2020年07月21日

千松信也『自分の力で肉を獲る』


副題は「10歳から学ぶ狩猟の世界」。

ジャンルは児童書なのだが、内容は本格的な狩猟の入門書。獲物の痕跡の見つけ方から罠の仕掛け方、獲物の仕留め方、解体の仕方まで、カラー写真入りで詳しく解説している。

ぼくもふだんは週の半分くらいを地元の運送会社で働いて、残りの日を中心に山に入っている。ぼくの場合は食料調達がメインの目的なので、狩猟のことは職業でも趣味でもなく「生活の一部」だと考えている。
たまに、わなにかぶせてある落ち葉をていねいに鼻でどけて、わなを丸見えにして去っていく、とんでもなく賢いイノシシまでいる。
ベジタリアンと猟師というと、正反対の立場のように思えるかもしれないけど、「動物のことが好き」という点では共通している。
家畜の肉に慣れていると、肉の品質は常に一定だと思いがちだ。でも、野菜や魚に旬があるように、野生の肉にもおいしい時期もあれば、そうではない時期もある。

イノシシの肉は固いという一般的なイメージに対して、著者は次のように述べる。

家畜であろうと野生であろうと、動物は年をとったらそのぶん肉がかたくなる。家畜の豚は生後6カ月程度で110キロまで大きくなるように品種改良されていて、その段階で出荷される。つまり、みんなが食べている豚肉はすべて生後6カ月の子豚の肉だ。

こうした事実を私たちはどれくらい知って、毎日の肉を食べているのか。そうした問題も突き付けてくる一冊である。

来月には著者が主演のドキュメンタリー映画「ぼくは猟師になった」が公開される。今から楽しみだ。

2020年1月15日、旬報社、1500円。

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2020年07月16日

内藤正典・中田 考『イスラムが効く!』


イスラム地域研究者の内藤正典とイスラム法学者でムスリムの中田考が、イスラムの様々な知恵について語り合った本。人生、ビジネス、男女、貧困問題、心の病、高齢社会、家族、世界平和といった話題について、イスラムの観点からの見方・考え方を教えてくれる。

中田 お金を払って買う人間はそもそも「お客(guest)」じゃない。Customerです。それが日本だと、そもそも商業文化があまりないもので……
内藤 西洋諸国の多くは、「世俗主義」、日本では「政教分離」と言ったほうがわかりやすいですけど、政治や公の領域に、教会や宗教は出ちゃいけないんだという原則で国を作ってきた。
中田 日本みたいに「収入がないから結婚できない」というのはバーチャルな妄想です。妄想の中で生きているんですよね。
中田 イスラームの教えの基本は「人の言うことは気にしなくてもいい」ということなのですよね。神様が認めてくれればそれでいいわけですから、人がなんと言おうとかまわない。
中田 イスラームでは「寿命は決まっている」という考え方ですので、長生きするのがいいというのはべつに言いません。
内藤 日本人の世界観はどこか情緒的です。トルコなんて、枕詞みたいに「親日国」と言われますが、そもそも大半のトルコ人は日本のことを知りません。

こんなふうに、西洋的な考え方とも日本的な考え方とも違うイスラムの考え方を知るだけでも、ずいぶんと新鮮な気分になる。そもそも「国」だって、自明なものでも何でもない。「日本」や「日本人」という枠組みに縛られている必要もないのかもしれない。

2019年3月5日、ミシマ社、1600円。


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2020年07月14日

原 武史『滝山コミューン一九七四』


2007年に講談社より刊行された本の文庫化。
何ともすごい本である。

1974年に東久留米市立第七小学校において形成された強固な地域共同体(滝山コミューン)とは何だったのか。自らの小学校時代の暗い記憶を掘り起こし、関係者への取材も交えて、著者はその原因となった教育のあり方を突き止めていく。その背景には、全国生活指導研究協議会(全生研)の主導した集団主義教育や「学級集団づくり」があった。

全生研が「学級集団づくり」を進めてゆく上で、「ソビエト市民生活」に近い「四〜五階のアパート形式で、エレベーターなしの階段式」の滝山団地がいかに“理想的”な環境にあったかは、こうした観点からも裏付けられるように思われる。
私にとっての「安住できる場所」は、しだいに四谷大塚になってゆく。後に見るように、七小で疎外感や孤立を味わえば味わうほど、塾通いという、表面的には批判されるべき日曜の一日が、私にとっては七小の児童以外の集団に帰属する貴重な機会となった。
児童により構成される選挙管理委員会が、4年以上の全校児童から立候補者を募り、委員長、副委員長、書記を同じく4年以上の全校児童の投票による直接選挙で選ぶことにしたのである。

こうした記述を読みながら、私も自分の小学校時代を思い出す。著者よりは8歳年下で、住んでいたのも西武沿線ではなく小田急沿線であったが、東京郊外のベッドタウンで育ったこと、四谷大塚進学教室に通っていたこと、児童代表委員会の選挙があったことなど、いくつも共通点がある。

この本を読んで痛ましく思うのは、教師も親もみな良いことをしているという強い意識を持っていたことである。実際に、教育に熱心な教師であり、子供の将来を思う親たちであったのだ。でも、そうした善意が必ずしも良い結果を生むとは限らないのである。

私は小学校生活に普通になじんでいたと思うけれど、本当のところはどうだったのだろう。

2010年6月15日、講談社文庫、600円。

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2020年07月12日

藤森照信『現代住宅探訪記』


「TOTO通信」の連載から15件を選んでまとめた本。

篠原一男〈谷川さんの住宅〉、A・レーモンド/津端修一〈津端邸〉、磯崎新〈新宿ホワイトハウス〉、藤井厚二〈八木邸〉、平田晃久〈Tree-ness House〉など、個性豊かな建築が豊富な写真や図面とともに紹介されている。

建築作品の個性は、篠原でも山下でも建築家の人柄と深く関係し、違う人柄の人がまねようとしても結局ダメだと。私も、そう思う。人柄だけでなく、知力、身体性、すべての総和として建築は生まれてくる。
藤井がただひとりというか、最初に伝統とモダンの通底化に成功したのは、和と洋といった文化的差異の奥に幾何学という世界共通の原理を発見したから、と、近年の私は考えている。
日本のすぐれた建築家たちは、公共建築や銀行、会社などの大建築だけでなく、住宅という私的で小さな建築においても大建築に負けない、というより、ときには大建築では認められないような先駆的試みに取り組み続けて今に至ることが分かる。

お金のある人生だったら、自分の好きな家を建ててみたいものだな。

2019年12月30日、世界文化社、2200円。

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2020年07月09日

『おいしい資本主義』のつづき

ライター生活30年の著者は、文章を書くことについてもこの本で述べている。

自分としては、音楽を書こうと文学を書こうと、アメリカや、政治、経済の話を書こうと、ばっちり焦点があっている、というか、〈同じこと〉を書いているつもりだ。

これは、よくわかる気がする。他人から見ればバラバラに見えることでも、自分の中ではちゃんと一つの像を結んでいるのだ。

文章を書く前は、自分が何を考えているのかも、分からない。文章に組み立て、ようやく、「ああ、おれはこんなことを考えていたのか」と、驚く。考えがあって、文章がまとまるんじゃない。逆。

これも、まさに実感するところ。文章を書く時もそうだし、短歌を詠む時もそうだ。

そう言えば、この本には頭脳警察、TEARDROPS、クール・アシッド・サッカーズなどの歌詞が随所に引用されているのだが、短歌もあった。

空は青雲は白いというほかに言いようないねじっと空を見る
どこまでが空かと思い結局は地上すれすれまで空である。
                  奥村晃作


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2020年07月08日

近藤康太郎『おいしい資本主義』


朝日新聞の人気連載「アロハで田植えしてみました」の著者が、自らの体験を記した本。

東京でライター兼新聞記者の仕事をしていた著者は、東京での生活に行き詰まりを覚え、諫早市に移って朝1時間だけの田んぼ仕事をすることにする。目標は自分の食べるだけの米を自分で作ること。

と言っても、単なる農業体験記ではない。現代の資本主義社会の問題点を指摘し、新たな生き方を提案・実践する思索の書でもある。

じつは、日本は瑞穂の国ではない。日本の国土が稲作に適しているというのは、美しい神話だ。植物としての稲を、いわば「工業製品」として、廉価に、大量に、効率的に栽培しようと思ったら、日本の風土が最適というわけでは決してない。
いまの社会はコミュニケーション能力に過剰に力点を置いている、「コミュ力強迫社会」である。コミュ力、コミュ力と追い立てられて、居場所がなくなっちゃう人、適応できない人、生きにくくなっている人が、一定数、出てきているのも事実。
うまい農家はカネなんか使わない。というか、「貨幣でなんとでもなる」という時代精神は、田では思考の怠惰でしかない。

好きなライター仕事を一生続けていくために、とりあえず自分の食い扶持は自分で作る。実にシンプルで、かっこいい。

2015年8月30日、河出書房新社、1600円。


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2020年07月04日

辻田真佐憲『ふしぎな君が代』


「君が代」は、賛成か反対かの二元論で語られるか、敬して遠ざけるといった態度を取られることが多い。それに対して著者は、以下の6つの疑問を解き明かしたうえで「君が代」への新しい向き合い方を提案している。

・なぜこの歌詞が選ばれたのか
・誰が作曲したのか
・いつ国歌となったのか
・いかにして普及したのか
・どのように戦争を生き延びたのか
・なぜいまでに論争の的になるのか

歌詞や作曲など、自分自身こんな基本的なことも知らなかったのかと驚かされることばかり。まずは「君が代」についてよく知ることが、議論のためにも必要なのだ。

唱歌や軍歌と呼ばれる歌は、鉄道や通信制度などと同じく、明治政府の関係者が西洋諸国を参考にして導入したものであった。
当時、国歌を作りうる政府機関は、陸軍軍楽隊、海軍軍楽隊、宮内省雅楽課、文部省音楽取調掛の四つしかなかった。
インターネットで検索すればすぐ「君が代」の音源が見つかる現代では考えにくいが、録音技術が未発達な時代、その模範的な歌い方を実際に聴くことは容易ではなかった。
起立して、姿勢を正し、「君が代」を一回だけ歌う。(…)現在我々が当たり前だと思っている「君が代」斉唱の風景は、実は戦時下に完成したものに他ならなかった。

「君が代」をめぐる話を通じて浮かび上がってくるのは、明治以降の日本の歴史であり、近代日本が抱え込んだ様々な矛盾や軋轢である。それは過去の話ではなく、現在まで続く問題として残されている。

2015年7月30日、幻冬舎新書、860円。

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2020年06月19日

近藤康太郎『アロハで猟師、はじめました』


朝日新聞で不定期に連載されていた「アロハで猟師してみました」の書籍化。と言っても、内容は大幅に書き加えられている。

新聞では狩猟をめぐるドタバタが面白おかしく記されていたのだが、本書を読むとその背後にきちんとした思考の筋道や人生観があることがわかる。実は非常にマジメな内容だったのだ。

耕作放棄地での米作りに始まり、鉄砲を使った鴨猟、そして罠を使った鹿猟と、新聞記者兼ライターの著者は次第にフィールドを広げてゆく。
猟師になると、初めて〈世界〉が見える。〈世界〉が聞こえるようになる。音、色、匂い。風や水面や樹木や葉っぱなど、世界を見る目がまるで変わってくる。
人力田植えとは、触覚、視覚、聴覚、味覚を動員する「感性の力作業」であった。(略)猟になると、ここに嗅覚も加わる。田んぼに猟は、五感を最大限に働かせる、人間性回復の営みでもあったのだ。
耕作放棄地、有害鳥獣、空き家問題は日本の三大問題で、これから税金を使って解決していかなければならないことはわかりきっている。問題の根は同じで、地方の人口減少と少子高齢化である。

こうした思考の一つ一つに実践が伴っているので説得力がある。実行力に裏打ちされた理論は強い。

五年後の自分が、まったく予想していなかったものになる。変えられてしまう。五年後の自分の姿が想像できない。これが生きる醍醐味でなくてなんであろう。

本当にその通りだと思う。分かりきっている人生だったら歩いてみなくたっていいのだから。

2020年5月30日、河出書房新社、1600円。

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2020年06月07日

木原善彦『アイロニーはなぜ伝わるのか?』


「言いたいことの逆を言う」かのようなアイロニーがなぜ相手に伝わるのか。豊富な用例を提示しながら丁寧に解説している。

従来の「こだま理論」「ほのめかし理論」「偽装理論」などを紹介・批判したうえで、著者が示すのは「メンタル・スペース理論」。〈期待〉される世界と〈現実〉の世界との衝突や差によってアイロニーが生まれるというものだ。

この説明ですっきり納得が行くかと言えば、残念ながらそこまでではない。もやもやしたものが残る。ただ、様々なアイロニーの型や例が挙げられているので、それを読むだけでも面白い。

本の内容とは離れるが、今年5月6日にバンクシーが発表した作品「Game Changer」について、医療従事者への感謝を表しているという見方もあれば、医療従事者をヒーロー扱いする政府やメディアへの皮肉という意見もあった。

同じ作品をアイロニーとして受け取る人とそうでない人がいる。これは短歌の読みにおいても時おり見られることで、アイロニーという方法の奥深さであり難しさでもあると思う。

2020年1月30日、光文社新書、780円。

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2020年06月04日

太宰治『人間失格 グッド・バイ 他一篇』


「他一篇」は評論「如是我聞」。三篇とも太宰が38歳で亡くなる昭和23年に書かれた作品である。

太宰の作品は高校から大学の頃に愛読していたが、今回30年ぶりくらいに読んだ。本当に久しぶりという感じ。自分が年を取った分、以前とはまた違った味わいを楽しめた気がする。

世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。
                   「人間失格」

それにしても、38歳って早いな。

1988年5月16日第1刷発行、2019年9月17日第48刷発行。
岩波文庫、600円。

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2020年05月30日

大東和重『台湾の歴史と文化』


副題は「六つの時代が織りなす「美麗島」」。台湾の歴史や文化を「先住民族」「オランダ統治」「鄭氏政権」「清朝文化」「日本の植民地」「国民党独裁と民主化運動」という6つの時代順に記した本である。

けれども、いわゆる概説書とは大きく違う。かつて著者が住んでいた台南を中心に、國分直一、前嶋信次、新垣宏一、葉石濤、呉新榮、王育徳ら台南にゆかりのある人物のエピソードを織り交ぜる手法で記述している。

戦争にまつわる日本人の記憶から、かつて「日本人」として戦った高砂義勇隊は、完全に抜け落ちた。太平洋戦争はあたかも、内地に住む「日本人」だけが戦い、「日本人」だけが被害に遭ったかのごとく記憶された。
一六二〇年代、オランダ商船はインドネシアのバタヴィアから、安平を経て、平戸へと来航した。これらの港は、当時のヨーロッパにおける金融の中心、アムステルダムと海でつながっていた。
民主化以降の台湾では、「正名運動」といって、地名などを台湾風に変更することが主張された。(・・・)全島共通の道路名はそのままである。どの街に行っても、街の中心にでたければ、中山路や中正路をめざせばよい。
台湾の民主化運動は、「本土化」の運動でもあった。本土化は「台湾化」と言い換えることができるように、外来政権である国民党が台湾に根差した政党となり、中華民国が中国全土を統治する国家でなく、台湾サイズへと収まる変化である。

400年の歴史を持つ台湾であるが、1980年代までは外来の政権が一貫して台湾を支配し続けてきた。台湾に住む人が自らの手で台湾を治める時代がようやくやって来たのである。

また台湾に行ってみたくなってきた。

2020年2月25日、中公新書、900円。

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2020年05月28日

pha『どこでもいいからどこかへ行きたい』


「旅」「街」「住む場所」についてのエッセイ集。2017年に幻冬舎より刊行された単行本『ひきこもらない』を改題、再構成して文庫化したもの。

旅先でも一切特別なことはしない。観光名所なんか一人で行ってもつまらない、景色なんて見ても2分で飽きる。一人で食事するときはできるだけ短時間で済ませたいので、土地の名物などは食べず、旅先でも普通に吉野家の牛丼とかを食べている。

というようなスタイルで、「ぼーっとしたいときは高速バスに乗る」「一人で意味もなくビジネスホテルに泊まるのが好きだ」「チェーン店以外に行くのが怖い」「夕暮れ前のファミレスで本を読みたい」「昔住んでた場所に行ってみる」といった話が書いてある。

僕にとって旅行というのは普段しないような珍しい体験をしたくてするものではなくて、ただ自分のいつもの見慣れた日常を抜け出して、知らない土地で行われている別の日常を覗き見したくてしているようなところがあるのだと思う。
細かい場所に面白さや新しさを見出せる視点さえあれば、家の近所を散歩しているだけでも毎日新たな発見がある。既知と思っていることの中にいくらでも未知は隠れているものだ。
電車を降りたらまず駅前にある地図を見て、「東口より西口のほうが栄えてそうだな」などと、街の構造を想像する。
カフェなどを仕事場にするときのジレンマというのがあって、それは「空いている店は落ち着けてよいけれど、あまりにもガラガラの店は潰れてしまう」というものだ。
今の僕は京都を遠く離れて東京に住んでいるけれど、東京にはなぜ鴨川がないのだろうと不満に思う。

共感する箇所を引用し始めるとキリがないくらいだ。一番根本にあるのは、社会の中でどのように自分を保ちつつ自由に生きていくか、ということだろう。でも、あまり共感し過ぎてもいけない気がする。そのあたりが何とも微妙なところ。

2020年2月10日、幻冬舎文庫、600円。

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2020年05月18日

白井久也『検証 シベリア抑留』


敗戦後に約57万5千人がソ連各地で強制労働に従事させられ約5万8千人が死亡したとされる「シベリア抑留」。その原因や実態、国家賠償を求める裁判などについて記している。

本書の一番の特徴は、シベリア抑留がなぜ起きたかという点を詳しく分析しているところだろう。それは単に国際法を無視したソ連の横暴や日本軍の無責任な体質のためでけでなく、様々な要素が結び付いて行われたものであった。

一つには、激しい独ソ戦で約2660万人もの死者を出したソ連では労働力の不足が著しかったこと、また、スターリンの独裁下で政治犯などを収容するラーゲリが全国各地にあったこと、大戦末期に日本が植民地の割譲や兵力賠償を条件にソ連に和平交渉の仲介を依頼したこと、日本には捕虜を恥とする考えが根強く捕虜の扱いや権利に関する知識が不足していたこと、などである。

もともと給食の定量が少なくて、慢性的飢餓感に苛まれていた日本人捕虜は、ノルマを巧妙に操った「懲罰減食」の恐怖におびえて、わが身を一段と過酷な捕虜労働に駆り立てた結果、病気になったり、命を落としたりする悲劇が、後を絶たなかった。
「反動」の烙印を押された捕虜は、捕虜集会に引き摺り出され、「吊し上げ」という名の大衆制裁を受けた。アクティブたちが被告となった捕虜の罪状を告発、自己批判を強要するのだ。

シベリア抑留の実態は、読めば読むほど悲惨の限りである。でも、それを戦争の生んだ悲劇とだけ捉えていても始まらない。実態を正確に記録し、原因や責任を明確にすることが、私たちの今後のためにも必要なのだ。

2010年3月15日、平凡社新書、800円。

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2020年05月16日

『恥ずかしながら、詩歌が好きです』の続き

この本には「近現代史を味わい、学ぶ」という副題が付いているが、取り上げられている作品はほぼすべて近代短歌、近代詩である。現代の、最近の詩歌は載っていない。

それは教科書などを通じて私たちが慣れ親しんでいる詩歌が近代のものだからいう理由だけではないようだ。

どんなに美しく、また観念的、象徴的であっても、近代詩歌は基本的には詩人の実人生を反映しています。選び抜かれた言葉の襞のあいだには、折りたたまれた人生の苦悩がぎっしり詰まっている。
ホントにね、漢詩風の文語体や七五調の威力は凄くて、私は今回、好きだった詩をあれこれ思い出しながら本書を書いているのですが、暗唱できるのはほとんど七五調の詩ばかりで、自由律詩は断片しか思い出せませんでした。

こうした文章を門外漢の話と退けることもできるけれど、そうではなくて、現代詩や現代短歌に対する耳の痛い批評として読むことも可能だろうと思う。

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2020年05月15日

長山靖生『恥ずかしながら、詩歌が好きです』


副題は「近現代詩を味わい、学ぶ」。

人気の評論家である著者が、自分の好きな詩歌について分析も交えながら楽しく論じた一冊。明治から戦後にかけての文壇交流史や文学史として読むこともできる。

取り上げられている詩人・歌人は、正岡子規、伊藤佐千夫、長塚節、与謝野鉄幹、夏目漱石、森鷗外、大塚楠緒子、与謝野晶子、乃木希典、上田敏、北原白秋、木下杢太郎、佐藤春夫、萩原朔太郎、吉井勇、若山牧水、中村憲吉、中原中也、石川啄木、百田宗治、萩原
恭次郎、小熊英雄、片山廣子、芥川龍之介、高村光太郎、山村暮鳥、千家元麿、三好達治、佐藤惣之助、立原道造、堀辰雄、折口信夫、斎藤茂吉、山之口獏など。実に幅広い。

日清戦争時の戦争詩というと新体詩ではなく圧倒的に漢詩です。文人だけでなく、戦地の将校や兵卒らも漢詩を作っては日本に送り、それが雑誌などによく載っていました。
北原白秋旗下の三羽烏といえば萩原朔太郎、室生犀星、大手拓次ですが、彼らは三感覚をそれぞれ継承した感があります。萩原は色彩、室生は味覚、そしてもちろん大手といえば香りですね。
私は長塚節の小説『土』と共に中村憲吉の造り酒屋の歌が、日本の地方・農村というものを考えるうえで、今も忘れてはならない根源的な精神を伝えてくれていると考えています。
弟子が一人前になるには、師と決別する時期を持たなければなりません。強く惹かれる分、師の模倣ではない「自分だけの世界」を確立する努力は辛いものとなります。

時おり混じる軽い口調が少し気になるが、全体に詩歌に対する深い愛情と博識ぶりに引き込まれて読んだ。短歌は短歌、詩は詩と分けて考えていても、近代の詩歌は見えてこない。もっと詩を読んで、詩に対する理解を深めていかなくてはと思う。

2019年11月30日、光文社新書、940円。

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2020年05月12日

胎中千鶴『あなたとともに知る台湾』


副題は「近現代の歴史と社会」。
歴史総合パートナーズ6。

台湾の歴史・社会や日本との関わりが、日本統治期、戦後、現代の三つに分けて記されている。良質な入門書と言っていいだろう。

ところで総督府は、そもそもなぜ原住民をこんなに厳しく支配したのでしょうか。(・・・)実は総督府は、台湾の山林地域にある貴重な資源を手に入れようとしていたのです。それは主に、樟脳とヒノキでした。

少し調べてみたところ、タイワンヒノキは明治神宮の鳥居や靖国神社の神門などにも使われているらしい。現在では輸入が難しくなっているとのこと。

1990年代後半以降の日本では、日本語世代と哈日族、さらに私の友人のような知日派もひとくくりにして「親日」ととらえる傾向がありました。あたかも日本統治期から戦後、そして現在に至るまで、台湾人がみんな常に「親日」であったかのような見方です。

本当の友好関係を築くには、まず「親日」「反日」といった単純で一面的な捉え方から距離を置く必要がある。

民主化以前の台湾では、歴史教科書の内容のほとんどが中国大陸と中華民国の歴史でした。つまり、辛亥革命(1911年〜12年)によって大陸で成立した中華民国と、その「大陸から来た我々」の視点で書かれていたのです。

外省人と本省人の対立を経て、「台湾人」としてのアイデンティティが次第に確立されてきたのだろう。今後、東アジアの国同士の関係改善が少しずつでも進んでいくと良いのだが。

2019年1月9日、清水書院、1000円。


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2020年05月11日

植村和秀『折口信夫』


副題は「日本の保守主義者」。

日本政治思想史、比較ナショナリズム論を専攻する著者が、長く惹かれ続けてきた折口信夫の思想を分析した本である。

関東大震災や二・二六事件、そして戦争と敗戦に対して、折口がどのように考え行動してきたのか。その心情に寄り添いながら66年の生涯をたどっている。

ネイションへの肯定的なこだわりをナショナリズムと呼ぶならば、折口はまさに、強烈なナショナリストである。ただし、国家よりも社会に、そして民族と宗教に特にこだわりを持つため、社会的・宗教的志向の強い民族主義者と呼ぶべきであろう。
研究者としても創作者としても、折口には独特の魅力がある。創作者としての折口は、歌を主とし、詩や小説にも実験的に取り組んだ。研究者としては、国文学と民俗学を主たる分野とし、国学や神道の研究をそこに連結させた。創作者の立場と研究者の立場は入り組んでつながっており、魅力的だが理解しにくい原因となっている。

全体にコンパクトにまとまっていて読みやすいのだが、折口の行動や心情を分析する際に折口の弟子たちの記述に頼り過ぎな気がする。弟子は師のことを悪くは言わないので、そこにだけ依拠していては客観性を保てなくなってしまうだろう。

 歌こそは、一期(イチゴ)の病ひ――。
  しきしまの 倭の国に、
   古き世ゆもちて伝へし 病ひなるべき
                  『古代感愛集』

2017年10月25日、中公新書、820円。

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2020年05月09日

半田カメラ『遥かな巨大仏 西日本の大仏たち』


西日本各地にある大仏を訪れて写真入りで紹介したガイドブック。『夢みる巨大仏 東日本の大仏たち』の続編。

立像で4.8メートル、坐像で2.4メートル以上の大きさの仏像を求めて、北陸、東海、近畿、中国、四国、九州を旅する。「大仏めぐりをはじめてから10年目」とのことだが、とにかく大仏愛に溢れた内容となっている。

ありふれた日常の風景を切り裂くように忽然と現れる巨大な仏さま。瞬時にそれが現実のものとは受け入れられず、目と頭との間でいつもより念入りに情報交換が行われ、頭がこれは現実だと受け入れてからやっと体が動き出す感じ。

「奈良の大仏」や日本最古の「飛鳥大仏」など有名な文化財だけでなく、平成20年にできたばかりの紀三井寺の「大千手十一面観世音菩薩」や個人所有のビルの屋上にある「安治川の仏頭」など、82体の大仏が載っている。大仏であれば何でもOKという姿勢が清々しい。

大仏に限らず大きなものが好きなようで、コラムでは東尋坊タワーや香川県観音寺市の「寛永通宝」、福岡県の「旧志免鉱業所竪坑櫓」なども紹介されている。

本業がカメラマンということもあって、掲載されている写真がどれも素敵なものばかり。時間や季節や天気をよく考えて撮影しているのだと思う。

2020年2月24日、書肆侃侃房、1800円。

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2020年05月04日

山下裕二『日本美術の底力』


副題は「「縄文×弥生」で解き明かす」。

「動と生、過剰と淡泊、饒舌と寡黙、あるいは飾りの美と余白の美」を、それぞれ「縄文」と「弥生」の2つのキーワードにして、日本美術の歴史を描いた本。縄文土器から村上隆の「五百羅漢図」まで、カラー写真69点も収められている。

特に良かったのは、伊藤若冲「紅葉小禽図」、葛飾北斎「木曽路ノ奥阿弥陀ヶ滝」、宮川香山「褐釉蟹貼付台付鉢」、安本亀八「相撲生人形」、佐藤玄々「天女(まごころ)像」、小村雪岱「青柳」、福田平八郎「漣」、田中一村「不喰芋と蘇鐵」、岸田劉生「麗子坐像」。

日本における水墨画とは、基本的に中国・宋代の絵画スタイルをもとに、鎌倉時代後期以降に描かれた作品を指します。それ以前の作品は、たとえ墨一色で描かれていても水墨画とは呼びません。
若冲作品のなかでも人気の「鳥獣花木図屏風」は、かつて東京国立博物館の奥で埃をかぶっていました。東博に寄託されていたこの作品を発見したのは、当時、同館に勤めていた美術史家の小林忠氏です。

こういった美術史家としての知識にも、教えられるところが多い。

2020年4月10日、NHK出版新書、1200円。

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2020年05月01日

姜尚美『何度でも食べたい。あんこの本』


2010年に京阪神エルマガジン社から刊行された単行本を加筆修正して文庫化したもの。

25歳であんこの美味しさに開眼した作者が、全国36軒の店を取材して紹介している。それぞれの店の人の語る言葉が印象深い。

甘さ控えめがいいみたいに言われてますけど、砂糖を減らしたら控えめに感じるかと言えば、それは違う。ただの水くさいあんこになってしまうんです。(紫野源水)
大阪の御堂筋のイチョウ並木の黄色とね、和歌山の高野山のイチョウの黄色は違うんですよ。御堂筋のはすこーし濁った黄色ですわ。高野山は透明な黄色。(河藤)

あんこに関する話も興味が尽きない。

京都の和菓子屋さんには、意匠に凝ったその店独特の菓子を出す上生菓子屋さん、饅頭や最中を出すおまん屋さん、餅や餅菓子を出すお餅屋さんの3種類ある。
小豆は、世界の豆類の中でかなりマイナーな存在だ。おもに栽培は東アジアでされているが、伝統的に流通・食用までしているのは中国、韓国、台湾、日本の4か国ほど。その中で一番小豆を食べているのが日本で、ほとんどをあんこにして食べている。

日本人って、そんなにあんこが好きだったのか・・・

巻末の「あんこ日記」によると、作者は日本国内にとどまらず「東アジアあんこ旅」と称して、韓国、台湾、中国、ベトナムにも取材に出向いている。その上で「あんこへの道は迷宮入りした。しかし、ここから新たな扉が開くような予感もする」と書く。

あんこって、奥が深い。

2018年3月10日、文春文庫、850円。


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2020年04月23日

アサダ・ワタル『住み開き 増補版』


副題は「もう一つのコミュニティづくり」。
2012年に筑摩書房より刊行された単行本を増補・文庫化したもの。

自宅の一部をカフェや美術館、図書館、イベントスペースなどとして開放することを「住み開き」と名付け、全国で35件の実践例を紹介している。印象的なのは、「住み開き」を通じてそれまでとは違うタイプの人と人のつながりが生まれていることだ。

集会所を借りるよりもお金がかからない、などの経済的な面もあるだろうが、何よりも、「自宅開放」が人とのつながりをより強固に編み上げる機能を果たしているのだ。
結局のところ、「住み開き」は他者を変える、地域を変える前に、「私」をこそ開き、「私」をこそ変えるのだと。

もちろん、自宅に人が出入りするのだから難しい面もたくさんある。実際に「2012年発刊当時掲載した31事例のうち、実に半数以上が同地での活動を解消」しているそうだ。別形態への展開や発展的な解消もあるけれど、「掲載の数年後に、メンバーの仕事と生活の環境変化のために活動終了」といった例もある。

そうした後日談も含めて、いろいろと学ぶことの多い一冊であった。

2020年3月10日、ちくま文庫、820円。


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2020年04月21日

松木武彦編著『考古学から学ぶ古墳入門』


このところ古墳に興味があって、あちこち見に行っている。見るだけでなく少しは知識も得ようと思って、この本を買った。古墳の役割や歴史、形状や構造、見るポイントなどが詳しく解説されている。

15万基以上という古墳の数は、日本のコンビニエンス・ストアの店舗総数の約3倍です。
仏教の伝来と公認によって思想が国際的に開明化したことが、前方後円墳を消滅させました。
デジタルの地理情報を容易に手に入れ、操作することができるようになったいまでは、それらを使って古墳を見つける試みも始まっています。

古墳の数が全国に15万基以上もあり、しかもまだ見つかっていない古墳もあるというのは驚きだ。

著者は古墳を愛してやまない人らしい。石室の撮影ポイントの一つに「天井」を挙げて「カッパ着用なら玄室の床に寝転がって撮る」と書いている。

いや、すごいな。一度やってみよう。

2019年6月11日、講談社、1500円。

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2020年03月30日

石牟礼道子・藤原新也『なみだふるはな』


2012年に河出書房新社より刊行された単行本の文庫化。
東日本大震災後の2011年6月13日から15日の三日間、熊本市の石牟礼道子宅で行われた対談を収めている。

帯に「水俣と福島―共振する、ふたつの土地」とあり、最初はちょっと強引な結び付け方ではないかと思ったのだが、対談を読み進めるうちに、水俣で起きたことと福島で起きたことの間には深い共通点があることがよくわかった。

電気が最初に来た日は、何時ごろ電気が来ますと町内でふれ合って、時計を見ながらみんなで待っているんです、電気を。傘もない裸電球ですけれども。そのときの驚きとうれしさはなかったですよ。「それで世の中が開ける」という言葉が家では定着していました。その最初を開いてくれたのは会社だ、と。
「チッソ」とはいっていませんでしたね。いまでも「チッソ」とはいわない。水俣に行けば「会社」という。
うれしかったですよ。だって、大人たちが「市になってよかった」と。日本の近代というのは田舎をなくそうということだったでしょう。それで、「田舎者」という言葉がありますように、「いなかもん」といわれるほど屈辱はない。

水俣とチッソの関係は、福島(の浜通り)と東京電力の関係とよく似ている。

石牟礼の記憶は非常に鮮明で、細かな部分にも話は及ぶ。それを丁寧に掬い取りながら話題を展開していく藤原のさばきも良い。内容の濃い優れた対談だと思う。

2020年3月20日、河出文庫、850円。

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2020年03月25日

増補版というもの

西村佳哲『増補新版 いま、地方で生きるということ』は2011年刊行の本に2019年のインタビューが増補されている。8年の間に状況が変ったり、当初の思い通りに行かなくなったりした話も載っている。

彼はその後、キャベツ中心の大規模農家になりました。今はそのビジネスの成就に心血を注いでいるようです。当時は一緒に新しい試みを模索していましたが、今ではまったく交わることが無くなってしまいました。(柴田道文)
西村さんのインタビューの後にこの土地から離れていった人も沢山いましたし、私が『のんびり』に必死すぎたせいで、秋田に居ながらにして距離が生じてしまった人も多く、半ば強制的に自分の足で立たなければならなくなった。(矢吹史子)
氷見には2013年以来通えていないけど、子どもが生まれた子もいて、元気にしているという便りをもらっている。自費出版の写真集をみんなに届けに行ったのが最後です。(酒井咲帆)

こういう後日譚にこそ、生々しい現実が滲んでいるように感じる。それを読めるのが、この増補版の一番の良さかもしれない。

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2020年03月22日

渡部陽一『戦場カメラマンの仕事術』


テレビでも人気の著者が、戦場カメラマンになった経緯や取材の方法を記した本。第二部には4名のジャーナリストとの対談が載っている。

印象に残るのは下積み時代の話。アルバイトでお金を貯めては戦場に行くという日々だったようだ。

僕はひとりぼっちのフリーランスで、バナナの積み込み作業をして戦場に行き、編集部に写真を届け、1枚も使ってもらえずに、また積み込みをしてお金が貯まると戦場に行くという繰り返しでした。

他にも著者の考え方や大事にしていることが、いろいろと明らかにされている。

悩んだときにはゴー。悩んだそこには答えがある、と思うんですね。
21世紀はインターネットが発達して、取材の仕方、発表媒体、掲載のスピードなど様々な条件が変わってきています。しかし、基本のアプローチはアナログだと思います。
移動の段取りを自分で組み、手探りで進むことで、町の名前や思い出、移動手段のバス会社の名前などのひとつひとつがインプットされる。これもまた大切な取材の一環ですね。


2016年3月20日、光文社新書、880円。

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2020年03月18日

西村佳哲『増補新版 いま、地方で生きるということ』


2011年8月にミシマ社より刊行された本に増補加筆して文庫化したもの。東日本大震災後の2011年5月に東北と九州を訪れ、11人にインタビューしながら考えた内容に、8年後のインタビューが追加されている。

ふだん自然学校などを運営している方々が震災後の被災地に入って経験を生かしたボランティア活動をされていたことを、この本で初めて知った。「自然学校」と「震災」は全く関係ないように見えるのだが、ライフラインのない場所でどう生きるかという意味でとても近いものがあったのだ。

商売にせよ遊びにせよ、何事においても基本やっぱり“一人でできる”ということですよね。「自立」というか個々のパワーアップがないと、最終的に単なる村社会のようになってしまう。(柴田道文)
山菜やきのこの採り方だったり、いろんなことを知っていて。「なにもなくても生きていけるぜ」っていう、生きる力っていうのかな。それをすごく持っている人がたくさんいて。(柏ア未来)
欧米では公(public)・共(Common)・私(Private)の三つは別々の概念として捉えられている。(・・・)ところが日本では「公共」という言葉で、このうちの二つが一緒くたになっている。(徳吉英一郎)
中央/地方と分けてとらえること自体に違和感がある。僕の中でそれらの領域の境目が薄れてきている感じがあるんです。(田北雅裕)
フィジカルをケアしておけばいいと言ったのは、物事に反応する自分自身が変わっていくから。たとえば健康になると気分がいいから、またジョギングやろうかなって気になったり。(豊嶋秀樹)

生きる上でのいろいろなヒントが詰まった本。
でも、最後は誰だって自分で考えて決めなくてはならない。

2019年12月10日、ちくま文庫、860円。

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2020年03月02日

『秘境旅行』のその後

『秘境旅行』はもともと1962年刊行の本なので、60年近く前の話ということになる。ここに載っている写真の多くは、今ではもう撮ることができないだろう。失われてしまったものや、無くなってしまったものがたくさんある。

一方で、この本に書かれた話のその後が続いている例もある。

例えば「一校長の執念の結晶」として紹介されている広島県千代田町(現・北広島町)の新藤久人氏の収集品は、現在、芸北民俗芸能保存伝承館に保存されている。
https://www.town.kitahiroshima.lg.jp/site/bunkazai/1775.html

また、町ぐるみで養鶏が奨励されていた島根県大東町(現・雲南市)は今でも養鶏が盛んで、「うんなんたまごプロジェクト」といった町おこしにも活用されている。
https://www.unnan-tamago.com/

こんなふうに現在まで繋がっているものがあることを知ると、何だかとても嬉しい。

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2020年03月01日

芳賀日出男『秘境旅行』


1962年に秋元書房から刊行された本を再編集し、加筆・修正のうえ文庫化したもの。おススメの一冊。

「写真家としてこの十年間二千日くらい旅行をした」と記す作者が、北は北海道のノサップ岬から南は沖縄の久高島まで、昭和30年代の日本各地を訪れた記録。

150点余り掲載されている写真が実にいい。風景も人の表情も、豊かで力がある。私の生まれる前の世界なので、懐かしさとは違う。別世界の美しさといった感じである。

文章も味わい深い。

歯舞をすぎてバスの車掌が、
「カワイさん前」
と呼ぶ。北海道の田舎を旅行していると「タカハシさん前」とか、「キムラさんのお宅前」という名のバスの停留所にあう。広々とした原野の中にぽつんと一軒、サイロウを持った農家がある。(北海道ノサップ)
鉄道東海道線が開通して回船制度が消滅すると、同時にそれは妻良の没落であった。以後七十年間、妻良は毒りんごを食べた白雪姫のように眠りつづけてしまった。(静岡県妻良)
誰一人知る人もない外泊の村へ坂をこしてゆくのはいくらか心細かった。それでも岬をまわって外泊を一目見た時、私の瞳は天地に一ミリずつ大きく開いたほどの素晴らしさに見とれた。(愛媛県外泊)

全国18か所が紹介されているのだが、私が行ったことのあるのは「網走」と「舳倉島」の2か所だけ。もっと日本のあちこちに行ってみないとなあ。

2020年1月25日、角川ソフィア文庫、1160円。

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2020年02月25日

『ちくま日本文学12 中島敦』


先日、万城目学の『悟浄出立』を読んだ流れで、中島敦を読む。
小説17篇と短歌170首あまり。読んだことのある作品がほとんどだが、やはり中島敦はいい。

彼の主人たるこの島の第一長老はパラオ地方――北はこの島から南は遠くペリリュウ島に至る――を通じて指折の物持ちである。  /「幸福」

昭和 17年11月の作品だが、このわずか2年後にペリリュー島が日米両軍の激戦地になることを思うと感慨深い。パラオには一度行ってみたい。

「巡査の居る風景」(昭和4年6月)は戦前の朝鮮が舞台。夫が商売で東京に行って地震(関東大震災)で亡くなったと言う朝鮮人女性が出てくる。

 男は急にギクリとして眼をあげると彼女の顔を見た。と、しばらくの沈黙の後、彼は突然鋭く云った。
――オイ、じゃあ、何も知らないんだな。
――エ?何を。
――お前の亭主はきっと、……可哀そうに。

ここに暗示されているのは朝鮮人虐殺事件である。彼女の夫は地震で死んだのではなく、震災の混乱のなかで殺されたのだ。

うす紅くおほに開ける河馬の口にキャベツ落ち込み行方知らずも
海越えてエチオピアより来しといふこのライオンも眠りたりけり
縞馬の縞鮮やかにラグビイのユニフォームなど思ほゆるかも
うねうねとくねりからめる錦蛇一匹(ひとつ)にかあらむ二匹(ふたつ)にかあらむ
カメレオンの胴の薄さや肋骨も翠(みどり)なす腹に浮きいでて見ゆ

2008年3月10日、ちくま文庫、880円。

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2020年02月14日

万城目学著『悟浄出立』


万城目学は好きな作家で、『鴨川ホルモー』『鹿男あをによし』『ホルモー六景』『プリンセス・トヨトミ』『偉大なる、しゅららぼん』『とっぴんぱらりの風太郎』と読んで、映画も3本とも見たのだが、なぜかそこで止まっていた。

本書は中国の古典に題材を得た作品5篇(「悟浄出立」「趙雲西航」「虞姫寂静」「法家孤憤」「父司馬遷」)を収めたもの。どれも原典を踏まえつつ自由な想像力で奥行きのある話を生み出している。

中でも「虞姫寂静」はストーリーの展開が見事で味わい深い。
このシリーズはもっと読みたいなあ。

2017年1月1日、新潮文庫、490円。

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2020年02月11日

田山花袋著『田舎教師』


明治34年から38年の埼玉県を舞台に、家が貧しくて進学できず小学校の教師となった主人公、林清三の生活や心情を描いた小説。熊谷、行田、羽生、弥勒、中田といった町の様子や利根川の風景なども記されている。

 「湯屋で、一日遊ぶような処が出来たって言うじゃありませんか。林さん、行って見ましたか」(・・・)
 上町の鶴の湯にそういう催しがあるのを清三も聞いて知っていた。夏の間、二階を明放して、一日湯に入ったり昼寝でもしたりして遊んで行かれるようにしてある。氷も菓子も麦酒(ビール)も饂飩も売る。ちょっとした昼飯位は食わせる準備も出来ている。浪花節も昼一度夜一度あるという。

これは、まさに現代の「スーパー銭湯」ではないか。何と100年以上も前からあったとは!

明治という時代について知るための資料のつもりで読んだのだが、すこぶる面白かった。田山花袋、いいな。

1931年1月25日第1刷、2018年3月16日改版第1刷、
岩波文庫、740円。

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2020年02月09日

小川輝光著『3・11後の水俣 MINAMATA』


歴史総合パートナーズ7。

水俣を訪れて水俣病の歴史や現在を学ぶとともに、3・11後の社会のあり方を考える本。

水俣病については学校で習った程度の知識しかなかったので、公害の問題を差別や格差、分断といった社会的な側面から捉え、そこに福島の原発事故と同じ構造を見出す視点が強く印象に残った。

肥薩おれんじ鉄道水俣駅を降りるとすぐ正面に、チッソ水俣工場の正門が見えます。この間の距離は50メートルもあります。というのも、もともと水俣駅はこの工場のためにつくられたからです。

駅の前に工場があるのではなく、工場の前に駅が作られたということ。それを知っているだけでも風景の見方が変ってくる。

そのチッソは、水俣の人たちにとって絶対的な存在でした。チッソの側に立つか立たないかで、生活を巻き込んだ分断を招きました。漁民暴動の際には工場の従業員と漁民との間の隔絶が、安賃闘争の際にはチッソで働く者同士の分断が、患者の座り込みの時には市民と患者との断絶が見られました。

こうした分断の構図は、原発の立地する町にも必ずと言って良いほど存在するものだ。

そのような学びの中で、原田正純がたどり着いた最も重要な理解は何だと思いますか。それは、「公害があるから、差別が起こるのではない」「差別のあるところに公害が起きる」という事実でした。

非常に大切で、説得力のある見解だと思う。

「歴史総合パートナーズ」(10冊)は2022年から高校の必修科目となる「歴史総合」のために刊行されたシリーズで、記述はわかりやすく内容は深い。おススメ。

2019年1月9日、清水書院、1000円。


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2020年02月06日

武田徹著『日本ノンフィクション史』


副題は「ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで」。

現代では当り前のように使われる「ノンフィクション」という言葉は、いつ頃、どのようにして生まれたのか。1930年代から現代に至る歴史をたどって考察した本。

大宅壮一、林芙美子、石川達三、堀田善衛、安部公房、梶山季之、草柳大蔵、沢木耕太郎といった人々や、筑摩書房「世界ノンフィクション全集」、日本テレビ「ノンフィクション劇場」などが取り上げられている。

ノンフィクションとフィクションの分岐に人々は関心を持つが、実はノンフィクションを書こうとする表現者の姿勢が現実に人為の加工を加えてフィクション化してしまう。
『世界ノンフィクション全集』の刊行が「非小説」という否定形の消極的な定義しかなかった「ノンフィクション」の概念を内側から具体的に輪郭づけることに大きく寄与したことは疑いえない。
ノンフィクションがフィクションを生み出す一方で、フィクションもまたノンフィクションに織り込まれてゆく宿命を持っている。

日本のノンフィクションの歴史をたどりつつ、著者はノンフィクションとは何か、フィクションとノンフィクションは何が違うのか、を丁寧に分析していく。このあたりは、短歌における事実と虚構の問題とも通じる点が多い。

ノンフィクションというジャンルがもともと自明のものとして存在していたわけではない。多くの人々の苦闘や試行錯誤が、ノンフィクションというジャンルを生み出したのである。

2017年3月25日、中公新書、880円。


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2020年02月01日

小林百合子(文)・野川かさね(写真)『山と山小屋』


副題は「週末に行きたい17軒」。

僕は本格的な山登りはしたことがないのだけれど、憧れはあって、山登りの本を読んだりすることがある。これも、その一冊。

各地の山小屋の風景や人々の様子が、味わい深い写真とともに描かれている。

「しらびそ小屋」「高見石小屋」「黒百合ヒュッテ」「青年小屋」「縞枯山荘」「山びこ荘」「雲取山荘」「三条の湯」「金峰山小屋」「甲武信小屋」「燕山荘」「涸沢小屋」「北穂高小屋」「三斗小屋温泉大黒屋」「龍宮小屋」「花立山荘」「三角点・かげ信小屋」。

やっぱりいいな、山登り。

2012年5月25日、平凡社、1500円。

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2020年01月23日

蒲田正樹著『驚きの地方創生「木のまち・吉野の再生力』


副題は「山で祈り、森を生かし、人とつながる」。

河瀬直美監督の映画「Vision」から始まって、吉野の世界遺産登録、鬼フェス、木育(もくいく)授業、吉野杉の家、ゲストハウス「三奇楼」、木の子文庫、吉野スポーツクラブなど、様々な取り組みを紹介している。

ただ、多くの事例を取り上げている分、一つ一つの掘り下げ方が浅くて物足りない。うまく行っている部分だけを見ていても、地域活性化の本当の難しさは伝わらないのではないだろうか。

2019年7月1日、扶桑社新書、820円。

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2020年01月21日

姫野カオルコ著『忍びの滋賀』


副題は「いつも京都の日陰で」。

滋賀県甲賀市出身である著者が、知名度や評判の高くない滋賀について、自虐も交えつつ楽しく記したエッセイ。「忍び」は「忍者」と「耐え忍ぶ」の両方を掛けているのだろう。

「応接間だからといってソファセットを部屋の中央に置かず、思い切って壁沿いにL型に置いてみましょう。それだけでぐーんと広く感じられて、のびのびしますよ」
(・・・)こうしたアドバイスは、滋賀県民には身に沁みる。
国内旅行のパッケージツアーには《京都・琵琶湖の旅》とか《京都・奈良・琵琶湖》というのが、よくある。《京都・滋賀の旅》でも《京都・奈良・滋賀》でもなく、《京都・琵琶湖の旅》や《京都・奈良・琵琶湖》・・・。地面はないのか、滋賀には・・・。

とにかく著者の語り口が面白い。生年や血液型が同じみうらじゅん(京都出身)に対する秘かなライバル意識を述べる部分なども印象的。最後の方には滋賀を始めとした地方都市の今後に対するマジメな提言も記されている。

2019年12月3日、小学館新書、840円。

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2020年01月16日

小倉紀蔵著『京都思想逍遥』


哲学者で京都大学教授である著者が、京都市内を散策しながら、哲学、文学、歴史、そして〈いのち〉について思索をめぐらしていく。

登場する人物は、鈴木大拙、西田幾多郎、伊東静雄、柳宗悦、尹東柱、桓武天皇、塚本邦雄、紀貫之、中原中也、頼山陽、梶井基次郎、三島由紀夫、川端康成、源融、森鴎外、後白河法皇、世阿弥、藤原俊成、道元など。実に幅広い。

〈第三のいのち〉は、わたしと他者との〈あいだ〉、わたしとものとの〈あいだ〉に立ち現われる。
近代以降の政治権力というものは、国民の生命を奪う権力ではなく、むしろ逆に国民の生命を維持し、管理し、統御し、規律化する権力となった。
六条よりやや南側を東西に走っているのが正面通である。なんの「正面」かというと、かつて豊臣秀吉がいまの京都国立博物館の北側に造営した大仏の正面なのである。

和歌についての記述も多く、有名な古今和歌集の仮名序についてこんなことを書いている。

この言葉を、「人間だけでなく、鶯や蛙までが歌をよむのだ」と解釈してしまうと、日本文化を理解できない。逆である。「鶯や蛙、生きとし生けるものすべてが歌をよんでいる、しかしそこには言葉は必要ない。人間だけが、言葉という余計なものを介在させて歌をよんでいるのだ」と解釈しなければならない。人間中心主義ではないのだ。

なるほどなあと思う。

時おり著者は自身の思索にツッコミを入れて、自分で「知らぬ。」と答える。非常に真面目な内容の本なのだが、そんなふうにお茶目なところもあって楽しい。

2019年2月10日、ちくま新書、900円。

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2020年01月11日

島田裕巳著『日本の8大聖地』


2011年に講談社から刊行された『聖地にはこんな秘密がある』に加筆・修正して文庫化したもの。

クボー御嶽(沖縄)、大神神社(奈良)、天理教教会本部(奈良)、稲荷山(京都)、靖国神社(東京)、伊勢神宮(三重)、出雲大社(島根)、沖ノ島(福岡)の8か所の聖地を訪れ、聖地とは何か、聖地には何があるのか、私たちは聖地に何を求めているのか、といった問題を考察した本。

大神神社に限らず、古代のたたずまいを残す神社一般に言えることだが、神仏習合の信仰が受け継がれていた中世から近世にかけて、それぞれの社殿は今日とは相当に異なる姿をしていた。(・・・)だがそのことは、今日では秘密にされている。
現在では、神社を訪れた参拝者は、社殿の前で拍手を打つことが一般化している。だが、参詣曼荼羅の参拝者は、一人として拍手など打っていない。皆、社殿の前では合掌している。
最近の学会の議論では、十六丈の高さがあったことがほぼ前提にされてしまっている。かつての出雲大社が高ければ高いほど、その価値は高まる。(・・・)考古学の復元の作業では、どの遺跡でも、やたら大型の建物が存在したかのような方向にむかいやすい。
戦没者の多くは若く、まだ、結婚し自らの家庭を営んではいなかった。日本の伝統的な村社会では、死者は子孫による弔いの対象になったが、戦没者には子孫がいない。靖国神社に合祀されたことの背景には、そうしたことが関係しているであろう。

どの指摘も重要な論点を含んでいる。聖地という場所は死生観や伝統について深く考えさせるところなのだった。

2019年1月29日、光文社知恵の森文庫、780円。

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2020年01月03日

『わたしの城下町』のつづき

「三種の神器」と「ポツダム宣言受諾」の関わりを、この本で初めて知って衝撃を受けた。ポツダム宣言受諾に関する天皇自身の言葉が引かれている。

敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい
               『昭和天皇独白録』

同じく、木戸幸一内大臣は阿南惟幾陸軍大臣に対して、本土決戦計画を批判して次のように発言している。

君若し敵に上陸されて了つて三種の神器を分取られたり、伊勢大廟が荒らされたり、歴代朝廷の御物がボストン博物館に陳列されたりしたらどうするつもりなのか。
             『木戸幸一日記 東京裁判期』

戦前・戦中の日本の体制や思想について、ある程度は理解しているつもりだったのだけど、こういうことが真剣に議論されていた事実には強い驚きを覚える。

三種の神器を奪われるという発想は、南北朝の争乱の頃だったらわかるけれど、これは1945年の話なのだ。実際のアメリカ軍はそんなこと考えもしなかっただろう。

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2020年01月02日

木下直之著『わたしの城下町』


副題は「天守閣からみえる戦後の日本」。
2007年に筑摩書房より刊行された本の文庫化。初出は「ちくま」2003年1月号〜2004年12月号の連載。

皇居(江戸城)を手始めに西へ西へと進んで首里城に至るまで、全国の「城」および「城のようなもの」をめぐりつつ、近代・現代の日本について考察した本。むちゃくちゃ面白い。

明治になって無用の長物となった城が、その後どのような歴史をたどったのか。そして、人々は城をどのように扱い、城に何を託してきたのか。城を通じて日本の近現代史が浮び上がってくる。

象と城は一見ミスマッチだが、実は相性がとてもいい。ともに、戦後は平和の象徴となったからだ。
最初の鉄道は、明治五年(一八七二)に新橋・横浜間を走った。(・・・)東京と名を改めたばかりの町から見れば、濠の外で、鉄道の侵入を食い止めたことになる。
コンクリで建てれば、また空襲があっても焼かれないという気持ちが、そのころの日本人にはあったのではないか。昭和三十年代を迎えると、全国各地で、お城がこぞってコンクリ製で建てられ始める。
首里城を落城させたアメリカは、その跡地に大学を建設した。危険な軍事国家日本を民主教育によって根本から改造するという占領方針によるものだった。

どのページを読んでも著者の博識ぶりに驚かされる。知識が豊富なだけでなく、それを縦横無尽に活かして鮮やかに論を組み立てていく。

城について論じた本はたくさんあるけれど、著者のように「松代大本営」や「戦艦長門」を「城」に含めて考察した人はいないだろう。とにかく発想やスケールが桁違いなのだ。

そもそも「城」とは何なのか。ホンモノの城とニセモノの城は区別できるのか。そんな本質についても考えさせられる。

2018年11月10日、ちくま学芸文庫、1400円。

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2019年12月30日

小島美羽著 『時が止まった部屋』


副題は「遺品整理人がミニチュアで伝える孤独死のはなし」。

遺品整理・特殊清掃の仕事に携わる著者が、孤独死の実態について書いた本。著者が制作した現場の部屋のミニチュア8点の写真が載っている。

このミニチュアがすごい。

部屋に残された机、椅子、洗面台、戸棚、カレンダー、酒のカップ、ペットボトル、ゴミ袋、新聞、猫、そして汚れやシミに至るまで、精巧に再現されている。

わたしは孤独死が悪いことだとは思っていない。人が亡くなることは誰にも止められないし、病院や施設などではなく住み慣れた我が家で逝きたいと思っている人は多い。自宅で一人で死ぬのが悪いのではなく、発見されるまでの期間が問題なのだ。
湯船のなかで亡くなると、居間などで亡くなった人よりも腐敗が早まる。なかでも、追い炊き、保温機能を備えたお風呂での孤独死の現場が、いまでも強く、わたしの心に残っている。
この仕事をしていて辛いと思うのは、汚物でも激臭でも、虫でもない。こんなふうに人間の「裏の顔」が垣間見える瞬間だ。

誰も自分の死に方を選ぶことはできない。人間が生きること、そして死ぬことについて多くを考えさせられる一冊だった。

2019年8月31日、原書房、1400円。

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2019年12月28日

池内恵著 『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』


【中東大混迷を解く】シリーズの1冊目。

複雑に入り組む中東問題を理解する手掛かりとして、1916年にイギリスとフランスの間で結ばれたサイクス=ピコ協定に焦点を当てて論じた本。

第1次世界大戦後のオスマン帝国の解体から近年のイスラム国の台頭、シリア内戦、クルド人問題まで、中東世界の基礎的な部分がよくわかる内容となっている。

ある民族が国家の設立や自治を獲得するか否か、自らの政府を持って統治することができるか否かは、国際情勢、特にその時々の諸大国あるいは超大国の意向、そして大国間の交渉と協調に大きく依存する。
オスマン帝国支配下の諸集団には「民族」という概念はまだ未分化だった。それが西欧列強の介入が及び、社会の近代化が進むにつれて、言語の相違や、宗教・宗派による共同体のつながりが、国民国家を構成する民族という観念の核になった。
極めて冷酷な現実は次のようなものである。ある領域を統治する勢力にとって、自らの統治に服すことを潔しとしない人間が難民として流出していくことは、統治のコストを抑えられるが故に、好都合である。

政治も国際関係も、理念と現実、正義と武力の間で何とか着地点を見つけていくしかない。これは何も中東に限った話ではなく、例えば東アジアにおいても同様なのだろう。

2016年5月25日、新潮選書、1000円。

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2019年12月24日

宇根豊著 『日本人にとって自然とはなにか』


NPO法人「農と自然の研究所」代表理事をつとめる著者が、百姓の視点から日本人の自然観を描き出した本。

自然と人間を分けて科学的・客観的に捉える「外からのまなざし」と、人間も自然に含めて体験や記憶に基づいて捉える「内からのまなざし」。この二つを行き来しながら、自然を見る目を養い、自然への向き合い方を深めていく。

赤とんぼが急に飛び始めるのは、田植えして四五日過ぎた頃です。日本で生まれる赤とんぼのほとんどは田んぼで生まれます。
私たちは自然の中で、自然の一員として生きものにまなざしを注いでいるときには、自然を意識することはありません。自然を意識する時は、「自然」という言葉を使うときだけです。
名前には、名づけた人の気持ちとまなざしが表れています。メダカと書くと単なる記号ですが、目高と書くと、目が高い(上にある)魚という意味が伝わってきます。
なぜ「田植えと言うのに、稲植えとは言わないのだろうか」と思ったのは、「稲刈り」を「田刈り」という地方があることを知った時です。

身近で具体的な話をもとにしながら、自然のあり方や人間の生き方の根本を探っていく。その「百姓の哲学」とも言うべきスタイルが魅力的な一冊である。

2019年7月10日、ちくまプリマ―新書、860円。

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2019年12月22日

藤森照信+大和ハウス工業総合技術研究所『近代建築そもそも講義』


明治期の日本がどのように西洋風の建築を取り入れていったのかを記した本。2015年6月〜2017年7月に「週刊新潮」に連載された文章が元になっている。

コレラ対策の為に水道が普及したこと、シンデレラのガラスの靴が英語では「スリッパ」であること、洋館の特徴であるヴェランダの巡る様式は本場のヨーロッパにはないことなど、意外な話がたくさん載っている。

和風とも洋風ともつかないスリッパという鵺(ぬえ)的履物によって和洋の矛盾を回避している。
あまりに日本列島は木材資源に恵まれ、ユーラシア大陸では一般化した石、煉瓦、アーチの建設用三点セットの導入は必要なかったのだろう。
古代のギリシャとローマの文化を復興しようと志したルネッサンス時代の人々は、ギリシャについては知らなかった。ギリシャはトルコの支配下にあり訪れることはできなかったからだ。

工部大学校造家学科の初代教授ジョサイア・コンドルのもとには4名の一期生がいた。曽禰達蔵・辰野金吾・片山東熊・佐竹七次郎。前の3名が有名な建築家となったのに対して、佐竹は今ではほとんど知られていない。そんな佐竹の建築についても、この本はきちんと言及している。

2019年10月20日、新潮新書、800円。

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2019年12月16日

西牟田靖著 『極限メシ!』


副題は「あの人が生き抜くために食べたもの」。
ホットペッパーグルメのWEBメディア「メシ通」に連載中の記事をまとめた本。

角幡唯介(探検家)、白川優子(看護師。国境なき医師団)、服部文祥(登山家)、齊藤正明(人材コンサルタント)、佐野三治(ヨット「たか号」生還者)、中島裕(シベリア抑留体験者)へのインタビューと、作家の角田光代との対談が載っている。

「そもそもシステムに頼らず、自分の力でちゃんと生きてみるというのは圧倒的に楽しいんですよ。遊園地のジェットコースターみたいな劇的な楽しさではなくて、本当に小さいんだけど、確固とした楽しさがある。それが積み重なってくるとすごく面白いし、自分のことを実感としてすごく肯定できるようになる。」(服部文祥)

そういうことなんだよなあ。共感。

2019年11月6日、ポプラ新書、1000円。

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2019年12月11日

『闘う文豪とナチス・ドイツ』の続きの続き

トーマス・マン日記をもとに書かれた本であるが、あちこちに著者の池内紀自身の姿も浮かんでくる。

例えば自殺した長男クラウス・マンとの関わりを記した章には「父と子のあいだに亀裂の走った最初のできごと」「父はつねに一定のへだたりをとっていた」といった記述がある。おそらくこれを書きながら、池内もまた自身の息子との関わりを考えていたに違いない。

また、「老い」も晩年の池内の大きなテーマであった。

「横になったまま溲瓶(しびん)へ放尿をするさいベッドやシーツが汚れた。すべて八十歳になるまで一度も経験のないことだ。不快きわまる、恥ずかしいことだ」

こうした日記の文章を引用しつつ、池内も七十代後半に差し掛かる自らの老いを考えていたのだろう。それは、本書と同じ2017年に『すごいトシヨリBOOK トシをとると楽しみがふえる』という本を出していることからもわかる。

そしてもちろん、一番大きなテーマはナチスである。それもナチス自体ではなく、それを生み出した国民の動向が、池内にとっての関心事であった。その問題意識の背景には、2010年代の日本のあり方に対する池内自身の強い危惧がある。

それは、今年7月に刊行されて遺作となった『ヒトラーの時代 ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』へと続いている。刊行後に誤記や事実誤認の多さを指摘されてネットで激しいバッシングを受けた本であるが、そういう観点で読んでみたいと思う。

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2019年12月10日

『闘う文豪とナチス・ドイツ』の続き

この本は「トーマス・マン日記」に出てくる多くの人物の生涯にも触れている。

ノルウェーのファシズム政権に協力して戦後は罪に問われたノーベル賞作家クヌート・ハムスン、第二次大戦中に単独イギリスへ渡り戦後は93歳まで生きて刑務所で自殺したナチスの元副総統ルドルフ・ヘス、再婚した若い妻と1942年にブラジルで自殺した作家シュテファン・ツヴァイク、白バラ運動のメンバーで逮捕後わずか四日で処刑されたハンス・ショル、ゾフィー・ショル兄妹、トーマス・マンの長男で1949年に自殺した作家のクラウス・マン。

年齢も立場もそれぞれであるが、ナチス政権下に生きた彼らの行動をトーマス・マンは細かく記述している。

反ナチスの姿勢を貫き、戦争中も一貫して反ファシズムの立場を堅持したトーマス・マンは、現在の目から見ても非の打ちどころのない選択をしたと言っていい。しかし、その「正しさ」は晩年の彼を苦しめることにもなった。

戦後のドイツにおいて亡命者トーマス・マンは受け入れられなかった。戦時下のドイツの悲惨な状況とは無縁な国外生活を送った彼に対する風当たりは強く、ナチスへの協力者の処罰を求めるマンの意見は反発を招くばかりだったのだ。

何と皮肉なことであろうか。

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2019年12月09日

池内紀著 『闘う文豪とナチス・ドイツ』


副題は「トーマス・マンの亡命日記」。

1933年にドイツ国外に出てから1955年に亡くなるまでのトーマス・マンの日記を手掛かりに、当時の社会状況や人々の動向を考察した好著。おススメ。

もとは『トーマス・マン日記』刊行にあわせて紀伊國屋書店の季刊誌「scripta(スクリプタ)」に2009年冬号から2015年夏号にかけて連載されたもので、時代順に26のトピックが取り上げられている。

国外講演からの帰国をナチスに差し止められ、スイス、アメリカでの亡命生活を余儀なくされたトーマス・マン。亡命先から精力的にナチズムに対する批判を続け、ようやく1945年にナチス体制の終焉を迎えたものの、安らかな晩年は訪れなかった。

そんな彼の日記には膨大な量の人名や社会的な事件が記されている。

これは私的な備忘録ではありえない。一個人が書きとめた年代記(クロニクル)の性格を色こくおびており、亡命者という特殊な位置から同時代をつづっていった。

例えば、1936年に日本で起きた二・二六事件についても、トーマス・マンは日記に書き留めている。

「――東京からの報道を総合すると、反乱を起こした殺人者たちに強い共感が寄せられており、軍部は、クーデタが『不成功』に終わったにもかかわらず、実際上はクーデタの実をあげたというふうに、理解出来よう」

何という的確な分析だろう。二・二六事件後に日本の軍国主義化がさらに進んでいく状況をこの時点で既に見通している。世界的なファシズムの伸張に対する強い危惧が、こうした記述にも表れているのだ。

2017年8月25日、中公新書、820円。


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2019年12月02日

寺山修司著 『啄木を読む』


副題は「思想への望郷 文学篇」。

全体が「啄木を読む」「太宰・中也を読む」「鏡花を読む」「乱歩・織田作之助・夢野久作を読む」「江戸を読む」の五章になっている。寺山が近世・近代の文学について書いた文章を対象ごとに整理してまとめた一冊。

どの文章にも寺山ならではの鋭い分析や考察があり、随所に皮肉が効いている。

啄木の歌には多くの「脇役」たちが登場する。山羊鬚の教師や、刑務所へ行った同級生、娘を売った金で酒をのんでいる父親、極道地主、気の狂った役場の書記……。

これは物語性の強い寺山の短歌を考える上でも大切な指摘だろう。

ところが、わが国のかくれんぼ、鬼ごっこ、そして手毬つきなどは、反復と転生によって生きのびてきた農耕民族の作り出した、家のまわりの遊びである。はじめから境界という概念がなく、ただくりかえす。

西洋の遊び・スポーツと比較しての文化論。確かに、かくれんぼや鬼ごっこには勝者も敗者もなく、ひたすら繰り返すばかり。

死という字は、どことなく花という字に似ていたために、私は学校で花を死と書きまちがえて叱られたことがある。

そう言われれば確かによく似ている。でも、「学校で」というエピソードは寺山流の作り話ではないか。

2000年4月18日、ハルキ文庫、700円。


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2019年11月29日

宮田珠己著 『いい感じの石ころを拾いに』


2014年に河出書房新社から出た単行本の文庫化。
初出はKAWADE WEB MAGAZINE(2012年9月〜2013年10月)。

タイトル通り、いい感じの石ころを拾いに全国あちこちの海岸へ出掛けたり、石に詳しい人に話を聞きに行ったりする紀行エッセイ。

新潟県のヒスイ海岸、青海海岸、静岡県の仁科海岸、菖蒲沢、福岡県の藍島、夏井ヶ浜、茨城県の大洗海岸、青森県の綱不知海岸、青岩、北海道の江ノ島海岸、大安在浜、島根県の日御碕神社、越目浜と、ひたすら石ころを拾う。

石と言っても貴重な鉱物や宝石ではない。あくまで「石ころ」。そんなもの(?)に、なぜ夢中になるのか。

石の世界は何でもありなのだ。
自分自身が、その石の見た目を気に入っているならそれでいい世界なのだ。
あらゆる価値観の押し付けから、完全に解放される自由な遊び。それが石拾いだ。

このあたり、何となく「短歌」と似ていなくもない。

毎回の旅には「編集の武田氏」が同行するのだが、それが後にライターとなり『紋切型社会』で有名になった武田砂鉄氏であるのも面白い。本書に解説を書いている。

2019年10月25日、中公文庫、780円。


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