2025年03月28日

「日本近代文学館年誌」

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今月発行された「日本近代文学館年誌 資料探索 20」に、高安国世宛の野間宏と富士正晴の書簡の翻刻が載っている。野間30点、富士22点で、いずれも昭和10年代のもの。

注や解題で触れていただいた通り、拙著『高安国世の手紙』で取り上げた高安の野間、富士宛書簡に対応するものも含まれており、興奮を抑えきれない。


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『高安国世の手紙』を書いた際に、野間や富士の書簡が残っていないか高安家の方々にも問い合わせたのだが見つからず、既に失われたものだと思っていた。日本近代文学館にあったのか!

日本近代文学館の「特別資料」を検索してみると、高安国世関連の書簡、原稿など91点が収蔵されている。しかも、驚くようなものまで残っているようだ。これは一度調べに行かないといけないな。

「日本近代文学館年誌」は1040円。日本近代文学館のHPから購入できます。高安ファンの方はぜひ。
https://www.bungakukan.or.jp/webshop/nenshi/

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2025年02月19日

「若き詩人」の名誉回復のために(その7)

もう書くべきことはほとんど書き尽くしたので、長々と続いたこの話も今回で終わりにしようと思う。

最後に考えたいのは、高安がどうして訳者後記に次のような誤解を招く書き方をしたのかという問題である。

ただ残念なことに、この若き詩人フランツ・クサーファ・カプスは後年、リルケのこれほどの助言にもかかわらず、いわゆるジャーナリズムを頼って、ベルリンの絵入週刊新聞に、みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た。

先にも書いた通り、この文章を読んだ多くの人は高安がベルリン滞在中にカプスの小説を読んだと思うだろう。「この眼で見た」という強い言い方からは、高安がカプスの姿を見たような印象さえ受ける。

それは、高安のカプスに対する批判を正当なものに感じさせる力を持ったのではないか。実際に現地で見てきた人の話だから間違いないといった印象を読者は植え付けられるのだ。

しかし、実際には高安は日本にいて、独逸文化研究所がドイツから取り寄せていた新聞を読んだに過ぎない。そもそも、何回かの新聞の連載小説を読んだだけでカプスの人生を論じることなど本来はできないことなのである。

もちろん、高安は嘘を書いているわけではない。「ベルリンの絵入週刊新聞に、みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た」。この書き方にどこにも嘘はない。でも、それは読者をミスリードする要素を含んだものであった。

嘘はつくことなく、それでいて読者には高安がベルリンにいたかのように感じさせる巧妙な書き方と言っていい。どこまで意識的なものだったかはわからないが、この書き方には高安の或るコンプレックスが滲んでいるように思う。それは、戦前にドイツに留学できなかったというコンプレックスである。

高安が「ベルリンの絵入週刊新聞」を読んだ1937(昭和12)年の11月に、京都帝国大学文学部独文科で高安と同級であった谷友幸が、フリードリッヒ・ヴイルヘルム大学(ベルリン大学)に留学した。ライバルでもあった二人の間に、ここで大きな差が生まれたのであった。(この問題については、以前『高安国世の手紙』に詳しく書いた)

戦後の1949(昭和24)年に訳者後記を書いた時に、高安は何を考えたのだろう。心のどこかに潜んでいた思いが、自分が実際には行けなかったベルリンに「いたかのように感じさせる」書き方を生んだのではなかったか。

その時の高安の頭にあったベルリンは、戦前の華やかな姿であっただろう。そんなベルリンも、もう第二次世界大戦の戦禍によって幻のものになってしまったのだ。

高安は戦後3回にわたってヨーロッパを訪れているが、東西ドイツの分裂もあり、一度もベルリンを訪れることはなく1984年に亡くなった。一方のカプスは、戦後は東ドイツで活動し1966年に東ベルリンで亡くなった。そんなところにも、運命の不思議を感じるのである。

(この項おわり)

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2025年02月18日

「若き詩人」の名誉回復のために(その6)

カプスに対する堀辰雄の考えをもう一度読んでみよう。

カプスのその後の消息については僕は何も知らず、又何も知らうとはせず、それきり世に知られぬ生活の中に埋もれてしまつたのだらう位に想像してゐた。そんな方がかへつて、リルケにあんなに好い手紙を貰つた若い詩人の悲劇らしく奧床しいと考へてゐた

カプスの側から見れば相当に残酷なことを書いているように思う。しかし、こうした見方は堀や日本国内だけのものではなかった。『若き詩人への手紙 若き詩人F.X.カプスからの手紙11通を含む』(2022年)の編者エーリヒ・ウングラウプ(リルケ協会会長)は、「この文通について」に次のように書いている。

しかし、奇妙なことに、カプスの書いた手紙に対する関心が生じることはなかった。(…)そしてここからも長く続く伝説が生まれた。つまり、カプスはリルケに求められた詩人になる使命を果たすことができず、それゆえに大詩人に宛てた彼の手紙は公式には「残っていない」という伝説である。

実際にはカプスの手紙11通はリルケの文書館に保管されていた。それにもかかわらず、長年その存在は無視され続けてきたのである。

そこには、リルケの天才ぶりや高潔さを際立たせるために、カプスを不当に貶める評価が働いているように感じる。高安の訳者後記もまた、カプスに対する批判の後にリルケを讃える話が続く。

これほどのリルケの信頼に応えるのに、この有様はなんということであろうか、僕はしばし悲憤の涙にくれ、人間のあわれさに慟哭したのであった。それだけにリルケの高潔な生涯は、ますます僕たちに力をもって迫ってくるのである。孤独などを今どき持ち出すのは、時勢にかなわないことかも知れぬ。だが孤独を知らぬ文学者とは、そもそも何者であろうか。それ自身実りのない孤独を、あのように豊穣な孤独にまで持ち上げたリルケを、僕たちはいつまでも忘れることができない。

高安のこうした見方は、多くのリルケ愛好者と共通するものだったということだろう。一方でそれは、リルケの手紙の「相手」という役割だけを与えられたカプスの不幸を生んだのである。

「この文通について」には、カプスの残した言葉が記されている。

「リルケの手紙のおかげで、受け取っただけなのに、私は自分で書いたものによってよりもずっと有名になってしまいました。」

(この項つづく)

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2025年02月17日

「若き詩人」の名誉回復のために(その5)

堀辰雄の文章は1937(昭和12)年6月に京都を訪れ、その後7月に信濃追分に戻ってから友人の立原道造宛ての手紙の形で書かれたものだ。「七月二十五日、追分にて」とある。

『若き詩人への手紙』は1929(昭和4)年にドイツのインゼル書店で出版された。日本では武田昌一が京大独逸文学研究会発行の雑誌「カスタニエン」の第6冊から第10冊にかけて計5回にわたって「或る若き詩人に送れる手紙」として翻訳し、1935(昭和10)年に『リルケの手紙』(若き一詩人への手紙・若き一婦人への手紙)として出版している。

堀はドイツ語の原書か翻訳で『若き詩人への手紙』を読み、カプスの名前を覚えていたわけだ。

さて、ここで問題になるのは、堀の文章と高安の訳者後記の関係である。両者には共通する点が多いが、高安は堀の文章を元に訳者後記を書いたわけではないと思う。

堀の文章の書かれた1937年、高安は3月に京都帝国大学を卒業して4月から大学院に進学している。堀の文章の舞台となった独逸文化研究所は高安の通う大学のすぐそばにあった。しかも高安は「O君」こと大山定一とも深い関わりがある。『高安国世全歌集』の年譜には1935(昭和10)年のところに、

京都ドイツ文化研究所講師として京都へ戻ったドイツ文学科の先輩、大山定一を訪ね、尊敬と親愛の念を抱く。大山を中心とする独文卒業者たちの研究同人誌『カスタニエン』の同人となる。

とある。つまり、高安は大山と交流があり、独逸文化研究所にも出入りしていたのだろう。

高安はそこで大山から堀辰雄やカプスの話を聞き、実際にカプスの小説の載っている新聞を見たにちがいない。なぜなら、堀の文章では「独逸の新聞」とだけあるのに対して、高安は「ベルリンの絵入週刊新聞」と細かく書いているからだ。訳者後記に「僕はこの眼で見た」とあるのは、その新聞を見たという意味なのだ。

「ベルリンの絵入週刊新聞」とは、おそらくBerliner illustrierte Zeitungのことである。1894年創刊の写真週刊誌で、イラストや写真を豊富に使った紙面と連載小説が人気を呼び、1920年代終わりには200万部を超える発行部数を誇った。

そんな新聞に小説を連載するのは文学者として成功した姿と言っていいと思うのだが、堀や高安はそのようには受け取らなかった。彼らは「胸の痛くなるやうな気がした」(堀)のであり、「悲しむべき事実」(高安)と捉えたのである。

(この項つづく)

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2025年02月16日

「若き詩人」の名誉回復のために(その4)

実は、高安の謎を読み解く重要なヒントになる文章があるのだ。元ネタと言ってもいいかもしれない。

話は戦前にさかのぼる。

その文章とは堀辰雄「夏の手紙 立原道造に」である。初出は「新潮」1937(昭和12)年9月号で、『雉子日記』(1940年)にも収められている。

少し長くなるが、該当部分をすべて引用しよう。

僕はこなひだ京都に滞在してゐたとき、或日、独逸文化研究所にO君を訪ねて行つたことがある。O君はまだ来てゐられなかつたので、僕はしばらく大きな応接間で一人きり待たされてゐた。――僕はそこでぼんやりと煙草を二三服したのち、何気なく傍らの卓子の上に置いてあつた独逸の新聞の束を手にとつて、ばらばらとめくつてゐると、それへ毎号絵入小説を連載してゐる作者の名前がどこかで見覚えのあるやうな気がしてきたが、そのうちその小説の第一回の冒頭にその作者のことが写真と共に小さく紹介してあるのを見ると、それはリルケがあの有名な手紙を書いて与へた往年の若き詩人――フランツ・クサヴェア・カプスなんだ。あのカプスがいまはこんな絵入小説を書いてゐるのか、と僕はしばらく自分自身の眼を疑つた。が、まさしくカプスだ。もつとも、あの「若き詩人への手紙」の序文のなかで、カプス自身、生活のためにリルケが彼に踏みこませまいと気づかつてゐたやうな領域へいつか追ひやられてしまつてゐるのを嘆いてゐたことを読んで知つてはゐたが、――そのカプスのその後の消息については僕は何も知らず、又何も知らうとはせず、それきり世に知られぬ生活の中に埋もれてしまつたのだらう位に想像してゐた。そんな方がかへつて、リルケにあんなに好い手紙を貰つた若い詩人の悲劇らしく奧床しいと考へてゐたが、そのカプスがいまはこんな仕事をしてゐるのか、と思ふと、僕はそれを拾ひ読みして見ようなんていふ好奇心すら起らず、ただなんだか胸の痛くなるやうな気がしたばかりだつた。
 そのうちにO君が漸く来たので、それを見せるとO君もそれを知らずにゐて、一驚して読んでゐたが、そんなカプスのことから僕達の話はいつかリルケの方に移つていつた。僕なんぞよりもずつとよくリルケを読んでゐるO君にいろいろな話を聞いてゐるうちに、自分のリルケの本といへば殆ど全部其処に置きつ放しにしてある山里の方が変になつかしくなつて、僕はなんだかかうやつて京都や奈良をぶらぶら歩きまはつてゐるのに一種の悔いに似た気もちさへ感ぜられてきて仕方がなかつた……

文中に出てくる「独逸文化研究所」はドイツ文化の普及のために1933(昭和8)年に設立された社団法人で、京都帝国大学のすぐ近く(現在の京都大学高等学院のある場所)にあった。

「O君」はドイツ文学者の大山定一(1904‐1974)である。リルケの翻訳も数多くしており、高安にとっては9歳年上の京都帝国大学文学部独文科の先輩にあたる。

高安の記した「ベルリンの絵入週刊新聞」は、この1937(昭和12)年の場面に出てくるものなのであった。

(この項つづく)

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2025年02月15日

「若き詩人」の名誉回復のために(その3)

往復書簡を読むとよくわかるのだが、カプスはもともと「詩人」ではない。「軍人」である。それでも文学への憧れを捨てきれなかったカプスは、リルケと手紙のやり取りを行い、第一次世界大戦後に退役して作家・ジャーナリストとして活躍した。

つまり、彼はリルケの助言に反して通俗的な三文小説家になってしまったわけではなく、自らの意志を貫いて、自らの望んだ道を進んだ人だったのである。訳者後記に記された高安の見方は、かなり偏った一面的なものと言っていい。

さらに、ここで一つの事実を明らかにしよう。
私がこれまで伏せてきた話である。

高安国世訳の『若き詩人への手紙 若き女性への手紙』(新潮文庫)は1953(昭和28)年の発行である。その元になったのは、1949(昭和24)年に養徳社から出たもので、その時に訳者後記は書かれている。

もう一度、大事な箇所を引いてみよう。

この若き詩人フランツ・クサーファ・カプスは後年、リルケのこれほどの助言にもかかわらず、いわゆるジャーナリズムを頼って、ベルリンの絵入週刊新聞に、みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た。

この文章を読めば、ほとんどの人は高安がベルリン滞在中にカプスの小説が載った新聞を読んだと思うだろう。私も当然そう思っていた。

しかし、『高安国世の手紙』を書いていて気付いたのだが、高安が初めてドイツを訪れたのは1957(昭和32)年のことである。高安は戦前からドイツ留学を夢見ながら、身体が弱かったこともあって留学の機会を逃したのであった。

それなのに、なぜ1949(昭和24)年の文章に「ベルリンの絵入週刊新聞」が出てくるのか? ここに、おそらくこれまで公になっていない秘密が隠されている。

(この項つづく)

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2025年02月14日

「若き詩人」の名誉回復のために(その2)

リルケの言葉に感服する一方で、私は手紙の相手である「若き詩人」カプスのことは軽んじた。それはカプスが文学者として無名な存在だったからだけではない。巻末の訳者後記に次のように書かれていたからだ。

ただ残念なことに、この若き詩人フランツ・クサーファ・カプスは後年、リルケのこれほどの助言にもかかわらず、いわゆるジャーナリズムを頼って、ベルリンの絵入週刊新聞に、みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た。これは悲しむべき事実である。たとえどのような生活の労苦があったにせよ、これほどのリルケの信頼に応えるのに、この有様はなんということであろうか、僕はしばし悲憤の涙にくれ、人間のあわれさに慟哭したのであった。

カプスに対するこの高安の痛烈な批判は、強く印象に残るものであった。そのため、私はカプスが通俗的な三文小説家になってしまったのだと心のどこかで軽蔑し続けてきたのであった。

それから、長い時間が過ぎた。

私は2009年から2011年にかけて「塔」に「高安国世の手紙」という文章を連載して、それを『高安国世の手紙』(2012年)にまとめた。その過程で、私は一つの事実を知ったのである。先ほどの訳者後記に関することだ。

でも、それは高安にとってあまり名誉な話ではないので、これまでどこにも書かずに伏せてきた。

そうこうしているうちに、2022年に『若き詩人への手紙 若き詩人F・X・カプスからの手紙11通を含む』という本が出て、リルケの手紙だけでなくカプスの手紙も私たちは読むことができるようになった。二人の往復書簡が揃ったのである。
https://matsutanka.seesaa.net/article/504016701.html

この本の刊行によって、カプスのイメージは大きく変わったと思う。

(この項つづく)

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2025年02月13日

「若き詩人」の名誉回復のために(その1)

少し長い話になると思う。

私がリルケの『若き詩人への手紙』を初めて読んだのは大学生の頃だった。新潮文庫の高安国世訳のものである。当時私は大学でドイツ文学を専攻しており、高安国世の名前はドイツ文学者として、リルケの翻訳者としてよく知っていた。

その頃の私は短歌にはまったく興味がなかったので、高安が歌人であることは知らなかった。高安がドイツ文学者であるとともに歌人であったことを知るのは、1996年に「塔」に入会してからのことだ。

『若き詩人への手紙』には、今読み返しても胸を打たれる部分がたくさんある。

あなたは御自分の詩がいいかどうかをお尋ねになる。あなたは私にお尋ねになる。前にはほかの人にお尋ねになった。あなたは雑誌に詩をお送りになる。ほかの詩と比べてごらんになる、そしてどこかの編集部があなたの御試作を返してきたからといって、自信をぐらつかせられる。では(私に忠言をお許し下さったわけですから)私がお願いしましょう、そんなことは一切おやめなさい。
孤独であることはいいことです。というのは、孤独は困難だからです。ある事が困難だということは、一層それをなす理由であらねばなりません。愛することもまたいいことです。なぜなら愛は困難だからです。人間から人間への愛、これこそ私たちに課せられた最も困難なものであり、窮極のものであり、最後の試練、他のすべての仕事はただそれのための準備にすぎないところの仕事であります。

こうした文章に大学生の私は深く感じ入ったものだ。リルケの言葉が高安の翻訳によってすーっと美しく胸に沁み込んでくる。

(この項つづく)

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2024年10月13日

「まるたけ」創刊号

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塩見恵介さんを中心に京都で行われている「まるたけ句会」のメンバーによる俳句誌。

柳へも触らせにゆくランドセル/塩見恵介
九割の毛虫がいいね!した葉っぱ
ひとりでも鼻で遊べる象の梅雨
近道は寄り道に似て牛膝
まじめな包丁ふつつかな人参
蒼穹の形なぞって鷹渡る/平田和代
しゃぼん玉あちらのお客様からです/斎藤よひら
十二月八日ボタンを押せばお茶/赤川京子
一つずつ留めるボタンや冬に入る/板垣華蓮
風薫る天津飯が似合う人/川越来留美
節くれの指が舞ひたり祭笛/高橋康子
ジーパンの舞妓の昼や栗の花/田邉好美
手を挙げたまま溶けていく雪だるま/松尾唯花

黒田公平の評論「高安国世から学ぶもの―甲南時代とその生涯―」は12ページにわたる力作だ。甲南高等学校時代の校友誌『甲南』に載った高安作品を詳しく紹介している。

今日、高安の短歌は、『高安国世全歌集』によっておおよそを知ることが出来る。しかし、雑誌『甲南』に発表された作品は、収録されていない。(…)その全てを知るには、やはり雑誌『甲南』を手に取るしかない。しかも、それら高安が作品を載せた各号を読むには、現在、甲南大学の学園史資料室に保存されているものを閲覧する必要がある。

これはその通りで、私も以前この学園史資料室にお願いして高安作品の掲載部分のコピーを送っていただいた。古本屋などにもほとんど出ておらず、第10号と第14号を入手できただけである。

このように、探求し続けること、生活を直視する誠実さ、「真実」を求める浪漫性、教養に裏打ちされた表現、他分野との融合などは、短歌に留まらず私たちが高安から学ぶべき点であろう。

こうした高安国世論が読めるのは何とも嬉しい。今後さらに『甲南』掲載の初期作品に関する研究や議論が深まっていきますように!

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2024年06月07日

『高安国世の手紙』販売中

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先日、神奈川に住む父の家を整理していたら、新品の『高安国世の手紙』(2013年)が一箱見つかりました。以前、置き場所がなくて預かってもらっていたようです。

今年は高安国世(1913‐1984)の没後40年。送料込み1000円!の特別価格で販売しますので、ご興味のある方はこの機会にぜひお買い求めください。

https://masanao-m.booth.pm

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2024年05月11日

「塔」2024年4月号

創刊70周年記念号。全356ページという分厚さだ。

「没後四十年 高安国世再発見」という特集が組まれ、「高安を直接には知らない世代」の6名がそれぞれ「子育て」「海外留学」「地方と東京」「日常の発見」「自然」「前衛」のテーマで評論を書いている。

北奥宗佑「非日常の輪郭」は、1957年の高安の西ドイツ滞在について次のように書く。

これを「留学」と捉えるかどうかは微妙なところであり、高安自身も『北極飛行』や先行する『砂の上の卓』のあとがきでは自らの滞独を指して「留学」の語を使わず、「滞在」や「外遊」の語を用いている。同じ大学教員の視点から見れば、高安のドイツ滞在は実質的にはいわゆるサバティカル、つまり大学教員がキャリアの途中で一年程度外国で過ごす研究休暇と捉えるのが正確に思われる。

とても大事な指摘だと思う。これまで高安の「ドイツ留学」と言われることが多く、私も『高安国世の手紙』の中でそのように書いているが、実際には北奥の記すように研究休暇という性格のものだったと見て間違いない。

千葉優作「前衛、暁を覚えず ―高安国世の夜明け―」は、「アララギ」出身の高安が「塔」を創刊するに至る経緯を記した上で、

『塔』創刊の頃の彼は、自らを育みくれし『アララギ』に対する愛着を、捨てきれなかったのではあるまいか。
高安は、激しく変化してゆく時代にあって、『塔』と『アララギ』という二つの結社に引き裂かれる苦しみの中にいたのである。

と書いている。高安作品の傾向や変化について言えば、この指摘は当っているし、その通りだと思う。ただし、「塔」と「アララギ」は結社として対立する関係にあったわけではない。それは、高安が「塔」創刊後も「アララギ」の会員であり続けたことからも明らかだろう。

以前、高安は1984年に亡くなるまで「アララギ」の会員のままだったのではないかと、このブログに書いたことがある。
https://matsutanka.seesaa.net/article/387139186.html

今回思い付いて高安の亡くなった頃の「アララギ」を調べてみると、1984年9月号の編集所便(吉田正俊)に、

△高安国世氏は七月三十日、京都第二日赤病院にて死去されました。謹んで哀悼の意を表します。

と書かれている。また、翌10月号の編集所便にも、

△故高安国世氏歌集「光の春」が昭和五十六年夏から五十九年二月迄の作品四百首を収載氏、短歌新聞社より発行になりました。著者の第十四歌集。定価二三〇〇円。
△高安国世氏御遺族和子氏より三十万円、(…)発行費に御寄附いただきました。厚く御礼申します。

とある。

これらは高安が終生「アララギ」の会員であった証拠となるだろう。

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2021年12月24日

評論「高安国世と万葉集」

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高岡市万葉歴史館論集20『万葉を楽しむ』(笠間書院)に、「高安国世と万葉集」という評論を書きました。

http://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305002501/

2019年に同館で講演した内容をもとに文章化したものです。

坂本信幸さん(高岡市万葉歴史館館長)、影山尚之さん(武庫川女子大学教授)はじめ万葉集の専門家の方々ばかりの執筆者の中に、なぜか私も加えていただいてます。

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2021年09月13日

ミュゾットの館

花房葉子『野のごちそう帖』のあとがきに、こんなことが書いてある。

リルケが晩年を過ごしたフランスの山の中にある小さな「ミュゾットの館」という所は、旅行者も訪れないような、これといってなにもない所らしい。そんなところで詩人は「純粋時間」の中にとじこもり大作「ドゥイノの悲歌」を仕上げたという。どんな所だったのか、見てみたい気がする。ひょっとしたら、イカウシみたいな所ではないか、と思えるのだ。

1921年、リルケが晩年の46歳(リルケは51歳で亡くなる)から住んだスイスのミュゾットの館。ここは、1979年に高安国世が訪れている。当時、高安は65歳。

茶畑の如く正しく条なして葡萄畑ミュゾットの館に続く
ロイクを過ぎラロンを過ぎてシエールに着きぬ 現(うつつ)に君在るごとく
ミュゾットに今し近づく 年古りしポプラすさまじき昇天のごと
さびしさに耐えたる人の小さき窓 五十年後の陽がさし入りぬ
           高安国世『湖に架かる橋』

「ロイクを過ぎラロンを過ぎて」「君在るごとく」「今し近づく」といった言葉に、抑えきれない喜びが溢れている。

ミュゾットの館は、高安が長年訪れたいと憧れていた場所であった。1957年に高安は西ドイツに留学するが、その時には残念ながら機会がなかった。

ドゥイノやミュゾットは、いまだにぼくの空想の土地である。せっかくヨーロッパに行き、九ヵ月も滞在しながら、とうとうこういう土地を自分の目で確かめなかったことは、ひそかな悔いとなってぼくの心の中に残るだろう。どちらもドイツからは不便なところにあり、時間と金がかかる上に、言葉も不自由な地方にある。そのうちそのうちと思うあいだに機会を逸してしまったのはぼくの怠惰のせいというほかはない。
      「遺跡探訪」(1959.3)『わがリルケ』

それから20年以上を経て、ようやく高安は念願のミュゾットの館を訪れたのであった。

もう一か所の、イタリアのドゥイノも1983年に高安は訪れている。その旅から帰国して間もなく体調の不良を訴え、入院・手術。翌年に亡くなるのである。最後までヨーロッパへの憧れを持ち続けた人だったと言っていいだろう。

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2020年12月11日

『Ruf der Regenpfeifer』(千鳥の呼び声)

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1961年に西ドイツのベヒトレ書房から刊行された高安国世編・訳の日本詩歌のアンソロジー。内容の概略については知っていたけれど、現物を目にするのは初めて。表紙が鈴木春信とは!


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中身は当り前だけど全部ドイツ語。
この見開きには、長塚節、石川啄木、若山牧水の短歌が載っている。

啄木の1首目「Ich arbeite und arbeite.」、おお!「はたらけどはたらけど」か!

この本に関しては、ドイツ文学者野村修の詳細な論文「高安国世編・訳の日本詞華集≫Ruf der Regenpfeifer≪について」がある。ネットで読めるのが有難い。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/185012/1/dbk03200_%5B001%5D.pdf

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/185017/1/dbk03300_%5B001%5D.pdf


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2019年09月07日

高岡万葉セミナー

高岡を訪れるのは25年ぶりくらい。
北陸新幹線の開通に伴って、在来線の高岡駅は「あいの風とやま鉄道」の駅となり、駅舎や駅前広場がきれいに整備されていた。

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朝9:00にホテルを出て、越中国の国守館跡があった高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所庁舎)、越中国府があったとされる勝興寺、越中国の一宮である気多神社、大伴家持を祀る大伴神社を案内していただく。

その後、高岡市万葉歴史館へ行き、館内の展示を見せていただいた後、10:30から講演「高安国世と万葉集」を行った。

午後は影山尚之先生の講演と、岡本三千代さんと万葉うたがたり会によるコンサート。どちらも充実した内容で楽しかった。

帰りは新高岡駅から新幹線に乗る。新高岡駅の周辺はまだまだ発展途上という感じ。

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2019年09月04日

高安国世著 『万葉のうた』


副題は「秀歌鑑賞」。

1963年に創元社から刊行された『万葉の歌をたずねて』を改題改装したもので、内容は同じ。ただし巻頭の写真2枚は別のものになり、「改題改装にあたって」という文章6行が追加されている。

万葉集から190首の歌を引いて鑑賞しているのだが、楽しみながら書いている感じがよく伝わってくる。ところどころ高安さんの個性が出ているところが特に面白い。

    人麿歌集
  うち日(ひ)さす宮道(みやぢ)を人は満ち行けど吾が思ふ君は
  ただ一人のみ             (巻十一 二三八二)
 ウチヒサスは枕詞。「都大路に人は満ち満ち歩いて行くが、私の思う人はただ一人だけ」という、これも人情の普遍的な表現になっています。こういうのは、真理を含んだ格言やことわざにも近く、何もない人には何でもなく、しかし一旦そうした立場に立った人の心には、わがことのように真実なものとして蘇って来る種類の歌でしょう。この歌はやはり女性の口吻と見られますが、男にだってこういう気持になることはあるでしょう。

淡々と書いているようでありながら、実はけっこう熱の入った文章だ。いかにも自分も「そういう立場に立った人」であると言わんばかり。最後の「男にだって」はまるで「私にだって」と言っているかのようにも思われる。

高安国世、この時50歳。一体、何があったんだ、国ちゃん・・・

1972年1月20日、創元社、350円。

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2019年08月17日

選に落ちた歌

高安国世の代表歌とも言うべき一首、

 かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は真実を生きたかりけり
                      『Vorfruhling』

は、実は「アララギ」の選歌に落ちた歌であった。
『詩と真実』の中で高安は次のように書いている。

医科志望を変更して文科に入ろうというころの嘆きをうたった一連の最初の歌である。(・・・)アララギに投稿して発表されたときにはこの歌は選にもれていた。選者の意図はどうだったのか聞いたことがないが、のちに歌集にまとめるときには勝手にこれを巻頭に置くことにした。

本人にとっては文学的出発点として欠くことのできない歌であり、自信もある歌だったのだろう。この一首を歌集に収めたことは、結果的に非常に大きな意味を持つ判断であったと思う。

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2018年02月03日

ギャルリー志門


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(クリックすると拡大します)

2月12日(月)〜2月17日(土)、銀座のギャルリー志門で
「高安国世(短歌)・高安醇(絵画)父と子作品展」が開催されます。
東京周辺の皆さん、ぜひご覧になって下さい。

高安醇さんは高安国世の三男。拙著『高安国世の手紙』の中でも、
「21 三男醇と聴覚障害」「36 画家高安醇」でご紹介しています。


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2017年11月09日

「メモワール」第三号


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京都学生映画連盟発行の「メモワール」という雑誌を手に入れた。
昭和26年7月1日発行の第三号。

ここに高安国世の「映画「白痴」を見て」という文章が4ページにわたって掲載されている。「白痴」はこの年公開された黒澤明監督作品。原作:ドストエフスキー。出演:森雅之、原節子、久我美子、三船敏郎。


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映画の感想のなかに、ロシア文学が日本に与えた影響の話が出てくる。

(・・・)僕は日本のインテリの教養の中に占めるロシヤ文学の位置などということを思わされたのであつた。例えば歌人近藤芳美。彼は僕ら以前のインテリとはちがつて、甚だ日本的でない。それかといつて彼の茫々としてうすよごれた風彩(ママ)は決してフランス的でもドイツ的でもない――つまりヨーロッパ的ではない。僕はやはりロシヤ的な、そしてドストエフスキイの作品の中に想像出来るものではないかと思う。

高安がどのような目で近藤を見ていたかが伝わってくる、なかなか面白い評だと思う。

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2017年10月29日

「高安国世・高安醇 父と子作品集」出版記念展


先週、京都のギャラリー白川で、「高安国世(短歌)・高安醇(絵画)父と子作品集」出版記念展を見てきた。高安醇の絵画15点に高安国世の短歌がそれぞれ1〜4首添えられて展示されている。

絵を見て歌を詠んだ場合、どうしても絵と歌が近すぎたり、歌が絵の説明に終わってしまったりすることが多いのだが、今回の企画はもともと別に作られた二人の絵と歌を取り合わせて構成されている。だから、絵と歌の距離感が絶妙で、互いをうまく引き立て合っているように感じた。


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作品集は1冊1500円。
展覧会の会期は11月5日まで。

昨年、同じギャラリー白川で「高安醇新作展 色彩の中のイタリー」でを見た時に、かつては完全な抽象画であった絵にかなり現実の風景が入り込んできていることに驚いたのだが、今回の企画にもそうした変化が反映しているようだ。

ギャラリーの池田真知子さんは作品集の初めに次のように書いている。

醇の作風が2015年頃から変わり始めた。それまで「光」や「風」のような形の無い物をテーマに色面構成の強い抽象画を多く描いてきた彼が、身近な自然や風景を独特な色彩感覚で柔らかく描き始めたのだ。その絵を描く眼差しに、父である国世の晩年の短歌と通じるものを感じた私は、短歌と絵とジャンルは違うけれど、父と子二人の芸術家の作品を本にして広く知ってもらいたいと思うようになった。

高安醇さんは今年で73歳。
芸術や表現というものは、何歳になっても終わりがないのだということを強く思った。

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2016年09月27日

「フロンティア」17号

ネットの古本屋やオークションを定期的に巡回して、高安国世に関する新しい資料が見つかれば買うことにしている。

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今回入手したのは、「フロンティア」17号。
北海道電力株式会社総務部発行の小冊子で、全66ページ。
昭和47年8月10日発行。

ここに、高安国世が「思い出の道東」という3ページの文章を書いている。これまで、多分どこにも紹介されていないものだ。

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「たしか十一年前のこと、私は北海道を訪れた」という冒頭の一文からわかるように、昭和36年の北海道旅行のことを書いた文章である。

内容は『カスタニエンの木陰』に収められている「北海道の旅から」(初出「塔」昭和36年10月号)と似ていてる。それでも、これまで知らなかった小さな発見のある貴重な文章であった。

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2016年08月04日

明治時代の「心の花」

「心の花」明治44年6月号の広告に、佐々木信綱「和歌入門」、片山廣子「郊外より」などと並んで、高安安子「首都の印象」とある。高安国世の母だ。

同じく9月号の広告には、石榑千亦「見張人」、木下利玄「清見潟より」、佐佐木信綱「夏の一日」などと並んで、高安月郊「波紋」とある。高安国世の伯父だ。

意外なところで知っている名前に出会うのは楽しい。

*この記事、書き方が良くなかったですね。
 「創作」に載っている「心の花」の広告ということです。

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2016年07月12日

榎南謙一のこと

プロレタリア詩人榎南謙一の作品が青空文庫に入っているのを見つけた。昨年末に新たに加わったらしい。「天瓜粉」「農村から」「無念女工」「夜雲の下」の4作品が入っている。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1630.html

以前はネットで「榎南謙一」を検索してもほとんどヒットしなかったのだが、近年のプロレタリア文学の再評価などもあって、青空文庫で作品が読めるようになったのだろう。

榎南謙一は若き日の高安国世に大きな影響を与えた人物である。その詳細については『高安国世の手紙』に書いた。本にも書いたように、名前は「かなんけんいち」で、高安と同じ1913年生まれで、1944年に亡くなっている。

青空文庫の名前に「えなみけんいち」、没年が1945年とあるのは誤り。ただし、これは青空文庫への入力に際して底本とされた『日本プロレタリア文学全集・39 プロレタリア詩集2』の記載が間違っているので、止むを得ないことだ。

榎南謙一については、岡山県労働組合総評議会編『岡山県社会運動史9 星霜の賦』(1978年)が詳しい。15ページにわたって榎南の生涯と作品のことが記されている。

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2016年05月24日

高安国世三都物語ツアー(京都編)

高安は第三高等学校教授となった昭和17年に、当時「学者村」と呼ばれた京都市左京区北白川に転居し、終生そこに暮らした。

今回のツアーのコースは次の通り。

@ 叡電茶山駅【集合】
A 銀月アパートメント
B 駒井家住宅(昭和2年、ヴォーリズ建築)
C 高安国世邸
D 東アジア人文情報学研究センター(昭和5年)
E 京都大学百周年時計台記念館歴史展示室
F 京都大学吉田南4号館(旧・E号館)
G カフェテリア・ルネ【昼食】
H バス停「京大正門前」→バス停「船岡山」
I 来光寺、高安国世のお墓【解散】


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東アジア人文情報学研究センター。
外壁に日時計があるのがオシャレである。


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京都から滋賀に抜ける「志賀越え道」にある子安観音。


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同じく大日如来。
地元の方々に大切にされているようだ。


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京都大学の時計台。
改修されて一階には歴史展示室が設けられている。


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京都大学旧E号館そばの吉田寮。
築100年を経た木造の学生寮である。
庭にはにわとりが飼われていて、しきりに啼いていた。

 私の研究室は京都大学教養部構内の最南端の建物にあって、南に知恩院、将軍塚あたりの丘を望み、やや右はるかには京都の市街の大部分が見渡され、駅近くの京都タワーも白いろうそくのように見えている。晴れた日、曇った日、雨の日、それぞれに趣がある。
 もともと高い所から町を見るのが好きな私は、この研究室があてがわれて大変感謝している。近くの吉田から聖護院にかけての町なみは古いカワラ屋根を敷きつめたように見え、二方を山にかこまれ、平和な日だまりのように見える。だが、おいおい四角い近代風の建築が調和を破るようになり、こういう平和が続くのもいつまでかというかすかな不安が、心をかすめることも多くなってきたこのごろである。
   高安国世「四階の窓」(「毎日新聞」昭和43年1月28日)

これで全3回のツアーも無事に終了。
参加して下さった皆さん、ありがとうございました。

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2016年05月14日

船場の小学校

昨日の朝日新聞(大阪本社版)夕刊に、船場で唯一の小学校である大阪市立開平小学校の児童数が増えているという話が載っていた。

開平小は1990年春、明治時代からの歴史を積み重ねてきた愛日(あいじつ)小と集英小が統合されて開校した。背景には児童数の減少があり、開校時にいた117人の児童も98年度には77人までに減った。

それがマンションの建設などによって2011年度から増加傾向となり、今年度は176人まで増えているのだそうだ。

1990年に統合された愛日小学校は、高安国世の通った学校である。先日、その跡を見てきたばかり。

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船場も時代とともにどんどん移り変わっている。

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2016年04月27日

高安国世三都物語ツアー(芦屋編)

昨日は10:00に阪神芦屋駅に集合して、高安国世ツアーの2回目。
参加者は14名。

@ 阪神芦屋駅【集合】
A 高安家別荘跡
B 芦屋川河口
C バス停「シーサイド西口」〜バス停「苦楽園」
D 恵ヶ池、苦楽園ホテル跡
E 苦楽園市民館【昼食】
F 堀江オルゴール博物館
G 下村海南邸跡
H バス停「苦楽園五番町」【解散】

という行程である。
途中30分ほどのバスでの移動を挟んで、歩行距離は約5キロ。

高安は幼少期と青年期を、この芦屋や苦楽園で過ごしており、阪神間モダニズムと呼ばれる文化の中で育ったのである。

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芦屋の海岸線は現在は埋め立てられて海が遠くなっているが、かつて高安家の別荘は海まで歩いてすぐの距離であった。芦屋川の河口付近は、かろうじて海の名残を感じさせてくれる場所である。

芦屋川口の両側の石垣は前からあった。幼い私たちは、たしかあれを砲台と呼んでいたようだ。墻壁の一番上のコンクリートの上は太陽に暖まって、水から上がって冷えた裸体を横たえるには持ってこいだった。砕ける波の音を直下に聞きながら、目をはるかに空や沖に遊ばせると、かぎりなく大きな大きなものが幼い胸の中にいっぱいにひろがるのだった。
              高安国世「芦屋の浜と楠」

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堀江オルゴール館は苦楽園の中でも特に高いところに位置していて、急な坂道を登ってようやくたどり着く。かつて中山太一(中山太陽堂創業者)の太陽閣があった場所である。

1993年開館のオルゴール専門の博物館で300台以上のアンティークオルゴールの展示と演奏を行っている。建物の3階に上がると、大阪湾が一望でき、あべのハルカスや大阪府咲洲庁舎(コスモタワー)も見える。

係員の方の説明も丁寧で、シリンダーオルゴールやディスクオルゴールの歴史がよくわかった。4月28日〜5月15日には「春の庭園特別公開」も行われるそうだ。

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2016年03月25日

高安国世三都物語ツアー(大阪編) その4

高安が詠んだ道修町の歌を、もう少し引いてみよう。

おびえ幼く憎みし商業のみの街旅人われの今日のやすけさ
つね病みて荷馬車馬蹄のひびきしか我さえに同じ我にあらねば
荷馬飼う土間より二階にのぼりたる友の家夢のごと幼くありき
生薬(きぐすり)と屑藁匂う町なりき今ひややけきビルの街筋
                 『虚像の鳩』

昭和40年の作品。
高安病院と高安の生家は昭和20年の空襲で焼失した。

1首目「おびえ幼く憎みし商業のみの街」という部分に、小学生時代の高安の道修町に対する思いが述べられている。4首目「今ひややけきビルの街筋」には、久しぶりに訪れた町の変貌ぶりが表れている。幼少期の自分を懐かしく思い出しているのだろう。

小学校時代の高安は、どんな少年だったのか。同級生の砂弌郎氏が「小学校の国世さん」という文章を書いている。(「塔」昭和60年7月号 高安国世追悼号)

(・・・)顧みれば大正九年、大阪の愛日小学校への就学時から、高安さんは素晴しく上品な紳士で、組中の者から注目された方でした。ご尊母様は有名な閨秀歌人で吃驚する程美しく、兄上は六年生で児童長だつたと思ひます。(・・・)私は不思議に高安君とはよく話もし、お住居(西欧童話に出てくる様な蔦にくるまれた瀟洒な三階建でした)へも二三度遊びに行き、彼もよく私の家へ来られました。

この「西欧童話に出てくる様な蔦にくるまれた瀟洒な三階建」の高安家については、住宅総合研究財団編『明治・大正の邸宅 清水組作成彩色図の世界』に、設計図や外観図が残されている。

廊下と二つの建物の間には「内庭」があり、壁泉が設けられている。こうした壁泉は、大正末から昭和初期にかけて流行するスパニッシュ様式の住宅に盛んに採用されており、流行を先取りしたものとして注目される。

通りに面した間口の狭さもあって敷地はそれほど広くないが、何ともオシャレな建物である。高安はそんな家の三男三女の病弱な末息子として育ったのである。

言い遺すごとく語りて飽かぬ姉あわあわと聞くわが父祖のこと
かかわりを避けつつ生きて来しかとも大阪の町古き家柄
ようやくに余裕をもちて聞く我か祖父母父母その兄弟のこと
                   『新樹』

昭和49年の作品。
姉から家族の歴史を聞いている場面である。以前は「かかわりを避け」ていた道修町や生家のことを受け入れて、「ようやくに余裕をもちて」聞くことができるようになった高安。そこには、ドイツ文学者・歌人としての自信が滲んでいると言っていい。

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2016年03月24日

高安国世三都物語ツアー(大阪編) その3

高安国世の生地は大阪の道修町だが、幼少期は身体が弱く喘息だったこともあって、芦屋の別荘で過ごした。そのため、幼稚園には通っていない。

生家の近くには愛珠幼稚園という日本で二番目に古い歴史を持つ幼稚園があり、高安の姉たちはここに通った。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387139030.html

「病弱で幼稚園にも行かなかった私」(「芦屋の浜と楠」)という意識は、その後の高安の生き方に少なからぬ影響を与えている。

高安が大阪の家に住むようになったのは、愛日小学校に入学してからである。「回顧と出発」(『若き日のために』所収)という自伝には、次のように書かれている。

 小学校へ行くやうになると、私は急に郊外の家から町の中へ移された。薬問屋が軒並に並んでゐる道修町のこととて、木煉瓦の上を荷車がよく通つた、重たげに荷を積んで――。
 鈍い轍の音に混つて、カッチンカッチンと車軸のところの金具が鳴り、ひづめの音が過ぎて行つた。昼前の光のなかにルノアールかなんかの模写のかゝつてゐる明るい天井際をぼんやりと眺めながら私は寝床の中で、家全体がびりびりと微かに揺れるのを背中で感じた。さうして荷車がだんだん遠ざかつて、振動がかすかになつてゆくのをおぼえてゐる間に、私は無限のしづかさといつたやうなものの予感にふるへ、無為の愉しさがひそかに骨髄をとろかしはじめるのをおぼえた。

寝床の中で、通りを行き交う荷馬車の音や振動を聞いている場面である。「ルノアールかなんかの模写のかゝてゐる」というところに、ヨーロッパへの留学経験を持つ父のいる高安家の雰囲気が表れている。

道修町に対する高安の思いは複雑だ。そこには愛憎半ばするものがある。

道修町をはじめ大阪の船場という地域は、商人の町、実業の町である。小学校の同級生も快活な商人の子が多かった。その中にあって、高安は医者というインテリの子であり、病弱ということもあって、周りとは肌が合わなかったようだ。

四十過ぎて集う小学校の友らみな酔い行きてそれぞれに落付きを持つ
商人の言葉なめらかに言い交わす友らにも今は親しまんとす
理解されざることも気易しと今は思う三十年過ぎて相逢う友ら
             『砂の上の卓』

40歳を過ぎて小学校の同窓会に出席した時の歌である。「商人の言葉」を話す同級生に対して、高安は大学の助教授である。「今は親しまんとす」という言い方には、昔(小学生の頃)は親しめなかったけれど、というニュアンスが含まれているのだろう。

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2016年03月23日

高安国世三都物語ツアー(大阪編) その2


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田辺三菱製薬本社。
ここの2階に、昨年資料館がオープンした。1678年の創業以来の歴史が詳しく紹介されている。

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1688年に朝廷から授かった勅許の看板。初代田邊屋五兵衛の「たなべや薬」が評価されてのこと。

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高安病院跡。
道修町と丼池筋の交差する西北側で、現在は日本圧着端子製造株式会社となっている。道を挟んだ南側に高安の生家があった。

往時の高安病院については、大阪歴史博物館デジタルミュージアムで写真を見ることができる。http://wwwdb.mus-his.city.osaka.jp/html/882431222569/0013.html
病院と一緒に写っている「高安道成」は国世の父。

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高安国世の通った愛日(あいじつ)小学校跡。
1872年の創立と歴史が古く、1990年に統合により閉校となった。
現在は商業施設「淀屋橋odona」となっている。

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2016年03月22日

高安国世三都物語ツアー(大阪編) その1

今日は10:00に北浜駅に集合して、高安国世三都物語ツアーの第1回として、大阪の道修町を歩いた。

@ 北浜駅【集合】
A 少彦名神社(神農さん)
B くすりの道修町資料館
C 武田科学振興財団杏雨書屋
D 田辺三菱製薬史料館
E 高安病院跡・高安国世生家跡
F 「彩食館 門」【昼食】
G 愛日小学校跡記念碑
H 淀屋橋駅【解散】

という行程。歩行距離は約2キロ。

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薬の神様として有名な少彦名(すくなひこな)神社。

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くすりの道修町資料館。
江戸時代の薬種問屋に始まり、近代以降は製薬・薬品会社の町として発展した道修町の歴史をわかりやすく解説している。

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展示されている漢方薬の原料。
桂皮、大棗、芍薬など。

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武田科学振興財団杏雨書屋(きょううしょおく)。
武田薬品工業の資料館。この建物は昭和3年竣工のかつての本社ビルである。

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2016年02月12日

キハダ

高安国世についてはかなり詳しいと自負しているのだが、最近「高安国世ツアー」の準備をしていて、以前には気づかなかったことに気づくことが多い。

例えば次の歌。

遙かなる人の庭にも立つというキハダの高き梢を仰ぐ
               高安国世『一瞬の夏』

1976年の「短歌」10月号に発表された「夏山の雨」の中の1首である。長野県飯綱高原の山荘での日々を詠んでいるのだが、この「遥かなる人」というのは一体誰のことだろう。

おそらく土屋文明に違いない。文明は山中湖畔に別荘を持っており、そこはキハダ(黄檗)の木にちなんで「黄木荘」と名付けられていた。高安は長野の山荘に立つキハダを見て、遠くの文明のことを思ったのだ。

実際に、それから数年して、高安は文明の「黄木荘」を訪れている。そのことについては、以前このブログで書いた。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138896.html

何も知らなければ特にどうということのない歌だが、高安の黄木荘行きのきっかけになった1首かもしれない。そうした背景を踏まえて読むと、随分と味わいが増すように思う。当時63歳であった高安の、師・文明に対する変わらぬ思いが滲んでいるのである。

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2016年02月09日

高安国世と西洋文学

昨年11月号の「短歌往来」に島内景二さんが「翻訳詩の功罪・・・上田敏の『海潮音』」という文章を書いている。島内はカール・ブッセの「山のあなた」、ヴェルレーヌの「落葉」などを例に、

上田敏の『海潮音』は、西洋の象徴詩を、日本語の大和言葉に移し替えた金字塔である。その後の日本の詩人が、日本語で象徴詩を創作し得たのは、上田敏の『海潮音』が、コロンブスの卵だったからである。

と、まずはその功績を言う。続いて

だが、光あれば、必ず影ができる。西洋の象徴詩を、大和言葉で、しかも時には定型詩で、翻訳したことの弊害が無いはずがない。
大和言葉になった象徴詩は、もはや本来の「象徴性」を喪失し、抒情詩に変型されているのではないか。
はっきり言おう。『海潮音』は、高踏的であることを目指していながら、結果的に「俗に流れる」点がある。(・・・)極論すれば、上田敏の翻訳詩は、日本人が本物の「象徴詩」を書く障害となったのではないか。

と指摘するのである。
なるほど、そういう見方もあるのか、鋭い分析だなと感心した。

その後、たまたま高安国世の歌論集『詩と真実』(1976年)を読んでいたところ、高安も既に同じようなことを述べているのに気づいた。

上田敏の訳詩が日本の詩に決定的な影響を与えたことは知られているが、あそこにある西洋は本当に西洋だったろうか。「山のあなたの空とおく」など西洋の詩としてはつまらぬものだ。日本人のほのぼのとしたセンチメンタルなエキゾチズムにそれはぴったりだったので、たちまち人口に膾炙し、津々浦々にカルル・ブッセの名前は行きわたった。ドイツ人でこの名前を知る人は少ない。
ヴェルレーヌの「秋の日の ヴィオロンの」なども、あまりに日本人好みだし、日本語となりすぎた。すべて外国文学が大衆に浸透するには、しかしそれほどの消化と変容を経なければならないのだ。しかし上田敏のあまりにも日本化され、あまりにもなめらかな翻訳のため、日本の詩人は西洋詩の骨格、思想や表現法を学ぶのに大まわりをしなければならなかったのだ。

ここで高安が「大まわりをしなければならなかった」と述べていることは、島内が「障害となった」と指摘しているのと、同じ結論と言っていい。

ドイツ文学の翻訳をし、自作短歌のドイツ語訳もしていた高安であるから、西洋文学と日本の詩や短歌との関係について考える機会も多かったのだろう。

高安自身の中でドイツ文学と短歌がどのように結び付いていたのか、「ドイツ文学者・高安国世」と「歌人・高安国世」はどういう関係にあったのか、という部分は、まだ十分には論じられていない問題だと思う。

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2016年01月17日

高安国世 三都物語ツアー

高安国世ゆかりの地を訪ね歩くツアーをします。
ご興味のある方は、ぜひ。
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2015年12月26日

「高安国世、三都物語」ツアー(企画中)

来年の春に「高安国世、三都物語」と題して、高安国世ゆかりの地をめぐるツアーを3回にわたって行う予定です。

今のところ、下記のような内容を考えているのですが、他にも「ここがおすすめ!」といったご意見や要望などがありましたら、お知らせ下さい。

第1回 大阪編
 ・高安病院跡
 ・高安国世生家跡
 ・くすりの道修町資料館
 ・愛日小学校跡記念碑
 ・田辺三菱製薬史料館

第2回 芦屋編
 ・高安家別荘跡
 ・下村海南邸跡
 ・苦楽園ホテル跡
 ・恵ヶ池

第3回 京都編
 ・高安邸
 ・銀月アパート
 ・京都大学E号館(現・吉田南4号館)
 ・来光寺(お墓)

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2015年06月06日

占領軍による接収住宅(その3)

高安国世には「サンドール夫人」の名前を詠み込んだ歌が3首ある。また、

我はユダヤ人なりと静かに夫人言ひたれば図らず心ゆらぎたり 『真実』
先の事は考へられぬといふ言葉今日はきくアメリカ士官の美しき妻に

といった歌も、サンドール夫人を詠んだものと見ていいだろう。
さらに、第3歌集『年輪』の巻頭にある「光沁む雲」の一連にも、このサンドール夫人は関わっているのではないかと私は考えている。

サンドール夫人とは一体誰なのか?
高安とどのような関係であったのか?

以前、『高安国世の手紙』を書いた際にいろいろ調べたのだが、結局はっきりしたことはわからなかった。進駐軍の下級将校の妻でユダヤ人であるという手掛かりしかないのだ。

けれども今回、接収住宅の話を聴いて、サンドール夫人が北白川小倉町近辺の接収住宅に住んでいた可能性が高いことに気が付いた。それを新たな手掛かりとして、サンドール夫人の正体がつかめるかもしれない。

実際に、栗原邸を接収して住んだ軍人も、ジェームズ・アップルワイト中尉とその家族であったことが判明している。京都府立総合資料館には当時の資料が数多く残されているらしい。

一度、調べに行こう。

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2015年06月05日

占領軍による接収住宅(その2)

引き続き、玉田浩之氏の「占領軍による接収住宅と接収施設地図の建築史的分析」より。

たとえば、北白川小倉町周辺は日本土地商事株式会社が大正15年に分譲を開始した宅地で、京大人文科学研究所に隣接し、大学教職員が多数住まいを構えたことで知られる。

高安国世は昭和17年に第三高等学校の教授となり、兵庫県西宮市からこの京都市左京区北白川小倉町に転居した。その後、亡くなるまでこの地で過ごしている。

高安の家は占領軍による接収は受けていないが、この地域に接収住宅が多かったという事実は、高安の次のような作品を読み解く手掛かりになるだろう。

汚れたる服にためらひ立ちたればグッドイーヴニングと言ひて来るサンドール夫妻                         『真実』
ボタン取れ胸汚れたる子を恥ぢて立止まるああサンドール夫人が来る
憂持つサンドール夫人の顔自動車の窓に見しより暫しの空想

昭和23年の作品である。

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2015年06月04日

占領軍による接収住宅(その1)

栗原邸のギャラリートークで玉田浩之氏(大手前大学准教授)が占領軍による接収住宅の話をしたのは、この栗原邸が戦後に接収を受けたからである。接収に際しては浴室がタイル張りの洋式にされたほか、部屋の壁が黄色や水色のペンキで塗られるといった改修を受けた。

建物の保存・修復にあたっては、ペンキをカッターで剥がすなどして、戦後の改修部分をできるだけ建築当初の状態に戻すことも行われている。

当日配布された資料「占領軍による接収住宅と接収施設地図の建築史的分析」には、京都で接収住宅の多かった地域が記されている。

そのほかの集積している地区としては、北白川小倉町(9戸)、下鴨地区(13戸)が挙げられる。また、東山区の今熊野北日吉町(10戸)や山科安珠(6戸)にも集中している。いずれも大正期から昭和初期にかけて土地会社や土地区画整理組合施行によって開発された分譲住宅地である。

「北白川小倉町」と言えば、高安国世の家があった場所だ。


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2015年02月12日

1960年の高安国世(その3)

このメッセージが掲載された「新日本歌人」は、昭和21年に渡辺順三を中心に結成された新日本歌人協会の機関紙「人民短歌」が昭和24年に名前を改めたもので、現在も続いている。

新日本歌人協会のHPによれば「日本の近代短歌史のなかで石川啄木がひらき、土岐哀果(善麿)、渡辺順三らが発展させてきた「生活派短歌」の系譜を引き継いでいます」とのことで、毎年、啄木祭を開催しているようだ。

このところ、永田和宏さんが特定秘密保護法などに関してよく発言をしている。
例えば2013年12月号の編集後記には

▼国会では特定秘密保護法案が強行採決されようとしている。これはある意味では戦後最大の脅威を持つ法案と言うべきであろうが、それがほとんど議論されないままに、数を頼んだ一点突破方式で決まろうとしていることに、芯から寒気を覚える。(…)こういう問題を直接本誌で言ってきたことはないが、これは政治の問題である以上に表現に携わる者の死活問題なのである。

と書いている。

1960年の高安国世の文章を読んで思うのは、「塔」にはこうした政治的な側面がもともとかなり強くあったということだ。この永田さんの文章には「塔短歌会のメッセージ」と共通したものがある。

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2015年02月10日

1960年の高安国世(その2)

以下、「塔短歌会メッセージ」の全文を引く。

 今日いよいよ理窟の通らぬ理窟を押し通そうとする傾向が露骨になって来た情勢の中で、啄木祭がおこなわれ、正しいものへの感覚をいかなる歌人にも先だって目覚ませて行った啄木をしのぶことは、まことに意義ふかいことを信じ、主催者ならびに参会者各位に敬意を表します。

 私たち歌を作る人間が、昔ながらの消極性に安んじていることは、特に今のような情勢の中では許されないことと考えられます。たとえ私たちの力が微かなものであるとしても、黙っていることは敗北主義に通じるものであることを考え、心ある人々と力を合わせて、真実なるものを見きわめ、私自身で私たちの生活の危険を防ぐことを考え合い、ひいては世界平和に貢献する努力を重ねて行きたいものと思います。

 今、啄木祭に集られた皆さまに、この気持をまごころを以てお伝えすると共に、真実の歌声をかかげて進まれる皆さまに、重ねて敬意と親愛の念を披歴するものであります。

「理窟の通らぬ理窟を押し通そうとする傾向」「今のような情勢の中では許されない」「黙っていることは敗北主義に通じる」といった強い言葉がならんでいる。

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2015年02月09日

1960年の高安国世(その1)

高安国世は政治的なできごととは距離を置くことの多かった人であるが、60年安保の時には、かなり政治的な発言が見られる。

当時の「塔」は黒住嘉輝、清原日出夫らを中心に、かなり政治的な立場を鮮明にした集団であった。1960年2・3月号には清原の代表作ともなった「不戦祭」が掲載されるとともに、特集「生活と政治」が組まれ、その後も政治をめぐる作品や文章がしばしば誌面に掲載されている。

高安もまた例外ではなかった。『高安国世の手紙』の「六〇年安保とデモ」にも書いた通り、この時期、高安は「塔」の編集後記で安保条約改定反対の立場を述べたり、強行採決に対する憤りを記したりしている。

最近になって入手した資料に「新日本歌人」1960年7月号に掲載された「塔短歌会メッセージ」という文章がある。「昭和35年5月22日 塔短歌会代表 高安国世」の名前で発表されたものだ。

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2014年12月30日

雪裡紅

手の届く限りはアララギ一冊にて「雪裡紅(しゆりほん)」の文におのづから
寄る                高安国世『真実』

1947年の作品。「病間録」と題する一連に入っており、「三月末急性肺炎。妻の母も軽い脳溢血にて静臥。やがて三人の子供も次々にはしかを病む」との詞書が付いている。家中が病人ばかりという状況にあって、作者は病床に臥せりつつ「アララギ」に手を伸ばす。

「雪裡紅」は、中国北部で産出するアブラナ科アブラナ属の野菜。からし菜の仲間である。中国では春の訪れを告げる食材として重宝されているらしい。

高安の手にしている「アララギ」は昭和22年3月号。そこには高安の師である土屋文明の「雪裡紅」という文章が載っている。当時、文明が連載していた「日本紀行」の14回目である。

今年は幸に寒気がゆるやかであるが、私の小さい菜圃はもう二月も雪が消えない。私は温い日がつづくと雪の上に緑の葉さきをのぞかせる雪裡紅を見にゆく。雪裡紅は次の雪が来れば又雪の下になつて行く。

川戸で自給自足に近い生活を送っていた文明は、雪裡紅を育てていたのである。病床の高安は、雪裡紅の持つたくましい生命力に励まされたに違いない。けれども、「おのづから寄る」と詠んでいるのは、そのためだけではない。「雪裡紅」には当時盛んだった第二芸術論への反論が記されているのだ。

短歌や俳句の様な古典が今に生きてゐる事は誰にも遠慮する必要のない事だ。それどころか貧しい日本の文化の中では自ら安んじてさへよい事であらう。
(…)島国の百姓の様なしみつたれた批評家と称する者が、彼等の芸術学とかにも文芸学とか言ふものにも当てはまらない短歌や俳句を抜き去らうとかかつて来るならば先づ彼等を排撃するのは我々の当面の責任だ。

短歌に寄せるこうした文明の熱い思いが、戦後の苦しい時期の高安の心を強く引きつけていたのである。

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2014年12月16日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その6)

ちなみに昭和16年に刊行された岩波文庫には、『ロダン』『シェイクスピアと独逸精神 上下』以外に、以下のようなドイツ文学の作品がある。

・クライスト『ペンテジレーア』吹田順助訳
・クライスト『ミヒャエル・コールハースの運命』吉田次郎訳
・クライスト『こわれがめ』手塚富雄訳
・ブレンターノ『ゴッケル物語』伊東勉訳
・フォンターネ『罪なき罪 上下』加藤一郎訳

さらに、文学に限らずドイツ関係のものを探せば

・マルティン・ルター『マリヤの讃歌 他一篇』石原謙、吉村善夫訳
・ランケ『政治問答 他一篇』相原信作訳
・ランケ『世界史概観』鈴木成高、相原信作訳

といった本も挙げることができる。

こうしたドイツブームとも呼べる状況の中で、高安国世訳のリルケ『ロダン』も刊行されたのであった。(終わり)

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2014年12月15日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その5)

その後も、散文を書いたり、歌の清書をしたり、選歌をしたり、人と会ったりして、8月の後半も過ぎて行く。夏も終ってしまうというのに、一体いつになったら『ロダン』を読むのだろうか。

茂吉が箱根を去って東京に帰るのは、9月12日のこと。
その2日前の9月10日に、ようやく茂吉は『ロダン』を読んでいる。

○終日雨ニテ籠居。ギリシヤ精神ノ様相、リルケノロダン、セキスピアトドイツ(グンドルフ)等ヲ読ム

ありがとう茂吉!ついに読んでくれたね、という感じだ。
ここに挙げられている3冊は、いずれも岩波文庫の本である。

・ブチャー『ギリシア精神の様相』田中秀央、和辻哲郎、寿岳文章訳 昭和15年
・リルケ『ロダン』高安国世訳 昭和16年
・グンドルフ『シェイクスピアと独逸精神 上下』竹内敏雄訳 昭和16年

グンドルフはドイツの文学史家。
この頃、ドイツ文学関係の本の出版は非常に多い。

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2014年12月14日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その4)

斎藤茂吉の『遠遊』『遍歴』収録の歌の整理は、途中「アララギ」の選歌などを挟みつつ、最終的に8月9日まで続く。『遠遊』の後記には

帰朝後実生活上の種々の事情のために、長らく放置してゐたのであつたが、「つゆじも」を編輯したから、ついでにこの「遠遊」もいそいで編輯したのであつた。

と記されている。
その後記には「昭和十五年夏記」とあるのだが、これはどういうことだろう。日記を見ると『遠遊』の編集をしているのは昭和16年の夏である。『斎藤茂吉全集』によれば

・『つゆじも』 「長崎詠草」といふ手帳は昭和十五年夏に箱根強羅に籠居して整理されたもので、歌集の原稿はこの手帳から昭和十六年夏に浄書されたのである。
・『遠遊』 昭和十六年夏に編輯を終へた。
・『遍歴』 昭和十六年夏に編輯を終へた。

となっている。やはり『遠遊』『遍歴』の編集は昭和16年の夏のことで、「昭和十五年夏記」は何らかの誤りかもしれない。

『つゆじも』に収められる歌の清書は8月11日から始まっている。

温泉岳療養中ノ歌(昨年夏整理)ヲ清書ス(8月11日)
長崎ノ歌清書、大正七、八年終ル、十年ニ入ル(8月12日)
大正十年長崎ヲ去ルヨリ清書、大正十年終ル(8月13日)


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2014年12月13日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その3)

6月17日に「今月末には行ってしまおう」と言っていた茂吉であるが、実際に箱根強羅の山荘に行ったのは7月2日のことである。日記には

○午前四時四十分出発、箱根ニムカフ。荷物重キタメニ自動車途中ニテパンクセリ。八時半強羅ニ着。

とある。なかなか大変な道のりだったようだ。

夜ハ左千夫小説、「隣ノ嫁」ヲ読ミハジム(7月3日)
「野菊ノ墓」ヨリ解説ハジム(7月5日)
「真面目ナ妻」解説、「去年」解説ヲシテ日ガ暮レタ(7月8日)
「分家」後篇ヲ読ム(7月10日)

など、箱根に行く前から続いていた伊藤左千夫関連の仕事が続く。これは昭和17年に『伊藤左千夫』として出版されるものだ。その後、

維也納到着ヨリ帳面ノ未完成歌ヲ整理シハジム(7月11日)
ドナウ下航、トブダペストノ雑歌ヲ少シク整理ス(7月15日)
帳面維也納大正十二年度。ソノ一部ヲ除イテ大体スンダ(7月19日)

など、後に歌集『遠遊』『遍歴』に収められる歌の整理が続く。

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2014年12月12日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その2)

以前『高安国世の手紙』にも書いた通り、岩波文庫のリルケ『ロダン』は高安国世が初めて出版した本である。奥付は昭和16年6月10日。解説の最後の部分には

本訳書の出るに当つては恩師成瀬無極先生並びに斎藤茂吉先生にいろいろお世話に与かり、また土屋文明先生からお励ましを頂いた。

と書かれている。
刊行後、すぐに茂吉にも謹呈されたようで、『斎藤茂吉全集』には次のような葉書が収められている。日付は昭和16年6月15日。

拝啓先般は失礼○ロダンいよゝゝ発行大に慶賀申上候一本御恵送大謝奉り候、原本も書架にありしゆゑ、照応して拝読楽しみにいた(ママ)申上候○御母上様の歌集もこの新秋には出来申すべく、頓首

「御母上様」とあるのは高安の母、高安やす子のこと。やす子の第2歌集『樹下』が刊行されたのは昭和16年11月25日。アララギ叢書第95編として、茂吉が序文を書いている。

前回の『茂吉随聞』で見た通り、茂吉は高安国世訳『ロダン』を箱根の山荘に持って行って、そこで読もうと考えていた。その予定は実際にはどうなったのか見ていこう。

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2014年12月11日

佐藤佐太郎、斎藤茂吉、高安国世(その1)

佐藤佐太郎の『茂吉随聞』を読んでいると、昭和16年6月17日にこんな箇所があった。

(…)それから箱根行きの予定をいって、「今月末には行ってしまおう。また都合で出て来てもいい。むこうにいれば、半日寝ても半日は勉強できるし、それに朝が早いから半日プラス朝だ。左千夫の小説はどうしても読んでしまわなくては」などと言われた。
 先生は書棚から高安国世氏訳の『ロダン』(岩波文庫)とその原書とをとって、「原文も出て来た。帰るちょっとまえに買ってカバンにおしこんであったんだ。原文と対照して読んでこようと思っている」と、挿図を一枚一枚見ながら「ここまで来るのに(バルザック像)、ずいぶんかかった。まえはすべすべしたのを作っていたのが変化してこうなったんだ。毛唐はおもしろいよ。なんか常識的なことを言っていながら、ひょっと常識をはずしている」と言われた。

茂吉の言動がありありと伝わってくる。
「帰るちょっとまえに」は、ヨーロッパ留学から日本に帰る直前にということ。リルケ『ロダン』の原書を買っているのだから、茂吉はやはり一流の知識人である。

茂吉がヨーロッパで購入して日本へ送った医学書などは病院の火事で焼けてしまった。『ロダン』は「カバンにおしこんであった」ので、無事に持ち帰れたわけだ。

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2014年10月04日

道修町(その3)

一度、「高安国世・三都めぐり」みたいなツアーをしてみたい。
朝、芦屋に集合して

芦屋、苦楽園 高安が幼少期を過ごした別荘跡、友人の下村正夫宅跡、
           高校時代に住んだ苦楽園ホテル跡
大阪道修町  高安病院跡、生家跡
京都、北白川 京都大学、高安家

などを巡るツアー。
その場所に関係する歌や文章などを読みながら歩いたら、楽しいだろうと思う。

最後は高安さんのお墓かな。
あるいは琵琶湖大橋まで足を延ばしてもいいかもしれない。


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2014年10月03日

道修町(その2)

道修町には、薬や医療の神様を祭る少彦名(すくなひこな)神社(神農さん)があり、その社務所ビルの3階には「くすりの道修町資料館」がある。

資料館には、大正13年当時の道修町の様子を再現した模型がある。

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丼池(どぶいけ)筋の北西角に「高安病院」があるのがわかる。
高安病院があった場所は、現在では日本圧着端子製造株式会社のビルになっている。

ちなみに居宅の方は、道を挟んだ南側の銭湯(芦の湯)の西隣にあった。
高安国世の兄、高安正夫の『過ぎ去りし日々』の中に、次のように書かれている。

この家は道修町四丁目の丼池の角から二軒目でお隣が風呂屋(銭湯)であったので朝ぶろに来た人が早くから顔を洗い歯をみがくらしくがーがー言う声、かたんかたんと木の桶を置く音が大きく反響して聞えてくるのであった。

そんな昔の様子を思いながら、近くにある「ドトールコーヒー道修町店」でアイスコーヒーを飲んだ。

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2014年10月02日

道修町(その1)

大阪船場の道修町(どしょうまち)は、江戸時代の薬種問屋から発展した伝統的な「薬の町」として知られている。現在も、武田薬品工業、塩野義製薬、大阪住友製薬などの大手製薬会社のほか、生薬を取り扱う店などが立ち並んでいる。

  IMG_3756.JPG

懐かしい仁丹の看板

  IMG_3758.JPG

ショーケースに展示されている生薬

道修町はまた、高安国世の生地でもある。
年譜には大正12年8月11日、「大阪市東区道修町四丁目二番地」に誕生したことが記されている。かつてこの道修町に、高安病院と高安家の居宅があった。

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