
高岡市万葉歴史館論集20『万葉を楽しむ』(笠間書院)に、「高安国世と万葉集」という評論を書きました。
http://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305002501/
2019年に同館で講演した内容をもとに文章化したものです。
坂本信幸さん(高岡市万葉歴史館館長)、影山尚之さん(武庫川女子大学教授)はじめ万葉集の専門家の方々ばかりの執筆者の中に、なぜか私も加えていただいてます。
リルケが晩年を過ごしたフランスの山の中にある小さな「ミュゾットの館」という所は、旅行者も訪れないような、これといってなにもない所らしい。そんなところで詩人は「純粋時間」の中にとじこもり大作「ドゥイノの悲歌」を仕上げたという。どんな所だったのか、見てみたい気がする。ひょっとしたら、イカウシみたいな所ではないか、と思えるのだ。
茶畑の如く正しく条なして葡萄畑ミュゾットの館に続く
ロイクを過ぎラロンを過ぎてシエールに着きぬ 現(うつつ)に君在るごとく
ミュゾットに今し近づく 年古りしポプラすさまじき昇天のごと
さびしさに耐えたる人の小さき窓 五十年後の陽がさし入りぬ
高安国世『湖に架かる橋』
ドゥイノやミュゾットは、いまだにぼくの空想の土地である。せっかくヨーロッパに行き、九ヵ月も滞在しながら、とうとうこういう土地を自分の目で確かめなかったことは、ひそかな悔いとなってぼくの心の中に残るだろう。どちらもドイツからは不便なところにあり、時間と金がかかる上に、言葉も不自由な地方にある。そのうちそのうちと思うあいだに機会を逸してしまったのはぼくの怠惰のせいというほかはない。
「遺跡探訪」(1959.3)『わがリルケ』
夏のくるめき
杖つきて今日の死を知る街の歩みひかり照り返す夏のくるめきに
声呑みて知りたる死あり吾は行かず暑き葬りの街に過ぐるころ
死は思わねば衰えて山荘に行きにけむひとりの終り君もひそけく
この詩型ついに「詩」とする生涯を少年にして君と分けにしを
寂寥を語るなかりし晩年に逢いに来よというつたえ或るとき
冬の墓
和子さん寂しき人となりて連るるしぐれの雲の切れて日の寒く
冬雲の切れてひかりの耀うをつねに来る墓の道に君迷う
悲しみの過ぎてしずけき君の歩み先立ちたまう冬の墓原
墓のことばかりを告ぐる佇みに落葉乏しく朝を降りし雨
細く彫る文字新しき墓のめぐり花に埋めてゆく白き薔薇など
白き薔薇白き百合もて墓を埋めむ枯れはつるもの音にかすかに
ドゥイノの城ともに覓(と)めゆける終りの旅いいて回想のつぎほもあらず
昨年の暮、京都に久々の旅をし、高安君の新しい墓を訪れた。そうして、そのあと、しばらく加茂川の堤に添って歩いた。暗く雪雲が垂れていた。歩みながら、わたしの京都への追憶がすべて高安君との長い交友と共にあるのを思った。たちまちに過ぎてしまったものを追う寂しさを、生き残ったものとして知らなければならぬ。
気弱くして同じ時代に苦しめば高安君の歌にいらだつ
『静かなる意志』
追ひつめらるる思ひ語りしあくる朝訳詩にむかふ君がひととき
『歴史』
今の日に無知を羨しとただひとり高安君の葉書吾にあり
『歴史』
吾がためにリルケを読めり沈黙より意外にはげしき君の
ドイツ語 『歴史』
ドイツ語の夜学終へたる部屋くらく貧しき青年に君交り居き
『冬の銀河』
ミュンヘンに発ち行く友よ土解けし木の間の夜道送り歩みつ
『喚声』
その高安が突然に上京し、わたしに逢うために来た。四八年の秋だったのか。京橋の職場に来たのを咄嗟にはわからなかった。上京が一つの決意であったと彼は告げた。京都にいて戦災を知らず、戦後の東京の動きを心の焦燥としてその日まで見守っていた。初めて逢い、互いに若者のように語り合った。
人麿歌集
うち日(ひ)さす宮道(みやぢ)を人は満ち行けど吾が思ふ君は
ただ一人のみ (巻十一 二三八二)
ウチヒサスは枕詞。「都大路に人は満ち満ち歩いて行くが、私の思う人はただ一人だけ」という、これも人情の普遍的な表現になっています。こういうのは、真理を含んだ格言やことわざにも近く、何もない人には何でもなく、しかし一旦そうした立場に立った人の心には、わがことのように真実なものとして蘇って来る種類の歌でしょう。この歌はやはり女性の口吻と見られますが、男にだってこういう気持になることはあるでしょう。
かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は真実を生きたかりけり
『Vorfruhling』
医科志望を変更して文科に入ろうというころの嘆きをうたった一連の最初の歌である。(・・・)アララギに投稿して発表されたときにはこの歌は選にもれていた。選者の意図はどうだったのか聞いたことがないが、のちに歌集にまとめるときには勝手にこれを巻頭に置くことにした。
(・・・)僕は日本のインテリの教養の中に占めるロシヤ文学の位置などということを思わされたのであつた。例えば歌人近藤芳美。彼は僕ら以前のインテリとはちがつて、甚だ日本的でない。それかといつて彼の茫々としてうすよごれた風彩(ママ)は決してフランス的でもドイツ的でもない――つまりヨーロッパ的ではない。僕はやはりロシヤ的な、そしてドストエフスキイの作品の中に想像出来るものではないかと思う。
醇の作風が2015年頃から変わり始めた。それまで「光」や「風」のような形の無い物をテーマに色面構成の強い抽象画を多く描いてきた彼が、身近な自然や風景を独特な色彩感覚で柔らかく描き始めたのだ。その絵を描く眼差しに、父である国世の晩年の短歌と通じるものを感じた私は、短歌と絵とジャンルは違うけれど、父と子二人の芸術家の作品を本にして広く知ってもらいたいと思うようになった。
@ 叡電茶山駅【集合】
A 銀月アパートメント
B 駒井家住宅(昭和2年、ヴォーリズ建築)
C 高安国世邸
D 東アジア人文情報学研究センター(昭和5年)
E 京都大学百周年時計台記念館歴史展示室
F 京都大学吉田南4号館(旧・E号館)
G カフェテリア・ルネ【昼食】
H バス停「京大正門前」→バス停「船岡山」
I 来光寺、高安国世のお墓【解散】
私の研究室は京都大学教養部構内の最南端の建物にあって、南に知恩院、将軍塚あたりの丘を望み、やや右はるかには京都の市街の大部分が見渡され、駅近くの京都タワーも白いろうそくのように見えている。晴れた日、曇った日、雨の日、それぞれに趣がある。
もともと高い所から町を見るのが好きな私は、この研究室があてがわれて大変感謝している。近くの吉田から聖護院にかけての町なみは古いカワラ屋根を敷きつめたように見え、二方を山にかこまれ、平和な日だまりのように見える。だが、おいおい四角い近代風の建築が調和を破るようになり、こういう平和が続くのもいつまでかというかすかな不安が、心をかすめることも多くなってきたこのごろである。
高安国世「四階の窓」(「毎日新聞」昭和43年1月28日)
@ 阪神芦屋駅【集合】
A 高安家別荘跡
B 芦屋川河口
C バス停「シーサイド西口」〜バス停「苦楽園」
D 恵ヶ池、苦楽園ホテル跡
E 苦楽園市民館【昼食】
F 堀江オルゴール博物館
G 下村海南邸跡
H バス停「苦楽園五番町」【解散】
芦屋川口の両側の石垣は前からあった。幼い私たちは、たしかあれを砲台と呼んでいたようだ。墻壁の一番上のコンクリートの上は太陽に暖まって、水から上がって冷えた裸体を横たえるには持ってこいだった。砕ける波の音を直下に聞きながら、目をはるかに空や沖に遊ばせると、かぎりなく大きな大きなものが幼い胸の中にいっぱいにひろがるのだった。
高安国世「芦屋の浜と楠」
おびえ幼く憎みし商業のみの街旅人われの今日のやすけさ
つね病みて荷馬車馬蹄のひびきしか我さえに同じ我にあらねば
荷馬飼う土間より二階にのぼりたる友の家夢のごと幼くありき
生薬(きぐすり)と屑藁匂う町なりき今ひややけきビルの街筋
『虚像の鳩』
(・・・)顧みれば大正九年、大阪の愛日小学校への就学時から、高安さんは素晴しく上品な紳士で、組中の者から注目された方でした。ご尊母様は有名な閨秀歌人で吃驚する程美しく、兄上は六年生で児童長だつたと思ひます。(・・・)私は不思議に高安君とはよく話もし、お住居(西欧童話に出てくる様な蔦にくるまれた瀟洒な三階建でした)へも二三度遊びに行き、彼もよく私の家へ来られました。
廊下と二つの建物の間には「内庭」があり、壁泉が設けられている。こうした壁泉は、大正末から昭和初期にかけて流行するスパニッシュ様式の住宅に盛んに採用されており、流行を先取りしたものとして注目される。
言い遺すごとく語りて飽かぬ姉あわあわと聞くわが父祖のこと
かかわりを避けつつ生きて来しかとも大阪の町古き家柄
ようやくに余裕をもちて聞く我か祖父母父母その兄弟のこと
『新樹』
小学校へ行くやうになると、私は急に郊外の家から町の中へ移された。薬問屋が軒並に並んでゐる道修町のこととて、木煉瓦の上を荷車がよく通つた、重たげに荷を積んで――。
鈍い轍の音に混つて、カッチンカッチンと車軸のところの金具が鳴り、ひづめの音が過ぎて行つた。昼前の光のなかにルノアールかなんかの模写のかゝつてゐる明るい天井際をぼんやりと眺めながら私は寝床の中で、家全体がびりびりと微かに揺れるのを背中で感じた。さうして荷車がだんだん遠ざかつて、振動がかすかになつてゆくのをおぼえてゐる間に、私は無限のしづかさといつたやうなものの予感にふるへ、無為の愉しさがひそかに骨髄をとろかしはじめるのをおぼえた。
四十過ぎて集う小学校の友らみな酔い行きてそれぞれに落付きを持つ
商人の言葉なめらかに言い交わす友らにも今は親しまんとす
理解されざることも気易しと今は思う三十年過ぎて相逢う友ら
『砂の上の卓』
@ 北浜駅【集合】
A 少彦名神社(神農さん)
B くすりの道修町資料館
C 武田科学振興財団杏雨書屋
D 田辺三菱製薬史料館
E 高安病院跡・高安国世生家跡
F 「彩食館 門」【昼食】
G 愛日小学校跡記念碑
H 淀屋橋駅【解散】
遙かなる人の庭にも立つというキハダの高き梢を仰ぐ
高安国世『一瞬の夏』
上田敏の『海潮音』は、西洋の象徴詩を、日本語の大和言葉に移し替えた金字塔である。その後の日本の詩人が、日本語で象徴詩を創作し得たのは、上田敏の『海潮音』が、コロンブスの卵だったからである。
だが、光あれば、必ず影ができる。西洋の象徴詩を、大和言葉で、しかも時には定型詩で、翻訳したことの弊害が無いはずがない。
大和言葉になった象徴詩は、もはや本来の「象徴性」を喪失し、抒情詩に変型されているのではないか。
はっきり言おう。『海潮音』は、高踏的であることを目指していながら、結果的に「俗に流れる」点がある。(・・・)極論すれば、上田敏の翻訳詩は、日本人が本物の「象徴詩」を書く障害となったのではないか。
上田敏の訳詩が日本の詩に決定的な影響を与えたことは知られているが、あそこにある西洋は本当に西洋だったろうか。「山のあなたの空とおく」など西洋の詩としてはつまらぬものだ。日本人のほのぼのとしたセンチメンタルなエキゾチズムにそれはぴったりだったので、たちまち人口に膾炙し、津々浦々にカルル・ブッセの名前は行きわたった。ドイツ人でこの名前を知る人は少ない。
ヴェルレーヌの「秋の日の ヴィオロンの」なども、あまりに日本人好みだし、日本語となりすぎた。すべて外国文学が大衆に浸透するには、しかしそれほどの消化と変容を経なければならないのだ。しかし上田敏のあまりにも日本化され、あまりにもなめらかな翻訳のため、日本の詩人は西洋詩の骨格、思想や表現法を学ぶのに大まわりをしなければならなかったのだ。
我はユダヤ人なりと静かに夫人言ひたれば図らず心ゆらぎたり 『真実』
先の事は考へられぬといふ言葉今日はきくアメリカ士官の美しき妻に
たとえば、北白川小倉町周辺は日本土地商事株式会社が大正15年に分譲を開始した宅地で、京大人文科学研究所に隣接し、大学教職員が多数住まいを構えたことで知られる。
汚れたる服にためらひ立ちたればグッドイーヴニングと言ひて来るサンドール夫妻 『真実』
ボタン取れ胸汚れたる子を恥ぢて立止まるああサンドール夫人が来る
憂持つサンドール夫人の顔自動車の窓に見しより暫しの空想
そのほかの集積している地区としては、北白川小倉町(9戸)、下鴨地区(13戸)が挙げられる。また、東山区の今熊野北日吉町(10戸)や山科安珠(6戸)にも集中している。いずれも大正期から昭和初期にかけて土地会社や土地区画整理組合施行によって開発された分譲住宅地である。
▼国会では特定秘密保護法案が強行採決されようとしている。これはある意味では戦後最大の脅威を持つ法案と言うべきであろうが、それがほとんど議論されないままに、数を頼んだ一点突破方式で決まろうとしていることに、芯から寒気を覚える。(…)こういう問題を直接本誌で言ってきたことはないが、これは政治の問題である以上に表現に携わる者の死活問題なのである。
今日いよいよ理窟の通らぬ理窟を押し通そうとする傾向が露骨になって来た情勢の中で、啄木祭がおこなわれ、正しいものへの感覚をいかなる歌人にも先だって目覚ませて行った啄木をしのぶことは、まことに意義ふかいことを信じ、主催者ならびに参会者各位に敬意を表します。
私たち歌を作る人間が、昔ながらの消極性に安んじていることは、特に今のような情勢の中では許されないことと考えられます。たとえ私たちの力が微かなものであるとしても、黙っていることは敗北主義に通じるものであることを考え、心ある人々と力を合わせて、真実なるものを見きわめ、私自身で私たちの生活の危険を防ぐことを考え合い、ひいては世界平和に貢献する努力を重ねて行きたいものと思います。
今、啄木祭に集られた皆さまに、この気持をまごころを以てお伝えすると共に、真実の歌声をかかげて進まれる皆さまに、重ねて敬意と親愛の念を披歴するものであります。
手の届く限りはアララギ一冊にて「雪裡紅(しゆりほん)」の文におのづから
寄る 高安国世『真実』
今年は幸に寒気がゆるやかであるが、私の小さい菜圃はもう二月も雪が消えない。私は温い日がつづくと雪の上に緑の葉さきをのぞかせる雪裡紅を見にゆく。雪裡紅は次の雪が来れば又雪の下になつて行く。
短歌や俳句の様な古典が今に生きてゐる事は誰にも遠慮する必要のない事だ。それどころか貧しい日本の文化の中では自ら安んじてさへよい事であらう。
(…)島国の百姓の様なしみつたれた批評家と称する者が、彼等の芸術学とかにも文芸学とか言ふものにも当てはまらない短歌や俳句を抜き去らうとかかつて来るならば先づ彼等を排撃するのは我々の当面の責任だ。
・クライスト『ペンテジレーア』吹田順助訳
・クライスト『ミヒャエル・コールハースの運命』吉田次郎訳
・クライスト『こわれがめ』手塚富雄訳
・ブレンターノ『ゴッケル物語』伊東勉訳
・フォンターネ『罪なき罪 上下』加藤一郎訳
・マルティン・ルター『マリヤの讃歌 他一篇』石原謙、吉村善夫訳
・ランケ『政治問答 他一篇』相原信作訳
・ランケ『世界史概観』鈴木成高、相原信作訳
○終日雨ニテ籠居。ギリシヤ精神ノ様相、リルケノロダン、セキスピアトドイツ(グンドルフ)等ヲ読ム
帰朝後実生活上の種々の事情のために、長らく放置してゐたのであつたが、「つゆじも」を編輯したから、ついでにこの「遠遊」もいそいで編輯したのであつた。
・『つゆじも』 「長崎詠草」といふ手帳は昭和十五年夏に箱根強羅に籠居して整理されたもので、歌集の原稿はこの手帳から昭和十六年夏に浄書されたのである。
・『遠遊』 昭和十六年夏に編輯を終へた。
・『遍歴』 昭和十六年夏に編輯を終へた。
温泉岳療養中ノ歌(昨年夏整理)ヲ清書ス(8月11日)
長崎ノ歌清書、大正七、八年終ル、十年ニ入ル(8月12日)
大正十年長崎ヲ去ルヨリ清書、大正十年終ル(8月13日)
○午前四時四十分出発、箱根ニムカフ。荷物重キタメニ自動車途中ニテパンクセリ。八時半強羅ニ着。
夜ハ左千夫小説、「隣ノ嫁」ヲ読ミハジム(7月3日)
「野菊ノ墓」ヨリ解説ハジム(7月5日)
「真面目ナ妻」解説、「去年」解説ヲシテ日ガ暮レタ(7月8日)
「分家」後篇ヲ読ム(7月10日)
維也納到着ヨリ帳面ノ未完成歌ヲ整理シハジム(7月11日)
ドナウ下航、トブダペストノ雑歌ヲ少シク整理ス(7月15日)
帳面維也納大正十二年度。ソノ一部ヲ除イテ大体スンダ(7月19日)
本訳書の出るに当つては恩師成瀬無極先生並びに斎藤茂吉先生にいろいろお世話に与かり、また土屋文明先生からお励ましを頂いた。
拝啓先般は失礼○ロダンいよゝゝ発行大に慶賀申上候一本御恵送大謝奉り候、原本も書架にありしゆゑ、照応して拝読楽しみにいた(ママ)申上候○御母上様の歌集もこの新秋には出来申すべく、頓首
(…)それから箱根行きの予定をいって、「今月末には行ってしまおう。また都合で出て来てもいい。むこうにいれば、半日寝ても半日は勉強できるし、それに朝が早いから半日プラス朝だ。左千夫の小説はどうしても読んでしまわなくては」などと言われた。
先生は書棚から高安国世氏訳の『ロダン』(岩波文庫)とその原書とをとって、「原文も出て来た。帰るちょっとまえに買ってカバンにおしこんであったんだ。原文と対照して読んでこようと思っている」と、挿図を一枚一枚見ながら「ここまで来るのに(バルザック像)、ずいぶんかかった。まえはすべすべしたのを作っていたのが変化してこうなったんだ。毛唐はおもしろいよ。なんか常識的なことを言っていながら、ひょっと常識をはずしている」と言われた。
この家は道修町四丁目の丼池の角から二軒目でお隣が風呂屋(銭湯)であったので朝ぶろに来た人が早くから顔を洗い歯をみがくらしくがーがー言う声、かたんかたんと木の桶を置く音が大きく反響して聞えてくるのであった。
「敗戦」と題する一連の第一首。歌集の巻頭歌でもある。敗戦の事実は上句に出てはいるが、心してその事実をしっかりと押えて味わわないと、もの足りない歌になる。具体的な「もの」が足りないのである。結句の弱いのも気になる。(…)
「遠き夕映」と簡単に言ってしまったのが不満で、欲を言えばここはもうすこし言葉をタメて、腰つよく歌いたいところである。(…)
「秋のしろがね」は断定が露骨にすぎて私は好まないが、景さわやかに、語また徹って、気持よく晴々とした一首である。意志して様式的な歌い方をしている。(…)
井上さんは大学卒業後、産経新聞社にカメラマンとして入り、司馬さん発案の企画「美の脇役」につける写真を担当。見過ごされがちな細部を紹介する狙いで、四天王像に踏まれる邪鬼や黒書院のふすまの引き手などに宿る美を引き出した。
ここに見る画面は、だから城という実用的価値をはなれて、もっぱら直線と円との組み合わせから、かもされる一種の美を追究したものと見なければならない。そして無数の小さなびょうと似かよいながら、突然変異のように見事に成熟したこの一個の乳房に眼はすいつけられてしまう。
さて紫丸が大阪から入港し乗込むころ陸続として不参加者の見送り群来る。
君の住む町の夜明けへ十二時間かけてフェリーで運ばれて行く 『駅へ』
穏やかな夜の瀬戸内海を行く灯ともる所は人が住むなり
海上を進むフェリーの浴室の湯船に深く身体は揺れる
極言すれば、近藤の文学作品に、高安からの文学的影響は皆無なのです。高安には残酷ですが、こと文学面においては、高安が近藤を思っているほどには、近藤は高安を思っていない、という感じがします。
誠実の声―それは当時の文学全体にみなぎる基本的な要素であったろう。私の歌も、歌の巧拙よりも重大な、なくてならぬものとして誠実を追求していた。
(高度成長経済の時代に入るとともに)何がまちがっていて何が望ましいことかを、ただ誠実だけでもって弁別しうたい上げることがむつかしくなる。
短歌も一面的な真実を誠実の声でもってうたっているわけにはいかなくなった。今私たちが感じ取るものは、そう簡単に一義的に解することができず、それを表現するには言葉のいろんな機能を十全に活用しなければならないのである。
第一日(五月六日)
神戸→船中 高安国世
船客待合室の前は、午後の波の照り返しと、積荷を下す綿ぼこりが、いらいら躍つて、船出の前の一ときを落付かぬ顔の人々が、一見ぼんやりとそここゝに位置してゐる。
黒々と寄り合つてゐる二十人許りは、之ぞまもなく展開さるべき全八幕の立役者共に他ならぬ。三時には殆ど顔ぶれが揃つた。高間主任の代理をつとめ、我々の若き指導演出家となられる西田教授の姿は夙くに見られた。皆これから何がはじまらうとしてゐるのか一寸もゲせない面持で茫然と顔を並べてゐる。手ぶらの呑気なのも居れば、吾輩のやうに九州は寒かろと、まるで北国へ行くやうな代物を仕込んでゐる奴もなくもない。
(以下略)
私は半生を通じて歌会をたのしんできた。たのしみといってもただの娯楽でも休養でもなく、心の通い合う人々との真剣勝負の場としてである。忌憚ない批評をし合って、そのあとなごやかに話し合うという人生で稀な幸福を、私は先生を中心とする歌会で学び、今では私を中心とするささやかな歌会で味わっている。