今日はたぶん静岡だな。
2025年10月31日
2025年10月30日
2025年10月29日
2025年10月20日
映画「わたのはらぞこ」
監督:加藤沙希
出演:神田朱朱、加藤沙希、豊島晴香ほか
都会の暮らしに疲れた女性が長野県上田市にやって来て、そこに住む人々と交わり、自然や歴史を感じることで自分を取り戻すというストーリー。
上田市は大学4年のアーチェリー部の夏合宿の帰りに仲間と車で訪れたことがある。上田城とか安楽寺の八角三重塔に行った。
学生生活最後の夏を惜しみながら、いろんな話をしたように思う。話した内容については全部忘れてしまったけれど。
覚えているのは仲間の一人が道路近くの桃だったか林檎だったかを捥いで食べたたこと。その後、みんなで食べた。(共犯)
もちろん、これは良い子は真似しちゃいけない悪事だけれど、確かにそんなことをしてみたくなる気分の旅だったのだ。
出町座、105分。
出演:神田朱朱、加藤沙希、豊島晴香ほか
都会の暮らしに疲れた女性が長野県上田市にやって来て、そこに住む人々と交わり、自然や歴史を感じることで自分を取り戻すというストーリー。
上田市は大学4年のアーチェリー部の夏合宿の帰りに仲間と車で訪れたことがある。上田城とか安楽寺の八角三重塔に行った。
学生生活最後の夏を惜しみながら、いろんな話をしたように思う。話した内容については全部忘れてしまったけれど。
覚えているのは仲間の一人が道路近くの桃だったか林檎だったかを捥いで食べたたこと。その後、みんなで食べた。(共犯)
もちろん、これは良い子は真似しちゃいけない悪事だけれど、確かにそんなことをしてみたくなる気分の旅だったのだ。
出町座、105分。
2025年09月22日
御在所岳(その2)
2025年09月21日
御在所岳(その1)
先日、桑名で開催した別邸歌会のあと四日市に泊まった。
桑名より宿泊代が安かったからである。
翌日、時間があったので乗ったことのない鉄道路線に乗ってみようと思い立って四日市駅に行った。四日市あすなろう線か近鉄湯の山線か迷った末に湯の山線に乗車。
50分ほどで終点の「湯の山温泉駅」に到着。温泉街をぶらぶら散策して帰ろうかと思っていたのだが、駅前は閑散としている。どうやら温泉街は駅から離れていてバスで行くしかないようだ。
しばらく待って路線バスに乗ると10分ほどで湯の山温泉に着く。バスを降りると目の前に「御在所ロープウエイ」の乗り場がある。

赤いゴンドラが次々と御在所岳へ登っていく。三連休ということもあって多くの家族連れなどで賑わっている。みんな車でここまでやって来たようだ。
せっかくなので乗ってみることにする。
麓の駅(標高400メートル)から山上公園駅(標高1180メートル)まで12分。かなりの高低差があって、迫力ある風景が展開する。

山上公園駅から見下ろすとこんな感じ。
気温は20度。下界とは別世界のような涼しさだ。

山上公園駅近くの見晴台からの眺め。
遠くに伊勢湾が見える。

御在所岳頂上。標高1211.95メートル。
桑名より宿泊代が安かったからである。
翌日、時間があったので乗ったことのない鉄道路線に乗ってみようと思い立って四日市駅に行った。四日市あすなろう線か近鉄湯の山線か迷った末に湯の山線に乗車。
50分ほどで終点の「湯の山温泉駅」に到着。温泉街をぶらぶら散策して帰ろうかと思っていたのだが、駅前は閑散としている。どうやら温泉街は駅から離れていてバスで行くしかないようだ。
しばらく待って路線バスに乗ると10分ほどで湯の山温泉に着く。バスを降りると目の前に「御在所ロープウエイ」の乗り場がある。
赤いゴンドラが次々と御在所岳へ登っていく。三連休ということもあって多くの家族連れなどで賑わっている。みんな車でここまでやって来たようだ。
せっかくなので乗ってみることにする。
麓の駅(標高400メートル)から山上公園駅(標高1180メートル)まで12分。かなりの高低差があって、迫力ある風景が展開する。
山上公園駅から見下ろすとこんな感じ。
気温は20度。下界とは別世界のような涼しさだ。
山上公園駅近くの見晴台からの眺め。
遠くに伊勢湾が見える。
御在所岳頂上。標高1211.95メートル。
2025年08月17日
唐津(その3)
旧大島邸。
旧唐津銀行を創立するなど唐津の近代化に尽くした大島小太郎の旧宅を移転・復原したもの。
庭に面した廊下。
建物の中はこんな感じ。和室15畳+10畳+8畳+8畳+8畳+6畳+6畳という構成。
入館料無料なので、代わりに冷たい抹茶(500円)を頼んで庭を見ながらのんびり過ごす。他に見学者はいない。
旧高取邸。
炭鉱主として知られる高取伊好(たかとり・これよし)の邸宅。国の重要文化財。こちらは家族の住む「居室棟」になる。
奥の方が接客のための「大広間棟」。
建物の中になんと能舞台が設けられているという豪華さ。残念ながら館内は写真撮影禁止なので、外観のみで。
唐津での宿泊は「洋々閣」。
昨年、藤井聡太王位と渡辺明九段の第65期王位戦第4局が行われた老舗旅館である。
女将の大河内はるみさんに、市丸利之助の生家やお墓を案内していただくなど、たいへんお世話になった。ありがとうございます。
2025年08月16日
唐津(その2)
唐津城。
松浦川が唐津湾に注ぐ河口付近の小高い山の上にある。こうして見ると、まるで海に浮かんでいるみたい。
近くから見るとこんな感じ。
1966(昭和41)年に建てられた模擬天守である。
天守からの眺め。北側の唐津湾と高島。
東側の舞鶴橋と満島(東唐津)。
東側の遠くには虹の松原が見える。
南側に広がる市街地。
展望広場の藤棚近くに立つ茂吉の歌碑。
松浦河月あかくして人の世のかなしみさへも隠さふべしや
『つゆじも』収録の「唐津浜」の一首。結句は万葉集の額田王の三輪山の歌と同じ言い回し。
歌集には他にこんな歌もある。
城址にのぼり来りて蹲(しやが)むとき石垣にてる月のかげの明るさ
茂吉が訪れたときは、もちろん今のような模擬天守はなかった。
2025年08月15日
唐津(その1)
先月27日から30日まで3泊4日で佐賀県の唐津を訪れた。3泊と言っても往復が夜行バスで現地には1泊だけというスケジュール。

JR唐津駅前にある「五足の靴文学碑」。1907(明治40)年、与謝野寛・北原白秋・平野万里・太田正雄(木下杢太郎)・吉井勇の5名が九州をめぐる旅をした際に唐津を訪れている。
と言っても『五足の靴』には唐津の話はあまり載っていないので、碑に記されてるのは木下杢太郎の詩「はためき」である。

旧唐津銀行(辰野金吾記念館)。
唐津出身の建築家 辰野金吾の監修のもと、弟子の田中実が設計した建物で、1912(明治45)年の竣工。いわゆる「辰野式」のスタイルである。

1階は銀行の窓口。ロビーは2階まで吹抜けになっている。

重役室だった部屋。

建物の外に立つ辰野金吾とベンチに座る曽禰達蔵の銅像。
二人はともに唐津出身で、工部大学校造家学科(後の東京大学建築学科)の一期生(4名)としてジョサイア・コンドルに建築を学んだ。

西の浜。
海がきれい。空がきれい。松がきれい。

斎藤茂吉の歌碑。
『つゆじも』収録の歌。茂吉は1921(大正10)年8月30日から9月11日まで療養のために唐津を訪れ、「唐津浜」25首を残している。
宿泊した「木村屋旅館」は現在「渚館きむら」と名を変えて同じ場所にあり、その海側に歌碑が立っている。
『つゆじも』には旅館の食事のことを詠んだ
といった歌もあるのだが、さすがに歌碑には向かないと判断されたのだろう。
JR唐津駅前にある「五足の靴文学碑」。1907(明治40)年、与謝野寛・北原白秋・平野万里・太田正雄(木下杢太郎)・吉井勇の5名が九州をめぐる旅をした際に唐津を訪れている。
と言っても『五足の靴』には唐津の話はあまり載っていないので、碑に記されてるのは木下杢太郎の詩「はためき」である。
旧唐津銀行(辰野金吾記念館)。
唐津出身の建築家 辰野金吾の監修のもと、弟子の田中実が設計した建物で、1912(明治45)年の竣工。いわゆる「辰野式」のスタイルである。
1階は銀行の窓口。ロビーは2階まで吹抜けになっている。
重役室だった部屋。
建物の外に立つ辰野金吾とベンチに座る曽禰達蔵の銅像。
二人はともに唐津出身で、工部大学校造家学科(後の東京大学建築学科)の一期生(4名)としてジョサイア・コンドルに建築を学んだ。
西の浜。
海がきれい。空がきれい。松がきれい。
斎藤茂吉の歌碑。
肥前なる唐津の濱に宿りして唖のごとくに明け暮れむとす
『つゆじも』収録の歌。茂吉は1921(大正10)年8月30日から9月11日まで療養のために唐津を訪れ、「唐津浜」25首を残している。
宿泊した「木村屋旅館」は現在「渚館きむら」と名を変えて同じ場所にあり、その海側に歌碑が立っている。
『つゆじも』には旅館の食事のことを詠んだ
海のべの唐津のやどりしばしばも嚙みあつる飯(いひ)の砂のかなしさ
飯(いひ)の中にまぎれる砂を気にしつつ海辺の宿に明暮れにけり
といった歌もあるのだが、さすがに歌碑には向かないと判断されたのだろう。
2025年08月01日
伊根
先月、別邸歌会で宮津に泊まった翌日、さらに北の伊根町へ行ってきた。近年「海の京都」として人気の高まっている地域だ。
宮津から伊根までは路線バスで約1時間。

まずは伊根湾めぐり遊覧船に乗る。
約25分かけて伊根湾をぐるっと一回り。

餌のかっぱえびせんを求めて遊覧船にやって来るカモメ。

伊根湾に向いて立ち並ぶ舟屋。
一階部分が舟を入れる場所で二階部分が住居になっている。

重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている。

遊覧船を降りて伊根の町並みを散策。
道路側から見た舟屋の一階はこんな感じになっている。

海の色が深くて鮮やか。

ゆるキャラの「ふなやん」がデザインされた側溝の蓋。
伊根といえば、映画「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」のいしだあゆみのことが思い出されるな。
宮津から伊根までは路線バスで約1時間。
まずは伊根湾めぐり遊覧船に乗る。
約25分かけて伊根湾をぐるっと一回り。
餌のかっぱえびせんを求めて遊覧船にやって来るカモメ。
伊根湾に向いて立ち並ぶ舟屋。
一階部分が舟を入れる場所で二階部分が住居になっている。
重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている。
遊覧船を降りて伊根の町並みを散策。
道路側から見た舟屋の一階はこんな感じになっている。
海の色が深くて鮮やか。
ゆるキャラの「ふなやん」がデザインされた側溝の蓋。
伊根といえば、映画「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」のいしだあゆみのことが思い出されるな。
2025年07月08日
宝塚駅周辺観光
先日宝塚の観劇に行った際に、駅の周辺を案内していただいた。
駅を出て武庫川にかかる宝来橋を渡ると、橋のたもとに与謝野晶子の歌碑がある。


「歌劇」創刊号(大正7年8月号)に載った歌で、歌集には収められていないようだ。
https://www.tca-pictures.net/books/kageki100th/ayumi/

宝塚温泉碑。
晶子の歌碑と道を挟んだ反対側にある。古い絵葉書にも写っているもので、明治時代に建てられた碑のようだ。
https://adeac.jp/takarazuka-city/viewer/mp4020250-200020/402-025/
絵葉書「摂津宝塚温泉浴室」

丁字ヶ滝。
かつて「宝塚八景」の一つとして有名だったらしい。古い絵葉書を見ると滝の前に茶店などもあって賑わっていたようだが、今ではほとんど訪れる人もいない。
https://adeac.jp/takarazuka-city/viewer/mp4020120-200020/402-012/
絵葉書「摂津宝塚丁字ヶ瀧」
駅を出て武庫川にかかる宝来橋を渡ると、橋のたもとに与謝野晶子の歌碑がある。
武庫川の板の橋をばぬらすなりかじかの声も月の光も
/与謝野晶子
「歌劇」創刊号(大正7年8月号)に載った歌で、歌集には収められていないようだ。
https://www.tca-pictures.net/books/kageki100th/ayumi/
宝塚温泉碑。
晶子の歌碑と道を挟んだ反対側にある。古い絵葉書にも写っているもので、明治時代に建てられた碑のようだ。
https://adeac.jp/takarazuka-city/viewer/mp4020250-200020/402-025/
絵葉書「摂津宝塚温泉浴室」
丁字ヶ滝。
かつて「宝塚八景」の一つとして有名だったらしい。古い絵葉書を見ると滝の前に茶店などもあって賑わっていたようだが、今ではほとんど訪れる人もいない。
https://adeac.jp/takarazuka-city/viewer/mp4020120-200020/402-012/
絵葉書「摂津宝塚丁字ヶ瀧」
2025年06月12日
宮津旅行(その2)
2025年06月11日
宮津旅行(その1)
先日、別邸歌会の会場の下見のために京都府宮津市へ行ってきた。
JR藤森駅6:14発に乗って、宮津駅到着は10:01。普通列車だと4時間弱かかるが2390円で行くことができる。長時間の列車の移動はまったく苦にならない。本を読んだり、景色を眺めたり、眠ったり。

1962(昭和37)年竣工の宮津市役所。
設計は沖種郎。いかにもモダニズム建築という感じのする建物だ。

カトリック丹後教会宮津教会堂。
1886(明治19)年にフランス人宣教師ルイ・ルラーブの設計で建てられたもので、重要文化財に指定されている。

反対側から見ると、建物の入口はこんな感じ。

1923(大正12)年竣工のキセンバ港館(旧橋北汽船本社)。
海のすぐ近くに映画のセットみたいに立っている。

「みやづし」のマンホール。
宮津市と言えば天橋立が有名。

宮津湾に面したショッピングモールの5階から眺めた海。
奥の方の山並みとつながってしまって写真ではわかりにくいが、天橋立の全長を見ることができる。
JR藤森駅6:14発に乗って、宮津駅到着は10:01。普通列車だと4時間弱かかるが2390円で行くことができる。長時間の列車の移動はまったく苦にならない。本を読んだり、景色を眺めたり、眠ったり。
1962(昭和37)年竣工の宮津市役所。
設計は沖種郎。いかにもモダニズム建築という感じのする建物だ。
カトリック丹後教会宮津教会堂。
1886(明治19)年にフランス人宣教師ルイ・ルラーブの設計で建てられたもので、重要文化財に指定されている。
反対側から見ると、建物の入口はこんな感じ。
1923(大正12)年竣工のキセンバ港館(旧橋北汽船本社)。
海のすぐ近くに映画のセットみたいに立っている。
「みやづし」のマンホール。
宮津市と言えば天橋立が有名。
宮津湾に面したショッピングモールの5階から眺めた海。
奥の方の山並みとつながってしまって写真ではわかりにくいが、天橋立の全長を見ることができる。
2025年05月17日
桑名(その2)
六華苑(旧諸戸清六邸)。
桑名の実業家、二代諸戸清六の邸宅として大正2年に竣工。重要文化財の洋館と和館のほか、番蔵棟、離れ屋などの建物と広い庭園がある。洋館はジョサイア・コンドルの設計によるもの。
洋館の中はこんな感じ。
和館の廊下はこんな感じ。長い。
六華苑に隣接する「諸戸氏庭園」の入口となる本邸(重要文化財)。
庭園はひたすら広い。このあたりは菖蒲池。
御殿と池。
庭内に立つ三畳の「推敲亭」の扁額。
「諸戸氏庭園」は初代諸戸清六の二男精太が跡を継いだ諸戸宗家(西諸戸家)のもので、「六華苑」は初代諸戸清六の四男(二代諸戸清六)の諸戸本家(東諸戸家)のものだった。
両家は今でも数々の会社を経営し、「諸戸グループ」を形成しているとのこと。
2025年05月16日
桑名(その1)
石薬師(鈴鹿市)に行った日は四日市に泊まり、翌日は桑名へ。

まずはマンホールの蛤。
「その手は桑名の焼き蛤」ということわざでも有名。

同じくマンホールの「七里の渡し」。
かつて東海道の桑名宿から宮宿(愛知県名古屋市熱田区)までは海路で結ばれていた。桑名は東海道の宿場町であり、桑名藩の城下町であり、木曽三川から伊勢湾へ出る港町でもあった。

「七里の渡し」の碑。

今はもう渡し舟はなく、伊勢国の一の鳥居が立っている。この鳥居は20年に一度、伊勢神宮の宇治橋前の鳥居のお下がりをいただいているのだそうだ。

どーんと広がる揖斐川。
この風景だけでも見に来る価値がある。遠く奥の方に見えているのは長良川河口堰。このあたりで揖斐川と長良川は合流する。

川のすぐ近くにある「蟠龍櫓」(ばんりゅうやぐら)。
かつての城の櫓を模して2003年に建てられた水門の管理棟で、2階は展示室&展望台になっている。

桑名城跡の九華(きゅうか)公園。
かつての本丸と二の丸跡が公園になっている。桑名は旧かなで書くと「くはな」。それを「九(く)華(はな)」と表したのだが、この由来は新かなの現代ではちょっと伝わりにくい。

ひたすらのどかで暖かい。堀の水はかなり緑色をしている。

本多忠勝の像。
徳川四天王の一人で桑名藩の初代藩主。右肩の後ろに槍が立っているのだが、長すぎて先端が写真に入りきらない。
まずはマンホールの蛤。
「その手は桑名の焼き蛤」ということわざでも有名。
同じくマンホールの「七里の渡し」。
かつて東海道の桑名宿から宮宿(愛知県名古屋市熱田区)までは海路で結ばれていた。桑名は東海道の宿場町であり、桑名藩の城下町であり、木曽三川から伊勢湾へ出る港町でもあった。
「七里の渡し」の碑。
今はもう渡し舟はなく、伊勢国の一の鳥居が立っている。この鳥居は20年に一度、伊勢神宮の宇治橋前の鳥居のお下がりをいただいているのだそうだ。
どーんと広がる揖斐川。
この風景だけでも見に来る価値がある。遠く奥の方に見えているのは長良川河口堰。このあたりで揖斐川と長良川は合流する。
川のすぐ近くにある「蟠龍櫓」(ばんりゅうやぐら)。
かつての城の櫓を模して2003年に建てられた水門の管理棟で、2階は展示室&展望台になっている。
桑名城跡の九華(きゅうか)公園。
かつての本丸と二の丸跡が公園になっている。桑名は旧かなで書くと「くはな」。それを「九(く)華(はな)」と表したのだが、この由来は新かなの現代ではちょっと伝わりにくい。
ひたすらのどかで暖かい。堀の水はかなり緑色をしている。
本多忠勝の像。
徳川四天王の一人で桑名藩の初代藩主。右肩の後ろに槍が立っているのだが、長すぎて先端が写真に入りきらない。
2025年05月13日
石薬師(その3)
石薬師の地名の元になった「石薬師寺」。
本堂(薬師堂)の前に歌川広重「東海道五十三次之内 石薬師」の大きな複製が掲示されている。絵の左側に描かれているのが石薬師寺。
本尊は石に刻まれた薬師如来(秘仏)。年に1度、12月20日に御開帳になるそうだ。
参道の青もみじが美しい。
信綱の歌碑。
「蝉時雨石薬師寺は広重の画に見るがごとみどり深しも」
石薬師寺は今も緑に包まれて雰囲気が良い。でも、境内のすぐ横を国道1号線が通っていて車の往来が激しいので、一歩外へ出ると現実に引き戻される。
河曲駅へ戻る途中で偶然見つけた「山辺の御井」(やまのへのみい)の碑。
まったく知らなかったのだが、万葉集にも詠まれた泉であるらしい。
でも、ほとんど水は無かった。
そして誰もいない。
2025年05月12日
石薬師(その2)
信綱が地元に寄贈した「石薬師文庫」前に立つ歌碑。
ふるさとの鈴鹿の嶺呂の秋の雲あふぎつつ思ふ父とありし日を
佐佐木信綱
傾けてバイクを駆れる群が行く鈴鹿の山は父祖のふるさと
佐佐木幸綱
信綱の歌に出てくる「嶺呂」(ねろ)は万葉集に見られる上代東国方言で「嶺」(みね、ね)のこと。「父」は国学者・歌人の佐々木弘綱(1828-1891)。
信綱生家前を通る旧東海道。
街道沿いに家があるというのは、ネットなどのなかった当時かなり大きなメリットだったにちがいない。探検家・著述家として活躍した松浦武四郎の生家が伊勢街道沿いにあったことなどを思い出す。
浄福寺前にある「佐々木弘綱翁紀念碑」。
姓が「佐々木」であることに注目。「佐佐木」が使われ始めるのは信綱が1903年に中国を訪れてからのこと。
同じ場所にある佐佐木幸綱の歌碑。
「しゃくなげを愛し短歌をすずか嶺を愛し石薬師を愛したる人」
これは祖父の信綱のこと。
旧東海道石薬師宿の南北約1.8キロが「信綱かるた道」と名付けられ、あちこちに信綱の歌計50首が掲示されている。
「いきいきと目をかがやかし幸綱が高らかに歌ふチューリップのうた」
「幼きは幼きどちのものがたり葡萄のかげに月かたぶきぬ」
「蝉時雨石薬師寺は広重の画に見るがごとみどり深しも」
このあたりの旧東海道は車通りも少なく、信綱の歌を探しながら歩くのにちょうどいい。
2025年05月11日
石薬師(その1)
三重県鈴鹿市石薬師町へ行く。

最寄り駅はJR関西本線の「河曲」。
読み方は「かわの」。これは知らないと読めないな。
駅から約2キロの道のりを歩く。

石薬師はかつて東海道の宿場町だったところ。
現在も旧東海道や国道1号線が通っている。

旧東海道に面して「佐佐木信綱資料館(記念館)」がある。
信綱(1872-1963)の色紙や短冊、著書などの資料が展示されている。入館料は無料。

資料館の前に咲いているウツギ(卯の花)。
信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」にちなんであちこちに植えられている。

資料館の隣にある信綱の生家。
満5歳まで信綱はこの家で暮らした。

生家の庭にある「佐佐木信綱先生 産湯の井戸」。
水道の時代に生まれた人には、もうこういうものは残らない。

生家の前にある信綱の歌碑(幸綱書)。
「目とづればここに家ありき奥の間の机のもとに常よりし父」
信綱一家が転居した後、生家は他家の個人宅となり別の場所に移築され、ここにはなかった。そのため「ここに家ありき」と過去形で詠まれている。信綱の死後、昭和45年に鈴鹿市によって元の場所に再移築されたそうだ。
信綱も喜んでいることだろう。
最寄り駅はJR関西本線の「河曲」。
読み方は「かわの」。これは知らないと読めないな。
駅から約2キロの道のりを歩く。
石薬師はかつて東海道の宿場町だったところ。
現在も旧東海道や国道1号線が通っている。
旧東海道に面して「佐佐木信綱資料館(記念館)」がある。
信綱(1872-1963)の色紙や短冊、著書などの資料が展示されている。入館料は無料。
資料館の前に咲いているウツギ(卯の花)。
信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」にちなんであちこちに植えられている。
資料館の隣にある信綱の生家。
満5歳まで信綱はこの家で暮らした。
生家の庭にある「佐佐木信綱先生 産湯の井戸」。
水道の時代に生まれた人には、もうこういうものは残らない。
生家の前にある信綱の歌碑(幸綱書)。
「目とづればここに家ありき奥の間の机のもとに常よりし父」
信綱一家が転居した後、生家は他家の個人宅となり別の場所に移築され、ここにはなかった。そのため「ここに家ありき」と過去形で詠まれている。信綱の死後、昭和45年に鈴鹿市によって元の場所に再移築されたそうだ。
信綱も喜んでいることだろう。
2025年05月08日
帰宅
1泊2日の小旅行から帰宅。
思い付くままに感想を。
晴天に恵まれて発見や収穫の多い二日間だった。
ひたすら歩いて、かなり日焼けした。
思い付くままに感想を。
・JR藤森駅から桑名駅まで、たった1980円で行ける!
・休館日は確認してから出かけよう。
・明治大正期の諸戸家は桁外れのお金持ち。
・ボランティアガイドの方は何でもよく知っている。
・桑名は木曽三川から伊勢湾につながる交通の要衝。
・JR四日市駅を出ると何もない。
・JR四日市駅と近鉄四日市駅はかなり離れている。
・鈴鹿市石薬師周辺では佐佐木家の存在感が圧倒的。
・「生家+記念館」は近代歌人に必須の場所かも。
・三重に泊まるとテレビでは中日戦をやってる。
・JRはなぜ関西本線を複線化、高速化しないのか?
晴天に恵まれて発見や収穫の多い二日間だった。
ひたすら歩いて、かなり日焼けした。
2025年05月07日
2025年04月20日
伏見と仁丹看板
私の住んでいる伏見(京都市伏見区)は、もともと城下町・宿場町・港町として発展した場所で、京都とは別の町であった。
先日読んだ『京都を歩けば「仁丹」にあたる』を手掛かりに、その名残を探して歩く。

民家の2階に設置された仁丹看板。
よく見ると「伏見区」ではなく「伏見市」新町三丁目と書いてある。

こちらも同じく「伏見市」京町大黒町。
『京都を歩けば「仁丹」にあたる』では次のように説明されている。
つまり、これらの看板が設置されたのは、1929年5月(伏見市への昇格)から1931年4月(京都市への編入)までの間ということになる。
なんとも貴重な歴史の証人ではないか。
一方で、仁丹看板は年々その数を減らしているらしい。もともと古い家屋に設置されているものが多いので、建物の解体に伴って取り外されたり廃棄されたりしているのだ。
今回も本をもとに探した3枚のうちの1枚は見つからなかった。新しい家が建っていたので、おそらく取り外されてしまったのだろう。

代わりに(?)見つけたのがこの石柱。
「桝形町」「皇紀二千六百年記念」とある。伏見を歩いていて見つかる記念碑は御大典記念(1928年)と皇紀二千六百年記念(1940年)のものが圧倒的に多い。
駐車場の角に傾いて立っているけれど、いつもまでもお元気で!
先日読んだ『京都を歩けば「仁丹」にあたる』を手掛かりに、その名残を探して歩く。
民家の2階に設置された仁丹看板。
よく見ると「伏見区」ではなく「伏見市」新町三丁目と書いてある。
こちらも同じく「伏見市」京町大黒町。
『京都を歩けば「仁丹」にあたる』では次のように説明されている。
昭和になって京都市は「大京都市」をうたって周辺町村の編入を進めていく。当然のことながら伏見町も対象になった。しかし、伏見町は吸収合併ではなく、あくまで対等合併にこだわった。伏見市への昇格はそのためで、昇格からわずか700日後の1931(昭和6)年4月に伏見市は周辺の深草町や下鳥羽村などとともに編入され、広大な伏見区が誕生した。
つまり、これらの看板が設置されたのは、1929年5月(伏見市への昇格)から1931年4月(京都市への編入)までの間ということになる。
なんとも貴重な歴史の証人ではないか。
一方で、仁丹看板は年々その数を減らしているらしい。もともと古い家屋に設置されているものが多いので、建物の解体に伴って取り外されたり廃棄されたりしているのだ。
今回も本をもとに探した3枚のうちの1枚は見つからなかった。新しい家が建っていたので、おそらく取り外されてしまったのだろう。
代わりに(?)見つけたのがこの石柱。
「桝形町」「皇紀二千六百年記念」とある。伏見を歩いていて見つかる記念碑は御大典記念(1928年)と皇紀二千六百年記念(1940年)のものが圧倒的に多い。
駐車場の角に傾いて立っているけれど、いつもまでもお元気で!
2025年04月13日
旧前田家本邸
2025年04月12日
駒場
東京の「駒場」周辺は10代から20代にかけて約10年間、通ったり住んだりしたことがあるので懐かしい場所である。

岡本太郎の壁画「明日の神話」。
渋谷駅の連絡通路にある。
渋谷から駒場へは井の頭線に乗ってもいいのだけれど、せっかくなので歩くことにする。距離にして2キロくらいか。

駒場池(通称、一二郎池)。
大学のキャンパスの外れにひっそりとたたずむ池。有名な本郷の「三四郎池」をもじって「一二郎池」と呼ばれている。1・2年生は駒場、3・4年生は本郷に通うので、ぴったりのネーミングだ。
昔はもっと鬱蒼とした感じで人の寄りつかない場所だったけれど、今は遊歩道も整備されて少しきれいになっている。でも、人通りはほとんどない。

日本近代文学館。
ここが今回の目的地。近代文学関係の資料を収集・保存するため1967年に開館した施設で、駒場公園の中にある。

2階の展示室では「北原白秋生誕140年 白秋万華鏡」展が開催されていた。
岡本太郎の壁画「明日の神話」。
渋谷駅の連絡通路にある。
渋谷から駒場へは井の頭線に乗ってもいいのだけれど、せっかくなので歩くことにする。距離にして2キロくらいか。
駒場池(通称、一二郎池)。
大学のキャンパスの外れにひっそりとたたずむ池。有名な本郷の「三四郎池」をもじって「一二郎池」と呼ばれている。1・2年生は駒場、3・4年生は本郷に通うので、ぴったりのネーミングだ。
昔はもっと鬱蒼とした感じで人の寄りつかない場所だったけれど、今は遊歩道も整備されて少しきれいになっている。でも、人通りはほとんどない。
日本近代文学館。
ここが今回の目的地。近代文学関係の資料を収集・保存するため1967年に開館した施設で、駒場公園の中にある。
2階の展示室では「北原白秋生誕140年 白秋万華鏡」展が開催されていた。
2025年03月19日
新宮&別邸歌会(その3)
熊野速玉大社への参拝を終えて熊野川を見に行く。

ちょうど三反帆の遊覧船が下ってくるところだった。
かつては本宮大社から速玉大社まで舟で下って参拝したらしい。

大石誠之助宅跡。
住宅街を通っていたら、偶然見つけた。
調べて行って見つけるより偶然見つける方が価値がある。
その後、丹鶴ホール4階の新宮市立図書館に寄って中上健次コーナーを見学。熊野川を見わたす素晴らしい環境の図書館だった。
そして、午後からは第18回別邸歌会を旧チャップマン邸で開催。参加者15名。13:00から17:00まで計30首について楽しく議論した。
終了後、近くのハンバーガー&クレープの店「マジックピエロ」で懇親会。短歌についてあれこれ話す。
16日(日)
大雨の予報だったが、朝起きると雨はほとんど止んでいたので、バスに乗って熊野本宮大社へ行くことにする。

熊野本宮大社。

前登志夫の歌碑。
「那智瀧のひびきをもちて本宮にぬかづくわれや生きむとぞする」

馬酔木がきれいに咲いていた。
帰りは新宮から特急くろしおに乗り、大阪経由で京都まで。行きは松阪経由だったので、往復で紀伊半島をほぼ一周した感じになった。
ちょうど三反帆の遊覧船が下ってくるところだった。
かつては本宮大社から速玉大社まで舟で下って参拝したらしい。
大石誠之助宅跡。
住宅街を通っていたら、偶然見つけた。
調べて行って見つけるより偶然見つける方が価値がある。
その後、丹鶴ホール4階の新宮市立図書館に寄って中上健次コーナーを見学。熊野川を見わたす素晴らしい環境の図書館だった。
そして、午後からは第18回別邸歌会を旧チャップマン邸で開催。参加者15名。13:00から17:00まで計30首について楽しく議論した。
終了後、近くのハンバーガー&クレープの店「マジックピエロ」で懇親会。短歌についてあれこれ話す。
16日(日)
大雨の予報だったが、朝起きると雨はほとんど止んでいたので、バスに乗って熊野本宮大社へ行くことにする。
熊野本宮大社。
前登志夫の歌碑。
「那智瀧のひびきをもちて本宮にぬかづくわれや生きむとぞする」
馬酔木がきれいに咲いていた。
帰りは新宮から特急くろしおに乗り、大阪経由で京都まで。行きは松阪経由だったので、往復で紀伊半島をほぼ一周した感じになった。
2025年03月18日
新宮&別邸歌会(その2)
15日(土)
新宮に「大逆事件資料室」があると聞いたのだが、ネットにはあまり情報が出ていない。常時開いているわけではなく、担当の方に電話して予約する必要があるようだ。
9:00過ぎにホテルから電話して「今日の午前中か明日見学したい」と話したところ、9:30には開けてくださるとのこと。対応が実にスピーディーでありがたい。

熊野新宮大逆事件資料室。

1910(明治43)年に起きた大逆事件の概要のほか、新宮グループ6名(大石誠之助、成石平四郎、高木顕明、成石勘三郎、崎久保誓一、峯尾節堂)についての詳しい展示がある。
2001年に新宮市議会は「6人は冤罪であっただけでなく、平等・非戦を唱えた先覚者」として犠牲者顕彰碑を建立。2018年には大石誠之助を新宮市の名誉市民に認定している。
見学後、午後の歌会までまだ時間があったので、熊野速玉大社へ参拝に行く。

熊野速玉大社。
新宮駅から徒歩約20分。

佐藤春夫の句碑。
「速玉の竹柏(なぎ)や芝生や時雨けり」

野口雨情の詩碑。
「国のまもりか速魂さまの御庭前まで神さびる」
新宮に「大逆事件資料室」があると聞いたのだが、ネットにはあまり情報が出ていない。常時開いているわけではなく、担当の方に電話して予約する必要があるようだ。
9:00過ぎにホテルから電話して「今日の午前中か明日見学したい」と話したところ、9:30には開けてくださるとのこと。対応が実にスピーディーでありがたい。
熊野新宮大逆事件資料室。
1910(明治43)年に起きた大逆事件の概要のほか、新宮グループ6名(大石誠之助、成石平四郎、高木顕明、成石勘三郎、崎久保誓一、峯尾節堂)についての詳しい展示がある。
2001年に新宮市議会は「6人は冤罪であっただけでなく、平等・非戦を唱えた先覚者」として犠牲者顕彰碑を建立。2018年には大石誠之助を新宮市の名誉市民に認定している。
見学後、午後の歌会までまだ時間があったので、熊野速玉大社へ参拝に行く。
熊野速玉大社。
新宮駅から徒歩約20分。
佐藤春夫の句碑。
「速玉の竹柏(なぎ)や芝生や時雨けり」
野口雨情の詩碑。
「国のまもりか速魂さまの御庭前まで神さびる」
2025年03月17日
新宮&別邸歌会(その1)
2024年12月10日
江田島(その2)
教育参考館。
1936(昭和11)年竣工。旧日本海軍に関する資料約16,000点を収蔵し、そのうち約1,000点を展示している。吉田松陰、勝海舟から広瀬武夫、東郷平八郎、山本五十六に関するもの、さらには神風特別攻撃隊の兵の遺書まで数多くの資料が並び、海軍の歴史をたどることができる。靖国神社の遊就館を思い出した。
屋外に展示されている特殊潜航艇(特型格納筒)。
真珠湾攻撃に使用され、1960年に引き上げられたもの。破損個所が補修されて元通りの形になっている。
戦艦「陸奥」の4番砲塔。
構内には砲弾や錨、砲塔などがあちこちに展示(?)されている。
以上で見学ツアーは終了。歴史について考える、学ぶにはとても良い場所だと思う。
あとは小用港へ戻ればいいのだが、ここで問題になるのが旅先におけるマイルール。それは、「同じ道を戻らない」というもの。だから、朝やって来た道を東へ戻るわけにはいかないのだ。
そこで、自衛隊→(南へ、県道44号線)→鷲部→(東へ、県道298号線)→秋月→(北へ、県道298号線)→小用と縦長の長方形を描く迂回ルートを歩く。
天気が良くて海がきれい。
鷲部から秋月へは「秋月トンネル」(1005メートル)を通る。時おり車が猛スピードで走り抜けるが、歩行者は誰もいない。そして、秋月から北へ向かう道はぐねぐねとした山道になる。
道を横切って廃屋に逃げ込んだキジ。
こういう出会いは嬉しい。
しびれ峠。
ここまで来ればもう一息。足が痺れるからしびれ峠なのだろうか。
軍艦榛名・出雲戦歿者留魂碑。
昭和20年7月に小用港沖で空襲を受けて大破した戦艦「榛名」と練習艦「出雲」の死者を弔うためのもの。
2時間ほど歩いて、無事に小用港にたどり着いた。
2024年12月09日
江田島(その1)
先月、岩国からの帰りに広島で1泊して、翌日に江田島を訪れた。
ずっと「えだじま」だと思い込んでいたのだが、現地に行って初めて「えたじま」であることを知った。マンガ「魁!!男塾」の塾長の江田島平八は「えだじまへいはち」だけれども。
広島港(宇品)から江田島の小用港まで、高速船で約20分。そこから徒歩20分ほどで海上自衛隊第1術科学校・幹部候補生学校に到着する。かつての海軍兵学校だった施設である。
ここでは平日は1日3回、土日祝は1日4回、一般公開の見学ツアー(約90分)が行われているので、それに参加する。

まずは大講堂。1917(大正6)年竣工。
こちら側は天皇や皇族などのための玄関。

一般の人の入口はこちら。
敗戦後に進駐軍に接収された際に教会として使われたという話だが、確かに教会っぽい。

大講堂の内部。
昔も今も入校式や卒業式で使われている。

アーチ状の窓や舵輪をかたどったシャンデリアなど。

大講堂の隣りに見える赤煉瓦の建物。

赤煉瓦と松と青空の取り合わせが美しい。

旧海軍兵学校生徒館。
現在は海上自衛隊幹部候補生学校として使われている。自衛隊(戦後)と旧日本軍(戦前)との連続性が感じられる場所でもある。
以前見学した旧陸軍第16師団司令部庁舎にも似ている。
https://matsutanka.seesaa.net/article/500127777.html

建物の横から中をのぞくと、長さ144メートルの廊下がまっすぐに続いている。
ずっと「えだじま」だと思い込んでいたのだが、現地に行って初めて「えたじま」であることを知った。マンガ「魁!!男塾」の塾長の江田島平八は「えだじまへいはち」だけれども。
広島港(宇品)から江田島の小用港まで、高速船で約20分。そこから徒歩20分ほどで海上自衛隊第1術科学校・幹部候補生学校に到着する。かつての海軍兵学校だった施設である。
ここでは平日は1日3回、土日祝は1日4回、一般公開の見学ツアー(約90分)が行われているので、それに参加する。
まずは大講堂。1917(大正6)年竣工。
こちら側は天皇や皇族などのための玄関。
一般の人の入口はこちら。
敗戦後に進駐軍に接収された際に教会として使われたという話だが、確かに教会っぽい。
大講堂の内部。
昔も今も入校式や卒業式で使われている。
アーチ状の窓や舵輪をかたどったシャンデリアなど。
大講堂の隣りに見える赤煉瓦の建物。
赤煉瓦と松と青空の取り合わせが美しい。
旧海軍兵学校生徒館。
現在は海上自衛隊幹部候補生学校として使われている。自衛隊(戦後)と旧日本軍(戦前)との連続性が感じられる場所でもある。
以前見学した旧陸軍第16師団司令部庁舎にも似ている。
https://matsutanka.seesaa.net/article/500127777.html
建物の横から中をのぞくと、長さ144メートルの廊下がまっすぐに続いている。
2024年11月29日
岩国(その2)
2024年11月28日
岩国(その1)
2024年11月13日
倉吉観光(その3)
2024年11月12日
倉吉観光(その2)
続いて、国登録有形文化財の「豊田家住宅」へ。
倉吉には昔ながらの町家が数多く残っている。

1900年竣工の主屋と1930年竣工の離れをつなぐ渡り廊下。
間口は狭く奥行きが長い敷地になっている。
主屋の二階は寄席になっていて、倉吉の歴史講談が行われている。今回は「淀屋の光と影」という演目を聴かせてもらった。朗々とした声で語りつつ、時おり張り扇で釈台をパンッと叩くのが気持ちいい。

ぶらぶら歩いていると蒸気機関車が目に入った。
C11ー75。天気が良いので黒い車体がよく映える。

倉吉線鉄道記念館。
1985年に廃線になった国鉄倉吉線の歴史に関する資料や写真が展示されている。かつて、このあたりに打吹(うつぶき)駅(旧倉吉駅)があったらしい。

館内には貨車移動用のディーゼル機関車も保存されていた。
倉吉には昔ながらの町家が数多く残っている。
1900年竣工の主屋と1930年竣工の離れをつなぐ渡り廊下。
間口は狭く奥行きが長い敷地になっている。
主屋の二階は寄席になっていて、倉吉の歴史講談が行われている。今回は「淀屋の光と影」という演目を聴かせてもらった。朗々とした声で語りつつ、時おり張り扇で釈台をパンッと叩くのが気持ちいい。
ぶらぶら歩いていると蒸気機関車が目に入った。
C11ー75。天気が良いので黒い車体がよく映える。
倉吉線鉄道記念館。
1985年に廃線になった国鉄倉吉線の歴史に関する資料や写真が展示されている。かつて、このあたりに打吹(うつぶき)駅(旧倉吉駅)があったらしい。
館内には貨車移動用のディーゼル機関車も保存されていた。
2024年11月11日
倉吉観光(その1)
倉吉駅に着いて真っ先に向かったのは、円形劇場(くらよしフィギュアミュージアム)。

1955年竣工の旧明倫小学校の円形校舎が、解体の危機を乗り越えて2018年からフィギュアの展示・体験施設として公開されている。
円形校舎の外観はいくつか見たことがあるが、中に入るのは初めて。

円の中心に螺旋階段があり、放射状に教室が並んでいる。

岡本光博さんの作品「トラロープ」。
黄色と黒の標識ロープで巨大な虎の頭を作っている。そのアイデアが素晴らしい。

3階には教室風景を再現した部屋もある。

扇形の教室の内側に黒板があり、外側は全面窓になっている。

最上階から見下ろした螺旋階段。
吸い込まれてしまいそうだ。
校舎の屋上にも出られるようになっていて、倉吉の町並みを眺めることができる。
1955年竣工の旧明倫小学校の円形校舎が、解体の危機を乗り越えて2018年からフィギュアの展示・体験施設として公開されている。
円形校舎の外観はいくつか見たことがあるが、中に入るのは初めて。
円の中心に螺旋階段があり、放射状に教室が並んでいる。
岡本光博さんの作品「トラロープ」。
黄色と黒の標識ロープで巨大な虎の頭を作っている。そのアイデアが素晴らしい。
3階には教室風景を再現した部屋もある。
扇形の教室の内側に黒板があり、外側は全面窓になっている。
最上階から見下ろした螺旋階段。
吸い込まれてしまいそうだ。
校舎の屋上にも出られるようになっていて、倉吉の町並みを眺めることができる。
2024年09月29日
上田三四二の歌碑(その2)
続いて、JR宇治駅から徒歩10分ほど、宇治橋の近くにある放生院(通称:橋寺)へ。京阪宇治駅からだと徒歩2分くらい。

門の前の通りは大勢の観光客で賑わっているが、境内にはほとんど人がいない。ひっそりと静まり返っている。

1982年の歌会始の題「橋」に応じて詠まれた歌で、第5歌集『照徑』に収められている。碑を見ると濁点は省かれ、結句の「かねき」は万葉仮名で「賀祢吉」と刻まれている。
この歌碑の近くに、宇治橋の由来を記した「宇治橋断碑」(重要文化財)が立っている。東屋のようなものの中に入っているが、見学料500円を納めると鍵を開けて中を見せてもらえる。
写真撮影は不可だが、住職さんがとても詳しく解説してくださるのでおススメです。
大化2年(646年)に宇治橋が架けられた由来を記した石碑で、よく見ると2つに割れている。上側の約3分の1が建立当初のもので、下側の約3分の2は江戸時代に補われたものとのこと。
に始まる96文字が刻まれ、宇治川の流れの速さと人々の渡る苦労、そして橋の完成を喜ぶ思いが記されている。
上田三四二もこの碑を見て、かつての宇治川の光景に思いを馳せたのであった。
門の前の通りは大勢の観光客で賑わっているが、境内にはほとんど人がいない。ひっそりと静まり返っている。
橋寺にいしぶみ見れば宇治川や大きいにしへは河越えかねき
1982年の歌会始の題「橋」に応じて詠まれた歌で、第5歌集『照徑』に収められている。碑を見ると濁点は省かれ、結句の「かねき」は万葉仮名で「賀祢吉」と刻まれている。
この歌碑の近くに、宇治橋の由来を記した「宇治橋断碑」(重要文化財)が立っている。東屋のようなものの中に入っているが、見学料500円を納めると鍵を開けて中を見せてもらえる。
写真撮影は不可だが、住職さんがとても詳しく解説してくださるのでおススメです。
大化2年(646年)に宇治橋が架けられた由来を記した石碑で、よく見ると2つに割れている。上側の約3分の1が建立当初のもので、下側の約3分の2は江戸時代に補われたものとのこと。
浼浼横流 其疾如箭
(べんべんたるおうりゅう そのはやきことやのごとし)
に始まる96文字が刻まれ、宇治川の流れの速さと人々の渡る苦労、そして橋の完成を喜ぶ思いが記されている。
上田三四二もこの碑を見て、かつての宇治川の光景に思いを馳せたのであった。
2024年09月28日
上田三四二の歌碑(その1)
上田三四二の歌碑めぐり。
まずは、JR奈良線の山城青谷駅(京都府城陽市)へ。自宅の最寄駅から普通電車で約30分。
駅の東口を出てすぐの所に歌碑があるはずなのだが、新たに周辺が整備されたようで見当たらない。駅近くの公民館で尋ねると、西口に移されたということであった。

というわけで、閑散とした西口の方に現在は設置されています。

第1歌集『黙契』の歌で、当時三四二は青谷梅林近くの旧国立京都療養所(現・国立病院機構 南京都病院)で働いていた。
梅林や病院は駅の東口方面にあり、そちらの方が商店もあって賑わっているので、歌碑も本当は東口にある方が良いのだけれど。
結句の「つ」が左下の「三四二のうた」の近くにあって、最初は何か汚れが付いているのかと思ってしまった。
まずは、JR奈良線の山城青谷駅(京都府城陽市)へ。自宅の最寄駅から普通電車で約30分。
駅の東口を出てすぐの所に歌碑があるはずなのだが、新たに周辺が整備されたようで見当たらない。駅近くの公民館で尋ねると、西口に移されたということであった。
というわけで、閑散とした西口の方に現在は設置されています。
満ちみちて梅咲ける野の見えわたる高丘は吹く風が匂ひつ
第1歌集『黙契』の歌で、当時三四二は青谷梅林近くの旧国立京都療養所(現・国立病院機構 南京都病院)で働いていた。
梅林や病院は駅の東口方面にあり、そちらの方が商店もあって賑わっているので、歌碑も本当は東口にある方が良いのだけれど。
結句の「つ」が左下の「三四二のうた」の近くにあって、最初は何か汚れが付いているのかと思ってしまった。
2024年08月17日
2024年07月19日
東京から
東京から帰宅。
昨日は早朝6:00前に東京駅にバスで着き、本郷→九段下→相模原→溝の口と、取材と打合せで20:30まで。
今日は朝から83歳の父親を連れてスーパー銭湯「湯けむりの里」へ行き、入浴・食事・昼寝で計4時間、のんびりしてきた。
昨日は早朝6:00前に東京駅にバスで着き、本郷→九段下→相模原→溝の口と、取材と打合せで20:30まで。
今日は朝から83歳の父親を連れてスーパー銭湯「湯けむりの里」へ行き、入浴・食事・昼寝で計4時間、のんびりしてきた。
2024年06月06日
柴又(その2)
帝釈天から徒歩数分で「山本亭」に着く。
大正から昭和にかけて建てられた和洋折衷の邸宅。

洋風の意匠を取り入れた長屋門のステンドグラス。

居間から見る庭の様子。
抹茶やぜんざいをいただきながら、のんびりくつろぐことができる。

洋室の「鳳凰の間」。
大理石のマントルピースがある。
続いて、徒歩数分のところにある寅さん記念館へ。

1997年の開館。
山田洋次ミュージアムも併設されている。

映画撮影に使われた「くるまや」や「朝日印刷所」のセットが移設・保存されている。これが最大の見どころと言っていいだろう。

列車の座席にすわりながら、「男はつらいよ」の鉄道シーンを観ることができるコーナー。その他にも工夫された展示が多く、寅さんの世界にたっぷりと浸ることができた。
続いて、徒歩すぐの江戸川へ。

川の向こうはもう千葉県だ。

映画や小説、歌謡曲などで有名な「矢切の渡し」。
現在も片道200円で運行されている。

「矢切の渡し」の歌詞が刻まれた石碑。
「つれて逃げてよ…」「ついておいでよ…」
細川たかしのイメージが強いのだが、もともとはちあきなおみが歌っていたのか。
大正から昭和にかけて建てられた和洋折衷の邸宅。
洋風の意匠を取り入れた長屋門のステンドグラス。
居間から見る庭の様子。
抹茶やぜんざいをいただきながら、のんびりくつろぐことができる。
洋室の「鳳凰の間」。
大理石のマントルピースがある。
続いて、徒歩数分のところにある寅さん記念館へ。
1997年の開館。
山田洋次ミュージアムも併設されている。
映画撮影に使われた「くるまや」や「朝日印刷所」のセットが移設・保存されている。これが最大の見どころと言っていいだろう。
列車の座席にすわりながら、「男はつらいよ」の鉄道シーンを観ることができるコーナー。その他にも工夫された展示が多く、寅さんの世界にたっぷりと浸ることができた。
続いて、徒歩すぐの江戸川へ。
川の向こうはもう千葉県だ。
映画や小説、歌謡曲などで有名な「矢切の渡し」。
現在も片道200円で運行されている。
「矢切の渡し」の歌詞が刻まれた石碑。
「つれて逃げてよ…」「ついておいでよ…」
細川たかしのイメージが強いのだが、もともとはちあきなおみが歌っていたのか。
2024年06月05日
柴又(その1)
先日、仕事で東京へ行ったついでに柴又を観光してきた。
東京には22年住んだけれど生まれ育ちは南西端の町田市なので、東京の東部、特に荒川の東側(足立区、葛飾区、江戸川区)にはほとんど足を運んだことがない。というわけで、「男はつらいよ」で有名な柴又も今回が初めての訪問だ。

京成「柴又」駅前に立つ寅さんの像。
後ろを振り返っている姿である。

振り返った先にはさくらの像がある。
また旅立ってゆく兄を見送る妹の姿だ。

駅から続く帝釈天の参道。
草団子や川魚の店が軒を連ね、観光客が行き交っている。

柴又帝釈天!
「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」というお馴染みの口上を思い出す。
門や鐘楼は映画でもよく登場するが、拝観料400円を払うと帝釈堂内殿の外周にある彫刻ギャラリーと庭園(邃渓園)を見学することができる。

外周に沿って仏教説話の10の場面が彫刻されている。

彫りが細かくて実に見事な出来栄えだ。

大客殿の前に広がる庭園は、屋根付きの廊下を伝って一周することができるようになっている。

京都ではだいぶ前に終わったつつじが、ここではまだ咲いている。参道や境内の賑やかさと打って変わって、静かな時間の流れる場所。

帝釈天を出て玉垣に沿って歩いていると、「渥美清」「倍賞千恵子」の名前を発見。左に見える「三崎千恵子」はおばちゃんだ。
東京には22年住んだけれど生まれ育ちは南西端の町田市なので、東京の東部、特に荒川の東側(足立区、葛飾区、江戸川区)にはほとんど足を運んだことがない。というわけで、「男はつらいよ」で有名な柴又も今回が初めての訪問だ。
京成「柴又」駅前に立つ寅さんの像。
後ろを振り返っている姿である。
振り返った先にはさくらの像がある。
また旅立ってゆく兄を見送る妹の姿だ。
駅から続く帝釈天の参道。
草団子や川魚の店が軒を連ね、観光客が行き交っている。
柴又帝釈天!
「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」というお馴染みの口上を思い出す。
門や鐘楼は映画でもよく登場するが、拝観料400円を払うと帝釈堂内殿の外周にある彫刻ギャラリーと庭園(邃渓園)を見学することができる。
外周に沿って仏教説話の10の場面が彫刻されている。
彫りが細かくて実に見事な出来栄えだ。
大客殿の前に広がる庭園は、屋根付きの廊下を伝って一周することができるようになっている。
京都ではだいぶ前に終わったつつじが、ここではまだ咲いている。参道や境内の賑やかさと打って変わって、静かな時間の流れる場所。
帝釈天を出て玉垣に沿って歩いていると、「渥美清」「倍賞千恵子」の名前を発見。左に見える「三崎千恵子」はおばちゃんだ。
2024年05月02日
徳島(その3)
徳島の2日目は晴れ。

両国橋の親柱に立つ阿波踊りの像。

徳島駅からJR牟岐線で南へ約1時間10分。阿波福井駅に着く。他に降りる客はいない。この駅から国道55号を北に向かって歩いて行く。

約1時間で目的の建物に到着!

喫茶店「大菩薩峠」。

別の角度から見た全景。
セルフビルド建築として有名なお店。店主が自ら10数万個の煉瓦を焼いて積み上げて造ったらしい。1971年の開業から50年が経ち、煉瓦に蔦の緑が鮮やかだ。

入口へ向かう階段。

お店の入口。
11:40頃に着いたのだが、ほぼ満席だった。運よく座ることができて、チキンカツ定食850円をいただく。料理はボリュームがあって、家族連れや運転手たちで賑わっていた。テーブルや椅子などの備品や内装も味わいがある。

食後に店の上の方を探索。

迷路のようになっている。

こちらは自宅か作業場なのだろう。

スロープもあって、車で上までのぼれるようになっている。

「大菩薩峠」からさらに北に歩いて海へ。
堤防に座って本を読むのは最高に気持ちがいい。
両国橋の親柱に立つ阿波踊りの像。
徳島駅からJR牟岐線で南へ約1時間10分。阿波福井駅に着く。他に降りる客はいない。この駅から国道55号を北に向かって歩いて行く。
約1時間で目的の建物に到着!
喫茶店「大菩薩峠」。
別の角度から見た全景。
セルフビルド建築として有名なお店。店主が自ら10数万個の煉瓦を焼いて積み上げて造ったらしい。1971年の開業から50年が経ち、煉瓦に蔦の緑が鮮やかだ。
入口へ向かう階段。
お店の入口。
11:40頃に着いたのだが、ほぼ満席だった。運よく座ることができて、チキンカツ定食850円をいただく。料理はボリュームがあって、家族連れや運転手たちで賑わっていた。テーブルや椅子などの備品や内装も味わいがある。
食後に店の上の方を探索。
迷路のようになっている。
こちらは自宅か作業場なのだろう。
スロープもあって、車で上までのぼれるようになっている。
「大菩薩峠」からさらに北に歩いて海へ。
堤防に座って本を読むのは最高に気持ちがいい。
2024年04月29日
徳島(その1)
2024年04月28日
徳島から
徳島から帰ってきました。
とても楽しい2日間。昨日は四国キャラバン歌会、今日は晴天の道をひたすら歩いて日に焼けました。
とても楽しい2日間。昨日は四国キャラバン歌会、今日は晴天の道をひたすら歩いて日に焼けました。
2024年04月27日
徳島へ
四国キャラバン歌会に行ってきます。
徳島へ行くのも、自分が主催する以外の歌会に参加するのも久しぶりなので楽しみ!
徳島へ行くのも、自分が主催する以外の歌会に参加するのも久しぶりなので楽しみ!
2024年04月08日
伏見桜まつり
2024年03月11日
黒江(その2)
2024年03月10日
黒江(その1)
今月末に行う別邸歌会の下見を兼ねて、和歌山県海南市の黒江に行ってきた。
黒江は紀州漆器の産地として栄えた町で、今も古い町並みが残り漆器店や古民家カフェなどが点在する。JR黒江駅から15分ほど歩いて黒江の中心部へ。

まず目に入ったのが万葉歌碑。1866年創業の老舗「名手酒造」直営の「黒牛茶屋」の駐車場にある。
「黒牛方 塩干乃浦乎 紅 玉ネ君須蘇延 往者誰妻」(巻9-1672)
(黒牛潟潮干の浦を紅の玉裳裾引き行くは誰が妻)

町を歩いていると、家の前に大きな桶を置いて花などを飾っている家が何軒もある。





「紀州漆器伝統産業会館 うるわし館」の前にある説明を見ると、これは「くろめ桶」というものらしい。かつて漆を精製する際に使われていたものを、今は町おこしのオブジェとして再利用しているということだ。
黒江は紀州漆器の産地として栄えた町で、今も古い町並みが残り漆器店や古民家カフェなどが点在する。JR黒江駅から15分ほど歩いて黒江の中心部へ。
まず目に入ったのが万葉歌碑。1866年創業の老舗「名手酒造」直営の「黒牛茶屋」の駐車場にある。
「黒牛方 塩干乃浦乎 紅 玉ネ君須蘇延 往者誰妻」(巻9-1672)
(黒牛潟潮干の浦を紅の玉裳裾引き行くは誰が妻)
町を歩いていると、家の前に大きな桶を置いて花などを飾っている家が何軒もある。
「紀州漆器伝統産業会館 うるわし館」の前にある説明を見ると、これは「くろめ桶」というものらしい。かつて漆を精製する際に使われていたものを、今は町おこしのオブジェとして再利用しているということだ。
2023年11月14日
奈良カエデの郷ひらら(その2)
来月の別邸歌会で使うのは、木造校舎2階の「5年1組」の教室。

係の方に案内していただいて、部屋の中を見せてもらう。
昔ながらの小学校の教室である。全部で20席。

中庭(駐車場)側から見た木造校舎はこんな感じ。

別棟にある「Cafeカエデ」(11:00〜16:00)で昼食をとる。
この日は多くの人が訪れていて、11:30には満席になっていた。

ハンバーグや海老フライといった通常のメニューもあるのだが、私の目当ては土日限定30食の「給食ランチ」。

皿うどん、中華スープ、春雨サラダ、クリーミーコロッケ、あげパン、牛乳。1200円。基本は給食なのだけれど、パンは揚げ立てだしスープも熱々で、どれも美味しい。

ゆるキャラの「カエデくん」と「もみじちゃん」。
来月また会いましょう!
係の方に案内していただいて、部屋の中を見せてもらう。
昔ながらの小学校の教室である。全部で20席。
中庭(駐車場)側から見た木造校舎はこんな感じ。
別棟にある「Cafeカエデ」(11:00〜16:00)で昼食をとる。
この日は多くの人が訪れていて、11:30には満席になっていた。
ハンバーグや海老フライといった通常のメニューもあるのだが、私の目当ては土日限定30食の「給食ランチ」。
皿うどん、中華スープ、春雨サラダ、クリーミーコロッケ、あげパン、牛乳。1200円。基本は給食なのだけれど、パンは揚げ立てだしスープも熱々で、どれも美味しい。
ゆるキャラの「カエデくん」と「もみじちゃん」。
来月また会いましょう!
2023年11月13日
奈良カエデの郷ひらら(その1)
来月の別邸歌会の会場となる、奈良県宇陀市の「奈良カエデの郷ひらら」へ下見に行く。JR榛原駅からバスで15分の「古市水分神社」から徒歩3分。

2006年に閉校した旧宇太小学校をリノベーションした複合施設。
この地域の観光の拠点になっているようだ。

門柱には「宇太小學校」と旧字で彫られている。
1874年開校という古い歴史を持つ小学校だった。

現在、敷地には1200種、3000本のカエデが植えられている。
紅葉のピークは過ぎたようだが、見応え十分。

1935年に建てられた木造二階建の校舎。
遠くから見ても圧倒的な存在感を放っている。

廊下はこんな感じ。写真撮影などにも使われているようだ。

廊下に飾られた卒業制作のパネル。
1970年の大阪万博が描かれている。
2006年に閉校した旧宇太小学校をリノベーションした複合施設。
この地域の観光の拠点になっているようだ。
門柱には「宇太小學校」と旧字で彫られている。
1874年開校という古い歴史を持つ小学校だった。
現在、敷地には1200種、3000本のカエデが植えられている。
紅葉のピークは過ぎたようだが、見応え十分。
1935年に建てられた木造二階建の校舎。
遠くから見ても圧倒的な存在感を放っている。
廊下はこんな感じ。写真撮影などにも使われているようだ。
廊下に飾られた卒業制作のパネル。
1970年の大阪万博が描かれている。

