三月八日 月曜
スバル三号とゞいた。森先生の(半日)を読む。予は思つた、大した作では無論ないかも知れぬ。然し恐ろしい作だ――先生がその家庭を、その奥さんをかう書かれたその態度!
啄木は作品の出来よりも、家庭生活を克明に描いた鷗外の態度に感銘を受けている。それは、どこまで赤裸々に描けるかという問題が啄木にとっての関心事であったからだ。
この約1か月後の4月7日から、啄木の「ローマ字日記」が始まる。啄木のもっとも赤裸々な作品と言っていいだろう。
三月八日 月曜
スバル三号とゞいた。森先生の(半日)を読む。予は思つた、大した作では無論ないかも知れぬ。然し恐ろしい作だ――先生がその家庭を、その奥さんをかう書かれたその態度!
一月二十二日
起きて見ると、夜具の襟が息で真白に氷つて居る。華氏寒暖計零下二十度。顔を洗ふ時シヤボン箱に手が喰付いた。
一月二十三日
(…)二階の八畳間、よい部屋ではあるが、火鉢一つ抱いての寒さは、何とも云へぬ。
一月二十四日
寒い事話にならぬ。(…)
机の下に火を入れなくては、筆が氷つて何も書けぬ。
1月22日 最高−12.8℃ 最低−22.0℃
1月23日 最高− 8.2℃ 最低−26.1℃
1月24日 最高− 8.5℃ 最低−29.3℃
雪は至つて少なく候へど、吹く風の寒さは耳を落し鼻を削らずんば止まず、下宿の二階の八畳間に置火鉢一つ抱いては、怎うも恁うもならず、一昨夜行火(?)を買って来て机の下に入れるまでは、いかに硯を温めて置いても、筆の穂忽ちに氷りて、何ものをも書く事が出来ず候ひし(…)
こほりたるインクの罎(びん)を
火に翳(かざ)し
涙ながれぬともしびの下(もと) 『一握の砂』
「吾望みのすべては君なり」という節子の手紙は、孤独な窮地にいる啄木の心を甘く揺らし涙を誘った。しかし活路はどこにも見出せず、敗残者として心萎えたと伝えるには重すぎる、枷のような信頼と讃美の恋文でもある。
この歌が詠まれる現実的な情景は小樽のこの朝のほかにない。そして常に啄木の歌よりは現実の世界の方がはるかに苛酷である。
「古今を通じて名高い人の後には必ず偉い女があつた事をおぼへて居ます。私は何も自分を偉いなどおこがましい事は申しませんが、でも啄木の非凡な才を持てる事は知つてますから今後充分発展してくるやうに神かけていのつて居のです」
許嫁七宮きよとは、大正三年に結婚。息子四人、娘二人を得たが、二人の娘には、それぞれ、京子、節子と名づけた。
丸谷 啄木は、当時、五十年前のロシヤの青年のヴ・ナロード≠ノ非常に感激していたことは事実だ。しかし、その受け取り方は感情的、空想的なものだったと思う。
丸谷 啄木はやはり無政府主義を文学者の見方で見ている。どうしてそこにいくか、それをどういう風にするか、そこまでは考えておらんのですわ。可能性も考えていない。
最後に、改めて第三次の『啄木全集』の出版が望まれる、ということである。とはいってもこれは並大抵なことではない。なによりこの大事業を引き受けてくれる人物がいるだろうかということ、また全集は莫大な費用を要する。出版不況の現在ではこの事業を引き継いでくれる出版社はないだろう。
彼は『悲しき玩具』という歌集の中で、「五歳になる子に、何故ともなく、ソニヤといふ露西亜名をつけて、呼びてはよろこぶ。」という歌を詠んでいますが、ロシア人研究者の報告の中に、このソニヤというのがアレクサンドルU世暗殺を指揮したソフィア・ペロフスカヤのことだ(ソーニャはソフィアの愛称)と書いているものがあるということです。確かめてみると日本の啄木研究者も同じように考えているらしいということがわかりました。
明日の十二日は啄木の記念日だと云うのだけれども、啄木が生れた日なのか亡くなった日なのか、それさえわたしは知らない。読むにはどんな歌がいいだろうと、わたしはトランクから啄木歌集を出してあっちこっちめくってみた。
百年(ももとせ)の長き眠りの覚めしごと
呿呻(あくび)してまし
思ふことなしに
山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君をおもへり
こんな歌が眼にはいった。辛くなるような気持ちだった。
「田舎がえり」
さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
雪が降っている。私はこの啄木の歌を偶(ふ)っと思い浮べながら、郷愁のようなものを感じていた。
「新版 放浪記」
ええめんどうくさい、「いくたびか死なむとしては死なざりし、わが来しかたのをかしく悲し」啄木の歌のせいでもないだろうけれど、いざ日本を遠く離れてみると、妙に涙っぽくもなって来る。
「下駄で歩いたパリー」
〇開会挨拶 池田功(国際啄木学会会長)
〇研究発表 工藤菜々子「石川啄木『漂白』論」
廣瀬航也「啄木短歌における都市歩行」
〇研究情報 森義真「石川啄木記念館の今後」
〇研究交流 中川康子×平山陽
細川光洋×松平盟子
ルート・リンハルト×池田功
〇閉会挨拶 河野有時(国際啄木学会副会長)
大空のみどりになびく白雲のまがはぬ夏になりにけるかな
一むらの氷魚かと見えて網代木の浪にいざよふ月の影かな
/香川景樹
気の変る人に仕へて
つくづくと
わが世がいやになりにけるかな
子を負ひて
雪の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな
/石川啄木『一握の砂』
楠の根を静にぬらすしぐれ哉
山は暮て野は黄昏の薄哉
狩衣の袖のうち這ふほたる哉
/蕪村
目を閉じて何も見えず 哀しくて目を開ければ
荒野に向かう道より 他に見えるものはなし
(略)
呼吸(いき)をすれば胸の中 凩は吠(な)き続ける
されどわが胸は熱く 夢を追い続けるなり
(略)
/谷村新司「昴」
呼吸(いき)すれば、
胸の中(うち)にて鳴る音あり。
凩よりもさびしきその音!
眼閉づれど、
心にうかぶ何もなし。
さびしくも、また、眼をあけるかな。
/石川啄木『悲しき玩具』
庭のそとを白き犬ゆけり。
ふりむきて、
犬を飼はむと妻にはかれる。
石川啄木『悲しき玩具』(1912年)
(長い沈黙)
夫 犬でも飼はうか。
妻 小鳥の方がよかない。
(長い沈黙)
岸田國士『紙風船』(1925年)
仮に現在の三十一文字が四十一文字になり、五十一文字になるにしても、兎に角歌といふものは滅びない。
自分(づぶん)で作つた米をみんな地主(づぬし)にとられて冬がくる、小作はひいひい飢えとる亀ちやのとこじや二升鍋で藁、煮てくつとるだよ/岡部文夫
どんなに俺等が懸命に働こうとよ、原綿が悪くつて運転が早やけりやいつでも糸がモツコモツコになる/吉田龍次郎
おまへらの言ひさうなこつた、臨時同情週間だなんて、人間の一生は永いんだよ、臨時じやだめさ/田邊一子
がらんとした湯槽(ゆぶね)の中にクビになつたばかりの首、お前とおれの首が浮んでゐる、笑ひごつちやないぜお前/坪野哲久
明日午後二時から徹宵の歌会をやるといふ平野君の葉書。
並木から電話。実は電話はイヤだつた。イヤと云ふよりは恐ろしかつた。四年前にかけた事があるッ限、だから、何といふ訳もなく、電話に対して親しみがない。今煙草をのんでるので立たれぬからと無理な事を言つて、女中に用を聞かせると、平野から葉書が来たけれど、何にも書いてないと言ふ。仕方なしに立つて電話口に行つたが、何でもなかつた。これからは、いくら電話がかかつて来てもよい。兼題を知らしてやつた。
遠方に電話の鈴(りん)の鳴るごとく
今日も耳鳴る
かなしき日かな 『一握の砂』
北原君などは、朝から晩まで詩に耽つてる人だ。故郷から来る金で、家を借りて婆やを雇つて、勝手気儘に専心詩に耽つてゐる男だ。詩以外の何事をも、見も聞もしない人だ。乃ち詩が彼の生活だ。それに比すると、今の我らは、詩の全能といふことを認めぬ。
其色と、其才とを以て、天が下の光の君と讃えられた源氏も、二十が二十五になり、二十五が三十になり、三十が三十五になつた。浅間しい。人は生れて、おのづからにして年を老る。そして遂に死ぬ。年を老らずに死ぬものなら、世の中は如何に花やかな、そして楽むべきものだらう。老ゆるに増す浅間しさ悲しさが、またとあらうか。
・「晶子の小説『呂行の手紙』の分析ージェンダーの
視点から」
アロラ・シュエタ(シンガポール国立大学大学院)
・「明治四十四年一月十八〜二十五日における啄木日記と
新聞報道について」
目良卓(国際啄木学会会員)
・「啄木を詠む吉井勇――「渋民村訪問記」をめぐって」
細川光洋(静岡県立大学)
・「「血に染めし歌」とは何か〜「明星」初出の啄木短歌を
めぐって」
松平盟子(歌人・『プチ★モンド』代表)
二時から、金田一君と二人、大学構内の池を見て、上野の太平洋画会を見た。吉田博氏の作に好いものがある。月夜のスフインクス、それから、荒廃した堂の中に月光が盗入つて一人の女が香を炷いて祈禱をしてる図など。
金を欲しい日であつた。此間太平洋画会で見た吉田氏の(魔法)、(スフインクスの夜)、(赤帆)などを買ひたい。
アイヌには忙しくてまだ逢はず候が、当町より十四五町の春採(ハルトリ)湖と申す湖の近所に部落あり、道庁で立てたアイヌ学校ありて永久保春湖と申す詩人が校長の由、遠からず訪問して見るつもりに候。それから社長の所に、明治初年の頃何とかいふアイヌ研究者が編纂したアイヌ語辞典(但し語数順にしたる)の稿本(未だ世に公にせられざる)がある由、これもいつか見たく存居候(金田一京助宛書簡、明治41年1月30日)
誰か北海道から帰つて来ると、内地の人は必ず先づ熊とアイヌの話を聞く。聞くのは可(よ)いが、聞かれる方では大抵返事に窮する。何故と云へば、如何に北海道でも、殊に今日に於ては、さう熊が出て来て大道に昼寝する様な事は無い。(…)
アイヌにしても然(さ)うだ。旅行家とか、さもなくば特別の便宜ある土地に居た人でなければ、随分北海道に永く住んで居ても、アイヌを知らぬ人が多い。偶(たま)にあるとしても、路で遭遇(でつくは)したとか、汽車が過る時停車場に居たのを見た位なもの。地図には蝦夷島(えぞたう)と書いてあつても、さう行く人の数がアイヌと隣同志になつて熊祭の御馳走に招待される訳ではない。(「北海の三都」明治41年5月6日起稿)
雹を見ながら、金田一君と語つた。粉屋の娘の水車で死んだ話。コルサコフの露人の麵麭売の話。アイヌ人の宴会の話。(明治四十一年日誌、6月8日)
十時頃から一時頃まで金田一君と語つた。樺太の話はうれしかつた。鳥も通はぬ荒磯の、太い太い流木に腰かけて、波頭をかすめとぶ鶻の群を見送つたり、単調な波の音をかぞへたりした光景! アイヌ少女のさき!(明治四十一年日誌、7月23日)
サキ ハヤクモ入リ来ル。 端ニ掛ケテ ニコニコシテル 柳ノ眉 メジリ 口モト 可愛ラシイ子ダ。 飯タベナガラ 色々聞ク。手島氏来ル。 晩餐ハ四人デニギハフ。 食ヒナガラ 又 サキニ アイヌ語ヲ問ヒ試ミ 声ニ応ジテ タメラハズ サハヤカニ 問フ。(明治40年8月9日)
立待崎に啄木の墓を訪ふ
さすらへ来(き)て喜び見けむ海を見つつ詩人啄木は眠りてありけり
佐佐木信綱『豊旗雲』
信綱は温厚な風采、女弟子が千人近くもあるのも無理が無いと思ふ。
親譲りの歌の先生で大学の講師なる信綱君の五点は、実際気の毒であつた。
お花やお花、撫子(なでしこ)の花や矢車の花売、月の朔日(ついたち)十五日には二人三人呼び以(も)て行くなり。
泉鏡花「草あやめ」(明治42年)
朝ごとに一つ二つと減り行くに何が残らむ矢ぐるまの花
俛首(うなだ)れてわびしき花の耬斗菜(をだまき)は萎みてあせぬ矢車のはな
風邪引きて厭ひし窓もあけたればすなはちゆるる矢車の花
快き夏来にけりといふがごとまともに向ける矢車の花
長塚節『長塚節歌集』(大正6年)
中華民国の旗。煙を揚げる英吉利(イギリス)の船。『港をよろふ山の若葉に光さし……』顱頂の禿げそめた斎藤茂吉。ロティ。沈南蘋。永井荷風。
最後に『日本の聖母の寺』その内陣のおん母マリア。穂麦に交じつた矢車の花。
芥川龍之介「長崎」(大正13年)
雛罌粟(コクリコ)の花が少しあくどく感じる程一面に地の上に咲いて居る。矢車の花は此國では野生の物であるから日本で見るよりも背が低く、菫かと思はれる程地を這つて咲いて居る。
与謝野晶子「巴里の旅窓より」(大正3年)
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花
石川啄木『一握の砂』
矢ぐるまの花 ― 矢車草。ユキノシタ科の多年草。北海道、本州の深山に生える。高さ一〜一・五メートル。普通五枚の小葉が矢車形につく。夏、黄白色の無弁の小花を円錐状に多数つける。
上田博『石川啄木全歌鑑賞』
「矢ぐるまの花」これは矢車草の花ではなく、セントウレアつまりヤグルマギクの花です。花形が矢車に似ているのでこの名があります。啄木がうたっているのはおそらく青紫色のヤグルマギクでしょう。イメージされているのは五月下旬か六月初旬ころのことでしょうか。
近藤典彦『啄木短歌に時代を読む』
啄木が歌壇に新風をもたらしたとき、これを俳体歌または俳諧式実感歌と呼び、いはゆる専門歌人から白眼視された。(略)一見、平明蕪雑な表現方法は、因習技巧家たる彼らをして、徳川時代の俳諧歌と同い卑俗な歌人と蔑視せしめたものであらう。啄木の歌の一般普及性といふことは、彼の芸術の卑俗性を指してゐるものとは今日では誰も信じてはゐないのである。/油川鐘太郎「啄木雑記」
不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心
「不来方」は盛岡の雅称。自分は何者か、何になるのか。その漠とした不安もそこには託されていたかも。
不来方のお城―盛岡城とも呼ばれた南部藩の居城。明治維新後廃城。
「不来方」の地名がよく効いている。ふたたび来ることのない方。お城が別の名前だったなら啄木はこうは詠まなかったろう。もう二度と来ない、早熟な青春だったから十五歳のこころは空に吸われるのであった。
都大路は、落花の雪に埋もるゝ頃、転地療養にとて、房州は北条の浜辺へ島流し。
自ら焼棄すべきであつた彼の日記を其儘現世へ遺して逝つた啄木、焼けと言はれた遺志に悖つてそれを形見として贈つた節子さん、筐底深く私蔵すべきであつたそれを図書館に寄託して閲読の機縁を作つた私、見すべきでなかつたそれを特殊の人達に繙読させて不識不知の間に公開出版の輿論を培つた岡田氏。その何れもが夫夫に批判さるべき過誤を犯した事になるのであらう。私は然しそれ等の事態の奥底に絡はる、情理を超えた愛着の強さと人力を絶した運命の奇しさとに深く考へさせられる。
予は、唯、死んだら貴君を守りますと笑談らしく言つて、複雑な笑方をした。それが予の唯一の心の表し方であつたのだ! (明治41年9月6日)
正善は東京帝国大学文学部の宗教学科に入学し、そこで日本の宗教学の開拓者である姉崎正治に学んだ。卒業論文は天理教の伝道活動をテーマとしたものだったが、そこにはキリシタンの研究を行っていた姉崎の影響があった。
靴裏に都会は固し啄木忌 秋元不死男
本棚のあたりより暮れ啄木忌 鈴木真砂女
便所より青空見えて啄木忌 寺山修司
鮨台更けて一人が睡る啄木忌 長谷川かな女
城の堀いまもにほへり啄木忌 山口青邨
自己の真実直視の苦闘、これは当時にあっては自然主義の文学的営為であった。しかし啄木にあっては、それを前述したごとく小説執筆において行なうことは不可能であった。啄木は日記において期せずしてその自然主義的営為を行なったのである。
近藤典彦「北海道・東京時代の啄木」
(『ローマ字日記』)なぜ、ここまで率直な内面告白がこの時期にだけ、ローマ字で行われたか、ということが問題になる。答えとしては、近年、池田功の出した説がおそらく最も的を射ている。要するに、啄木はここで、徹底して自己をえぐる一首の私小説を試みているのであって、これは単なる日記ではなく、独立した一つの作品だ、というのである。 今井泰子「石川啄木名作事典」
浅草の凌雲閣(りょううんかく)のいただきに
腕組みし日の
長き日記(にき)かな
石川啄木『一握の砂』
凌雲閣!なる程丁度十二階ある。一体何の為に建てたものぢやらうか、滅法に高いものぢや。少し歪んで居る様ぢや。筋金が打つてある。是は険呑ぢや。彼(あ)れが崩れたら其麼(どんな)ぢやらう、考へて見てもゾツとする。流石に東京者は胆が据つて居る哩(わい)、彼(あ)の危険物を取払はせずに、平気で其近所に住んで居るのは。尤も博覧会は東京に雨が降らぬものとして建てた相ぢやから、此十二階も地震の無い国の積ぢやったらう。
兄について書かれたもののなかには、じつに的はずれな批評、考察、曲解などをまことしやかに語り伝えているものもあります。こうしたことに触れるにつけて、私は驚くと同時に、ただ一人の妹として、できるだけ訂正しておきたいものと考え、このたび本書をまとめました。真実の啄木を知っていただきたいと思ったからです。
人間啄木の受けた最大の苦盃、これあってむしろ死期も早められたかの感がますます深くなってゆくのである、それは最愛の妻より裏切られた事件それ自体であって、最も大きな確証を握って居る者は二人生存して居る。一人は妹の私、一人は姪の稲。(・・・)この意味に於て兄の遺骨を何らの係りもない北海の海辺に置く事は正しく故人の意志を無視したいたずらに過ぎないと思う。
三浦光子「兄・啄木の思い出」
今石川家が存続し居るのも畢竟(堀合)忠操によって遺児が育てられ、結婚し子を持ったからである。
この母(堀合とき子)も節子の死後遺児を見て居ったが、大正八年十二月十八日肺を患ってなくなった。私達は石川家からうつされたものだと思った。
堀合了輔「啄木の妻とその一族」