(でつくは)したとか、汽車が過る時停車場に居たのを見た位なもの。地図には蝦夷島(えぞたう)と書いてあつても、さう行く人の数がアイヌと隣同志になつて熊祭の御馳走に招待される訳ではない。(「北海の三都」明治41年5月6日起稿)

北海道に行ったからと言って簡単にアイヌに会えるわけではないというわけだ。啄木もアイヌと関わることはなかったのだろう。そのためもあってか、アイヌ語学者である金田一京助から樺太のアイヌについての話を聞くのを喜んだようだ。

雹を見ながら、金田一君と語つた。粉屋の娘の水車で死んだ話。コルサコフの露人の麵麭売の話。アイヌ人の宴会の話。(明治四十一年日誌、6月8日)
十時頃から一時頃まで金田一君と語つた。樺太の話はうれしかつた。鳥も通はぬ荒磯の、太い太い流木に腰かけて、波頭をかすめとぶ鶻の群を見送つたり、単調な波の音をかぞへたりした光景! アイヌ少女のさき!(明治四十一年日誌、7月23日)

このアイヌの少女「さき」の名前は、金田一の樺太調査の日記によく出てくる。

サキ ハヤクモ入リ来ル。 端ニ掛ケテ ニコニコシテル 柳ノ眉 メジリ 口モト 可愛ラシイ子ダ。 飯タベナガラ 色々聞ク。手島氏来ル。 晩餐ハ四人デニギハフ。 食ヒナガラ 又 サキニ アイヌ語ヲ問ヒ試ミ 声ニ応ジテ タメラハズ サハヤカニ 問フ。(明治40年8月9日)

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2021年07月16日

信綱と啄木

  立待崎に啄木の墓を訪ふ
さすらへ来(き)て喜び見けむ海を見つつ詩人啄木は眠りてありけり
            佐佐木信綱『豊旗雲』

昭和2年に北海道を訪れた時の歌。
明治45年の啄木の死から15年後のことである。

啄木は森鷗外宅で開かれる観潮楼歌会に6回出席しており、信綱とも顔を合わせていた。初対面の明治41年5月2日の日記には

信綱は温厚な風采、女弟子が千人近くもあるのも無理が無いと思ふ。

とある。

この日の歌会は、鷗外15点、平野万里14点、啄木12点、与謝野鉄幹12点、吉井勇12点、北原白秋7点、信綱5点、伊藤左千夫4点という結果だった。

親譲りの歌の先生で大学の講師なる信綱君の五点は、実際気の毒であつた。

と、啄木は楽しそうに記している。
この時、啄木22歳、信綱35歳。

その4年後に啄木は26歳で死に、一方の信綱は91歳まで長生きして昭和38年に亡くなった。

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2021年07月14日

矢ぐるまの花(その3)

お花やお花、撫子(なでしこ)の花や矢車の花売、月の朔日(ついたち)十五日には二人三人呼び以(も)て行くなり。
       泉鏡花「草あやめ」(明治42年)

「矢車の花」は、当時花売りが売りにくるほどの花であったことがわかる。これは当然、山野に自生するヤグルマソウではなく、明治期にヨーロッパから渡ってきたヤグルマギクであろう。

朝ごとに一つ二つと減り行くに何が残らむ矢ぐるまの花
俛首(うなだ)れてわびしき花の耬斗菜(をだまき)は萎みてあせぬ矢車のはな
風邪引きて厭ひし窓もあけたればすなはちゆるる矢車の花
快き夏来にけりといふがごとまともに向ける矢車の花
       長塚節『長塚節歌集』(大正6年)

大正3年5月の歌。

入院中の作者が見ているのは壜に活けられた花。「いつの間にか、立ふぢは捨てられ、きんせんはぞろりとこぼれたるに、夏の草なればにや矢車のみひとりいつまでも心強げに見ゆれば」と詞書にある。

部屋に飾られているだけでなく、「まともに(正面に)向ける」という言葉からも、この「矢車の花」はヤグルマギクだとわかる。

要するに、明治・大正期に「矢ぐるまの花」とあれば、それはヤグルマギクで間違いないと言っていいだろう。

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2021年07月13日

矢ぐるまの花(その2)

「古い時代の言葉の意味を知るには、その当時の辞書を調べるのが一番」と、かつて安田純生さんに教わったことがある。「矢ぐるまの花」についてはどうだろう。

そんな時に辞書ではないけれど役に立つのが青空文庫である。青空文庫の検索機能を使って「矢車の花」を調べると、古い用例がいくつも見つかる。

中華民国の旗。煙を揚げる英吉利(イギリス)の船。『港をよろふ山の若葉に光さし……』顱頂の禿げそめた斎藤茂吉。ロティ。沈南蘋。永井荷風。
 最後に『日本の聖母の寺』その内陣のおん母マリア。穂麦に交じつた矢車の花。
      芥川龍之介「長崎」(大正13年)

長崎の名物を列挙した文章に「矢車の花」が出てくる。ここで注目すべきは「穂麦に交じった」だ。ヤグルマギクは英語で corn flower と言い、麦畑などの穀物畑に咲く花という意味なのである。

雛罌粟(コクリコ)の花が少しあくどく感じる程一面に地の上に咲いて居る。矢車の花は此國では野生の物であるから日本で見るよりも背が低く、菫かと思はれる程地を這つて咲いて居る。
      与謝野晶子「巴里の旅窓より」(大正3年)

フランスを訪れて見かけた花についての描写。ヤグルマソウが日本の在来種であるのに対して、ヤグルマギクはヨーロッパ原産。フランスの国花の一つにもなっている。

つまり、芥川の「矢車の花」も晶子の「矢車の花」も、どちらもヤグルマギクを指している。

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2021年07月12日

矢ぐるまの花(その1)

 函館の青柳町こそかなしけれ
 友の恋歌
 矢ぐるまの花
      石川啄木『一握の砂』

啄木の有名な一首だが、この歌の「矢ぐるまの花」については2つの解釈がある。「ヤグルマソウ(ユキノシタ科)」と「ヤグルマギク(キク科)」である。「ヤグルマギク」を「ヤグルマソウ」と呼ぶこともあるので、余計にややこしい。

矢ぐるまの花 ― 矢車草。ユキノシタ科の多年草。北海道、本州の深山に生える。高さ一〜一・五メートル。普通五枚の小葉が矢車形につく。夏、黄白色の無弁の小花を円錐状に多数つける。
      上田博『石川啄木全歌鑑賞』
「矢ぐるまの花」これは矢車草の花ではなく、セントウレアつまりヤグルマギクの花です。花形が矢車に似ているのでこの名があります。啄木がうたっているのはおそらく青紫色のヤグルマギクでしょう。イメージされているのは五月下旬か六月初旬ころのことでしょうか。
      近藤典彦『啄木短歌に時代を読む』

前者はヤグルマソウ説、後者はヤグルマギク説である。

ここに書かれているように、二つの花は全く別の花であり印象も大きく異なる。ヤグルマソウは6〜7月頃に白い小さな花(萼)が密生して付き、ヤグルマギクは4〜6月頃に青紫(白やピンクもあるが)の花を咲かせる。ヤグルマソウは葉が矢車に似ているのに対して、ヤグルマギクは花が矢車に似ていることから命名されている。

では、啄木の歌の「矢ぐるまの花」はどちらなのか?

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2021年03月17日

小樽啄木会編『啄木と小樽・札幌』

1962年発行の『啄木と小樽・札幌』と1947年発行の『秘められし啄木遺稿』に収められた小樽啄木会同人の文章を合わせて一冊にまとめたもの。

特に後者は、今から70年以上前に啄木がどのように捉えられていたかを伝えていて興味深い。

啄木が歌壇に新風をもたらしたとき、これを俳体歌または俳諧式実感歌と呼び、いはゆる専門歌人から白眼視された。(略)一見、平明蕪雑な表現方法は、因習技巧家たる彼らをして、徳川時代の俳諧歌と同い卑俗な歌人と蔑視せしめたものであらう。啄木の歌の一般普及性といふことは、彼の芸術の卑俗性を指してゐるものとは今日では誰も信じてはゐないのである。/油川鐘太郎「啄木雑記」

ここで「俳諧歌」(滑稽味のある歌)という捉え方が出ている点に注目したい。啄木自身が「へなぶり」(狂歌の一種)と言っていることにもつながる話だと思う。

1976年10月20日、みやま書房、850円。

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2020年08月28日

不来方

朝日新聞「折々のことば」(鷲田清一)に啄木の歌が引かれている。


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不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心

国語の教科書にもよく採られている有名歌だが、「不来方」の部分の読みに注目した。

「不来方」は盛岡の雅称。自分は何者か、何になるのか。その漠とした不安もそこには託されていたかも。

地名・固有名詞である「不来方」に意味を持たせる読みは、以前はあまり一般的ではなかったように思う。例えば、上田博『石川啄木歌集全歌鑑賞』(2001年)では、

不来方のお城―盛岡城とも呼ばれた南部藩の居城。明治維新後廃城。

と書かれているだけだ。

それが、近年少し風向きが変わってきた。
小池光『石川啄木の百首』(2015年)では、

「不来方」の地名がよく効いている。ふたたび来ることのない方。お城が別の名前だったなら啄木はこうは詠まなかったろう。もう二度と来ない、早熟な青春だったから十五歳のこころは空に吸われるのであった。

と、「不来方」にかなり力点を置いた読みを展開している。そう言われてみると、確かにこの歌において「不来方」はかなり決定的な役割を果たしている気がする。


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2020年05月27日

安房北条

啄木の死後、妻の節子は千葉県北条町で療養生活を送り、次女の房江を出産する。「房江」の名前は「房州(安房)」に因んでつけられたものだ。

啄木の編集した雑誌「小天地」を読んでいたところ、細越夏村の小説「痩達磨」にも、この北条町が出てきた。

都大路は、落花の雪に埋もるゝ頃、転地療養にとて、房州は北条の浜辺へ島流し。

東京で肋膜炎を患った主人公が、療養のために房州北条へ行くのである。少し調べてみると、明治・大正期の北条は転地療養の町として知られていたらしい。なるほど、そういうことだったのか。明治42年には療養中の歌人石井貞子のもとを、若山牧水も訪れている。

ちなみに、大正時代に開業した「安房北条駅」は現在の「館山駅」である。

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2020年05月25日

長浜功『『啄木日記』公刊過程の真相』


副題は「知られざる裏面の検証」。

最も新しい啄木の全集『石川啄木全集』(筑摩書房、1978〜1980)は、全8巻のうち第五巻と第六巻の2冊が「日記」となっている。啄木の日記は、現在、啄木研究に欠かせない資料である。

しかし、この日記は啄木の死後すぐに公開されたわけではない。出版されたのは戦後のことで、1948年〜49年に出た『石川啄木日記』(全3巻、世界評論社)が最初である。啄木が亡くなって実に36年が経っていた。それまで日記は公開されず、啄木の遺言通り焼却される可能性さえあったのだ。

啄木の書き残した日記は、どのような経緯をたどって公刊されるに至ったのか。著者は綿密な調査によって、それを明らかにしている。本の中で引用されている宮崎郁雨の言葉を引こう。

自ら焼棄すべきであつた彼の日記を其儘現世へ遺して逝つた啄木、焼けと言はれた遺志に悖つてそれを形見として贈つた節子さん、筐底深く私蔵すべきであつたそれを図書館に寄託して閲読の機縁を作つた私、見すべきでなかつたそれを特殊の人達に繙読させて不識不知の間に公開出版の輿論を培つた岡田氏。その何れもが夫夫に批判さるべき過誤を犯した事になるのであらう。私は然しそれ等の事態の奥底に絡はる、情理を超えた愛着の強さと人力を絶した運命の奇しさとに深く考へさせられる。

石川節子、宮崎郁雨、土岐哀果、岡田健蔵、金田一京助、丸谷喜市、吉田狐羊、石川正雄。多くの人々の力によって、今、啄木の日記を手軽に読めることに深く感謝したいと思う。

2013年10月20日、社会評論社、2700円。

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2020年04月20日

アニメ「啄木鳥探偵處」

4月13日から放送が始まったテレビアニメ「啄木鳥探偵處」の第1話がGYAOで無料配信されている。
https://gyao.yahoo.co.jp/p/00198/v08810/

伊井圭(2014年逝去)の原作も面白いが、アニメも良かった。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138705.html

啄木が探偵をしていたというのは、もちろんフィクションだが、友人の金田一が蔵書を売って啄木の下宿代を払ったエピソードなどは事実である。その時の啄木の言葉も、本人が日記に書いている。

予は、唯、死んだら貴君を守りますと笑談らしく言つて、複雑な笑方をした。それが予の唯一の心の表し方であつたのだ! (明治41年9月6日)

ここは何度読んでもグッとくる。

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2020年03月31日

知らない漢字

啄木の全集を読んでいると、しばしば見たことのない漢字に出くわす。今日はこの中央の字。

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調べてみると「セン」という字だった。「潺湲」という熟語になっていて、「さらさらと水の流れるさま。涙がしきりに流れるさま」を意味するとのこと。

かつて谷崎潤一郎が過ごした京都の書斎が「潺湲亭」という名前だったそうな。
https://nissin.jp/sekisontei_project/02.html


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2020年01月12日

姉崎正治のこと

島田裕巳著『日本の8大聖地』を読んでいたら、姉崎正治の名前が出てきた。天理教の二代真柱として教団の近代化を進めた中山正善についての記述の中である。

正善は東京帝国大学文学部の宗教学科に入学し、そこで日本の宗教学の開拓者である姉崎正治に学んだ。卒業論文は天理教の伝道活動をテーマとしたものだったが、そこにはキリシタンの研究を行っていた姉崎の影響があった。

姉崎正治(嘲風)については、これまで啄木との関わりについてしか知らなかった。『石川啄木全集』には姉崎宛の手紙が4篇収められている。

明治37年12月14日、啄木が詩集出版のために上京した際の手紙は、「師よ。窓の外に聞ゆるは、雪の声ならずや」に始まり、十数回も「師よ」という呼びかけが使われている。

Wikipediaによれば、姉崎はこの年東京帝国大学教授となり、翌年には宗教学講座を開設、現在も東京大学宗教学研究室には姉崎の写真が飾られているとのこと。

時々こんなふうに別のアプローチ(宗教と啄木)から同じ人やモノに行き着くことがある。そうした「交点」を僕は大切にしている。そこには、きっと何かあるから。

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2019年09月18日

毎日文化センター 「石川啄木−詩、小説、そして短歌へ」

9月25日(水)11:00〜12:30、大阪梅田の毎日文化センターで
一日講座「石川啄木−詩、小説、そして短歌へ」を開催します。

http://www.maibun.co.jp/wp/archives/course/36106

石川啄木は歌集『一握の砂』や『悲しき玩具』を生んだ歌人として知られていますが、そのデビュー作は詩集であり多くの詩を作っています。また、小説家になることを目指して小説をたくさん書いた時期もありました。

他にも日記や評論など様々な表現方法を模索した末に、何を求めて啄木は短歌にたどり着いたのか。そして、その歌はなぜ今も多くの人々に親しまれ続けているのか。具体的な作品を紹介しながら、わかりやすくお話しします。

皆さん、ぜひご参加ください。

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2019年08月01日

毎日文化センター「石川啄木ー詩、小説、そして短歌へ」

9月25日(水)11:00〜12:30、大阪梅田の毎日文化センターで
一日講座「石川啄木ー詩、小説、そして短歌へ」を開催します。
皆さん、ぜひご参加ください。

http://www.maibun.co.jp/wp/archives/course/36106

石川啄木は歌集『一握の砂』や『悲しき玩具』を生んだ歌人として知られていますが、そのデビュー作は詩集であり多くの詩を作っています。また、小説家になることを目指して小説をたくさん書いた時期もありました。

他にも日記や評論など様々な表現方法を模索した末に、何を求めて啄木は短歌にたどり着いたのか。そして、その歌はなぜ今も多くの人々に親しまれ続けているのか。具体的な作品を紹介しながら、わかりやすくお話しします。
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2019年04月13日

啄木忌

1912(明治45)年4月13日に石川啄木が亡くなってから107年。

 靴裏に都会は固し啄木忌      秋元不死男
 本棚のあたりより暮れ啄木忌    鈴木真砂女
 便所より青空見えて啄木忌     寺山修司
 鮨台更けて一人が睡る啄木忌   長谷川かな女
 城の堀いまもにほへり啄木忌    山口青邨

没後100年以上も作品が読まれ続けていることになる。
考えてみるとすごいことだ。

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2019年04月12日

『石川啄木入門』

著者 :
思文閣出版
発売日 : 1992-11

監修:岩城之徳、編集:遊座昭吾・近藤典彦。
20年以上前の本だが、写真資料が豊富で今でも役に立つ。

自己の真実直視の苦闘、これは当時にあっては自然主義の文学的営為であった。しかし啄木にあっては、それを前述したごとく小説執筆において行なうことは不可能であった。啄木は日記において期せずしてその自然主義的営為を行なったのである。
                 近藤典彦「北海道・東京時代の啄木」
(『ローマ字日記』)なぜ、ここまで率直な内面告白がこの時期にだけ、ローマ字で行われたか、ということが問題になる。答えとしては、近年、池田功の出した説がおそらく最も的を射ている。要するに、啄木はここで、徹底して自己をえぐる一首の私小説を試みているのであって、これは単なる日記ではなく、独立した一つの作品だ、というのである。              今井泰子「石川啄木名作事典」

啄木の小説・日記・短歌の関わりを考える上で非常に興味深い指摘だ。

1992年11月1日、思文閣出版、2000円。

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2019年02月21日

凌雲閣

 浅草の凌雲閣(りょううんかく)のいただきに
 腕組みし日の
 長き日記(にき)かな
             石川啄木『一握の砂』

凌雲閣は1890年に竣工した12階建ての展望塔で、高さは52メートル。当時、日本一の高さを誇る建物であった。別名「十二階」と呼ばれることもある。

観光名所として人気を集めた建物であったが、1923年の関東大震災で上部が崩落し、その後、解体された。

『一握の砂』の序文を書いた渋川玄耳の『藪野椋十日本見物』(1910年)という旅行案内を読んでいたら、この凌雲閣の話が出てきた。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762983

凌雲閣!なる程丁度十二階ある。一体何の為に建てたものぢやらうか、滅法に高いものぢや。少し歪んで居る様ぢや。筋金が打つてある。是は険呑ぢや。彼(あ)れが崩れたら其麼(どんな)ぢやらう、考へて見てもゾツとする。流石に東京者は胆が据つて居る哩(わい)、彼(あ)の危険物を取払はせずに、平気で其近所に住んで居るのは。尤も博覧会は東京に雨が降らぬものとして建てた相ぢやから、此十二階も地震の無い国の積ぢやったらう。

最後の「此十二階も地震の無い国の積ぢやつたらう」は、13年後の地震による崩壊を予言したかのような一文ではないか。

渋川玄耳、すごい!

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2019年02月20日

松本健一著 『石川啄木望郷伝説』


「近代日本詩人選」の一冊として1982年に筑摩書房より刊行された『石川啄木』を中心に、その他の啄木関連の文章を増補してまとめた一冊。著者の「伝説シリーズ」の第3巻となっている。

「故郷喪失」や「敗北の自己認識」「大衆性」をキーワードに、ロマン主義から自然主義そして晩年の社会主義への接近といった啄木の作風の変化を読み解いている。

著者とは生前に一度、「短歌往来」2012年1月号で対談させていただいたことがある。笑顔は柔和だったが言葉にも表情にも一本芯が通っていて、怖いくらいの鋭さを感じる方であった。

2007年6月、勁草書房、2300円。

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2019年02月07日

吉田孤羊著 『啄木を繞る人々』


啄木の研究者として知られる著者が、「啄木の周囲を描くことによつて、その円の中心点に、客観化された彼の面影を少しでも髣髴せしむることが出来たら」という意図のもとに記した本。啄木と交流のあった50人あまりの人々を取り上げている。

啄木の没後17年という時点で書かれた本なので、まだ存命の関係者も多く、直接会って様々な話を聞いたりしているところが面白い。啄木と関わった人たちのその後の人生も知ることができる。

それにしても、この吉田狐羊の啄木研究にかける熱意というのは凄まじいものがある。岩手毎日新聞から改造社に入り、後に盛岡市立図書館の館長などを務めた人物だが、啄木に取り憑かれた人生を送ったと言ってもいいくらいだ。

1929年5月10日、改造社、1円。

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2018年11月04日

三浦光子著 『兄啄木の思い出』


著者は石川啄木の妹。伝道師として布教活動を行ったのち、夫の三浦清一とともに神戸の養護施設「愛隣館」で働いた。

啄木に関する貴重な証言が多く収められているほか、いわゆる「不愉快な事件」や啄木の墓をめぐる問題についても自らの主張を述べている。

兄について書かれたもののなかには、じつに的はずれな批評、考察、曲解などをまことしやかに語り伝えているものもあります。こうしたことに触れるにつけて、私は驚くと同時に、ただ一人の妹として、できるだけ訂正しておきたいものと考え、このたび本書をまとめました。真実の啄木を知っていただきたいと思ったからです。

当時76歳だった著者の思いは、この「あとがき」の文章からもよくわかる。批判の矛先は啄木の妻・節子の実家である堀合家、金田一京助、宮崎郁雨、岩城之徳にも及んでいて、一人の人間の「真実」を捉えることの難しさを思わせられる。

1964年、理論社、420円。

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2018年10月08日

岩城之徳編 『回想の石川啄木』

石川啄木にゆかりのある人々の手記34篇を収めた本。

執筆者は、金田一京助、与謝野寛、与謝野晶子、宮崎郁雨、近江じん(小奴)、平野万里、北原白秋、土岐善麿、若山牧水など。

啄木の少年時代から中学時代、渋民での代用教員時代、北海道放浪の時代、東京での暮らし、そして死に至るまで、時代順に回想が並んでいる。一つ一つの文章はある一時期の啄木の一面を伝えるものに過ぎないが、それが34篇集まることで、啄木の生涯が立体的に浮かび上がってくる巧みな構成だ。

啄木の妹の三浦光子と、節子の弟の堀合了輔の手記も載っている。

啄木と節子は多くの困難に直面しながらも最後まで互いへの信頼を失わなかったように思うが、二人が亡くなった後の遺族同士はそうも行かなかったらしい。石川家と堀合家の間の確執とでも言うべきものが、二人の文章には露骨に表れている。

人間啄木の受けた最大の苦盃、これあってむしろ死期も早められたかの感がますます深くなってゆくのである、それは最愛の妻より裏切られた事件それ自体であって、最も大きな確証を握って居る者は二人生存して居る。一人は妹の私、一人は姪の稲。(・・・)この意味に於て兄の遺骨を何らの係りもない北海の海辺に置く事は正しく故人の意志を無視したいたずらに過ぎないと思う。
                三浦光子「兄・啄木の思い出」
今石川家が存続し居るのも畢竟(堀合)忠操によって遺児が育てられ、結婚し子を持ったからである。

この母(堀合とき子)も節子の死後遺児を見て居ったが、大正八年十二月十八日肺を患ってなくなった。私達は石川家からうつされたものだと思った。
                堀合了輔「啄木の妻とその一族」

まさに泥仕合といった感じで読んでいて辛い。
これも啄木の生前の行動がもたらした結果ではあるのだが。

1967年6月20日、八木書店、1000円。
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2018年09月10日

『石川啄木全集 第三巻』


啄木の小説15篇(「雲は天才である」「葬列」「漂泊」「病院の窓」「菊池君」「天鵞絨」「二筋の血」「刑余の叔父」「札幌」「鳥影」「赤痢」「足跡」「葉書」「道」「我等の一団と彼」)と明治42年および43年の創作ノートを収録。

啄木の小説は生前も死後も、あまり評価が高くない。
でも、「天鵞絨」「道」「我等の一団と彼」は良い作品だと思った。
処女作「雲は天才である」も前半はおもしろい。

1978年10月25日、筑摩書房。

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2018年09月08日

石川啄木論


「角川短歌」11月号(10月25日発売)から3年間、石川啄木についての
連載をします。啄木は私の短歌の出発点なので、この機会に自分なりの
新たな啄木像を提示できればと思います。


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2018年09月06日

関川夏央・谷口ジロー著 『かの蒼空に』


「坊ちゃんの時代」第三部。

明治42年の東京を舞台に、石川啄木の日々の暮らしを描いたコミック。啄木の日記の記述をベースに、金田一京助、夏目漱石、森田草平、幸徳秋水、管野須賀子、北原白秋、平塚明子、長沼智恵子、森鴎外といった多くの登場人物を織り交ぜ、明治期の群像劇として描き出している。

当時の貨幣価値が現在のどれくらいに相当するのかという問題は、何によって比較するかで随分と違ってきて難しいのだが、関川は「当時の一円は現在の五千円の実力があるのではないか」と書いている。これは啄木の月給や借金の額を考える際に参考になる数字だろう。

他にも、啄木が住んだ「蓋平館」は「主人が日露戦争に出征し、蓋平の戦場で手柄を立てたことから命名した」という話など、初めて知ることがあって面白かった。

1992年1月12日、双葉社、1200円。

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2018年09月04日

あくびの効用


啄木の歌を読んでいると、あくびの歌がけっこう出てくる。

 百年(ももとせ)の長き眠りの覚めしごと
 呿呻(あくび)してまし
 思ふことなしに
 路傍(みちばた)に犬ながながと呿呻(あくび)しぬ
 われも真似しぬ
 うらやましさに
 いらだてる心よ汝はかなしかり
 いざいざ
 すこし呿呻(あくび)などせむ
 腹の底より欠伸(あくび)もよほし
 ながながと欠伸してみぬ、
 今年の元日。

あくびと言うと、「眠気」「退屈」「行儀悪い」といったマイナスのイメージを思い浮かべることが多いが、最近の研究では「脳を活性化させる」「心身をリラックスさせる」といった効用があるらしい。

啄木の歌のあくびも、明らかにプラスのイメージである。「してみたいもの」「したら良いこと」として、あくびが描かれている。

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2018年08月23日

森義真著 『啄木―ふるさと人との交わり』

著者 : 森義真
盛岡出版コミュニティー
発売日 : 2014-05


盛岡のタウン誌「街もりおか」に2009年〜2014年にかけて連載された「啄木の交遊録〔盛岡篇〕」をまとめたもの。

「盛岡高等小学校に関わる人々」「盛岡中学校 恩師/先輩/同級生/後輩」「渋民尋常高等小学校に関わる人々」「渋民の人々」などに分けて、計65名が取り上げられている。

印象的なのは、それぞれの出生はもとよりお墓の場所まで記されていること。これは「葬儀や戒名、そして菩提寺まで記載してこそ、その人の伝記になるはずだ」(あとがき)という著者の信念に基づくものらしい。

啄木は満26歳という若さで亡くなっているが、この本の中にも若くして亡くなった人がけっこういる。狐崎嘉助(享年24)、細越毅夫(享年23)、内田秋皎(享年29)など。啄木の死を考える際には、こうした時代性も考慮する必要があるだろう。

2014年3月28日、盛岡出版コミュニティー、1600円。


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2018年08月17日

山本玲子著 『啄木うた散歩』

2006年に岩手日報の夕刊に連載された「啄木うた散歩」を、月ごとに小冊子にまとめたもの。釧路の港文館(旧釧路新聞社)のグッズコーナーで見つけ、全12冊のうち「睦月」「皐月」「長月」の3冊を購入した。

歌の解釈がやや道徳的なところが気になったが、いくつか面白い発見もあった。

 三味線の弦(いと)のきれしを
 火事のごと騒ぐ子ありき
 大雪の夜に           『一握の砂』

この歌について、著者は「三味線の一の糸が切れると縁起が良いといわれる。釧路の料亭での出来事の一つに、啄木は心弾ませたことであろう」と書いている。

これだけでは、どのように縁起が良いのかはっきりしないのだが、ネットで調べてみると「二の糸が切れたら身請けがつく」といった俗信があるらしい。料亭で三味線を弾いている芸者にとって、身請けの話は何より嬉しいことだったろう。だからこそ、ただの俗信とはいえ「火事のごと騒ぐ」となったわけだ。

2010年2月20日(睦月)、2010年3月1日(皐月、長月)
各300円、盛岡出版コミュニティー。

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2018年08月13日

小奴に似たる娼婦

 小奴に似たる娼婦と啄木が五月の浮世小路をあゆむ
                栗木京子『ランプの精』

石川啄木の『ローマ字日記』(明治42年)の5月1日に、次のような記述がある。(原文はローマ字表記)

 ああ、その女は! 名は花子、年は十七。一眼見て予はすぐそう思った。
「ああ! 小奴だ! 小奴を二つ三つ若くした顔だ!」
 程なくして予は、お菓子売りの薄汚い婆さんと共に、そこを出た。そして方々引っぱり廻されてのあげく、千束小学校の裏手の高い煉瓦塀の下へ出た。細い小路の両側は戸を閉めた裏長屋で、人通りは忘れてしまったようにない。月が照っている。
「浮世小路の奥へ来た!」と予は思った。

小奴は啄木が釧路時代に親しかった芸者の名前。浅草に隣接する千束は、江戸時代に吉原遊郭があった場所で、明治に入ってからも娼婦を斡旋する店が数多くあったようだ。

「年は十七」は数え年だろうから、満年齢では十五、六歳ということになる。

 借金を返さぬ啄木 千束(せんぞく)の浮世小路ををみなとあゆむ
                    『ランプの精』

いやあ、啄木・・・。

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2018年08月05日

遊座昭吾著 『啄木と渋民』


著者は啄木が幼少期を過ごした渋民の宝徳寺に生まれ育った方。
啄木とふるさと渋民の関わりを中心に論じた一冊である。

啄木の短歌を考える際に、父や伯父からの影響は無視できないだろう。

しかし一は、生まれた時から歌人群のなかで成長してきたといってよい。
啄木が四千首に及ぶ歌稿『みだれ芦』を編んだ歌人としての父をもったこと、また歌人対月の妹を母としたこと、この血のつながりが彼をして文学、なかんずく和歌に向かわした要因であることは論をまたない。

啄木の父一禎には謎が多い。宗費滞納で住職を罷免されたり、啄木一家の生活が苦しくなると家を出て行ったり、「ダメ親父」として描かれていることが多いが、それは一面的な見方のような気がする。

1971年6月15日初版発行、1979年7月30日改訂版発行。
八重垣書房、1500円。


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2018年07月27日

井上信興著 『啄木文学の定説をめぐって』


函館市文学館で購入した本。

啄木研究において定説とされていることが本当に正しいのか、いくつかのトピックを挙げて論じている。

 ・「ローマ字日記」私見
 ・「東海の歌」の定説をめぐって
 ・啄木と橘智恵子の場合
 ・詩への転換とその前後
 ・「不愉快な事件」と「覚書」について
 ・詩集「あこがれ」発刊について
 ・啄木負債の実額について
 ・啄木敗残の帰郷
 ・啄木釧路からの脱出とその主因
 ・金田一氏の文章論争
 ・「手が白く」の歌のモデル
 ・啄木筆跡の真偽について

こうして目次を並べただけでも、啄木に関する研究には長年にわたる蓄積があり、様々な議論が行われていることがわかるだろう。

私が一番注目したのは、啄木の「ローマ字日記」についての著者の見解である。

私は日記形式を採用して自然主義的私小説を意図したのではないかと考えるのである。

つまり、他の日記類とは違って、「ローマ字日記」は小説だというのだ。確かに表記だけでなく文体や内容についても「ローマ字日記」は異色である。

従来は「日記ではあるが文学的な価値も高い」といった評価をされてきた「ローマ字日記」であるが、これを「小説」と捉えるとずいぶん見え方が違ってくるように思う。

2009年1月1日、そうぶん社出版、800円。

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2018年07月18日

長浜功著 『啄木を支えた北の大地』


副題は「北海道の三五六日」。

石川啄木は1907(明治40)年5月5日から翌1908(明治41)年4月24日まで、356日を北海道で過ごしている。この間、代用教員や新聞記者をしながら、函館、札幌、小樽、釧路と移り住んだ。

 函館の青柳町こそかなしけれ
 友の恋歌
 矢ぐるまの花
 しんとして幅広き街の
 秋の夜の
 玉蜀黍(たうもろこし)の焼くるにほひよ
 かなしきは小樽の町よ
 歌ふことなき人人の
 声の荒さよ
 しらしらと氷かがやき
 千鳥なく
 釧路の海の冬の月かな

この北海道での生活は、啄木の人生や短歌に大きな影響を与えた。「『一握の砂』全五五一首中北海道に関わる歌は一三三首ある」という点だけを見ても、そのことはよくわかる。

以下、いくつか備忘として。

確かに日記や書簡には啄木独特のある種の“粉飾”が施されている事があるのは事実である。
啄木が有名になり出すのは一般的には土岐哀果(善麿)の奔走で漸く出版された『啄木全集 全三巻』(新潮社版 一九一九・大正八年)あたりからで、この『全集』はたちまち三十九版を重ね、啄木の名は全国的に広まった。
啄木には困難な状況に陥ると決まって彼をその困窮から救ってくれる誰かが現れるから不思議である。

北海道にはもう一度取材に行く必要がありそうだ。

2012年2月20日、社会評論社、2700円。


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2018年07月10日

中村稔著 『石川啄木論』


「石川啄木の作品を多年にわたり読みこんできた事については啄木の研究者に劣らないと自負している」と述べる著者の528ページに及ぶ本格的な啄木論。

第一部は啄木の生涯を描き、第二部で詩・短歌・小説・「ローマ字日記」を取り上げて論じている。

この本の印象的なところは、著者の見方や評価をはっきりと断定的に述べているところだ。

私はこれら諸家の『あこがれ』評(低い評価:松村注)に同意できない。
これら二篇の詩は、わが国の詩史上、注目すべき作品である。
明治期の短篇小説の中で、石川啄木の「天鵞絨」を珠玉の一篇として推すことを私は躊躇しない。
私は「鳥影」をすぐれた作品とは考えていないし、「雲は天才である」は未完結であり、かつ失敗作と考える。

良いものは良い、悪いものは悪い。小気味よいくらいに明確に評価をくだした上で、その理由を丁寧に説明している。

石川啄木ほど誤解されている文学者は稀だろうと私は考えている。

こうした思いを抱く啄木愛好家や啄木研究者は多いのだろう。啄木関連の本は数百点〜数千点にのぼり、しかも今も毎年何点も新刊が出ている。それだけ多面的で評価が分かれ、実像が摑みにくいということなのかもしれない。

2017年5月1日、青土社、2800円。

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2018年06月06日

『石川啄木の世界への誘い』


旅先で本屋に入ることが多い。盛岡では、東山堂書店本店、さわや書店本店、さわや書店フェザン店に立ち寄った。

この本は東山堂書店の郷土本コーナーにあったもの。啄木の没後100年にあたる2013年に、石川啄木没後百年記念誌として刊行された一冊である。地元以外では入手が難しそうなので購入した。

この年は他にも、企画展「啄木からのメッセージ」(石川啄木記念館)、「新啄木かるた」の作成、没後百年記念フォーラム(姫神ホール)、没後百年記念碑建立(陸前高田市)など、さまざまな事業が行われたようだ。

ドナルド・キーンの講演「啄木を語る―啄木の現代性―」の中に次のような一節がある。

啄木には歌の師匠がなかったので、独学で歌の伝統的な詠み方を覚えました。そして、五・七・五・七・七と文語にしたがいながら、溢れる情熱をもって新鮮な歌を詠みました。
一禎は四千以上の短歌を残しました。平凡なものばかりですが、明らかに短歌に相当な関心がありました。また、田舎の僧侶としてめずらしいことに詩歌の雑誌を購読していました。

啄木の短歌に父の一禎(いってい)からの影響がどれくらいあったのか。そのあたりをもう少し探ってみたいと思う。

2013年10月14日、石川啄木没後百年記念事業実行委員会、1300円。


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2018年06月01日

『新潮日本文学アルバム 石川啄木』


編集・評伝:岩城之徳、エッセイ:渡辺淳一。
写真や資料が豊富で、眺めているだけで様々にイメージが膨らむ。

啄木の父は名もない農民の出であったが、母は由緒正しい南部藩士工藤条作常房の娘で、その兄の対月は当時盛岡の名刹龍谷寺の住職で、学僧として誉れ高い人物であったから、啄木も気位高く育てられた。生涯彼を支配した病的なほどの自負心は、実はこうした啄木の生い立ちに根ざすものである。
啄木は上京後森鷗外の知遇を得たが、東京朝日新聞社に入社してからは、その直前に料亭八百勘で起こった朝日の政治部記者村山定恵の鷗外暴行事件のため、鷗外とは自然疎遠となり、(・・・)以後両者の交渉はとぎれている。

この森鷗外暴行事件のことは、この本で初めて知った。
よく知られている話なのだろうか。

1984年2月20日発行、2011年9月25日12刷、新潮社、1200円。

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2018年04月30日

『石川啄木全集 第六巻 日記2』


「明治四十二年当用日記」「NIKKI.T.MEIDI 42 NEN.1909.」「明治四十三年四月より」「明治四十四年当用日記」「千九百十二年日記」と未完成の小説断片40篇あまりを収録。

啄木の生活や思想の移り変わりがよくわかる内容で、有名な借金や女遊びの記述も多い。「どうしようもないなあ・・・」と苦笑いしながら読んでいたのだが、最後は泣きたい気分になってしまった。

日記の最後は明治45年2月20日。

 日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上つた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
 さうしてる間に金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかゝつた。質屋から出して仕立直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。
 母の容態は昨今少し可いやうに見える。然し食慾は減じた。

この記述の半月後、3月7日には母カツが死に、4月13日には啄木自身も亡くなる。

そのわずか3年前、明治42年4月10日の日記に、啄木はこんなことを書いていた。(原文はローマ字)

「病気をしたい。」この希望は長いこと予の頭の中にひそんでいる。病気! 人の厭うこの言葉は、予には故郷の山の名のようになつかしく聞える――ああ、あらゆる責任を解除した自由な生活! 我等がそれを得るの道はただ病気あるのみだ!

100年以上前の言葉なのに、写していると泣きそうになる。

1978年6月30日、筑摩書房。

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2018年04月21日

『石川啄木全集 第五巻 日記1』




編集:金田一京助、土岐善麿、石川玲児、小田切秀雄、岩城之徳。
全8巻の全集のうち、第5巻と第6巻に啄木の日記が収められている。

この第五巻には

・秋韷笛語 明治35年10月30日〜12月19日
・甲辰詩程 明治37年1月1日〜4月8日、7月21日〜23日
・MY OWN BOOK FROM MARCH 4. 1906 SHIBUTAMI
  明治39年3月4日〜12月30日
・丁未日誌、戊申日誌
  明治40年1月1日〜12月31日、明治41年1月1日〜1月12日
・明治四十一年日誌 明治41年1月1日〜12月11日

が収められている。
今回初めて通しで読んだのだが、すこぶる面白い。

啄木の日記は、かれの生涯と作品とに関連して重要な資料であるだけでなく、それじたいとしてきわめてすぐれた文学作品となっている。これほどにおもしろい日記を書いた作家は、日本には類が少ない。

と解説に小田切秀雄も書いている通りである。

啄木が死後に焼くように言い残した日記は、様々な経緯を経て現在公刊されている。その意義と重みを強く感じた。

1978年4月25日、筑摩書房。

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2018年04月13日

啄木日記を読む日々(その2)

啄木日記を断続的に読み続けている。
すこぶる面白い。

明治40年10月17日。
 天口堂主人より我が姓命の鑑定書を貰ふ、五十五歳で死ぬとは情けなし、

啄木が満26歳で亡くなったことを知っているだけに悲しい。

明治41年6月7日。
 原稿料がうまく出来たら、吉井君と京都へ行く約束をした。

京都はおろか横浜より西へ行くことのない人生だったのを知っているだけに悲しい。

明治41年9月4日。
 予には才があり過ぎる。予は何事にも適合する人間だ。だから、何事にも適合しない人間なんだ!

ふう・・・。その自信が羨ましいよ。

 
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2018年04月09日

啄木日記を読む日々

このところ毎日、啄木の日記を読んでいる。
すこぶる面白い。
自分なりに新しい発見があってワクワクする。

例えば、明治39年12月30日の日記には年賀状の発送名簿が載っている。そこに、与謝野寛、平野万里、森鴎外、金田一京助らと並んで

 高安月郊氏 京都市新烏丸頭町

という名前がある。
高安国世の伯父で、詩人・劇作家だった人。
本郷の西片町に住んでいたことは知っているのだが、この頃は京都にいたようだ。

posted by 松村正直 at 23:54| Comment(0) | 石川啄木 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする