2018年03月10日

3月10日


3月10日は日露戦争の奉天会戦において日本軍が勝利した日。(1905年)

   明治三十八年三月十一日於奉天
 楡の老木末枯れ立てり枝ごとにやどるやどり木時得がほにて
 寄生木(やどりぎ)に榮(はえ)をゆづりて枯れぬべき老木に似たる國
 あらばいかに         森 鷗外『うた日記』

枯れてゆく「老木」(ロシア)に対して、日本を元気な寄生木に喩えている。
この戦いの勝利を記念して、翌年から3月10日は陸軍記念日となった。

そして、もちろん3月10日は東京大空襲の日でもある。(1945年)

 戦前の写真一葉もなき父に三月十日がまた訪れる
                藤島秀憲『二丁目通信』
 戦中を語らぬ父か語れざる父かまた来る三月十日
                小高 賢『長夜集』

「戦前の写真」が一枚もないのは、すべて空襲で焼けてしまったのだろう。
現在、3月10日は「東京都平和の日」になっている。(1990年〜)

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2012年02月29日

閏年

二月二十九日たたみの暮るるころ戦きておもふ死後は永遠
           竹山 広『千日千夜』
二月二十九日晴天 八十のこころ八十のからだを支ふ
           竹山 広『射祷』(「祷」は正しくは「示+壽」)

今年は4年に1度の閏年。2月が29日まである。

2月29日の歌を探してみると、竹山広の歌が二首見つかった。実はこれ、それぞれ76歳と80歳の誕生日の歌。竹山広は1920(大正9)年の2月29日生まれ。2010年に90歳で亡くなっているが、もし生きていれば、今日が92歳の誕生日だったことになる。
大正九年二月に二十九日ありきその日の生児(あかご)いまだ生きて覚む
            竹山 広『射祷』

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2012年02月09日

節分草

二月九日朝霜ゆるむ下ぐれに節分草はしろ花かかぐ
             石田比呂志『琅かん(王+干)』

第4歌集『琅かん』(1978)の一首。「かん」は「王」+「干」であるが、機種依存文字なのでひらがなにしておく。このあたりがワープロの不便なところ。

「琅かん」は硬玉の名前を表すほか、美しい竹という意味もある。「春香をふふめる風を孕むゆえ琅かんは鳴る竹の林に」という歌があるので、この歌集では後者の意味だろう。

節分草はキンポウゲ科の多年草で、節分の頃に白い五弁の花を咲かせる。カタクリなどとともに、開花後2〜3か月で一年の生活サイクルを終える典型的な早春植物である。

この歌は厳しい寒さの緩んできた時期に、地面に節分草の花を見つけて、春の訪れを感じているもの。「下ぐれ」はちょっと目に付きにくいような感じだろうか。林床のような場所かもしれない。

「二月九日」という日付が入っているのが面白い。日記の記述のようにさり気なく、それでいて確かな事実といった印象を与える。もちろん、これが「二月三日」では、節分と符合しすぎて逆効果だろう。

石田比呂志と言うと、すぐに反骨や無頼、豪放磊落といったイメージが思い浮かぶが、実はこうした繊細な歌も意外とたくさん残しているのである。

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2012年01月01日

放射能

放射能のこともいつしか言はなくなり雨が降る一月一日の晩
                  清水房雄『一去集』
まるで2012年現在の状況を詠っているかのような一首だが、もちろん今年の歌ではない。これは昭和34年(今から53年も前)に作られた歌である。

この歌の作られる5年前、昭和29年に第五福竜丸が水爆実験により被爆して船員が死亡するという事件が起きた。その後、「放射能マグロ」の問題などもあり、国内で反核運動が大きな盛り上がりを見せたのである。

この歌はおそらく、そういう時代を背景にした一首なのだろう。雨の降る夜の不安な思いが、ひしひしと伝わってくる。

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2011年10月21日

国際反戦デー

十・二一「国際反戦デー」といふ行事ありきいつも晴れてゐき
           花山多佳子『胡瓜草』
今日は朝からよく晴れていた。新聞ではリビアのカダフィ氏の死が報じられた。

「国際反戦デー」は、僕が学生だった頃(もう20年も前の話だ)には、まだかろうじて残っていて、この日にあわせて集会やデモなどが行われていた。もちろん、1968年や69年の闘争のことは、その頃すでに伝説であった。

「ありき」「晴れてゐき」と二回重ねられた過去の助動詞が、時代の移り変わりと歳月の経過をはっきりと印象づけている。もう、新聞などで「国際反戦デー」という言葉を目にすることもなくなった。
騒乱罪適用されしニュース告げ一〇・二一夜果てしなき
           道浦母都子『無援の抒情』

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2011年10月08日

カモウリ

うらなりのカモウリの根に十月八日米のとぎ汁かけて励ます
            河野裕子『紅』
カモウリという言葉は初めて聞いた。調べてみると、冬瓜(とうがん)の古い呼び方で、大阪などでは今でもよく使われる呼称のようだ。(カモウリと冬瓜は似ているけれど、別物だという話もある)

「うらなり」は、蔓の先っぽの方になった実のことで、成育の悪いことも意味している。そこから転じて顔色の悪い元気のない人のことも指すようになったらしい。『坊っちゃん』に出てくる英語教師のあだ名にも使われている。

そんな弱々しいカモウリ君を励まそうと、作者は米のとぎ汁を与えるのである。庭先で育てていたのだろう。

この歌は、何と言っても「うらなりのカモウリの根に」という言葉のながれ具合がいい。さらに言えば、十月八日という日付も単なる事実のようでありながら、微妙に「米」という漢字と響き合っている。そんな印象を受ける。


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2011年10月05日

赤黄の茸

永田和宏歌集『華氏』のなかに、こんな一首がある。
茂吉食いし赤黄(あかき)の茸何なりしゼノア十月五日の夜更
永田さんと言えば知る人ぞ知るキノコ好き。以前はよくキノコ採りにも出かけていたそうだ。エッセイ集『もうすぐ夏だ』にも、「モグラの雪隠茸」「ツキヨタケ観賞会」というキノコに関する話が収められている。

さて、この永田さんの歌の元ネタは、斎藤茂吉『遍歴』にある、次の一首である。
  ゼノア。十月五日夜著
【3首略】
港町(みなとまち)ひくきところを通り来て赤黄(あかき)の茸(きのこ)と章魚(たこ)を食ひたり
1924(大正13)年、ヨーロッパ滞在中の茂吉がイタリアを旅行した時の歌。「ゼノア」はジェノヴァのことである。

「ひくきところを通り来て」がいい。海に近いあたりを歩いて来たのだろう。そして市場かレストランのようなところで、茂吉は色鮮やかなキノコと蛸を食べたのだ。

ただし、「3首略」の1首目には、「夜もすがら街の雑音(ざつおん)のつづきくるこの一室(いつしつ)にまどろみたりき」というホテル滞在の歌がある。だから、キノコと蛸を食べたのは10月5日の夜更けではなく、6日の日中のことではないかと思うのだが、どうだろうか。

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2011年10月04日

鰯の日

10月4日はイワシの日。
「104」で「1(い)0(わ)4(し)」ということのようだ。
十月四日は鰯の日なりちりめんじゃこもだしじゃこも泳ぐイワシの海に
             澤辺元一『燎火』
ちりめんじゃこはイワシ類の稚魚を乾したもの。地方によって、呼び名はいろいろあるようだが、関西では日常的に使う言葉。

ちなみに10月10日はマグロの日。
こちらは語呂合わせではなくて、万葉集の山部赤人の鮪の歌(巻六―九三八)に由来しているとのこと。

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2011年07月24日

栗の歌(その3)

昭和31年の嘉麻郡への旅については、その時の歌も残されている。
古の嘉麻(かま)の郡の名をとどめ流るる川の炭坑のにごり
友八人米ノ山を大宰府に越えむとす憶良越えきやと語り合ひつつ
ほし草のにほふ峠の上も下もいまだ幼き芝栗の原
            『青南集』
前回の文章を読めばわかるように、三首目の「芝栗の原」も憶良の栗の歌を念頭に置いたものである。こうした点が、歌だけを読んでどこまで読み取ることができるのか。文明の歌を味わう難しさでもあるだろう。

昭和55年の「筑紫回想」には、こんな歌もある。
筑紫の旅その時々に楽しかりき行き難き老となりて思ふも
いま一度見たきは米の山峠の栗九月三日に熟するや否や
            『青南後集』
文明は既にこの時、90歳。さすがに九州へは「行き難き」身であっただろう。それでももう一度米ノ山峠に行って、9月3日に栗が熟しているかどうか確認したいという思いを抱き続けているのである。何という執念(?)だろうか。

さらに、同じ年にこんな歌も詠んでいる。
九月七日道のゆきずりに栗を得つ憶良に後くる四日ならむか
             『青南後集』
散歩の途中か何かに栗を拾ったのだろう。それが、憶良の栗の歌が詠まれた「九月三日」の四日後の九月七日だったというわけだ。何歳になっても文明の頭からは、憶良の栗のことが離れないのである。

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2011年07月23日

栗の歌(その2)

昭和31年、文明は「嘉摩三部作」の作られた福岡県の嘉麻郡(2006年には嘉麻市が誕生している)を訪れている。
(…)私が嘉摩郡に心を引かれたのは、神亀五年(七二八)七月二十一日、太陽暦で言えば九月三日に、当時筑前守、すなわちこの地方の長官であった山上憶良が、政務巡視の要務を帯びてこの嘉麻の郡役所に来、そこで作った歌が万葉集に長短十二首も載り、(…)
              「米ノ山越え」(『方竹の蔭にて』所収)

文明は当時の憶良の通った道を探して、太宰府から米ノ山を越えて飯塚方面へ抜ける道を(反対向きに)たどっている。
憶良が嘉麻郡役所で「瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めばましてしのばゆ」と歌ったのは、前に言うごとく陽暦の九月三日であるが、私たちの今越えてゆくのは八月七日であるから、もちろん栗のいがは青々としている。しかし低い木なのに、どの木にもじつにたくさんの実がなっている。私には、憶良がこの米ノ山を越えながら「栗食めば」の句に思いあたったのではあるまいかとさえ錯覚されるのであった。

前回引いた歌は昭和55年のものであるが、「筑紫回想」という一連に入っているので、この24年前の旅を回想しての一首ということになるのだろう。

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2011年07月21日

栗の歌(その1)

山上憶良栗の歌作りし七月二十一日太陽暦の九月三日なればなり
            土屋文明『青南後集』

1980年の歌。
秀歌でも何でもないのだが、これで成り立っちゃうのが文明である。

7月21日ではまだ栗の実の季節ではないが、太陽暦に換算すると9月3日になるので、栗の実が食べられたのだろうという内容。もちろん
瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来りしものそ 眼交(まなかひ)に もとな懸りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ
          「万葉集」巻5−802

という憶良の歌を踏まえている。
800番〜805番は「嘉摩三部作」と呼ばれる長歌+反歌の3セットで、「神亀五年七月廿一日、於嘉摩郡撰定。筑前国守山上憶良」と記されている。文明の「七月二十一日」はこれを指しているのだ。

神亀五年は西暦に直すと728年のことらしい。万葉集の研究者でもあった文明は、そんな古代の栗のことが気になるのである。

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2011年04月14日

初ツバメ

天井にきて飜りゆくつばめ四月十四日久留米駅の景  二宮冬鳥『南脣集』

そう言えば、今年はまだ初ツバメを見ていない。

気象庁が毎年、桜の開花情報を発表しているのは有名だが、実はサクラだけでなく、いろいろな植物や動物の情報を発表していることを最近になって知った。ウメやアジサイの開花、イチョウの黄葉、ウグイスやアブラゼミの初鳴、トノサマガエルやシオカラトンボの初見などもある。こうした「生物季節観測」の情報を、全国各地の気象台のHPで手軽に見ることができる。

京都地方気象台の生物季節観測によれば、今年のツバメはまだ京都には来ていないようだ。京都でのツバメの初見は、平年では3月26日、昨年は4月4日、これまでで最も早かったのは2月26日(1964年)、最も遅かったのは4月23日(1974年)といった記録が残っている。

気象庁の「ツバメ初見日の等期日線図」というのを見ると、ツバメの到来も桜前線のように日本列島を南から北へと進んでいくことがわかる。
ツバメの初見は、2月中旬から沖縄地方で始まります。3月20日に九州地方北
部・四国地方の一部・九州地方南部を結ぶ地域、3月31日に北陸地方、東海地
方を結ぶ地域、4月10日に北陸地方・関東甲信地方・東北地方南部を結ぶ地域、
その後、東北地方北部を北上し4月下旬に北海道地方に達します。

京都でツバメを見かけるのも、もう間もなくのことだろう。
でんせんにとまり危ふく揺れゐたり四月十八日、初つばめ  高野公彦『地中銀河』

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2010年10月22日

四月十日(その2)

その1を書いてから長いこと空いてしまった。
「四月十日」が出てくる文明の歌を挙げると次の通りになる。

  四つ目通りに地図ひろげ茅場町さがしたりき四月の十日五十年前 『青南集』
  国を出で五十七年の四月十日我より言ひて赤飯を食ふ      『続青南集』
  七十年になるらむと思ふ四月十日過ぎたる後に独り言ひ出づ   『青南後集』
  夕早く腹減れば食ふ物飲む物あり今日四月十日七十年      『青南後集』

つまり、文明の歌をずっと読んでいれば、年譜を見なくても「四月十日」という日は、文明が「国を出で」「茅場町をさがし」た日であることがわかる。そして、それは「赤飯を食ふ」ほど、文明にとって大切な記念日であったのだ。

年譜的なことを言えば、明治42(1909)年4月10日、18歳の文明は文学で身を立てようと志して上京し、本所茅場町の伊藤左千夫宅に身を寄せた。歌人土屋文明の出発点となった日である。

  四月十日八十たびも近からむ次ぎて十三日年かさねゆく     『青南後集以後』

この歌についても、そうした文明の思いを汲んで読むことが、やはり必要なのではないだろうか。ちなみに「十三日」については、これは私にも何の日かわからず年譜で調べてみた。昭和57年4月13日、妻のテル子が93歳で亡くなった日であった。

おそらく亡くなるまでは、毎年一緒に「四月十日」を祝っていたのではないだろうか。けれど、もう喜びを分かち合う妻はこの世にいない。そう考えると、この歌からはしみじみとした寂しさが感じられるように思う。

作者の年譜を参照する・しないについては、どちらが良いと決められるものではないだろう。ただ、この歌の観賞においては、年譜的な事実を踏まえて読んだ方がはるかに歌の味わいが増すというのが、私の考えなのである。
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2010年09月26日

四月十日(その1)

「短歌現代」9月号を読んでいる。「土屋文明 生誕120年」と題する特集が組まれていて、いろいろと参考になる。

その中で、古賀多三郎という方が『青南後集以降』について書いている文章が気になった。
   四月十日八十たびも近からむ次ぎて十三日年かさねゆく
 日付けと数字だけの不思議な歌である。
 だが、一読して強力に何かが訴えてくる。
 この訴えてくるものが何であるのかわからない。しかし、わからないながらも、この訴えてくるものを、読者は心しずかに受け止めればいいのではないか。
 短歌とは、そういうものであろう。四月十日、十三日も、文明の年譜などを調べれば、この日付けと数字が何であるかは、直ぐに判明するかもしれない。しかし、それがわかったとしても、それがどれほどの意味があるだろう。
 短歌は感動を受け取るものである。四月十日、十三日の事実関係を解明する必要は必ずしもないと私は考えている。

短歌の観賞において、年譜その他、作者に関する事実関係を参照しないというのは一つの有効な態度・方法であると思う。しかし、この歌に関して言えば、それで本当にこの歌が読めたことになるのかという疑問が残るのである。

文明の歌には、先行する歌を踏まえていないと十分に観賞できない歌がしばしば出てくる。それは文明短歌の弱点であると同時に、文明短歌を読む一つの面白さでもあると私は感じている。そして、「四月十日」という日付けもまた、年譜を見るまでもなく、文明短歌に既に登場している日付けなのである。
posted by 松村正直 at 01:30| Comment(0) | 日付の歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする