被災の子の卒業の誓ひ聞くわれは役に立たざる涙流さず
米川千嘉子『あやはべる』
米川千嘉子の歌集『あやはべる』は、終りの方に東日本大震災に関する歌を収めている。
(…)前年末までの歌を集めた第七歌集が終ったころ、東日本大震災がありました。毎日のように続く余震のなか、次々にあきらかになる震災・原発事故の状況があり、さらにそれが自分の身の回りにもわずかに静かに及ぶ日常があらわれました。
このように「あとがき」に書く米川は、震災の歌を含む約1年分の歌を追加して、歌集を再編集したのであった。
波ありて人の影なき映像の意味を遅れてくらく飲みこむ
産むからだ産みたいからだ産むかもしれないからだ 怖れるからだ夏を白くす
絶句する人になほ向くマイクあればなほ苦しみてことばを探す
震災と原発事故を詠んだこうした米川の歌には、「よそごと」や「ひとごと」ではない痛みとかなしみが籠もっている。深いところにまで届いた社会詠だと言っていいだろう。
冒頭の歌も、そうした中にある一首。
単なる同情の涙など、被災した子たちにとって何の役にも立たないことを、自ら痛いほど感じている歌である。この歌がどれくらい「深い」のかは、次のように比較して考えてみるとよくわかる。
被災の子の卒業の誓ひ聞くわれは堪え切れずに涙を流す(改作1)
被災の子の卒業の誓ひ聞くわれは涙流せど役には立たず(改作2)
被災の子の卒業の誓ひ聞くわれは役に立たざる涙を流す(改作3)
改作1であれば、どこにでもある歌だ。改作2は、そこにわずかに自省が加わる。改作3になると、自省の度合いが大きくなるように感じるだろう。自身の行為を客観的に見る眼が備わっていると言ってもいい。さらに、
被災の子の卒業の誓ひ聞くわれは役に立たざる涙流さず
という米川の歌になると、「役に立たざる」「涙流さず」の二回の否定によって、感情を幾重にも折り畳んでいるのが感じられる。それが作者の内面の葛藤や思考の深さを表し、歌の「深さ」を生み出しているのだ。
そうした点を、もちろん私は評価する。現代において社会詠を詠む時に、こうした感情の折り畳みは必然であるし、大切なことだと思う。単純に迷いなく詠んだ歌は力を持ち得ない。
その一方で、それが本当に短歌にとって良いことなのかどうか、かすかな疑問も感じるのである。例えば改作1の「堪え切れずに涙を流す」といった感情の折り畳みのないストレートな歌こそが、実は本来の歌の姿であったのではないか。時おりそんな気もしてしまうのだ。