2017年07月19日

「塔」2017年7月号(その1)


 ムーミンの重さうな顎が揺れてゐる干されたタオルに花びらながれ
                       上杉和子

確かにムーミンの顎は下膨れで重そうだ。どんな場面かと思って読んでいくと、下句でタオルに描かれた絵だとわかる。「花びら」との取り合わせもいい。

 亡き妻の診察券はもう不要 二度と病気で死ぬことはなし
                       矢野正二郎

下句に万感の思いがこもる。病気で苦しい思いをして亡くなったのだろう。もうそういう目に遭わなくて良いというのがせめてもの慰めなのだ。

 全国の天気予報に徳島のあらねば愛媛と高知に測る
                       橋本成子

テレビや新聞で見る予報に自分の住む町がない寂しさ。結句の「測る」が面白い。愛媛と高知の平均を取るようにして徳島の天気を予測するのだろう。

 県境で気持ち切り替へ江戸川をごつとんごつとん越えて来にけり
                       立川目陽子

千葉県と東京都の県境を流れる江戸川。自宅からどこかへやって来た場面だろうか。電車で川を越える時に、別の顔の自分へと変わるのである。

 春昼の猫は耳だけ起きてゐてつぶてのやうに鳥が来てをり
                       福田恭子

目は閉じているけれど、小さな鳥が飛んで来る音をとらえて、耳が瞬時に動いたのだ。のんびりしているように見えても、動物らしさは失われていない。

 花曇り、鳥雲に入る、鰊空 春はやさしく紗をかけてゆく
                       高松紗都子

上句は三つとも春の季語。後の二つは日常的にはほとんど使わない言葉だろう。言葉のイメージが膨らんで、薄雲りの春空の様子をうまく表している。

 男ひとり玩具売り場をさまよへりでんでん太鼓を探し求めて
                       益田克行

幼い子どものために昔ながらの「でんでん太鼓」をデパートに買いに来た作者。慣れない玩具売り場で一人で戸惑っている姿が微笑ましい。

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2017年06月29日

「塔」2017年6月号(その2)

ちぎっては食べちぎっては食べるパン私の中に暴力がある
                     鈴木晴香

上句は何でもない光景だが、下句がおもしろい。下句を読んでからあらためて上句を見ると、「ちぎっては食べ」の繰り返しに迫力がある。

わが辞表受け取らざりし人なりき春一番の日に逝きたまふ
                     安永 明

職場の上司だったのだろう。作者の能力を評価し、身を案じて慰留してくれた人である。何年たっても、忘れられない出来事だったのだ。

ゆつくりと日のまはりゆく春の日に手紙を書けば手紙の来たり
                     福田恭子

下句がおもしろい。手紙を書いた相手ではなく、別の人からの手紙だろうと読んだ。のどかな春の感じがよく出ている。

過去からは逃げられないな まふたつの藍色のうつはに断面の
白                   小田桐夕

上句と下句の取り合わせがうまい。表面は釉薬が塗られ絵付けもされているが、内側は白いまま。それが自分の過去を思わせたのだ。

県北のひとの会話にひと混じる「南の人」の不思議なひびき
                     浅野美紗子

同じ県に住む相手が使う「南の人」は「南国の人」ではなく「県の南部に住む人」の意味。その県の人にだけ通じる言葉遣いの面白さ。

ゆびさきにばんそうこうが見えている舞台衣装の女のひとの
                     高原さやか

舞台で演じている女性の素の部分が見えてしまったのだ。絆創膏という小さなものが、一瞬で舞台の世界を現実に引き戻してしまう。

あみだなに寝そべりあみのすきまからとろりと落ちてしまう
夕ぐれ                 坂本清隆

スライムのように少しずつ形を変えながら落ちていく感じ。電車の中での空想だろうが、平仮名書きがなまなましい体感を生んでいる。

窓にうつる自分の影とむかひあふ一列ありぬTSUTAYAの夜に
                     岡部かずみ

店の外側の窓ガラスに向って立ち読みをしている人々。じっと動くこともなく、横一列になって黙々と雑誌などを読んでいる。
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2017年06月28日

「塔」2017年6月号(その1)

少し奥に切り株ひとつあつたはず 鳥の声して深くなる森
                     亀谷たま江

以前にも歩いたことのある森のなかの道。かつての記憶と重ね合わせるように少しずつ奥へ奥へと歩みを進めていく。

障泥烏賊(あふりいか)は一匹だけで泳ぎます 髪きられつつ
耳は聴きをり               谷口純子

美容院の座席で聞いている話。アオリイカの大きなひれを馬の泥除けに見立てて「障泥(あおり)」という名前が付いたらしい。

籐椅子に眠りは徐々に滴りて指につめたいよどみとなりぬ
                     万造寺ようこ

籐椅子に掛けながらうつらうつらしている感じがうまく表現されている。だらりと腕が垂れて、指先が少しずつ冷えていくのだ。

何をなした人にはあらねど曾祖父の曾孫としての我だと思う
                     相原かろ

有名人でも偉人でもないけれど、その人がいなければ今ここに自分はいないという思い。「曾祖父の曾孫」と言葉を重ねたのがいい。

ちりとりの緑がいちばん鮮やかで桜の根もとに立てかけてあり
                     河原篤子

周囲の風景の中で一番鮮やかで目に付くのだろう。桜の木や庭の様々なものよりも、何でもないちりとりの存在感が上回っている。

妻のなき父と夫のなき吾と桜紅葉の堤を歩く
                     吉川敬子

それぞれ伴侶をなくした父と娘の散歩。お互いに何も言わなくても心が通じ合うのは、やはり親子ならではという気がする。

鍋、薬缶、かつて光っていたものを集めて磨く春が来たので
                     中山悦子

斎藤史の「うすいがらすも磨いて待たう」を思い出す。でも、こちらの歌が磨くのは鍋や薬缶。家庭の生活感が溢れている。

ドーナツの油でべたつく指の先舐めたる舌は口中に消ゆ
                     筑井悦子

自分ではなく誰かの舌だろう。舌が口の中に入るのは当り前のことなのだが、「口中に消ゆ」と表現するとまるで手品のようで面白い。
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2017年05月22日

「塔」2017年5月号(その2)

なまじろき項(うなじ)あらはになりてをりなほ立ち上がる赤鬼
青鬼                    篠野 京

節分の追儺式の場面。本物(?)の鬼ではないから、赤や青のかぶり物の隙間から人間の白っぽい皮膚が覗いているのだ。

ささずとも濡れないほどの、でも傘に徐々に雨粒はりついてゆく
                      中田明子

二句で切って「、でも」とつなぐ文体が印象的。「ささずとも濡れないほどの雨なれど」みたいにすると、全然面白くなくなってしまう。

かりそめの家族だろうかお湯割りは怒りを溶かすこともできない
                      大橋春人

かりそめのものと思っていた方が家族関係は楽かもしれない。焼酎のお湯割りを飲んでも家族の誰かに対する怒りが消えないのだ。

改修の済みたるトイレはずかしくしばらく別のフロアを使う
                      山名聡美

最近のトイレはとても明るく清潔になって、でも何だか落ち着かない。改修前は少し薄暗いけれど居心地の良いトイレだったのだ。

言ひづらきことも言ひたるわれの影千日草の花に触れゆく
                      朝井一恵

帰り道に相手の反応を思い返したりしながら、やや俯いて歩いているのだろう。千日草の丸い花に触れることで少し自分を慰めている。

何となく入れたくなったと言い添えて夫がはじめて買うバスクリン
                      大森千里

長年連れ添ってきた夫婦の感じがよく出ている。きっと何かしんどいことがあったのだろう。でも夫はそれを言わないし妻も訊きはしない。

ローマ字ではNANKOKUとある「南国」の標識あをし海が近づく
                      岡部かずみ

高知県南国市。「なんごく」ではなく「なんこく」であることを知って驚いたのだ。旅行の途中だろうか。明るい海の感じも伝わってくる。

晩柑をともしびとして食卓に船をいざなふごとく待ちをり
                      有櫛由之

誰かの訪れを待っている場面だろう。「船をいざなふごとく」がいい。夜の灯台のように、黄色い晩柑が一つ食卓に載っているのだ。
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2017年05月19日

「塔」2017年5月号(その1)

とかげのごと目蓋おしあげうたたねの母がときどきわたしを
さがす                     上條節子

「目蓋おしあげ」から高齢の母の様子がよく伝わってくる。作者の姿が近くに見えないと不安になるのだろう。

閑職に移されへこむわれでなし へこんだふりはせねばなら
ぬが                      森尻理恵

人事異動により閑職に回された作者。それくらいのことでは落ち込まない強さを持っているが、職場における駆け引きや戦いはまだ続く。

由比ヶ浜に唐船朽ちてゆくまでを実朝の聞きていし波の音
                        山下裕美

源実朝が宋に渡る計画を立て唐船を建造させた歴史を踏まえた歌。計画が失敗に終わって朽ちてゆく船をどんな思いで見ていたのか。

ゴールして抱へられゆく少女から冬枝のごとき腕(かひな)の
垂れる                     広瀬明子

マラソンを走り終えた女子選手の細い腕を「冬枝」に喩えているところが生々しい。鍛えられた肉体ではあるけれど、可哀そうにも感じる。

厨房で何かもめてる中華屋のアンニンドーフだけ聴き取れる
                        相原かろ

言い合いをする中国語が飛び交っているのだろう。杏仁豆腐という言葉だけが意味のあるものとして、かろうじて聞き取れるのだ。

清潔なロビーのようなこのひとの心に落とす夜のどんぐり
                        白水麻衣

少しよそよそしさもあって、相手の心に入り込めない感じがするのだろう。少しでもいいから自分の存在や思いを伝えたいのだ。

おまえも早く寝たほうがいいふりむけば遠赤外線ストーブの立つ
                        小川ちとせ

上句は誰かの台詞なのだろうが、まるでストーブが話し掛けたような感じがするのが面白い。離れた所から自分を見守ってくれている。

熾の上に灰のうつすら積る見ゆこの淋しさは人間のもの
                        高橋ひろ子

下句の思い切った断定がいい。暖炉や火鉢にある熾火に灰が白く積もっている場面。火の赤さは表からは見えずひっそりと静まっている。
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2017年05月06日

「塔」2017年4月号(その2)

ミニカーの運転席に人はなくエアコンの風吹いてくるのみ
                       田村穂隆

ミニカーには人が乗っていないという発見の歌。その無機質な感じにエアコンの人工的な冷たい風がよく合っている。

吾の部屋の家主ノーマン・ブレッドと電話に話せど会いたる
ことなし                   高橋武司

家主が外国の方なのだ。確かに賃貸契約を結ぶ時も不動産屋を介してなので、家主と直接会うことはあまりない。何だか謎めいている。

思い出すときにあなたとその奥に降るぼたん雪、いつまでも冬
                       川上まなみ

思い出の中の時間は進むことがない。作者にとって忘れられない相手であるあなた。それが永遠に失われてしまったことも感じさせる。

開かない日もあるけれど止まり木のような一冊かばんにいれて
                       山名聡美

「止まり木のように」がいい。忙しく大変なことの多い生活の中で、ほっと一息つけるのが読書の時間。お守りのように鞄に入れている。

水差しが傾くような礼をしてしずかなるバスに乗りゆくきみは
                       石松 佳

「水差しが傾くような」がいい。相手の人のたたずまいがよく見えてくる。その礼儀正しさが、作者には少し寂しくもあるのだろう。

転ぶなと言う人のいて転んでもいいよと言う人のいて 冬の月
                       岩尾美加子

年配の方に「転ぶな」と言うことは多い。骨折が寝たきりの原因になるからだ。そんな中で「転んでもいい」という言葉が嬉しかったのだろう。

ポケットに両手つっこみ帰路につくわら半紙色の雲を見ながら
                       中西寒天

「わら半紙色の雲」がいい。晴天ではないのだけれど、どこか懐かしさや温かさを感じる。「両手つっこみ」の素っ気なさも微笑ましい。
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2017年05月05日

「塔」2017年4月号(その1)

われの死を諾はざらむものひとつ小さき心臓ペースメーカー
                       尾形 貢

「諾はざらむ」という把握が独特でおもしろい。自分の死後もずっと動き続けるペースメーカーのことを想像している。

君のこゑが雪と言ひたり覚めやらぬままになづきの仄か明るむ
                       溝川清久

寝床にいながらぼんやりと、窓を開けた君の少し驚いたような声を聞いている。「仄か明るむ」が雪明りもイメージさせる。

豊島屋の三和土に小さき板おかれ白猫すわる寒き目をして
                       佐原亜子

昔ながらの古いお店。三和土に直に座るのは冷たいので、ちゃんと猫の居場所が設けられているのだ。「豊島屋」という固有名詞がいい。

干拓地の町の名前は福、富、輝、栄、あけぼの付きてめでたし
                       加藤久子

干拓地には古い歴史や由緒が何もない。そこで人工的に付けられた縁起の良い名前の町ばかりが続くことになる。

住宅地のなかをゆったりカーブするミシン目はあり地図上の
暗渠                     北辻千展

暗渠はもとは地上にあった河川であるから、街区や道路と違って自然なカーブを描いている。地図にだけ残る失われた風景。

閉じている薔薇をゆさぶり今咲けというごと言葉は子を追い
つめる                    橋本恵美

花に向ってこんなことをする人がいたら変だと思うけれど、子育ての場面において、親はついつい同じようなことをしてしまう。

十五年着しセーターを捨てて今朝我が吉祥寺の街は消えたり
                       野 岬

吉祥寺の店で買ったのか、吉祥寺に住んでいたのか。物を捨てるというのは、それにまつわる思い出も捨てることなのである。
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2017年03月24日

「塔」2017年3月号(その2)

三人の子は三様の声なれど三様にしてわれと似てをり
                   千名民時

別々の声なのだけれど、それぞれにどこか自分と似ている。声を通じて親子という関係をあらためて捉え直した歌。

瘤白鳥 沼に生まれて沼にすみ沼より出でずひくく空とぶ
                   田中ミハル

「沼」を三回繰り返したところが良い。「白鳥」ではなく「瘤白鳥」であること、また「ひくく」という表現にも、翳りが感じられる。

食事終へて気づきぬ背後に立つものが人ではなくてゴムの木
だったと               野 岬

レストランだろうか。何かが立っている気配をずっと感じながら食事をしていたのだ。拍子抜けしたような気分がよく表れている。

食欲のまたなくなりし吾がために夫は山形の「とびきりそば」
求めき                岩淵令子

ネーミングが面白い。きっととびきり美味しいそばで、作者の好物なのだろう。少しでも食べられるものをと考える夫の愛情もよく伝わる。

牛乳代百円もらいに娘たちのれんをくぐり男湯へゆく
                   茂出木智子

お金を持っている父親がいるのだ。まだ幼くて無邪気に男湯へと入って行く娘たち。数年もすれば見られなくなる光景である。

デスクには「白い恋人」二枚あり忌引を終えし同僚からの
                   和田かな子

同僚は北海道の出身なのだろう。忌引明けに職場のデスクにお土産を配って回ったのだ。「白い恋人」二枚という具体が効いている。

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2017年03月23日

「塔」2017年3月号(その1)

しない方がよい練習といふものはそれをたくさんした後わかる
                    河野美砂子

逆説を含んだ格言のような歌。ピアノの練習の話なのだろうが、他のいろいろなことにも当て嵌まりそうな気がする。

あかりひとつ消せば隣の部屋の声くきやかになるホテル東洋
                    小林真代

電気を消して部屋が暗くなると、聴覚が敏感になる。あまり防音が良くない少し古めかしいホテルが思い浮かぶ。

地穴子の弁当のへぎに輪ゴムかけ母との夕食六時に終えぬ
                    上條節子

昔ながらのへぎ板の箱に入った穴子弁当。年を取った母と二人で早い夕食をとる。穴子は母の好物なのかもしれない。

三十万も仔がいるという平茂勝(ひらしげかつ)は黒光りする
銅像の牛                北辻千展

三十万という数に驚くが、非常に優秀な種牛だったのだろう。「平茂勝」がまるで人名のように見えるところが面白い。

仏像の五指の反り見てしばらくをまねしてをりぬ仏のやうに
                    中野敏子

美しく伸びた指を見ているうちにふと真似したくなったのだろう。結句「仏のやうに」が不思議な味わいを生んでいる。

妖精のようだとわれは評されて焼き鳥、串から外しにくいね
                    白水麻衣

誉め言葉のつもりなのだろうが、言われてあまり嬉しい譬えでもない。下句の居酒屋の場面との取り合わせがいい。

願ひごとのせし土器(かはらけ)落ちゆくはあまた土器積りし
ところ                 久岡貴子

土器投げで投げられた土器が、みな同じような所に落ちていくのだろう。本当にこれで願い事が叶うのかなあと苦笑しているような感じ。
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2017年02月27日

「塔」2017年2月号(その2)

珈琲に息ふきかけてはつふゆの湖面のように晴れてゆく湯気
                     安田 茜

珈琲から立ち昇る湯気を湖面の霧に喩えているところが鮮やか。スケールの全く違うものが比喩によって一瞬で結び付く。

お母さんも喘息ですね かつてのわが苦しみまでも名を付け
られぬ                  丸本ふみ

子が喘息で苦しんでいるのだろう。医師が軽い気持ちで言った言葉を聞いて、子の病気が自分のせいなのかと思い悩むのである。

自転車ごと乗りこむ二両の飯坂線冬の帽子を目深にかぶり
                     佐藤涼子

近年、自転車を車内に持ち込めるサイクルトレインが少しずつ広がっている。「二両」というところからローカル線の様子も伝わる。

ピーマンは豊かに稔り実の中にいま満ちてゐむみどりの光
                     高橋ひろ子

畑に実るピーマンを見ながら、その中に入ってみたかのような想像をしている。ピーマンには空洞があるので、小人なら住めそうだ。

晩年は光届かぬ目となりし画家のまなうらに光る睡蓮
                     魚谷真梨子

モネのことだろう。目が見えないと言わずに「光届かぬ目」と表現したのがいい。自分がかつて描いた作品が目の奥で光っている。

明け方のどこかで犬が鳴いてゐる声のまはりを滲ませながら
                     岡部かずみ

下句がおもしろい。鳴き声だけを聞きながら、そのまわりの空気の震えのようなものを感じ取っている。そこだけがほのかに明るい感じ。

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2017年02月26日

「塔」2017年2月号(その1)

どのビルにも屋上があるということを暮れ残りたる屋上に知る
                        白水麻衣

夕暮れの屋上から町を眺めている様子だろう。地上はすっかり暗くなっているのに屋上にはまだうっすらと明るさが残っている。

鎌倉や耳朶に穴ある仏なれば耳朶の向かうに空の見えたり
                        永山凌平

鎌倉の大仏の耳には穴が開いていて、そこから空が覗くのだ。初句、与謝野晶子の「美男におはす」の歌を思い出させる。

ほんのりと擦れば香るとふ栞こすらず送る手紙に添へて
                        越智ひとみ

香りが薄れてしまわないように、慎重な手付きで封筒に入れているところだろう。相手への大事なプレゼントなのだ。

火にかざしジャム瓶の蓋ゆるめつつ少年という瓶をおもえり
                        中田明子

おそらく頑なな態度を見せることのある少年なのだろう。ジャムの瓶と違って、こうすれば簡単に開くというわけにはいかない。

ロキソニン湿布の裏に書かれたる富山の地名もういちど読む
                        松原あけみ

痛み止めとして一般的によく使われているロキソニン。こんなところにも「富山の薬売り」以来の伝統が生きているのか。

「雨る」を「ふる」と読めぬ我なりたそがれの雨は真直ぐにしらじら
と降る                     丸山順司

渡辺松男の歌集名を受けての歌だろう。「雨る」を「ふる」と読むことへの違和感と、そんな自分の生真面目さを少し疎ましく思う気持ちと。


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2017年02月02日

「塔」2017年1月号(その2)

洞(うろ)みせて舟屋ゐならぶ伊根湾に遊覧船はターンをはじむ
                     竹下文子

「舟屋」は一階部分が海に面して船を入れられる造りになっている。その暗がりを「洞」と表現したのがうまい。湾の風景が見えてくる。

客のない料理店(レストラン)の窓はなたれて額縁の中に貴婦人
立てり                 朝日みさ

開店準備をしているところだろうか。壁に飾られた絵の中の貴婦人がまるで生きているかのような存在感を放っている。

片側に止まりて待てばすれ違ふ少女の腰の熊鈴の音
                     穂積みづほ

山道を歩いているところだろう。道幅が狭くて、どちらかが止まらないとすれ違えないのだ。「熊鈴の音」だけがあたりに響いている。

アメンボが一匹二匹三匹とどんどん増えて雨粒となる
                     村ア 京

水面にできた波紋をアメンボに喩えている歌。最初はアメンボが動いているかと思ったら実は雨だったという感じかもしれない。

頼ることの苦手な母より電話ありいつかくる日が今きたと知る
                     八木佐織

もう自分一人ではどうしようもなくなって、母が助けを求めてきたのだ。覚悟していた事態がいよいよ現実になったという緊迫感がよく表れている。

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2017年02月01日

「塔」2017年1月号(その1)

兄姉を持たざるわれが妹にその味をきく法事の席に
                 大橋智恵子

作者は長女なのだろう。年上のきょうだいがいるというのはどんな気分なのか、妹に聞いてみたのである。「味」という言葉の選びがいい。

シャッターを上げた幅だけ陽のさして一生(ひとよ)をおえし
金魚を映す           中村佳世

陽の光が死んだ金魚の姿を浮かび上がらせている。「シャッターを上げた幅だけ」という描写が巧みで、場面が見えてくる。

おとろえる猫に添いつつ短篇をいくつも読んで夏が過ぎゆく
                 桶田夕美

年老いた猫がいるので、なかなか外出もできないのだ。長篇に没頭する気分にもなれず「短篇」を読んでいるところに実感がある。

春光は明朝体と思うとき文字で溢れる僕たちの庭
                 千種創一

春の明るく鮮やかな光を「明朝体」のようだと感じたのだろう。二人の庭に無数の明朝体の文字が躍っている。

優秀なデジタルカメラは外壁に描かれし啄木のかほ認識す
                 逢坂みずき

文学館などを訪れた場面だろう。カメラの顔認識機能が、壁に描かれた顔にピントを合わせたのだ。「優秀な」にユーモアが感じられる。

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2016年12月22日

「塔」2016年12月号(その2)

花火の音をこわがる子を抱いて母でしかない夜を肯う
                     春澄ちえ

小さな子なので家に聞こえてくる花火の音を怖がるのだろう。「母でしかない夜」という表現が強烈で、それを「肯う」と言い切ったところに強さを感じる。

滝のぼるごとくうねりて塩まとひあゆはじりじり焼かれてゆきぬ
                     足立訓子

うねるような姿で串に刺されている鮎。初二句で生き生きとした姿が思い浮かぶだけに、下句の現実との落差が哀れを誘う。

新選組の羽織の色を思はせてアサギマダラの庭に舞ひをり
                     黒瀬圭子

アサギマダラと言うと長距離を移動することや藤袴の蜜を吸うことがよく題材になるが、これは水色と黒の色に着目している。そう言えば、羽織もひらひらする。

スカートをはかなくなってもう二年 置き去りの足が砂浜にある
                     大森千里

下句がとても印象的。スカートから出ていた素足が、今もそのまま砂浜に残されているようで、寂しさが滲む。年齢的なことだろうか。

新刊の本の間に栞紐「の」の字うっすら紙に沈めて
                     平田瑞子

結句の「沈めて」という動詞が良い。栞紐の跡が本に付いている光景はよく詠まれるが、これは「沈めて」で歌になった。

4の段を終へて5の段6の段 6×7(ろくしち)あたりでいつも
つまづく                 加藤 宙

確かにそうだよなあと思う。九九の間違えやすいところ。計算というよりも発音しにくいことが関係しているような気がする。


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2016年12月21日

「塔」2016年12月号(その1)

I−4、シネリーブルの最後列右端の席にけふも沈みをり
                    上杉和子

映画館に行った時にいつも選ぶお気に入りの席。前からABC・・・とあって一番後ろのI列。その列はおそらく変則的に4席しかないのだ。

ふたり居れば別れは必ず来るものを 分かりなさいと蝶が舞ひ
ゆく                  野島光世

どちらか一方が死ぬにせよ出て行くにせよ、必ず別れの時は来る。「分かりなさい」は自分自身に言い聞かせている感じだろう。

睡蓮の鉢に空あり雀来てくちづけし後みづは残れり
                    清水弘子

鉢の水に映っていた空が、雀のくちばしが触れたとたん手品のようにパッと消えて、後には水だけが残っているような不思議な感じの歌。

見えずとも分水界のあることの、あなたは別の海にゆくひと
                    白石瑞紀

どんなに近くにいても、やがては別れる運命の人。「分水界」という比喩と、三句の「の」のつなぎ方が寂しさを滲ませている。

手をつなぎ見る曼珠沙華 他人には戻れないのがすこし寂しい
                    上澄 眠

二人は夫婦か恋人なのだろう。一度関係を結んでしまえば、たとえ別れたとしても再び全くの他人同士に戻ることはできない。

おのずから身を裂くことの熱量の柘榴、くりの実、飴いろの蟬
                    福西直美

熟して割れた柘榴、弾けた栗の毬、脱皮した蟬。内側から溢れ出るような力で自分を壊すものたち。その激しい情熱への憧れが作者にはあるのだろう。

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2016年11月18日

「塔」2016年11月号(その2)

すべり台使わんとして登る娘の少し死者へと近づく高さ
                    鈴木四季

下句に驚かされる。地面に立っている時よりも少しだけ死者に近いという感覚。落ちたら危険ということも含めて、何となく納得させられる。

人生はあなたなしでも続くから盆の終わりに小さく泣くよ
                    大橋春人

どんなに掛け替えのない人の死であっても、残った人の人生はその後も続いていく。「泣く」ではなく「泣くよ」なのがいい。

輪郭のぱりりと軽い鯛焼きに口をあてては熱を食みゆく
                    小田桐夕

鯛焼きを食べているだけの歌だが、「輪郭のぱりりと軽い」「熱を食みゆく」という修辞が的確で、必要十分な歌に仕上がっている。

その死からもっとも遠き日の顔で叔母が笑えり写真のなかに
                    菊井直子

まだ元気で生き生きとしていた頃の写真が遺影となっているのだろう。反対に言えば、亡くなる前はそういう姿ではなかったということだ。

どちらかと言えば仕事の愚痴を聞く側で積まれる枝豆の鞘
                    山口 蓮

愚痴をこぼす方も大変だが、聞く方も大変である。作者は性格的にいつも聞く方になってしまうのだろう。「枝豆の鞘」の空虚感。

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2016年11月17日

「塔」2016年11月号(その1)

沈む陽は窓より深く射し入りて冷蔵庫の把手しばし耀ふ
                   田附昭二

夕方の陽ざしが家の奥まで射し込んで来て、金属の把手部分を美しく光らせている。その輝きはやがて消えてしまうものだ。

少女とわれの夏の時間はみじかくて西瓜の種をならんで飛ばす
                    石井夢津子

「少女」はお孫さんだろうか。ありふれた何気ない場面。でも、それが掛け替えのない時間であることを作者は知っている。

客二人乗務員一人ゴンドラは霧に見えざるロープを下る
                    久岡貴子

「客二人」は作者と連れの人なのだろう。唯一の頼りであるロープが見えないことの不安と楽しさ、そして浮遊感。

倒木の覆ふ流れを汲みて飲む木の香を帯ぶる冷たき水を
                    富樫榮太郎

「木の香を帯ぶる」がいい。山の中のきれいな流れなのだろう。歩き疲れた身体に鮮烈にしみてくる。

肢そろへ横腹見せて寝ねてをり殺されやすき姿で犬は
                    野 岬

よく見かける光景であるが、下句にハッとさせられる。確かに、横腹を見せるというのは、野生の動物とは違う無防備な姿なのだ。


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2016年10月15日

「塔」2016年10月号(その2)

台所中にちらばる飯粒を拭きおえしのち焼飯を食う
                   田村龍平

相当豪快にフライパンを振ったんだろう。でも、食べる前にちゃんと拭いているところが微笑ましい。一人の食事の感じ。

バスの窓ガラスに額を押しつけて昆布のゆらぐ海を見ており
                   松浦わか子

旅先の風景だろうか。海岸沿いを走るバスから、海の中に揺らめく昆布が見えるのだ。「額を押しつけて」に体感がある。

トンネルの合間にのぞく熱海から秘宝館など見つけるあそび
                   山名聡美

今では全国でも数少なくなった秘宝館。新幹線の車窓から眺めているのだろう。上句の描写が的確で、「のぞく」という語の選びが良い。

屋久島できかぬ名まへと尋ねれば種子島から来たのだと言ふ
                   山尾春美

島によって特徴的な名字があるのだろう。例えば対馬には阿比留さんが多い。隣り合う屋久島と種子島でも随分と違うのだ。

封筒に息をふきこみふくらませ遠くの人への手紙を入れる
                   高原さやか

息を吹き込むのは封筒を広げるためだが、相手に思いを届ける祈りのようでもる。「遠くの人」がよく効いている。

何にでもなれる(なれない)者としてビニール傘をコンビニで買う
                   山口 蓮

人は何にでもなれる可能性を持ちながら、実際は何にでもなれるわけではない。その二面性が、色のないビニール傘とよく合っている。

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2016年10月14日

「塔」2016年10月号(その1)

ときをりは薄暗がりに溶けてをり書棚の隅の二ポポ人形
                    川田伸子

「二ポポ人形」は北海道でよく売られているアイヌの人形。「溶けてをり」がおもしろい。忘れられたように長年飾られている人形の感じ。

才能がなくてと謝り食べているいわしフライのいわしの体を
                    片山楓子

「いわしフライを」なら普通だが、「いわしフライのいわしの体を」としたのが良い。やるせない思いが滲み出ている。

炎天にはためく「氷」の波がしらをくぐりて母といもうとは消ゆ
                    田中律子

家族に対するかすかな屈折を感じさせる歌。上句の描写が、かき氷の旗を吊るした店の様子を端的に表している。

猫避けに眼のよく光るふくらうを日日草の中に置きたり
                    祐徳美惠子

本物のふくろうかと思って読んでいくと、実は置物のふくろうの話。目が光るようになっているのだろう。

あまやかな水にいくすぢかたちのぼる気泡はほそき鎖のごとし
                    小田桐 夕

グラスの底から立ち昇る炭酸飲料の泡を「ほそき鎖」に喩えたのが秀逸。泡を見つめる作者の繊細な意識まで感じられるようだ。

二人では折り畳み傘は小さくて香林坊の雨に駆け出す
                    濱松哲朗

香林坊は金沢の繁華街。映画のシーンのように突然の雨に走り出す二人。迷惑というよりは、どこか楽しんでいる気分が伝わってくる。

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2016年09月23日

「塔」2016年9月号のつづき

『日本の橋』読みしのちもとめたる全集いくらも手にとらざりき
                    竹下文子

保田與重郎の『日本の橋』に感動して全集を買ってみたものの、あまり読まなかったのだろう。「いくらも」に寂しさがにじむ。

肩甲骨すでに大人になっている息子の背中と背くらべする
                    石井久美子

中学生くらいの子だろうか。体つきや骨格はもう大人の男だ。「肩甲骨」に着目したところが良い。「背中」もくどいようで効いている。

ドアホンのピンとポンとのそのあひの時間の永き夏の午後なり
                    清水良郎

ピンポン、ピンポンと慌ただしく鳴るのではなく、指でゆっくり押してから離した感じ。時が止まってしまったかのような時間帯の様子である。

きみの手を握って眠ったはずなのにコピー用紙を抱えて歩く
                    阿波野巧也

上句から下句への時間的な意識の飛躍がおもしろい。下句は目覚めた時の話が来ると思って読んでいくと、突然、昼間の場面に飛ぶ。

遮断機の下をながれて水草は遠き河口へ導かれゆく
                    吉田 典

遮断機が上がるのを待つ間、踏切の下の水路を見るともなく見ている。流れる水草につられるようにして、見えない河口へと想像が広がっていく。

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2016年09月22日

「塔」2016年9月号

勉強会、はた宴会と騒ぎいしかの日のボンジョルノ難波はいずこ
                   小川和恵

イタリアンレストランだろうか。若かった頃によく仲間たちと利用していた店が、今では姿を消している。残っているのは思い出だけ。

やわらかきところを鍬の刃にさぐりひとふりふたふり竹を倒しぬ
                   吉川敬子

「さぐり」がいい。鍬を持つ手に伝わってくる感覚がよく表れている。竹を倒すにも力任せではだめで、コツのようなものがあるのだろう。

かあさんはやさしいねえと育親書でも読んだみたいに眠る間
際を                 宇梶晶子

褒めて育てる方法が書いてある育児書のように、親にいたわりの言葉を掛けてくれる子ども。やさしくない自分に気付いているだけに胸が痛むのだ。

通勤の橋わたるとき海へ吹く風はパルプの匂いをはこぶ
                   小林貴文

橋の上はよく風が通る。上流の方から匂いが流れてくるのだろう。朝の通勤で仕事へと向いていた意識が、その瞬間だけ少し緩むのだ。

ちょる、ちょると耳をくすぐる方言が飛びかうテーブル揺りかご
のよう                大森千里

故郷に帰った場面だろう。「ちょる、ちょると」がおもしろい。「〜しちょる」という語尾が心地よく響いて、懐かしさと安心感に包まれている。

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2016年09月07日

「塔」2016年8月号のつづき

どこからを遠いというのか砂しろき丘に駱駝が目を伏せて立つ
                   福西直美

「遠い」は距離の遠さとも読めるし、時間的な遠さや関係の遠さとも読める。「目を伏せて」がいい。

声もたぬひとりとなりて森に入る湿つた落葉のあつき堆積
                   山尾春美

上句がいい。森に立つ木々は声を持たない。その中に人間である作者も入っていく。森の中では言葉はいらないのだ。

ささやかなやくそくひとつ果たすごと木の芽をぱん、と叩きて
祖母は               小田桐夕

香りを出すために木の芽を叩く。小さなことだけれども大事な手順だ。「ぱん」の後の読点がよく効いている。

湖西線新快速で敦賀まで湖(うみ)を右手に本を読み継ぐ
                   児嶋きよみ

湖西線はその名の通り琵琶湖の西岸を走る路線。車窓に広がる湖の明るさを感じつつ、本を読み続けているのだ。

均一にスポットライトを浴びている生えてる時より緑のサラダ
                   黒川しゆう

商品として店に並んだサラダ。畑に生えていた時よりも鮮やかな緑色をしている。きれい過ぎて少し不気味でもある。


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2016年09月06日

「塔」2016年8月号

目玉焼きのあかるい丘が運ばれてきたかなしむにはほど遠い朝
                澤村斉美

目玉焼きを「あかるい丘」と捉えたのがいい。黄身の部分のふくらみが希望を感じさせる。

終末の迎へ方をばたれに聞かむあぢさゐの花芽ふくらみて来ぬ
                山下れいこ

「終末の迎へ方」を知っている人は誰もいない。自分一人で向き合わなくてはならないのだ。8月19日に亡くなった作者の歌。

速報を見つつ娘に電話すれば「また揺れてる」と直ぐに切られぬ
                伊東 文

娘の身を案じて電話する作者と、それどころではない娘のぶっきらぼうな対応のずれ。親子の関係がよく見えてくる。

少しだけミルクを足していくように五月の午後のかるいお喋り
                塚本理加

上句の比喩がうまい。コーヒーにミルクを入れるような軽やかさ。下句の韻律も軽快だ。

ほめられることに慣れない ピスタチオつまんだ指に塩きらきらと
                安田 茜

初二句と三句以下の取り合わせが良い。指先に付いた塩の輝きとかすかな違和感と。

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2016年07月29日

「塔」2016年7月号のつづき

湯浴みせしむすめのからだ拭きやればタオルに残る湿りのすくなさ
                   小林貴文

まだ小さな娘さんなのだろう。全身を拭いてやっても、バスタオルがそれほど濡れることがない。子を愛おしむ気持ちが伝わってくる。

今じゃない季節のにおい図書館の本のページをぱらぱらすれば
                   上澄 眠

前に誰かが読んだ時の季節の匂いかもしれない。本の間に密封されていた時間が再び流れ始めるような感じがする。

言ったのにメールしたのに 寝ころべば雲に寝ころぶ桜花見ゆ
                   澤端節子

何か約束をしていたのに、相手が忘れてしまっていたのだろう。ぽっかり空いてしまった時間に空を眺めると、まるで桜が雲に寝ころんでいるみたい。

「受験者は実技を終了しなさい」とテープの声に救助は終はる
                   近藤真啓

何の実技かと思って読んでいくと「救助」の実技だというところに意外性がある。実際の救助の場面だったら途中では終われないのだが。

夕立を聴きながら飲むミルクティー洗濯物は濡れてるだろう
                   内海誠二

喫茶店でゆっくりしていたら夕立の音がし始めたのだ。外に干してきた洗濯物のことを思うが、今さらどうしようもない。

何もない線路の横で手をあげて列車に乗り込むアラスカ鉄道
                   双板 葉

田舎のバスなどで時々フリー乗降区間というのを見かけるが、これは鉄道の話。人家の少ない広野に伸びる線路が思い浮かぶ。

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2016年07月28日

「塔」2016年7月号

友のもつ悩みを電話に聞きてをり金さへあれば解決するとふ
                   岩野伸子

悩みの電話を聞くのもなかなかしんどいものだ。「金さへあれば解決する」という言葉は、借金の申し込みを匂わせているのかもしれない。

春昼にパスタを巻けば菜の花はフォークの元に集まりてゆく
                   北辻千展

下句がうまい。春らしい菜の花のパスタを食べながら、作者の心はどこか浮かない様子である。ぼんやりとフォークの先を見つめている。

十五年の弟の生の証(あかし)とし一中慰霊碑にその名を残す
                   小菅悠紀子

十五歳だった弟は原爆で亡くなった。広島第一中学校の慰霊碑。遺骨も見つからなかった弟が、この世に生きた唯一の証なのだ。

妹はふたりいるけどふたりともわたしのきらいな椎茸が好き
                   空色ぴりか

一瞬、ふたりの妹のことが嫌いなのかと思って読んでいくが、そうではない。私が嫌いなのは椎茸。でも、妹との微妙な関係が感じられる気もする。

諦めることになれたるわたくしが十薬を十薬の根と引き合ふ
                   久岡貴子

「十薬」はドクダミ。庭にはびこるドクダミを抜こうとするが、なかなか抜けないのだ。下句の言い回しに味がある。まるで綱引きをしているみたい。

象のいるプールにぷかりぷかり浮く桃のやうなる糞の四・五個が
                   ぱいんぐりん

「桃のやうな」が絶妙。形と言い、大きさと言い、確かにその通り。美味しそうな桃とゾウの糞とのイメージの落差がおもしろい。

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2016年06月28日

「塔」2016年6月号の続き

母校という言葉が嫌いだと言えば子を産んでいないからだと言わる
                    白水麻衣

けっこう近しい関係の人に言われたのだと思う。だからこそ一層ショックであり、腹も立ったに違いない。「母音」「母国」「母艦」など、考えてみると「母」の付く熟語は多い。

「電話にて弱気を叱る」病状を解らず書きしわれの字を見る
                    安永 明

親か友人か、電話の声に元気がないので励ますつもりで叱ったことがあったのだ。今、日記などを見てその時のことを思い出しながら、既に病気の重かった相手に対してどうしてもっと優しい言葉を掛けられなかったのかと後悔しているのである。

ルビ多き『阿部一族』はエアコンの風量〈しずか〉に切り替えて読む
                    中澤百合子

森鴎外の歴史もの。文字がごちゃごちゃしているので、集中して読みたいのだろう。エアコンの音や風で気が散ることのないようにして。

夫をらぬ夜に柿ピーの柿ばかり残りゆくなり黄金(こがね)の色の
                    広瀬明子

普段は夫が柿の種、作者がピーナツという感じでうまくバランスを取っているのだろう。残った柿の種が夫の不在をありありと示している。

本といふ字が真ん中できつぱりと割れて書店の自動ドア開く
                    清水良郎

上句だけでは何のことかわからないが、下句で自動ドアに書かれた文字の話だとわかる。「本」という字が左右対称なのも良くて映像的な一首だ。

イソップの北風でなく太陽になればと娘(こ)にいふ なれない我が
                    一宮雅子

娘の話を聞いて、相手に優しく接してはどうかとアドバイスする作者。でも、作者自身はそれができない性格なのを知っている。あるいは娘も作者に似た性格なのかもしれない。

息継ぎが上手くできないわたくしは春の光の中で溺れる
                    中山悦子

満ち溢れるような春の光の感じがよく出ている。光を液体であるかのように捉えて、水泳の息継ぎを持ってきたのが面白い。春の明るさにくらくらするような気分だろう。

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2016年06月26日

「塔」2016年6月号

たまには自分の所属する結社誌から印象に残った歌の紹介を。

きれいごと言ふ人苦手さはあれど我の折々言ふきれいごと
                    岩野伸子

初二句だけなら他人に対する批判で終わりなのだが、この歌の良いのは下句で批判が自分にも返ってくるところ。誰しも「きれいごと」を言う時があるものだ。

マスクしてマスクの医者に診てもらふどちらも言語不明瞭なり
                    上田善朗

ユーモアのある歌。マスクをかけた者同士が向き合ってモゴモゴ言っている姿である。風邪やインフルエンザが流行っている季節なのだろう。

毀しゆく明治の煉瓦そのなかの「五百枚目」の墨書きに遭ふ
                    尾形 貢

国鉄で土木関係の仕事をしてきた作者。明治時代に造られた構造物を壊す作業中に、煉瓦に書かれた文字を見つけたのだ。時間を超えて昔の技術者の思いが伝わってくる。

人形に餡は充ちたり断面があらわれるとき見つめてしまう
                    相原かろ

人形焼を一口かじったところだろう。中に詰まっている餡をじっと見つめる作者。よく考えると人形の姿の中に餡が入っているのは奇妙なことに違いない。

風貌を問われナミヘイさんと言い いや良い人と付け加えたり
                    澁谷義人

サザエさんに出てくる波平さんみたいに頭が禿げているのだろう。そう言った後で慌ててフォローしている感じがよく出ていて面白い。

金色のオイルの瓶に子鰯の死につつ並び光をかへす
                    村田弘子

オイルサーディンを手作りしているところだろうか。オリーブオイルの中に小さな鰯がたくさん漬かっている。美しくも残酷な姿。

花の名をわれよりも知る父となり男岳に立ちて女岳をほめる
                    山下裕美

退職してハイキングや山登りをするようになった父。以前は知らなかった花の名前を今では作者よりもよく知っていて教えてくれるのだ。下句、山頂から見える隣りの山の姿がきれいだったのだろう。

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