2014年04月08日

近藤芳美の高安国世宛の葉書

ネットのオークションに、近藤芳美の高安国世宛の葉書が3点出品されていた。
残念ながら落札できなかったのだが(落札価格は8000円)、葉書の文面はネットで読むことができる。
http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/177756566


【昭和48年1月2日】
賀正
かくひそかに明日に満ち行くものは聞け冬芽のこずえすでにうるむ空
                    芳美
元旦

年賀状である。
書かれている短歌は、歌集『アカンサス月光』に「冬芽 ― 一九七三年新年詠 ―」と題して収められているものだ。

【昭和48年11月30日】
「高安やす子」資料をお送りいただき、何とか原稿をまとめました。御礼申上げます。
わたしは新米の教師となりましたが、学生問題で少々閉口しています。
勉強のつもりと、精を出してはいますが。 十一月二十八日

近藤が「高安やす子」について、何か文章を書いたのだろう。あるいはアララギの女流歌人について、というような内容かもしれない。詳細はまだわからない。

この年、近藤は清水建設を退職して、4月から神奈川大学工学部建築科の教授となっている。「新米の教師」は、それを指している。

【昭和?年7月18日】
カフカの訳書拝受。
御礼申上げます。大変なことと察します。年のせいか、いろいろめんどうになりました。早く歌だけ作る生活に入りたい思いしきりです。 七月十七日

消印が読めないのだが、おそらく昭和46年のもの。
葉書の郵便料金が7円であったのは、昭和41年7月〜47年1月まで(その後、10円に値上げ)。その間に、高安が刊行したカフカの訳書は

・『変身・判決・断食芸人 ほか2篇』 講談社文庫 昭和46年7月
・『変身・判決ほか』 講談社、世界文学ライブラリー24 昭和46年10月

の2点である。葉書には7月の日付があるので、高安から近藤に贈られたのは、おそらく講談社文庫の一冊であると思われる。

「早く歌だけ作る生活に入りたい」という思いが、翌々年の清水建設退職につながったのだろうか。

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2014年03月16日

高安国世文庫のリスト

県立長野図書館にある高安国世文庫のことは、『高安国世の手紙』の中でも触れた。高安の旧蔵書約1500冊が夫人の和子さんの逝去後、清原日出夫の手により寄贈されたものである。
(1999年発行の『高安和子作品集』など、一部高安の生前の蔵書ではないものもある)

高安国世文庫のリストはネットで公開されているので見ることができる。
http://www.library.pref.nagano.jp/pdf/magazine/takayasu.pdf

昨日、このリストを眺めていて、今まで見落としていた本があることに気が付いた。どうしてこんな大事な本を見落としていたのだろうか。
『高安国世の手紙』を出す前に気が付いていたらと思うと悔しい。

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2013年12月30日

バルザック像(その2)

リルケ『ロダン』(岩波文庫、1941年、高安国世訳)から、バルザック像について書かれた部分を引いてみよう。
また、かのバルザックの像もさうである。ロダンは此の像に、恐らく此の文學者の實際の姿を凌駕する偉大さを與へた。彼はバルザックをその本質の底に於て捉へたのだ、が彼は此の本質の限界のところで止まることをしなかつた。

この岩波文庫版『ロダン』は、1960年に改版になっている。
訳文は次のようになった。
また、あのバルザックの像もそうである。ロダンはこの像に、おそらくこの文学者の実際の姿をしのぐ偉大さを与えた。彼はバルザックをその本質の根本から捉えたのだ、が彼はこの本質の限界のところでとどまることをしなかった。

また、この改版では図版も変更されている。

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上半身だけであった写真が全身をうつした写真になっている。
同じ像の写真であるが、だいぶ印象は違うように思う。

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2013年12月28日

バルザック像(その1)

宮柊二の『小紺珠』(昭和23年)に、次のような歌がある。
ロダン作バルザック像の写真みてこころに満つる寂しさは何

宮柊二は、どこでこの写真を見たのだろうか。

ロダン作のバルザック像は、フランス文芸家協会の依頼により作られたもので、1898年の完成までに7年の歳月がかかった大作である。けれども、完成当時は「失敗作」と酷評され、協会からも引き取りを拒否されたというエピソードが残っている。

『小紺珠』のは他にも
告白と藝術と所詮ちがふこと苦しみてロダンは「面(めん)」を発見せり

というロダンを詠んだ歌があり、また
試験管を持ち歩むときライナア・マリア・リルケを憶ふは何ゆゑ
疲れたるわれに囁(ささや)く言葉にはリルケ詠へり「影も夥しくひそむ鞭」

といったリルケの歌もある。
こうしたことを踏まえて考えると、宮柊二の見た「ロダン作バルザック像の写真」というのは、リルケ著『ロダン』に挟まれている図版のことと考えて良いだろう。

この時期に出ていた翻訳は、弘文堂書房世界文庫の石中象治訳(1940年)と岩波文庫の高安国世訳(1941年)の二つ。

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これは岩波文庫の『ロダン』の図版である。
おそらく、宮柊二の見た写真はこれだったのだろう。

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2013年12月27日

本郷義浩さん

『高安国世の手紙』の中で、1960年代を中心に「塔」で活躍した本郷義武とその遺児である義浩氏ついて書いたことがある。
本郷義浩氏は、現在(二〇一一年)、大阪の毎日放送で「水野真紀の魔法のレストラン」などのテレビ番組のプロデューサーを務めるほか、「あまから手帖」にコラム「Pの細道」を連載するなど、多忙な日々を送っている。

その本郷さんが、先日、本を出したのでご紹介。


高安国世の『新樹』(1976年)には「本郷義武を悼む」という一連がある。
体弱き妹にかまくる父なれば甘ゆる義浩君を見ざりき
こらえいる小さき拳を見たるのみかく早くその父をうしなう

こんな歌を知っているだけに、現在の活躍ぶりを嬉しく思う。

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2013年12月16日

角川文庫『近藤芳美歌集』解説

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角川文庫の『近藤芳美歌集』の解説は高安国世が書いている。これは高安と近藤の関わりを考える上で外せない内容で、私も『高安国世の手紙』の中で何度か引用している。

先日、現代歌人集会の講演において、大島史洋さんがこの解説に触れ、初版と改版で大きく内容が違うことを述べられた。私は改版の方しか読んでいなかったので、慌てて初版を買い求めてみた。確かに大きく内容が違う。

初版は昭和31年発行で、『早春歌』から『冬の銀河』までの5歌集を収録。
改版は昭和46年発行で、『早春歌』から『黒豹』までの8歌集を収録。

解説に関して言えば、初版は7ページで、解説らしい客観的な近藤芳美論といった内容である。これに対して改版は12ページで、そのうち7ページ半は雑誌に書いた高安自身の文章の再録という形になっている。

改版には高安の自分語りが多く、歌集の解説としては異色とも言える内容だ。
それは一人称の使われている回数の多いことからもわかるだろう。

・「私」 10回
・「私たち」 5回
・「ぼく」 29回
・「ぼくたち」 3回
・「ぼくら」 2回
・「我々」 1回

ちなみに初版の方は「僕」が1回、「僕たち」が1回、「我々」が1回出てくるだけである。

初版と改版のこの違いから、はたして何が読み取れるのか。
面白い問題を含んでいるように思う。

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2013年08月30日

「現代短歌新聞」9月号

永田和宏さんが「孤りの思いまぎれなきまで―高安国世生誕百年―」という文章を書いている。それによると、高安国世の
若き若き君を羨む行く方なく獣の園を求めゆきしか   『朝から朝』
うらぶれて千万都市をさまよえよ孤りの思いまぎれなきまで

に出てくる「若き君」は、永田のことであるそうだ。永田が大学卒業後に就職して東京で暮らしていた頃に、高安からの手紙に記されていたのが、この2首であったのだという。初めて聞く話である。

東京は高安にとって憧れの場所であるとともに、反発を覚える場所でもあった。そんな文脈に置いて読んでみると、歌の様相もガラッと変って見えてくる。

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2013年08月21日

絵葉書のこと

明治後期から昭和戦前にかけての時代を調べる時に、古い絵葉書が役に立つ。絵葉書は当時、重要なビジュアルメディアであり、風景、建物、人物、事件、災害など、さまざまな内容のものが大量に発行されていた。

例えば、先日このブログで、苦楽園ホテル(六甲ホテル)と恵ヶ池の話を書いた。それらが当時どのような姿をしていたのか知りたい時に、絵葉書が役に立つのである。

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この絵葉書には「惠ヶ池より六甲ホテルを望む(六甲苦樂園)ROKKO KURAKUYEN.」と書かれており、まさに高安国世が見たのと同じ景色を見ることができる。写真で見る限り、恵ヶ池は今よりもだいぶ大きかったようだ。

古い絵葉書を扱う専門店はいくつかあるが、私がよく利用しているのは「ポケットブックス」というお店。http://www.pocketbooks-japan.com/ 他にも、ヤフーのオークションなどに絵葉書は大量に出品されていて、眺めているだけでも楽しい。

ちなみに、今日の絵葉書は神戸にある「絵葉書資料館」で販売されている復刻版で、1枚150円である。http://www.ehagaki.org/index.html

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2013年08月15日

苦楽園探訪(その6)

現在「海南荘」の名残りをとどめているのは、「苦楽園四番町公園」に立つ下村海南の歌碑だけである。昭和12年にこの歌碑が建てられた時のことを記した海南の文章があるので、見てみよう。「海南荘の歌碑」という題で、随筆集『二直角』(昭和17年)に収められている。

海南はまず、自分が東京へ転居することになり、海南荘は「世界の帽子王」掘抜義太郎が買い取ったことを述べ、その後、次のように書いている。
僕の遺言の中に歌碑を建てるところが二ヶ所ある。その一ヶ所が永住の地ときめてあつた海南荘である。いよいよ去るからには生前に歌碑を建てておきたいといへば、それは私の方で建てませう、ついでに入口へ海南荘といふ道しるべの石も建てませうといふ。さうなると話がとんとん拍子にすすむので、親友俳人飯島曼史宗匠夫妻が建碑の労を引受ける事になる。

こうして、堀抜や飯島の協力により海南自筆の歌碑が建てられたのである。その喜びを、海南は10首の歌に詠んでいる。その中から3首。
吾が歌の碑石見いでむとわが友は石屋をめぐる春の十日を
春十日たづねあぐみし帰り路にふと見いでたる庵治(あぢ)の青石
われ去るもここに建ちにし歌の碑はとはにのこらんか海南荘に

海南荘は堀抜が住んだ後、戦後は大阪市交通局の保養所「苦楽園荘」として使われていた。しかし、平成に入ってから取り壊され、今では「オールド&ニュー苦楽園」という分譲住宅地となり、歌碑だけが残っているというわけである。

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2013年08月11日

8月11日

今日は高安国世の誕生日。
高安は1913(大正2)年8月11日、大阪の道修町に生まれている。
今からちょうど100年前のことになる。

1913年生まれの人を調べてみると、
中原淳一(1913‐1983)
金田一春彦(1913‐2004)
近藤芳美(1913‐2006)
新美南吉(1913‐1943)
丹下健三(1913‐2005)
ロバート・キャパ(1913‐1954)
織田作之助(1913‐1947)

といった人たちがいる。
同年生まれでも亡くなった年が早いか遅いかで、随分と印象が違う。
百貨店の明るき階をめぐりつつふと見る路上早や昏れて居り
                『砂の上の卓』
湿度一〇〇泳ぐがに鋪道わたる人シャツ着たり水中肺(アクワ・ラング)欲し
                『街上』

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2013年08月07日

苦楽園探訪(その5)

苦楽園の話は、湯川秀樹の自伝『旅人』にも登場する。1907(明治40)年に東京で生まれた湯川は、その後すぐに京都に移り住んだが、大学を出てしばらく大阪や苦楽園に住んでいる。
この年―昭和八年の夏から、私ども一家は苦楽園に新しく建った家に住むことになった。この家が、私にとって忘れることのできない、思い出の家となったのである。

高安国世は、昭和八年の八月末に苦楽園ホテルを出て、新築になった芦屋の家に移ったので、湯川とほとんど入れ違いであった。高安と同様、湯川も恵ヶ池のあたりをよく散策したようである。
日曜日などには、私は苦楽園のあたりを散歩した。妻は赤ん坊の世話に忙しく、家に引きこもりがちであった。家の前には桜の並木がつづいていた。家から西南の方へ降りてゆくと赤松の林の中に池がある。赤いれんが建ての古風な洋館が見える。苦楽園ホテルである。

当時、湯川秀樹26歳、高安国世20歳。
2人がこの恵ヶ池のほとりですれ違うさまなどを想像してみるのも楽しい。

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2013年08月06日

苦楽園探訪(その4)

昭和7年から8年にかけて、高安国世は苦楽園ホテル(六甲ホテル)に住んでいた。19歳から20歳のことである。当時、高安は近くの恵ヶ池周辺をよく散策したらしい。昭和10年に書かれた「苦楽園回想」という文章には、この池のことがよく出てくる。
細流を伝つて下ると、芦屋行のバス道に出、更に下ると恵ケ池といふのに出る。濁つた水であるが、この周囲を廻るのは僕にもたのしみになつてゐる。対岸に出て山の方を振返ると、ホテルのバルコンに翻る三角旗を見当にして、山の緑の間に見境ひもつかず蔦で蔽はれてゐる僕の居間の窓も見付けられるのである。
飯を食つてぶらりと恵ヶ池の畔に出てみた。明るい、心を撫でるやうな雨が昼間降つてゐたが、それが止んで一ときの静寂(しじま)を保つてゐる夕方である。いつも先づ心を惹かれるのが、池の西側の窪地である。色といつては、落着いた緑単色の濃淡に過ぎない。(…)が、とにかく、静かな爽かな、実にまとまつた落着いた感じが湧いてくるのである。


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高安が住んでいた時から既に80年が経ったが、恵ヶ池は今も残っている。当時に比べて大きさは半分くらいになっているようだ。埋め立てたと思われる場所には、「苦楽園市民館」が建っている。

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2013年08月05日

苦楽園探訪(その3)

海南荘がここにあったことをわずかに偲ばせるものが、この公園の中にある。
それは下村海南自筆の歌碑である。

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歌碑には「眼ざむれば松の下草を刈る鎌の音さやに聞ゆ日和なるらし」という一首が刻まれている。

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歌碑の説明板には「海南は、故郷の和歌山を見はるかす此の地をこよなく愛し、大正10年、この宏大な地に邸宅を構え「海南荘」と称し、約15年間ここに住んだ。その間、佐々木信綱や川田順、九条武子、中村憲吉、土岐善麿など多くの歌人や文化人を招いて、歌会や各種集会を催し、苦楽園に文化の華を咲かせた」と書かれている。


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2013年08月04日

苦楽園探訪(その2)

下村家は当時1500坪あまりの敷地を持つ大邸宅を構えており、「海南荘」と呼ばれていた。大正10年にその家を建てた時のことを、下村海南は次のように記している。
十一月二十一日六甲苦楽園内望が丘のほとりに海南荘を相して移る、まなかひに生駒、金剛、葛城の連峯海を越えて淡路に走り。眼の下に西の宮、尼が崎、大坂、堺、濱寺の市邑、茅渟(ちぬ)の海を囲みて点綴せらる。 (『新聞に入りて』)

生駒山、金剛山、葛城山、淡路島、そして大阪湾を取り囲むように広がる市街を見渡すことができるのが自慢だったのだろう。こうした眺望の良さは、今でも変らない。

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標高は150メートルくらいのようだが、かなり遠くの方まで見渡すことができる。山と海が近い地形ならではの眺めだろう。

下村家の敷地だった場所には、今では20軒あまりの家が立ち並んでいる。その一角に「苦楽園四番町公園」という名の小さな公園がある。

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夏の真昼ということもあってか、人影はない。蝉の鳴き声もせずに静まり返っている。

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2013年08月03日

苦楽園探訪(その1)

毎月、芦屋で講座があった後は、午後から「芦屋歌会」に参加しているのだが、8月は歌会が休みのために時間が空いた。そこで、以前から一度行ってみたいと思っていた苦楽園へと足を運んだ。

苦楽園は六甲山麓に位置する関西屈指の高級住宅地である。JR芦屋駅からバスに乗って坂道を登ること15分くらい。高台には広い敷地の屋敷が点在している。

『高安国世の手紙』にも書いた通り、高安はこの苦楽園と関わりが深い。旧制甲南高校時代の親友・下村正夫(下村海南の息子)が苦楽園に住んでいたため、しばしば遊びに来ていたのである。また、芦屋の家が火事で焼けた後、しばらく苦楽園ホテルに住んでいたこともある。
いつのころからか、母が私に西宮市の山手、苦楽園にある下村家をたずねるように計らってくれた。というのは、歌人であった母は、やはり歌人であった下村海南氏を知っていたからだ。そこには一人息子の正夫君がいて、やはり甲南に通い、私と同級であったのだ。  (高安国世「めぐりあい」)
それからは私はほとんど毎日のように彼の家へ遊びに行った。当時朝日新聞の副社長だった海南氏の帰りはおそく、やさしいおばあさんやおかあさんのすすめで、いとも気楽に夕食をご馳走になり、そのまま夜まで話し込んだり、泊まってしまうことも多かった。   (同上)

その名も「苦楽園」というバス停で降りて、まず探すのは、その下村家の跡である。

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2013年07月30日

「アララギ」と高安国世

1977年刊行の高安国世『わがリルケ』を調べていて、一つ気が付いたことがある。
巻末の著者略歴に、こう書いてある。
三高、京大教授を経て関学大教授、京大名誉教授。アララギ短歌会会員、「毎日新聞」「読売新聞」歌壇選者、歌誌「塔」主宰、現代歌人集会理事長。

「アララギ短歌会会員」とあるではないか。つまり、この時点でも高安は、まだ「アララギ」の会員であったのだ。

高安がいつまで「アララギ」の会員であったのか、以前調べたことがあるのだが、はっきりとはわからなかった。「アララギ」誌面では1973年7月号の「左千夫短歌合評」に出ているのが最後である。けれども、それで退会したというわけではない。

1977年時点でまだ会員であったということは、1984年に亡くなるまでずっと会員であった可能性も高いということだろう。

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2013年07月22日

秦豊吉

『高安国世の手紙』のあとがきにも書いたように、私は学生時代からドイツ文学者としての高安国世は知っていたが、歌人としての高安は知らなかった。そういうことは、しばしばあるのだろう。

今朝の読売新聞「編集手帳」に、こんな一節があった。
古川ロッパが帝国劇場でミュージカルに出演したときである。連日満員の盛況だというのに、帝劇社長・秦豊吉(はたとよきち)の顔は日に日に険しくなっていく。

この秦豊吉って、あの秦豊吉?と思った。
『西部戦線異状なし』などのドイツ文学の翻訳で知られる秦豊吉である。

調べてみると、確かにそうだった。実業家や興業家、文筆家、翻訳家と、さまざまな顔を持っていたらしい。マルキ・ド・サドをもじった「丸木砂土」というペンネームで小説や随筆を書いていたことも初めて知った。

高安さんの文章にも秦豊吉の名前は出てくる。高安がドイツでハウプトマンゆかりの婦人に会った時のことである。
婦人はさらにハタさんが前に訪ねて来られたといい、しばらく考えてそれが秦豊吉氏であることがわかった。彼は最近死んだというと婦人は大そう残念がるようすであった。(…)私たちがサインを求められた記念帳には、秦豊吉氏のペン書きの日本文も認められた。   『北極飛行』

高安がドイツに留学したのは1957年、秦豊吉が亡くなったのは1956年であった。

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2013年06月05日

「塔」2013年5月号

「塔」5月号は高安国世生誕百年記念号。
53ページにわたる特集を組んでいる。

特集の内容は下記の通り。
・座談会「高安国世の歌を読む」
  藤田千鶴・永田淳・山下裕美・吉田恭大

・評論「短歌史上の高安国世 『真実』から都市詠へ」 篠弘
・評論「半透明の街」 真中朋久
・評論「高安国世の世界内面空間と歌の真実〜全歌集を俯瞰して」 徳重龍弥
・評論「ドイツ文学者としての高安国世先生」 西村雅樹

・高安国世アルバム(写真13点)
・高安国世の百首 江戸雪選

・高安国世の思い出・エピソード
  藤重直彦・栗木京子・山下泉・藤井マサミ・栗山繁・進藤多紀・藤江嘉子・
  黒住嘉輝・古賀泰子・池本一郎・黒住光・花山多佳子・永田和宏

1冊1000円で販売もしています。
池袋のジュンク堂、名古屋のちくさ正文館、京都の三月書房、塔のホームページ、
あるいは松村宛に直接ご注文下さい。

今回の特集、僕は何も原稿は書いてませんが、39ページの扉のデザインをやりました。

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2013年05月15日

「塔」2013年5月号

「塔」5月号は高安国世生誕百年記念号。
創刊700号でもあります。

高安国世(1913―1984)の生誕100年を記念して、50ページ以上の特集を組みました。
内容は下記の通り。
○座談会「高安国世の歌」 藤田千鶴、山下裕美、永田淳、吉田恭大

○評論「短歌史上の高安国世 『真実』から都市詠へ」篠弘
○評論「半透明の街」真中朋久
○評論「高安国世の世界内面空間と歌の真実」徳重龍弥
○評論「ドイツ文学者としての高安国世先生」西村雅樹

○高安国世アルバム
○高安国世100首選 江戸雪選
○高安国世の思い出・エピソード
  藤重直彦、栗木京子、山下泉、藤井マサミ、栗山繁、進藤多紀、藤江嘉子、
  黒住嘉輝、古賀泰子、池本一郎、黒住光、花山多佳子、永田和宏

1冊1000円で、池袋のジュンク堂本店、名古屋のちくさ正文館、京都の三月書房でも販売しております。また、メールやコメントでご連絡いただければ、振込用紙同封ですぐにお送りします(送料無料)。

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2013年03月30日

真実、眞實、眞実?

岡井隆・馬場あき子・永田和宏・穂村弘選『新・百人一首』(文春新書)を読んでいて、いくつか気になったことがある。

一つは高安国世の歌の表記のことだ。
かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は眞実を生きたかりけり

「眞実」という表記が気になって仕方がない。ここは常用漢字を用いて「真実」とするか、初出の歌集通り「眞實」とすべきところだろう。旧字と新字のミックスはいただけない。

思うに、これは手書き原稿の書き癖をそのまま載せてしまったのではないだろうか。校正の段階でどうしてそのままになってしまったのか不思議である。

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2013年02月02日

愛珠幼稚園

今日の読売新聞の夕刊に、大阪の愛珠(あいしゅ)幼稚園のことが載っていた。
(記事は → こちら

大阪市の市立幼稚園民営化の方針を受けて、国内最古の園舎(重要文化財)で知られる愛珠幼稚園も民営化されることになり、古い玩具や教材など1000点以上の貴重な所蔵品が散逸する恐れがあるという内容である。

どこかで聞いたことのある名前だと思って、『メモワール・近くて遠い八〇年』という本を開いてみると、やっぱり載っていた。
  船場の誇り・愛珠幼稚園

 愛珠幼稚園は船場の今橋四丁目にあり、明治十三年創立、日本で二番目に古い幼稚園、私は明治四十三年の卒園である。第一番は東京お茶ノ水の付属幼稚園で官立だから、私立幼稚園としては第一号であった。船場商人の根性、商人の先を見通す眼、と言うか、金もうけだけでなく、人間を創ることの大切さを知り、自分たちの手で小学校も幼稚園も造ったのだからすばらしい。

この本の著者は石本美佐保。高安国世の9歳上の姉である。高安の生家である高安病院は船場のど真ん中にあった。

けれども、高安はこの愛珠幼稚園に通ってはいない。それは「体質虚弱で喘息の持病があり、幼時を多く芦屋の別邸ですごす」(『高安国世全歌集』年譜)という幼少時代だったためである。

「病弱で幼稚園にも行かなかった私」(「芦屋の浜と楠」)という意識は、高安の生き方にも大きな影響を与えている。

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2012年11月10日

「高安国世に話は及び…」


永田さんの歌集『夏・二〇一〇』の中に「高安国世に話は及び…」という一連8首がある。
どれほどの歌人だつたかと人問へりわが師であつたそれはそれだけ
俺だつてほんたうはまだわからない高安国世とは何だつたのか
曼荼毘華はダチュラと知りぬ曼荼羅華の烟のなかの高安国世
おそらく、短歌関係者以外の人との会話の中で、高安国世に話が及んだのだろう。高安を知らない人に向って、師のことをどのように説明したらいいのか。

語弊を恐れずに言えば、高安国世は一・五流、あるいは二流の歌人である。同世代で言えば、近藤芳美や宮柊二にはかなわない。5人くらい名前を挙げる中には入るかもしれないが、決して1番にはなれない。

それは、京都に住んでいたという地理的なハンデだけでなく、高安自身の資質的な問題であった。高安の短歌に欠けていたものは何なのか。それは、今後誰かが高安論を書く際の大きなテーマになるだろう。

これは高安を貶めようとして言っているのではない。「高安国世の手紙」を書いていて感じたのは、一流になれなかったからこそ高安国世は面白いということだ。それに、ほとんどの歌人は二流にさえなれないのである。

50年以上にわたって短歌を作り続け、精一杯の努力をして、誠実に生きてきたにも関わらず、高安は一流の歌人にはなれなかった。その哀しみは、弟子である永田がおそらく一番よく知っている。

3首目の歌は、曼荼羅花の葉を燻べた煙を吸っている高安の姿である。持病の喘息の治療のために、高安はこのまんだらげを自宅で栽培していた。高安が「まんだらげ」を詠んだ歌を最後に1首引いておこう。
まんだらげの煙こもらふ一ときを我が王国と今にかなしむ
                   高安国世『真実』

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2012年10月26日

三首の重複


『高安国世短歌作品集』(白玉書房、1977年)は、高安の第10歌集までの作品を収めた一冊である。そのあとがきに、高安はこんなことを書いている。
十冊の歌集を読み通すのはらくではない。好きな時に好きなだけ読んでいただければと思う。今度読み返してみてはじめて気づいたが、『朝から朝』と『新樹』の中に、三首だけ重複が見られ、恥ずかしく思っているが、全部歌集のもとの形で収めることにしたので、これもそのままにした。得意な歌というわけではない。
「得意な歌というわけではない」という一文が、何だかかわいい。誰もそんなこと思わないのに。

こういう文章を読むと、その「三首」はどの歌かというのが気になってしまう。別にどうでも良いことなのだが、調べないと落ち着かない。

というわけで、見つけたのが次の三首。
みなぎろう水は明るし岸明るし魚とらぬ湖かなしきまでに
建ちかけのコンクリートのビル高々といつまでもあり朽ちることなく
光消え柳のなびきよそよそし我は別人となりて立ち去る
『高安国世全歌集』で言えば、485ページの『朝から朝』の「水辺」の一連と、500ページの『新樹』の「湖岸」の一連に入っている歌ということになる。

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2012年10月02日

角川「短歌年鑑」1971年版


高安国世が亡くなったのは1984年。私はもちろん高安さんに会ったこともないし、リアルタイムで高安作品を読んだこともない。

そのせいばかりではないだろうが、高安作品が生前、どのように評価され、あるいはどのように評価されなかったのか、というのが今ひとつはっきりわからない。

高安さんの歌は前期、中期、後期と大きく変遷をしている。そうした変遷は当時どのように受け止められていたのか。そうした評価史みたいなことを知りたいと思う。

そういう意味で、角川「短歌年鑑」1971年版の座談会は非常におもしろい。巻頭に塚本邦雄・上田三四二・玉城徹の座談会「ことしの歌壇を語る」が載っていて、その中で高安作品について議論されているのだ。

第8歌集『虚像の鳩』(1968年)以降の高安作品について、上田三四二は、作品として疑問に思う点はあるとしつつも「移り方に高安さんとしては必然性がある」「高安さんの作風ということは感じる」と比較的好意的に述べている。

これに対して、塚本邦雄は「着目すべき作品がある」「高安さんの流動的な作風の一つの表れ」とした上で、決定的な文体を作らないのが高安の「強みでもあり、また逆の意味もあると思う」という微妙な評価。

玉城徹が一番批判的だろう。「完成などということは望まないという態度は必要」としながらも、「ある水準がきまってくるところがないと、ちょっと困る」「あまりにも流動的だという感じがする」と疑問を呈している。

「流動的な作風」というのは、高安さんに常に付きまとった評価であったのだろう。

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2012年09月14日

高安山荘と黄木荘


高安国世は長野県の飯綱高原に山荘を持っていた。京都の自宅からは400キロ以上の距離があるが、自分で車を運転して往復していた。それだけでなく、その高安山荘から、山中湖畔にある土屋文明の別荘、黄木荘を訪れたりもしていたらしい。こちらも片道150キロくらいはある。

高安が亡くなった際の土屋文明の追悼文「高安君の追憶」の中に、次のように書かれている。
四五年前、山中湖畔に、突然高安君が見えた。戸隠山麓の避暑地から、ドイツ製車を自ら運転してであった。その体力は先づ私を驚かせた。京都から戸隠への往復もその車でとのことで更に驚いた。山中には二度も見えたように記憶する。
                       (「塔」1985年7月号)
高安の載っていたのは外車だったようだ。どんな車だったかと言えばボルボである。(ドイツ製ではなくスウェーデン製)

今度は土屋文明が亡くなった際に、高安和子の書いた追悼文を見てみよう。
飯綱に小さな山荘を持つようになっての一夏、先生が山中湖畔の別荘にお暮しになるので地図をたよりに出かけた。(…)五十過ぎての免許なので息子の文哉が命の万全を言って外車を買ってくれた。運悪く小さな故障を繰り返すので「ボルボ」でなく「ボロボ」と言うのだったが、この時はなかなか調子よく働いた。
                       (「塔」1991年5月号)
ボルボは当時「世界一安全な車」と言われており、万一の事故に備えてこの車に決めたようだ。

高安の前半生は幼少時からの喘息もあって病弱な印象が強いが、五十代後半からの高安は、ボルボを運転して数百キロを走る、そんな健康的で活動的な姿を見せている。

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2012年08月04日

二つの『真実』(その3)


「塔」の昭和29年10月号の編集後記でも、高安は平井貴美子について触れている。
□この夏に堪えられず平井貴美子さんが亡くなつた。「塔」にとつても大きな損失だ。今更に人の命の切なさを思う。この死を無駄に終らせないために、遺歌集を作ることを考えているうちに、これを機会に僕たちの歌集を次々に出そうと思うようになつた。思い切り廉価で、多くの人に親しまれるような形をとろう。そのためにはプリントでもいい。美しく着飾つたような歌集は僕たちには似合わない。新しい感覚で新時代の歌集を一人一人の手へ。
この文章で高安は『平井貴美子歌集』の話とともに「僕たちの歌集」を出す計画について述べている。おそらくガリ版刷りの『真実』は、この一冊だったのだろう(7月発行なので少し時期が早いけれど)。

そして『平井貴美子歌集』の奥付を見ると、
印刷所 京都市上京区紫竹上柴本町73 川岸印刷商社
とある。ガリ版刷りの『真実』を製版した「川岸由人」は、この印刷会社の人ではないかと思う。

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2012年08月03日

二つの『真実』(その2)


ガリ版刷りの『真実』の謎を解くカギは『平井貴美子歌集』にある。この歌集は昭和29年12月10日発行の非売品だが、判型や体裁がガリ版刷りの『真実』とそっくりなのである。

平井貴美子は昭和27年から29年にかけて「関西アララギ」や「塔」で歌を作っていた方で、結核を患う療養歌人であった。京都市右京区鳴滝にある国立宇多野療養所(現・独立行政法人国立病院機構宇多野病院)に入所していたらしい。

平井さんの「塔」への出詠は昭和29年4月の創刊号から9月号までのわずか半年のこと。闘病生活の末に8月14日に33歳で亡くなっている。同年10月号の「塔」には「平井貴美子さんを憶う」(高安国世)、「平井さんのこと」(太宰瑠維)という二つの追悼文が載った。
  我が踵うすべに色にやわらかく八年ほとほと臥り来しかも  平井貴美子
  癒ゆるのぞみもはや失せたる現身にほのぼの兆す恋を怖れぬ
  とりたてて言ひ遺すべき事もなく死ぬかも知れぬと思ふ日続く

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2012年08月02日

二つの『真実』(その1)


高安国世の第二歌集(発行順では最初の歌集)『真実』は、昭和24年7月30日に、高槻発行所から刊行されている。B6判182ページで、1ページ4首組み。定価は180円。

高槻発行所というのは出版社の名前ではなく、当時高安が所属していた関西アララギ会の結社誌「高槻」の発行所という意味である。発行所の住所は「高槻」の編集発行者であった大村呉楼の自宅となっている。

実は、この高槻発行所から出た『真実』以外に、一回り小さなガリ版刷りの『真実』というものが存在する。昭和29年7月14日発行で、巻末には「製版 川岸由人」と書かれている。90ページで、1ページ8首組みとコンパクトだ。

両者には他にも漢字の字体の違いがある。前者が旧字(正字)であるのに対して、後者のガリ版刷りのものは新字を用いている。例えば表紙を見ると、前者は「高安國世 眞實」であるが、後者は「高安国世 真実」となっている。これは発行の時期が5年遅いので、それだけ新字が広まっていたためかもしれない。

では、なぜこのガリ版刷りの『真実』は作られたのであろうか。そして、製版者の「川岸由人」とは一体何者なのか。

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2012年07月14日

中島栄一と高安国世(その3)


1952(昭和27)年3月、高安は「関西アララギ」の編集者となるが、この時、中島栄一も新たに選者になった。選者を引き受けた経緯について中島は
高安君が私のため「陽のあたる場所」を用意して呉れたこと、それに対する感激の思いもこめて。           「関西アララギ」1954年1月号
と記している。もっとも、この文章は中島が選者を辞するに当って書かれたものであり、以降、二人は別々の道を歩いていくことになった。

中島と高安はともに大阪と縁が深い。しかし、生まれ育った環境は大きく違っている。通天閣の近くで育ち尋常小学校しか出ていない中島と、船場の道修町の大病院に生まれ京都帝国大学を卒業した高安。

中島は高安のことを「高安君」と呼んでいるが、高安は「中島さん」と呼んでいたらしい。高安が亡くなった時の追悼文に、中島は
(…)世俗的名声を得たのちも終始かはることなく、私に対しても、ていねいにさんづけで呼ばれたこと自体、育ちのよさをあらはして余りあるとおもふ。
             「短歌新聞」1984年8月号
と書いている。この文章はそのまま素直に受け取っていいのだろうか。けっこう含みがあるような気がする。ここに含まれた微妙で複雑な感情こそが、中島と高安の関係を象徴しているようにも思うのだ。

本来出会うこともなかったはずの二人が、短歌を通じて出会い、戦前から戦後にかけての苦しい時代のなかで友情を育んだ。しかし、世の中が平和で豊かになるにつれて、もともと資質の違った二人はそれぞれ別の道を歩むようになったのではないか。そんなふうに感じるのである。

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2012年07月13日

中島栄一と高安国世(その2)


中島は1909(明治42)年生まれで高安の4つ上である。生まれも育ちも正反対と言っていい二人だが、なぜか気の合う部分があったらしい。

1950(昭和25)年に書かれた高安の第一歌集『Vorfruhling』の附記の中に、次のような一文がある。
(…)今は昔、堂島川のかき船で中島栄一君が、「君の歌がわかるやうな人は今の日本にはあんまりあらへんのや」と言つた時、我が意を得たと涙ぐむほどに有難く感じたこともあつた次第である。
中島に励まされ、厚い信頼を寄せている高安の姿である。
翌1951年、中島の三男栄造が疫痢で亡くなる。3歳であった。
冷えゆく汝(なれ)の小さき足撫でてわが居たりけりたどき知らねば
                          『花がたみ』
腕に股(もも)に注射の針のあと見れば涙あふる小さき屍(かばね)清めて
柩いま舁(か)き出(いだ)さるる玄関に汝(なれ)があそびしスケートがみゆ
この一連のすぐ後に、次の一首がある。
こころ温(あたた)まる高安夫妻よりのハガキ生きゆくことは苦しかりとも
同じように3歳の息子を疫痢で亡くしたことのある高安には、中島の悲しみが痛いほどにわかったのだろう。二人はこうした信頼によって結ばれていたのである。

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2012年07月12日

中島栄一と高安国世(その1)


『中島榮一歌編』を読んでいると、中島栄一と高安国世の関わりについて、いろいろと見えてくることがある。
かくて我は俗人かなと嘆き言ひし中島栄一いま我は会ひたし
           高安国世『真実』
1947(昭和22)年の歌。この歌は、中島の
かくて吾は俗人かなと嘆きつつ帰りきて人の悪口を書き列ねたり
           中島栄一『指紋』
という1935(昭和10)年の歌が元になっている。中島と高安の出会いは1934年のことなので、二人が出会ったばかりの頃の歌だ。

この中島の歌は「仮面」という一連に入っており、そこには他に
教養あるかの一群に会はむとすためらはずゆき道化の役をつとめむ
洗練されし会話つづきて不用意にはさみし言は黙殺されぬ
吾をわらふ友らの前によりゆきてしどろもどろにわれも笑ひ居き
といった、かなり自虐的な歌がならんでいる。両親の行商を手伝った貧しさや尋常小学校しか出ていない学歴は、中島に強いコンプレックスをもたらしたようだ。

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2012年05月21日

年譜をめぐる問題(その3)


二人の文章では高安の留学先は「ドイツ」となっているが、全歌集の年譜には「ドイツ連邦共和国」とある。「ドイツ連邦共和国」は「ドイツ」の正式名称だから、同じことのように見えるが、実はそうではない。

高安が留学した1957年も、全歌集の年譜が作成された1987年も、ドイツがまだ分裂していた時代のことである。つまり、この年譜の「ドイツ連邦共和国」とは、今の「ドイツ連邦共和国」のことではない。かつて1949年から1990年まで存在した「西ドイツ」のことである。

年譜作成者が「ドイツ」ではなく「ドイツ連邦共和国」と書いているのは、当然もう一方の「ドイツ民主共和国」(東ドイツ)を念頭に置いてのことだろう。高安の留学当時は、「ドイツ」という一つの国はなかったのである。

もっとも、高安自身はそうした政治的な話は気にしていなかったようで、『北極飛行』のあとがきを見ると、そこには「ユネスコの地域文化研究員としてドイツへ旅立った」と至極あっさり書かれている。

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2012年05月20日

年譜をめぐる問題(その2)


現在最も信頼できる高安の年譜は、『高安国世全歌集』に載っているものである。そこには次のように記されている。
昭和三十二年(一九五七) 四十四歳
四月、第五歌集『砂の上の卓』出版。五月、ユネスコ地域文化研究員としてドイツ連邦共和国へ出張、ミュンヘン大学でドイツ近代詩を研究。十二月帰国。

これを見ると、歌集の刊行は「四月」、留学への出発は「五月」となっている。ただし、これが正解かと言えばそうではない。

まず、『砂の上の卓』の刊行についてだが、これは歌集の奥付に「昭和三十二年四月三日」と記されており、「四月」が正解と判断していいだろう。

次にドイツ留学への出発だが、これは高安が『北極飛行』の散文の中で次のように書いている。
四月三日の朝八時半、エア・フランスのスーパー・コンステレーションは強い風の中をとび立ち、ぼくははじめて東京の街を空から見下ろした。

つまり、出発は河原の書いている通り「四月三日」で間違いない。高安はこの留学に、刊行されたばかりの『砂の上の卓』を持って行き、ドイツでその翻訳などを試みている。「四月三日」(奥付)に出た本を四月三日の朝に持って行くことは難しいだろうから、歌集の実際の刊行は三月中であったのかもしれない。ただし、刊行日に関しては奥付で判断するのが普通なので、これは「四月」で良いだろう。

つまり、結論としては『砂の上の卓』の刊行も留学への出発も、ともに「四月」(四月三日)ということになる。

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2012年05月19日

年譜をめぐる問題(その1)


今年1月から「塔」で「高安国世を読む」という連載が続いている。12か月で高安の13冊の歌集を読むという企画で、毎月楽しみに読んでいる。

4月号では第5歌集『砂の上の卓』、5月号では第6歌文集『北極飛行』が取り上げられているのだが、その中にそれぞれ、以下のような部分がある。
第五歌集『砂の上の卓』には昭和三十年一月から三十二年一月までの作品三〇三首が収録されている。ユネスコの地域文化研究員としてドイツに留学が決まり、準備で忙しい中急いで四月に上梓された。五月に出発し、ミュンヘン大学でドイツ近代史を研究し、十二月に帰国している。  (渡辺久美子)
高安国世がユネスコの派遣でドイツミュンヘン大学にドイツ近代詩を研究するため留学したのは一九五七(昭和32)年四月三日、帰国は同年十二月二六日、高安国世四十四歳。三月、第五歌集『砂の卓』出版しこの歌集を携えてドイツに渡った。  (河原篤子)

渡辺の「ドイツ近代史」は「ドイツ近代詩」、河原の『砂の卓』は『砂の上の卓』の間違いであるが、それ以外にも異なっている部分がある。『砂の上の卓』の刊行月と高安がドイツ留学へ出発した月だ。

『砂の上の卓』の刊行を渡辺は「四月」、河原は「三月」と書いている。また、高安がドイツ留学へ出発したのを渡辺は「五月」、河原は「四月三日」と記している。一体、どちらが正しいのか?

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2012年02月28日

高安国世の杉浦明平宛の書簡

2010年12月27日の日記に、愛知県の田原市博物館で、杉浦明平氏の遺した書簡類の整理が行われていることを記した。

先日、そこの学芸員の方から連絡があり、高安国世の杉浦明平宛の葉書が2枚見つかったとのことであった。コピーを見ると、昭和31年のものと41年のものである。たいへん貴重な資料で、ありがたい。

書簡類の整理作業は、まだ続いているらしい。平成25年の新春に杉浦明平の展覧会を行う予定だそうなので、その時にはぜひ博物館を訪れたいと思う。

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2012年02月11日

村上春樹

1月のe歌会(「塔」のメーリングリストを使った歌会)で、村上春樹の話題が出た。ある歌をめぐる批評の中で、村上春樹っぽい文体といったような話があり、議論が盛り上がったのである。好き嫌いを含めて、村上春樹に関心を持っている人は多いようだ。

古い「塔」をパラパラ読んでいたら、高安国世が村上春樹について書いている文章を見つけた。二人が時代的に重なっているとは思わなかったので、ちょっと意外な気がした。1983年7月号である。
すこし前に村上春樹の『羊をめぐる冒険』を読んだ。最近は短歌に関する仕事がやたらにふえて、あまり小説など読んだことがなかったせいか、久しぶりに活発な興味をもって読了した。

はじめは現代の若手作家はどういうことを書くのだろうとか、そこに現れてくる現代の生活情況とか主人公の没理想的な生活態度とかに興味を抱かせられたと言ってよいが、しかしそれだけではない明らかに文学以外では味わえない何物かによって引きずられ、気持ちをかき立てられて行くことに気づいた。

要約できないもの、何と指して言えない魅力―これは何だろうかと、あとで考えて、そうだ、それは文体なのだと気付いた。逆に言うならば、文体のない文章ほどつまらないものはないのだ。

文章の内容とか意味とかと無論切りはなすことはできないのだろうが、言葉のリズムとか作者の息づかいと言ったものがこちらの体感として伝わってくることがなければ、私たちはとうてい数ページの文章も辛抱できないのではないか。(以下略)

高安さんは翌1984年に亡くなっている。晩年の高安さんが村上春樹の初期の作品を読み、その文体に注目していたことを、何ともおもしろいなあと思う。

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2011年12月31日

「波」2012年1月号

永田さんの連載「河野裕子と私」の第8回。今回は2004年から亡くなる直前まで河野さんを診ていた精神科医、木村敏先生の話である。

木村先生が永田さんの同僚であったことはこの文章にも書かれているが、木村さんは実は高安国世とも関係のあった方である。「塔」の高安国世追悼号(1985年7月号)にも追悼文を寄せている。
 高安先生にはじめておめにかかったのは昭和二十三年のことだった。
 まだ終戦後まもないその年に、わたくしは旧制高校最後の入学生として三高の門をくぐった。そして先生が部長をしていらっしゃった音楽部に入れていただいたことから先生とのおつきあいが始まった。(…)
二人の接点が「音楽」であったというところが面白い。高安家は代々医者の家系であるが、高安の次姉が東京音楽学校を出ていることからもわかるように、音楽とも縁が深いのである。

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2011年12月09日

「フェニキス」と高安国世

『高安国世全歌集』に収められている年譜(光田和伸編)は、現在もっとも詳細で信頼に足る高安の年譜であるが、何ヶ所か疑問に思う点もある。例えば昭和二十二年に
七月、大阪で河村盛明・丸井茂仁らにより「フェニキス」創刊、協力する。
という記述がある。この「フェニキス」と高安国世との関わりも、疑問に思っていることの一つである。

「フェニキス」は井上美地さんを中心とした綱手短歌会のメンバーの手で、全29冊 (昭和22年7月〜25年2月)の復刻版が出ており、今でも手軽に読むことができる。「フェニキス」という誌名が斎藤茂吉の
灰燼の中より吾もフエニキスとなりてし飛ばむ小さけれども
から取られていることは、毎号この一首が巻頭に掲げてあることからもよくわかる。

さて、その「フェニキス」であるが、どこを探してみても高安の歌もなければ文章も載っていないのである。84名の名前と住所が載っている同人名簿(18号)にも、高安の名前はない。この点、毎号のように歌を載せていた「ぎしぎし」とは全く違う。年譜に記された「協力」とは一体何を意味しているのだろう。

「フェニキス」には第二次「フェニキス」(12冊)というのもあり、そちらは未確認なのだが、少なくとも昭和22年創刊の第一次「フェニキス」に高安国世が関わっていた形跡は見つからない。

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2011年09月11日

高安正夫さん

家から歩いて5分くらいのところに、国立病院機構京都医療センター(旧・国立京都病院)という大きな病院がある。門を入って左手の道を歩いて行くと、植込みの中に「退官記念」と彫られた石碑がいくつも並んでいる。歴代の院長たちが退任する際に設置されたもののようだ。

その一つに「高安正夫」という名前の書かれたものがある。
高安国世の兄である。

IMG_2796.jpg

高安国世は6人兄弟姉妹の末っ子であるが、二人の兄はともに医者になっている。長兄彰については、1980年に亡くなった際に、国世は「惜別」と題する31首の歌を詠んでいる(『湖に架かる橋』収録)。

次兄の正夫は京都大学医学部教授、国立京都病院院長などを歴任、1984年に亡くなった国世よりも長生きをした。そして、『過ぎ去りし日々』(1986年、近代文芸社)、『続過ぎ去りし日々』(1989年、同)という2冊の本を出している。

これらの本には、高安家の様子や幼少時代の国世の思い出話なども記されており、高安国世を研究する際の参考になる。

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2011年09月05日

高安やす子のこと

土屋文明の妻テル子の歌集『槐の花』を読んでいたら、高安国世の母やす子の死を詠んだ歌があった。昭和44年の一連。
  高安やす子様を悼みて
いつまでも若く美しかりし君逝き給ひしと今日聞くものか
み手になる折り折りの品今になほ我等にありて君のいまさぬ
君が作りし皮細工もの銭入紙入我が夫の長く持ち居る
袖無羽織の脇明は君の工夫にて単衣の上に着るによろしき
夏にならば冷しき山の朝夕に賜ひし羽織着て偲びまつらむ
これを読むと皮細工の銭入れや紙入れ(財布だろうか)、脇の開いた袖無しの羽織などを、高安やす子が文明夫妻に贈っていたことがわかる。

石本美佐保(高安やす子の二女、国世の姉)の著書『メモワール・近くて遠い八〇年』には、次のような記述があり、手工芸を趣味とした晩年であったようだ。
母やす子は晩年、臘纈染、描き更紗、革細工などにうち込み、手提袋、眼鏡入れ、バッグ、帯、紙入れ、しおりなどの作品を次々と造って、子供や孫、孫嫁、知人たちに贈るのを楽しみとしていた。その下絵や原画が数多く残っている。
高安やす子は戦前、『内に聴く』(大正10年)と『樹下』(昭和16年)という二冊の歌集を出している。前者には与謝野寛(鉄幹)が、後者には斎藤茂吉が序文を寄せており、当時は有名な女流歌人であった。

やす子の死に際して、高安国世も「逝く母」と題する5首の歌を詠んでいる。
花の香の満ちたる園に幼かりき思えばついに母の子にして  『朝から朝』
わが一生(ひとよ)短かからぬに見守りて長きいのちを生きたまいける
亡くなった母やす子85歳、国世55歳。「思えばついに母の子にして」に、万感の思いがこもる。幼少期から母の愛情を求め続けた国世であった。

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2011年04月29日

「世紀」創刊号

「世紀」という雑誌の創刊号(昭和21年4月号)を入手した。新村出「春秋弁」、吉澤義則「なまめかし・みやび・えん・すき・風流」、高田保馬「戦後経済に関しての談話」、石田憲次「米英文学と民主主義」などが載っている。

編集後記には〈「世紀」創刊号を送るに当つて、吾々は先づ、吾々が如何なる党派にも属さぬものであることを明言する。一つの政治的色彩が帯びた旗の下に編輯される雑誌も勿論必要ではあるが、現在の社会はかうした一元的なジャーナリズムの枠内に入るには余りにも複雑である〉などと書かれている。戦後すぐの雰囲気が濃く感じられる文章だ。

この雑誌に高安国世の短歌「ひともと樅」5首が掲載されている。
  ひともと樅
しづかなる光移りてわが窓はひともと樅の影になりつも
子と来つる園ひろびろと冬枯れてけだもの吼ゆる方もあらずも
時雨の雨散りくる鷲の檻のまへ白木蓮の蕾ふふみぬ
松並木片照る幹はしろじろと雪のこるかと見えてつづきぬ
さしあたり為すことのなき寂しさは妻の起居(たちゐ)の音ききてをり

高安の歌集『真実』を見てみると、これらの5首は改作されて、巻頭付近の「霜ふる」「動物園」「冬日抄」の3つの連作に分れて入っていることがわかる。
 「霜ふる」
しづかなる光満ちくる我が庭のひともと樅の影の中に居り
 「動物園」
さむざむと時雨ながらふる園ひろくけだもの吼ゆる方もあらぬか
時雨の雨散りくる鷲の檻の前白木蓮の蕾ふふみぬ
 「冬日抄」
松並木片照る幹はしろじろと雪のこりつつ見ゆるさびしさ
さしあたり為(な)すことのなき寂(さぶ)しさは妻の立居(たちゐ)の音ききており

歌集に入れる際に、けっこう手を加えているなあ、という印象だ。

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2011年02月05日

「開放区」第90号

「開放区」第90号を読む。

野一色容子さん連載の「ナンジャモンジャの白い花―清原日出夫評伝」は、毎号楽しみに読んでいたものだが、七回目を迎えて完結した。清原日出夫の姿がよく見えてくる内容だったと思う。

今回この評伝の中に、先日このブログでも書いた「高安国世文庫」のことが書かれている。その部分を引用する。
 のみならず、平成一五年三月には長野県立図書館の閲覧室の一角に「高安国世文庫」を開設した。高安所蔵の蔵書のうち、歌集・歌書を中心に五百数十冊の開架、九百数十冊の閉架の書籍からなる文庫である。ドイツ文学研究者で歌人であった高安の蔵書量はたいへんなものであったろう。遺族も困られたにちがいない。それを見かねて清原が思い立ち、本の選別も自身の手で行った。
 清原晩年は、高安文庫で安らぐ姿が見られたという。精神的な父と仰ぐ高安の蔵書に囲まれて、歌集や歌書をつれづれに読むのは、癌を病む清原にとって精神安定剤的な効果があったのかもしれない。

この最後の三行をしみじみと読んだ。「高安国世文庫」には高安国世だけでなく、清原日出夫の思いもこめられているのである。
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2011年01月25日

ゆにかねっと(その3)

ゆにかねっと(その3)

県立長野図書館の歌集をHPで検索してみると、古い歌集の多くが配架場所に「高安文庫」と表示されていることがわかる。つまり、高安国世の旧蔵書なのである。

高安国世文庫の開設の経緯について、広報誌「図書館ながのけん」第25号(2010年3月)には次のように記されている。
 平成13(2001)年8月、長野市在住の歌人である清原日出夫氏の師が、国世であったというご縁により、国世の蔵書の一部をご遺族から寄贈していただくことになりました。最終的には約1500冊を受け入れ、今では手に入らない貴重な資料も数多く収蔵できました。そこで、広く県民の皆様にご利用いただけるよう、高安国世文庫コーナーとして開設するに至りました。

つまり、高安国世(1913〜1984)の蔵書が妻の和子(1912〜1998)の死後、清原日出夫(1937〜2004)の仲介によって、県立長野図書館に寄贈されたということらしい。高安山荘がある長野県は、高安国世がしばしば訪れたゆかりの土地であった。

1500冊の蔵書の目録の中から、目に付いたものをいくつか挙げてみよう。
島木赤彦・中村憲吉『馬鈴薯の花』(1925)、『長塚節歌集』(1930)、『渡辺直己歌集』(1940)、近藤芳美『早春歌』(1948)、三国玲子『空を指す枝』(1954)、河野愛子『木の間の道』(1955)、岡井隆『斉唱』(1956)、富小路禎子『未明のしらべ』(1956)、塚本邦雄『日本人霊歌』(1958)、葛原妙子『原牛』(1959)、安立スハル『この梅生ずべし』(1964)、佐佐木幸綱『群黎』(1970)、小池光『廃駅』(1982)、井辻朱美『地球追放』(1982)

全集などでは、次のようなものがある。
『現代短歌大系』(三一書房)12巻、土屋文明『万葉集私注』(筑摩書房)20巻、『昭和万葉集』(講談社)20巻、『現代短歌全集』(筑摩書房)15巻、『源氏物語』(中央公論社)26巻、『斎藤茂吉全集』(岩波書店)55巻、『芥川龍之介全集』(岩波書店)10巻、『子規全集』(改造社)22巻

今年の夏の「塔」の全国大会は長野で行われることになっている。その時に、県立長野図書館にも、ぜひ足を運んでみたい。

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2011年01月19日

ゆにかねっと(その2)

「塔」の歌人の第一歌集を調べていた時に気が付いたことがある。結果は下記の通り。

河野裕子『森のやうに獣のやうに』(1972年)
・国立国会図書館
・県立長野図書館

池本一郎『未明の翼』(1970年)
・国立国会図書館
・東京都立多摩図書館
・県立長野図書館
・鳥取県立図書館

花山多佳子『樹の下の椅子』(1978年)
・県立長野図書館

栗木京子『水惑星』(1984年)
・東京都立多摩図書館
・県立長野図書館
・岐阜県図書館

これを見てすぐに目に付くのは、すべて県立長野図書館が含まれていることだろう。しかも、『樹の下の椅子』や『水惑星』など、国会図書館にも置いていない本もある。

最初は、長野というのは短歌への理解が深い土地柄なんだなと思ったのだが、どうもそういう理由ではないようなのだ。他を調べてみると、取り立てて歌集を多く収蔵しているわけでもないことがわかってくる。

例えば、河野さんの歌集は他に『燦』(1980年)と『あかねさす』(1982年)があるだけだし、池本さん、花山さん、栗木さんについては、上記の第一歌集のみという状況だ。

つまり、1970年〜80年代にかけての歌集だけが突出して多いのである。それはなぜか。(つづく)
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2011年01月18日

ゆにかねっと(その1)

図書館の本を探すのに、総合目録ネットワーク(通称ゆにかねっと)という検索システムがある。これは、国立国会図書館、全国の都道府県立図書館、政令指定都市の市立中央図書館の所蔵する図書を一度にすべて検索できるというすぐれもの。大変便利である。

例えば、ざっとこんな感じ。

馬場あき子『早笛』(1955年)
・国立国会図書館
・山形県立図書館
・東京都立多摩図書館
・奈良県立図書情報館

岡井隆『斉唱』(1956年)
・国立国会図書館
・県立長野図書館
・名古屋市鶴舞中央図書館

三枝昂之『やさしき志士達の世界へ』(1973年)
・国立国会図書館
・県立長野図書館
・奈良県立図書情報館

永田和宏『メビウスの地平』(1975年)
・なし

小池光『バルサの翼』(1979年)
・埼玉県立久喜図書館
・東京都立多摩図書館
・横浜市中央図書館
・新潟県立図書館
・大阪市立中央図書館

いろいろな歌集を調べてみて、わかったことが三つある。一つは、国会図書館になくてそれ以外の図書館にある場合も多いこと。次に、歌人の地元の図書館にはその人の歌集を置いていることがしばしばあること。最後に、都道府県や市立の図書館は場所によって品揃えに大きな差があること。

この三点目については、その図書館が歌集の収集に積極的かどうかという問題が、もちろん大きく関わっているだろう。しかし、どうもそれだけではないようなのである。(つづく)

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2010年12月30日

二人ゐて何にさびしき(その2)

もう一つ、鑑賞を引く。
わたしの好きな、若々しい相聞歌である。二人で一緒にいることは幸せなことであるに違いないのに、二人が一緒に居る故にいっそう寂しさが感じられる時がある。理由はわからない。どこか湖の奥にカイツブリが鳴いていると不意に呟く恋人にも、同じ思いは去来していたのだろう。 /永田和宏『京都うた紀行』(2010年)

さて、高安のこの歌を初めて読んだ時、すぐに思い浮かんだのがドイツ語の「Zweisamkeit」という単語であった。「Einsamkeit」が「孤独、一人ぼっちの寂しさ」を意味するのに対して、「Zweisamkeit」は「二人でいることの寂しさ」を意味する言葉。永田の鑑賞文にある「二人が一緒に居る故にいっそう寂しさが感じられる」というのに相当する。ドイツ語にはこんな言い方があるのかと、学生時代に印象に残った言葉だった。おそらく高安の意識にも、この語があったのではないかという気がする。

これについては、既に水沢遙子による指摘がある。
一九三六年の作品である。これらは、リルケの詩人としてのあり方に愛情と信頼をよせ、受けた影響をみずからの作品に生かした堀辰雄の世界を思い起こさせる。(…)「二人ゐて何にさびしき」は「Zweisamkeit ツヴァイザムカイト 差向いの羞しさ」(短編「晩夏」にある)ではないだろうか。 /水沢遙子『高安国世ノート』(2005)

この中で水沢の挙げている堀辰雄の小説『晩夏』も引いておこう。思い立って妻と二人で旅に出た作者が、夏の終わりの野尻湖を訪れる話である。湖畔の外国人向けのホテルに宿泊した二人は、ある日、湖の反対側まで歩いて出かけた。

 湖の水がずっと向うまで引いているのをいい事に、私達は渚づたいに宿の方へ帰って往った。
 葭がところどころに群生している外には、私達の邪魔になるようなものは何者もなかった。一箇処、岸の崩れたところがあって、其処に生えていた水楢の若木が根こそぎ湖水へ横倒しにされながら、いまだに青い葉を簇(むら)がらせていた。私達はその木を避けるために、殆ど水とすれすれのところを歩かなければならなかった。が、その時にでさえ、湖の水は私達の足もとで波ひとつ立てず、何のにおいさえもさせなかった。それでいて、湖全体が何処か奥深いところで呼吸(いき)づいているらしいのが、何か異様に感ぜられた。
「Zweisamkeit!……」そんな独逸語が本当に何年かぶりで私の口を衝(つ)いて出た。――孤独の淋しさ(アインザアムカイト)とはちがう、が殆どそれと同種の、いわば差し向いの淋しさ(ツワイザアムカイト)と云ったようなもの、そんなものだってこの人生にはあろうじゃあないか?
「そうだろう、ねえ、お前……」私は口の中でそんな事をつぶやくように言ってみた。
「何あに?」と、ひょっとしたら妻が私に追いついて訊き返しはしないかしらと思った。しかし妻にはそれが聞えよう筈もなく、私の少しあとから黙ってついて来るだけだった。

『晩夏』は昭和15年の作品で高安の歌の4年後のものであるが、シチュエーションがよく似ているように思う。二人の感性には共通するものがあったのだろう。堀辰雄が野尻湖を訪れたのは昭和14年のことだが、その4年後、昭和18年に高安も家族でこの野尻湖を訪れている。(これについては、「高安国世の手紙11」(「塔」2009年11月号)で既に触れた)

最後にもう一度、高安の歌を一首前の歌とならべて引いておこう。
青海苔の生(お)ひ付く岸を踏みゆきて黙(もだ)居(を)るときに恋(こ)ほしきものを
二人ゐて何にさびしき湖(うみ)の奥にかいつぶり鳴くと言ひ出づるはや

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2010年12月29日

二人ゐて何にさびしき(その1)

 池本一郎の第五歌集『草立』(2008年)に

  二人いて何に寂しきと歌にあり海さわだてて去る夏の雨

という一首がある。この歌は、高安国世の

  二人ゐて何にさびしき湖(うみ)の奥にかいつぶり鳴くと言ひ出づるはや

を踏まえたものだ。第一歌集『Vorfruhling』に収められた高安初期の代表的な相聞歌である。

 高安の歌は「秋から冬へ」という一連に入っており、舞台は湖。それに対して、池本の歌の舞台は海であり、季節は夏となっている。夏の激しい雨が降って過ぎた海を見ながら、高安の歌や高安国世という人間を思い返しているのであろう。

 さて、この高安の歌は二句切れとなっており、「二人ゐて何にさびしき」と詠まれている。この歌については、既に多くの方が鑑賞を書いており、今さら付け加えることはほとんどない。いくつか引いておこう。

(…)「二人ゐて何にさびしき」は、疑問でも、反語でもないだろう。また、この「さびしさ」は、なにか具体的な要因をもったさびしさでは、もちろんない。(…)充実しきった時間の中にいながら、しかもなお、そこに影をおとす、さびしさ、あるいはせつなさ。それは、すでに相聞という場をはなれて、青春という一回性の〈時間〉そのものでもあるはずだ。 /永田和宏「高安国世秀歌鑑賞(三)」(「塔」1985年4月号)

(…)逢いたかったひととの、喜びに満ちた時間であるはずなのになぜこんなにさびしいのかと作者はひそかに自らの心に問うていただろう。(…)「二人ゐて何にさびしき」という問いかけは、彼自身の内面に向けられ、君に向けられ、存在の根源にあるおおきなさびしさに行きつく。(…)こんなにも寂しい魂がひっそりと寄り添うことの愛しさを、作者はまるごと抱き取るのである。 /小林幸子「高安国世入門 秀歌六〇首鑑賞」(「塔」2004年4月号)

(…)私はこの「さびしさ」は行為などによっては満たされることのないものであり、そのことを作者は行為を知る前にすでに知ってしまっていたのではないか。少くとも、そうした予感が、氏にこの歌を作らせたのではないか、というひそかな感じをぬぐいきれないでいる。 /黒住嘉輝『高安国世秀歌鑑賞』(2005年)

 三者の解釈・鑑賞は、ほぼ重なっていると言えるように思う。

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2010年12月10日

内灘砂丘(その4)

高安国世はなぜ内灘砂丘を訪れたのか。

直接の理由は、新聞に載せる歌の取材ということであった。しかし、それだけでは十分な答にはならないだろう。池本は先のエッセイの最後を次のように結んでいる。
生死をかけた過激な闘争は戦後史の1ページ。金沢の歌人など幾人かの同行者は、何を感受したのか。なぜ高安国世は内灘を選んだのだろう。

内灘へ同行した池本にさえ、「なぜ」に対する十分な答は出ていないことがわかる。40年経っても解けない謎として、それは池本の胸に残ったままなのである。

黒住が「作者は何のためにここを訪れたのだろう」と書き、池本が「なぜ高安国世は内灘を選んだのだろう」と書くのには、わけがある。それは、高安と内灘という取り合わせが意外なものであったからだ。高安に似つかわしい場所であれば、そもそもこんな疑問は出てこない。

高安は政治的な行動とは一貫して距離を取ってきた人である。共産党員であった野間宏をはじめ、高安の友人には政治的な立場を明確にして、実際に活動に移す人も多かった。しかし、高安自身はそうではない。その高安が、なぜ、あの「内灘」に、というわけだ。

もちろん、当の高安が亡くなっている以上、その理由は永遠にわからない。あれこれ調べてみたところで、すべては推測の域を出ない。それでもなお、私はそうした疑問の一つ一つにできるだけ迫って、少しでも謎を解き明かしたいと考えている。たとえ40年前の出来事であっても、その時の高安の心境に寄り添うことくらいはできると思う。

内灘のことは来年2月号の「高安国世の手紙」で、少し触れてみたい。
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2010年12月09日

内灘砂丘(その3)

「内灘砂丘」が5首で区切られている理由については、わかっている。これは新聞に発表された作品だからだ。初出は毎日新聞の昭和46年10月2日の朝刊。ちなみに高安はこの年の3月から毎日歌壇の選者となっている。

新聞掲載の経緯については、「短歌」2010年4月号掲載の池本一郎のエッセイに詳しい。「想い出の場所、想い出の歌」というコーナーで、池本は「星条旗のなびきいしはここか造成地過ぎ来てコンクリートの廃墟ある窪」の一首を引いて、次のように記している。
 歌集『朝から朝』(昭47)後半の歌。昭和46年秋、金沢市に近い内灘砂丘に取材した連作5首の1首。毎日新聞紙上の「師弟競詠」のシリーズに登載された。(…)現地ルポの連作は国世には珍しい。
 じつは私も同行し、やはり5首をもって紙上に師と並んで掲載された。(…)当日は曇り日で、日本海へ日本第3位の長大な砂丘が湾曲して対きあっていた。
 星条旗も試射場もなくて、コンクリートの弾庫が砂上に黒い廃墟をさらしていた。

当時の新聞を見ると、「内灘砂丘」というタイトル文字と砂丘の大きな写真があり、コンクリート製のかまぼこ型の弾薬庫が写っている。顔写真入りで掲載された師弟競詠は高安国世と池本一郎の各5首。当時、高安58歳、池本32歳。高安の連作は紙上では「灰色の海」という題が付けられている。なぜか旧かな遣いとなっているほかは「内灘砂丘」5首と同じ内容だ。

一方の池本の作品は次の通り。
  廃庫
路上灯曇れる昼をともしつつ一段高く海がひらける
遅れ来てまたも史実はとどろかず試射場跡の丘雲に入る
暗き口さらして低き弾庫あり廃墟はつねに砂呼びよせる
思想にはかかわりもなき暗がりよ無頼のごとく廃庫にはいる
ひしひしと押し寄せている小宇宙海すれすれに靴さげて立つ

こちらも題を「内灘」と変えて、そのままの内容で『池本一郎歌集』(1990年)に収められている。
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2010年12月08日

内灘砂丘(その2)

思い出話がしたかったのではなかった。
高安国世の「内灘砂丘」の話である。

黒住嘉輝は『高安国世秀歌鑑賞』の中で、「灰色の海に向いて突堤に背走をくり返す一つトラック」の一首を取り上げて、次のように書いている。

 「内灘砂丘」五首の最後の歌だが、つぎに「同じく」という題で四首が続いている珍しい構成である。若い人にはもうわからないだろうが、日本本土におけるかなり早い時期の、米軍基地反対闘争に「内灘闘争」というのがあった。この歌も単なる情景描写ではなく、闘争を回顧したものであるのは、(…)明らかであろう。石川県の日本海に面した地域である。
 それにしても作者は何のためにここを訪れたのだろう。

黒住が指摘している通り、歌集『朝から朝』では、「内灘砂丘」5首に続いて「同じく」という題の4首が載っている。
   同じく
砂にねてまなぶた透す陽の光港建設の鼓動伝わる
くもり日の砂あたたかく身に添いてけじめもあらぬ海と空あり
海越えてわたりくるもの動くともあらぬ六基のクレーンの音
水平線曇りに隠れかすか微か砂に音する雨は到りぬ

この4首も、やはり内灘砂丘を詠んだものである。内容的にが「内灘砂丘」5首とひとつながりのものと言っていい。砂丘で行われている工事の様子が描かれており、「一つトラック」の歌の続きとして読むことができる。

「内灘砂丘」の4首目に「崩れしも興りゆくものも美しからず」という言葉があるが、このうち「崩れし(もの)」が米軍の試射場の跡地を詠んだ歌であり、「興りしもの」がこれらの工事の歌という図式になるのだろう。

では、なぜ内灘砂丘の歌は「内灘砂丘」5首と「同じく」4首に分れているのか。
そして、これも黒住が言うように、高安は何のために内灘砂丘を訪れたのだろうか。

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