2020年04月28日

『アイヌ民族と日本人』の続き

引用したい個所がたくさんあって、迷ってしまう。

蠣崎波響の「夷酋列像」は代表的なアイヌ人物像として有名であるが、(・・・)この絵に限らず「蝦夷」を描いた絵画は、文献同様、おしなべて描く側のイデオロギー性なり文化意識を強烈に発散させているとみておかなければならない。

「夷酋列像」は4年前に展覧会で見て、その鮮やかな色彩や力強さが印象に残っている。
 http://matsutanka.seesaa.net/article/435963678.html
けれども、この絵の描かれた背景や夷風性を強調した描き方なども、十分に理解して鑑賞する必要があるのだろう。

武家社会の需要が高かった鷲鷹類の羽も重要な北方交易品として見逃せないものの一つである。羽が最高級の矢羽となる大鷲や尾白鷲は千島からカムチャッカにかけて、および樺太から沿海州にかけてが繁殖地であり、蝦夷地にも多く冬鳥として飛来したからである。

オオワシやオジロワシの羽が矢羽として流通していたことは初めて知った。近年まで弓道においても使われていたらしい。現在はワシントン条約などの制限に基づき、「保有」のみOKで「使用」「譲渡」は禁じられてる状態とのこと。
 https://www.kyudo.jp/pdf/info/usearrow_3.pdf

蝦夷平定の地に北方守護の観音や毘沙門がつぎつぎ建てられていくのは、武力討伐のあとの仏教による魂の征服といってよいかもしれない。

これは、近代以降、台湾・朝鮮・樺太・満洲・南洋群島に多数の神社が建立された事実ともつながる話だ。下記のサイトによれば「その数は史料上確認されているものだけでも1,600余社」にのぼっている。
 http://www.himoji.jp/database/db04/

アイヌと和人の関係をめぐる問題は、こんなふうに様々な形で現代までつながっていることなのだと思う。

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2020年04月27日

菊池勇夫『アイヌ民族と日本人』


副題は「東アジアのなかの蝦夷地」。

アイヌの歴史や文化を日本史の枠組みを超えた東アジア全体の中で捉えるとともに、和人とアイヌの関わりや交流がどのような意味を担ってきたのかを解き明かしている。

とにかく知らないことが多いので、ワクワクしながら読んだ。

アイヌの活動は中世や近世でも同様であって、樺太アイヌの山丹交易(沿海州方面との交易)にみられるように、明・清の中国に求心する北東アジアと日本とをつなげる役割を果たしていた。

近年、蝦夷錦に代表される北方の交易が注目を集めているが、そこで大きな役割を果たしたのがアイヌであった。中国―沿海州の諸民族―樺太・北海道アイヌ―日本というルートである。

中世の武家政権が征夷大将軍として出発し、その後室町・江戸幕府と継承されてきたことは、現実的な重みはともかく、夷狄・蝦夷が武家権力の国家意識のうえで絶えず再生産されつづけるということでもあった点を見逃してはなるまい。

古代には蝦夷征討で有名な坂上田村麻呂など実際的な意味を持っていた征夷大将軍が、後に武家の棟梁の肩書きのように鎌倉・室町・江戸幕府に引き継がれていく。それは日本史で習った話であったが、これまでその意味を考えたことがなかった。

松前藩に与えられた対アイヌ交易独占権は、幕府の外交体制全体としてみるならば、対馬藩による朝鮮、薩摩藩による琉球と、国境を接する場所での異国押えの管理システムの一環をなすものであったこともつとに指摘されてきたところである。

こうした領土意識は、江戸時代にとどまらず、近代以降の日本へとつながっていくものだろう。2001年まで中央省庁には北海道開発庁・沖縄開発庁が存在したし、現在の北方領土・尖閣諸島・竹島といった領土問題の舞台にもなっている。

1994年9月25日、朝日選書、1400円。

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2020年04月09日

安田敏朗『金田一京助と日本語の近代』


国語学者・言語学者・アイヌ語学者として、また石川啄木の友人としても知られる金田一京助。戦前から戦後にかけての彼の軌跡をたどりつつ、アイヌに対する差別意識、戦前・戦中の体制翼賛、戦後も変らない天皇制擁護といった問題点を取り上げた本。

記録するという一点を除いてしまえば、金田一ははたしてアイヌ文化への敬意をもっていたのか、疑問とせざるをえない。つまり、ある古老が記憶していた口承文芸をすべて「記録」してしまえば、その古老は金田一にとって何の存在意義もなくなる、というに等しい。
「平時」ではできない「改革」を戦時体制下におこなおう、という主張である。これは国語協会全体の論調でもあるのだが、容易に敗戦後の「改革」を主張する根拠ともなっていく。
要は、金田一もふくめて、敗戦をどの程度真剣にうけとめていたのかという問題である。「作法」にしたがうのが敬語だとすれば、民主主義も「作法」としてしかうけとっていなかったことになるだろう。

このようなかなり厳しい指摘が続くのだが、これらは金田一個人の問題というよりも、近代以降の日本が抱えた問題と見た方が良いと思う。その問題は現在も解消されずに残っている。

金田一がアイヌ語研究に進んだのは、もともとアイヌ語に興味を持っていたからではなかった。師の上田万年の日本語の系統を探るプロジェクトにおいて弟子たちが各言語に配置された結果であったのだ。

 ・橋本進吉  古代日本語
 ・小倉進平  朝鮮語
 ・伊波普猷  琉球語
 ・金田一京助 アイヌ語
 ・後藤朝太郎 中国語
(・藤岡勝二  満洲語、蒙古語)

著者が「日本帝国大学言語学」と名付けるように、言語の研究もまた当時の政治や社会の状況と密接に結びついたものだったのである。

2008年8月12日、平凡社新書、880円。

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2020年04月08日

藤巻光浩『国境の北と日本人』


副題は「ポストコロニアルな旅へ」。

サハリン(旧樺太)、旭川、青森という三つの地域への旅行記。単なる旅の記録ではなく、旅を通じて歴史・国家・民族・政治・文化など様々な問題について考察を深めていく。

日本で教育を受けると、先住民族であるアイヌやヴィルタのことや、彼らのオホーツク海での交易のことなどは、ほぼ触れられることがない。その代りに、自然と共生する、絶滅をひっそりと待つばかりの穏やかな存在としてのステレオタイプが定着することになる。
北海道にある神社は非常に興味深い。この地は、明治維新の後で「北海道」と名付けられ、屯田兵を入植させていったため、この地の神社は神仏が習合していた歴史を持たないことになる。
開拓事業以後、田畑が開かれ、稲の品種改良を経て、東北は日本の「米どころ」となり、現在は豊かな生活を営むことができるようになった、という日本という国家のストーリーが出来上がる。これが、「銀シャリ信仰」に基づく発展段階史観であり、それを支える「(日本の)稲作イデオロギー」である。

著者は旅をすることで認識やものの見方、価値観などが変化し、自分自身が変ることを大事にしている。自分が変らない旅は単なる移動に過ぎないということだろう。

2019年1月30日、緑風出版、2000円。


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2020年03月27日

NHKスペシャル取材班『樺太地上戦』


副題は「終戦後7日間の悲劇」。
2017年8月14日のNHKスペシャルで放送された内容を書籍化したもの。

1945年8月9日のソ連の参戦に始まり、8月22日の停戦に至るまでに多くの死者を出した樺太の地上戦。生存者の証言や旧ソ連側の資料をもとに、その実態を描き出している。

日本国内での地上戦は沖縄戦(1945年3月26日〜6月23日)が唯一のものだったと信じている人は今も少なくない。樺太地上戦は日本人の記憶から失われたというよりは、認識すらされてこなかった歴史だった。
沖縄戦を当時、国はどう見ていたのか。内閣情報局が毎週発行していた「週報」から窺い知ることができる。1945(昭和20)年7月11日号で、沖縄戦について大本営報道部は、「3か月の貴重な時を稼いだ」とし、「作戦的勝利」と称賛している。
樺太(サハリン)の戦場で犠牲になった5000人とも6000人ともいわれる人々。その多くは民間人であったが、民間人と特定できる遺骨はいまだに1柱も日本に戻っていない。

8月15日の終戦後も「自衛戦闘」を継続するようにとの命令のもとに樺太では交戦が続いた。それはソ連軍の北海道占領を防ぐためだったとの見方もある。捨て石とされた人々の無念はいかばかりか。

2019年10月25日、KADOKAWA、1600円。

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2020年03月17日

坂田美奈子『先住民アイヌはどんな歴史を歩んできたか』


歴史総合パートナーズ5。
このシリーズはコンパクトで奥が深くおススメ!

アイヌの歴史や先住民の問題については基本的な部分で知らないことが多かったので、非常にためになる内容であった。

先住民問題とは石器時代に遡る話ではなく、多くの場合、近代史の産物なのです。
現在に伝わるアイヌの伝統文化が花開いたのは、実は和人との経済関係でいえば場所請負制の全盛期にあたる18世紀後半から19世紀にかけての時期であるともいわれています。
アイヌの近代においては、政府が強要する「同化政策」とアイヌ自身による自発的な「文化変容」を分けて考える必要があるのです。
実際には和人のアイヌへの同化という現象も見られたにもかかわらず、アイヌと和人の通婚によって、アイヌのほうが一方的に和人へ同化し、アイヌという固有の民族は消滅する、と考えられていた(…)

本書の優れている点は、アイヌを差別され虐げられてきただけの民族といった捉え方はしていないところだろう。差別や抑圧の問題点を指摘するとともに、アイヌの主体的な動きもきちんと描き出している。

これは非常に微妙な部分なのだが、著者はアイヌを差別や庇護の対象として見るのではなく、和人と対等な存在として、できるだけ客観的に記述しようとしている。その姿勢に共感を覚えた。

2018年8月21日、清水書院、1000円。

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2020年03月14日

千島列島

いつか千島列島に行ってみたいという夢があって、時々「クリルツアー」というロシアの旅行会社のHPを眺めている。

日本語版もちゃんとあって、「シュムシュ島とパラムシル島での12日間のコース」とか「オンネコタン島での10日間のコース」など、いくつかのコースが紹介されている。

謎めいたクリール諸島はどんなロマンずきな人にも旅行者にも天国です。 近づきにくいこと、人が住んでいないこと、地理的に孤立していること、活火山、少ない情報などが、この霧や噴煙につつまれ、たくさんの秘密をもつ元日本軍の基地のある島々へ人々をひきつけずにはおかないのです。

ちょっと微妙な日本語の味わいも素敵で、何だか現実の世界とは思えない。参加した日本人はいるんだろうか??

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2020年01月07日

中山大将著『国境は誰のためにある?』


「歴史総合パートナーズ」I。
副題は「境界地域サハリン・樺太」。

国境というものが、いつ、どのようにして生まれ、人々の暮らしにどのような影響を与えてきたのか。国境変動の現場となったサハリン・樺太を例に、丁寧にわかりやすく論じている。

日本国民は最初から均質だったのではなく、明治維新以来均質化の努力が図られてきた結果徐々に均質化が進んだと言えます。
皮肉なことに、先住民族は中欧日の地図製作者や探検家たちに様々な形で協力し、知る限りの地理情報も提供しましたが、結果として、それは自分たちの暮らしている土地が国民国家によって奪われるための準備に自ら加わっていたことになったのです。
北方領土返還は日本、あるいは東アジアにおいて最も可能性の高い境界変動のひとつです。しかし、そのことについて日本国民はどれだけ具体的な想像力を持っているのでしょうか。

国境は自明なものでも不動のものでもない。国境について考えることで、社会や世界を見る視野が広がってくる気がする。

2019年12月9日、清水書院、1000円。


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2019年12月26日

マカロフのこと

「角川短歌」1月号の連載「啄木ごっこ」で、啄木の「マカロフ提督追悼」という詩を取り上げた。マカロフはロシア海軍の太平洋艦隊司令長官で、日露戦争において戦死した人物。

このステパン・マカロフ(1849‐1904)に関する小ネタを一つ。

かつて樺太の東海岸に知取(しるとる、しるとり)という町があった。知取炭鉱や王子製紙知取工場などがあり、人口は約1万8千人。


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昭和10年5月に樺太を訪れた林芙美子は、樺太庁の置かれた豊原から敷香へ鉄道で向かう途中に、この知取を通っている。

知取の町は豊原よりにぎやかかも知れません。それに第一活気があって、まるでヴォルガ河口の工場地帯のようでした。灰色の工場の建物はやや立派です。煙が林立した煙突から墨を吐き出しているようなのです。ここでは新聞紙やマニラボール、模造紙、乾燥パルプをつくっています。(「樺太への旅」)

工業都市として賑わっていた様子がよくわかる描写だ。

この町は現在、「マカロフ」という名前になっている。これはステパン・マカロフの名前にちなんで名づけられたもの。第2次世界大戦に勝利したソ連が、日露戦争で戦死した英雄の名前をこの町に付けたのだ。

もともと南樺太が日露戦争後に日本に割譲された土地であったことを思えば、そこに込められた意味は自ずと明らかだろう。


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2019年07月31日

『イネという不思議な植物』 のつづき

北海道は現在、全国で2位の米の生産量を誇っているが、江戸時代までは稲作ができない地域であった。

やがて明治時代になって北海道の開拓が本格化したときには、不可能とされた「稲作」は禁止された。米を作るという不確かな夢を見るよりも、欧米式の畑作や畜産を導入しようとしたのである。
しかし、禁止されても米を作りたいという開拓民たちの情熱はなくなることはなかった。中には、稲作を試みて逮捕された者もいるという。しかし、そうした中でも、人々は米作りへの挑戦をやめなかった。そして、明治六年(一八七三年)に初めて稲作に成功し、ついに北海道で稲作をすることが認められるのである。

ああ、北海道もそうだったのか!と思う。

なぜなら、これと全く同じことが数十年後の樺太でも繰り返されたからである。北海道よりもさらに寒冷な地で、それでも開拓農民たちは米を作ろうとした。それだけ、米と日本人のアイデンティティは深く結び付いていたのだ。

結局、樺太での稲作は試験的なものにとどまり、本格的な米作りは行われずに敗戦を迎えた。そして、戦後は樺太(南サハリン)が日本領でなくなったために、もう稲作が試みられることもなくなったのである。そこに歴史の皮肉を感じざるを得ない。

もし現代の最新技術を用いたら、はたしてサハリンでの稲作は可能なのだろうか?

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2019年07月18日

ウィルタのアザラシ猟

『クジラ博士のフィールド戦記』の中に、1975年にオホーツク海・サハリン沖で行われていた母船式アザラシ猟の話が出てくる。母船には3〜4隻の伝馬船が積まれていて、アザラシのいる海域まで来ると海に降ろされる。

伝馬船には舵取りとハンターが乗っており、ハンターがライフル銃で流氷の上のアザラシを撃つのだ。

 この海豹猟は、漁業の中では非常に特殊な側面をいくつか持っていた。
 一つには、氷上の海豹を撃ち落とすという行為で、日本の漁業技術というよりは、北方民族の狩猟に近い。こうした背景もあり、網走在住の北方系少数民族の方々も、この海豹猟に従事していた。

「北方系少数民族」という文字に、思わず目が引き付けられる。

 これらの方々は、おそらく第二次世界大戦前に、南樺太において皇民化政策の一環として作られた “オタスの杜” に居住していたウィルタの方々と思われる。つまりオロッコ族やギリヤーク族で、戦後、日本居留民と共に北海道東部へ引き揚げた方々、もしくはその子弟であった。

やはり、戦後に樺太から北海道へ移って来た方々であったか。

引き揚げとは言っても、樺太に生まれ育った彼らにとって北海道は異国の地である。そこでアザラシ猟をしていたウィルタの人々。彼らの人生の変転を思うと胸が痛む。

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2019年06月20日

稚内―コルサコフ航路

今夏の稚内―コルサコフ航路の運航中止が決まった。
https://tabiris.com/archives/saharin2019/

1995年以来続いていた運航が途切れることになって残念でならない。近年は毎年のように運航中止の話があり、それでも何とか形を変えて運航を続けていたのだが、ついにという感じである。おそらく来年以降の再開もままならないだろう。

成田や千歳とユジノサハリンスクを結ぶ航空便はあるので、サハリンに行くことはできる。でも、戦前の稚泊連絡船と同じ船旅を味わうことは、これでもう永遠にできなくなってしまうかもしれない。

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2018年05月25日

樺太に関するニュース


〇本日、稚内市樺太記念館がオープンした。
 樺太に関する資料約1000点を展示するとのこと。
 http://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20180524/0000265.html

〇稚内―コルサコフの定期航路の今季の運行は中止となった。
 http://hs-line.com/index.html


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2018年04月17日

『サハリン残留』の続き


先月見た映画「北の桜守」は樺太西海岸の恵須取(えすとる)から引き揚げてきた家族の物語であった。大戦末期のソ連軍の侵攻を受けて樺太南部に避難する人々の姿が映画には描かれていたが、それは『サハリン残留』にも何度も記されている。

塔路の住民は続々と避難を始めた。百合子も養父母とともに「内恵(ないけい)道路」をたどって「樺太東線」を南下して大泊(コルサコフ)に向かい、そこからなんとか北海道へ脱出ができるだろうと見込んでいた。
「内恵道路」は内路村(ガステロ)から恵須取町(ウグレゴルスク)までの道で、敗戦時に避難行をした人びとのあいだでは「死内恵道路」とも呼ばれた。東線に接続する内路までは、バスの運行も中断していたので、徒歩で移動するしかなかった。
樺太では、八月一五日の「玉音放送」では戦争が終わらなかった。樺太最大の都市となっていた恵須取にソ連軍が上陸した(八月一六日)。
恵須取には鉄道が開通しておらず、港町の大泊や真岡がある南部に避難するためには、樺太山脈を越えて、東海岸の内路までの九〇キロの内恵道路か、西海岸沿いを南下し、珍内を通過し、久春内までのおよそ一〇〇キロの珍恵道路を踏破するしかなかった。

「八月一五日の終戦」や「日本で唯一の地上戦が行われた沖縄」という言説からこぼれ落ちてしまった史実が、ここには記されている。

 樺太の引揚者らの働けるひと平(たひら)薄荷(はつか)の畝は
 ととのふ                  木俣修『呼べば谺』


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2018年04月15日

玄武岩、パイチャゼ・スヴェトラナ著 『サハリン残留』




副題は「日韓ロ百年にわたる家族の物語」。

戦後、様々な理由によりサハリンに残った日本人10名のライフヒストリーを描いた本。著者の二人はそれぞれ在外コリアンと在外ロシア人の研究者である。

敗戦時、樺太には約40万人の日本人と朝鮮人がいたが、内地に引き揚げが認められたのは日本人だけであった。そのため、朝鮮人男性と結婚した日本人女性や、朝鮮人の養父母に預けられた日本人などは家族と離れることを望まずサハリンに留まる人も多かった。

冷戦が終結した1990年代以降に日本や韓国への永住帰国の道が開かれ、彼女たちはまた様々な選択を迫られる。子や孫を伴って日本へ帰国した家族、夫婦だけで日本に帰国してサハリンや韓国の子どもたちと行き来する家族、サハリンでの生活を選んだ家族。そこにはそれぞれの家族に固有な物語がある。

彼女たちの物語を読んでいると、「民族」「国籍」「言語」「居住地」が移り変わり、何重にも交錯している。

彼女の母語はロシア語、家族の伝統は朝鮮式で、母方の祖母が日本人であることで現在は日本で暮らしている。
この日、デニスの「トルチャンチ」を開いてくれたのは、美花の父方の祖母であるキム・ヨンスンだ。サハリンのマカロフに住んでいるヨンスンは、日本に永住した孫の結婚式やひ孫の誕生日にはかならず駆けつけ、朝鮮の伝統を伝える。
よし子はヨンジャという朝鮮式の「本名」よりも、日本式のよし子やロシア式のレーナの方が好きだ。

こうした日本・ロシア・韓国にまたがる家族の姿は、もちろん戦争のもたらした悲劇ではあるのだけれど、その一方で人間の生きる力を感じさせる事例でもある。それはまた、国民国家という枠組みを超えて東アジアの国々が交流を深めていく一つのヒントにもなっているように感じられた。

2016年3月31日、高文研、2000円。

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2017年10月02日

釧路北陽高校の校歌


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北海道新聞で9月4日から26日まで12回にわたって、「『校歌』物語 釧路北陽高校」という連載があった。

釧路北陽高校の校歌は、あまり知られていないが元になった歌がある。かつて、樺太・敷香(しすか、ポロナイスク)にあった敷香高等女学校の校歌(土岐善麿作詞・乗松昭博作曲)だ。

以前、『樺太を訪れた歌人たち』に善麿が校歌の作詞をするに至った経緯を書いたことが縁で、北海道新聞社の椎名智宏さんの取材を受け、今回の連載記事も送っていただいた。

連載記事を読むと、土岐善麿や乗松昭博、さらに現在の校歌の作詞をした沖口三郎(釧路北陽高校の初代校長で俳人)について非常に詳しい話が出てくる。

何十年前の出来事であっても、手を尽くして調べれば実にいろいろなことがわかるものなのだ。プロの新聞記者の調査力・取材力に強い感銘を覚えた。

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2017年08月30日

さいかちさんのブログ


さいかち真さんがブログ「さいかち亭雑記」で『樺太を訪れた歌人たち』を取り上げてくださいました。丁寧にお読みいただき、ありがとうございます。

昨年刊行した本ですが、内容的に古くなることはありませんので(何しろ70年以上前の話です)、これからも多くの方にお読みいただければ幸いです。今すぐでなくて構いません。気が向いた時にぜひ。

10年後、20年後でも、多分このテーマでこれ以上の本が出ることはないと思います。それだけの自信を持っている一冊です。

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2017年08月18日

「稚内市サハリン事務所」のブログ


サハリン(樺太)に興味のある方におすすめなのが「稚内市サハリン事務所」のブログ「65RUS−ユジノサハリンスク市アムールスカヤ通から…」。
http://65rus.seesaa.net/

ほぼ毎日更新されるし、内容も具体的でおもしろい。サハリンを旅行している気分を味わうことができる。

サハリンに関する情報はガイドブックでもネットでも極端に少ない。そんな中で、このブログはとても役に立つ。

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2017年08月02日

久保田幸枝著 『短歌でたどる樺太回想』



昭和12年に樺太で生まれ、昭和22年に引き揚げるまで樺太に住んだ著者の短歌エッセイ集。文芸誌「ぱにあ」の連載を一冊にまとめたもの。

 樺太留多加郡留多加町大町二十五番地いまは何町
 かばひける覚えあらねばオロツコの少女をあなどりしひとりなりけむ
 ひひならは老いたるまなこを細めゐむサハリンの野に髪凍らせて
 引揚船「宗谷」のデッキにて手を振りき流氷の上のオットセイらに
 映像のユジノサハリンスクの風わたくしの目に埃をとばす

樺太の思い出やソ連占領下での生活、引き揚げと戦後の苦労など、実際に体験した人にしか書けない内容が多く、歴史の貴重な証言となっている。

2016年10月16日、洪水企画、1600円。

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2017年07月10日

ベルリンと樺太


『永田和宏作品集T』(第1歌集『メビウスの地平』〜第11歌集『日和』を収録)の初句索引を見ていると、いろいろな発見がある。

その一つはこれ。

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 樺太に行きしことなし樺太と同じ緯度なるベルリンに飲む
                      『日和』

永田さんに樺太の歌があったとは!
『日和』はもちろん読んだことがあるのだが、当時は樺太に関心がなかったのでノーチェックだったのだろう。

いやいや、ぜひ樺太に行きましょう。

ヨーロッパの緯度が日本に比べて高いことは、よく知られている。
主要な都市の緯度を比較してみると、

  ベルリン・・52度
  ロンドン ・・51度
  パリ ・・・・・48度
  札幌・・・・・43度
  ローマ ・・・41度
  青森・・・・・40度
  東京・・・・・35度
  鹿児島・・・31度
  那覇・・・・・26度

といった感じになる。

樺太の緯度は45度〜54度。戦前のソ連と日本との旧国境線が北緯50度なので、ベルリンは緯度だけから言えば樺太でも「北樺太」(ソ連領)の方に位置するわけだ。

ちなみに、京都の四条通りには北緯35度の碑が立っている。

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2017年07月05日

「樺連情報」7月号


全国樺太連盟の機関誌「樺連情報」の7月号に、5月16日に行ったワークショップ「樺太を訪れた歌人たち」の記事が載りました。

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記事をご覧になった方々から、早速、『樺太を訪れた歌人たち』の注文もあり、ありがたいことです。

本の在庫は、僕のところ(masanao-m@m7.dion.ne.jp)にも、版元のながらみ書房 https://www.nagarami.org/ にもあります。

「読んでみたら意外と面白かった」という人が多い一冊です。皆さん、ぜひお読みください。

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2017年06月18日

サハリンへ行くには

サハリン(樺太)に渡るには、船か飛行機に乗ることになります。

〇船
北海道サハリン航路の船(定員80名)が、6月から9月にかけて週に2〜3往復、稚内―コルサコフを4時間30分で結んでいます。
http://hs-line.com/schedule.html

〇飛行機
オーロラ航空の新千歳―ユジノサハリンスク便は週に3往復、所要時間1時間20分。同じく成田―ユジノサハリンスク便は週に2往復、2時間30分です。
http://www.uts-air.com/aurora/annai/

皆さん、ぜひサハリンへ!
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2017年06月17日

那部亜弓著 『知られざる日本遺産』


副題は「日本統治時代のサハリン廃墟巡礼」。
八画文化会館叢書vol.3。
廃墟や珍スポットの紹介で有名な八画文化会館の本である。

「かつて恵須取には樺太で紙生産能力No.1の王子製紙工場があったらしい」との情報を手掛かりに、今は廃墟となっている樺太の工場を訪ね回った記録。

王子製紙の恵須取工場、知取工場、敷香工場、真岡工場、落合工場、豊原工場、大泊工場、さらにサハリン各地に残る日本時代の遺構の写真が収められている。敷香、真岡、大泊の工場には行ったことがあるので懐かしい。

私は人より海外の空気を吸った方だと自負しているが、このサハリン行脚ほど金がかかった旅はない。(…)限られた5泊6日の時間の中で、すべてを回りきるには、自由がきく車のチャーターが必要になる。それも未舗装の砂利道をゆくので4WD車で。(…)そして、何より情報がない。

著者がサハリンを訪れたのは2009年のこと。基本的な状況は今でもそれほど変っていない。

2015年8月、八画出版部、1000円。

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2017年06月13日

海豹島

北原白秋の『フレップ・トリップ』は、大正14年の樺太旅行を描いた紀行文の名作である。2007年に岩波文庫から新版が出ており、現在でも手軽に読むことができる。

その『フレップ・トリップ』の最大の山場と言えば海豹島(かいひょうとう)だろう。白秋が訪れた当時、島には3万頭のオットセイと30万羽のロッペン鳥が棲息していた。その圧倒的な迫力を、白秋は文庫で50ページにわたって描いている。

現在、その島はどうなっているのか。

白秋が訪れてから90年以上が過ぎた今も、実はロシアの自然保護区となって昔のままの姿をとどめているのだ。その様子は、写真家斉藤マサヨシさんのHPの「CHURENI island チュレニー島の海鳥と海獣たち」に記録されている。

全31枚。圧倒的な迫力と美しさである。
http://westen.jp/photos/sakhalin/chureniisland/

ぜひ一度行ってみたいなあ。
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2017年05月23日

樺太の絵カルタ


P1050639.JPG

今日は「KKRくに荘」で行われた全国樺太連盟近畿支部大会の第50回記念総会に招かれて、「樺太を訪れた歌人たち」と題する講話を行った。参加者は20名。

北原白秋、斎藤茂吉、北見志保子の短歌を引いて話をしたのだが、会員の方が作った樺太の絵カルタにも同じような風物や場面が描かれていて面白かった。

マントの黒き頭巾のふつかけ雨巡査は佇てり蕗の葉のかげ
                  北原白秋

  雨宿り/皆駆け込む/フキの下

麪包(ぱん)を売るロシア人等も漸くに小さき駅へ移りゆくとぞ
                  斎藤茂吉

  樺鉄の/ホームでパン売る/ロシア人

原住人が相寄りむつむとふオタスの杜(もり)いまのうつつに渡りゆかなむ
                  北見志保子

  ツンドラを/馴鹿(となかい)操る/先住民

皆さん私の親くらいの世代である。実際に樺太に住んでいた方々の話をいろいろと聞くことができて、楽しい一日であった。
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2017年04月23日

白秋のオットセイ踊り (その2)

白秋と同行した吉植庄亮の歌集『煙霞集』に、こんな歌がある。

  上陸を待ちつつ甲板にありけるに、海豹の子の
  波間にわれらを見るおもざし、白秋大人に似たりと
  人々のはやせるに、戯歌一首よみておくれる
わが兄子(せこ)に似たる海豹(あざらし)波間よりまなじりさげてわれを見にけり

『樺太を訪れた歌人たち』の中で、私はこの歌について次のように書いた。

アザラシのことを「わが兄子」(=白秋)に似ていると詠んで面白がっている。『フレップ・トリップ』に掲載されている写真を見ると、白秋は当時、鼻の下に髭をはやしているので、そうした点も含めて揶揄しているのかもしれない。いずれにせよ、気の置けない仲間同士の寛いだ旅の雰囲気が伝わってくる一首と言えそうだ。

『フレップ・トリップ』掲載の写真とは、これ。

 P1050613.JPG

白秋というのはすごい人だ。アザラシ(オットセイ)に似ているとからかわれたのを逆手に取って、オットセイ踊りを自ら作り余興として演じていたわけである。
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2017年04月22日

白秋のオットセイ踊り (その1)

鬼頭一枝さんから「原型」昭和58年9月号のコピーを送っていただいた。斎藤史の講話「明治及びそれ以後の短歌」が載っているのだが、その中に面白いエピソードがある。東京の洗足にあった斎藤家を、真夜中に北原白秋と大橋松平が突然訪ねて来た時の話だ。

白秋の踊りというのがある。その昔に石井漠という、御存じかどうか、石井小浪やあの系統があつて、自由な舞踊、表現舞踊みたいなものがはやつたことがある。これを白秋が気分のままに踊るんです。
なかなかレパートリがある。その一つに、オツトセイ踊りというのがあつて、これは大正の末に吉植庄亮と白秋ともう一人白秋門下の由利貞三という人とオツトセイを見に北へ行つたことがあつたんです。
その帰りに旭川へ寄つて、瀏と飲んだんですけれども、そのオツトセイを早速踊りにしちやつたもの。白秋という人は割りに鼻の下の長い人でしよう。そこにおひげがあるでしよう。そのおひげを下へかき下げるわけね。
頭の毛もこうぴつたり押えておかつぱにするでしよう。でぬうつと首を持ち上げる。そうすると波からオツトセイが顔出した感じになる。(笑い)ほんと、そつくりになるの、そこでこんな風に手をひれにして揺れるわけ、波にゆうらゆうらつと。(笑い)

オットセイを見に「北へ」行ったとあるのは、樺太の海豹島のこと。白秋の樺太行きは、名作「フレップ・トリップ」や短歌や童謡だけでなく、オットセイ踊りなるものも生み出していたのである。
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2017年04月21日

樺太連盟の奨励金

昨年刊行した『樺太を訪れた歌人たち』に対して、一般社団法人全国樺太連盟から樺太研究奨励金の交付をいただいた。

樺太連盟は昭和23年に樺太引揚者の援護と相互扶助を目的に結成された組織で、お金のことはともかく、樺太関係の方々とのつながりができたことが嬉しい。

その縁もあって、来月は樺太連盟でワークショップ(東京)と講話(京都)を行う予定になっている。
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2017年04月19日

第7回樺太ワークショップ

一般社団法人全国樺太連盟主催のワークショップで「樺太を訪れた歌人たち」をテーマに話をします。どなたでも参加できますので、皆さんぜひお越し下さい。

日時: 5月16日(火)10:30〜12:00
場所: ホテルグランドヒル市ヶ谷2F「琵琶の間」
     JRまたは地下鉄有楽町線、南北線「市ヶ谷駅」下車徒歩5分
テーマ:「樺太を訪れた歌人たち」
概略: 戦前の樺太には多くの日本人が住んでいただけでなく、仕事や観光、 講演などの目的で訪れる人たちもいました。北原白秋・斎藤茂吉・土岐善麿・北見志保子・生田花世といった歌人も樺太を訪れています。 彼らが残した短歌には、樺太の自然や文化、産業、人々の暮らしといったものが生き生きと描かれています。それらの歌を手掛かりにして、今では忘れられつつある当時の樺太の姿や歴史にあらためて目を向けてみます。

講師: 松村正直
座長: 辻 力
参加資格: 会員、非会員を問いません。どなたでもご参加いただけます。
参加費用: 無料

http://kabaren.org/event/
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2017年04月10日

柳田新太郎の樺太詠(その3)

続いて「小沼の夏」から。
斎藤茂吉が養狐場の見学に訪れた土地である。

 樺太特殊産業発展のための一つと若い身を研究にうち込み、もの言はぬ動物の群にたちまじり、牛酪(ばた)・チーズの製造試験から牛乳の味噌・醤油までも造り試みるといふ、この小沼農事試験所に奉職する青年の数名。遠く中央文化から離れたこの北の果の島に住みつき、生活の単調と環境の寂寥にうち克ち、孜孜として働くこれらの人びとはその名も技手(ぎて)、酬いられるものも多からぬであらうのに、何に慰む心かと訝(いぶか)り問へば、休日の魚釣りの他にまぎるるものは仕事の上の成績ただ一筋、と衒(てら)ひ気もない言葉の響き。

小沼の農事試験所で働く青年たちから話を聞いている。当時の職員の区分を見ると、「技師」「書記」「技手」「嘱託」「雇員」に分れており、「技師」は高級官吏、「技手」は下級官吏であった。

もう一つ、「アイヌ墓地」から。

 沖の漁労(すなどり)からまだ戻りつかぬか、男たちの影みせぬ多蘭泊(たらんどまり)の部落はいま夕餉支度に、薪を折り井戸に集るものみな女ばかり、門口に出て乾魚を焙る老婆の上唇にそれと肯(うなづ)く黥(いれずみ)が見えた。

西海岸の多蘭泊にあったアイヌの集落を訪れた場面である。男性は漁に出ており、女性たちが夕食の準備をしているところ。当時、アイヌの成人女性は口の周りに刺青を入れていることが多かった。
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2017年04月09日

柳田新太郎の樺太詠(その2)

『現代短歌叢書 第九巻』に収められた柳田新太郎の新長歌14篇のうち、樺太を詠んだものは「半田沢国境線」「小沼の夏」「アイヌ墓地」の3篇。

作品を一部引いてみよう。
まずは「半田沢国境線」から。

 ところどころ猿麻裃(さるをがせ)あやしく掛かる椴松(とどまつ)、蝦夷松の原始林はてしなくつづく地表、太く一本に貫く軍用道路を駆(はし)りつづけ、気屯(けとん)の部落をすぎて幾時か、漸くに辿りつく半田沢警部補派出所、住所氏名に職業をも届け、武装警官に護衛(まも)られて来た、ここ北緯五十度、露領樺太に境(さか)ふわが国境線、降り立つ警官の外す安全装置の音もきびしい。

最初の段落はこんな感じだ。音数律は特に決まっていなくて、全体に散文詩のような感じである。

北緯五十度の国境線を見学に行った時のことである。武装警官の護衛付きということで、ものものしい雰囲気が感じられる。

二つ目と三つ目の段落は飛ばして、最後の段落を引く。

 北に対ひ覗きみる双眼鏡に粉糠雨けぶり、さし示される方にゲ・ぺ・ウの監視塔それとさだかには映らぬが、はからずも移す双眼鏡(めがね)に、路上に咲く花勝見の一群、その花の鮮かに、色の紫も冴えざえと浮んで来たではないか。

「ゲ・ぺ・ウ」(GPU)は旧ソ連の国家政治保安部(秘密警察)のこと。双眼鏡でソ連領の方を見る様子や、ソ連側に監視塔が立っていることなど、『樺太を訪れた歌人たち』の「松村英一と国境線」で記したのと同じ場面が詠まれている。

*引用の誤字を訂正しました。(4月10日)
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2017年04月07日

柳田新太郎の樺太詠(その1)

昭和12年7月、柳田新太郎は松村英一とともに樺太を訪れ、山野井洋の案内のもと、北緯50度の国境線などを見て回った。

その時に詠んだ作品が『現代短歌叢書 第九巻』(昭和15年、弘文堂書房)にある。この本は新書サイズで、五島茂、柳田新太郎、前川佐美雄、坪野哲久、五島美代子の5名の歌を収録している。

柳田は他の4名とは異なり、ここに短歌ではなく14篇の「新長歌」を載せている。新長歌とは何であるか。柳田はあとがきの中で次のように説明する。

もはや一首の短歌によつて表現されるには、私たちの現実生活から生れる感情は複雑に過ぎる。これを表現するためには勢ひ連作、群作とならざるを得ない。だが、それでは短歌本来の性格を冒すものとならう。
一首の短歌に表現することが困難なら、昔ながらの長歌といふ形式があるではないか。これを新しく現代に活かさうとしたのが、私のこれらの一聯の作品、所謂「新長歌」である。

どこかで聞いたことのある論理の展開だなあと思って、桑原武夫の「短歌の運命」を思い出した。桑原はこんなふうに書いている。

現代短歌は「近代化」をめざすに相違ない。しかし、それをつづけて行くうちに、がんらい複雑な近代精神は三十一字には入りきらぬものであるから、その矛盾がだんだんあらわになり、和歌としての美しさを失い、これなら一そ散文詩か散文にした方がよいのではないか、ということがわかり、(…)短歌は民衆から捨てられるということになるであろう。

戦後の昭和22年の文章である。第二芸術論は敗戦の影響で生まれたとよく言われるが、何のことはない、こうした短歌滅亡論自体は戦前からずっと続いていたものなのだ。
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2017年02月28日

『樺太を訪れた歌人たち』の書評

『樺太を訪れた歌人たち』について、書評等で取り上げていただきました。ありがとうございます。

・内田弘「なぜ樺太か」(「現代短歌新聞」2017年2月号)
・田中綾「書棚から本を」(「北海道新聞」2017年1月29日)
・高木佳子「時代と国と人のありよう」(「短歌往来」2017年3月号)
・田村元「短歌と樺太」(「りとむ」2017年3月号)

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2017年02月13日

『樺太を訪れた歌人たち』覚書

中西亮太さんがブログ「和爾、ネコ、ウタ」で「松村正直『樺太を訪れた歌人たち』覚書」を書いて下さっています。

http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-333.html
http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-334.html
http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-339.html
http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-341.html
http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-346.html
http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-347.html

とても丁寧に読んでいただき、ありがとうございます。

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2017年01月23日

浅井淳子著 『たったひとりでクリルの島へ』

副題は「ホームステイでサハリン、北方領土を行く」。

1990年11月にテレビ番組のレポーターとして戦後の日本人女性としては初めて北方領土を訪れた著者が、翌1991年8月に、今度は個人で北方領土を訪れた記録である。

四半世紀以上前の記録なので現在とは状況が異なっている部分もあるが、それでも北方領土の旅行記は少ないので貴重である。全4章の構成で「1サハリン」「2択捉島」「3色丹島」「4国後島」となっている。

ホームステイ先の人々との交流や町の様子、軍事基地、サケの加工場、日本人の墓、カニ漁、ハイキング、温泉を訪れた話など、どれも興味深い。

もちろん、領土問題についての様々な意見も収められている。

【著者】
ソ連は、クリルをどう考えているのだろう。日本と根本的に違うところは、領土は伸び縮みすると考えている点だろう。(…)ロシアはさまざまな隣国、トルコや西ヨーロッパと戦い、敗れ、勝利して、世界一の大国になったのである。だから、領土は“固有”という考え方ではなく、戦争により書き替えられるという考え方なのである。
【サーシャ(択捉島のクリリスク博物館の助手)】
日本はイトルプを自分の土地だとばかり言うけど、それは一八〇〇年代にロシアとの条約で決めたことでしょ。たかだか二〇〇年の歴史だよ。その前の数千年、アイヌとアイヌの先祖が島には住んでいたんだ。(…)日本に返せというなら、アイヌの人たちに返せというのが正しいだろう?
【ニコライ(南クリル地区の人民代議員議会議長)】
私が一番言いたいのは、クリルには二世代、三世代の人たちがここを故郷として島で生まれ、生活しているということなんです。一九四五年から長い時間が経ち、島には私たちの歴史もあるんです。私たちからすると、日本の人たちはそういうことは念頭に置いてないような気がするんです。

四半世紀前のこうした話を読むと、北方領土問題の解決がいかに難しいかがよくわかる。私としては、旅行者の自由な往来が早く可能になることを願うばかりだ。

1992年9月20日、山と渓谷社、1200円。

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2017年01月14日

『樺太を訪れた歌人たち』 再版の予定


『樺太を訪れた歌人たち』が amazon で売り切れており、書店でも入手が難しくなっているようです。今月末に再版される予定ですので、しばらくお待ちください。

わが家にまだ少し在庫がありますので、早く入手したいという方は、masanao-m@m7.dion.ne.jp (松村) までご連絡ください。
よろしくお願いします。

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2017年01月05日

北方領土問題と樺太

先月、ロシアのプーチン大統領が来日したが、北方領土問題について特に進展は見られなかった。残念なことである。

実は、この北方領土問題は樺太とも深い関わりがある。

一つは、ロシアの行政区分において、北方領土は樺太と同じ「サハリン州」に属しているという事実である。サハリン(樺太)と北方領土の間には船や飛行機の定期便が就航し、人々や貨物が行き交っている。

 サハリン州旗.png
 (サハリン州旗)

もう一つは、北方領土も樺太も帰属が確定していないという共通点である。日本で発行されている地図において、南樺太(北緯50度以南)と千島列島(ウルップ島以北)は白抜きとなっていることが多い。

 img04.gif
 (外務省のHPより)

これは、1951年のサンフランシスコ講和条約によって日本は南樺太と千島列島に関する権利をすべて放棄したものの、この条約にソ連・ロシアは加わっておらず、「南樺太及び千島列島の最終的な帰属は未定である」というのが日本政府の公式見解であるからだ。

これは、戦後70年以上が過ぎた今も変っていない。ロシアとの平和条約が結ばれるまでは、4島の帰属が決まらないだけでなく、南樺太や千島列島も実は「帰属は未定」の状態に置かれているのである。

この「帰属は未定」という、いわば宙吊りの状態に置かれてきたことこそが、樺太が近くて遠い場所になってしまった一番大きな理由なのだろうと思う。

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2016年12月26日

書評委員が選んだ「今年の3点」


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昨日の朝日新聞の書評委員が選んだ「今年の3点」の中で、評論家・ジャーナリストの武田徹さんが『樺太を訪れた歌人たち』を挙げて下さっています。

歌人の著者が往年の歌人たちの足跡を辿(たど)った。歌に結晶していた「日本帝国北限の領土」の記憶と記録が時を跨(また)いで蘇(よみがえ)る感覚が鮮やか。

短歌や歌人という枠を超えて、広く多くの方々に読んでいただけると嬉しいです。


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2016年12月25日

杉村孝雄著 『樺太 暮らしの断層』

副題に「遠景と近景・第二集」とある。
前作『樺太・遠景と近景』の続編にあたる一冊だ。http://matsutanka.seesaa.net/article/437398945.html

昭和4年に樺太の恵須取町で生まれ、昭和22年に北海道に引き揚げてきた著者は、定年退職後にふるさと樺太の歴史を調べ始める。在野の郷土史研究家と言っていいだろう。

「樺太日日新聞」や樺太で発行された絵葉書のほか、戦前の貴重な本や資料を丹念に収集して一つ一つの出来事を執拗なまでに追いかけていく。文章はあまり上手とは言えないが、とにかく凄い努力である。

今回取り上げられている話題は

・アメリカに渡った答礼人形「ミス樺太」
・飛行船ツェッペリン号の樺太航跡図
・樺太に連行された中国人や朝鮮人のための協和国語読本
・樺太におけるケシ栽培とアヘンの生産
・銅像になった樺太庁第3代長官平岡定太郎

など、いずれもディープでマニアックな話ばかり。それだけに初めて聞く話も多く、樺太好きにはたまらない一冊となっている。

今回の一番の収穫は、樺太庁長官を務めた平岡定太郎(三島由紀夫の祖父)が、樺太を詠んだ短歌を残しているという事実である。

卯の花の咲つる夏になりぬれどなほ風寒し豊原の里
多来加の波も敷香に納まれと祈るは己が願なりけり
うち返す波音も高しヲコックの島のあたりのヲットセの声

1首目の「豊原」は樺太庁の置かれた中心都市。
2首目の「多来加」(たらいか)は湾の名前。「敷香」(しすか)に「静か」を掛けている。
3首目の「ヲコック」はオホーツク海のこと。

平岡定太郎の短歌については、もう少し調べてみたいと思う。

2000年11月13日、私家版。

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2016年12月03日

『樺太を訪れた歌人たち』


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『樺太を訪れた歌人たち』、販売中です。
アマゾン、三月書房(京都)、葉ね文庫(大阪)などにあります。

わが家にも在庫がありますので、注文を受け付けております。
masanao-m@m7.dion.ne.jp までメールして下さい。
代金は2500円(送料無料)。振込用紙を同封して送ります。

かなりマニアックなテーマですが、内容には自信があります。
樺太については私のライフワークとして、今後も引き続き調べていきたいと思っています。

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2016年12月02日

松村英一の樺太旅行

昭和12年の松村英一の樺太旅行については、『樺太を訪れた歌人たち』の「松村英一と国境線」に詳しく書いた。今回、それを補足する資料が見つかったので、引いておこう。

「樺太」昭和12年9月号の編集後記の山野井洋の文章より。

松村、柳田両氏を案内して国境へ、大泊へ、遠淵湖へ八眺嶺を越へ(ママ)て真岡へ、小沼へ、連日汽車自動車の強行軍、夜は歓迎の宴に時の経つのを忘れるといふ一週間あまりの旅は、近頃たのしい旅でしたが、この旅行前の十日ばかりを殆んど眠つてゐないやうな繁忙の中に身を置いたので、両氏を見送ると一時に疲れが出て厠に失神するやうなひどい痔出血、むし暑い真夏の夜を足をあたゝめなければ寝つくことが出来なかつた。

山野井が松村英一と柳田新太郎を案内して、樺太各地を回ったことがわかる。

もう一つは同じ号の「吸取紙」という情報欄から。執筆者は不明。

長浜郵便局長村松輝太郎氏は奥鉢山の宣伝にキチガヒのやうに努めてゐるが、先頃歌人松村英一氏を案内して、東海岸の愛朗岬かけて富内、池辺讃、和愛、遠淵の五湖を眺め中知床、能登岬と左右に開ける雄大な景観は
「富士五湖なぞとは比べものにならん立派なもので、交通の便が開ければ必ず有名になりますよ」
と折紙をつけられて嬉しくてたまらず。
「是非先生のお歌で天下に紹介して下さい」とたのみこむ。先の樺太庁林業課長今見氏も樺太の景観の中であれほど綜合的なものはないと賞めてゐた。
 
いわゆる「奥鉢五湖」の光景である。松村英一がこの景観を詠んだ歌は、後に奥鉢山に歌碑として建てられた。

その歌碑の現状を何とかして知りたい。もし、台座だけでもいいから、何か痕跡が残っているのなら、その調査のためにもう一度サハリンを訪れたいと思っている。

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2016年12月01日

「ポドゾル」昭和14年4月号

「樺太短歌」も「ポドゾル」も、誌面は内地の結社誌とほとんど変わらない。一例として、「ポドゾル」昭和14年4月号の目次を載せておこう。

松村英一がゲストとして作品10首を寄せている。
松村は昭和12年に「ポドゾル」の山野井洋や九鬼左馬之助らの招きで樺太を訪れており、それ以来、付き合いがあったのだろう。

 目次 ポドゾル・第三巻・第四号・昭和十四年四月

 表紙絵 一ツ葉翁草・・・・・船崎光治郎
 扉絵・・・・・・・・・・・・・山本善市

 片品川小吟(短歌)・・・・・・松村英一(四)

 四月集(短歌)・・・・・・・・・・・・(六)
    蝦夷島にて・・・・・・九鬼左馬之助(六)
    幻の幼児・・・・・・・・・山野井洋(六)
    同じく・・・・・・・・・・平原みち(七)
    戦線のあけくれ・・・・・・山内京二(八)
    上京・・・・・・・・・・山口辰三郎(一〇)
    春雪・・・・・・・・・・・林 霞江(一一)
    病間記録・・・・・・・・・眞田光良(一二)
    雪山・・・・・・・・・・・小田真一(一三)
 四月集への挨拶(短歌)・・・・山野井洋(一五)
 雲心山房雑信(二十三)・・・・雲心学人(一八)
 万葉集解義異説・・・・・・・・藤井尚治(二〇)
 ポドゾル集(短歌)・・・・・・・・・・(二四)
    細井たま 澤田貞子 矢田部崇 小暮葉
    中西竹詞 松村初枝 南太郎 奥山龍禅
    廣谷千代太
 ポドゾル集に寄す(短評)・・・・・・・(二四)
 郷愁通信(南支戦線より)・・・山内京二(二七)
 北満開拓譜(短歌)・・・・・・・・・・(三二)
    平山美泉 窪田金平 塩澤準得 吉澤千代
    鈴木壽子 三木太郎 登坂裸風
 開拓譜に寄せて(短歌)・・・・山野井洋(三二)
 ポドゾルの帯(通信抄)・・・・・・・・(三四)
    鷲津ゆき 登坂裸風 阿部悦郎 柳田新太郎

 題字・裏表紙カツト・・・・・菅原道太郎


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2016年11月30日

「ポドゾル」!

昨日は全国樺太連盟の本部へ。

最寄り駅は「六本木一丁目」。近くには外務省飯倉公館やロシア大使館などがあり、あちこちに警備の人や車を見かける。東京に住んでいた頃にも行ったことがないエリアだ。

今回は樺太連盟が保存している資料の中から、短歌関係のものをいろいろと見せていただいた。


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まずは「樺太短歌」。
昭和14年9月号、15年1月号、15年7月号。


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続いて「ポドゾル」。
昭和14年1月号、4月号、8月号。

5年くらい探し続けて実物を見たのはこれが初めて。
感激の初対面である。

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2016年11月11日

『樺太を訪れた歌人たち』 刊行!


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『樺太を訪れた歌人たち』(ながらみ書房)が刊行されました。

「短歌往来」に連載した「樺太を訪れた歌人たち」に、書き下ろしの
「樺太在住の歌人」と「サハリン紀行」を加えました。

目次は以下の通りです。


 第一章 樺太を訪れた歌人たち
   北見志保子とオタスの杜
   松村英一と国境線
   北原白秋・吉植庄亮と海豹島
   橋本徳壽と冬の樺太
   生田花世と木材パルプ
   石榑千亦と帝国水難救済会
   出口王仁三郎と山火事
   土岐善麿と樺太文化
   下村海南と恵須取
   斎藤茂吉と養狐場

 第二章 樺太在住の歌人
   石川澄水『宗谷海峡』
   皆藤きみ子『仏桑華』
   新田寛『蝦夷山家 新田寛全歌集』
   野口薫明『凍て海』
   山野井洋『創作短歌 わが亜寒帯』
   山本寛太『北緯四十九度』

 第三章 サハリン紀行


定価は2500円。
お申込みは、松村 masanao-m@m7.dion.ne.jp または版元の
ながらみ書房までお願いします。

posted by 松村正直 at 12:59| Comment(2) | 樺太・千島・アイヌ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月30日

北方領土のこと

12月のプーチン大統領の訪日を前にして、北方領土問題に何らかの進展があるのではないかといった報道があり、注目している。

と言っても、領土問題自体に関心があるわけではない。現実的に考えて、4島が一括で戻って来るなどということはあり得ないと思う。そもそも日本が主張する「日本固有の領土」といった表現は、いかにも島国の発想であって、国際的には何の力も持たないだろう。国境線は「動く」ものだ。

北方領土にしても、もとはアイヌの住む土地であり、「日本」の支配下に置かれたのは1855年の日魯通好条約以後のことでしかない。そこから1945年の敗戦まで90年。戦後のソ連・ロシアによる支配は既に71年に及んでいる。これで「日本固有の領土」などと言ってみても、仕方のないことだ。

それよりも私が期待するのは、何らかの妥結が図られて、北方領土に自由に行けるようになることである。現在、「政府は、日本国民に対し、北方領土問題の解決までの間、北方四島への入域を行わないよう要請しています」(外務省HPより)という状況で、元島民やその親族、マスコミ関係者などを除いて、原則として北方領土へ渡ることはできない。

「北方領土へ行ってみたい」
それが私の願いである。

昭和16年7月に、歌人で国会議員の吉植庄亮は北千島視察団の一員として千島を訪れ、帰りに択捉島にも寄っている。

択捉(エトロフ)までかへり来りて蒲公英もおだまきも百合も花ざかり季(どき)
流(ながれ)なす鯨の血潮なぎさ辺の波をきたなく紅くそめたり
夏駒といふは勢ふ若駒の駈り移動する五六十頭の群
                   『海嶽』

択捉島で見た捕鯨と野生馬の光景である。
この歌が詠まれてから75年。
今ではどんなふうに変っているのだろうか。

posted by 松村正直 at 08:30| Comment(2) | 樺太・千島・アイヌ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月21日

10月号掲載情報など

短歌総合誌の10月号に、作品や評論を載せています。

・作品「王将について」20首(「現代短歌」10月号)
・評論「米と日本人」(「歌壇」10月号)
・エッセイ「樺太からの手紙」(「短歌往来」10月号)
・書評「時田則雄著『陽を翔るトラクター』」(角川「短歌」10月号)

どれも、かなり個人的な趣味に走っていて、あらためて読み直すのがこわくなります。

樺太と言えば、今季の稚内―サハリン航路が終了しました。
夏の間、14往復28便が運航されて511人が利用したとのこと。
来年以降もっと利用者が増えて、安定した航路になってほしいです。
http://mainichi.jp/articles/20160917/k00/00e/040/178000c

もう一つ樺太と言えば(!)、評論集『樺太を訪れた歌人たち』を刊行します。「短歌往来」10月号に「近刊」として広告が載っていますが、校正ゲラはまだ私の机に載っている状態。

急いでやんなきゃ。


posted by 松村正直 at 19:35| Comment(0) | 樺太・千島・アイヌ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月09日

『海豹島』 のつづきのつづき

入手した句集『海豹島』は見返しに鈴鹿野風呂自筆の句が書いてある。

  P1050164.JPG

 海豹島銀河の露をいのち水
         野風呂

海豹島には夏のあいだ監視員が駐在していたが、水はたいへん貴重なものであったようだ。「蝦夷行日誌」には次のように記されている。

水といへば島に井戸なく雨垂をためたものにて甕に満ちある濁り水も貴重で、他より来たものは使ふ気になれぬ。それでも同行の一婦人の化粧する水は惜しげもなく呉れる。

雨垂れを「銀河の露」と表現したところにスケールの大きさがある。

posted by 松村正直 at 07:27| Comment(0) | 樺太・千島・アイヌ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月05日

鈴鹿野風呂句集 『海豹島』

鈴鹿野風呂は昭和15年8月8日から27日まで、北海道、樺太、東北をめぐる旅をしている。8日に京都を発ち、樺太に入ったのが12日。そして16日まで樺太に滞在した。

句集『海豹島』は、その旅で詠まれた俳句を集めたものであり、後半には「蝦夷行日誌(俳諧日誌)」も収められている。

 絶え間なく湧く霧に翔けロツペン島
 膃肭獣は吼えロツペン叫ぶ霧の島
 百の成牝(カウ)の王たる成牡(ブル)に秋日爛
 土に化す幾幼獣の屍に秋日
 目に涼しロツペン鳥の青卵子

タイトルともなった樺太の海豹(かいひょう)島を詠んだ句である。「海豹」はアザラシだが、実際はオットセイとロッペン鳥(ウミガラス)の繁殖地として有名な島だ。2句目の「膃肭獣」はオットセイ。今では「膃肭臍」と書くことが多い。

  P1050162.JPG

本の表紙も海豹島。
手前にはオットセイ、崖と空にはロッペン鳥。

  P1050163.JPG

裏表紙はロッペン鳥のアップ。
こうして見るとペンギンみたいだ。

昭和15年10月20日、京鹿子発行所、1円80銭。


posted by 松村正直 at 09:22| Comment(0) | 樺太・千島・アイヌ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月14日

稚内―コルサコフ航路

昨年でハートランドフェリーによる営業が終了し、その後、存続が危ぶまれていた稚内―コルサコフ航路。今月に入って、ロシアの「サハリン海洋汽船」(SASCO)によって、夏の運航が行われる見通しとなった。

http://mainichi.jp/articles/20160614/ddl/k01/020/251000c

とりあえず、ホッとする。

でも、来年以降どうなるかはわからない。
利用客が増えないことには根本的な解決にはならないのだろう。

posted by 松村正直 at 17:23| Comment(0) | 樺太・千島・アイヌ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月04日

朝日旅行「樺太(サハリン)文学セミナー」

今年の8月に朝日旅行の企画で、「樺太(サハリン)文学セミナー」が行われる。樺太と文学をからめたツアーで、全部で5つのコースがある。
http://www2.asahiryoko.com/djweb/TourList.aspx?mc=1A

Aコース 北原白秋と樺太の旅(松平盟子さん同行)
Bコース 山口誓子が過ごした樺太の旅
Cコース 宮澤賢治『銀河鉄道の夜』の舞台を訪ねて
Dコース 樺太を深く知る旅
Eコース 南樺太(サハリン)周遊の旅

どのコースも楽しそう。
興味のある方は、ぜひ行ってみてください。

いよいよ樺太ブーム到来か!?

posted by 松村正直 at 21:25| Comment(0) | 樺太・千島・アイヌ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする