2020年01月21日

姫野カオルコ著『忍びの滋賀』


副題は「いつも京都の日陰で」。

滋賀県甲賀市出身である著者が、知名度や評判の高くない滋賀について、自虐も交えつつ楽しく記したエッセイ。「忍び」は「忍者」と「耐え忍ぶ」の両方を掛けているのだろう。

「応接間だからといってソファセットを部屋の中央に置かず、思い切って壁沿いにL型に置いてみましょう。それだけでぐーんと広く感じられて、のびのびしますよ」
(・・・)こうしたアドバイスは、滋賀県民には身に沁みる。
国内旅行のパッケージツアーには《京都・琵琶湖の旅》とか《京都・奈良・琵琶湖》というのが、よくある。《京都・滋賀の旅》でも《京都・奈良・滋賀》でもなく、《京都・琵琶湖の旅》や《京都・奈良・琵琶湖》・・・。地面はないのか、滋賀には・・・。

とにかく著者の語り口が面白い。生年や血液型が同じみうらじゅん(京都出身)に対する秘かなライバル意識を述べる部分なども印象的。最後の方には滋賀を始めとした地方都市の今後に対するマジメな提言も記されている。

2019年12月3日、小学館新書、840円。

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2020年01月16日

小倉紀蔵著『京都思想逍遥』


哲学者で京都大学教授である著者が、京都市内を散策しながら、哲学、文学、歴史、そして〈いのち〉について思索をめぐらしていく。

登場する人物は、鈴木大拙、西田幾多郎、伊東静雄、柳宗悦、尹東柱、桓武天皇、塚本邦雄、紀貫之、中原中也、頼山陽、梶井基次郎、三島由紀夫、川端康成、源融、森鴎外、後白河法皇、世阿弥、藤原俊成、道元など。実に幅広い。

〈第三のいのち〉は、わたしと他者との〈あいだ〉、わたしとものとの〈あいだ〉に立ち現われる。
近代以降の政治権力というものは、国民の生命を奪う権力ではなく、むしろ逆に国民の生命を維持し、管理し、統御し、規律化する権力となった。
六条よりやや南側を東西に走っているのが正面通である。なんの「正面」かというと、かつて豊臣秀吉がいまの京都国立博物館の北側に造営した大仏の正面なのである。

和歌についての記述も多く、有名な古今和歌集の仮名序についてこんなことを書いている。

この言葉を、「人間だけでなく、鶯や蛙までが歌をよむのだ」と解釈してしまうと、日本文化を理解できない。逆である。「鶯や蛙、生きとし生けるものすべてが歌をよんでいる、しかしそこには言葉は必要ない。人間だけが、言葉という余計なものを介在させて歌をよんでいるのだ」と解釈しなければならない。人間中心主義ではないのだ。

なるほどなあと思う。

時おり著者は自身の思索にツッコミを入れて、自分で「知らぬ。」と答える。非常に真面目な内容の本なのだが、そんなふうにお茶目なところもあって楽しい。

2019年2月10日、ちくま新書、900円。

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2020年01月11日

島田裕巳著『日本の8大聖地』


2011年に講談社から刊行された『聖地にはこんな秘密がある』に加筆・修正して文庫化したもの。

クボー御嶽(沖縄)、大神神社(奈良)、天理教教会本部(奈良)、稲荷山(京都)、靖国神社(東京)、伊勢神宮(三重)、出雲大社(島根)、沖ノ島(福岡)の8か所の聖地を訪れ、聖地とは何か、聖地には何があるのか、私たちは聖地に何を求めているのか、といった問題を考察した本。

大神神社に限らず、古代のたたずまいを残す神社一般に言えることだが、神仏習合の信仰が受け継がれていた中世から近世にかけて、それぞれの社殿は今日とは相当に異なる姿をしていた。(・・・)だがそのことは、今日では秘密にされている。
現在では、神社を訪れた参拝者は、社殿の前で拍手を打つことが一般化している。だが、参詣曼荼羅の参拝者は、一人として拍手など打っていない。皆、社殿の前では合掌している。
最近の学会の議論では、十六丈の高さがあったことがほぼ前提にされてしまっている。かつての出雲大社が高ければ高いほど、その価値は高まる。(・・・)考古学の復元の作業では、どの遺跡でも、やたら大型の建物が存在したかのような方向にむかいやすい。
戦没者の多くは若く、まだ、結婚し自らの家庭を営んではいなかった。日本の伝統的な村社会では、死者は子孫による弔いの対象になったが、戦没者には子孫がいない。靖国神社に合祀されたことの背景には、そうしたことが関係しているであろう。

どの指摘も重要な論点を含んでいる。聖地という場所は死生観や伝統について深く考えさせるところなのだった。

2019年1月29日、光文社知恵の森文庫、780円。

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2020年01月03日

『わたしの城下町』のつづき

「三種の神器」と「ポツダム宣言受諾」の関わりを、この本で初めて知って衝撃を受けた。ポツダム宣言受諾に関する天皇自身の言葉が引かれている。

敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい
               『昭和天皇独白録』

同じく、木戸幸一内大臣は阿南惟幾陸軍大臣に対して、本土決戦計画を批判して次のように発言している。

君若し敵に上陸されて了つて三種の神器を分取られたり、伊勢大廟が荒らされたり、歴代朝廷の御物がボストン博物館に陳列されたりしたらどうするつもりなのか。
             『木戸幸一日記 東京裁判期』

戦前・戦中の日本の体制や思想について、ある程度は理解しているつもりだったのだけど、こういうことが真剣に議論されていた事実には強い驚きを覚える。

三種の神器を奪われるという発想は、南北朝の争乱の頃だったらわかるけれど、これは1945年の話なのだ。実際のアメリカ軍はそんなこと考えもしなかっただろう。

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2020年01月02日

木下直之著『わたしの城下町』


副題は「天守閣からみえる戦後の日本」。
2007年に筑摩書房より刊行された本の文庫化。初出は「ちくま」2003年1月号〜2004年12月号の連載。

皇居(江戸城)を手始めに西へ西へと進んで首里城に至るまで、全国の「城」および「城のようなもの」をめぐりつつ、近代・現代の日本について考察した本。むちゃくちゃ面白い。

明治になって無用の長物となった城が、その後どのような歴史をたどったのか。そして、人々は城をどのように扱い、城に何を託してきたのか。城を通じて日本の近現代史が浮び上がってくる。

象と城は一見ミスマッチだが、実は相性がとてもいい。ともに、戦後は平和の象徴となったからだ。
最初の鉄道は、明治五年(一八七二)に新橋・横浜間を走った。(・・・)東京と名を改めたばかりの町から見れば、濠の外で、鉄道の侵入を食い止めたことになる。
コンクリで建てれば、また空襲があっても焼かれないという気持ちが、そのころの日本人にはあったのではないか。昭和三十年代を迎えると、全国各地で、お城がこぞってコンクリ製で建てられ始める。
首里城を落城させたアメリカは、その跡地に大学を建設した。危険な軍事国家日本を民主教育によって根本から改造するという占領方針によるものだった。

どのページを読んでも著者の博識ぶりに驚かされる。知識が豊富なだけでなく、それを縦横無尽に活かして鮮やかに論を組み立てていく。

城について論じた本はたくさんあるけれど、著者のように「松代大本営」や「戦艦長門」を「城」に含めて考察した人はいないだろう。とにかく発想やスケールが桁違いなのだ。

そもそも「城」とは何なのか。ホンモノの城とニセモノの城は区別できるのか。そんな本質についても考えさせられる。

2018年11月10日、ちくま学芸文庫、1400円。

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2019年12月30日

小島美羽著 『時が止まった部屋』


副題は「遺品整理人がミニチュアで伝える孤独死のはなし」。

遺品整理・特殊清掃の仕事に携わる著者が、孤独死の実態について書いた本。著者が制作した現場の部屋のミニチュア8点の写真が載っている。

このミニチュアがすごい。

部屋に残された机、椅子、洗面台、戸棚、カレンダー、酒のカップ、ペットボトル、ゴミ袋、新聞、猫、そして汚れやシミに至るまで、精巧に再現されている。

わたしは孤独死が悪いことだとは思っていない。人が亡くなることは誰にも止められないし、病院や施設などではなく住み慣れた我が家で逝きたいと思っている人は多い。自宅で一人で死ぬのが悪いのではなく、発見されるまでの期間が問題なのだ。
湯船のなかで亡くなると、居間などで亡くなった人よりも腐敗が早まる。なかでも、追い炊き、保温機能を備えたお風呂での孤独死の現場が、いまでも強く、わたしの心に残っている。
この仕事をしていて辛いと思うのは、汚物でも激臭でも、虫でもない。こんなふうに人間の「裏の顔」が垣間見える瞬間だ。

誰も自分の死に方を選ぶことはできない。人間が生きること、そして死ぬことについて多くを考えさせられる一冊だった。

2019年8月31日、原書房、1400円。

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2019年12月28日

池内恵著 『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』


【中東大混迷を解く】シリーズの1冊目。

複雑に入り組む中東問題を理解する手掛かりとして、1916年にイギリスとフランスの間で結ばれたサイクス=ピコ協定に焦点を当てて論じた本。

第1次世界大戦後のオスマン帝国の解体から近年のイスラム国の台頭、シリア内戦、クルド人問題まで、中東世界の基礎的な部分がよくわかる内容となっている。

ある民族が国家の設立や自治を獲得するか否か、自らの政府を持って統治することができるか否かは、国際情勢、特にその時々の諸大国あるいは超大国の意向、そして大国間の交渉と協調に大きく依存する。
オスマン帝国支配下の諸集団には「民族」という概念はまだ未分化だった。それが西欧列強の介入が及び、社会の近代化が進むにつれて、言語の相違や、宗教・宗派による共同体のつながりが、国民国家を構成する民族という観念の核になった。
極めて冷酷な現実は次のようなものである。ある領域を統治する勢力にとって、自らの統治に服すことを潔しとしない人間が難民として流出していくことは、統治のコストを抑えられるが故に、好都合である。

政治も国際関係も、理念と現実、正義と武力の間で何とか着地点を見つけていくしかない。これは何も中東に限った話ではなく、例えば東アジアにおいても同様なのだろう。

2016年5月25日、新潮選書、1000円。

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2019年12月24日

宇根豊著 『日本人にとって自然とはなにか』


NPO法人「農と自然の研究所」代表理事をつとめる著者が、百姓の視点から日本人の自然観を描き出した本。

自然と人間を分けて科学的・客観的に捉える「外からのまなざし」と、人間も自然に含めて体験や記憶に基づいて捉える「内からのまなざし」。この二つを行き来しながら、自然を見る目を養い、自然への向き合い方を深めていく。

赤とんぼが急に飛び始めるのは、田植えして四五日過ぎた頃です。日本で生まれる赤とんぼのほとんどは田んぼで生まれます。
私たちは自然の中で、自然の一員として生きものにまなざしを注いでいるときには、自然を意識することはありません。自然を意識する時は、「自然」という言葉を使うときだけです。
名前には、名づけた人の気持ちとまなざしが表れています。メダカと書くと単なる記号ですが、目高と書くと、目が高い(上にある)魚という意味が伝わってきます。
なぜ「田植えと言うのに、稲植えとは言わないのだろうか」と思ったのは、「稲刈り」を「田刈り」という地方があることを知った時です。

身近で具体的な話をもとにしながら、自然のあり方や人間の生き方の根本を探っていく。その「百姓の哲学」とも言うべきスタイルが魅力的な一冊である。

2019年7月10日、ちくまプリマ―新書、860円。

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2019年12月22日

藤森照信+大和ハウス工業総合技術研究所『近代建築そもそも講義』


明治期の日本がどのように西洋風の建築を取り入れていったのかを記した本。2015年6月〜2017年7月に「週刊新潮」に連載された文章が元になっている。

コレラ対策の為に水道が普及したこと、シンデレラのガラスの靴が英語では「スリッパ」であること、洋館の特徴であるヴェランダの巡る様式は本場のヨーロッパにはないことなど、意外な話がたくさん載っている。

和風とも洋風ともつかないスリッパという鵺(ぬえ)的履物によって和洋の矛盾を回避している。
あまりに日本列島は木材資源に恵まれ、ユーラシア大陸では一般化した石、煉瓦、アーチの建設用三点セットの導入は必要なかったのだろう。
古代のギリシャとローマの文化を復興しようと志したルネッサンス時代の人々は、ギリシャについては知らなかった。ギリシャはトルコの支配下にあり訪れることはできなかったからだ。

工部大学校造家学科の初代教授ジョサイア・コンドルのもとには4名の一期生がいた。曽禰達蔵・辰野金吾・片山東熊・佐竹七次郎。前の3名が有名な建築家となったのに対して、佐竹は今ではほとんど知られていない。そんな佐竹の建築についても、この本はきちんと言及している。

2019年10月20日、新潮新書、800円。

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2019年12月16日

西牟田靖著 『極限メシ!』


副題は「あの人が生き抜くために食べたもの」。
ホットペッパーグルメのWEBメディア「メシ通」に連載中の記事をまとめた本。

角幡唯介(探検家)、白川優子(看護師。国境なき医師団)、服部文祥(登山家)、齊藤正明(人材コンサルタント)、佐野三治(ヨット「たか号」生還者)、中島裕(シベリア抑留体験者)へのインタビューと、作家の角田光代との対談が載っている。

「そもそもシステムに頼らず、自分の力でちゃんと生きてみるというのは圧倒的に楽しいんですよ。遊園地のジェットコースターみたいな劇的な楽しさではなくて、本当に小さいんだけど、確固とした楽しさがある。それが積み重なってくるとすごく面白いし、自分のことを実感としてすごく肯定できるようになる。」(服部文祥)

そういうことなんだよなあ。共感。

2019年11月6日、ポプラ新書、1000円。

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2019年12月11日

『闘う文豪とナチス・ドイツ』の続きの続き

トーマス・マン日記をもとに書かれた本であるが、あちこちに著者の池内紀自身の姿も浮かんでくる。

例えば自殺した長男クラウス・マンとの関わりを記した章には「父と子のあいだに亀裂の走った最初のできごと」「父はつねに一定のへだたりをとっていた」といった記述がある。おそらくこれを書きながら、池内もまた自身の息子との関わりを考えていたに違いない。

また、「老い」も晩年の池内の大きなテーマであった。

「横になったまま溲瓶(しびん)へ放尿をするさいベッドやシーツが汚れた。すべて八十歳になるまで一度も経験のないことだ。不快きわまる、恥ずかしいことだ」

こうした日記の文章を引用しつつ、池内も七十代後半に差し掛かる自らの老いを考えていたのだろう。それは、本書と同じ2017年に『すごいトシヨリBOOK トシをとると楽しみがふえる』という本を出していることからもわかる。

そしてもちろん、一番大きなテーマはナチスである。それもナチス自体ではなく、それを生み出した国民の動向が、池内にとっての関心事であった。その問題意識の背景には、2010年代の日本のあり方に対する池内自身の強い危惧がある。

それは、今年7月に刊行されて遺作となった『ヒトラーの時代 ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』へと続いている。刊行後に誤記や事実誤認の多さを指摘されてネットで激しいバッシングを受けた本であるが、そういう観点で読んでみたいと思う。

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2019年12月10日

『闘う文豪とナチス・ドイツ』の続き

この本は「トーマス・マン日記」に出てくる多くの人物の生涯にも触れている。

ノルウェーのファシズム政権に協力して戦後は罪に問われたノーベル賞作家クヌート・ハムスン、第二次大戦中に単独イギリスへ渡り戦後は93歳まで生きて刑務所で自殺したナチスの元副総統ルドルフ・ヘス、再婚した若い妻と1942年にブラジルで自殺した作家シュテファン・ツヴァイク、白バラ運動のメンバーで逮捕後わずか四日で処刑されたハンス・ショル、ゾフィー・ショル兄妹、トーマス・マンの長男で1949年に自殺した作家のクラウス・マン。

年齢も立場もそれぞれであるが、ナチス政権下に生きた彼らの行動をトーマス・マンは細かく記述している。

反ナチスの姿勢を貫き、戦争中も一貫して反ファシズムの立場を堅持したトーマス・マンは、現在の目から見ても非の打ちどころのない選択をしたと言っていい。しかし、その「正しさ」は晩年の彼を苦しめることにもなった。

戦後のドイツにおいて亡命者トーマス・マンは受け入れられなかった。戦時下のドイツの悲惨な状況とは無縁な国外生活を送った彼に対する風当たりは強く、ナチスへの協力者の処罰を求めるマンの意見は反発を招くばかりだったのだ。

何と皮肉なことであろうか。

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2019年12月09日

池内紀著 『闘う文豪とナチス・ドイツ』


副題は「トーマス・マンの亡命日記」。

1933年にドイツ国外に出てから1955年に亡くなるまでのトーマス・マンの日記を手掛かりに、当時の社会状況や人々の動向を考察した好著。おススメ。

もとは『トーマス・マン日記』刊行にあわせて紀伊國屋書店の季刊誌「scripta(スクリプタ)」に2009年冬号から2015年夏号にかけて連載されたもので、時代順に26のトピックが取り上げられている。

国外講演からの帰国をナチスに差し止められ、スイス、アメリカでの亡命生活を余儀なくされたトーマス・マン。亡命先から精力的にナチズムに対する批判を続け、ようやく1945年にナチス体制の終焉を迎えたものの、安らかな晩年は訪れなかった。

そんな彼の日記には膨大な量の人名や社会的な事件が記されている。

これは私的な備忘録ではありえない。一個人が書きとめた年代記(クロニクル)の性格を色こくおびており、亡命者という特殊な位置から同時代をつづっていった。

例えば、1936年に日本で起きた二・二六事件についても、トーマス・マンは日記に書き留めている。

「――東京からの報道を総合すると、反乱を起こした殺人者たちに強い共感が寄せられており、軍部は、クーデタが『不成功』に終わったにもかかわらず、実際上はクーデタの実をあげたというふうに、理解出来よう」

何という的確な分析だろう。二・二六事件後に日本の軍国主義化がさらに進んでいく状況をこの時点で既に見通している。世界的なファシズムの伸張に対する強い危惧が、こうした記述にも表れているのだ。

2017年8月25日、中公新書、820円。


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2019年12月02日

寺山修司著 『啄木を読む』


副題は「思想への望郷 文学篇」。

全体が「啄木を読む」「太宰・中也を読む」「鏡花を読む」「乱歩・織田作之助・夢野久作を読む」「江戸を読む」の五章になっている。寺山が近世・近代の文学について書いた文章を対象ごとに整理してまとめた一冊。

どの文章にも寺山ならではの鋭い分析や考察があり、随所に皮肉が効いている。

啄木の歌には多くの「脇役」たちが登場する。山羊鬚の教師や、刑務所へ行った同級生、娘を売った金で酒をのんでいる父親、極道地主、気の狂った役場の書記……。

これは物語性の強い寺山の短歌を考える上でも大切な指摘だろう。

ところが、わが国のかくれんぼ、鬼ごっこ、そして手毬つきなどは、反復と転生によって生きのびてきた農耕民族の作り出した、家のまわりの遊びである。はじめから境界という概念がなく、ただくりかえす。

西洋の遊び・スポーツと比較しての文化論。確かに、かくれんぼや鬼ごっこには勝者も敗者もなく、ひたすら繰り返すばかり。

死という字は、どことなく花という字に似ていたために、私は学校で花を死と書きまちがえて叱られたことがある。

そう言われれば確かによく似ている。でも、「学校で」というエピソードは寺山流の作り話ではないか。

2000年4月18日、ハルキ文庫、700円。


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2019年11月29日

宮田珠己著 『いい感じの石ころを拾いに』


2014年に河出書房新社から出た単行本の文庫化。
初出はKAWADE WEB MAGAZINE(2012年9月〜2013年10月)。

タイトル通り、いい感じの石ころを拾いに全国あちこちの海岸へ出掛けたり、石に詳しい人に話を聞きに行ったりする紀行エッセイ。

新潟県のヒスイ海岸、青海海岸、静岡県の仁科海岸、菖蒲沢、福岡県の藍島、夏井ヶ浜、茨城県の大洗海岸、青森県の綱不知海岸、青岩、北海道の江ノ島海岸、大安在浜、島根県の日御碕神社、越目浜と、ひたすら石ころを拾う。

石と言っても貴重な鉱物や宝石ではない。あくまで「石ころ」。そんなもの(?)に、なぜ夢中になるのか。

石の世界は何でもありなのだ。
自分自身が、その石の見た目を気に入っているならそれでいい世界なのだ。
あらゆる価値観の押し付けから、完全に解放される自由な遊び。それが石拾いだ。

このあたり、何となく「短歌」と似ていなくもない。

毎回の旅には「編集の武田氏」が同行するのだが、それが後にライターとなり『紋切型社会』で有名になった武田砂鉄氏であるのも面白い。本書に解説を書いている。

2019年10月25日、中公文庫、780円。


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2019年11月17日

松下竜一著 『ルイズ―父に貰いし名は』


関東大震災後の混乱の中で虐殺された大杉栄と伊藤野枝の四女で市民活動家の伊藤ルイ(本名ルイズ、戸籍名留意子)の生い立ちから1976年(54歳)までの人生を描いたノンフィクション。第4回講談社ノンフィクション賞受賞作。

松下竜一の作品は、デビュー作の『豆腐屋の四季』から数々の社会派ノンフィクション、そして「松下センセ」もののエッセイまで数多く読んできたが、この本は何となく遠ざけて未読であった。

今回手にしたのは、青年団の公演「走りながら眠れ」を見て、大杉と伊藤の二人に興味を持ったからである。
http://matsutanka.seesaa.net/article/470789840.html

野枝がまことを出産したのが十九歳のときで、最後のネストルを生んだときが二十八歳であるから、十年間に七人の子を生んだことになり、「野枝はいつも乳くさかった」と同志たちに記憶されたのも、むりはない。そして、その十年間に全集二巻の分量に達する文章を書き残した(・・・)

著者の取材力と文章力には毎回敬服させられる。伊藤ルイ1996年に、松下竜一も2004年に既に亡くなっているが、この本の中では今も元気に生き続けている。

1982年3月10日、講談社、1200円。

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2019年11月13日

田村隆一著 『詩人の旅 増補新版』


1991年に中公文庫より刊行された本(単行本は1981年PHP研究所より刊行)に1篇を増補した新版。

「隠岐」「若狭」「伊那」「北海道」「奥津」「鹿児島」「越前」「越後」「佐久」「東京」「京都」「沖縄」の12篇を収録。

ウィスキーと青年をお伴に日本のあちこちを訪れる旅行記。一つ一つの文章に詩人ならではのリズムがあり、単なる旅行案内とは全く違う。戦時中の記憶をたどる旅もあって味わい深い。

ぼくの目に見えた比叡山の稜線は、信長が焼討ちにした延暦寺の「歴史」でもなければ、現在、ロープウエイとケーブル・カーによって頂上までつながれている「観光」ルートでもない。大戦末期、人間爆弾の特攻兵器として登場した「桜花」のロケット基地としての限定された空間なのである。
車窓を流れる越後の白い野と山。ぼくらは金色のウイスキーを飲む。流れ去る銀世界をながめながら、金色のウイスキーを飲んだ瞬間、昨夜の越の寒梅の花々が、われらの体内に、一輪、また一輪と咲きはじめ(・・・)

短歌の旅行詠はつまらないものが多いけれど、こんなふうに自分と旅先の光景との交感を詠んでいくといいのだろうな。

2019年10月25日、中公文庫、900円。

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2019年11月07日

山本志乃著 『「市」に立つ』


副題は「定期市の民俗誌」。

学生時代に「市」に興味を持ち始めてから三十年。民俗学者の著者は、大多喜・高知・古川・気仙沼など全国各地の市に通い続けてきた。そこで見聞きしたこと、考察したことなどをまとめた探訪記。

「市」が近郊の海や山をつなぐ経済の場であるとともに人々の交流の場であること、長年にわたって地域の振興に寄与してきたことがよくわかる。また、「市」は災害復興の足掛かりとなったり、参加者の生きがいになったりと、人々の心を支えてもいるのであった。

曜日を定め、一週間という単位でものごとを考えるようになるのは、明治になって暦が世様式に変わってからのことであって、もとは十日が一単位だった。「旬」というのが、それにあたる。
小さな店の、小さな商売。たしか、シキビ一〇〇グラムあたり一〇〇円というその内訳は、山主三〇円、切り子四〇円、そして渡邉さんが三〇円と聞いた。たとえ薄利でも、そのもうけが山主にわたり、切り子の暮らしを助け、街路市にお客さんの笑い声を響かせる。
ナライという風の名は全国的に聞かれるものの、土地によって方角が違うという。山並に沿って吹き下ろしてくる風をそう呼ぶのだそうで、気仙沼の場合は(・・・)北西風がナライとなる。

とても良い本だなあと思って著者について調べると、以前読んだ『行商列車』の方であった。
http://matsutanka.seesaa.net/article/442055416.html

これからも注目しておこう。

2019年4月10日、太洋社、1800円。

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2019年10月29日

小池光と『連山』

ざくざくと佳(よ)きうたに会ふ茂吉『連山』春の香(か)のする両毛線に     小池光『梨の花』

「ざくざくと」というオノマトペがいい。大判小判がざっくざくといった感じに、良い歌がいっぱいあるというのだろう。小池光『梨の花』には斎藤茂吉『連山』を踏まえた歌があちこちに見られる。

北平(ペイピン)にて茂吉が見たる爪長き宦官のことしばしおもひぬ

今日此処に来て爪ながき宦官といふものをはじめて見たり
             斎藤茂吉『連山』

朝鮮の寺にをとめごの尼とあふ斎藤茂吉男(を)ざかりのころ

清涼寺はひそけくありきをとめごの尼も居りつつ悲しからねど
             斎藤茂吉『連山』

牛橇(うしそり)といふものが茂吉の歌にありしづかにしづかにすすみゆきしか

牛橇(うしそり)は吹雪(ふぶき)おとろふる間(ひま)を求めいまし松花江の氷をわたる  斎藤茂吉『連山』

哈爾浜(ハルピン)に斎藤茂吉食ひにける「カウカサス的饌(せん)のシャシリック」

カウカサス的(てき)饌(せん)のシヤシリツク、ツベリヤンク、カリニエル等並びに透明(とうめい)ウオツカ  斎藤茂吉『連山』

茂吉の歌よみて土民の語と出会ふ「土民百万」うんぬんかんかん

山東(さんとう)の土民(どみん)百万年々(としどし)に移動し来れどいづこに居るや  斎藤茂吉『連山』

「家居(かきよ)す」とふ動詞茂吉の歌に見えすなはちわれも一日家居(かきよ)す

下九臺(かきゆうだい)既に過ぎつつ山の間の狭きに家居(かきよ)し畑さへも見ゆ  斎藤茂吉『連山』


歌集『連山』は斎藤茂吉が満鉄に招かれて満州各地や北京、朝鮮を旅行した際の歌をまとめた一冊で、一般的にあまり評価は高くない。

けれども、満州の歴史、風土、交通、生活、風俗などを描いた資料として読むと非常におもしろい。また随筆「満州遊記」と対応させながら読むという楽しみ方もできる。

そんなことをしていると、ああ「満州を訪れた歌人たち」もいつか書いてみたいなあ、という思いがじわじわと湧いてくる。いやいや、とてもそんな時間はありません・・・。

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2019年10月21日

宮城公博著 『外道クライマー』


2016年に集英社インターナショナルより刊行された本の文庫化。

アルパインクライマー(岩壁・氷壁登攀家)であり、沢ヤ(沢登り偏愛家)でもある著者が、自らの旅の記録を綴った本。46日間におよぶタイのジャングルの沢登り、称名廊下や台湾のチャーカンシーなどのゴルジュ(両岸が切り立った水路)遡行、冬の称名滝やハンノキ滝登攀など、過酷な冒険ばかりだ。

冒頭は2012年7月に「那智の滝」でロッククライミングして逮捕された事件から始まる。それをきっかけに、著者は7年間勤めた会社を辞めることになった。

「ナメちゃん、いったいどうやって遠征費、やりくりしてんの?」
山仲間からよく聞かれる。当然、スポンサーなどいない。日雇い労働と、山岳雑誌にちょいちょい書いているぐらいで、年収一五〇万ちょっとといったところだった。

それでも著者を危険な場所へと向かわせるのは、文明の利便性や社会の枠組みを離れて自身を極限まで試し、確かめたいという欲望なのだろう。

装備や技術が未発達な四〇〜五〇年前ならいざ知らず、今の時代に生きる登山者は自然に対してもっとフェアであるべきなのだ。
山に自殺しに行くわけではないが、生と死の境界線に立つことによって生の実感が湧く。

社会不適合者を自認する著者の文章は時に下品で露悪的だが、その一方で過酷な体験に裏打ちされた揺るぎなさもあるように感じる。

2019年3月25日、集英社文庫、850円。

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2019年09月28日

山納洋著 『歩いて読みとく地域デザイン』


副題は「普通のまちの見方・活かし方」。

2014年から関西圏で「Walkin’ About」というまち歩きの企画を行っている著者が、まち歩きのノウハウについて記した本。

町を歩いていて気になった建物や風景、地形などを手掛かりに、その町の成り立ちや歴史、現在やこれからを読み解いていく。そうした力を著者は「まちのリテラシー」と呼ぶ。

こうしたリテラシーを得れば、まちあるきは作り手の手口を読みとく探偵のような知的な営みに変わります。

その実践例として「残された旧家」「カーブした道」「駅前だった場所」「必然的にそこにあるお店」「ターミナル駅の風格」「住宅地化した農地」「水害が変えた風景」など全部で60以上の方法が写真付きで挙げられている。

大阪府大東市野崎では写真12のようなミニ開発地区を見かけました。同じ形をした3階建ての住宅が20軒近く建ち並んでいます。これはいわゆる「一反開発」と呼ばれるもので、もともとは一反の田んぼだった土地を住宅に変えています。一反=994uなので、ぎりぎり開発許可がいらないのです。

さらに本書は、まちの読み解きの力をまちづくりに生かしていくことも目指している。読み解く力を高めることでより良いまちが作れるという考えは、どこか短歌の話にも通じるものがあるように思った。

2019年6月10日、学芸出版社、2000円。

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2019年08月20日

松本仁一著 『国家を食べる』


朝日新聞社で中東アフリカ総局長などを務めた著者が、中東やアフリカなどの食べ物を通じて、その土地に暮らす人々の姿や国家の状況を描き出したノンフィクション。新潮社の「Webでも考える人」に2018年5月から12月にかけて連載された文章が元になっている。

収録されているのは「チグリス川の鯉―イラク」「昼食はパパイヤだけです―ソマリア」「ブドウの葉ご飯と王様―ヨルダン」「インジェラは辛くてつらい―エチオピア」「最高のフーフー―ガーナ」など計15篇。

ジャーナリストの書いた文章だけあって、イラク戦争、中東和平交渉、ソマリア内戦、アラブの春、西サハラ問題などを取材した話やその後の経過などが詳しく記されており、歴史の舞台裏を知ることができる。

タイトルには「国家」とあるけれど、著者は大袈裟な書き方はしない。取材で出会った人物や食べ物の話をもとに国や地域の問題を考えていく。そうした視点が徹底していて、とても面白い一冊であった。

2019年7月20日、新潮新書、780円。

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2019年08月16日

古市憲寿著 『誰も戦争を教えられない』


2013年8月に講談社から刊行された『誰も戦争を教えてくれなかった』を改題、加筆して文庫化したもの。

国内外の様々な戦争博物館を訪ね、戦争とは何か、戦争の記憶を受け継ぐことは可能か、といった問題を考察している。

訪れるのは、アリゾナ・メモリアル(ハワイ)、アウシュビッツ博物館(ポーランド)、ザクセンハウゼン記念館・博物館(ドイツ)、偽満皇宮博物院(長春)、九・一八歴史博物館(瀋陽)、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(南京)、独立記念館(韓国)、戦争記念館(韓国)、沖縄県平和祈念資料館、舞鶴引揚記念館(京都)、予科練平和記念館(茨城)など。国によって、また施設によって、戦争の捉え方や描き方には大きな違いがある。

アリゾナ・メモリアルが「爽やか」で「勝利」を祝う「楽しい」場所であるのは、ある意味で当たり前のことなのかも知れない。なぜならば、日本と違ってアメリカはいま現在も戦争を行っている国だからだ。
戦争博物館の「楽しさ」には、二つの「楽しさ」が入り交じっている。一つは博物館の設計レベルでの「楽しさ」、そしてもう一つは、戦争自体の「楽しさ」だ。戦争博物館の最大のコンテンツである戦争、それは楽しいものなのだ。
戦地や戦跡を巡る旅というのは、近代における最もメジャーな旅のスタイルの一つだ。今よりも遥かに娯楽が少ない時代、戦争というのは庶民にとって最大のエンターテインメントだった。

やや挑発的な書き方ではあるけれど、大事な観点だと思う。日本では毎年8月になると戦争の悲惨さを伝える記事や番組が作られ、「二度と悲劇を繰り返してはならない」といった話でまとめられる。でも、そうした方法が既にマンネリ化して一種の思考停止に陥っている面もあるのではないか。

戦争博物館やホロコースト記念碑が悲惨さを訴える「戦争」とは、もっぱら約70年も前の「古い戦争」に過ぎないことになる。ということは、「国家が戦争を記憶する」「国家が戦争の悲惨さを訴える」ということ自体、もしかしたら現代の「小さな戦争」に対する想像力を奪うことに繋がるのかも知れない。

これも非常に鋭い指摘だと思う。私たちが次に経験するであろう(あるいは既に経験している)戦争は、当然のことながら70年以上前の「あの戦争」とは全く違った形の戦争になるはずなのだ。

他にも、遊就館と沖縄県平和祈念資料館が同じ会社(乃村工藝社)のプロデュースした施設であることや、アメリカ国防総省の宇宙関連予算がNASAを上回っていること、厚生省や国民健康保険制度の発足に日中戦争が関わっていたことなど、初めて知る話が多く勉強になった。

著者の考えや主張にはいくつか異論もあるのだけれど、それはそれとして、真摯な内容の一冊だと思う。

2015年7月22日、講談社α文庫、850円。

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2019年08月05日

こまつあやこ著 『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』


第58回講談社児童文学新人賞受賞作。

タイトルはマレーシア語で「57577」のこと。マレーシアからの帰国子女である主人公は、周りの目を気にして窮屈な中学生活を送っていたが、ひょんなことから短歌を始めて自分の気持ちを表に出せるようになっていく。

児童文学らしい前向きで明るい話なので大人の目から見るともの足りないところもあるのだが、短歌が好きな人は読んでいて楽しいと思う。吟行や歌会の話も出てくるし、短歌がストーリーの上でも重要な役割を担っている。

2018年6月5日、講談社、1200円。

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2019年07月29日

稲垣栄洋著 『イネという不思議な植物』


かなりお薦めの一冊。

「米って何だ?」「イネという植物」「田んぼというシステム」「米で読み解く日本の歴史」「米と日本人」の全5章。「米は、イネという植物の種子である」という一番初歩のところからかなり専門的なことまで、丁寧に教えてくれる内容となっている。

著者の専攻は雑草生態学だが、本書では生物学、歴史学、社会学など文系・理系の区分を超えて自在に横断し、幅広い観点から米やイネのことを論じている。こういうのが本当の学問というものなのだろう。

もち米は、人間の祖先がその突然変異を発見し、大切に劣勢遺伝子の組み合わせを守り継いできた奇跡の産物なのだ。
私たちが食べる米も色素を失ったアルビノであったと考えられている。
種子の落ちない非脱粒性の突然変異の発見。これこそが、人類の農業の始まりである。
誰も話すことのないラテン語は変化することがない。ラテン語で学名をつけるというのは、後世の人たちのことを考えているのだ。
水は上から下へしか流れない。この上から下へと流れるという仕組みだけを利用して、すべての田んぼに水が行くように水路が設計されているのである。
田んぼに水を張る一番の理由は、雑草対策なのだ。
ご飯に納豆、お餅にきなこ、煎餅に醬油、日本酒に冷や奴・・・。私たちが昔から親しんできたこうした料理は、すべて米と大豆の組み合わせなのである。

毎日のように食べている米について、自分がいかに知らないかを思い知らされた。「なるほど!」「えっ、そうだったの!」といった調子で、読み終わった時には本が付箋だらけの状態になった。

第5章「米と日本人」のところだけ、やや日本礼賛に傾いてしまったのが残念。でも、素晴らしい一冊だと思う。

2019年4月10日、ちくまプリマ―新書、820円。

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2019年07月28日

常見藤代著 『イランの家めし、いただきます!』


イスラム・エスノグラファーの著者が、イランを20日間、ひとりで旅した記録。ヤズド、メイマンド、シルジャン、シーラーズ、ヤスジ、ホラマバード、サナンダージなど、聞いたことのない町の名前が次々と出てくる。(というか、知っている地名がテヘランくらいしかないのだが)

著者の旅はホテルに泊まって外食するのではなく、個人の家に泊まって「家めし」をご馳走になることが多い。バスで乗り合わせた人や道を訊いた人に、しばしば家に招かれる流れになる。イラン人の生の暮らしぶりがうかがえる内容だ。

イラン人の家に招かれて、とにかく驚くのはその広さだ。
イラン人はとにかく煮込むのが大好きだ。
イランでは男女とも整形手術が盛んで、鼻を「低く」する手術が多い。
イラン人は「ペルシャ帝国の末裔」のプライドが高く、「自分たちはアラブとは違う」という意識が強い。
イラン人は米好きだ。イランの場合ピクニックといえば、「米」なのである。

イランと言えば、最近は核合意が崩れてホルムズ海峡に緊張がといったニュースばかりが流れる。けれども、そこに住む人々のことはほとんど知られていない。そうした意味でも、非常に面白い一冊であった。

2019年4月25日、産業編集センター、1100円。

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2019年07月26日

小熊英二著 『地域をまわって考えたこと』


様々な地域を訪れて現地の人の話を聞きつつ、「地域」とは何か、「地域」の今後をどのように考えたら良いのか、といった問題について考察した本。

取り上げられているのは、福井県鯖江市、東京都檜原村、群馬県南牧村、静岡県熱海市、宮城県石巻市、東京都板橋区高島平団地。それぞれに歴史や条件の異なる地域の姿や課題が描かれている。

市区町村は行政の単位であって、地域の単位ではない。
日本の場合、集合意識の範囲の指標の一つは、お祭りが開かれる神社と、小学校の校区である。
過疎地と呼ばれるところは、じつはかつては、多くの人が住んでいた地域だ。

もともと、移住希望者向けの雑誌「TURNS」での連載が元になっていることもあって、移住に関する話も多く出てくる。

「都会でうまくいかないから来た」といったタイプは、地方に移住してもうまくいかない。
受入れ側の地域が自分たちの土地に夢と自信を持っていなければ、移住者を受入れるというような面倒を避けがちになるのだ。

本書の一番の特徴は、いわゆる「町おこし」や「地域の活性化」という話で終っていないことだ。そもそもなぜ活性化が必要なのか、というところまで話を掘り下げている。

インフラや財政をふくめた地域の持続可能性が確保され、地域で「健康で文化的な生活」が維持できるなら、活気がなくても「困る」ということはない。地域の目標は、まずこの点の確保に置かれるべきである。

「かつての賑わいを取り戻す」といった発想とは全く異なる考え方が、地域にも日本全体にも必要となっているのだろう。

2019年6月15日、東京書籍、1600円。

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2019年07月19日

高野秀行・岡部敬史・さくらはな。著 『将棋「観る将になれるかな」会議』


著者の高野秀行は将棋棋士。6段。『謎の独立国家ソマリランド』などを書いたノンフィクション作家の高野秀行は同姓同名の別人。

一方で岡部敬史は『くらべる東西』『くらべる時代』などを書いている「おかべたかし」と同じ人。何だかややこしい。
http://matsutanka.seesaa.net/article/441584092.html
http://matsutanka.seesaa.net/article/457471609.html

岡部とさくらが将棋に関する質問をして、棋士の高野がそれに答えるという内容。「「棋風」って何?」「「味がいい」ってどういう意味?」「なぜB級1組は13人?」「盤を離れているとき、何をしているの?」など、素朴な疑問から本格的な問題まで、さまざまなやり取りが繰り広げられている。

中でも面白かったのが「なぜ将棋の持ち時間はあんなに長いんですか」という質問に対して、

将棋の対局時間が長いのは、新聞という媒体が報じてきたというのも要因でしょうね。

と答えていること。娯楽の少なかった時代、新聞はタイトル戦のスポンサーとなって観戦記を載せることで部数の増加を図っていた。観戦記は何日にもわたって掲載するため、対局時間が長い方がむしろ好都合だったのだ。

媒体の問題は、テレビやネットで中継される将棋に早指しが多いことにも関係している。将棋もプロの世界である以上、スポーツと同じく観客の存在を無視できないのだ。

2019年7月1日、扶桑社新書、920円。


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2019年07月04日

尾本恵市編著 『教養としての将棋』


副題は「おとなのための「盤外講座」」。

編著者の尾本恵市氏(分子人類学者)は、文系・理系を問わず日本文化としての将棋を多角的に研究する「将棋学」を提唱している。本書はその入門編といった内容だ。各章のテーマと執筆者は下の通り。

・第1章 対談 梅原猛(哲学者)×羽生善治(棋士)
・第2章 将棋の歴史 清水康二(考古学者)
・第3章 将棋のメカニズム 飯田弘之(棋士、人工知能)
・第4章 将棋の駒 熊澤良尊(駒師)
・第5章 将棋と教育 安次嶺隆幸(元小学校教諭)
・第6章 将棋の観戦記 大川慎太郎(将棋観戦記者)

第1章の対談は双方の持ち味が十分に出ていて面白かった。相手に遠慮したり同調したりし過ぎないのが良いのだろう。

梅原 ひらめきというのは、(・・・)長い長いむだな時間、一見ばかばかしいような回り道や失敗を経て、だんだん考えが熟成され、あるとき突然、ぱっと訪れるものなのです。
羽生 駒そのものがおもちゃになりやすくて、子どもでもさわっているうちに親しめるところが、将棋のひとつの特徴といえるでしょうか。
羽生 将棋に勝つためには「他力」が必要なんです。自分ひとりで勝とうとしても、無理なんですね。
梅原 最初の直観がすべて当たっているようなときは、かえってあまりいい研究にならないことが多いです。

2章以下では、将棋が平安時代に入唐僧によって日本に持ち込まれ仏教思想に基づいて改変されたという話や、駒の文字を書く際には駒を回転させずに正対して書かないと勢いのある字にならないという話、将棋はどちらかが「負けました」と言わないと終わらないゲームであるという話などが特に印象に残った。

将棋の本とは言っても棋譜や盤面図はほとんど出てこないので、「観る将」の人にもおすすめの一冊。

2019年6月20日、講談社現代新書、880円。

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2019年06月27日

橋本陽介著 『使える!「国語」の考え方』


文体論、物語論で活躍中の著者であるが、今回のテーマは「国語」。高校で7年間国語を教えたこともある著者が、国語の授業はなぜつまらないのか、国語の授業は何を目指しているのかを解き明かしつつ、文学か論理かといった対立を超えて豊かな国語力を身に付ける方法を記している。

内容はすべて「国語」、特に現代文の話なのだが、短歌とも共通する部分が非常に多いと感じた。

近現代の小説では、「説明するな、描写しろ」とよく言われる。「若さ」を表すのに、「若い」と書くのではなく、面皰(にきび)を描く。夏の暑さを描くのに、影の濃さを描く。
解釈が分かれることは悪いことではない。むしろ、様々な解釈ができるから小説は面白い。つまり小説においては、その出来事の解釈を書く側は一方的に決めない。解釈や価値判断を行うのは読者にゆだねる。
ただし、よく誤解されるように、読者はどんな勝手な読みをしてもいいということではない。テクストが完全に決定するわけでもないし、読者が完全に決定権を持っているわけでもない。あくまでもその中間である。
言うまでもないが、文章を読む力も書く力もどちらも大切である。文章がどのようになっているのかを理解すれば読む力も上がるし、書く力にもつながっていく。
文章は二次元でも三次元でもないから、順番を追って読んでいくしかない。このため、どういう順番で叙述していくかが、読み手にとって重要であるし、従って書き手にも重要だということになる。

こうした文章はすべて「短歌」にも当て嵌まる話だろう。そう考えると、例えば歌会というのは相当に国語力の身に付く場であるのかもしれない。もちろん、国語力をつけるために短歌をやっているわけではないのだけれど。

2019年1月10日、ちくま新書、820円。

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2019年06月19日

宮本常一著 『辺境を歩いた人々』


2005年に河出書房新社から刊行された本の文庫化。
(親本は1966年、さ・え・ら書房刊)

江戸後期から明治にかけて日本の辺境を旅した4名の人物(近藤富蔵、松浦武四郎、菅江真澄、笹森儀助)を取り上げて、彼らの足跡や業績を記した本。「です・ます」調の子供向けのやさしい文章で書かれている。

難船の荷物をひろいあげると、荷の持主から、一割のお礼がでることになっていました。そのために荷物をひろうことは海にそった村々のいい収入のひとつでした。
いまのようにべんりな郵便制度がない時代ですから、手紙は旅人などにことづけて、とどけてもらうしか方法がなかったのです。だからうまく相手のいる土地へいく人がいないと、一般の人はいつまでたっても手紙は送れなかったわけです。

当時の暮らしに触れたこうした記述に教えられることが多い。さり気なく書かれているけれど、私たちが意外と気付かない部分だろう。

ふりかえってみると、日本の辺地は、こうした国を愛し、また辺地の人々のしあわせをねがう多くの先覚者たちが、自分の苦労をいとわないであるきまわり、しらべ、ひろく一般の人にそのことをうったえて気づかせ、そこにすむ人の上に、明るい光がさしてくるようにつとめてくれたことによってすこしずつよくなって、今日のようにひらけてきたのです。

本の最後に記されたこの一文に、宮本の生涯を貫いた信念がよく表れていると思う。

2018年6月20日、河出文庫、760円。

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2019年06月11日

渡辺一史著 『なぜ人と人は支え合うのか』


副題は「「障害」から考える」。

障害や介護、福祉についての基本的な考え方から、障害者が地域で自立した生活を送るとはどういうことか、なぜ人と人は支え合って生きていくのかといった問題を、一つ一つ掘り下げて論じている。

著者の渡辺一史は私が最も信頼するノンフィクションライターで、これまでに『こんな夜更けにバナナかよ』『北の無人駅から』の2冊を刊行している。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387138721.html
http://matsutanka.seesaa.net/article/440253335.html
http://matsutanka.seesaa.net/article/441554646.html

障害を、その人個人の責任とみるか、社会の責任とみるか、発想ひとつで、乗り越えるべきテーマや変革すべき社会のイメージが大きく変わってくることになります。
自立というのは、自分でものごとを選択し、自分の人生をどうしたいかを自分で決めることであり、そのために他人や社会から支援を受けたからといって、そのことは、なんら自立を阻害する要素にはならない。
人は誰かを「支える」ことによって、逆に「支えられている」のです。

本書は2016年に起きた「やまゆり園」障害者殺傷事件についても触れている。あの衝撃的な事件をどのように受け止め、考えれば良いのか。私たちに与えられた大きな課題である。

2018年12月10日、ちくまプリマ―新書、880円。

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2019年06月05日

田口幹人著 『まちの本屋』


副題は「知を編み、血を継ぎ、地を耕す」。2015年にポプラ社より刊行された単行本を加筆修正して文庫化したもの。

盛岡の「さわや書店フェザン店」の名物店員(だった)著者が、本屋に生まれた自らの生い立ちや書店のあるべき姿について記した本。

僕が意識したのが、本屋を「耕す」ことでした。農業の「耕す」と同じです。(・・・)一つは、お客さまとのコミュニケーション。積極的にお客さまと本をめぐる会話をして、お客さまとの関係を耕していく。(・・・)本が詰め込まれた棚も、常に手を加え変えていくことが「耕す」ことになります。
僕たちは、売れていない本もあえて在庫に入れるようなことをします。一年に一冊も動かなかったりするのですが、必ず入れる。なぜかというと、この一冊があることによって、横に広がっていくことがあるからです。この一冊を挟み込むことによって、横にある本の意味が変わってくる。
大きな本屋には、大きな本屋の役割があって、それは病院でいえば、総合病院なのです。まちの中核の大事な病院。一方で僕たちは、まち医者みたいなもの。でも、たまに救命救急もやりますというイメージでしょうか。

本に愛情を注ぎ、様々な創意工夫をしながら書店の仕事に取り組んでいた著者であるが、今年の3月にさわや書店を退社した。
https://www.iwate-np.co.jp/article/2019/3/21/50077

ある意味で本書は、果敢に戦い奮闘むなしく敗れ去った者の記録と言っても良いかもしれない。

いつまでも、店頭からお客さまに本を届ける仕事をし続けるつもりでいたが、僕の手法は手間隙がかかりすぎてしまい、時代の流れに逆行するものになってしまっていたようだ。

「文庫版あとがき」に書かれた一文に、著者の無念が滲む。

2019年5月5日、ポプラ文庫、660円。

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2019年06月01日

高村光太郎著 『智恵子抄』


47篇の詩、6首の短歌、散文「智恵子の半生」「九十九里浜の初夏」「智恵子の切抜絵」を収めた一冊。

「人に(いやなんです)」「鯰」「あどけない話」「レモン哀歌」は、国語の教科書で習った記憶がある。

私達の最後が餓死であらうといふ予言は、
しとしとと雪の上に降る霙まじりの夜の雨の言つた事です。
                       (「夜の二人」)
光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所(ここ)に住みにき
彼女も私も同じ様な造形美術家なので、時間の使用について中々むつかしいやりくりが必要であった。互にその仕事に熱中すれば一日中二人とも食事も出来ず、掃除も出来ず、用事も足せず、一切の生活が停頓してしまう。 (「智恵子の半生」)

2人の芸術家が愛し合い同じ家に暮らすことの幸と不幸が、ひりひりと痛ましく、そして美しく伝わってくる。

1956年7月15日発行、2003年11月20日116刷改版、
2018年3月15日128刷、新潮文庫、430円。

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2019年05月28日

伊藤洋志著 『ナリワイをつくる』


副題は「人生を盗まれない働き方」。
2012年に東京書籍より刊行された単行本の文庫化。

個人レベルではじめられて、自分の時間と健康をマネーと交換するのではなく、やればやるほど頭と体が鍛えられ、技が身につく仕事を「ナリワイ」(生業)と呼ぶ。

という定義のもと、「ナリワイ」づくりを実践している著者が、自らの考えや体験を詳しく記している。

生活の余裕とは、収入の多寡よりもむしろ、支出のコントロールができるかどうかが大きい。
生命保険よりも、病気にならない暮らし方を探求するほうがより丈夫なリスクヘッジになりうる。
田舎では、雇用によって生計を立てるのではなく、様々な小さな仕事、すなわちナリワイを自らつくり出して生計を立てていることが結構あるのである。

「ナリワイ」的な生き方の一番の魅力は自分の人生を自分で決められることにあるのだろう。それは、グローバル資本主義やそれに伴う格差の拡大に対して自分自身を守ることにもつながっている。

2017年7月10日、ちくま文庫、680円。

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2019年05月26日

高橋源一郎著 『日本文学盛衰史』


初出は「群像」1997年5月号から2000年11月号。

明治時代の文学者の数々のエピソードや作品を元に、日本の近代文学がどのようにして誕生したのかを群像劇として描き出した小説。登場する主な人物は、二葉亭四迷、石川啄木、伊良子清白、国木田独歩、田山花袋、夏目漱石、島崎藤村、森鴎外、尾崎紅葉など。

『あひびき』の冒頭二十一行には人間の影は存在しない。ただ、その風景を「見た」証人として「わたし」が微かに現れるだけである。「わたし」は揺らめくように一瞬、その姿を見せ、たちまち消え失せる。そこにはぎりぎりの琢磨された言葉で表現された風景だけが存在している。そこにあるのは自然であろうか、違う。それは「見られた」自然なのである。

明治期と現代を自由に行き来しながら、文体の模索を通じて人間の内面が見出されるにいたった道筋や、そもそも何のために文学が存在するのかといったテーマが追求されている。全598ページの大作。

2001年5月31日、講談社、2500円。

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2019年05月10日

伊藤洋志×pha著 『フルサトをつくる』


副題は「帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方」。

和歌山県の熊野の民家を自分たちで改修してシェアハウスにした2人が、都会と田舎の二拠点居住の良さやこれからの時代の生き方について記した本。「フルサト」は自分の生まれ故郷のことではなく、ふるさと的な安らぎが得られる場所といった意味で使われている。

全体が7章に分かれていて、

 第1章 フルサトの見つけかた(pha)
 第2章 「住む」をつくる(伊藤)
 第3章 「つながり」をつくる(pha)
 第4章 「仕事」をつくる(伊藤)
 第5章 「文化」をつくる(pha)
 第6章 「楽しい」をつくる(伊藤)
 第7章 フルサトの良さ(pha)

という構成になっている。真面目な感じの伊藤と緩い感じのphaと、考え方が同じわけではないが、基本的な方向性は一致している。

高齢化したエリアでは、草刈りができる人がいるだけでも貴重である。なんなら日本全国高齢化していくこの時代においては、生きているということだけでどこでも特技になる。(伊藤)
現代人は「で、年収いくら?」みたいな話に注目しがちだが、「で、あなたの自給力はどんぐらい?」と聞く人はいない。ここは今ノーマークである。(伊藤)
現代社会が何かとお金がかかるのは、サービスの交換に中間の人が増えすぎたのが一因だが、直接交換ができればだいぶ交換コストが下がる。(伊藤)
その時自分がいる場所によって思考の内容が変わるということをよく考える。東京にいるときは東京で起きていることが日本の全てのような気がするけど、熊野にいるときは東京のニュースを聞いても「なんか遠くでいろいろやってるらしいな、こっちには関係ないけど」って感じになる(・・・)(pha)

2人の柔軟な思考と自由な姿勢にとても励まされる一冊であった。
(いや、まあ、僕も十分に自由なんですが)

2018年7月10日、ちくま文庫、740円。

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2019年05月07日

森達也著 『すべての戦争は自衛から始まる』


2015年にダイヤモンド社から刊行された単行本に加筆修正して文庫化したもの。初出は2007年から2015年までダイヤモンド社のPR誌「経」に連載された「リアル共同幻想論」。

全部で20篇の文章が載っているが、著者が繰り返し語るのはタイトルにもある通り「自衛」が「戦争」につながるという認識である。

戦争とは戦争を憎むことだけでは回避できない。戦争を起こしたいと本気で思う指導者や国家など存在しない。ところが戦争は続いてきた。なぜなら人は不安や恐怖に弱い。集団化して正義や大義に酔いやすい。歴史上ほとんどの戦争は自衛への熱狂から始まっており、平和を願う心が戦争を誘引する。

戦争が起きる仕組みをきちんと理解することが、戦争を起さないためには必要なのだ。近年、北朝鮮や中国、あるいはテロの脅威が盛んに言われ続けている。そんな時こそ「集団化」や「熱狂」から距離を置くことが大事になるのだと思う。

2019年1月16日、講談社文庫、720円。

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2019年05月05日

永田和宏ほか著 『続・僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』


京都産業大学の企画「マイ・チャレンジ」の第5回から第8回(最終回)までの講演・対談を収めた本。前著『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』の続篇で、登場するのは、池田理代子・平田オリザ・彬子女王・大隅良典の4名。

このうち、平田オリザさんの出た第6回は聴きに行った。
http://matsutanka.seesaa.net/article/449424237.html

(池田)女の幸せというものもなければ、男の幸せというものもない。あるのは「自分の幸せ」だけ、幸せというのは絶対的な主観だと信じていましたね。
(平田)ファストフードのマニュアルは、多民族国家におけるコミュニケーション手段の結晶のようなものです。
(彬子)ある時議論をしていた友人に「自分はこう思っているけれど、アキコの意見も面白かったよ」と言われたことがあります。その時、反対意見を述べるのは私の意見を否定しているのではなく、会話をするための手段のひとつなんだと理解することができました。
(大隅)「知る」と「わかる」は別物です。素朴に「あれ?」と思う心を持つと、いろいろなことが実に楽しく見えてくるのではないかと思っています。

それぞれの講演も興味深いし、永田さんとの対談も面白い。十代・二十代の人には特にお薦めです。

2018年2月20日、文春新書、730円。

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2019年04月30日

高橋秀次著 『文学者たちの大逆事件と韓国併合』


1910(明治43)年の大逆事件と韓国併合を中心とした近代以降の日本の歴史が、文学者の作品や人生にどのような影響を与えてきたのかを詳しく分析した一冊。

登場するのは、佐藤春夫、与謝野鉄幹、夏目漱石、永井荷風、谷崎潤一郎、小林勝、井上光晴、中上健次、有島武郎、金時鐘、梁石日、金石範、開高健、小松左京、三島由紀夫、村上春樹、大江健三郎など。

柳田国男の『遠野物語』の刊行が、一九一〇年という日本近代史上記憶されるべき年と重なっていたことを想起しよう。周知のように柳田は、自身の民俗学的思考を、「新たなる国学」という自覚のもとに整備していった。
金胤奎(キムインキュウ)を本名とする立原正秋は、両親とも純粋な朝鮮人であることを隠してきた「来歴否認者」であったが、それは文学者には必ずしも珍しいタイプではない。
漱石のテキストでも、同性愛的接触は御法度になっている。その代償行為として、『それから』では「親友の妹」との結婚というテーマが浮上する。それは、男同士の緊密な関係性を担保するための「女性の交換」である。

この「親友の妹」との結婚というテーマは、例えば石川啄木と宮崎郁雨の関係を想起させる。郁雨は啄木の妹の光子との結婚を望んだものの断わられ、啄木の妻節子の妹ふき子と結婚したのであった。

全体に分析が鋭くて面白いのだが、やや図式化し過ぎな点が気になった。また、文章もわかりやすいとは言えない。

三島由紀夫から村上春樹への、文学的パラダイムの移行のポイントには、「在日」性の文学の去就にはおよそ無縁な、戦後社会におけるサブカルチャー的な文化現象、とりわけその「純文学」世界への浸透という問題があった。

こうした一文を理解しようとするだけでも、相当な時間がかかる気がする。

2010年11月15日、平凡社新書、760円。

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2019年04月23日

今野真二著 『北原白秋』


副題は「言葉の魔術師」。
白秋の生涯をたどりつつ、その多彩な作品を用語に注目して読み解いた一冊。

読書には流れというものがあって、しばらく前から積んだままになっていた本書を読むタイミングが来た。樺太を調べていても啄木を調べていても、白秋は避けて通ることができない。

我々の心持ちには、単に言葉で云ひ現はすことの出来ない、いろいろ複雑に入組んだ心持ちがある。それを、只、悲しいとか、苦しいとか、愁(つら)いとか、簡単な、慣習的な言葉で言ひ現はして了はずに、その複雑に入組んだ心持ちをその儘(まゝ)、作品全体に漲(みな)ぎる気分の上に現はして、読者の胸に伝へることだ。
洗練に洗練を経るほど、磨けば磨くほど私は厳粛になつた。一字一句の瑕疵も見逃(のが)せなかつた。或時は百首の内九十九首を棄て、十首の内九首を棄てた。或時はたつた一句のために七日七夜も坐つた。ある歌のある一字は三年目の今日に到つて、やつと的確な発見ができた。それは初めから的確にその字で無ければならなかつたのだ。

明治43年の「新しき詩を書かんとする人々に」と大正10年刊行の歌集『雀の卵』の序文からの引用である。どちらも今でも十分に通用する内容と言って良い。

白秋が大正14年に樺太、昭和4年には満蒙、昭和9年には台湾、昭和10年には朝鮮を訪れたことに触れて著者は、

つまり白秋は樺太、満蒙、台湾、朝鮮と、日本がこの時期に拡大していった版図をいわばもれなく訪れている。白秋は自身の感覚によって、「大日本帝国」の版図をとらえていた可能性がある。

と述べている。これは、国家や戦争と白秋との関わりを考える上で大事な指摘かもしれない。

あとがきで著者は自分の父や母の思い出について書いている。そこには、国語学者の山田孝雄を祖父に持つ矜持と微妙な鬱屈とが滲んでいるように感じた。

2017年2月21日、岩波新書、880円。

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2019年04月18日

橋本倫史著 『ドライブイン探訪』


全国各地のドライブインを訪ねて、その店の歴史や経営する家族の物語を描いたノンフィクション。ドライブインの移り変わりを通じて、日本の戦後という時代が鮮やかに浮かび上がってくる。

ドライブインが急増した背景には車の普及がある。自家用車の世帯普及率がわずか二・八パーセントに過ぎなかった一九六一年、『マイ・カー よい車わるい車を見破る法』という本がベストセラーとなる。その五年後には自家用車の世帯普及率は一〇パーセントを超え、一気に日本全土に普及してゆく。
ドライブインが担っていた役割というのは、かつて宿場町が担っていた役割に近いのではないか。

登場するのは、「直別・ミッキーハウスドライブイン」「阿蘇・城山ドライブイン」「本部町・ドライブインレストランハワイ」「能登・ロードパーク女の浦」「千葉・なぎさドライブイン」「岩手・レストハウスうしお」など20店あまり。店ごとに気候風土や立地条件なども違う。

料理が運ばれてくると、運転手はコミックを脇に置いて食事を始めた。ごはんを頰張る音がする。ごはんを頰張ることにも音があるのだなと思う。
「雪は迷惑以外の何物でもないですよ。(・・・)ただ、雪が降らないと降らないで困ることもある。雪が降れば除雪車が出動して、それでお金が入る人もいるんです。それで財布が潤って、うちでお金を使ってくれる。」

著者は2011年にドライブイン巡りを始めて200軒近い店に行き、取材対象の店は少なくとも三回は訪れている。しかも、2017年には自ら「月刊ドライブイン」というリトルプレスを創刊し、そこに連載した文章が今回一冊の本となったのだ。その熱意に圧倒される。

ノンフィクションには、こうした「熱意」が欠かせないと思う。

2019年1月30日、筑摩書房、1700円。

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2019年04月15日

アレックス・カー&清野由美著 『観光亡国論』


訪日外国人旅行者数が3000万人を突破して、観光地や商店が賑わいを見せる一方で、混雑や交通渋滞、住民とのトラブルといった問題も起きている。そうした現状を踏まえて、今後どのようにすれば良いのかを論じた本。

タイトルには「観光亡国」という刺激的な文句が使われているが、決して観光を否定的に捉えているわけではない。適切なマネージメントとコントロールを行ったうえで観光立国を目指そうというのが論旨である。

「お客さんにとって便利なように」という言葉には要注意です。(・・・)むしろお客さんを「不便」にさせて、本来歩いてほしい道をたどる工夫を施すことです。参道を歩いてこそ、神社を訪問する本来の意味を取り戻せますし、参道の商店とも共存できるのです。
地域観光にとって一番大切な資源とは、素朴で美しい風景です。その風景の中に、やみくもに道路を通し、さらにその工事に伴って山と川にコンクリートを敷き詰めることは、やはり観光公害にほかなりません。

日本各地の様々な実例が挙げられているのだが、その中には京都に関する話も多い。

「観光」を謳う京都のいちばんの資産は、社寺・名刹とともに、人々が暮らしを紡ぐ町並みです。皮肉にも京都は、観光産業における自身の最大の資産を犠牲にしながら、観光を振興しようと一所懸命に旗を振っているのです。
たとえば20年前には、京都駅の南側に観光客はそれほど流れていませんでした。伏見稲荷大社も、境内は閑散としていたものです。しかし今は、インスタ映えする赤い鳥居の下に、人がびっしり並ぶ眺めが常態化しています。

伏見稲荷の近くに住んでいるので、こうした話は日々身をもって実感している。私が京都に住み始めたのは2001年のことだが、その時と今とでは劇的に変化したと言っていい。

2019年3月10日、中公新書ラクレ、820円。

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2019年04月08日

いとうせいこう・みうらじゅん著 『見仏記7』


2015年にKADOKAWAより刊行された単行本『見仏記メディアミックス篇』を改題して文庫化したもの。人気シリーズの7冊目。

副題に「仏像ロケ隊がゆく」とある通り、関西テレビで放映された「新TV見仏記」の収録の旅の様子も収めている。訪れた先は、滋賀(長浜)・兵庫(姫路)・広島(尾道)・奈良・京都。

軽妙な二人のやり取りは健在だが、今回はそれだけではない。

昔は何も感じていなかったが、私たちもこのコロリ≠ェ気になる年齢になってきていた。自分が老いた時に誰かに介護の苦労をかけたくないというのが、実にリアルな問題だった。
私は切れ目を探すため、老眼の目からパックを遠ざけた。その私の手元をみうらさんもまた顔を遠ざけて見ていた。
横で、かつての少年は膝をこすり出していた。痛むと聞いていた。一番それが昔と違った。人間は老いる。私にもその痛みはわかった。

1992年から始まった見仏記も四半世紀を超え、旅する二人も50歳代半ばとなった。そうした年齢的な意識が一つのテーマになっている。

2018年3月25日、角川文庫、640円。

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2019年04月03日

藻谷浩介著 『完本 しなやかな日本列島のつくり方』


2014年刊行の『しなやかな日本列島のつくりかた』と2016年刊行の『和の国富論』(ともに新潮社)を合わせて、文庫化した一冊。様々な現場で活躍する13名と著者との対話集。

道路や駐車場に何十億、下手したら一〇〇億円以上かけるということには誰も何も言わなくて、鉄道会社は一億、いや、一銭でも収支がマイナスであれば「赤字だ」と文句を言われる。
              宇都宮浄人(経済学者)
旅行する人はわかると思いますが、「あっ、良い街だな」と思うのは、いろいろな機能が混在している街です。オフィスもあれば住居もある。
              清水義次(都市・建築再生プロデューサー)
どちらも統合されれば、今までのように子どもの足では通えなくなります。(・・・)地域に学校がなくなれば、子育て世代を引き留めておくことは相当に難しくなるでしょう。
              山下祐介(社会学者)

日本社会の現状と今後の課題を明らかにするだけでなく、それを乗り越えるための実践的な方法が示されている。内容的には決して明るくないのだが、様々な取り組みを行っている人が全国各地にいることを思うと心強い。

2018年9月1日、新潮文庫、710円。

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2019年03月31日

高橋順子編著 『日本の現代詩101』


明治から戦後にいたる詩人101名のアンソロジー。
一人に付き1〜2篇が収録され、解説・鑑賞が付けられている。

収められているのは、北原白秋・石川啄木・萩原朔太郎・佐藤春夫・高橋新吉・金子みすゞ、山之口獏・中原中也・立原道造・石垣りん・田村隆一・谷川俊太郎など。近代以降の詩の流れをひと通り把握することができる。

 「近代詩」「現代詩」の呼称にmodernなヨーロッパが関わり合っていることになるわけだが、英語でいえば「現代」も「近代」も同じくmodernである。
 私は文語詩から口語詩への変化のほうが、ヨーロッパの変革思想の受容よりも大きなものではなかったかと思う。
少し前の時代はおろか現在只今であっても他者の詩は読まずに、新しい詩を書いている詩人もいるようだ。新しさは確かに詩の一つの価値である。しかし新しさが新しい貧しさでないことを祈るばかりである。
「塵溜(はきだめ)」というテーマなどは文語詩では考えられなかったものである。醜の観念に属するものは、美文調ではうたいにくい。文語から口語への移り行きは語尾変化の問題だけでなく、質的にも大きな転換が必要だったことが分かる。

こういった文語・口語や新しさに関する話は、短歌の問題を考える上でも参考になる部分だろう。

   春
 てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

安西冬衛のこの有名な詩が、初出時には「韃靼海峡」ではなく「間宮海峡」であったことを、本書を読んで初めて知った。「韃靼」という難しい漢字と「だったん」という音が、この詩には欠かせない。

2007年5月5日、新書館、1600円。

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2019年03月23日

『日本プロレタリア文学集』

『日本プロレタリア文学集』(全40巻+別巻)は1984年から88年にかけて新日本出版社から刊行されたシリーズ。

その第40巻が『プロレタリア短歌・俳句・川柳』で、短詩型におけるプロレタリア文学を考える上で非常に便利な一冊となっている。

収録歌人を見ると、石川啄木、土岐哀果、柳田新太郎、山野井洋と、ここ数年、私がプロレタリア短歌という枠組みとは別にあれこれ調べた歌人たちが載っている。

同じシリーズの第39巻『プロレタリア詩集2』には、高安国世の友人であった榎南謙一も収録されており、このシリーズには何だか不思議な縁を感じる。

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2019年03月21日

竹内洋著 『立志・苦学・出世』


1991年に講談社現代新書より刊行された本の文庫化。
副題は「受験生の社会史」。

受験は今でも人生の進路を左右する大きな出来事であるが、それがいつの時代から始まり、どのように移り変わってきたかをまとめた本。受験の制度だけでなく、受験生の暮らしや心理を深く掘り下げているのが特徴だ。

昭和十七年に軍国主義のあおりで歐文社という社名は現在の旺文社に変更される
明治以降の勉強立身は学歴/上昇運動である。したがって勉強立身価値は、「階層」移動だけでなく上京という「地理的」移動を含むセンスである。

受験に関して、著者は歴史を三つに区分する。

・前受験の時代(明治30年代半ばまで)
・受験のモダン(〜昭和40年代まで)
・受験のポストモダン(昭和40年代〜)

この本を読んでよくわかったのだが、明治20年代と30年代では受験の様相が大きく異なる。「明治時代」を漠然と一括りに考えていたのだが、啄木の学歴について考える大きなヒントをもらった。

また、受験に関する限り、戦前と戦後という区分も実はあまり大きなものではない。この点も、私たちの漠然とした印象を覆すものであろう。

2015年9月10日、講談社学術文庫、800円。

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2019年03月08日

松沢裕作著 『生きづらい明治社会』


副題は「不安と競争の時代」。

明治時代の日本社会を「景気の悪化」「都市下層社会の誕生」「不十分な貧困者対策」「自己責任論と通俗道徳」「立身出世主義」「女性の弱い立場」「都市民衆騒擾の発生」といった観点から分析した本。ジュニア新書ということもあって、非常に読みやすい文章で書かれており、論点がすっきりと伝わってくる。

「生きづらさ」は昨今のニュースや短歌においても大きなテーマになっているが、同じような状況が明治時代にもあったことを、この本は教えてくれる。明治維新や日清・日露戦争の勝利といった「明るい明治」のイメージが語られることも多いが、実際の人々の暮らしはそうでもなかったようだ。

明治時代の社会と現在を比較して、はっきりしていることは、不安がうずまく社会、とくに資本主義経済の仕組みのもとで不安が増してゆく社会のなかでは、人びとは、一人ひとりが必死でがんばるしかない状況に追い込まれてゆくだろうということです。

著者の狙いは、明治時代の分析を通じて現在の社会が抱える問題点を解き明かすことにある。それはまた、私たち一人一人の今後のあり方を考えることにもつながる話であろう。

2018年9月20日、岩波ジュニア新書、800円。

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2019年03月06日

澁川祐子著 『オムライスの秘密 メロンパンの謎』


副題は「人気メニュー誕生ものがたり」。
2013年に彩流社より刊行された単行本『ニッポン定番メニュー事始め』に加筆修正・改題して文庫化したもの。

「カレー」「餃子」「牛丼」「コロッケ」「ショートケーキ」など、私たちの食卓に欠かすことのできないメニュー28品を取り上げて、そのルーツや来歴を解き明かしている。

日本におけるカレーの普及において、イギリスというワンクッションが果たした功績は大きい。歴史に「もし」はないというが、もしカレーが「カレー&ナン」の形でインドから直輸入されていたら、日本でこれほど定番メニューになったかどうか。
今ではパスタの茹で方といえば、芯が少し残るくらいの茹で立ての「アルデンテ」が当たり前。しかし、この言葉が普及したのは、セモリナ粉100%のパスタが普通に手に入るようになった1980年前後と、つい最近のことだ。
鷄肉が日本で広く流通するようになったのは、戦後である。肉用若鶏のブロイラーの生産が始まったのは、1953(昭和28)年になってからだ。

明治以降、肉食を始めとした西洋料理を日本風にアレンジした「洋食」が次々と生み出されてきた。それが1980年代くらいからだろうか、イタリアンやフレンチなどの店が増え、「本場」の「本格的」な味が手軽に楽しめるようになった。

それに伴って、「洋食」が実は日本にしかない料理であることに私たちは気づかされることになった。それは、私にとってはちょうど子供から大人への成長の時期にも重なる。その哀しさと懐かしさのような記憶が、昭和という時代とともに、この本を読んで鮮やかに甦ってきた。

2017年2月1日、新潮文庫、590円。

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