2021年12月24日

評論「高安国世と万葉集」

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高岡市万葉歴史館論集20『万葉を楽しむ』(笠間書院)に、「高安国世と万葉集」という評論を書きました。

http://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305002501/

2019年に同館で講演した内容をもとに文章化したものです。

坂本信幸さん(高岡市万葉歴史館館長)、影山尚之さん(武庫川女子大学教授)はじめ万葉集の専門家の方々ばかりの執筆者の中に、なぜか私も加えていただいてます。

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2021年09月13日

ミュゾットの館

花房葉子『野のごちそう帖』のあとがきに、こんなことが書いてある。

リルケが晩年を過ごしたフランスの山の中にある小さな「ミュゾットの館」という所は、旅行者も訪れないような、これといってなにもない所らしい。そんなところで詩人は「純粋時間」の中にとじこもり大作「ドゥイノの悲歌」を仕上げたという。どんな所だったのか、見てみたい気がする。ひょっとしたら、イカウシみたいな所ではないか、と思えるのだ。

1921年、リルケが晩年の46歳(リルケは51歳で亡くなる)から住んだスイスのミュゾットの館。ここは、1979年に高安国世が訪れている。当時、高安は65歳。

茶畑の如く正しく条なして葡萄畑ミュゾットの館に続く
ロイクを過ぎラロンを過ぎてシエールに着きぬ 現(うつつ)に君在るごとく
ミュゾットに今し近づく 年古りしポプラすさまじき昇天のごと
さびしさに耐えたる人の小さき窓 五十年後の陽がさし入りぬ
           高安国世『湖に架かる橋』

「ロイクを過ぎラロンを過ぎて」「君在るごとく」「今し近づく」といった言葉に、抑えきれない喜びが溢れている。

ミュゾットの館は、高安が長年訪れたいと憧れていた場所であった。1957年に高安は西ドイツに留学するが、その時には残念ながら機会がなかった。

ドゥイノやミュゾットは、いまだにぼくの空想の土地である。せっかくヨーロッパに行き、九ヵ月も滞在しながら、とうとうこういう土地を自分の目で確かめなかったことは、ひそかな悔いとなってぼくの心の中に残るだろう。どちらもドイツからは不便なところにあり、時間と金がかかる上に、言葉も不自由な地方にある。そのうちそのうちと思うあいだに機会を逸してしまったのはぼくの怠惰のせいというほかはない。
      「遺跡探訪」(1959.3)『わがリルケ』

それから20年以上を経て、ようやく高安は念願のミュゾットの館を訪れたのであった。

もう一か所の、イタリアのドゥイノも1983年に高安は訪れている。その旅から帰国して間もなく体調の不良を訴え、入院・手術。翌年に亡くなるのである。最後までヨーロッパへの憧れを持ち続けた人だったと言っていいだろう。

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2020年12月11日

『Ruf der Regenpfeifer』(千鳥の呼び声)

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1961年に西ドイツのベヒトレ書房から刊行された高安国世編・訳の日本詩歌のアンソロジー。内容の概略については知っていたけれど、現物を目にするのは初めて。表紙が鈴木春信とは!


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中身は当り前だけど全部ドイツ語。
この見開きには、長塚節、石川啄木、若山牧水の短歌が載っている。

啄木の1首目「Ich arbeite und arbeite.」、おお!「はたらけどはたらけど」か!

この本に関しては、ドイツ文学者野村修の詳細な論文「高安国世編・訳の日本詞華集≫Ruf der Regenpfeifer≪について」がある。ネットで読めるのが有難い。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/185012/1/dbk03200_%5B001%5D.pdf

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/185017/1/dbk03300_%5B001%5D.pdf


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2020年10月01日

近藤芳美と「高安国世の死」

1982年から84年の作品を収めた近藤芳美の第14歌集『祈念に』に、こんな一連がある。

  夏のくるめき
杖つきて今日の死を知る街の歩みひかり照り返す夏のくるめきに
声呑みて知りたる死あり吾は行かず暑き葬りの街に過ぐるころ
死は思わねば衰えて山荘に行きにけむひとりの終り君もひそけく
この詩型ついに「詩」とする生涯を少年にして君と分けにしを
寂寥を語るなかりし晩年に逢いに来よというつたえ或るとき

「君」としか書かれていないが、高安国世の死を詠んだものである。高安は1984年7月30日に70歳で亡くなった。近藤と高安は同じ1913(大正2)年生まれ。3首目の「山荘」は長野にあった高安の山荘のことだ。

この一連を読むと、近藤は高安の葬儀には行かなかったらしい。その理由の一つとして近藤の母のことがあったのだろう。この一連の直後に母の死を詠んだ作品が並んでいる。年譜によれば近藤の母の死は、この年の8月であった。

近藤が高安の墓を訪れたのは1984年の年末のことであった。同じく『祈念に』にその時の作品が載っている。

  冬の墓
和子さん寂しき人となりて連るるしぐれの雲の切れて日の寒く
冬雲の切れてひかりの耀うをつねに来る墓の道に君迷う
悲しみの過ぎてしずけき君の歩み先立ちたまう冬の墓原
墓のことばかりを告ぐる佇みに落葉乏しく朝を降りし雨
細く彫る文字新しき墓のめぐり花に埋めてゆく白き薔薇など
白き薔薇白き百合もて墓を埋めむ枯れはつるもの音にかすかに
ドゥイノの城ともに覓(と)めゆける終りの旅いいて回想のつぎほもあらず

1首目の「和子さん」は高安の妻。7首目は1983年に高安がイタリアなどを旅行して、リルケゆかりのドゥイノを訪れたことを指している。墓参りに「白き薔薇白き百合」を供えるのが珍しく、近藤らしさの表れかもしれない。

『高安国世全歌集』の栞に、近藤はこの日のことを記している。

昨年の暮、京都に久々の旅をし、高安君の新しい墓を訪れた。そうして、そのあと、しばらく加茂川の堤に添って歩いた。暗く雪雲が垂れていた。歩みながら、わたしの京都への追憶がすべて高安君との長い交友と共にあるのを思った。たちまちに過ぎてしまったものを追う寂しさを、生き残ったものとして知らなければならぬ。

美しい文章だと思う。

高安の墓がある来光寺は、北大路通より北側にある。京都の「鴨川」は、一般的に高野川との合流地点より北では「賀茂川」または「加茂川」と表記する。ここでもおそらくその意味で使われている。

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2020年09月30日

近藤芳美と高安国世

近藤芳美の歌集を読んでいると、高安国世に関する歌もちらほら出てくる。

気弱くして同じ時代に苦しめば高安君の歌にいらだつ
                   『静かなる意志』
追ひつめらるる思ひ語りしあくる朝訳詩にむかふ君がひととき
                   『歴史』
今の日に無知を羨しとただひとり高安君の葉書吾にあり
                   『歴史』
吾がためにリルケを読めり沈黙より意外にはげしき君の
ドイツ語               『歴史』
ドイツ語の夜学終へたる部屋くらく貧しき青年に君交り居き
                   『冬の銀河』
ミュンヘンに発ち行く友よ土解けし木の間の夜道送り歩みつ
                   『喚声』

名前ではなく「君」「友」と書かれているものも多いが、近藤芳美『歌い来しかた』に歌の背景が記されている。

その高安が突然に上京し、わたしに逢うために来た。四八年の秋だったのか。京橋の職場に来たのを咄嗟にはわからなかった。上京が一つの決意であったと彼は告げた。京都にいて戦災を知らず、戦後の東京の動きを心の焦燥としてその日まで見守っていた。初めて逢い、互いに若者のように語り合った。

戦後の一時期、ふたりの交流は盛んであった。

他にも、大辻隆弘『子規から相良宏まで』に収められている講演「高安国世から見た近藤芳美」では、両者の交流が詳細な年譜とともに語られている。興味のある方は必読です。

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2019年09月07日

高岡万葉セミナー

高岡を訪れるのは25年ぶりくらい。
北陸新幹線の開通に伴って、在来線の高岡駅は「あいの風とやま鉄道」の駅となり、駅舎や駅前広場がきれいに整備されていた。

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朝9:00にホテルを出て、越中国の国守館跡があった高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所庁舎)、越中国府があったとされる勝興寺、越中国の一宮である気多神社、大伴家持を祀る大伴神社を案内していただく。

その後、高岡市万葉歴史館へ行き、館内の展示を見せていただいた後、10:30から講演「高安国世と万葉集」を行った。

午後は影山尚之先生の講演と、岡本三千代さんと万葉うたがたり会によるコンサート。どちらも充実した内容で楽しかった。

帰りは新高岡駅から新幹線に乗る。新高岡駅の周辺はまだまだ発展途上という感じ。

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2019年09月04日

高安国世著 『万葉のうた』


副題は「秀歌鑑賞」。

1963年に創元社から刊行された『万葉の歌をたずねて』を改題改装したもので、内容は同じ。ただし巻頭の写真2枚は別のものになり、「改題改装にあたって」という文章6行が追加されている。

万葉集から190首の歌を引いて鑑賞しているのだが、楽しみながら書いている感じがよく伝わってくる。ところどころ高安さんの個性が出ているところが特に面白い。

    人麿歌集
  うち日(ひ)さす宮道(みやぢ)を人は満ち行けど吾が思ふ君は
  ただ一人のみ             (巻十一 二三八二)
 ウチヒサスは枕詞。「都大路に人は満ち満ち歩いて行くが、私の思う人はただ一人だけ」という、これも人情の普遍的な表現になっています。こういうのは、真理を含んだ格言やことわざにも近く、何もない人には何でもなく、しかし一旦そうした立場に立った人の心には、わがことのように真実なものとして蘇って来る種類の歌でしょう。この歌はやはり女性の口吻と見られますが、男にだってこういう気持になることはあるでしょう。

淡々と書いているようでありながら、実はけっこう熱の入った文章だ。いかにも自分も「そういう立場に立った人」であると言わんばかり。最後の「男にだって」はまるで「私にだって」と言っているかのようにも思われる。

高安国世、この時50歳。一体、何があったんだ、国ちゃん・・・

1972年1月20日、創元社、350円。

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2019年08月17日

選に落ちた歌

高安国世の代表歌とも言うべき一首、

 かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は真実を生きたかりけり
                      『Vorfruhling』

は、実は「アララギ」の選歌に落ちた歌であった。
『詩と真実』の中で高安は次のように書いている。

医科志望を変更して文科に入ろうというころの嘆きをうたった一連の最初の歌である。(・・・)アララギに投稿して発表されたときにはこの歌は選にもれていた。選者の意図はどうだったのか聞いたことがないが、のちに歌集にまとめるときには勝手にこれを巻頭に置くことにした。

本人にとっては文学的出発点として欠くことのできない歌であり、自信もある歌だったのだろう。この一首を歌集に収めたことは、結果的に非常に大きな意味を持つ判断であったと思う。

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2018年02月03日

ギャルリー志門


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(クリックすると拡大します)

2月12日(月)〜2月17日(土)、銀座のギャルリー志門で
「高安国世(短歌)・高安醇(絵画)父と子作品展」が開催されます。
東京周辺の皆さん、ぜひご覧になって下さい。

高安醇さんは高安国世の三男。拙著『高安国世の手紙』の中でも、
「21 三男醇と聴覚障害」「36 画家高安醇」でご紹介しています。


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2017年11月09日

「メモワール」第三号


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京都学生映画連盟発行の「メモワール」という雑誌を手に入れた。
昭和26年7月1日発行の第三号。

ここに高安国世の「映画「白痴」を見て」という文章が4ページにわたって掲載されている。「白痴」はこの年公開された黒澤明監督作品。原作:ドストエフスキー。出演:森雅之、原節子、久我美子、三船敏郎。


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映画の感想のなかに、ロシア文学が日本に与えた影響の話が出てくる。

(・・・)僕は日本のインテリの教養の中に占めるロシヤ文学の位置などということを思わされたのであつた。例えば歌人近藤芳美。彼は僕ら以前のインテリとはちがつて、甚だ日本的でない。それかといつて彼の茫々としてうすよごれた風彩(ママ)は決してフランス的でもドイツ的でもない――つまりヨーロッパ的ではない。僕はやはりロシヤ的な、そしてドストエフスキイの作品の中に想像出来るものではないかと思う。

高安がどのような目で近藤を見ていたかが伝わってくる、なかなか面白い評だと思う。

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2017年10月29日

「高安国世・高安醇 父と子作品集」出版記念展


先週、京都のギャラリー白川で、「高安国世(短歌)・高安醇(絵画)父と子作品集」出版記念展を見てきた。高安醇の絵画15点に高安国世の短歌がそれぞれ1〜4首添えられて展示されている。

絵を見て歌を詠んだ場合、どうしても絵と歌が近すぎたり、歌が絵の説明に終わってしまったりすることが多いのだが、今回の企画はもともと別に作られた二人の絵と歌を取り合わせて構成されている。だから、絵と歌の距離感が絶妙で、互いをうまく引き立て合っているように感じた。


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作品集は1冊1500円。
展覧会の会期は11月5日まで。

昨年、同じギャラリー白川で「高安醇新作展 色彩の中のイタリー」でを見た時に、かつては完全な抽象画であった絵にかなり現実の風景が入り込んできていることに驚いたのだが、今回の企画にもそうした変化が反映しているようだ。

ギャラリーの池田真知子さんは作品集の初めに次のように書いている。

醇の作風が2015年頃から変わり始めた。それまで「光」や「風」のような形の無い物をテーマに色面構成の強い抽象画を多く描いてきた彼が、身近な自然や風景を独特な色彩感覚で柔らかく描き始めたのだ。その絵を描く眼差しに、父である国世の晩年の短歌と通じるものを感じた私は、短歌と絵とジャンルは違うけれど、父と子二人の芸術家の作品を本にして広く知ってもらいたいと思うようになった。

高安醇さんは今年で73歳。
芸術や表現というものは、何歳になっても終わりがないのだということを強く思った。

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2016年09月27日

「フロンティア」17号

ネットの古本屋やオークションを定期的に巡回して、高安国世に関する新しい資料が見つかれば買うことにしている。

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今回入手したのは、「フロンティア」17号。
北海道電力株式会社総務部発行の小冊子で、全66ページ。
昭和47年8月10日発行。

ここに、高安国世が「思い出の道東」という3ページの文章を書いている。これまで、多分どこにも紹介されていないものだ。

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「たしか十一年前のこと、私は北海道を訪れた」という冒頭の一文からわかるように、昭和36年の北海道旅行のことを書いた文章である。

内容は『カスタニエンの木陰』に収められている「北海道の旅から」(初出「塔」昭和36年10月号)と似ていてる。それでも、これまで知らなかった小さな発見のある貴重な文章であった。

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2016年08月04日

明治時代の「心の花」

「心の花」明治44年6月号の広告に、佐々木信綱「和歌入門」、片山廣子「郊外より」などと並んで、高安安子「首都の印象」とある。高安国世の母だ。

同じく9月号の広告には、石榑千亦「見張人」、木下利玄「清見潟より」、佐佐木信綱「夏の一日」などと並んで、高安月郊「波紋」とある。高安国世の伯父だ。

意外なところで知っている名前に出会うのは楽しい。

*この記事、書き方が良くなかったですね。
 「創作」に載っている「心の花」の広告ということです。

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2016年07月12日

榎南謙一のこと

プロレタリア詩人榎南謙一の作品が青空文庫に入っているのを見つけた。昨年末に新たに加わったらしい。「天瓜粉」「農村から」「無念女工」「夜雲の下」の4作品が入っている。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1630.html

以前はネットで「榎南謙一」を検索してもほとんどヒットしなかったのだが、近年のプロレタリア文学の再評価などもあって、青空文庫で作品が読めるようになったのだろう。

榎南謙一は若き日の高安国世に大きな影響を与えた人物である。その詳細については『高安国世の手紙』に書いた。本にも書いたように、名前は「かなんけんいち」で、高安と同じ1913年生まれで、1944年に亡くなっている。

青空文庫の名前に「えなみけんいち」、没年が1945年とあるのは誤り。ただし、これは青空文庫への入力に際して底本とされた『日本プロレタリア文学全集・39 プロレタリア詩集2』の記載が間違っているので、止むを得ないことだ。

榎南謙一については、岡山県労働組合総評議会編『岡山県社会運動史9 星霜の賦』(1978年)が詳しい。15ページにわたって榎南の生涯と作品のことが記されている。

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2016年05月24日

高安国世三都物語ツアー(京都編)

高安は第三高等学校教授となった昭和17年に、当時「学者村」と呼ばれた京都市左京区北白川に転居し、終生そこに暮らした。

今回のツアーのコースは次の通り。

@ 叡電茶山駅【集合】
A 銀月アパートメント
B 駒井家住宅(昭和2年、ヴォーリズ建築)
C 高安国世邸
D 東アジア人文情報学研究センター(昭和5年)
E 京都大学百周年時計台記念館歴史展示室
F 京都大学吉田南4号館(旧・E号館)
G カフェテリア・ルネ【昼食】
H バス停「京大正門前」→バス停「船岡山」
I 来光寺、高安国世のお墓【解散】


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東アジア人文情報学研究センター。
外壁に日時計があるのがオシャレである。


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京都から滋賀に抜ける「志賀越え道」にある子安観音。


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同じく大日如来。
地元の方々に大切にされているようだ。


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京都大学の時計台。
改修されて一階には歴史展示室が設けられている。


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京都大学旧E号館そばの吉田寮。
築100年を経た木造の学生寮である。
庭にはにわとりが飼われていて、しきりに啼いていた。

 私の研究室は京都大学教養部構内の最南端の建物にあって、南に知恩院、将軍塚あたりの丘を望み、やや右はるかには京都の市街の大部分が見渡され、駅近くの京都タワーも白いろうそくのように見えている。晴れた日、曇った日、雨の日、それぞれに趣がある。
 もともと高い所から町を見るのが好きな私は、この研究室があてがわれて大変感謝している。近くの吉田から聖護院にかけての町なみは古いカワラ屋根を敷きつめたように見え、二方を山にかこまれ、平和な日だまりのように見える。だが、おいおい四角い近代風の建築が調和を破るようになり、こういう平和が続くのもいつまでかというかすかな不安が、心をかすめることも多くなってきたこのごろである。
   高安国世「四階の窓」(「毎日新聞」昭和43年1月28日)

これで全3回のツアーも無事に終了。
参加して下さった皆さん、ありがとうございました。

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2016年05月14日

船場の小学校

昨日の朝日新聞(大阪本社版)夕刊に、船場で唯一の小学校である大阪市立開平小学校の児童数が増えているという話が載っていた。

開平小は1990年春、明治時代からの歴史を積み重ねてきた愛日(あいじつ)小と集英小が統合されて開校した。背景には児童数の減少があり、開校時にいた117人の児童も98年度には77人までに減った。

それがマンションの建設などによって2011年度から増加傾向となり、今年度は176人まで増えているのだそうだ。

1990年に統合された愛日小学校は、高安国世の通った学校である。先日、その跡を見てきたばかり。

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船場も時代とともにどんどん移り変わっている。

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2016年04月27日

高安国世三都物語ツアー(芦屋編)

昨日は10:00に阪神芦屋駅に集合して、高安国世ツアーの2回目。
参加者は14名。

@ 阪神芦屋駅【集合】
A 高安家別荘跡
B 芦屋川河口
C バス停「シーサイド西口」〜バス停「苦楽園」
D 恵ヶ池、苦楽園ホテル跡
E 苦楽園市民館【昼食】
F 堀江オルゴール博物館
G 下村海南邸跡
H バス停「苦楽園五番町」【解散】

という行程である。
途中30分ほどのバスでの移動を挟んで、歩行距離は約5キロ。

高安は幼少期と青年期を、この芦屋や苦楽園で過ごしており、阪神間モダニズムと呼ばれる文化の中で育ったのである。

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芦屋の海岸線は現在は埋め立てられて海が遠くなっているが、かつて高安家の別荘は海まで歩いてすぐの距離であった。芦屋川の河口付近は、かろうじて海の名残を感じさせてくれる場所である。

芦屋川口の両側の石垣は前からあった。幼い私たちは、たしかあれを砲台と呼んでいたようだ。墻壁の一番上のコンクリートの上は太陽に暖まって、水から上がって冷えた裸体を横たえるには持ってこいだった。砕ける波の音を直下に聞きながら、目をはるかに空や沖に遊ばせると、かぎりなく大きな大きなものが幼い胸の中にいっぱいにひろがるのだった。
              高安国世「芦屋の浜と楠」

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堀江オルゴール館は苦楽園の中でも特に高いところに位置していて、急な坂道を登ってようやくたどり着く。かつて中山太一(中山太陽堂創業者)の太陽閣があった場所である。

1993年開館のオルゴール専門の博物館で300台以上のアンティークオルゴールの展示と演奏を行っている。建物の3階に上がると、大阪湾が一望でき、あべのハルカスや大阪府咲洲庁舎(コスモタワー)も見える。

係員の方の説明も丁寧で、シリンダーオルゴールやディスクオルゴールの歴史がよくわかった。4月28日〜5月15日には「春の庭園特別公開」も行われるそうだ。

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2016年03月25日

高安国世三都物語ツアー(大阪編) その4

高安が詠んだ道修町の歌を、もう少し引いてみよう。

おびえ幼く憎みし商業のみの街旅人われの今日のやすけさ
つね病みて荷馬車馬蹄のひびきしか我さえに同じ我にあらねば
荷馬飼う土間より二階にのぼりたる友の家夢のごと幼くありき
生薬(きぐすり)と屑藁匂う町なりき今ひややけきビルの街筋
                 『虚像の鳩』

昭和40年の作品。
高安病院と高安の生家は昭和20年の空襲で焼失した。

1首目「おびえ幼く憎みし商業のみの街」という部分に、小学生時代の高安の道修町に対する思いが述べられている。4首目「今ひややけきビルの街筋」には、久しぶりに訪れた町の変貌ぶりが表れている。幼少期の自分を懐かしく思い出しているのだろう。

小学校時代の高安は、どんな少年だったのか。同級生の砂弌郎氏が「小学校の国世さん」という文章を書いている。(「塔」昭和60年7月号 高安国世追悼号)

(・・・)顧みれば大正九年、大阪の愛日小学校への就学時から、高安さんは素晴しく上品な紳士で、組中の者から注目された方でした。ご尊母様は有名な閨秀歌人で吃驚する程美しく、兄上は六年生で児童長だつたと思ひます。(・・・)私は不思議に高安君とはよく話もし、お住居(西欧童話に出てくる様な蔦にくるまれた瀟洒な三階建でした)へも二三度遊びに行き、彼もよく私の家へ来られました。

この「西欧童話に出てくる様な蔦にくるまれた瀟洒な三階建」の高安家については、住宅総合研究財団編『明治・大正の邸宅 清水組作成彩色図の世界』に、設計図や外観図が残されている。

廊下と二つの建物の間には「内庭」があり、壁泉が設けられている。こうした壁泉は、大正末から昭和初期にかけて流行するスパニッシュ様式の住宅に盛んに採用されており、流行を先取りしたものとして注目される。

通りに面した間口の狭さもあって敷地はそれほど広くないが、何ともオシャレな建物である。高安はそんな家の三男三女の病弱な末息子として育ったのである。

言い遺すごとく語りて飽かぬ姉あわあわと聞くわが父祖のこと
かかわりを避けつつ生きて来しかとも大阪の町古き家柄
ようやくに余裕をもちて聞く我か祖父母父母その兄弟のこと
                   『新樹』

昭和49年の作品。
姉から家族の歴史を聞いている場面である。以前は「かかわりを避け」ていた道修町や生家のことを受け入れて、「ようやくに余裕をもちて」聞くことができるようになった高安。そこには、ドイツ文学者・歌人としての自信が滲んでいると言っていい。

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2016年03月24日

高安国世三都物語ツアー(大阪編) その3

高安国世の生地は大阪の道修町だが、幼少期は身体が弱く喘息だったこともあって、芦屋の別荘で過ごした。そのため、幼稚園には通っていない。

生家の近くには愛珠幼稚園という日本で二番目に古い歴史を持つ幼稚園があり、高安の姉たちはここに通った。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387139030.html

「病弱で幼稚園にも行かなかった私」(「芦屋の浜と楠」)という意識は、その後の高安の生き方に少なからぬ影響を与えている。

高安が大阪の家に住むようになったのは、愛日小学校に入学してからである。「回顧と出発」(『若き日のために』所収)という自伝には、次のように書かれている。

 小学校へ行くやうになると、私は急に郊外の家から町の中へ移された。薬問屋が軒並に並んでゐる道修町のこととて、木煉瓦の上を荷車がよく通つた、重たげに荷を積んで――。
 鈍い轍の音に混つて、カッチンカッチンと車軸のところの金具が鳴り、ひづめの音が過ぎて行つた。昼前の光のなかにルノアールかなんかの模写のかゝつてゐる明るい天井際をぼんやりと眺めながら私は寝床の中で、家全体がびりびりと微かに揺れるのを背中で感じた。さうして荷車がだんだん遠ざかつて、振動がかすかになつてゆくのをおぼえてゐる間に、私は無限のしづかさといつたやうなものの予感にふるへ、無為の愉しさがひそかに骨髄をとろかしはじめるのをおぼえた。

寝床の中で、通りを行き交う荷馬車の音や振動を聞いている場面である。「ルノアールかなんかの模写のかゝてゐる」というところに、ヨーロッパへの留学経験を持つ父のいる高安家の雰囲気が表れている。

道修町に対する高安の思いは複雑だ。そこには愛憎半ばするものがある。

道修町をはじめ大阪の船場という地域は、商人の町、実業の町である。小学校の同級生も快活な商人の子が多かった。その中にあって、高安は医者というインテリの子であり、病弱ということもあって、周りとは肌が合わなかったようだ。

四十過ぎて集う小学校の友らみな酔い行きてそれぞれに落付きを持つ
商人の言葉なめらかに言い交わす友らにも今は親しまんとす
理解されざることも気易しと今は思う三十年過ぎて相逢う友ら
             『砂の上の卓』

40歳を過ぎて小学校の同窓会に出席した時の歌である。「商人の言葉」を話す同級生に対して、高安は大学の助教授である。「今は親しまんとす」という言い方には、昔(小学生の頃)は親しめなかったけれど、というニュアンスが含まれているのだろう。

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2016年03月23日

高安国世三都物語ツアー(大阪編) その2


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田辺三菱製薬本社。
ここの2階に、昨年資料館がオープンした。1678年の創業以来の歴史が詳しく紹介されている。

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1688年に朝廷から授かった勅許の看板。初代田邊屋五兵衛の「たなべや薬」が評価されてのこと。

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高安病院跡。
道修町と丼池筋の交差する西北側で、現在は日本圧着端子製造株式会社となっている。道を挟んだ南側に高安の生家があった。

往時の高安病院については、大阪歴史博物館デジタルミュージアムで写真を見ることができる。http://wwwdb.mus-his.city.osaka.jp/html/882431222569/0013.html
病院と一緒に写っている「高安道成」は国世の父。

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高安国世の通った愛日(あいじつ)小学校跡。
1872年の創立と歴史が古く、1990年に統合により閉校となった。
現在は商業施設「淀屋橋odona」となっている。

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2016年03月22日

高安国世三都物語ツアー(大阪編) その1

今日は10:00に北浜駅に集合して、高安国世三都物語ツアーの第1回として、大阪の道修町を歩いた。

@ 北浜駅【集合】
A 少彦名神社(神農さん)
B くすりの道修町資料館
C 武田科学振興財団杏雨書屋
D 田辺三菱製薬史料館
E 高安病院跡・高安国世生家跡
F 「彩食館 門」【昼食】
G 愛日小学校跡記念碑
H 淀屋橋駅【解散】

という行程。歩行距離は約2キロ。

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薬の神様として有名な少彦名(すくなひこな)神社。

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くすりの道修町資料館。
江戸時代の薬種問屋に始まり、近代以降は製薬・薬品会社の町として発展した道修町の歴史をわかりやすく解説している。

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展示されている漢方薬の原料。
桂皮、大棗、芍薬など。

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武田科学振興財団杏雨書屋(きょううしょおく)。
武田薬品工業の資料館。この建物は昭和3年竣工のかつての本社ビルである。

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2016年02月12日

キハダ

高安国世についてはかなり詳しいと自負しているのだが、最近「高安国世ツアー」の準備をしていて、以前には気づかなかったことに気づくことが多い。

例えば次の歌。

遙かなる人の庭にも立つというキハダの高き梢を仰ぐ
               高安国世『一瞬の夏』

1976年の「短歌」10月号に発表された「夏山の雨」の中の1首である。長野県飯綱高原の山荘での日々を詠んでいるのだが、この「遥かなる人」というのは一体誰のことだろう。

おそらく土屋文明に違いない。文明は山中湖畔に別荘を持っており、そこはキハダ(黄檗)の木にちなんで「黄木荘」と名付けられていた。高安は長野の山荘に立つキハダを見て、遠くの文明のことを思ったのだ。

実際に、それから数年して、高安は文明の「黄木荘」を訪れている。そのことについては、以前このブログで書いた。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138896.html

何も知らなければ特にどうということのない歌だが、高安の黄木荘行きのきっかけになった1首かもしれない。そうした背景を踏まえて読むと、随分と味わいが増すように思う。当時63歳であった高安の、師・文明に対する変わらぬ思いが滲んでいるのである。

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2016年02月09日

高安国世と西洋文学

昨年11月号の「短歌往来」に島内景二さんが「翻訳詩の功罪・・・上田敏の『海潮音』」という文章を書いている。島内はカール・ブッセの「山のあなた」、ヴェルレーヌの「落葉」などを例に、

上田敏の『海潮音』は、西洋の象徴詩を、日本語の大和言葉に移し替えた金字塔である。その後の日本の詩人が、日本語で象徴詩を創作し得たのは、上田敏の『海潮音』が、コロンブスの卵だったからである。

と、まずはその功績を言う。続いて

だが、光あれば、必ず影ができる。西洋の象徴詩を、大和言葉で、しかも時には定型詩で、翻訳したことの弊害が無いはずがない。
大和言葉になった象徴詩は、もはや本来の「象徴性」を喪失し、抒情詩に変型されているのではないか。
はっきり言おう。『海潮音』は、高踏的であることを目指していながら、結果的に「俗に流れる」点がある。(・・・)極論すれば、上田敏の翻訳詩は、日本人が本物の「象徴詩」を書く障害となったのではないか。

と指摘するのである。
なるほど、そういう見方もあるのか、鋭い分析だなと感心した。

その後、たまたま高安国世の歌論集『詩と真実』(1976年)を読んでいたところ、高安も既に同じようなことを述べているのに気づいた。

上田敏の訳詩が日本の詩に決定的な影響を与えたことは知られているが、あそこにある西洋は本当に西洋だったろうか。「山のあなたの空とおく」など西洋の詩としてはつまらぬものだ。日本人のほのぼのとしたセンチメンタルなエキゾチズムにそれはぴったりだったので、たちまち人口に膾炙し、津々浦々にカルル・ブッセの名前は行きわたった。ドイツ人でこの名前を知る人は少ない。
ヴェルレーヌの「秋の日の ヴィオロンの」なども、あまりに日本人好みだし、日本語となりすぎた。すべて外国文学が大衆に浸透するには、しかしそれほどの消化と変容を経なければならないのだ。しかし上田敏のあまりにも日本化され、あまりにもなめらかな翻訳のため、日本の詩人は西洋詩の骨格、思想や表現法を学ぶのに大まわりをしなければならなかったのだ。

ここで高安が「大まわりをしなければならなかった」と述べていることは、島内が「障害となった」と指摘しているのと、同じ結論と言っていい。

ドイツ文学の翻訳をし、自作短歌のドイツ語訳もしていた高安であるから、西洋文学と日本の詩や短歌との関係について考える機会も多かったのだろう。

高安自身の中でドイツ文学と短歌がどのように結び付いていたのか、「ドイツ文学者・高安国世」と「歌人・高安国世」はどういう関係にあったのか、という部分は、まだ十分には論じられていない問題だと思う。

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2016年01月17日

高安国世 三都物語ツアー

高安国世ゆかりの地を訪ね歩くツアーをします。
ご興味のある方は、ぜひ。
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2015年12月26日

「高安国世、三都物語」ツアー(企画中)

来年の春に「高安国世、三都物語」と題して、高安国世ゆかりの地をめぐるツアーを3回にわたって行う予定です。

今のところ、下記のような内容を考えているのですが、他にも「ここがおすすめ!」といったご意見や要望などがありましたら、お知らせ下さい。

第1回 大阪編
 ・高安病院跡
 ・高安国世生家跡
 ・くすりの道修町資料館
 ・愛日小学校跡記念碑
 ・田辺三菱製薬史料館

第2回 芦屋編
 ・高安家別荘跡
 ・下村海南邸跡
 ・苦楽園ホテル跡
 ・恵ヶ池

第3回 京都編
 ・高安邸
 ・銀月アパート
 ・京都大学E号館(現・吉田南4号館)
 ・来光寺(お墓)

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2015年06月06日

占領軍による接収住宅(その3)

高安国世には「サンドール夫人」の名前を詠み込んだ歌が3首ある。また、

我はユダヤ人なりと静かに夫人言ひたれば図らず心ゆらぎたり 『真実』
先の事は考へられぬといふ言葉今日はきくアメリカ士官の美しき妻に

といった歌も、サンドール夫人を詠んだものと見ていいだろう。
さらに、第3歌集『年輪』の巻頭にある「光沁む雲」の一連にも、このサンドール夫人は関わっているのではないかと私は考えている。

サンドール夫人とは一体誰なのか?
高安とどのような関係であったのか?

以前、『高安国世の手紙』を書いた際にいろいろ調べたのだが、結局はっきりしたことはわからなかった。進駐軍の下級将校の妻でユダヤ人であるという手掛かりしかないのだ。

けれども今回、接収住宅の話を聴いて、サンドール夫人が北白川小倉町近辺の接収住宅に住んでいた可能性が高いことに気が付いた。それを新たな手掛かりとして、サンドール夫人の正体がつかめるかもしれない。

実際に、栗原邸を接収して住んだ軍人も、ジェームズ・アップルワイト中尉とその家族であったことが判明している。京都府立総合資料館には当時の資料が数多く残されているらしい。

一度、調べに行こう。

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2015年06月05日

占領軍による接収住宅(その2)

引き続き、玉田浩之氏の「占領軍による接収住宅と接収施設地図の建築史的分析」より。

たとえば、北白川小倉町周辺は日本土地商事株式会社が大正15年に分譲を開始した宅地で、京大人文科学研究所に隣接し、大学教職員が多数住まいを構えたことで知られる。

高安国世は昭和17年に第三高等学校の教授となり、兵庫県西宮市からこの京都市左京区北白川小倉町に転居した。その後、亡くなるまでこの地で過ごしている。

高安の家は占領軍による接収は受けていないが、この地域に接収住宅が多かったという事実は、高安の次のような作品を読み解く手掛かりになるだろう。

汚れたる服にためらひ立ちたればグッドイーヴニングと言ひて来るサンドール夫妻                         『真実』
ボタン取れ胸汚れたる子を恥ぢて立止まるああサンドール夫人が来る
憂持つサンドール夫人の顔自動車の窓に見しより暫しの空想

昭和23年の作品である。

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2015年06月04日

占領軍による接収住宅(その1)

栗原邸のギャラリートークで玉田浩之氏(大手前大学准教授)が占領軍による接収住宅の話をしたのは、この栗原邸が戦後に接収を受けたからである。接収に際しては浴室がタイル張りの洋式にされたほか、部屋の壁が黄色や水色のペンキで塗られるといった改修を受けた。

建物の保存・修復にあたっては、ペンキをカッターで剥がすなどして、戦後の改修部分をできるだけ建築当初の状態に戻すことも行われている。

当日配布された資料「占領軍による接収住宅と接収施設地図の建築史的分析」には、京都で接収住宅の多かった地域が記されている。

そのほかの集積している地区としては、北白川小倉町(9戸)、下鴨地区(13戸)が挙げられる。また、東山区の今熊野北日吉町(10戸)や山科安珠(6戸)にも集中している。いずれも大正期から昭和初期にかけて土地会社や土地区画整理組合施行によって開発された分譲住宅地である。

「北白川小倉町」と言えば、高安国世の家があった場所だ。


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2015年02月12日

1960年の高安国世(その3)

このメッセージが掲載された「新日本歌人」は、昭和21年に渡辺順三を中心に結成された新日本歌人協会の機関紙「人民短歌」が昭和24年に名前を改めたもので、現在も続いている。

新日本歌人協会のHPによれば「日本の近代短歌史のなかで石川啄木がひらき、土岐哀果(善麿)、渡辺順三らが発展させてきた「生活派短歌」の系譜を引き継いでいます」とのことで、毎年、啄木祭を開催しているようだ。

このところ、永田和宏さんが特定秘密保護法などに関してよく発言をしている。
例えば2013年12月号の編集後記には

▼国会では特定秘密保護法案が強行採決されようとしている。これはある意味では戦後最大の脅威を持つ法案と言うべきであろうが、それがほとんど議論されないままに、数を頼んだ一点突破方式で決まろうとしていることに、芯から寒気を覚える。(…)こういう問題を直接本誌で言ってきたことはないが、これは政治の問題である以上に表現に携わる者の死活問題なのである。

と書いている。

1960年の高安国世の文章を読んで思うのは、「塔」にはこうした政治的な側面がもともとかなり強くあったということだ。この永田さんの文章には「塔短歌会のメッセージ」と共通したものがある。

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2015年02月10日

1960年の高安国世(その2)

以下、「塔短歌会メッセージ」の全文を引く。

 今日いよいよ理窟の通らぬ理窟を押し通そうとする傾向が露骨になって来た情勢の中で、啄木祭がおこなわれ、正しいものへの感覚をいかなる歌人にも先だって目覚ませて行った啄木をしのぶことは、まことに意義ふかいことを信じ、主催者ならびに参会者各位に敬意を表します。

 私たち歌を作る人間が、昔ながらの消極性に安んじていることは、特に今のような情勢の中では許されないことと考えられます。たとえ私たちの力が微かなものであるとしても、黙っていることは敗北主義に通じるものであることを考え、心ある人々と力を合わせて、真実なるものを見きわめ、私自身で私たちの生活の危険を防ぐことを考え合い、ひいては世界平和に貢献する努力を重ねて行きたいものと思います。

 今、啄木祭に集られた皆さまに、この気持をまごころを以てお伝えすると共に、真実の歌声をかかげて進まれる皆さまに、重ねて敬意と親愛の念を披歴するものであります。

「理窟の通らぬ理窟を押し通そうとする傾向」「今のような情勢の中では許されない」「黙っていることは敗北主義に通じる」といった強い言葉がならんでいる。

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2015年02月09日

1960年の高安国世(その1)

高安国世は政治的なできごととは距離を置くことの多かった人であるが、60年安保の時には、かなり政治的な発言が見られる。

当時の「塔」は黒住嘉輝、清原日出夫らを中心に、かなり政治的な立場を鮮明にした集団であった。1960年2・3月号には清原の代表作ともなった「不戦祭」が掲載されるとともに、特集「生活と政治」が組まれ、その後も政治をめぐる作品や文章がしばしば誌面に掲載されている。

高安もまた例外ではなかった。『高安国世の手紙』の「六〇年安保とデモ」にも書いた通り、この時期、高安は「塔」の編集後記で安保条約改定反対の立場を述べたり、強行採決に対する憤りを記したりしている。

最近になって入手した資料に「新日本歌人」1960年7月号に掲載された「塔短歌会メッセージ」という文章がある。「昭和35年5月22日 塔短歌会代表 高安国世」の名前で発表されたものだ。

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2014年12月30日

雪裡紅

手の届く限りはアララギ一冊にて「雪裡紅(しゆりほん)」の文におのづから
寄る                高安国世『真実』

1947年の作品。「病間録」と題する一連に入っており、「三月末急性肺炎。妻の母も軽い脳溢血にて静臥。やがて三人の子供も次々にはしかを病む」との詞書が付いている。家中が病人ばかりという状況にあって、作者は病床に臥せりつつ「アララギ」に手を伸ばす。

「雪裡紅」は、中国北部で産出するアブラナ科アブラナ属の野菜。からし菜の仲間である。中国では春の訪れを告げる食材として重宝されているらしい。

高安の手にしている「アララギ」は昭和22年3月号。そこには高安の師である土屋文明の「雪裡紅」という文章が載っている。当時、文明が連載していた「日本紀行」の14回目である。

今年は幸に寒気がゆるやかであるが、私の小さい菜圃はもう二月も雪が消えない。私は温い日がつづくと雪の上に緑の葉さきをのぞかせる雪裡紅を見にゆく。雪裡紅は次の雪が来れば又雪の下になつて行く。

川戸で自給自足に近い生活を送っていた文明は、雪裡紅を育てていたのである。病床の高安は、雪裡紅の持つたくましい生命力に励まされたに違いない。けれども、「おのづから寄る」と詠んでいるのは、そのためだけではない。「雪裡紅」には当時盛んだった第二芸術論への反論が記されているのだ。

短歌や俳句の様な古典が今に生きてゐる事は誰にも遠慮する必要のない事だ。それどころか貧しい日本の文化の中では自ら安んじてさへよい事であらう。
(…)島国の百姓の様なしみつたれた批評家と称する者が、彼等の芸術学とかにも文芸学とか言ふものにも当てはまらない短歌や俳句を抜き去らうとかかつて来るならば先づ彼等を排撃するのは我々の当面の責任だ。

短歌に寄せるこうした文明の熱い思いが、戦後の苦しい時期の高安の心を強く引きつけていたのである。

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2014年12月16日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その6)

ちなみに昭和16年に刊行された岩波文庫には、『ロダン』『シェイクスピアと独逸精神 上下』以外に、以下のようなドイツ文学の作品がある。

・クライスト『ペンテジレーア』吹田順助訳
・クライスト『ミヒャエル・コールハースの運命』吉田次郎訳
・クライスト『こわれがめ』手塚富雄訳
・ブレンターノ『ゴッケル物語』伊東勉訳
・フォンターネ『罪なき罪 上下』加藤一郎訳

さらに、文学に限らずドイツ関係のものを探せば

・マルティン・ルター『マリヤの讃歌 他一篇』石原謙、吉村善夫訳
・ランケ『政治問答 他一篇』相原信作訳
・ランケ『世界史概観』鈴木成高、相原信作訳

といった本も挙げることができる。

こうしたドイツブームとも呼べる状況の中で、高安国世訳のリルケ『ロダン』も刊行されたのであった。(終わり)

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2014年12月15日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その5)

その後も、散文を書いたり、歌の清書をしたり、選歌をしたり、人と会ったりして、8月の後半も過ぎて行く。夏も終ってしまうというのに、一体いつになったら『ロダン』を読むのだろうか。

茂吉が箱根を去って東京に帰るのは、9月12日のこと。
その2日前の9月10日に、ようやく茂吉は『ロダン』を読んでいる。

○終日雨ニテ籠居。ギリシヤ精神ノ様相、リルケノロダン、セキスピアトドイツ(グンドルフ)等ヲ読ム

ありがとう茂吉!ついに読んでくれたね、という感じだ。
ここに挙げられている3冊は、いずれも岩波文庫の本である。

・ブチャー『ギリシア精神の様相』田中秀央、和辻哲郎、寿岳文章訳 昭和15年
・リルケ『ロダン』高安国世訳 昭和16年
・グンドルフ『シェイクスピアと独逸精神 上下』竹内敏雄訳 昭和16年

グンドルフはドイツの文学史家。
この頃、ドイツ文学関係の本の出版は非常に多い。

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2014年12月14日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その4)

斎藤茂吉の『遠遊』『遍歴』収録の歌の整理は、途中「アララギ」の選歌などを挟みつつ、最終的に8月9日まで続く。『遠遊』の後記には

帰朝後実生活上の種々の事情のために、長らく放置してゐたのであつたが、「つゆじも」を編輯したから、ついでにこの「遠遊」もいそいで編輯したのであつた。

と記されている。
その後記には「昭和十五年夏記」とあるのだが、これはどういうことだろう。日記を見ると『遠遊』の編集をしているのは昭和16年の夏である。『斎藤茂吉全集』によれば

・『つゆじも』 「長崎詠草」といふ手帳は昭和十五年夏に箱根強羅に籠居して整理されたもので、歌集の原稿はこの手帳から昭和十六年夏に浄書されたのである。
・『遠遊』 昭和十六年夏に編輯を終へた。
・『遍歴』 昭和十六年夏に編輯を終へた。

となっている。やはり『遠遊』『遍歴』の編集は昭和16年の夏のことで、「昭和十五年夏記」は何らかの誤りかもしれない。

『つゆじも』に収められる歌の清書は8月11日から始まっている。

温泉岳療養中ノ歌(昨年夏整理)ヲ清書ス(8月11日)
長崎ノ歌清書、大正七、八年終ル、十年ニ入ル(8月12日)
大正十年長崎ヲ去ルヨリ清書、大正十年終ル(8月13日)


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2014年12月13日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その3)

6月17日に「今月末には行ってしまおう」と言っていた茂吉であるが、実際に箱根強羅の山荘に行ったのは7月2日のことである。日記には

○午前四時四十分出発、箱根ニムカフ。荷物重キタメニ自動車途中ニテパンクセリ。八時半強羅ニ着。

とある。なかなか大変な道のりだったようだ。

夜ハ左千夫小説、「隣ノ嫁」ヲ読ミハジム(7月3日)
「野菊ノ墓」ヨリ解説ハジム(7月5日)
「真面目ナ妻」解説、「去年」解説ヲシテ日ガ暮レタ(7月8日)
「分家」後篇ヲ読ム(7月10日)

など、箱根に行く前から続いていた伊藤左千夫関連の仕事が続く。これは昭和17年に『伊藤左千夫』として出版されるものだ。その後、

維也納到着ヨリ帳面ノ未完成歌ヲ整理シハジム(7月11日)
ドナウ下航、トブダペストノ雑歌ヲ少シク整理ス(7月15日)
帳面維也納大正十二年度。ソノ一部ヲ除イテ大体スンダ(7月19日)

など、後に歌集『遠遊』『遍歴』に収められる歌の整理が続く。

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2014年12月12日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その2)

以前『高安国世の手紙』にも書いた通り、岩波文庫のリルケ『ロダン』は高安国世が初めて出版した本である。奥付は昭和16年6月10日。解説の最後の部分には

本訳書の出るに当つては恩師成瀬無極先生並びに斎藤茂吉先生にいろいろお世話に与かり、また土屋文明先生からお励ましを頂いた。

と書かれている。
刊行後、すぐに茂吉にも謹呈されたようで、『斎藤茂吉全集』には次のような葉書が収められている。日付は昭和16年6月15日。

拝啓先般は失礼○ロダンいよゝゝ発行大に慶賀申上候一本御恵送大謝奉り候、原本も書架にありしゆゑ、照応して拝読楽しみにいた(ママ)申上候○御母上様の歌集もこの新秋には出来申すべく、頓首

「御母上様」とあるのは高安の母、高安やす子のこと。やす子の第2歌集『樹下』が刊行されたのは昭和16年11月25日。アララギ叢書第95編として、茂吉が序文を書いている。

前回の『茂吉随聞』で見た通り、茂吉は高安国世訳『ロダン』を箱根の山荘に持って行って、そこで読もうと考えていた。その予定は実際にはどうなったのか見ていこう。

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2014年12月11日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その1)

佐藤佐太郎の『茂吉随聞』を読んでいると、昭和16年6月17日にこんな箇所があった。

(…)それから箱根行きの予定をいって、「今月末には行ってしまおう。また都合で出て来てもいい。むこうにいれば、半日寝ても半日は勉強できるし、それに朝が早いから半日プラス朝だ。左千夫の小説はどうしても読んでしまわなくては」などと言われた。
 先生は書棚から高安国世氏訳の『ロダン』(岩波文庫)とその原書とをとって、「原文も出て来た。帰るちょっとまえに買ってカバンにおしこんであったんだ。原文と対照して読んでこようと思っている」と、挿図を一枚一枚見ながら「ここまで来るのに(バルザック像)、ずいぶんかかった。まえはすべすべしたのを作っていたのが変化してこうなったんだ。毛唐はおもしろいよ。なんか常識的なことを言っていながら、ひょっと常識をはずしている」と言われた。

茂吉の言動がありありと伝わってくる。
「帰るちょっとまえに」は、ヨーロッパ留学から日本に帰る直前にということ。リルケ『ロダン』の原書を買っているのだから、茂吉はやはり一流の知識人である。

茂吉がヨーロッパで購入して日本へ送った医学書などは病院の火事で焼けてしまった。『ロダン』は「カバンにおしこんであった」ので、無事に持ち帰れたわけだ。

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2014年10月04日

道修町(その3)

一度、「高安国世・三都めぐり」みたいなツアーをしてみたい。
朝、芦屋に集合して

芦屋、苦楽園 高安が幼少期を過ごした別荘跡、友人の下村正夫宅跡、
           高校時代に住んだ苦楽園ホテル跡
大阪道修町  高安病院跡、生家跡
京都、北白川 京都大学、高安家

などを巡るツアー。
その場所に関係する歌や文章などを読みながら歩いたら、楽しいだろうと思う。

最後は高安さんのお墓かな。
あるいは琵琶湖大橋まで足を延ばしてもいいかもしれない。


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2014年10月03日

道修町(その2)

道修町には、薬や医療の神様を祭る少彦名(すくなひこな)神社(神農さん)があり、その社務所ビルの3階には「くすりの道修町資料館」がある。

資料館には、大正13年当時の道修町の様子を再現した模型がある。

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丼池(どぶいけ)筋の北西角に「高安病院」があるのがわかる。
高安病院があった場所は、現在では日本圧着端子製造株式会社のビルになっている。

ちなみに居宅の方は、道を挟んだ南側の銭湯(芦の湯)の西隣にあった。
高安国世の兄、高安正夫の『過ぎ去りし日々』の中に、次のように書かれている。

この家は道修町四丁目の丼池の角から二軒目でお隣が風呂屋(銭湯)であったので朝ぶろに来た人が早くから顔を洗い歯をみがくらしくがーがー言う声、かたんかたんと木の桶を置く音が大きく反響して聞えてくるのであった。

そんな昔の様子を思いながら、近くにある「ドトールコーヒー道修町店」でアイスコーヒーを飲んだ。

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2014年10月02日

道修町(その1)

大阪船場の道修町(どしょうまち)は、江戸時代の薬種問屋から発展した伝統的な「薬の町」として知られている。現在も、武田薬品工業、塩野義製薬、大阪住友製薬などの大手製薬会社のほか、生薬を取り扱う店などが立ち並んでいる。

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懐かしい仁丹の看板

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ショーケースに展示されている生薬

道修町はまた、高安国世の生地でもある。
年譜には大正12年8月11日、「大阪市東区道修町四丁目二番地」に誕生したことが記されている。かつてこの道修町に、高安病院と高安家の居宅があった。

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2014年09月10日

上田三四二著 『戦後の秀歌4』

全5巻のうちの第4巻。

斎藤茂吉『小園』『白き山』『つきかげ』、高安国世『真実』『年輪』『夜の青葉に』『砂の上の卓』『北極飛行』『街上』『虚像の鳩』『朝から朝』『新樹』『一瞬の夏』『湖に架かる橋』『光の春』、鈴木一念『七年』『香水草』を取り上げている。

高安国世の全13冊の歌集のうち第1歌集『Vorfruhling』を除く12冊から歌が引かれているので、高安研究には欠かせない一冊と言えるだろう。秀歌鑑賞ではあるのだが、単に褒めるだけでなく問題点も率直に指摘しているので、読んでいて面白い。

くまもなく国のみじめの露(あら)はれてつひに清らなる命恋(こほ)しき
                    『真実』
「敗戦」と題する一連の第一首。歌集の巻頭歌でもある。敗戦の事実は上句に出てはいるが、心してその事実をしっかりと押えて味わわないと、もの足りない歌になる。具体的な「もの」が足りないのである。結句の弱いのも気になる。(…)

たえまなきまばたきのごと鉄橋は過ぎつつありて遠き夕映
                     『一瞬の夏』
「遠き夕映」と簡単に言ってしまったのが不満で、欲を言えばここはもうすこし言葉をタメて、腰つよく歌いたいところである。(…)

山肌にうごける雲も葉裏飜(かえ)す楊柳もいま秋のしろがね
                     『湖に架かる橋』
「秋のしろがね」は断定が露骨にすぎて私は好まないが、景さわやかに、語また徹って、気持よく晴々とした一首である。意志して様式的な歌い方をしている。(…)

こんなふうにビシビシと厳しい指摘があって、まるで歌会で評を聞いているような気がする。

1991年5月15日、短歌研究社、2600円。

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2014年07月29日

井上博道さん

昨日の朝日新聞(大阪本社版)夕刊に、写真家の故・井上博通さんの話が大きく載っていた。井上さんは2年前に亡くなったが、奥さんが自宅兼写真事務所をギャラリーに改装して、作品を公開しているらしい。

記事の中に、こんな文章がある。

井上さんは大学卒業後、産経新聞社にカメラマンとして入り、司馬さん発案の企画「美の脇役」につける写真を担当。見過ごされがちな細部を紹介する狙いで、四天王像に踏まれる邪鬼や黒書院のふすまの引き手などに宿る美を引き出した。

この「美の脇役」は、産経新聞社編・井上博道写真で本になっている。1961年に淡交社から単行本が出て、2005年には光文社の知恵の森文庫にも入った。

井上の写真とともに、奈良本辰也、山口誓子、重森三玲、前川佐美雄、岡部伊都子など、関西にゆかりのある人々が毎回文章を書いている。その中に「京都大助教授・高安国世」という名前もある。連載26回目の「二条城東大手門の鋲」という回だ。

ここに見る画面は、だから城という実用的価値をはなれて、もっぱら直線と円との組み合わせから、かもされる一種の美を追究したものと見なければならない。そして無数の小さなびょうと似かよいながら、突然変異のように見事に成熟したこの一個の乳房に眼はすいつけられてしまう。

当時46歳の高安の書いた文章である。


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2014年07月12日

「歌壇」2014年8月号

篠弘さんの連載「戦争と歌人たち」の第11回―「人民短歌」の獄中詠(二)を読んで驚く。日中戦争時の非合法学生組織「京大ケルン」のメンバーであった布施杜生の短歌が載っているのだ。

布施が短歌を作っていたという事実を初めて知った。

永島孝雄(昭和16年獄死)・布施杜生(昭和19年獄死)らは、野間宏ともつながりがあり、野間の小説『暗い絵』の登場人物のモデルとなっている。

高安国世は「京大ケルン」と直接の関わりはなかったが、野間宏、内田義彦、下村正夫など高安の友人たちはみな、後に治安維持法違反で逮捕されており、高安がそうした人脈の中にいたことは間違いない。

布施杜生は大正3年生まれ、昭和11年京大哲学科入学。
高安国世は大正2年生まれ、昭和9年京大独文科入学。
この2人の間に何か接点はあったのだろうか。


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2014年07月09日

調べもの

高安国世関係の新しい資料が手に入った。

いくつか新しくわかったことがあるので、これはブログではなくて
きちんと評論に書こう。

調べること自体に価値があるのではない。このワクワク感を何とか
読む人に伝えられたらと思う。

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2014年07月07日

甲南高校の九州旅行(その3)

だいぶ間が空いてしまった。続きを少し。

神戸から別府まで、甲南高校の生徒たちは船に乗っている。
高安国世の旅行記には

さて紫丸が大阪から入港し乗込むころ陸続として不参加者の見送り群来る。

とある。彼らが大阪からではなく神戸から乗船したのは、甲南高校が大阪よりも神戸に近いからだろう。大阪から神戸を経由して別府へ向う航路であったことがわかる。

この阪神―別府航路は1912年に開かれて以来、実に100年以上にわたる歴史を持っている。高安らが乗った昭和8年時点では、紫丸、屋嶋丸、紅丸(2代目)、緑丸、薫丸の5隻が就航し、昼夜両便、毎日運航という体制であった。

以前、私も月に一回、大分から京都へ来るのに、この航路(厳密には「大阪―別府」ではなく「神戸―西大分」航路)を使っていたことがある。金曜日の仕事を終えてそのまま西大分港から船に乗り、土曜日の朝に神戸港着。午後から京都の歌会に出て一泊し、日曜日の夕方の船で大分へと帰り、月曜日の朝はそのまま仕事へと行っていた。

 君の住む町の夜明けへ十二時間かけてフェリーで運ばれて行く 『駅へ』
 穏やかな夜の瀬戸内海を行く灯ともる所は人が住むなり
 海上を進むフェリーの浴室の湯船に深く身体は揺れる


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2014年06月25日

「レ・パピエ・シアン2」2014年6月号

大辻隆弘さんの「高安国世から見た近藤芳美」(講演録)は7回目で、今月が最終回。高安と近藤の関係を明快に論じている。

極言すれば、近藤の文学作品に、高安からの文学的影響は皆無なのです。高安には残酷ですが、こと文学面においては、高安が近藤を思っているほどには、近藤は高安を思っていない、という感じがします。

まさに「残酷」な話だが、その通りと言うしかない。ある種の片思いのようなものである。

けれども、大辻さんも書いている通り、その後、高安は近藤の影響下から抜け出して、自分の作品世界を深めていくことになる。

高安は自身の歩みを振り返って記した「私の短歌作法」(1978年初出、『短歌への希求』所収)の中で、かつて近藤が絶賛した「誠実の声」の歌について

誠実の声―それは当時の文学全体にみなぎる基本的な要素であったろう。私の歌も、歌の巧拙よりも重大な、なくてならぬものとして誠実を追求していた。

と書く。しかし、高安はそこにとどまりはしなかった。高安は変化を求めたのだ。

(高度成長経済の時代に入るとともに)何がまちがっていて何が望ましいことかを、ただ誠実だけでもって弁別しうたい上げることがむつかしくなる。

短歌も一面的な真実を誠実の声でもってうたっているわけにはいかなくなった。今私たちが感じ取るものは、そう簡単に一義的に解することができず、それを表現するには言葉のいろんな機能を十全に活用しなければならないのである。

ここには、近藤とは異なる道を選んだ高安の、自らの表現に対する自信が溢れている。だから読んでいて清々しい。

(大辻さんが講演録から「オフレコ」の部分を削除しなかったのも、きっと自分の歌に対する自信の表れなのだろう。)

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2014年06月20日

甲南高校の九州旅行(その2)

この旅行について記した「理科三年旅行記」が甲南高等学校校友会雑誌部「甲南」14号(昭和8年)に掲載されている。8名による分担執筆で、そのうち初日の分を高安国世が書いている。

第一日(五月六日)
神戸→船中  高安国世

 船客待合室の前は、午後の波の照り返しと、積荷を下す綿ぼこりが、いらいら躍つて、船出の前の一ときを落付かぬ顔の人々が、一見ぼんやりとそここゝに位置してゐる。
 黒々と寄り合つてゐる二十人許りは、之ぞまもなく展開さるべき全八幕の立役者共に他ならぬ。三時には殆ど顔ぶれが揃つた。高間主任の代理をつとめ、我々の若き指導演出家となられる西田教授の姿は夙くに見られた。皆これから何がはじまらうとしてゐるのか一寸もゲせない面持で茫然と顔を並べてゐる。手ぶらの呑気なのも居れば、吾輩のやうに九州は寒かろと、まるで北国へ行くやうな代物を仕込んでゐる奴もなくもない。
(以下略)

おそらく高安にとって初めての九州行きだったのだろう。


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2014年06月19日

甲南高校の九州旅行(その1)

昭和8年5月6日、旧制甲南高等学校の三年生(理科)25名は九州旅行へと出掛けた。日程は下記の通り。

 6日 神戸発→(船)
 7日 (船)→別府→(車)地獄めぐり→(汽車)→宮崎(宿泊)
 8日 宮崎神宮、青島見学→(汽車)→鹿児島、尚古館見学、(宿泊)
 9日 桜島見学→(汽車)→熊本、熊本城、水前寺公園見学、(宿泊)
10日 熊本→(車)→阿蘇、噴火口見学→(車)→熊本→(船)→島原→(車)
    →雲仙(宿泊)
11日 絹笠山登山→(車)→長崎、崇福寺、浦上天主堂見学、(宿泊)
12日 長崎→(汽車)→福岡→(汽車)→門司→(船)
13日 (船)→神戸着

今で言う修学旅行のようなものだろう。
7泊8日で九州を一周するコースとなっている。


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2014年06月04日

「望星」1976年4月号

高安国世の「二人の師のこと」という文章が載っている。
一人はドイツ文学の成瀬無極。
もう一人は、土屋文明である。

当時62歳の高安は、文明について「ごぶさたはしていても、つねに私の心のそばに先生はおられる」と書いている。晩年に至るまで、文明を師と仰ぐ気持ちは揺るぐことがなかったのだろう。

歌会好きの高安らしい、こんな言葉もある。

私は半生を通じて歌会をたのしんできた。たのしみといってもただの娯楽でも休養でもなく、心の通い合う人々との真剣勝負の場としてである。忌憚ない批評をし合って、そのあとなごやかに話し合うという人生で稀な幸福を、私は先生を中心とする歌会で学び、今では私を中心とするささやかな歌会で味わっている。

こういう真面目で、ちょっと青臭いところが、いかにも高安さんという感じがする。


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