2016年05月01日

杉村孝雄著 『樺太・遠景と近景』

副題は「歴史のはざまと暮らしの素顔」。

昭和4年に樺太の恵須取町で生まれ、昭和22年の引き揚げまで樺太で暮らした著者が、樺太に関する様々な出来事を調査してまとめた一冊。

日中戦争拡大の余波を受けて、国民学校と改称された小学校の修学旅行が中止に追い込まれ、幼い心に深い傷跡を残した出来事は、未だに脳裏を去ることはない。

と記す著者は、還暦を過ぎてからその空白を埋めようとするかのように、樺太について詳しく調べ始める。「樺太日日新聞」の記事を手掛かりに、興味を持った出来事を追究していくのである。

その対象は「エリクソン電話機」「リヨナイ山」「露国式カンジキ」「捕鯨船オルガ号」「カラフトマリモ」「ばれいしょ日の丸一号」など、かなりマニアックなものばかり。歴史の教科書や研究者の本には出て来ないような話が盛りだくさんである。

絵葉書や新聞の記事などの図版も数多く載っていて、当時の樺太の暮らしの様子がよく伝わってくる。372ページという厚さの本であるが、著者が楽しみながら書いているので、読んでいて飽きることがない。

2000年には続編も出ているとのことで、早速購入した。
また読むのが楽しみである。

1995年、私家版、2000円。

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2016年04月30日

狛犬を探して(その4)

樺太護国神社(当初は樺太招魂社)の創立は昭和10年。
狛犬もその時に作られたものだろう。
靖国神社の狛犬(昭和8年)と制作時期が近い。

しかも靖国神社と護国神社と言えば、本店と支店のようなもの。
もともと関わりが深い場所だ。

さらに調べてみると、サハリンの狛犬と靖国神社の狛犬は、どうやら同じ人が作ったものらしいことがわかった。

彫刻家、新海竹蔵(1897-1968)。

東京文化財研究所の記事
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9047.html
を見ると、

昭和8年 4月靖国神社に献納の狛犬(石彫)を作り13日、献納式。
昭和10年 9月樺太護国神社に建立の狛犬を製作する。

と書かれている。
同じ作者の兄弟狛犬(?)ということになる。

記事にはさらに、「昭和10年4月山形県護国神社社頭の狛犬成り24日献納式」という一文もある。山形に行く機会があったら、訪れてみたい。

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2016年04月29日

狛犬を探して(その3)

左右をよく見ながら参道を引き返す。

すると、大村益次郎の銅像のところから横へ抜ける道があり、靖国通りからの入口になっている。そこに狛犬がいた。

  P1050067.JPG

おお、この狛犬だ!
前肢の踏ん張り方や、後肢の位置、顔の表情など、確かに共通点がある。

狛犬学(?)においては「護国系」「招魂社系」などと分類されているらしい。
胸を張って、背筋が伸びているタイプ。

高い台座に載っているので、こちらも柵の上に乗って撮影する。
そうしないと、かなり下から見上げる角度になって、姿形がよくわからないのだ。近くに警備員の詰所があり、「そんなとこ乗っちゃダメ!」と怒られないかヒヤヒヤした。

  P1050064.JPG

制作は昭和8年。戦前の狛犬である。

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2016年04月28日

狛犬を探して(その2)

サハリンに残る狛犬が靖国神社の狛犬に似ているという話がある。
それを確かめるために靖国神社へ行ってみた。

P1050058.JPG

参道入口の狛犬。
全然、似ていない。

P1050059.JPG

第一鳥居の近くの狛犬。
これも全く似ていない。

その後、参道をずんずん進んで行くも狛犬はおらず、とうとう拝殿まで来てしまった。

あれ? 噂の狛犬はどこ?

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2016年04月26日

狛犬を探して(その1)


  P1040769.JPG

サハリン州郷土博物館の建物の入口には一対の狛犬が据えられている。
「なぜこんなところに狛犬が?」と思うのだが、これは戦後に樺太護国神社から持ってこられたものである。

戦前の樺太護国神社の絵葉書を見ると、確かにそれらしき狛犬が写っている。
http://www.himoji.jp/database/db04/permalink.php?id=3119

神社は取り壊されてしまったが、狛犬だけは今もかろうじて生き残っているわけだ。

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2016年04月24日

国境とは

国境とは何か。
という問題に最近は関心があって、いくつか本を読んだりしている。

昭和7年の夏に斎藤茂吉は北海道に住む次兄を訪ね、そのついでに樺太まで足をのばした。まさに「ついで」という言葉がふさわしい2泊3日の行程であった。樺太の原生林を見たいという目的があったとはいえ、気軽に樺太に渡っているのである。

それはもちろん、樺太が日本領であったためである。当時の国境線は宗谷海峡ではなく、樺太の北緯五十度に引かれていた。

一方、今ではどうか。北海道旅行の「ついで」にサハリンを訪れる人は皆無である。サハリンは気軽に行ける場所ではなくなってしまった。

当り前の話だが、北海道とサハリンの地理的な距離が遠くなったわけではない。昔も今もサハリンは同じ場所にある。けれども、その間に引かれた国境というものが、私たちに心理的な距離感をもたらしているのである。

あるいは、こんな想像をしてみてはどうだろう。もし津軽海峡に国境線が引かれたとしたら。そうしたら、私たちは北海道という土地に心理的な距離感を覚えるようになるに違いない。

そんなことを考えて、先日、NPO法人国境地域研究センターというところに入会した。
http://borderlands.or.jp/index.html


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2016年04月18日

舟山廣治編著 『樺太庁博物館の歴史』

明治38年から昭和20年まで存在した樺太庁博物館の歴史を、法令、制度、建築、人物、出版物など様々な観点から解き明かした本。編著者は一般財団法人北海道北方博物館交流協会の理事長。同協会の理事が中心となって、分担執筆している。

菅原繁蔵、高橋多蔵、山本利雄など、樺太庁博物館と関わりの深い人々の事績についても詳しく記されていて、ありがたい。

樺太庁博物館の建物や資料は、戦後、ソ連(現ロシア)のサハリン州郷土博物館として使われている。昨年の夏に訪れた時も、予想以上に多くの人々で賑わっていた。

  P1040770.JPG

旧樺太庁博物館に収蔵されていた膨大な量の博物館資料や設備が、サハリン州郷土博物館に再利用されたことは、戦火を交えた国家間での文化遺産継承の例として、あるいは、両国の博物館交流の上からも重要な歴史である。

歴史についての評価はともかく、現在も博物館として残っているのは嬉しいことだ。サハリン観光の目玉と言って良い場所である。

2013年3月31日、北海道北方博物館交流協会、2000円。

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2016年04月11日

アインス宗谷

P1040575.JPG

昨年の夏にサハリンを旅行した時、往路は稚内からフェリーで行った。
戦前の稚泊航路(稚内―大泊)と同じ、稚内―コルサコフの航路である。
その時に乗った船が写真の「アインス宗谷」。

昨年9月に運航会社であったハートランドフェリーがサハリン航路から撤退。第3セクターが運航を引き継ぐという話であったが、結局まとまらず、今季の定期便の運航はなしということになった。

さらに、アインス宗谷もフィリピンの会社へと売却され、今後はフィリピンの島々を結ぶ船となるらしい。
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/economy/1-0256429.html?df=1

現状では、船でサハリンへ行くことはできない。
(千歳空港からの航空便はある)
サハリン航路の復活と、アインス宗谷の第2の人生の無事を祈るばかりだ。

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2016年01月08日

石川澄水歌集 『宗谷海峡』 から (その6)

年祝ぐとうから華やぐ夜の卓にくばられて来し採用通知
昭和十九年一月一日と墨匂ふ辞令大きくいただきてわれは
増産をめざす現場は勢ひ居む電話絶ゆるなし原木課製材課の卓
朝開く二号金庫の冷え切りて静かに音するその重量感
暗号電話ひねもすせはし事務の窓こころ落ちつけて札数へゐぬ

「新職場」20首より。
「樺太製材株式会社就職」と注がある。

作者は昭和14年に子供の教育のために樺太日日新聞社を退社し、真岡から豊原へ転居。樺太医薬品配給統制株式会社を経て、樺太木材株式会社に就職した。

1首目、新年の祝いの場に採用通知が届いて、何ともめでたい正月となった。
2首目、「大きく」に新たな仕事に取り組む意気込みが感じられる。
3首目、戦時中ということで、樺太での木材の供給も急ピッチで進められている。
4首目、作者は出納主任を経て用度課長となった。お金を扱うことが多かったのだろう。
5首目、「暗号電話」というところに、仕事が戦争に直結している緊迫感が滲む。


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2016年01月03日

石川澄水歌集 『宗谷海峡』 から (その5)

川尻を立つ白鳥の羽ばたきや冬日に白く漣(なみ)かへすなり
中野川さして群立つ白鳥の羽耀ふやとほき冬日に
冬空を群立つ羽のおほらかに白鳥はまさに風に光れり
冬日なか靄立つ山の裾とほく風に乗りゆく白鳥の群
群立ちて白鳥は陽にかがやけり遠去りゆくに声のかなしさ

「白鳥の賦」14首より。

1首目、河口付近から飛び立ってゆく白鳥の群れ。さざ波が立っている。
2首目、「中野川」は豊原と真岡の間の山中を流れている川。やがて留多加川となって亜庭湾に注いでいる。ここでは河口から上流の方へと移動していくのだろう。本州などで越冬を終えて樺太経由でシベリアへ渡っていく途中なのかもしれない。
3首目、ゆったりと羽を光らしながら飛んでいく白鳥の姿。
4首目、海岸から山の方へ風に乗って進む白鳥を見送っているところ。
5首目、遠ざかっていく白鳥の鳴き声が聞こえる。

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2016年01月02日

石川澄水歌集 『宗谷海峡』 から (その4)

夕じりが身におそひ来る岩壁に浚渫船は汐噴き揚ぐる
蝦夷千入鳴きたつこゑの稚きが朝靄くらき崎山にして
戦日日にけはしき世なりひねもすを思ひ歯がゆく事務急ぎゐつ
〇〇ケーブルの工事は急げ門畑の稔りは捨てて何悔ゆるなし
この島の夏は短かきプールにて日焼の子らがしぶきを上ぐる

「港街に居て」14首より。
昭和14年夏の樺太西海岸の真岡の様子が詠まれている。

1首目、「夕じり」は夕方に発生する海霧のこと。「海霧(じり)」は俳句では夏の季語。その中で船が港の土砂を浚う作業をしている。
2首目、「蝦夷千入(エゾセンニュウ)」は鳥の名前。夏季にシベリア、サハリン、北海道などで繁殖する。「稚き」とあるので雛の声だろうか。
3首目、昭和12年に始まった日中戦争が拡大し、この年には「国民徴用令」が施行され、生活必需品の配給統制も始まっている。
4首目、「〇〇」は伏字。おそらく「海底ケーブル」だろう。昭和9年に樺太と北海道の間に電話用の海底ケーブルがつながっているが、それが真岡まで伸びたのではないか。
5首目、樺太の短い夏を楽しもうとプールで遊ぶ子どもたちの姿である。

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2015年12月29日

石川澄水歌集 『宗谷海峡』 から (その3)

さくら一もとほころび初めて塀ぬちの明るさよ昼の雨は降りつつ
華街に近き住居の春闌けてさざめき通る芸子らのこゑ
三味太鼓ひびくは何処の部屋ならむ夜靄に濡るる青き板塀
訪ね来て白粉くさき芸妓部屋お茶曳きの妓らは身欠鰊喰み居る
退け前の妓らのうたたね部屋寒く不漁の影響は見すぐしがたき

「栄町界隈」8首より。
真岡の栄町にあった花街の様子を詠んだ一連。

1首目、長い冬が終わり、樺太にもようやく春が訪れた。雨が降っていても、春らしい明るさが満ちている。
2首目、作者の家は花街の近くなので、道を行く芸子たちの話し声が聞える。
3首目、夜になって三味線や太鼓の音が塀の中から響いてくる。
4首目、茶屋を訪ねると、暇な芸妓たちは身欠鰊を食べている。「お茶曳き」は客がいなくて暇なこと。
5首目、春になっても鰊が不漁続きで、花街の客も少ないのだろう。

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2015年12月28日

石川澄水歌集 『宗谷海峡』 から (その2)

歯痛堪へて居る汽車窓の昼吹雪汽笛は太く山にこもらふ
汽車の窓にもり上り来る雪塊や吹雪のなかの除雪夫の顔
両側の雪の深さは汽車窓をとざして昼もなほうすぐらき
混み合ふて身じろぎならぬ汽車の中雪の明りの窓に本読む
除雪人夫一列にならび雪を掻くスコップの動き車窓の上にあり

「豊真山道」10首より。
樺太の中心地豊原と西海岸の真岡を結ぶ「豊真(ほうしん)線」の光景を詠んだ一連。豊真線は樺太山脈を横断する路線で、多くのトンネルやループがあった。

1首目、吹雪の中を汽笛を鳴らしながら走る汽車の様子。
2首目、窓からは除雪する人の姿が見える。
3首目、線路の両側には壁のように雪が積もっているのだ。
4首目、昼も薄暗い車両の中で、かろうじて雪の明りを頼りに本を読んでいる。
5首目、「車窓の上」の方に、除雪する人たちの動きが見えるのである。

保線作業の大変さがよく伝わってくる。
この路線は、1994年の大雪でトンネルの落盤があり、現在は残念ながら使われなくなっている。

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2015年12月27日

石川澄水歌集 『宗谷海峡』 から (その1)

石川澄水(健三)は明治38年、青森県弘前市生まれ。昭和4年に樺太日日新聞社入社。17歳の頃に「潮音」に入会して短歌を始め、その後「樺太短歌」や「多摩」に作品を発表した。

『宗谷海峡』(昭和50年)は樺太在住時代の歌411首を集めたもの。「落合時代」(昭和6〜9年)、「真岡時代」(昭和10〜14年)、「豊原時代」(昭和14〜20年)の三部に分かれている。

大汐の満ち来るころは宵かけてこの浜人はみな舟出しぬ
海はいま盛りの汐に鰊群来て沖にたむろの舟の灯うごく
わめき立つ大漁の声沖に揚ぐる舟火は陸への合図なるらし
鰊おろす舟に交りてたをやめの運ぶも声す朝の渚に
あざらしの皮干してある軒毎に積みかさねたる鰊の山山

「東海岸白浦外」17首より。
樺太東海岸の白浦付近で見かけた鰊漁の様子を詠んだもの。

1首目、春に産卵のため群れをなして沿岸にやって来る鰊を待ちかまえている人々。
2首目、沖に停まっていた漁船が鰊の群れに遭遇して慌ただしく動いている。
3首目、浜にいる人に向けて大漁を告げる合図を送っているところ。
4首目、浜に着いた舟から大量の鰊を降ろす人のなかに女性の姿もある。
5首目、水揚げされて軒先の積まれている鰊の山。

この年、昭和6年は樺太における鰊の水揚げのピークであった。その量は72万9000石。しかし、やがて北海道に続き樺太でも鰊は獲れなくなっていく。

昭和50年8月15日、原始林社、1000円。

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2015年12月21日

野口薫明歌集 『凍て海』 から (その4)

山腹の急斜面すべりすべりつつひたにすみたるわが心かも(スキー)
両岸に雪ふかぶかとつみたれば流れほそまりて川流れたり
吹雪風ふきすぐる街の四つ角に糞まりてゐる犬の子あはれ
大吹雪昨夜ひと夜ふりわが家の玄関の戸をうづめたるかも
ふかぶかと野に雪あれど川岸の柳つのぐむ日となりにけり

「冬小景」5首より。

1首目、スキーをして次第に心が澄み切ってゆく。樺太はスキーが盛んで、豊原近郊の旭ヶ丘には当時東洋一と言われたスキー場があった。
2首目、雪が積もって川幅が普段よりも狭く見えている。
3首目、寒い吹雪の中で糞をしている子犬の姿。
4首目、一晩で玄関が埋まってしまうほどの激しい雪である。
5首目、柳が芽吹いて長い冬もようやく終わりを迎えようとしている。

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2015年12月20日

野口薫明歌集 『凍て海』 から (その3)

堅氷を割きて入り来し軍艦のしづかに泊て居りこの湾の中に
軍艦はまくろきかもよしらじらと続く氷原の中に泊てつつ
沖つ辺にとどまる軍艦見に行くとこほれる海の上ゆく人々
氷上をたどり来りて軍艦の吊りはしごのぼる心やすけく
冬まひる軍艦に居れば軍艦の機関のひびき身ぬちに通ふ

「軍艦大泊」8首より。
軍艦大泊は日本海軍の砕氷艦。日本海軍唯一の砕氷艦として北方の警備に活躍した。  軍艦大泊の絵葉書(函館市中央図書館デジタル資料館)

1首目、樺太の亜庭湾に軍艦大泊が停泊しているところ。
2首目、凍った海の白さと軍艦の黒さとの対比。
3首目、多くの人々が停泊中の軍艦を見物に行く。
4首目、外観を眺めるだけでなく、艦内も一般公開されたようだ。
5首目、艦内にいてエンジンの唸りを体感している。

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2015年12月19日

野口薫明歌集 『凍て海』 から (その2)

荒浪のうねりとだえて海づらにはろばろはれる堅氷あはれ
はりつめし堅氷の上にふりおけるいささかの雪はあはれなるかな
この海の沖つ辺かけてとざしたる堅氷の上をふみてあゆめり
この湾の氷の上をはろばろと犬つれて行く人のかげ見ゆ
この湾の堅氷さきて入り来し汽船はならすのどぶとの笛を

歌集のタイトルともなった「凍て海」8首より。

1首目、冬の荒れていた海が凍って、一面に氷が広がっている。
2首目、氷の上にうっすらと降り積もる雪。
3首目、氷は厚く張っていて、人が歩いても大丈夫だ。
4首目、犬を連れて氷の上を通る人の姿。
5首目、氷を割って湾の中へ入ってくる船が汽笛を鳴らす。これは冬の大泊の光景だろうか。

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2015年12月18日

野口薫明歌集 『凍て海』 から (その1)

大正9年から昭和4年にかけての作品341首を収録。

作者の野口薫明は、大正13年に小学校の教員として樺太に渡り、短歌同人誌「かはせみ」「いたどり」などを発行した。

この街の出はづれ道にさしかかりゆくりなくきけりたぎつ瀬の音
橋の下に砂利すくふ音ざくざくとさむけくしひびく橋を渡るに
今ここゆ下りゆきし馬車は川下の浅瀬の中を渡りゆく見ゆ
浅瀬をかちわたる馬が足もとにあぐるしぶきは白くひかりつ
川越えて行きし荷馬車は砂原に歩みとどめて砂利つめる見ゆ

「豊原郊外にて」5首より。

1首目、樺太の中心地豊原の町外れを歩いていると、川音が聞こえてくる。
2首目、川原で砂利を採取しているのだ。建築用の資材にするのだろう。
3首目、道から川へと降りて行った馬車が浅瀬を渡っていく様子。
4首目、橋の上から眺めていると、水しぶきがきらめく。
5首目、採取した砂利を荷馬車に積んでいるところ。今ならトラックだ。

1931年6月15日、冷光社、1円30銭。

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2015年11月18日

別冊正論25号「「樺太―カラフト」を知る」


樺太に関する特集号。全306ページ。

・竹野学「移民政策めぐる官と民とのすれ違い」
・三木理史「「棄景」の語る樺太産業と鉄道の関係誌」
・杉本侃「サハリンプロジェクトのルーツは戦前」
・渡辺裕「北太平洋沿岸諸民族の歴史」

など、興味深い内容の文章が多数収められている。

ムック全体としては「ニッポン領土問題の原点!!」という政治的な姿勢が濃厚で、そこは私と立場が異なる。けれども、これだけ本格的な樺太の特集が組まれるということ自体は、実に喜ばしいことだと思う。

竹野学「移民政策めぐる官と民とのすれ違い」は、樺太を支える新産業として期待された甜菜製糖が挫折した経緯について触れている。

一九三六年から操業を開始した樺太製糖は、年々の産糖高が当初の計画から乖離し続けた結果、連年赤字を計上していた。それは原料である甜菜の作付および収穫量の少なさが原因であった。

このあたり、皆藤きみ子歌集『仏桑華』の中で

農作に恵まれぬ嶋の農民が希望をかけしビート耕作
国はての凍土曠野にかにかくに大き創業は成しとげられつ
  (官民合同の樺太製糖)
  ビートは隔年作なれば農家は耕作を心よしとせず、
  ビート不足のため製糖は三カ月にて完了せんとす
事業家と農民のこころ相容れぬけはしき事も利にかかはりぬ
一年に三月の操業やうやくにビート完収をつげてきにけり

と詠まれていることに見事に対応している。

2015年11月13日、産経新聞社、1000円。

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2015年10月22日

皆藤きみ子歌集 『仏桑華』 から (その7)

今日よりは吾子にしたしき校門ぞ積み雪はいまだなかば埋めつ
身につけしものみな重しこの国の新入生よ汝があはれなり
六キロの雪道とほし今日よりは汝(なれ)が通はむこのみち遠し
父母を離(か)れて幾日も経(た)たなくにものいふことも学童さびて
道くさをけさ戒めて行かせたる子がポケットより石あまた出づ

「長男入学」13首より。

1首目、長男の国民学校初等科(小学校)の入学式。4月になってもまだ校門は雪に埋もれている。
2首目、「いまだ防寒具着けてあれば」と注がある。厳しい寒さの中で学校に通う子ども。「この国」は樺太を指している。
3首目、自宅から学校まで6キロの道を通う。親としては心配だろう。
4首目、親の心配をよそに、子どもは学校にも慣れて、しっかりしてきたのだ。
5首目、石をたくさん拾って帰って来る子。このあたり70年前も今も変らない。

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2015年10月20日

皆藤きみ子歌集 『仏桑華』から(その6)

枯れ草の秀さへ埋めし雪の原氷採取の橇道つづく
朝光にさだまる原や橇を曳く馬の太腹蒸気(いき)たちのぼる
馬さへや深ゆきに馴れて雪洞の中にことなくまぐさ食みゐる
室内に襁褓を干してこの国に子を育つると我が一途なる
ストーブの上に襁褓を掛け並べ乳児(ちご)を育つるみ冬のながき

「朝光」12首より。

1首目、冬の雪の積もった野原を、氷を採るための橇が行き来する。
2首目、下句に臨場感がある。厳しい寒さの中で仕事をする馬の身体から湯気が立ちのぼるのだ。
3首目、深い積雪にも慣れて、どうということもなく餌を食べている馬の様子。
4首目、作者は樺太に来て4人目の子を出産している。「この国」は日本ではなく、樺太のことを指しているのだろう。
5首目、長い冬が続く土地で小さな子を育てる作者。心細さと母としての覚悟が伝わってくる。

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2015年10月11日

皆藤きみ子歌集 『仏桑華』 から (その5)

海霧は嶋山こめて今宵ふかし鰊の群来(くき)を人ら語れり
鰊漁場に男女(をとこをみな)も出稼ぎて街に人手なき鰊季に入る
貧しくてあれば日やとひ七円の収入(みいり)羨しむをあはれと思ひつ
身欠鰊(みがきにしん)つくると魚をさきてゐる婢(をんな)は仕事たのしむらしき
頭並めて藁に下げたる鰊より血潮したたる魚鮮(あた)らしき

「鰊季」7首より。

北海道の各地に残る鰊御殿は往時の鰊漁の賑わいを物語るが、樺太においても西海岸や亜庭湾で鰊漁が盛んに行われた。

1首目、春のいわゆる「鰊曇り」の夜に、鰊が産卵のために沿岸へとやって来る。
2首目、街に住む人もこの時期ばかりは漁にたずさわる。内地からも多くの出稼ぎ労働者が樺太に渡って来たらしい。
3首目、1日に「七円」というのは、今で言えばどれくらいの収入なのだろう。
4首目、内臓を取り除いて鰊の干物を作る場面。京都名物の「にしんそば」に乗っているアレだ。大量の鰊を捌く軽快な動きが見えてくる。
5首目、藁縄につないだ鰊を浜に干しているところ。「頭並めて」とあるので、頭は付いたままの状態である。

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2015年10月10日

皆藤きみ子歌集 『仏桑華』 から (その4)

ビートビンに合図のベルは鳴り渡り凍る夜頃を人動く見ゆ
もろもろの気鑵どよみつつ工場をつつむ蒸気は西風(にし)なびきをり
新進の圧搾機械が吐く蒸気もり上りつつ夜をなびく見ゆ
事業家と農民のこころ相容れぬけはしき事も利にかかはりぬ
一年に三月の操業やうやくにビート完収をつげてきにけり

「製糖期」5首より。

1首目、「ビートビンは原料のビートを貨車より降し、工場よりの合図によりて流送溝に掻き降す露天作業場」という詞書がある。秋から冬にかけての寒い時期、それも夜の屋外の作業である。
2首目、ボイラー(気鑵)から音を立てて盛んに蒸気が立ち昇っている。
3首目、夜空に白い蒸気がなびいている光景。
4首目、「ビートは隔年作なれば農家は耕作を心よしとせず、ビート不足のため製糖は三ヵ月にて完了せんとす」と詞書にある。ビートを栽培する「農民」と製糖会社の「事業家」との思惑にズレがあったようだ。
5首目、ビートの収穫が終わり、工場の稼働も三か月で終わりを迎える。

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2015年10月07日

皆藤きみ子歌集 『仏桑華』 から (その3)

焼死木くろく残れる裾野原蝦夷りんどうは茜さしつつ
岩が根をつたひ踏みのぼる登山道かそけきものか清水湧きつつ
鈴谷嶽の三峰のなだり寄るところ渓水合し滝と落つるも
頂上とおもふに霧の深くして二つ巨岩はいづ方ならむ
手をふれてほろほろと落つるフレップの小粒赤実は霧しづくして

「鈴谷嶽登山」11首より。

鈴谷嶽は標高1021メートル。栄浜―大泊間に南北に通る鈴谷山脈の主峰で、豊原から近いこともあって、登山客が多かったようだ。現在はチェーホフ山と呼ばれている。

1首目、山火事の跡が広がる裾野を歩いて行く。エゾリンドウは青紫の花なので、「茜さしつつ」は日に照らされている様子だろう。
2首目、岩の多い登山道の途中に見つけた湧き水。けっこう険しい道のようだ。
3首目、渓を流れる水が合流して、滝となって落ちているのである。
4首目、霧が立ち込めていて山頂に着いたかどうかはっきりと確認できない。二つの巨岩が頂上の目印だったのだろう。
5首目、「フレップ」(こけもも)は樺太の名物。これを採ってジャムや果実酒を作った。

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2015年10月06日

皆藤きみ子歌集 『仏桑華』 から (その2)

新聞も賀状も着かず迎へたる新春三日凍(い)てきはまれり
夫と吾とかたみに曳ける橇の上に稚児(こ)のやすけさようつつねむれり
自が息の眉にまつ毛に凍りつつ身内にこもるこの生命はや
手をとりてぬがせやる子の手袋に凍りし雪は解けてしづくす
室に置くキャベツ凍りて庖丁の刃さきとほらず零下三十度

「新春」11首より。

樺太で初めて迎えた冬の歌である。
台湾から転居して来ただけに、冬の寒さはいっそう応えただろう。

1首目、新聞も年賀状も届かない正月。雪による遅配だろうか。
2首目、小さな子を橇に乗せて雪道を歩いている場面。気持ちよさそうに子は眠っている。
3首目、厳しい寒さのために、吐いた息が眉やまつ毛に触れて凍ってしまう。それはまた、自分が生きていて熱を持っていることの証でもある。
4首目、自力では脱げない手袋を脱がせてやっているのだろう。部屋の中でたちまち溶けていく雪。
5首目、「零下三十度」とあるので、相当な冷え込みである。土間などに置いておいたキャベツが、かちかちに凍っているのだ。

これは歌集全体に言えることだが、子育ての歌に印象的なものが多い。
作者は3人の子を連れて樺太に移り住み、樺太で4人目の子を産むことになる。

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2015年10月05日

皆藤きみ子歌集 『仏桑華』 から (その1)

『仏桑華』は昭和40年に明日香社から刊行された歌集。
1026首を収めており、全体が下記の4編に分かれている。

台湾編(昭和8年8月〜昭和10年8月)
樺太編(昭和10年10月〜昭和18年2月)
上海編(昭和18年2月〜昭和19年10月)
戦後編(昭和20年2月〜昭和38年4月)

皆藤の夫は製糖会社に勤務する技術者であり、その仕事の関係で台湾、樺太、上海という外地暮らしが長く続いたようだ。

幾貨車のビートは山と積まれつつ初製糖の日は近づけり
農作に恵まれぬ嶋の農民が希望をかけしビート耕作
国はての凍土曠野にかにかくに大き創業は成しとげられつ
洗滌機に吸はれて入りし甜菜の輸送筒にして刻まれてをり
工場の玻璃窓に燃えし没りつ陽がソ聯の方(かた)に夕映のこす

「製糖工場」11首より。

台湾編の終わりに「樺太開発の案成りて製糖工場建設のため突如、樺太転勤の辞令を受く」とある。亜熱帯の地から亜寒帯の地への転居であった。

1首目、台湾ではサトウキビが原料であったが、樺太ではビート(甜菜、砂糖大根)が原料である。多くの貨車によって運ばれてきたビートが工場の稼働を待っている。
2首目、樺太は寒冷な気候のために、稲作には不向きであった。農民はたびたび米作りに挑戦しては失敗している。そんな彼らが期待をかけたのがビート栽培だったのだろう。
3首目、「官民合同の樺太製糖」という注が付いている。台湾製糖と同様に、産業振興を目的とした半官半民の会社であったようだ。国土の北の果てに新たな産業を興そうという熱意が感じられる。
4首目、稼働する工場の様子を詠んだ歌。洗われた甜菜が輸送管を通りつつ刻まれていく。
5首目、工場は豊原にあったようなので、ここで言う「ソ聯」とは樺太の北緯50度以北ではなく、間宮海峡を隔てた大陸側を指しているのではないか。西空に広がる夕焼けである。

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2015年09月30日

稚内―コルサコフ航路の存続問題

今年の夏のサハリン旅行で利用した「稚内―コルサコフ」の定期フェリーの存続が危ぶまれている。

「稚内―サハリン定期フェリー、17年の運航に幕」
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO91857470X10C15A9L41000/

1999年から運航を行ってきたハートランドフェリーが今年限りで撤退することになり、来年以降、稚内市が新会社を設立して運航を引き継ぐ方向で検討中となっている。

ピーク時に比べて旅客は34%減、貨物は97%減と大幅に落ち込んでおり、日本とロシアの関係が改善されない限り、当分はこうした状況が続くだろう。

戦前の「稚泊航路」を引き継ぐ歴史ある航路だけに、何とか存続してほしいと思うが、見通しはあまり明るくないようだ。

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2015年08月25日

南樺太全図

サハリン旅行の時に、稚内の国際フェリーターミナルに貼られている
「南樺太全図」という地図を見た。戦前の樺太の詳細な地図である。

このたび、その地図を入手することができた。

P1040857.JPG

縦1メートル、横60センチほどの大きさで、町の名前、山の名前、川の名前、
鉄道、道路、工場など、知りたかったことが全部載っている。

西能登呂岬、遠淵湖、奥鉢山、幌内川、幌見峠、栄浜、多蘭内、敷香・・・、
素晴らしい!

家の壁に貼って毎日眺めていたいのだけれど、残念ながら空いている壁がない。
そこで時おり開いては畳の上で眺めている。

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2015年08月09日

サハリンの旅(その3)

 P1040797.jpg
ユジノサハリンスクの東側にある展望台(旧旭ヶ丘)へ登るゴンドラ。
冬はスキー場として使われている。


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サハリン州郷土博物館の展示室。
1階はサハリンの自然に関する展示で、剥製や標本がたくさんある。


 P1040767.jpg
同じくサハリン州郷土博物館の展示室。
2階のカーペットの敷かれた部屋が土足禁止なのだが、日本と違って靴を脱ぐのではなく、靴ごとスリッパを履く方式となっている。


  P1040806.jpg
ユジノサハリンスクに建設中の教会。
ソ連時代は抑圧されていたロシア正教だが、今はあちこちで教会を見かけた。

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2015年08月08日

サハリンの旅(その2)

 P1040847.jpg
ユジノサハリンスク駅近くの踏切を通る機関車。
警報は鳴るが、遮断機というものはない。


  P1040718.jpg
ガガーリン公園の入口に立つ宇宙飛行士ガガーリンの銅像。
「地球は青かった」の人である。


 P1040676.jpg
スミルヌイフの町で見かけた牛。
のんびり歩きながら道端に生えている草を自由に食べている。


  P1040715.jpg
5月9日の戦勝記念日(対ドイツ)のポスターが、町のあちこちに残っている。
今年は70周年ということもあり、賑やかなパレードなどもあったそうだ。

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2015年08月07日

サハリンの旅(その1)

 P1040608.jpg
3日目の昼食。ショッピングセンターのフードコートにて。
325ルーブル(約680円)。


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ユジノサハリンスクの自由市場。野菜、果物、衣服が多く売られている。
ダーチャ(別荘)で収穫したイチゴなどを道端で売っている人も多い。


  P1040622.jpg
ユジノサハリンスクからノグリキへ向かう夜行寝台列車の車内。
二段ベッド×2つの部屋になっている。


 P1040650.jpg
北緯50度の旧国境線近くに咲くヤナギラン。
群生してサハリンの夏を彩る花である。

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2015年08月05日

サハリンの旅の概要

今回のサハリンの旅の日程は、こんな感じでした。

29日 京都―(バス)―伊丹空港―(飛行機)―新千歳空港―(電車)―札幌―
    ―(夜行バス)―
30日 ―稚内―(船)―コルサコフ―(車)―ユジノサハリンスク【泊】
31日 ユジノサハリンスク―(車)―ホルムスク―(車)―ユジノサハリンスク―
    ―(夜行列車)―
 1日 ―スミルヌイフ―(車)―北緯50度、旧国境線―(車)―ポロナイスク―
    ―(夜行列車)―
 2日 ―ユジノサハリンスク【泊】
 3日 ユジノサハリンスク―(バス)―コルサコフ―(バス)―ユジノサハリンスク
    【泊】
 4日 ユジノサハリンスク―(車)―ユジノサハリンスク空港―(飛行機)―
    ―成田空港―(電車)―東京―(新幹線)―京都

6泊のうち3泊が夜行という、体力的にはなかなかハードな旅でした。

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2015年08月04日

帰宅

先ほど無事にサハリンから帰ってきました。
天気にも恵まれて、行きたいところに行き、見たいものをほぼすべて
見てきました。


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2015年07月29日

出発

サハリンへ行ってきます。
帰りは8月4日の予定です。

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2015年07月28日

三田英彬著 『忘却の島サハリン』

副題は「北方異民族の「いま」を紀行する」。
20年以上前に出た本である。

1990年の秋に、外国人に開放されたばかりのサハリン(当時、ソ連領)を2週間にわたって取材した内容をまとめたもの。主に、かつては日本人でありながら、戦後サハリンに取り残されたアジア系少数民族の人々の話が中心となっている。

戦後、サハリンからの引き揚げは日本人に限られ、朝鮮半島出身者はサハリンに留まらざるを得なかった。こうした人々は、サハリン残留韓国人(朝鮮人)と呼ばれ、数万人(本書では43000人)にのぼると言われる。

また、その他のサハリン先住少数民族(ウィルタ、ニブヒなど)についても、本書はいくつもの貴重な証言を記録している。これまでに読んだ本とつながる話も多かった。

ポロナイスク近郊に住む金正子さん(ニブヒ名はマヤック・ニフ、戦前の名は加藤正子)の話の中に

「イノクロフっていえば、オタスの王様みたいな人でしたよ。ヤコッタの人でしょ。トナカイは何千頭って持ってたし、大きな屋敷を構えてたんです」

とあるのは、N・ヴィシネフスキー著『トナカイ王』に出てくるヤクート人のドミートリー・ヴィノクーロフのことだ。

また、ウィルタの小川初子さんに関して

最初は同族の北川源太郎さんと結婚するはずであった。ところが一九四五年になって源太郎さんはソ連軍に逮捕されシベリアに抑留されたまま帰ってこなくなった。

とあるのは、田中了著『ゲンダーヌ』の主人公ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ(日本名は北川源太郎)のことである。

日本とソ連という国家の狭間に置き去りにされた人々。国と国との戦争が終ったのちも、その人生は長きにわたって翻弄され続けてきたのである。

1994年5月20日、山手書房新社、1600円。

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2015年07月06日

東洋書店の営業停止

出版社の東洋書店が営業を停止したとのニュースが流れている。
http://www.tsr-net.co.jp/news/tsr/20150630_02.html

東洋書店の刊行している「ユーラシア・ブックレット」は、他ではあまり見られないロシア(旧ソ連)関係の内容を扱っていて、随分とお世話になってきた。

『宮沢賢治とサハリン』
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138290.html
『ニコライ堂小史』
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138884.html
『南極に立った樺太アイヌ』
http://matsutanka.seesaa.net/article/387139096.html
『千島はだれのものか』
http://matsutanka.seesaa.net/article/418963168.html
『知られざる日露国境を歩く』
http://matsutanka.seesaa.net/article/420374449.html

何とも残念なニュースである。

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2015年06月09日

相原秀起著 『知られざる日露国境を歩く』


副題は「樺太・択捉・北千島に刻まれた歴史」。
ユーラシア・ブックレットNo.200。

戦前から戦後にかけて日本とロシア(ソ連)の国境となった「樺太の北緯50度線」「北方領土の択捉島」「北千島の占守島」の三か所を訪ねた記録。著者は北海道新聞社の根室支局やユジノサハリンスク支局勤務を経て、現在は報道センター編集委員を務めている。

樺太50度線に設置されていた4基の国境標石のうち、第2号は現在「根室市歴史と自然の資料館」に収められているが、それが著者たちの尽力によるものだということを、本書の記述によって初めて知った。

また、現在行方不明とされている4号標石が或るロシア人に所蔵されていることや、サハリン州郷土博物館に展示されている3号標石が戦前の日本時代に作られたレプリカであることなども記されている。

過去を知ることは未来を考えることでもある。歴史は未来の羅針盤だと思う。

過去の出来事をなかったことにしたり、忘れたりするのではなく、様々な問題も含めてきちんと検証しておくことが大切だ。そういう意味でも、これは非常に価値のある一冊だと思う。

2015年2月25日、東洋書店、800円。

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2015年05月20日

稚内―コルサコフ航路の存続

今年限りで廃止の予定だった稚内―コルサコフ航路ですが、稚内市が民間企業と共同で新会社を設立して、航路を存続させることになりそうです。

「稚内−サハリン間の赤字航路を存続へ 市主体で民間と新会社つくり継承」というニュース記事を見つけました。とりあえず良かったです。ただ、観光にしろビジネスにしろ、サハリンへ渡る人が増えない限り、根本的な問題解決にはつながらないのでしょう。
http://www.sankei.com/economy/news/150430/ecn1504300039-n1.html

 赤字を理由に今年限りの運航廃止が決まっている北海道稚内港とロシア極東サハリン南部コルサコフ港を結ぶ定期フェリーについて、稚内市は30日、民間会社と共同出資して新会社を設立し、現在の運航会社から航路を引き継ぐ方針を明らかにした。
 稚内市によると、新会社は現在の運航会社のハートランドフェリー(札幌市)から同航路で使用している貨客船を購入し運航する方針。船を外国船籍に切り替えたり、乗組員を外国人にしたりすることでの経費削減を検討している。運航期間を現在の夏季(6〜9月)のみから拡大する案もあるという。
 稚内市は具体的な内容について6月の定例市議会までに示す方向で調整している。北海道への支援も要請しており、道は市の具体策を見極めたうえで対応を判断するとしている。
 同航路は1999年に開設。赤字が続き、昨年9月にハートランドフェリーが今年限りでの撤退を決め、稚内市は存続に向けて道などと協議してきた。

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2015年05月14日

黒岩幸子著 『千島はだれのものか』


副題は「先住民・日本人・ロシア人」。
ユーラシアブックレット186。

18世紀以降、ロシアと日本の間で領有をめぐる争いがあり、国境が移り変ってきた千島列島について、その歴史と現状を記したもの。

先住民である千島アイヌ、さらには北海道アイヌを含めて、国境線により分断された人々の苦難が浮き彫りにされる。

国境線がどこに引かれるにしても、ユーラシア大陸と日本を繋ぐ踏み石としての千島列島の姿や価値に変わりはない。そして千島の特異な環境に相応しい生活圏、文化圏、経済圏というものがある。過去の国境線は、そのような一体性を保つべき地域を分断して日ロが対峙する空間を生み出した。

「日本」「ロシア」という国家単位の枠組みからではなく、「千島列島」という枠組みで歴史や文化を捉え直す視点が、今後ますます必要になってくるのだろう。

2013年12月10日、東洋書店、800円。

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2015年05月08日

徳田耕一著 『ガイド サハリンの旅』

副題は「未知の世界への初の案内」。

今年の夏にサハリンへ行くべ予定なのだが、サハリン関係のガイドブックは本当に少ない。手に入りやすいのは『地球の歩き方 シベリア鉄道とサハリン』であるが、サハリンについてはわずかな量の記述しかない。

そんなこともあって、1991年刊行の古いガイドブックを読んでいる。四半世紀以上も前のものなので、あまり役に立ちそうはないのだが、それでも読まないよりはマシだろう。

1989年、ソ連のペレストロイカ政策によって、外国人の立ち入りが禁止されていたサハリンが開放され、サハリン旅行ができるようになった。91年には戦前と同じコルサコフ(大泊)―稚内の航路が開かれ、95年からは定期航路となっている。この本には、その当時の観光への熱い期待が込められている。

サハリンは戦争による暗い痛手を持つ望郷の島から、新「北のリゾート」として新たな時代を迎えようとしている。
近くなったサハリン、幻から現実に一変した北の大地は、新しい観光スポットとして脚光を浴びて来た。

けれども、現在の状況を見てみると、こうした予測は外れたと言わざるを得ない。ソ連、ロシアとの関係改善は進まず、サハリン観光や交流は停滞している。コルサコフ―稚内の定期航路も今年9月で廃止になる見込みだ。
http://www.sankei.com/economy/news/140925/ecn1409250032-n1.html

せめてその前に、船でサハリンへ行ってこようと思う。

1991年9月15日、風媒社、1700円。

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2015年04月08日

尺とメートル

4月4日のブログに

標高1600メートルくらいの山脈を越える道で、途中には「樺太十五勝」にも数えられた景勝地「豊仙峡」「八眺嶺」(はっちょうれい)などがあった。

と書いた。「1600メートルというと、かなりの標高だな」と思っていたのだが、これは間違いであった。

古い樺太地図に記された数値を見て「1600メートル」と思ったのだが、同じ地図の敷香岳を見ると「4536」とある。4536メートルもあるはずがない。調べてみると敷香岳の高さは1375メートルであった。

他の山も調べてみる。

鈴谷岳「3454」 1045メートル
野田寒岳「3390」 1027メートル
釜伏山「3586」 1087メートル

いずれも3倍以上の数値になっている。

最初は、フィート(1フィートは30.48センチ)表示なのかと思って計算してみると、敷香岳は4536×0.3048=1383メートルになる。正しい高さ1375メートルにほぼ一致するが、微妙に差がある。他の山も同様だ。

その後、尺(1尺は10/33メートル)表示なのだと気が付いた。4536×10/33=1375メートルとなり、ピッタリである。

古い樺太地図に書かれていた数字は、メートルではなく尺表示だったのだ。
「大豊線」が越えていた山脈も標高480メートルくらいということになる。


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2015年04月05日

山本寛太歌集 『北緯49°』から(その5)

打ちあぐる波に濡れつつ曳きてくる昆布は長し砂に並べぬ
砂の上を幼きも母に従ひて曳きずりて来る小さき昆布を
夕映えに鰊をはづすをみな等が鱗だらけになりて余念なし
子供らが曳く手車は柳葉に消えし提灯もありて揺れゆく
夜の部屋に取り散らしたる書のなかに疲れたるわれや眼(まなこ)あきつつ

「昆布」5首より。

1首目、樺太の西海岸は昆布の産地でもあった。昆布を浜で干しているところ。
2首目、小さな子供も母の手伝いをして海から昆布を引き上げている。
3首目、西海岸は鰊漁も有名であった。陸で女たちが網から鰊を取り外している場面。
4首目には「七夕祭」という注が付いている。柳や提灯を飾った山車を曳いて町内を練り歩いているのだろう。
5首目、何か調べものでもしていたのか。結句「眼閉じつつ」ではなく「眼あきつつ」としたところに、虚脱感がよく出ている。

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2015年04月04日

山本寛太歌集 『北緯49°』から(その4)

顚は雨寒々と降りしぶく雑林のなかを鴉くだりぬ
寒々と霧うつろへる深谿を埋めてしみらに樺の樹は生ふ
山峡(やまかひ)は白き地層のあらはなる断崖(きりぎし)に沿うて川流れたり
車窓にし面(おも)よせて見る深谷の垣山の上を霧は越え来る
後より来るトラック今し虎杖の吹かるる山の裾に沿ひくる

「大豊線」8首より。

作者は昭和12年に樺太北部の敷香から、西海岸の蘭泊の小学校に転任となる。これは、その頃の作品だ。

「大豊線」とは、留多加町大豊から中央山脈を越えて、西海岸の本斗町遠節へと到る横断道路。昭和10年に開通して、路線バスも走っていた。

標高1600メートルくらいの山脈を越える道で、途中には「樺太十五勝」にも数えられた景勝地「豊仙峡」「八眺嶺」(はっちょうれい)などがあった。

1首目、「巓」は「いただき」。雨の降る林に鴉が飛んでいる。
2首目、霧の立ち込める山深い土地を進んでいくところ。
3首目、当時の地図を見ると、「大豊線」はまず留多加川の支流を遡り、山脈を越えた後は遠節川に沿って下っていく。
4首目、車窓から雄大な景色を眺めている様子。「垣山」は普通名詞か固有名詞か。
5首目、虎杖(いたどり)の茂っている山道をトラックも登ってくる。

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2015年03月26日

山本寛太歌集 『北緯49°』から(その3)

大根(おほね)あまた売りし空地に風とほす板小屋立てて凍て魚を並ぶ
箕(み)の中ゆ開くかますに凍て魚のいま移さるとかたき音をたつ
土間の上にぶちまけられしうろくづのうごめきにつつ凍てゆくらむか
凍て河を時折よぎる犬橇にスケートをやめわれは佇ち見つ
氷下魚(こまい)つめし俵を人は凍て河の岸辺に運び来ては積みあぐ

「氷下魚」14首より。

1首目、大根を売っていた場所に小屋を立てて、冬場は魚を売っている。
2首目、「かます」は魚のカマスではなく、藁むしろの袋のこと。床に並んでいる魚を掬って袋に入れている場面だろう。
3首目、獲ってきた魚を土間に放り出すと、生きたまま凍ってしまう寒さなのだ。
4首目に出てくる「凍て河」は幌内川のことだろう。ソ連領から南下して敷香へと流れている川。氷の上を移動する犬橇や作者がやっているスケートなど、冬の樺太ならではの光景である。
5首目、氷に穴を開けて釣った魚を俵に詰めて川岸に積み上げているところ。

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2015年03月21日

山本寛太歌集 『北緯49°』から(その2)

国境に向ひ出でゆく街道を自動車はどろのなか泳ぎゆく
国境にわだかまり立つ山肌の雨後の鮮けき色は見え来ぬ
黒々と山火はしりし焼け山の肌(はだへ)に沿うて雲うつりゆく
この山を迂回しのぼる路すらも砲車ゆくべき勾配につくる
国境標の石刷りの布壁にはりてたしかに踏破して来しを思ふ

「日ソ国境」5首から。

1首目、敷香から北緯50度の国境線までは約100キロ。「どろのなか」とあるので、未舗装の道路を走って行ったのだろう。
2首目、国境近くの山の姿である。西樺太山脈に連なる半田山か。
3首目、「山火」=山火事は樺太名物と言われるほどしばしば発生していた。
4首目、もしソ連と戦争になった際には「砲車」を最前線まで運べるように道が作られているのだ。このあたり、やはり国境近くならではの緊迫感がある。
5首目、国境線には標石が設置されている。その拓本を記念にとってきたわけだ。当時よく行われていたことなのかもしれない。

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2015年03月20日

山本寛太歌集 『北緯49°』から(その1)

山本寛太(1909年生まれ)は「青垣」の歌人で、昭和2年から15年まで教員として樺太に住んだ。タイトルは、著者が樺太で8年間暮らした敷香(しすか、しくか)の緯度を表している。当時、北緯50度が日本とソ連の国境線であった。

ちなみに稚内は北緯45度、京都は四条通りに北緯35度の碑が立っている。

冬枯れのあら野の中へひらけゆく新市街建築の音ぞきこゆる
にごり水かぐろに逆巻き多来加のツンドラ湖の近くなりにし
雪まじるあら風うけて湖にはれる薄氷(うすらひ)のきしみ岸につたはる
言通はぬ土人ふたりと夕くらむ砂浜の上を歩みゆくなる
橇の馬うまやに曳くらしきしみきしみひづめの音す宿のまはりに

「冬枯れ」11首から。
1首目、樺太北部の中心地であった敷香の発展ぶりがよくわかる歌。戦前は約3万人がここに住んでいた。
2首目、多来加(たらいか)湖は敷香北東の海沿いにある湖で、当時、琵琶湖・八郎潟に次いで日本で3番目に大きな湖であった。
3首目、多来加湖に張った氷のきしむ音が岸まで響いている。
4首目、「土人」とあるのは、ウィルタやニヴフなどの先住民族である。彼らに案内をしてもらったのだろう。敷香の近くには「オタスの杜」と呼ばれる先住民指定居住地があった。
5首目、雪道の移動には馬橇が使われる。その馬が厩へと曳かれていく音。

1957年10月10日、青垣発行所、200円。

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2015年03月07日

「りとむ」2015年3月号

中村昌子さんという方が「原点」というエッセイに樺太のことを書いている。

私は昭和十七年三月、父の実家である函館で生まれた。その頃父は応召されていて、満洲を転戦していたと言う。食糧事情の悪化は母乳を止め、生まれたばかりの私の空腹を満たす事が出来ず、母は止むなく実家の樺太行きを決断した。まだ雪の残る真岡郡野田町の北、久良志という海辺の地に落ち着いた。漁家の食卓は貧しいながらも豊かだったと、生前母も祖母も語っていた。

エッセイの最後は「私の原点は樺太にあり、第一の故郷との想いは強い」と締め括られている。

樺太はかすみて見えず望郷の丘に無韻の〈氷雪の門〉
            中村昌子

「氷雪の門」は樺太で亡くなった人のための慰霊碑で、昭和38年に稚内公園に建てられた。天気の良い日にはそこからサハリンの島影が望めるそうだ。

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2015年03月03日

『新田寛全歌集 蝦夷山家』から(その6)

春浅き夕べを来りオーロラの顕ちし噂など人のして行く
春あはき感傷揺りてオーロラの顕ちし噂はひろごりにけり
春の夜のこころあどなく見のがししオロラのひかり想ひ見にけり
寒さいま極むとするか書棚(ふみだな)の玻璃にこごりて氷花(ひばな)きらめく
この海の氷上荷役とふは今もありや我が行きて見ざること久し

昭和13年の「うつそみ」8首より。

1首目、「オーロラ」と言えばアラスカ、カナダ、北欧などをイメージするが、樺太でも見られることがあったのだろう。もっとも噂になるくらいだから、ごく稀なことだったのだ。
2首目、早春の感傷的な気分とオーロラのゆらめきが響き合う。
3首目、「あどなく」は「あどけなく」と同じ。見られなかったオーロラに想いを馳せている。
4首目、「氷花」は空気中の水分が氷結したもの。部屋の中でもこれなのだから、厳しい寒さが想像される。
5首目、「氷上荷役」は氷の張った海の上で、船に荷物の積み下ろしをすること。冬の樺太の名物だったようで、よく絵葉書などになっている。

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2015年02月24日

『新田寛全歌集 蝦夷山家』から(その5)

来む年に檻つぎ足さむひとところ苔桃(フレツプ)熟れて採る人もなし
松の伐株(くひぜ)かこみて熟るる苔桃(フレツプ)の粒(つぶ)々紅し葉洩れ陽を吸ひ
指(て)触るればすなはち零つる苔桃(フレツプ)のつぶら実拾(ひり)ひ拾(ひり)ひて食ふも
苔桃(フレツプ)は居ながら採りて須臾(しましく)に帽に溢れぬ家づとにせむ
白秋の君が愛でにし美果実(くはしこのみ)フレツプ、トリツプわが園のうちに

昭和11年の「蝦夷山家」48首から。
新田はこの連作で「短歌研究」特別募集50首詠に入選している。

「十月下旬、おのが住む大泊を北に距ること四里余なる新場駅の前山に弟が養狐園を訪ぬ」という詞書が付いている。樺太に呼び寄せた末弟が経営する養狐園を訪れた内容だ。

1首目、狐を飼う檻を増設する予定の場所にフレップの実が生っている。
2首目、フレップは樺太の名物で赤い実を付ける。
3首目、「拾(ひり)ふ」は「拾(ひろ)ふ」の古い言い方。
4首目、たくさん採れたフレップの実を土産にしようというのだ。
5首目、北原白秋の樺太旅行記『フレップ・トリップ』を踏まえた歌。

『フレップ・トリップ』の最初には

フレップの実は赤く、トリップの実は黒い。いずれも樺太のツンドラ地帯に生ずる小灌木の名である。採りて酒を製する。所謂樺太葡萄酒である。

と記されている。

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2015年02月23日

『新田寛全歌集 蝦夷山家』から(その4)

クシユンコタン・コルサコフの海をただに埋め列なむ巨艦まさ目には見つ(望艦)
超弩級山城・扶桑・榛名・比叡(ひえい)はちまん揺がずわだつみを圧す
海馬(トドモシリ)の島と見るべくうかび立つ航空母艦の図体(づたい)におどろく
つぎねふ山城・榛名沖にかかりなほし山なす高さたもてり
我が家に昨夜(よべ)来し兵ら莞爾(にこ)として我を迎ふる舷梯(タラップ)に寄り(訪艦)

昭和10年の「聯合艦隊入港」15首より。
「九月六日午前六時」という日時が付いている。
連合艦隊が大泊に入港した様子を詠んだもので、当時作者は大泊高等女学校勤務であった。

1首目、クシュンコタン(久春古丹)は江戸時代、コルサコフはロシア領時代の「大泊」の呼び方。今はそこが日本領になって、というニュアンスか。
2首目、「山城」「扶桑」「榛名」「比叡」は戦艦の名前。「はちまん揺がず」は「少しも揺るぐことなく」という意味だろう。
3首目、「海馬島」は樺太の南西端にある島。空母が島影のように大きく見えたのだ。
4首目の「つぎねふ」は「山城」にかかる枕詞。沖に出てもまだ山のような高さでなのである。
5首目、地元の有力者による船の見学や兵との交流が行われたのだろう。

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