最寄り駅は「六本木一丁目」。近くには外務省飯倉公館やロシア大使館などがあり、あちこちに警備の人や車を見かける。東京に住んでいた頃にも行ったことがないエリアだ。
今回は樺太連盟が保存している資料の中から、短歌関係のものをいろいろと見せていただいた。
まずは「樺太短歌」。
昭和14年9月号、15年1月号、15年7月号。
続いて「ポドゾル」。
昭和14年1月号、4月号、8月号。
5年くらい探し続けて実物を見たのはこれが初めて。
感激の初対面である。
第一章 樺太を訪れた歌人たち
北見志保子とオタスの杜
松村英一と国境線
北原白秋・吉植庄亮と海豹島
橋本徳壽と冬の樺太
生田花世と木材パルプ
石榑千亦と帝国水難救済会
出口王仁三郎と山火事
土岐善麿と樺太文化
下村海南と恵須取
斎藤茂吉と養狐場
第二章 樺太在住の歌人
石川澄水『宗谷海峡』
皆藤きみ子『仏桑華』
新田寛『蝦夷山家 新田寛全歌集』
野口薫明『凍て海』
山野井洋『創作短歌 わが亜寒帯』
山本寛太『北緯四十九度』
第三章 サハリン紀行
択捉(エトロフ)までかへり来りて蒲公英もおだまきも百合も花ざかり季(どき)
流(ながれ)なす鯨の血潮なぎさ辺の波をきたなく紅くそめたり
夏駒といふは勢ふ若駒の駈り移動する五六十頭の群
『海嶽』
絶え間なく湧く霧に翔けロツペン島
膃肭獣は吼えロツペン叫ぶ霧の島
百の成牝(カウ)の王たる成牡(ブル)に秋日爛
土に化す幾幼獣の屍に秋日
目に涼しロツペン鳥の青卵子
日中戦争拡大の余波を受けて、国民学校と改称された小学校の修学旅行が中止に追い込まれ、幼い心に深い傷跡を残した出来事は、未だに脳裏を去ることはない。
昭和8年 4月靖国神社に献納の狛犬(石彫)を作り13日、献納式。
昭和10年 9月樺太護国神社に建立の狛犬を製作する。
旧樺太庁博物館に収蔵されていた膨大な量の博物館資料や設備が、サハリン州郷土博物館に再利用されたことは、戦火を交えた国家間での文化遺産継承の例として、あるいは、両国の博物館交流の上からも重要な歴史である。
年祝ぐとうから華やぐ夜の卓にくばられて来し採用通知
昭和十九年一月一日と墨匂ふ辞令大きくいただきてわれは
増産をめざす現場は勢ひ居む電話絶ゆるなし原木課製材課の卓
朝開く二号金庫の冷え切りて静かに音するその重量感
暗号電話ひねもすせはし事務の窓こころ落ちつけて札数へゐぬ
川尻を立つ白鳥の羽ばたきや冬日に白く漣(なみ)かへすなり
中野川さして群立つ白鳥の羽耀ふやとほき冬日に
冬空を群立つ羽のおほらかに白鳥はまさに風に光れり
冬日なか靄立つ山の裾とほく風に乗りゆく白鳥の群
群立ちて白鳥は陽にかがやけり遠去りゆくに声のかなしさ
夕じりが身におそひ来る岩壁に浚渫船は汐噴き揚ぐる
蝦夷千入鳴きたつこゑの稚きが朝靄くらき崎山にして
戦日日にけはしき世なりひねもすを思ひ歯がゆく事務急ぎゐつ
〇〇ケーブルの工事は急げ門畑の稔りは捨てて何悔ゆるなし
この島の夏は短かきプールにて日焼の子らがしぶきを上ぐる
さくら一もとほころび初めて塀ぬちの明るさよ昼の雨は降りつつ
華街に近き住居の春闌けてさざめき通る芸子らのこゑ
三味太鼓ひびくは何処の部屋ならむ夜靄に濡るる青き板塀
訪ね来て白粉くさき芸妓部屋お茶曳きの妓らは身欠鰊喰み居る
退け前の妓らのうたたね部屋寒く不漁の影響は見すぐしがたき
歯痛堪へて居る汽車窓の昼吹雪汽笛は太く山にこもらふ
汽車の窓にもり上り来る雪塊や吹雪のなかの除雪夫の顔
両側の雪の深さは汽車窓をとざして昼もなほうすぐらき
混み合ふて身じろぎならぬ汽車の中雪の明りの窓に本読む
除雪人夫一列にならび雪を掻くスコップの動き車窓の上にあり
大汐の満ち来るころは宵かけてこの浜人はみな舟出しぬ
海はいま盛りの汐に鰊群来て沖にたむろの舟の灯うごく
わめき立つ大漁の声沖に揚ぐる舟火は陸への合図なるらし
鰊おろす舟に交りてたをやめの運ぶも声す朝の渚に
あざらしの皮干してある軒毎に積みかさねたる鰊の山山
山腹の急斜面すべりすべりつつひたにすみたるわが心かも(スキー)
両岸に雪ふかぶかとつみたれば流れほそまりて川流れたり
吹雪風ふきすぐる街の四つ角に糞まりてゐる犬の子あはれ
大吹雪昨夜ひと夜ふりわが家の玄関の戸をうづめたるかも
ふかぶかと野に雪あれど川岸の柳つのぐむ日となりにけり
堅氷を割きて入り来し軍艦のしづかに泊て居りこの湾の中に
軍艦はまくろきかもよしらじらと続く氷原の中に泊てつつ
沖つ辺にとどまる軍艦見に行くとこほれる海の上ゆく人々
氷上をたどり来りて軍艦の吊りはしごのぼる心やすけく
冬まひる軍艦に居れば軍艦の機関のひびき身ぬちに通ふ
荒浪のうねりとだえて海づらにはろばろはれる堅氷あはれ
はりつめし堅氷の上にふりおけるいささかの雪はあはれなるかな
この海の沖つ辺かけてとざしたる堅氷の上をふみてあゆめり
この湾の氷の上をはろばろと犬つれて行く人のかげ見ゆ
この湾の堅氷さきて入り来し汽船はならすのどぶとの笛を
この街の出はづれ道にさしかかりゆくりなくきけりたぎつ瀬の音
橋の下に砂利すくふ音ざくざくとさむけくしひびく橋を渡るに
今ここゆ下りゆきし馬車は川下の浅瀬の中を渡りゆく見ゆ
浅瀬をかちわたる馬が足もとにあぐるしぶきは白くひかりつ
川越えて行きし荷馬車は砂原に歩みとどめて砂利つめる見ゆ
・竹野学「移民政策めぐる官と民とのすれ違い」
・三木理史「「棄景」の語る樺太産業と鉄道の関係誌」
・杉本侃「サハリンプロジェクトのルーツは戦前」
・渡辺裕「北太平洋沿岸諸民族の歴史」
一九三六年から操業を開始した樺太製糖は、年々の産糖高が当初の計画から乖離し続けた結果、連年赤字を計上していた。それは原料である甜菜の作付および収穫量の少なさが原因であった。
農作に恵まれぬ嶋の農民が希望をかけしビート耕作
国はての凍土曠野にかにかくに大き創業は成しとげられつ
(官民合同の樺太製糖)
ビートは隔年作なれば農家は耕作を心よしとせず、
ビート不足のため製糖は三カ月にて完了せんとす
事業家と農民のこころ相容れぬけはしき事も利にかかはりぬ
一年に三月の操業やうやくにビート完収をつげてきにけり
今日よりは吾子にしたしき校門ぞ積み雪はいまだなかば埋めつ
身につけしものみな重しこの国の新入生よ汝があはれなり
六キロの雪道とほし今日よりは汝(なれ)が通はむこのみち遠し
父母を離(か)れて幾日も経(た)たなくにものいふことも学童さびて
道くさをけさ戒めて行かせたる子がポケットより石あまた出づ
枯れ草の秀さへ埋めし雪の原氷採取の橇道つづく
朝光にさだまる原や橇を曳く馬の太腹蒸気(いき)たちのぼる
馬さへや深ゆきに馴れて雪洞の中にことなくまぐさ食みゐる
室内に襁褓を干してこの国に子を育つると我が一途なる
ストーブの上に襁褓を掛け並べ乳児(ちご)を育つるみ冬のながき
海霧は嶋山こめて今宵ふかし鰊の群来(くき)を人ら語れり
鰊漁場に男女(をとこをみな)も出稼ぎて街に人手なき鰊季に入る
貧しくてあれば日やとひ七円の収入(みいり)羨しむをあはれと思ひつ
身欠鰊(みがきにしん)つくると魚をさきてゐる婢(をんな)は仕事たのしむらしき
頭並めて藁に下げたる鰊より血潮したたる魚鮮(あた)らしき
ビートビンに合図のベルは鳴り渡り凍る夜頃を人動く見ゆ
もろもろの気鑵どよみつつ工場をつつむ蒸気は西風(にし)なびきをり
新進の圧搾機械が吐く蒸気もり上りつつ夜をなびく見ゆ
事業家と農民のこころ相容れぬけはしき事も利にかかはりぬ
一年に三月の操業やうやくにビート完収をつげてきにけり
焼死木くろく残れる裾野原蝦夷りんどうは茜さしつつ
岩が根をつたひ踏みのぼる登山道かそけきものか清水湧きつつ
鈴谷嶽の三峰のなだり寄るところ渓水合し滝と落つるも
頂上とおもふに霧の深くして二つ巨岩はいづ方ならむ
手をふれてほろほろと落つるフレップの小粒赤実は霧しづくして
新聞も賀状も着かず迎へたる新春三日凍(い)てきはまれり
夫と吾とかたみに曳ける橇の上に稚児(こ)のやすけさようつつねむれり
自が息の眉にまつ毛に凍りつつ身内にこもるこの生命はや
手をとりてぬがせやる子の手袋に凍りし雪は解けてしづくす
室に置くキャベツ凍りて庖丁の刃さきとほらず零下三十度
台湾編(昭和8年8月〜昭和10年8月)
樺太編(昭和10年10月〜昭和18年2月)
上海編(昭和18年2月〜昭和19年10月)
戦後編(昭和20年2月〜昭和38年4月)
幾貨車のビートは山と積まれつつ初製糖の日は近づけり
農作に恵まれぬ嶋の農民が希望をかけしビート耕作
国はての凍土曠野にかにかくに大き創業は成しとげられつ
洗滌機に吸はれて入りし甜菜の輸送筒にして刻まれてをり
工場の玻璃窓に燃えし没りつ陽がソ聯の方(かた)に夕映のこす
「イノクロフっていえば、オタスの王様みたいな人でしたよ。ヤコッタの人でしょ。トナカイは何千頭って持ってたし、大きな屋敷を構えてたんです」
最初は同族の北川源太郎さんと結婚するはずであった。ところが一九四五年になって源太郎さんはソ連軍に逮捕されシベリアに抑留されたまま帰ってこなくなった。
過去を知ることは未来を考えることでもある。歴史は未来の羅針盤だと思う。
赤字を理由に今年限りの運航廃止が決まっている北海道稚内港とロシア極東サハリン南部コルサコフ港を結ぶ定期フェリーについて、稚内市は30日、民間会社と共同出資して新会社を設立し、現在の運航会社から航路を引き継ぐ方針を明らかにした。
稚内市によると、新会社は現在の運航会社のハートランドフェリー(札幌市)から同航路で使用している貨客船を購入し運航する方針。船を外国船籍に切り替えたり、乗組員を外国人にしたりすることでの経費削減を検討している。運航期間を現在の夏季(6〜9月)のみから拡大する案もあるという。
稚内市は具体的な内容について6月の定例市議会までに示す方向で調整している。北海道への支援も要請しており、道は市の具体策を見極めたうえで対応を判断するとしている。
同航路は1999年に開設。赤字が続き、昨年9月にハートランドフェリーが今年限りでの撤退を決め、稚内市は存続に向けて道などと協議してきた。
国境線がどこに引かれるにしても、ユーラシア大陸と日本を繋ぐ踏み石としての千島列島の姿や価値に変わりはない。そして千島の特異な環境に相応しい生活圏、文化圏、経済圏というものがある。過去の国境線は、そのような一体性を保つべき地域を分断して日ロが対峙する空間を生み出した。
サハリンは戦争による暗い痛手を持つ望郷の島から、新「北のリゾート」として新たな時代を迎えようとしている。
近くなったサハリン、幻から現実に一変した北の大地は、新しい観光スポットとして脚光を浴びて来た。
標高1600メートルくらいの山脈を越える道で、途中には「樺太十五勝」にも数えられた景勝地「豊仙峡」「八眺嶺」(はっちょうれい)などがあった。
打ちあぐる波に濡れつつ曳きてくる昆布は長し砂に並べぬ
砂の上を幼きも母に従ひて曳きずりて来る小さき昆布を
夕映えに鰊をはづすをみな等が鱗だらけになりて余念なし
子供らが曳く手車は柳葉に消えし提灯もありて揺れゆく
夜の部屋に取り散らしたる書のなかに疲れたるわれや眼(まなこ)あきつつ