2023年10月19日

柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』


2004年に岩波書店より刊行された単行本の文庫化。
原本は1980年に講談社より刊行された。

「風景」「内面」「告白」「病」「児童」などをキーワードに、明治20年代の日本近代文学の成り立ちを考察する評論集。それはまた、「日本」や「近代」を問い直すことにもつながっている。

かなり難しい内容も含まれていて、全体の4割くらいしか理解できなかったけれど、それでも十分に面白かった。示唆に富む部分が随所にある。たまには、こういう硬い本も読まなくてはと痛感した。

近代に対して中世、古代、あるいは東洋を対置する人達は少なくない。しかし、すでに中世とは近代に対して中世を賛美するロマン主義によって想像的に見出されたものであり、東洋(オリエント)もまた同様に、近代西洋への批判として創造された表象である。
明治以降のロマン派は、たとえば万葉集の歌に古代人の率直な「自己表現」を見た。しかし、古代人が自己を表現したというのは近代から見た想像にすぎない。そこでは、むしろ、人に代わって歌う「代詠」、適当な所与の題にもとづいて作る「題詠」が普通であった。
もともと歌舞伎は人形浄瑠璃にもとづいており、人形のかわりに人間を使ったものである。「古風な誇張的な科白」や「身体を徒に大きく動かす派手な演技」は、舞台で人間が非人間化し「人形」化するために不可欠だったのである。
告白という形式、あるいは告白という制度が、告白さるべき内面、あるいは「真の自己」なるものを産出するのだ。(…)隠すべきことがあって告白するのではない。告白するという義務が、隠すべきことを、あるいは「内面」を作り出す。
結核は現実に病人が多かったからではなく、「文学」によって神話化されたのである。事実としての結核の蔓延とはべつに、蔓延したのは結核という「意味」にほかならなかった。

いずれも、逆説や転倒を含む論理展開が鮮やかで刺激的だ。この本の原書が著者39歳の作であることにも驚きを覚える。やはり、すごい人はすごいものだ。

2008年10月16日、岩波現代文庫、1200円。

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2023年10月14日

渥美清『新装版 渥美清わがフーテン人生』


「サンデー毎日」1976年新年号から17回にわたって連載された聞き書きを一冊にまとめたもの。1996年に毎日新聞社より刊行された単行本が、「男はつらいよ」50周年記念に復刊された。

生い立ち、不良少年時代、浅草でのコメディアン時代、結核による療養生活、テレビや映画への出演、アフリカ旅行、「男はつらいよ」の誕生など、自らの半生について率直に話している。

木枯らしの吹く寒い夜なんか、四角い顔(つまりわたくしでございます)と丸い顔(関やん)が、四隅に重しをつけた風呂敷みたいなそんな掛けブトンを掛けて、まるでプロレスやってるような格好で抱き合ったまま寝ます。
わたくし、療養所で二年ぐらい過ごしたことになりますが、その間、ずっと医療保護と生活保護を受けておりました。ですから、わたくし、国からお借りしたその分をいま、せっせとお返ししているつもりなんでございます。
野生の動物といえば、ずいぶんいろんなヤツを見ました。しかし、数いる動物の中で、すばらしい造形の妙をそなえているのは、やっぱり、サイでございますよ。あれは自然の産物ではなくて、たとえば鉄工所なんてとこで人工的に作ったものではないかという気がいたしました。
大体、花火というやつは打ち上げられてみて初めて、夜空に美しく咲いたかどうかわかるように、役者もまた演じてみて初めて、お客がそれをどう受け止めたかがわかるものではないでしょうか。

全篇、寅さん口調でユーモラスに楽しく語っているのだけれど、ところどころにコワさや厳しさが顔を覗かせる。戦後の焼け跡風景と右肺摘出の闘病生活は、渥美清の人生観に大きな影響を与えたようだ。

2019年8月5日、毎日新聞出版、1400円。

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2023年10月07日

吉村昭『遠い日の戦争』


以前から関心を持っている西部軍事件(昭和20年6月から8月にかけて福岡市の油山などでアメリカ軍の捕虜30名以上が処刑された事件)をモデルにした小説。

以前読んだ小林弘忠『逃亡―「油山事件」戦犯告白録』と同じく、2年以上にわたって逃亡生活を続けた人物が主人公となっている。
https://matsutanka.seesaa.net/article/484902418.html

捕虜を処刑する生々しい場面、戦犯として追われる身になった心情、戦後の変わりゆく社会、裁判の様子などが丁寧に描き出されている。やはり吉村昭の小説は読ませる。

主人公は姫路のマッチ箱工場で逃亡生活を送る。

橋の上からは、城の全容が望まれた。天守閣や櫓の壁の白さが眼にしみた。工員からきいた話によると、城が戦災にあわず残されたのは、貴重な史蹟である城を惜しんだアメリカ空軍の措置だという声が専らだという。が、琢也は、それは偶然の結果で、大規模な都市への焼夷攻撃を執拗に反復し原子爆弾まで二度にわたって投下したアメリカ空軍が、そのような配慮をしたはずはなく、おそらくそれは、アメリカ占領軍が宣撫工作のためにひそかに流した噂にちがいない、と思った。

こうした噂は戦後も長く残り続けたようだ。でも実際のところは、この主人公の考えたように偶然の結果に過ぎなかったことが明らかになっている。
https://www.kobe-np.co.jp/news/backnumber/201707/0011622977.shtml

1984年7月25日発行、2021年9月30日20刷。
新潮文庫、490円。

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2023年10月03日

長谷川清美『豆くう人々』


副題は「世界の豆探訪記」。

北海道の老舗豆専門店「べにや長谷川商店」に生まれ、現在「べにやビス」代表を務める著者が、世界各国の豆食事情を取材した本。

2012年から2019年に訪れた66か国の中から29の国・地域を取り上げて、どんな種類の豆が栽培され、どんな豆料理があるのかを記している。一口に豆と言っても、大豆、いんげん豆、ベニバナインゲン、リマ豆、ささげ、小豆、緑豆、そら豆、えんどう豆、ひよこ豆、レンズ豆など、実に多彩だ。

メキシコには伝統的農法「ミルパ」があると以前から聞いていた。別名「スリーシスターズ」といい、窒素固定をして土地を肥やす「豆」、豆のツルが這う支柱となる「トウモロコシ」、葉が日除けとなる「かぼちゃ」を組み合わせて植えることで、お互いの生育が助けられる農法だという。
日本で豆料理が日常から遠ざかった原因は、わたしはガスコンロの普及によるものだと思っている。ストーブにかけておけば煮えているようなほったらかし調理ができないので、いつしか豆料理は「手間がかかるもの」になってしまったのだ。
(コスタリカの豆の消費量は)ほかの中南米諸国と比べるとかなり少ない。おそらくタンパク源を肉に依存しているのだろうが、「経済水準と豆の消費は反比例する(=豊かな国のタンパク源は豆ではなく肉)」というから、この傾向が如実にあらわれている。
地方や農村では、今でも豆板醤は自家製で、手前味噌ならぬ手前豆板醤なのだが、最近は手づくり派が減ってきているので、ザオさんの商売も右肩上がりだという。

それにしても著者の「豆」愛はすごい。知らない豆や豆料理があると聞くと、世界のどこへでも行き、畑や台所を見て、現地の人の話を聞き、実際に料理を食べてみる。その好奇心と探究心に感心する。

2021年12月15日、農山漁村文化協会、2200円。

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2023年09月27日

エリック・ホッファー『エリック・ホッファー自伝』


副題は「構想された真実」。
中本義彦訳。原題は〈Truth Imagined〉。

エリック・ホッファー(1902‐1983)が『大衆運動』を刊行して著作活動に入る以前の生活について記した本。巻末に72歳の時のインタビューも載っている。

7歳で失明し15歳で視力は回復したものの18歳で両親を亡くし、28歳で自殺未遂を起こす。その後、季節労働者や港湾労働者として長年働き続けた。

旧約聖書に登場する人物で活力のない者は、ほとんどいない。王、聖職者、裁判官、助言者、兵士、農夫、労働者、商人、修行者、預言者、魔女、占い師、狂人、のけ者など、ページの中には数え切れないほど多くの主人公たちが登場する。
われわれは、貧民街の舗道からすくい上げられたシャベル一杯の土くれだったが、にもかかわらず、その気になりさえすれば山のふもとにアメリカ合衆国を建国することだってできたのだ。
開拓者とは何者だったのか。家を捨てて荒野に向かった者たちとは誰だったのか。(…)明らかに財をなしていなかった者、つまり破産者や貧民、有能ではあるが、あまりにも衝動的で日常の仕事に耐え切れなかった者、飲んだくれ、ギャンブラー、女たらしなどの欲望の奴隷。逃亡者や元囚人など世間から見放された者。
四十歳から港湾労働者として過ごした二十五年間は、人生において実りの多い時期であった。書くことを学び、本を数冊出版した。しかし、組合の仲間の中に、私が本を書いたことに感心する者は一人もいない。沖仲士たちはみな、面倒さえ厭わなければできないことはないと信じているのである。

こうした話には、労働者や社会的弱者の持つバイタリティに対する畏敬の念がある。それは、人間が本来誰でも持っているはずの生きる力に対する信頼と言ってもいい。

誰かといるよりも孤独を好む一方で、街で知らない人に話し掛ける気さくな一面も持っている。

私が「何かお手伝いしましょうか」と冗談半分に声をかけると、彼は頭を上げて、初めびっくりしていたが、私に微笑みかけた。彼が読んでいたのは紙が黄色くなったドイツ語の本で、もう一冊は独英辞典だった。
明らかに初めての来訪で、列車を降りた場所であたりを見回している。様子を見ているうちに、急に話しかけてみたくなり、足早に彼女たちに近づいて「何かお手伝いしましょうか」と声をかけた。

ちょっと寅さんに似ているところがあるかもしれない。

2002年6月5日第1刷、2021年5月20日第25刷。
作品社、2200円。

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2023年09月24日

土井善晴・土井光『お味噌知る。』

著者 : 土井善晴
世界文化社
発売日 : 2021-10-29

味噌について知り、日々の食事に味噌汁を作ろうとすすめる一冊。カラー写真とともに70種類以上の素朴なレシピが載っている。

テレビ番組でもよく見かける著者のやわらかな語り口と、細かなところにこだわらないおおらかさが特徴である。出汁を取らなくてもいいとか、洋食と合わせても美味しいとか、とにかく自由。その上で、守るべきことは何かを伝えてくれる。

味噌汁は濃くても、薄くても、熱くても、冷めてもおいしいのです。味噌に任せておけばいいのです。
かぼちゃなどの野菜の種やワタは、きれいに除くのが日本料理だと昔、言ってきましたが、毎日の食事であれば、全部用いることが大事だと思います。手間を省くというわけではなく、野菜の種の周りや、魚や肉の骨の周りはおいしいものです。それは栄養価値もあるからです。
油揚げは日本のベーコンと考えてもよいでしょう。油揚げを入れる場面では、代わりにベーコンや豚肉、ソーセージに変えてもよいということです。
季節にあるもんを食べるというのは、旬を食べるということです。季節のもんを食べたら、また、一年が過ぎて巡って来たなあ、と思います。旬を食べることを基本にしていると、一年のリズムができて大事なことをちゃんと身体が思い出してくれ、失うものが少ないような気がします。
食べてから身体の外に出るまでが、食事です。頭で考えるだけじゃなくて、自分自身の身体の声をよく聞いてみてください。

料理についての著者の考えの根幹にあるのは「自立」ということだ。

自分の食べるものを、自分で作ることは第一の自立です。お料理には、不思議な力があるんです。
一人でお料理やってみることで、その経験を生かして、だんだん、いろんなことを身につけてもらえたらいいなと思います。お料理することは自立することです。自立して、自由になって、自分の人生を楽しくやってください。

食の大切さや料理の大切さを、押し付けがましくなく、丁寧にやさしく教えてくれる。早速、今日から味噌汁を作ってみようか。

2021年11月10日、世界文化社、1600円。

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2023年09月22日

黒岩比佐子『伝書鳩』


副題は「もう一つのIT」。

明治時代から現代までの主に国内における軍用鳩・伝書鳩・レース鳩の歴史について記した本。今では知る人も少なくなったエピソードが数多く含まれている。

一九一九(大正九)年にフランスから多数の鳩を輸入すると共に共感も招き、本格的に軍用鳩の研究を始めている。その結果、陸軍ではシベリア出兵を皮切りに、満洲事変から日中戦争にかけて鳩通信を実用化し、太平洋戦争においても前線で活用していた。
(第一次世界大戦で)重要地点に設けられていた有線通信網は、敵軍に発見されてことごとく破壊され、頼みの無線通信機は故障がちで、いざという時には全く役に立たなかった。結局、砲煙弾雨の最前線で危険な通信の任務を果たしたのは、科学技術が創り出した機器類ではなく、鳩だったのである。
(関東大震災後)九月中旬にようやく機械通信が復旧するまでの間、通信面に関しては、ほとんど伝書鳩の独り舞台の観があったと言われている。結局、十一月初旬に戒厳勤務が終了するまでの間に鳩が運んだ通信件数は、二千七百余通にも達した。
湾岸戦争は、ハイテク兵器や軍事衛星や高度な通信システムが駆使され、最先端のテクノロジーの戦争と言われたが、万一、衛星通信網が使えなくなった場合に備えて、スイスが自国軍から三千五百羽の伝書鳩を多国籍軍に貸与したのである。

国内の通信社・新聞社では1960年頃まで伝書鳩が用いられていた。スイスの伝書鳩部隊は1994年に廃止されるまで続いていたとのこと。そんな最近まで、とびっくりする。

伝書鳩は通信文や写真を運ぶだけでなく、輸血用の血液のサンプルや人工授精用の牛の精液も運んだそうだ。現代のドローンのような役割も果たしていたということだろう。

・伝書鳩の歌
https://matsutanka.seesaa.net/article/480698315.html
・軍用鳩の歌
https://matsutanka.seesaa.net/article/480869084.html
・さらに軍用鳩の話
https://matsutanka.seesaa.net/article/480891612.html

伝書鳩・軍用鳩については、今後もいろいろと調べてみたい。

2000年12月20日、文春新書、680円。

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2023年09月18日

石村博子『ピㇼカチカッポ』


副題は「知里幸恵と『アイヌ神謡集』」。

昨年没後100年を迎えた知里幸恵の評伝である。タイトルは「美しい鳥」を意味するアイヌ語。

生い立ちから金田一京助との出会い、上京、そして死に至るまでの軌跡と『アイヌ神謡集』の刊行から現代までの話を描いている。

幸恵の洗礼名はどの資料にも記されていない。創氏改名が進んでいた時期で、アイヌ名もつけられていない。幸恵が生まれたのは、アイヌたちが根底から覆されたアイヌの暮らしを立て直そうと、力を振り絞って生き残ろうとしている時期でもあった。
一九二〇年代末には、青年の多くはアイヌ語を用いないし、知らないとの調査の記録があるが、学校教育がアイヌ語の急激な喪失にどれほど加担したかを物語っている。
「ユカㇻ」は一般的に使われだしたのは、一九九〇年代後半から。この頃からアイヌ語学習が盛んになり、表記も発音に忠実になってきた。その流れを受けて、二〇一六年からは『北海道新聞』が紙面でアイヌ語の表記に関しては独特の小書きのかなを使用するようになる。
追い打ちをかけるように、発刊直後の九月一日に関東大震災が発生。『アイヌ神謡集』に関する重要ないくつもの資料は消失してしまった。修正が入ったタイプ原稿もいまだに見つかっていない。

『アイヌ神謡集』については、今もいくつかの謎が残されている。

それにしても本当になぜ、「アイヌ神謡」という特異なテーマであるのに、金田一による解説は何もなされなかったのだろう? 岩波文庫版の知里真志保の論文も、この本のために書かれたものではないので、幸恵の世界に誘うには適役とは言い難い。

刊行100年を迎えた今年、ちょうど岩波文庫『アイヌ神謡集』の補訂新版が出た。中川裕の解説も付け加えられているので、そちらもまた読んでみたい。

2022年4月27日、岩波書店、1800円。

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2023年09月15日

森まゆみ『京都不案内』

著者 : 森まゆみ
世界思想社
発売日 : 2022-12-02

2015年から頻繁に京都に通うようになった著者の個人的な体験や友人知人の話、京都の歴史に関することなどを綴ったエッセイ集。

世界思想社のWEBマガジン「せかいしそう」に2020年3月から2021年12月まで連載した文章に、書き下ろし1本とインタビュー3本を加えてまとめている。

いわゆる京都観光や名所旧跡案内とは違うので「京都不案内」というタイトルにしたのだろう。前半、「樹木気功で身体を治す」「バスと自転車」「ゲストハウスとアパート探し」「カフェとシネマ」「がらがらの京都」など、どれも具体的で面白い。

ただ、後半は学者・文化人仲間の話が多くなってきて今ひとつという印象だった。有名人でなければ入れない世界といった感じがする。

インタビューでは法然院の貫主、梶田真章さんの話が良かった。

昨日も仏教講座があってみんなで話が弾みました。みなさん、いろいろと活発にご意見をおっしゃるので、おっしゃる場があるということはいいことやな、と。読書会もやっています。わかりあうんじゃなくて、わかりあえないことをわかりあうために。
スポーツ選手はオリンピックなどで金メダルを取ると、「努力したらかなうということがわかった」とおっしゃいます。でも、その一方で努力してもかなわない人が無数にいらっしゃる。そのほうも伝えていかないと、なかなかつらい人も多いかなと思います。

法然院は河野裕子さんのお墓と歌碑のあるところ。もう少し涼しくなったら、また訪ねてみたい。

2022年12月10日、世界思想社、1600円。

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2023年09月13日

叶内拓哉『鳥に会う旅』


副題は「野鳥写真家が綴る日本全国野鳥撮影紀行」。

1991年に世界文化社から出た単行本を30年ぶりに復刊・文庫化したもの。「写真は、印刷関係のデジタル化により、初版時のものとは別のものを多数使っている」とまえがきに記されている。

「出水のツル」「道東のタンチョウ」「羅臼のワシ」「大栗川のヤマセミ」「立山のライチョウ」「対馬の珍鳥」「根室のシマフクロウ」「南部のコノハズク」「屋我地のアジサシ」「蒲生のコバシチドリ」「伊良湖岬のタカ渡り」「伊豆沼のガン」と、各地に出掛けている。

丹頂鶴。日本人なら誰でも知っているだろうこの鳥の本名は、ただのタンチョウである。日本では現在までに七種類のツルが記録されているが、そのなかで名前にツルと付いていない唯一のツルである。
晴天が何日か続いたときなどは、佐護の田んぼに全く鳥影がないという日もある。天気がいいと、渡り鳥たちは対馬に降り立って休む必要がないわけで、どんどん頑張って次の目的地まで飛んで行ってしまうからだ。
野鳥写真を撮っていて、いちばん難しいと思うのは、夏らしい写真を撮ることである。(…)夏を代表する花、誰が見てもすぐに夏の花だと分かるものとなると、ヒマワリかアサガオあたりか。しかし、これらの花に野鳥が止まることはほとんどない。

著者の撮影したカラー写真が100点くらい載っていて美しい。初めて知った鳥も多いのだが、どの鳥も命名がわかりやすい。「キガシラセキレイ」は頭部が黄色いし、「アカエリカイツブリ」は首が赤い、「キマユホオジロ」は目の上に黄色い線が入っているといった感じで、何だかおもしろい。

2022年2月15日、世界文化社 モン・ブックス、1600円。

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2023年09月09日

クリス・フィッチ『図説 世界地下名所百科』


副題は「イスタンブールの沈没宮殿、メキシコの麻薬密輸トンネルから首都圏外郭放水路まで」。上京恵訳。

世界各地の印象的な地下空間40か所を取り上げて、地図や美しい写真とともに解説した本。紹介されているのは、自然の洞窟や古代の陵墓から地下鉄や現代の実験施設までさまざまだ。

今では絶滅したオオナマケモノが掘ったと考えられる古代巣穴(ブラジル)、かつて2万人が暮らした地下都市デリンクユ(トルコ)、東西ベルリンをつないで57名を逃がした「トンネル57」(ドイツ)、核攻撃に備えた秘密シェルターのバーリントン(イギリス)など。

世界にはまだまだ知らない場所、魅惑的な地下空間がたくさんあるのだとあらためて感じた。

2021年2月22日、原書房、3200円。

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2023年09月08日

中島美千代『土に還る』

ぷねうま舎
発売日 : 2020-07-22

副題は「野辺送りの手帖」。

かつて使われていた集落の小さな火葬場を見つけたのを機に、著者は土地の歴史や風土、信仰などについて民俗学的な考察を深めていく。それは、葬送の文化とは何かという問題でもある。

人生最後の儀式とはいっても、葬儀をどのようにするのかは、死者あるいは「死にゆく私」の問題ではない。だから、そこにくっきりと見えてくるのは、死者がどのような「関係」の中を生きたのかということ、どんな共同体と、そこに堆積した文化の層とともに歳を重ねたのかということなのだ。
野辺送り、拾骨のためには、火葬場が集落からあまり遠くてはいけない。風向きによっては火葬の煙と匂いが漂ってくるだろうから、近すぎるのも困る。
獺ヶ口への道路が改修されたことによって、一番奥の集落とされた下吉山が芦見地区の入口になった。すると数百年もの間、入り口だった皿谷が一番奥の集落になったのである。
火葬は仏教とともに日本に入ってきたと言われているが、多くの仏教宗派は布教のためには土葬も容認したし、真宗にしても火葬が至上命令というわけではなかった。だが、越前では真宗のひろまりと同時に火葬が普及した。真宗は、この地の葬送の文化を変えたのである。

集落の火葬場から公営の火葬場へ、宮型霊柩車から洋型霊柩車へ、自宅葬から葬祭会館へ、葬儀や葬送の形は時代とともに変わってきた。近年は家族葬も増えている。

それは共同体や人間関係の変化、そして私たちの生き方の変化をも意味している。

2020年7月22日、ぷねうま舎、1800円。

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2023年09月02日

芥川竜之介『芥川竜之介紀行文集』


国内旅行記9篇と1921年に大阪毎日新聞の視察員として中国を訪れた際の紀行文(上海游記、江南游記、長江游記、北京日記抄、雑信一束)を収めている。

「長崎小品」は7ページほどの短篇だが、おもしろい。日本における西洋文化の受容について考えさせられる。

慣れて見ると、不思議に京都の竹は、少しも剛健な気がしない。如何にも町慣れた、やさしい竹だと云う気がする。根が吸い上げる水も、白粉の匂いがしていそうだと云う気がする。(京都日記)
実際私は支那人の耳に、少からず敬意を払っていた。日本の女は其処に来ると、到底支那人の敵ではない。日本人の耳は平すぎる上に、肉の厚いのが沢山ある。中には耳と呼ぶよりも、如何なる因果か顔に生えた、木の子のようなのも少くない。(上海游記)
古色蒼然たる城壁に、生生しいペンキの広告をするのは、現代支那の流行である。無敵牌牙粉、双嬰孩香烟、――そう云う歯磨や煙草の広告は、沿線到る所の停車場に、殆見なかったと云う事はない。(江南游記)
何しろ長江は大きいと云っても、結局海ではないのだから、ロオリングも来なければピッチングも来ない。船は唯機械のベルトのようにひた流れに流れる水を裂きながら、悠悠と西へ進むのである。

芥川の中国紀行はかなり露悪的で、口が悪い。中華民国初期の政治的な混乱や街の猥雑な様子を皮肉たっぷりに描いている。そこに中国に対する差別意識を見る人もいるかもしれない。

ただ、芥川の筆致は国内旅行記でも似たようなものなので、むしろ長年漢詩などで親しんできた文学的・歴史的な中国とは異なる現実の中国の姿を鋭く描き出したと評価すべきだろう。

表紙に「詳細な注解を付した」とある通り、約400ページのうち、実に約100ページが注解となっている。丁寧なのはいいのだけれど、注解を見ながら読もうとすると、けっこうわずらわしくもあった。

2017年8月18日、岩波文庫、850円。

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2023年08月30日

川瀬巴水とその時代を知る会編『川瀬巴水探索』


副題は「無名なる風景の痕跡をさがす」

川瀬巴水の版画の風景がどこで描かれたものなのか、主に茨城県内の作品について現地調査を行った記録。古い航空写真や絵葉書、近隣の住民の証言などを元に、一枚一枚、作品の場所を特定していく。

巴水の絵はどこを描いたのか、分からない場合が多いのです。それは巴水がいわゆる名所を選ばずに、どこにでもある普通の風景を描くからです。
巴水はふつう風景画に分類されますが、そこに書き込まれた小さな人物に着目することで、その時代に生きた人間たちの歴史が強烈に浮かび上がって来ることが多いのです。
巴水の作品(「浮島戸崎」)に描かれた湖面は、昭和三十年代後半に稲作増産用に干拓されたが、米の需要がなくなったことにより、今はただ野原が続くのみである。

大正から昭和の戦後にかけて、巴水が全国各地を旅して描いた風景は、今も多くの人々の心を惹きつけている。まさに愛好者ならではの思いのこもった一冊だと思う。

2022年10月29日、文学通信、1900円。

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2023年08月25日

林宏樹『京都極楽銭湯案内』


副題は「由緒正しき京都の風景」。写真:杉本幸輔。

京都の銭湯のうち53軒を取り上げて紹介した本。銭湯の周辺にある店なども載っていて散策ガイドにもなっている。

唐破風、タイル絵、籐莚、行李、石田のハカリなど、昔ながらの風情を残している所も多い。写真を見ているだけで楽しくなってくる。

京都の銭湯が最も多かったのは1963年の595軒。この本が刊行された2004年には約260軒になっていた。それから約20年。今では約100軒にまで減っているようだ。

わが家の近くにあった泉湯も今はセブンイレブンになってしまった。「京都で一番のビジュアル銭湯」と紹介されている羽衣伝説のタイル絵も、もう見ることはできない。

2004年12月24日、淡交社、1500円。

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2023年08月15日

平岡昭利『アホウドリを追った日本人』


副題は「一攫千金の夢と南洋進出」。

アホウドリを基点に近代日本の海洋進出について描いた内容で、とても面白かった。鳥類の捕獲や鳥糞(グアノ)の採取、リン鉱の採掘と帝国日本の膨張がリンクしていたことがよくわかる。

舞台となるのは、鳥島、小笠原諸島、南鳥島(マーカス島)、尖閣諸島、沖大東島(ラサ島)などの現在の日本の領土だけでなく、遠くミッドウェー島、ウェーク島、北西ハワイ諸島、アンガウル島、プラタス島(東沙島)、パラセル諸島(西沙諸島)、スプラトリー諸島(南沙諸島)にも及ぶ。

撲殺したアホウドリの数は、一八八七年一一月の鳥島上陸からわずか半年間に一〇万羽、一九〇二年八月の鳥島大噴火で出稼ぎ労働者一二五人が全滅するまでの一五年間では、およそ六〇〇万羽に達した。
早くから羽毛は輸出品であり、一八八〇年代〜一九二〇年頃にかけて、日本は世界の婦人帽などの主要な原料供給国であった。羽毛に加えて明治一〇年代後半から、鳥類のはく製の輸出も盛んになった。

太平洋の無人島の発見や開発、領有をめぐっては、日本人同士あるいは日米間でさまざまな摩擦が起きている。さらには、実際には存在しない島の領有を宣言する事態まで生じた。

(一九〇八年)七月二十三日に、この件が閣議決定され、ガンジス島は中ノ鳥島と名称を変えて、「帝国」に日本の領土に組み入れられた。
この中ノ鳥島が、日本の領土から消えるのは、第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本の行政権の範囲を決定した一九四六年のことで、「発見」から三九年後である。「帝国」日本は、「幻の島」を長く領有したのである。

本書に登場する島々の中には、太平洋戦争で日米の戦闘が行われた島もあり、また現在も国同士が領有権を争う島もある。誰も住まない小さな島であっても、国家の領土問題と無縁ではいられないのだ。

明治以降、日本が南方の多くの無人島を編入したことで、今日の排他的経済水域、すなわち海洋資源や水産資源が確保される二〇〇カイリの海域と領海を合わせた面積は、四六五万平方キロメートルと、日本の国土の一二倍にもなり、世界第六位の広さを持つことになつたのである。

今から考えると驚くほど粗末な船や装備で無人島へと乗り出していった明治期の日本人たち。そこには歴史的に見れば負の側面もあるのだけれど、その勇気や度胸にはやはり驚かされる。

2015年3月20日、岩波新書、780円。

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2023年08月08日

普久間朝充(監修)岡本尚文(写真)『沖縄島建築』


副題は「建物と暮らしの記録と記憶」。

建築という観点から沖縄の歴史や文化について考察した本。時代も用途も様式もさまざまな建築を取り上げて、建物の来歴や現状についてインタビューをしている。

この本でかたちにしたかったことは、建築や風土の記録とともに、沖縄に暮らす人々の声を聞き、書き留めること。それが写真とひとつになって、沖縄の生きてきた時間を想像させることだった。(岡本尚文「あとがき」)

紹介されているのは、「玉那覇味噌醤油」「津嘉山酒造所」「大宜見村役場旧庁舎」「沖縄ホテル」「親川鮮魚店」「首里劇場」「キャンプタルガニーアーティスティックファーム」「聖クララ教会」「オーアイシーメガネ店」「シーサイドドライブイン」。

他にも、沖縄の建築を理解するのに必要な話を盛り込んだコラムや、地域別の建築物のガイドマップもあり、充実した内容だ。

現在、解体・建て替えが検討されている名護市庁舎も載っている。地域主義建築の代表的な作品で、なるほど、これはすごいと思わせる。
https://maidonanews.jp/article/14944751

2019年12月20日第1刷、2020年2月1日第2刷
株式会社トゥーヴァージンズ、1900円。

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2023年07月30日

稲泉連『サーカスの子』


私がサーカスを好きになったのは、大人になってからのことだ。大学を出てフリーター生活を始めた岡山で、初めてサーカスを見たのがきっかけである。

それ以来、サーカス関連の本もいろいろと読んできた。中でも、久田恵『サーカス村裏通り』(1986、文春文庫1991)は忘れられない。4歳の子を連れたシングルマザーがサーカスに入って働く様子を描いた本である。

今回、書店で『サーカスの子』をぱらぱら見ていて、著者の稲泉連が、久田恵の息子であることを知った。あの4歳の子が、大きくなって母と同じノンフィクション作家として活躍していたとは!

かなり驚いた。そんなこんなで、この本も私にとって思い入れの深い一冊となった。

稲泉は子どもの頃に自分が1年間を過ごしたキグレサーカスの関係者を訪ねて取材する。『サーカス放浪記』(岩波新書1988)を書いた宇根元由紀も出てくる。キグレサーカスは2010年に解散して、今はもう存在しない。

サーカスの人々は、西暦や年号で自分たちの歴史を語らない。「木更津」や「高崎」、「福島にいたとき」という具合に、公演場所で、「あの頃」について語る。それが二か月に一度、公演場所を変える彼らの時間感覚だったからだ。
サーカスの公演は二か月に一度のペースで「場越し」をする。だから、小学校や中学校に通う子供たちは、年に少なくとも六回は転校しなければならない。
新幹線のホームにぽつんと四人だけで立っている光景が、今でも彼女の胸には残っている。そのなかで、サーカス以外の「社会」を知っているのは彼女だけだった。テント村での大勢の人々との暮らしから離れてみると、そんな四人の「家族」はあまりに弱々しく、心許ない存在だった。

サーカスを離れた団員たちのその後は人それぞれだ。でも、華やかなスポットライトを浴び、共同体のなかで生きてきた人たちにとって、外の社会で生活していくことが大変なのはよくわかる。

ずっしりとした読後感の残る内容であった。
それ以上は、ちょっとうまく言えない。

2023年3月30日、講談社、1900円。

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2023年07月29日

中川誼美『ちょっと前の日本の暮らし』


「たもかく本の店」で購入した古本。

「お宿吉水」を経営する著者が、季節感を大切にした昔ながらの暮らしを現代に生かすことを提唱している。

五感を養うということは、生きていく判断力を身に付けることにも繋がります。それは、大人になるにせよ、年をとるにせよ、そのいずれの時も自分にとっては初めての経験ですから、その時過去の体験からの判断力が役に立つのです。
私は宿屋を始めてから、野菜や建材を求めて地方に出かけることが多くなりました。その出かけた経験から、地方に元気がないと感じずにはいられません。
改めてロハスやオーガニックという横文字の言葉でなく、自然、持続可能な暮らし、ありがたい、もったいないなどの意味を含む言葉はないものかと、さんざん考えた結果、「ちょっと前の日本の暮らし」という言葉に行き着きました。

少しお説教っぽいところや日本の伝統礼賛的な部分が気になるものの、基本的な考え方には賛同する点が多い。とはいえ、37度、38度の気温が続くこの夏の猛暑。

夏には縁側に風鈴が下げられ、涼しげな音が鳴っていました。打ち水をした庭や道端には縁台が出され、団扇片手に将棋を指す姿がありました。行水を喜ぶ子供の声が聞こえる昼下がり、蚊帳の中で夕立の雷の過ぎるのを待つ不安な時など。

こんな昔の光景は取り戻すのは、もう不可能だとも思う。

2010年11月10日、中公新書ラクレ、740円。

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2023年07月20日

小倉美惠子『諏訪式。』


諏訪の風土や歴史・文化に興味を惹かれた著者が、さまざまな角度から諏訪の独自の魅力に迫ったノンフィクション。「近代ものづくり編」「近代ひとづくり編」「土地となりわい編」「科学と風土編」の全4章に分かれている。

諏訪では、江戸時代の地場産業から近代の製糸業、戦後の精密機械産業からIT、メカトロニクスと言われる現在に至るまで、その主体は地生えの諏訪人たちであることに驚かされる。
製糸業は蚕の生態に人が寄り添う「農的」な側面と、人間の欲求・欲望を原動力とする市場経済に則った「商工業的」側面の二つを持ち合わせている。
日本の水田といえば、だだっ広い平野に広がる田園風景を思い浮かべるが、平地の水田は近世の新田開発によるもので、水利技術の向上がもたらした成果なのだ。山の高低差を利用して湧水や沢の水を引き込む谷戸田や棚田といった小さくて不規則な形の田んぼの方が古い。
かつて、原料のテングサ類は伊豆の海から上がり、「塩の道」と同じ経路をたどり、駿河岩淵から甲州鰍沢まで富士川舟運で上り、陸揚げされると馬の背に負われて諏訪まで届いたという。
長野県は、疲弊した農村の救済策という体で、満蒙開拓青少年義勇軍(満蒙開拓団)を積極的に推進したが、その中心を担ったのは皮肉にも信濃教育会だった。

下諏訪温泉にある島木赤彦の「恋札」の話もおもしろかった。近代短歌の世界においても、諏訪は重要な土地なのである。

土着の文化と外来の文化、古い価値観と新しい価値観をどのようにミックスさせるかという問題意識が、著者には常に働いている。

自文化を「過去の遺物」としか見られず、そこに何の価値も見出すことができなければ、それは地に着いた自分の「軸足」を放棄するに等しいことなのではないだろうか。土地に根ざした自分たちの文化や、ものの見方を失い、一方に同化、吸収されることを意味するのではないか。
先住者は、次元の異なる文化を持ち込む外来者によって、駆逐、あるいは滅ぼされてしまうことが多い中で、外来の民である建御名方側は、先住の民を攻め滅ぼすことなく、先住者の祀る神を尊重し、その文化を駆逐することがなかった。土着の洩矢神も吸収されて同化するのではなく、軸足を譲ることなく外来者を受け入れたのだろう。

こうした問題意識は、経済や文化のグローバル化がますます進む現代において、とても大切なものだと思う。

ただ、「三協精機」も日本電産の子会社「日本電産サンキョー」となり、今春から「ニデックインスツルメンツ」に名前が変った。諏訪のアイデンティティの象徴であったスケート部も昨年廃止されている。そうした経緯を見ると、「諏訪式」もまた大きな岐路に立たされているのかもしれない。

2020年10月2日、亜紀書房、1800円。

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2023年07月09日

大竹昭子『個人美術館への旅』


全日空のPR誌「ていくおふ」に連載された文章をまとめたもの。全国にある12の個人美術館の訪問記である。

「たかもく本の店」で購入。2002年刊行の新書だが、20年くらい前の本を読むのも意外といいのかもしれない。例えば、この本で言えば、20年経過した今も12の美術館すべてが(市町村合併で名称の変ったものもあるが)残っている。そこに、著者の眼力を認めることができるだろう。

個人美術館は、いろいろな作家のものを一堂に集めた県立美術館などに比べると作品の量が少なく、展示室を三つ、四つまわるともうロビーにもどっている。この小ささがとても都合がいい。
個人美術館は作家の郷里だったり、アトリエのあった場所だったり、人生の大半を過ごした土地だったりと、ゆかりのある場所に建てられていることが多い。日帰りのできる近さでも、かならず美術館の近くに宿をとって一泊した。
たったひとつの美術館のために、飛行機や電車やバスを乗り継いで出かけていく。思えばずいぶん贅沢な旅である。だが、たどりつくまでの時間や労力が大きければ大きいほど、そこで出会う一点に目を凝らそうとする思いも強くなる。

こうした著者の考えに共感し、納得する。

人は五十歳に近づくと、これまで歩んできた道程を振り返り、人生のはじまりを確認しようとする。土門は酒田を再訪したとき四十八歳だった。故郷を思うのにいい時期だったように思う。(土門拳記念館)
ノグチの作品を西洋と東洋の融合のように見るのはつまらない。彼が求めたのは東洋・西洋という区分けが存在する以前の世界にむかうことだった。人が自然との交感を求めて物を造った時代に旅立とうとした。(イサム・ノグチ庭園美術館)

各美術館の展示に関する解説も行き届いている。好著。

2002年9月20日、文春新書、680円。

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2023年07月07日

中川裕『NHK 100分de名著 知里幸恵『アイヌ神謡集』』


2022年9月のNHK「100分de名著」のテキスト。

知里幸恵『アイヌ神謡集』が刊行されてから今年で100年。番組は見られなかったのでテキストだけ読む。

口承文芸にはこれが原本だというテキストはありません、それは語り手によってそのたびに創造され、そのたびに完成するものなのです。
当時すでに、アイヌの伝統的な生活は過去のものになりつつありました。(…)それは、ニㇱパという言葉が「お金持ち」と訳されていることにも表れています。二ㇱパというのは日本語にしにくい単語で、本来は、狩りなどが上手で、カムイからの覚えもめでたく、豊かな生活を送っている立派な人という意味です。
同化論とは、アイヌの人々がそれまでの文化や生活を捨て去り、和人と肩を並べて和人として生きていくのが最も望ましいとする考え方のことです。これは金田一独自の考え方ではありません。当時の為政者も進歩的な文化人と呼ばれる人たちも、みんなこのような考え方をしていたと思われます。
つまりアイヌ語は、日本語にも外国語にも入らない言語で、それを言い表す言葉は日本語にはないのです。『アイヌ神謡集』が岩波文庫で赤色なのは、このことと無関係ではありません。アイヌ文学はどこにも入らない、「日本文学」ではないということで、仕方なく外国文学に入っているのです。

岩波文庫の『アイヌ神謡集』は8月に補訂新版が刊行されるとのこと。これを機にさらに多くの人に読まれるといいなと思う。
https://www.iwanami.co.jp/book/b629847.html

2022年9月1日、NHK出版、600円。

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2023年07月06日

原武史『地形の思想史』


2019年にKADOKAWAから出た単行本を新書化したもの。

「岬」「峠」「島」などの地形と歴史や思想との関わりを掘り下げた内容で、7つの話を収めている。著者のユニークな視点が生かされていて面白い。

皇太子夫妻が子供たちと同居し、直接子供たちを育てる一九六〇年代から七〇年代にかけての時期は、戦後日本で夫婦と未婚の子供からなる核家族が確立される時期と一致していた。核家族のためのコンパクトな居住空間として、日本住宅公団により団地が大量に建設されてゆくのもこの時期であった。
山梨県の多摩川水系まで含めた西多摩地域の思想史を振り返るために、明治以降の鉄道をいったんカッコに括ってみたい。そうすると立川でなく、甲州街道の宿場町として栄えた八王子を中心とする明治以前の交通網が見えてくる。
戦前の大規模な軍事施設が、戦後になると自衛隊の中核施設としてそのまま使われている都市としては、ほかに北海道の旭川市が挙げられる。陸軍の第七師団があったところが、陸上自衛隊旭川駐屯地になっているからだ。

印象に残ったことが2つある。

一つは天皇の臨席のもと日中戦争勃発まで毎年行われていた「陸軍特別大演習」が、全国の都道府県持ち回りの開催であったこと。なるほど、戦後の国体や植樹祭が都道府県を巡回しているのは、この続きであったわけか。

もう一つは私にもなじみの深い小田急線の「相模大野」「小田急相模原」「相武台前」といった駅が、戦前の軍隊と深く結び付いていたこと。それぞれ、陸軍通信学校、臨時東京第三陸軍病院、陸軍士官学校の最寄駅であったのだ。

著者は、あとがきに次のように書く。

実際に日本各地を訪れ、さまざまな場所に立ち、地形が織り成す風景を目にすると、まるでそこにしかない風景が語りかけてくるかのような瞬間があるのを、まざまざと体験した。

ネットで多くのことを調べられる時代だからこそ、こうした体験の持つ価値は今後ますます高くなっていくにちがいない。

2023年5月10日、角川新書、940円。

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2023年07月04日

石川幸太郎『潜水艦伊16号 通信兵の日誌』


1992年に草思社から刊行された単行本の文庫化。

第二次世界大戦において、真珠湾攻撃、マダガスカル島攻撃、インド洋通商破壊作戦、ソロモン決戦、ラバウル決戦に参加した潜水艦「伊16号」。その乗組員であった著者が艦内で書いていた日誌である。

開戦から約1年間のものだが、読み応え十分。現代に残っているのが奇跡のような日記だと思う。真珠湾やマダガスカル島のディエゴスアレスにおける特殊潜航艇による攻撃の様子など貴重な話が多い。

日誌の始まりは1941年11月17日。「明十八日はいよいよ作戦地へ向けて晴れの征途に就くのだ」とある。12月8日の真珠湾攻撃の約3週間前から、既に行動が開始されていたことがわかる。

印象に残るのは、潜水艦内での長期生活の過酷さだ。

夜間に入ってからの艦の動揺はなはだしく、夜通し、ベッドの上にて左右にゴロゴロころがされて眠れず、かつ胸がつかえるようだった。(1941年11月26日)
爽やかに明けんとする東天を拝し、と言いたいところだが、戦争という運命は、われわれに太陽も見ることを許さない立場にしてしまった。生れてこの方、元旦の陽の光を見ざるは今年をもって初めとする。(1942年1月1日)
片舷機故障のため、水もあまりとれないので、顔も洗わず身体もぬぐわない。歯を磨いたのは出港してから数回に過ぎないだろう。世の中に潜水艦乗りほど物臭いのもないだろう。(1942年6月3日)
腹の具合がとても悪い。未だに下る。食事も今朝ちょっと食べてみたが、すぐ痛くなるようなので、昼食を抜きにする。明日出撃までによくならないと、出港後は長時間潜航中、大便にゆけないので一番困るのだ。(1942年11月3日)

日記は1942年11月5日で終っている。

これにて、ハワイ海戦以来の陣中日誌、一冊目を終る。読み返す気もない。幾度か決死行の中にありて、気の向いたときに書き綴ったもの。そしてわれ死なばもろともにこの世から没する運命にある。しかし、第二冊目を書き続けてゆかねばならない。運命の魔の手が、太平洋の海底に迎えに来るその日まで。

この1冊目の日誌は翌年、伊16号が修理のため横須賀に戻った際に家族に渡された。その後、1944年5月19日に伊16号はソロモン諸島沖で撃沈され、著者も運命を共にする。27歳。結婚したばかりの妻と幼い娘を残しての戦死であった。

2冊目以降も書き続けられたはずの日誌は、海の底に眠っている。

本を読むのが好きな著者で、読書の話もたくさん出てくる。

樋口一葉『にごりえ』『たけくらべ』及びヴァイウォーターの『英独海戦』若干を読む。(1943年7月17日)

戦時中の潜水艦の中で樋口一葉の小説を読みながら、26歳の石川幸太郎はどんなことを考えていたのだろうか。

2021年12月8日、草思社文庫、1000円。

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2023年07月02日

林光『職人技を見て歩く』


副題は「人工心臓、トイレ、万年筆、五十塔…」。

「たかもく本の店」で購入した20年前の新書。モノ作りの職人を訪ねて話を聞くシリーズで、全10話を収めている。私はこういう「見て歩く系」の本が好きで、つい見かけると買ってしまう。

印象に残った発言を引く。

送電鉄塔って、鉄塔だけではだめで、電線があってはじめて完成なんですね。だからマイクロ鉄塔や電波塔みたいに、塔だけとはちがって、電線が張られて、はじめて美しくなるんですよ。(東京電力株式会社 本郷栄次郎)
じつは、外国の万年筆のメーカーさんにとって、いま、世界最大の万年筆のマーケットは日本なんです。世界では、いまの日本と同じように、圧倒的に簡便なボールペンが主流で、ほとんどがそれです。(潟pイロット 広沢諄一)
焼き物は、やっぱり中国が本家ですからね。戦争で中国に行ったということは、私にとって、本当にプラスになったんですよ。あれが、別のどっか島にでもほっぽりだされてたら、もう、目も当てられんですね。(走波焼き五代 佐藤走波)

文中に「弟のリンボウ先生」という記述があって、初めて著者と林望が兄弟だと知った。

2002年3月20日、集英社新書、700円。

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2023年06月23日

『〈記憶の継承〉ミュージアムガイド』


副題は「災禍の歴史と民族の文化にふれる」。

戦争や差別、公害、震災などの歴史を語り伝えるミュージアムを紹介するガイドブック。全国にある23館が取り上げられている。

原爆の図丸木美術館、戦没画学生慰霊美術館無言館、ひめゆり平和祈念資料館、沖縄県平和祈念資料館、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」、東京大空襲・戦災資料センター、舞鶴引揚記念館、水俣病歴史考証館、水俣市立水俣病資料館、満蒙開拓平和記念館、国立アイヌ民族博物館、平取町立二風谷アイヌ文化博物館、在日韓人歴史資料館、2・8独立宣言記念資料室、ウトロ平和祈念館、もうひとつの歴史館・松代、高麗博物館、文化センター・アリラン、長島愛生園歴史館、重監房資料館、国立ハンセン病資料館、ホロコースト記念館、リアス・アーク美術館

実際に各資料館を訪ね、館長や学芸員の方に話を聴き、ミュージアムの趣旨や歴史、展示内容などを詳しく紹介している。カラー写真も豊富で、雰囲気もよく伝わってくる。

それだけでなく、コロナ禍による入館者の減少や語り部の高齢化など、ミュージアムが直面している課題も見えてくる。

23館のうち私の行ったことのあるのは、たった3館であった。早速いくつか見て回りたいと思う。

2022年4月8日、皓星社、1800円。

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2023年06月22日

Pippo編著『人間に生れてしまったけれど』


副題は「新美南吉の詩を歩く」。

新美南吉の詩に魅せられた著者が、南吉の故郷の半田市などを訪ね歩き、その生涯をたどった一冊。後半には南吉の詩21篇と幼年童話6篇も収めている。

南吉と言えば「ごん狐」などの童話が有名だが、実は童謡も含めると約550篇もの詩を残しているのだそうだ。タイトルの「人間に生れてしまったけれど」も南吉の詩「墓碑銘」の一節から取られている。

引用されている南吉の日記や手紙の言葉も印象深い。

文学で生きようなどと考へて一生を棒にふつて親兄弟にまで見はなされてこつこつやつてゐるのは神様の眼から見ていいことなのか悪いことなのか、そこのところもよく解らない
僕はどんなに有名になり、どんなに金がはいる様になつても華族や都会のインテリや有閑マダムの出て来る小説を書かうと思つてはならない。いつでも足に草鞋をはき、腰ににぎりめしをぶらさげて乾いた埃道を歩かねばならない
こんどの病気は喉頭結核といふ面白くないやつで、しかも、もう相当進行してゐます。朝晩二度の粥をすするのが、すでに苦痛なのです。生前(といふのはまだちよつと早すぎますが)には実にいろいろ御恩を受けました、何等お報いすることのなかつたのが残念です。

「ふるさと文学散歩」1〜4は地図と写真入りで、南吉の生家や墓、勤務先の小学校、杉治商会、高等女学校などの場所を紹介している。南吉作品とふるさとの風土の結び付きの強さをあらためて感じた。

2023年3月22日、かもがわ出版、1700円。

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2023年06月19日

司馬遼太郎『街道をゆく16 叡山の諸道』


初出は「週刊朝日」1979年10月19日号〜1980年3月28日号。

比叡山の延暦寺で行われる法華大会(ほっけだいえ)を見学するために来た著者は、日吉大社、赤山禅院、曼殊院門跡、横川、無動寺谷などをめぐりながら思索を深めていく。

子規と最澄には似たところが多い。どちらも物事の創始者でありながら政治性をもたなかったこと、自分の人生の主題について電流に打たれつづけるような生き方でみじかく生き、しかもその果実を得ることなく死に、世俗的には門流のひとびとが栄えたこと、などである。
江戸幕府は、天皇家に親王がたくさんうまれることをおそれた。それらが俗体のままでうろうろしていたりすると、南北朝のころのように「宮」を奉じて挙兵するという酔狂者が出ぬともかぎらず、このため原則として天皇家には世継ぎだけをのこし、他は僧にし、法親王としてその身分を保全したまま世間から隔離することにした。
かつて木造であったものが、一見木造風のコンクリートに模様がえさせられる場合、実体であるよりも実体の説明者(ナレーター)の位置に転落させられてしまうことを、建てるひとびとは考えてやらないのではないか。

話題は次々に連鎖し、時に脇道に逸れたりしながら、縦横無尽に広がっていく。そこが面白い。

ときに唐は、晩唐の衰弱期で、かつてあれだけ世界の思想や文物に寛容だったこの王朝が、仏教に非寛容になり、土俗信仰である道教を大いに保護しはじめていた。多くの理由があるにせよ、国家が衰弱して力に自信がもてなくなると、かえってナショナリズムが興るということであるのかもしれない。

この文章など、40年以上も前のものなのに、近年の日本のことを言っているようにも読める。そうした時代を超える力を持っているからこそ、「街道をゆく」のシリーズは今も読まれ続けているのだろう。

「週刊朝日」は先月で休刊になったところだけれど。

2008年11月30日、朝日文庫、580円。

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2023年06月16日

近藤康太郎『百冊で耕す』


副題は「〈自由に、なる〉ための読書術」。

前著『三行で撃つ』の姉妹編。
https://matsutanka.seesaa.net/article/486715542.html

名物記者・ライターの記す読書論。長年にわたって著者自身が実践してきた内容でもある。

本は、読むだけではない。本は眺めるものだ。なで回すものだ。わたしは、それに生かされてきた。読んだ場所、読んだ時間、読んだ日差し、読んだ風の匂いを、五感を使って記憶に定着させる。
個々の読書体験が、ふとしたことでつながる。〈分かる〉とは、そういうことだ。
本を読む。そのもっともすぐれた徳は、孤独でいることに耐性ができることだ。読書は、一人でするものだから。ひとりでいられる能力。人を求めない強さ。世界でもっとも難しい〈強さ〉を手に入れる。

短歌に通じる話も、いろいろと出てくる。

「正しい読み/間違った読み」はないのだが、しかし、「おもしろい読み/つまらない読み」はある。
文章は、基本的に分からないものだ。分からない本を読まないで、むしろどうする。自分の知らないことを、知る。自分になかった視点を得ようとする。だから、本は難しくてあたりまえ。

いつも通り、歯切れ良く、テンポのいい文章が続く。

巻末の百冊選書には、ドストエフスキー『悪霊』、村上春樹『風の歌を聴け』、ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などとならんで、『与謝野晶子歌集』も入っている。

2023年3月13日、CCCメディアハウス、1600円。

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2023年06月15日

村上春樹『一人称単数』


2020年に文藝春秋社から刊行された単行本の文庫化。
特に熱心な読者ではないので、文庫になったのを機に読んだ。

8篇を収めた短篇小説集。

短歌が出てくると聞いていて、表題作の「一人称単数」かと思っていたらそうではなく、冒頭の「石のまくらに」という話だった。

「私は短歌をつくっているの」と彼女はほとんど唐突に言った。
「短歌?」
「短歌って知ってるでしょ?」
「もちろん」。

人生において偶然出会った人や、短い期間だけ付き合った人を回想する話が多い。人生には何が正しくて何が本当であるのか、永遠にわからないできごとがある。

(  )の挿入の多い文体も、読んでいるうちにだんだん中毒になってくる。

ふと気がつくと(数をかぞえることに意識を集中していたので、気がつくまでに時間がかかった)、ぼくの前に人の気配があった。
でも僕は暇があれば(というか、当時の僕はだいたいいつも暇だった)神宮球場に足を運び、一人で黙々とサンケイ・アトムズを応援していた。
私は中華料理をまったく食べないので(どうやら中華料理で使われる香辛料の中に、アレルギーを引き起こすものがいくつかあるみたいだ)、彼女は中華料理を食べたくなると、親しい女友だちを誘ってどこかに食べに行く。

さすが村上春樹。なんだかんだ言ってもやっぱり味わい深い。

2023年2月10日、文春文庫、720円。

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2023年06月14日

黒田一樹『すごいぞ!私鉄王国・関西』


関西の私鉄大手5社「阪急」「南海」「阪神」「近鉄」「京阪」について、その歴史や特色などを徹底的に分析した本。カラー写真も豊富で、内容も充実している。

著者がそれぞれの私鉄のキーワードに挙げるのは、「阪急=創業者、南海=バロック、阪神=スピード、近鉄=エキゾチシズム、京阪=名匠」。その意味するところは、本書を読むとよくわかる。

関西の私鉄の話が満載の一冊であるが、実は著者は東京に住む人。そのため、関東と関西の違いに関する話もたくさん出てくる。

関東私鉄は「小田急線」「西武線」のように「○○線」の呼び名が主流ですが、関西私鉄は「阪急電車」「南海電車」のように「○○電車」の呼び名が主流です。
のりば表示案内は、たとえば難波駅なら「堺 岸和田 泉佐野 和歌山市方面」と手前から書くのが関東流。「和歌山市 泉佐野 岸和田 堺方面」と終着駅を大きく書いたうえで奥から書くのが関西流である。
駅に備え付けの発車時刻表にも関東流と関西流がある。時間を縦軸にとるのが関東流、横軸にとるのが関西流だ。

私は京阪電車に乗ることが多いのだが、「京阪」に関しても知らない話がいっぱいあった。淀屋橋駅が1面3線しかないにもかかわらず、ダイヤの組み方や停車位置をずらす工夫によって狭さを感じさせないことなど、まったく気付いていなかった。

言われてみれば、なるほどと思うことばかり。

残念ながら、この本の著者はもうこの世にはいない。「編集が佳境に入った今年の1月、わたしは末期の大腸ガンと診断されました」と、あとがきに記されている。刊行から1年も経たず、2017年1月3日に45歳の若さで亡くなった。

ご冥福をお祈りします。

2016年5月3日初版、2016年8月31日4刷。
株式会社140B、1800円。

posted by 松村正直 at 23:33| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年06月11日

石井正己編・解説『菅江真澄 図絵の旅』


菅江真澄(1754‐1829)は愛知県に生まれ、信越・東北・北海道を旅して多くの日記や地誌を残した。その中から112点の図絵を取り上げて、現代語訳の日記などとともに解説を付した一冊。

とても面白い。

彩色された絵が鮮やかで、当時の風景や人々の暮らしの様子がよくわかる。民俗学や自然史の資料としても貴重なものだろう。干拓前の八郎潟で月見をしたり、隆起前の象潟を眺めたりもしている。

1789年のクナシリ・メナシの戦いや1792年のラクスマン来航、アイヌの暮らし、北海道に残る円空仏、三内丸山遺跡や縄文土器の話なども出てくる。歴史が身近に感じられる内容だ。

また、和歌も数多く詠まれている。

極楽の浜の真砂し踏む人の終(つひ)に仏がうたがひもなし【青森県、仏ヶ浦】
むかし誰(た)が手に馴らしけん四つの緒のしらべかへたる松風の声【秋田県、独鈷大日神社】
千代を経て宇須(うす)となるべき木々はみな枝垂れ地(つち)に付くといふなり【長野県、碓氷】

当時、北海道の松前でも和歌を詠む人が多くいたようだ。

神々に和歌を献上したり、季節の移り変わりの歌題を設けて和歌を詠んだりしている。真澄は、藩主・松前道広の継母の文子や重臣の下国季豊、稲荷社神主の佐々木一貫、商人の土田直躬らと和歌を通じて交流を重ねている。真澄の長期滞在は松前歌壇の興隆に大きく寄与した。

和歌は土地褒めであり、神と人、人と人をつなぐコミュニケーションの役割も果たしていた。近代以降の自己表現としての短歌とは異なる和歌の意味について、あれこれ考えている。

2023年1月25日、角川ソフィア文庫、1500円。

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2023年06月06日

高橋博之『都市と地方をかきまぜる』


副題は「「食べる通信」の奇跡」。

2013年に食べ物付きの情報誌「東北食べる通信」を創刊した著者が、食と命、都市と地方、民主主義と当事者意識といった問題について記した本。関係人口という概念の創出や「食べる通信」の全国化など、具体的で実践的な内容となっている。

地方も行き詰まっているが、都市もまた行き詰まっている。そして、都市の行き詰まりを解決しえるものが、地方にはある。ならば、都市が地方を支える、助けるという議論とは別に、私たち地方が都市を支える、助けるという議論を堂々と展開していっていいのではないか。
生きる実感とは、噛み砕いていえば、自分が生きものであるということを自覚、感覚できるということ。生命のふるさとである海と土から自らを切り離してしまった都市住民が生きる実感を失っていくのも、当然のことではないだろうか。
田舎から都会に出ていく回路は、進学、就職と圧倒的に広い。対して都会から田舎に出向く回路は、観光と移住しかない。これをさらに拡大するには、関係人口という考え方で定期的に通ってくる人たちを増やすことだと思う。
繰り返すが、人間は食べないと生きていけない。その意味でこと職に関しては、すべての国民が当事者といえる。なのにこれまでの一次産業は、農家と漁師だけが当事者として孤軍奮闘してやってきた。私たち消費者も当事者なのに、観客席で高みの見物をし、まるで他人事だった。

かなり明確な理論と哲学があり、それに基づいて事業を展開している様子を見て取ることができる。一方で、現実の世界は理想通りには行かないことも多いようだ。

2016年の時点で「食べる通信」は全国34地域にまで広がり、それを100に増やすという目標が本書には掲げられていた。けれども、実際は2017年の41地域をピークに、その後は休刊や廃刊が続き、現在は22地域にまで減っている。
https://taberu.me/league

どこに誤算があったのだろう。

2016年8月20日、光文社新書、740円。

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2023年06月04日

稲垣栄洋『はずれ者が進化をつくる』


副題は「生き物をめぐる個性の秘密」。

毎年何点もの新刊を次々と出している人気植物学者が、若者向けに書いた本。雑草などの植物の生態についての話をもとに、教育論・人生論を展開している。

雑草は図鑑どおりではありません。それが何よりの魅力です。/図鑑には春に咲くと書いてあるのに、秋に咲いていたり、三〇センチくらいの草丈と書いてあるのに、一メートル以上もあったり、そうかと思うと五センチくらいで花を咲かせていたりします。
激しい競争が行われている自然界ですが、そんな中で、生物はできるだけ「戦わない」という戦略を発達させています。ナンバー1になれるオンリー1のポジションがあれば、そんなに戦わなくても良いのです。
どこにでも生えるように見える雑草ですが、じうはたくさんの植物がしのぎを削っている森の中には生えることができません。/豊かな森の環境は、植物が生存するのには適した環境です。しかし同時に、そこは激しい競争の場でもあります。そのため、競争に弱い雑草は深い森の中に生えることができないのです。

身近なわかりやすい例を取り上げて、そこから意外な話や深い話へつなげていくところが鮮やかだ。

2020年6月10日第1刷、2021年10月25日第7刷。
ちくまプリマ―新書、800円。

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2023年05月29日

千葉俊二編『新美南吉童話集』


新美南吉が読みたくなって岩波文庫の童話集を買った。

「ごん狐」「手袋を買いに」「赤い蝋燭」「最後の胡弓弾き」「久助君の話」「屁」「うた時計」「ごんごろ鐘」「おじいさんのランプ」「牛をつないだ椿の木」「百姓の足、坊さんの足」「和太郎さんと牛」「花のき村と盗人たち」「狐」の14篇と評論「童話における物語性の喪失」を収めている。

童話はたぶん子どもの頃にほとんど読んだことがある。ストーリーを思い出すものが多かった。でも、当然ながら読み方は昔と違う。時代の移り変わりによって失われるものへの眼差しが印象に残った。

これだけ世の中が開けて来たのだと人々はいう。人間が悧口になったので、胡弓や鼓などの、間のびのした馬鹿らしい歌には耳を籍(か)さなくなったのだと人々はいう。もしそうなら、世の中が開けるということはどういうつまらぬことだろう、と木之助は思ったのである。/「最後の胡弓弾き」
どこの家のどこの店にも、甘酒屋のと同じように明かるい電燈がともっていた。光は家の中にあまって、道の上にまでこぼれ出ていた。ランプを見なれていた巳之助にはまぶしすぎるほどのあかりだった。巳之助は、くやしさに肩でいきをしながら、これも長い間ながめていた。/「おじいさんのランプ」

こうした出来事は今ではさらに頻繁に、短いスパンで、当り前のように繰り返されている。もう童話に書かれることさえないままに。

1996年7月16日第1刷、2019年6月14日第28刷。
岩波文庫、740円。

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2023年05月26日

『宝塚少女歌劇、はじまりの夢』の続き

短歌関連で印象に残ったことを書いておこう。

まずは、初期の団員たちの芸名である。高峰妙子、雲井浪子、篠原浅茅、瀧川末子など、みんな百人一首にちなんだ名前になっている。

田子の浦にうち出でて見れば白の富士の高嶺に雪はふりつつ
わたの原こぎ出でてみれば久方の雲ゐにまがふ冲つ白
浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれてもにあはむとぞ思ふ

当時はこういう名前が美しさを感じさせたのだろう。

続いて、高安やす子(高安国世の母)のことである。この本には2か所、やす子の名前が出てくるのだが、「歌劇」大正8年1月号に掲載された短歌「湯気のかく絵」について見てみたい。

いつとなく湯気のかく絵をながめ居ぬうつとりとして湯ぶねの中に
大理石(ナメイシ)の温泉(イデユ)の中に浪子はもギリシヤの女(ヒト)に似したちすがた

(…)高安は雲井浪子の立ち姿がギリシャ女性を思わせると詠んでいるが、一緒に入浴する機会があったのか、それとも想像の中での吟詠なのか。

宝塚新温泉の大理石の浴場を詠んだ歌である。やす子は関西の社交界では有名な女性で、与謝野寛・晶子の指導を受けて「紫絃社」という短歌グループを作っていた。

引用歌から思い出したのは、大正14年に高安やす子の書いた「日本の温泉と浴槽」というエッセイ(『一日一文』所収)である。日本の温泉設備が貧弱なことを指摘した後に、ローレンス・アルマ=タデマ(1836‐1912)の古代ギリシア・ローマの浴場を描いた絵画に言及している。

私はアルマタデマの好んで描くあの浴槽に多大の憧憬を持つ。美しい丸柱の並んだ柱廊や広間の中の大理石の階段をもつた浴槽、しきりのカーテンの上からわづかにのぞく蒼穹、美しい彫刻の口からおちる水晶の透明をもつた湯の泉、海の見えるベランダには丸柱にからむ薔薇の花が淡紅の雪とくづれる。洗練された美のかぎりなきしなやかさと、調和と明快と言語に絶した光と蔭と匂と豊潤な詩とこれ等最高な美をそなへた希臘の女がそこに浴みをする。

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例えば、こんな絵である。「お気に入りの習慣」(1909)。

先に引いた歌の「ギリシヤの女」という表現の背景には、やす子のこうした理想があったと見ていいだろう。

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2023年05月24日

小竹哲『宝塚少女歌劇、はじまりの夢』

著者 : 小竹哲
集英社インターナショナル
発売日 : 2023-03-24

1914(大正3)年に誕生した宝塚歌劇の大正期の歴史やエピソードなどを記した本。「一九八三年春より大劇場公演はほぼ全公演観劇」という宝塚ファンの著者の熱意が、全篇に満ち溢れている。

1918(大正7)年創刊のPR誌「歌劇」を丹念に読み込んで、そこから多くの情報を引き出している。主要な記事だけでなく読者投稿欄にも目を配り、公的な資料には残らないような観客の本音や団員の日常、そして時代の雰囲気などを描き出しているのが特徴的だ。

当初の小林の構想では〈花組〉と〈月組〉ではなく、〈雪組〉と〈月組〉だったのである。
当時は男役もソプラノで歌っていたのである。
こうして創生期の宝塚にあってその礎を築いた高砂だが、不思議なことに歌劇団の公式の年史には殆んど出てこない。
つまり劇場には履き物を脱いで入場するのが、当時は当り前だったのだ。

新しい娯楽や文化を生み出そうとした宝塚の熱気と苦闘の跡が生々しく甦ってくる。作家たちの試行錯誤やニセモノの少女歌劇団の出現などのエピソードも楽しく、またスペイン風邪や関東大震災といった歴史上のできごととの関わりも印象に残る。

一つ一つの細部を積み上げていくことで、大正時代の人々の姿や暮らしがよく見えてくる。また、宝塚や関西といった地域の特徴も出ており、結果的に東京を中心とした歴史の見方や描き方を相対化する役割を果たしている。

宝塚少女歌劇に関する本なのだが、それだけではない。宝塚を通して見えてくる大正時代の歴史や文化を描いた一冊にもなっているのだ。

雑誌「歌劇」からの引用に対して、ところどころ著者が、「了見違いも甚だしい」「だめだこりゃ」「チケットを買う前に誰か教えたりぃや」などとツッコミを入れているのも面白かった。

2023年3月29日、集英社インターナショナル、1800円。

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2023年05月19日

外岡秀俊『北帰行』


昨年12月に亡くなった作者が、学生時代の1976年に書いて第13回文藝賞を受賞したデビュー作。

北海道出身で東京に暮らす20歳の主人公が、盛岡、渋民、函館、札幌、小樽、釧路と啄木の足跡をたどって故郷へ向かう物語。旅をしながら彼は、過去の出来事を振り返り、啄木について考え、自らの人生について思いをめぐらす。

啄木の短歌は、その簡素なことばの流れによって、深い想いをこめた風景の表情を甦らせてくれるのだった。それは彼の短歌が、固有の風景を歌っているのではなく、その中で異質の体験が触れ合う一つのひろがりとして、誰にも開かれている匿名の風景を歌っているためであるように、私には思われた。
北海道の標準語は、人工的に造られた中性語ではない。その言葉の重さは雪国特有の重さであり、同時に、アイヌ民族の叫びと流民の呟きと囚人の嘆きとが、濃霧に鳴り渡る鐘の響きのように重たげな調子となってこめられているからに他ならない。
歌はただ形式だけを持っており、内容はその形式に融け込むことによってのみ存在を許されていると言ってよいだろう。厳密に言って、それは内容ではない。歌は瞬間の白刃に截り取られたこころの形であり、一語一語にあらわれる心の動きは、ただ、かたちを析出するためにだけ三十一文字を流れていく。
もしかすると啄木は、いつもデエモンを凝視めながら生きていたのかもしれない。私たちは啄木という媒体を通して、その見えない貌を見、語られない言葉を聞いているのだろう。(…)彼はデエモンを祓うために歌うのであり、その容貌を見せるためにではなく、むしろ見せないために歌う。

ひたすら重たくて暗い小説である。そこがいい。

内容は全く違うけれど、同じく青春小説である柴田翔『されどわれらが日々―』を思い出した。

2022年9月20日、河出文庫、990円。

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2023年05月17日

永井荷風『濹東綺譚』


舞台はかつて私娼窟のあった玉の井。題名の通り、隅田川の東側、現在の墨田区東向島のあたりである。

小説の構造が変っていて、主人公の小説家大江匡が取材で玉の井を訪れ、元英語教師の種田順平が主人公の小説『失踪』を書く。つまり、永井荷風―大江匡―種田順平という三重構造になっているのだ。

しかも、巻末には荷風の「作後贅言」という32ページの長さの後記が付いている。小説と後記をあわせて、どこまでが実体験で、どこからが小説なのか、迷宮のようにわからなくなってくる。

小説をつくる場合、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。

とあるように(この「わたくし」は荷風ではなく大江匡であるが)、小説の中心は玉の井という場所と、そこに暮らすお雪という女性の暮らしである。舞台は私娼窟であるが、品の良い作品となっている。

最後に、「作後贅言」からアイスコーヒーに関する話を引こう。

銀座通のカフェーで夏になって熱い茶と珈琲とをつくる店は殆どない。西洋料理店の中でも熱い珈琲をつくらない店さえある。紅茶と珈琲とはその味(あじわい)の半は香気にあるので、もし氷で冷却すれば香気は全く消失せてしまう。しかるに現代の東京人は冷却して香気のないものでなければこれを口にしない。

なるほど、荷風は夏でもホットを飲んでいたのか。

1947年12月25日第1刷、2020年11月16日第86刷。
岩波文庫、540円。

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2023年05月14日

繁延あづさ『ニワトリと卵と、息子の思春期』


「婦人之友」2018年7月号、2020年3月号、6月号に掲載された記事をまとめたエッセイ&ノンフィクション。

3人の子を育てる著者は、ニワトリを飼う計画を実行に移す長男に戸惑いつつも、次第にニワトリのいる生活になじんでいく。子育てや家族をめぐる問題に悩み、食べることや肉について考える日々。

子どもたちそれぞれに、大事なこと、必要なことがあって、彼らの生きている時間は彼らのもので、親といえども侵してはならない一線があること。わかっていたつもりだった。けれど、その一線は目に見えるわけじゃない。互いに違うところに線をひいている。
スーパーで買う卵ならあまり気にならないのに、うちのニワトリには無農薬の飼料を与えたいと思う。この心境の違いは何だろう。そもそもスーパーで見えるのは、現物としての卵と値段という数字だけ。
養う≠ニいうことには、お金≠ニ権限≠ェ付随する。お金≠ニ権限=Bどちらも子どもが太刀打ちできない力であり、親元で彼らを自由にさせない力である。だから、長男はそうした空気が家の中でまかり通るのを許さないとばかりに、猛然と立ち向かってくる。〈言葉〉を武器に。

親子の協力する姿とともに、激しい相克の様子もありのままに描かれている。ニワトリを飼ったことはないけれど、親子関係については思い当たることや教えられることがとても多かった。

2021年11月30日、婦人之友社、1450円。

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2023年05月10日

田上孝一『はじめての動物倫理学』


動物倫理学の立場から、動物福祉、肉食、動物実験、動物園や水族館、狩猟、ペットの飼育、動物性愛といったさまざまな問題について考察した本。

倫理学の初歩から始まって、応用倫理学としての動物倫理学の歴史や考え方、人間中心主義の問題点など、順序立ててわかりやすく解説している。

現代において倫理的な問題となる動物としては、馬の重要度は低い。(…)ところがかつては馬こそが最も身近にあり、かつその扱いに深刻な倫理的問題があると広く意識されていた動物だった。
ルイス・ゴンぺルツの名は今日、動物擁護者や元祖ビーガンというよりも、一般には発明家として知られている。しかし彼が自転車を発明したのは、それによって動物を救うためだったという真相はほとんど知られていない。
(…)人種差別批判自体が悠久の歴史を持つ人類史に普遍的な価値ではなく、最近までの歴史過程によって勝ち取ってきた成果だということである。ならば種差別批判がおかしいという感覚も、それは今現在の遅れた権利意識であり、すぐには無理でもやがては常識化する可能性がないとはいえないだろう。
現在のブロイラーは極限的な品種改良によって驚くべき速度で急激に肥大化し、信じられないほど早く出荷できるようになっている。孵化から実に二月と経たずに成長のピークに達し、食肉加工されてゆくのである。

私は肉食もするし動物園も好きで、本書の主張に沿った生活はほとんどしていない。それでも、動物倫理学の考え方を知っておくのは大切なことだと感じた。今後、避けては通れない問題だろう。

2021年3月22日、集英社新書、880円。

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2023年05月05日

森達也『集団に流されず個人として生きるには』


従来の新聞やテレビに加えて、ネットやSNSという圧倒的なメディアが生まれた今、私たちは溢れる情報から何を選び取ればいいのか。

誰もがメディア・リテラシーを身につけるとともに、個人として主体的に生きていくことがますます大切になってきている。

メディア関係者の多くは、内心は明確な規制がないことを怖れている。規制が欲しくなる。だって規制の内側にいれば安全なのだ。
なぜ日本人は集団と相性がいいのか。規律正しいのか。マスゲームなど団体行動が得意なのか。世間とは何なのか。試合終了後にみんなでゴミを拾うのか。こうした考察は、日本人とは何かを考えることときっと重複する。
もしもあなたが、サッカーが大好きならば、ネットやSNSを見ながら、世界中の人はサッカーが大好きなのだと、いつのまにか思ってしまう。だからサッカーにまったく興味がないという人に会ってびっくりする。こんな人がいるのかと。いるよ。たくさんいる。SNSをフィルターにしてあなたの視界に入っていなかっただけだ。
容疑者はメディアが使う言葉だ。司法の場では容疑者ではなく被疑者という言葉を使う。どちらも同じ意味だ。正式には被疑者だが、言葉で発音したときに被疑者と被害者は混同しやすいとの理由で、メディアは容疑者とアナウンスする。
「我々」や集団の名称を主語にせず、「私」や「僕」などの主語を意識的に使うこと。たったこれだけでも述語は変わる。変わった述語は自分にフィードバックする。

青少年向けにわかりやすく書かれた本だが、著者の主張や危機意識は十分に伝わってくる。現代の日本社会において集団に流されず個人として生きるのは、とても難しい。

2023年3月10日、ちくまプリマ―新書、840円。

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2023年05月04日

やまだ紫『しんきらり』


初出は「ガロ」1981年2・3月合併号〜1984年10月号。

青林堂から刊行された単行本『しんきらり』(1982年)と『続しんきらり』(1984年)をあわせて文庫化したもの。

会社勤めの夫と二人の娘を持つ主婦の日常を描いたマンガ。40年前の作品であるが、時代を超える力を持った名作だ。

巻頭に河野裕子の自選歌集『燦』(1980年)から「菜の花」9首が引かれている。

しんきらりと鬼は見たりし紫の花の間(あはひ)に蒼きにんげんの耳
夕闇はげんげ畑より拡がりて鬼ゐる菜畑なかなか昏れぬ
菜の花に首まで隠れて鬼はひとり 菜の花に跼みて待ちゐてひとり

元は第2歌集『ひるがほ』(1976年)収録の連作「菜の花」15首より。タイトルの「しんきらり」もこの1首目から取られている。

2023年4月20日、光文社文庫、800円。

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2023年04月26日

島田潤一郎『あしたから出版社』


2014年に晶文社から刊行された単行本に2篇を増補して文庫化したもの。

作者が2夏葉社を創業した経緯やその後の展開、出版社の日々の仕事のことなどが綴られている。本に対する愛情の詰まった一冊だ。

夏葉社のことは、以前、関口良雄『昔日の客』を読んで以来気になっていた。こんなに地味で素晴らしい本を発掘して復刊する出版社ってすごいなと思ったのだった。
https://matsutanka.seesaa.net/article/482591227.html

一般的に、出版社はマスコミに分類されていて、そういう意味では、夏葉社もまた出版社であり、マスコミなのかもしれないけれど、ぼくの気持ちとしては、本をつくっているというよりも、手づくりの「もの」をつくっているような感覚なのだった。
ぼくは、自分のつくった本が、一〇年後も、三〇年後も、時代の波の届かない場所で、質素に、輝いていてほしい。だから、デザインはできるだけシンプルなほうがいい。
ある日、子どもは、マンガを一冊買えるお金で、文庫本の小説を買う。/それは、とてもわかりやすい、大人への階段だ。/ぼくは町の本屋さんのそうした日常を、全部、この目で見たいのである。
この本を売りたいんだろうな。そういうことが伝わってくる本屋さんが好きだ。そこに並んでいる本は、その店で働く人が売りたい本であり、同時に、常連のお客さんが買ってくれるのではないか、と考えた本でもある。本屋さんの棚は、書店員さんとお客さんたちが一緒になってつくっている。

出版業界は長期低落傾向にあり、出版物の売上も全国の書店数もピーク時の半分にまで減っている。一方で、近年、ひとり出版社や独立系書店が増えていて、それに関連した本も多い。

その中にあって、本書はかなり異色の一冊と言っていいだろう。出版に関するノウハウというよりは、作者のかなりプライベートな話が中心になっていて、エッセイとしての味わいが深い。

2022年6月10日、ちくま文庫、880円。
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2023年04月24日

谷川浩司『藤井聡太はどこまで強くなるのか』


副題は「名人への道」。

最年少名人(21歳2か月)の記録を持つ著者が、現在第81期名人戦に挑戦している藤井聡太について論じた本。名人戦の長い歴史や打倒藤井の戦略など、多くの角度から藤井六冠の強さに迫っている。

羽生さんと同世代の強豪棋士たちを指す「羽生世代」という呼称が定着しているのに対して、「豊島世代」という言葉はあまり聞かない。というのも、彼らの時代が来る前に、あまりにも強い藤井さんが彗星のごとく現れ、タイトルを次々と獲得していったからである。
藤井さんはAIを利用して強く成ったと思っている人がまだ多いが、決してそうではない。彼は自分の力で考え抜いて強くなった。そしてトップ棋士相手にじっくり集中して考えることのできるタイトル戦を重ねることで、より強くなっている。

本書で一番印象に残ったのは、著者が自らの時代を築けなかったと悔やんでいる点である。

私以前の三人(木村義雄、大山康晴、中原誠)と羽生さんは、いずれも一時代を築いた大名人である。しかし、私は永世名人資格の五期ギリギリで、自らの時代を長く築くことができなかった。
木村先生、大山先生、中原先生までは、名人は世襲制ではないにしても、「引き継がれていくものだ」という意識があったと思う。ただ残念ながら、その後はなかなかそういう形にはならなかった。(…)私自身の力不足があったことは否めない。

言うまでもなく著者も一流のトップ棋士なのだが、超一流にはなれなかったという思いがあるのだろう。これは謙遜でも何でもなくて、それだけプロの勝負の世界は厳しいということだ。

同様のことを、渡辺明名人もマンガ『将棋の渡辺くん』の中で言っていた。
「将棋界には大山・中原・羽生っていう大名人の系譜があって」「藤井くんもおそらく それ」「俺はそこには入らないんだよ」
https://www.youtube.com/watch?v=n61uMNWpWNU

つまり、大山―中原―(谷川)―羽生―(渡辺)―藤井という図式になるのだろう。超一流の棋士の華々しい活躍の裏には、その引き立て役に回らざるを得なかった多くの棋士たちの無念があるのだ。

2023年1月18日、講談社+α新書、900円。

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2023年04月09日

山川徹『カルピスをつくった男 三島海雲』


2018年に小学館から刊行された単行本の文庫化。

「カルピス」の生みの親である三島海雲の評伝。浄土真宗の寺に生まれて僧侶となり、その後、中国大陸に渡って様々な事業に取り組む中で内蒙古で乳製品と出会い、1919(大正8)年に「カルピス」を発売する。

多くの資料と関係者への聞き取りによって、三島の異色の経歴や実業家としての経営哲学が明らかになっていく。それは、明治から昭和にかけての日本の近代国家としての歩みとも深く関わっている。

カルピスの発売は一九一九年七月七日―七夕の日だった。(…)七夕にちなんで、青地に白の水玉という天の川をイメージした図案が、戦後に白地に青といういまも使われているデザインに変わったのである。
一九四五年、日本の敗戦を機に内モンゴルはモンゴル国との統一を目指すが失敗に終わり、その後中華人民共和国に取り込まれてしまう。内モンゴルはモンゴル民族の自治権を与えられた自治区となり、現在にいたっている。
カルピスの船出から八八年後の二〇〇七年のカルピス社の調査で、日本人の九九・七%がカルピスを飲んだ経験を持つという結果が出た。国民飲料と呼ばれるゆえんである。

99.7%とは何とも驚異的な数字だ。こんなに親しまれている飲み物は他にないだろう。

三島は若い頃から多くの人物と関わりを持った。杉村楚人冠(新聞記者)、大谷光瑞(浄土真宗本願寺派第22世法主)、桑原隲蔵(東洋史学者)、大隈重信(政治家)、土倉龍治郎(実業家)、与謝野寛・晶子(歌人)など、多くの人物が登場する。

晶子の詠んだカルピスの歌が新聞広告に使われた話は、松村由利子『ジャーナリスト与謝野晶子』にも詳しく載っている。

カルピスは奇(く)しき力を人に置く
   新らしき世の健康のため
カルピスを友は作りぬ蓬萊(ほうらい)の
   薬といふもこれに如(し)かじな

それから100年。今もカルピスは多くの歌人に詠まれている。

「カルピスが薄い」といつも汗拭きつつ父が怒りし山荘の夏
        栗木京子『夏のうしろ』
結果より過程が大事 「カルピス」と「冷めてしまったホットカルピス」
        枡野浩一『てのりくじら』
こぼされてこんなかなしいカルピスの千年なんて見たことがない
        平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

久しぶりにカルピスが飲んでみたくなってきた。

2022年1月12日、小学館文庫、780円。

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2023年04月04日

森見登美彦『四畳半神話大系』


先日見た映画「四畳半タイムマシンブルース」が良かったので、長らく積ん読状態になっていたこの本を読んだ。森見作品を読むのは久しぶりのこと。

四畳半のアパートに住む大学3回生の「私」が主人公。彼が入学時に興味を惹かれた4つのサークルそれぞれに入った場合の4編のパラレルワールドの話で構成されている。

舞台が京都なので地理をイメージしやすく、すっと物語の世界に入り込める。やっぱり面白いな。

2005年1月5日第1刷、2007年7月19日第6刷。
太田出版、1680円。

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2023年04月01日

坪内稔典『カバに会う』


副題は「日本全国河馬めぐり」。

「俳句研究」2005年1月号〜2007年9月号に連載された「全国カバ図鑑」に書き下ろし数篇を加えてまとめた一冊。

還暦の記念に日本中のカバに会いにいく決心をした著者は、4年あまりの歳月をかけて北海道から沖縄まで全国29か所にいる約60頭のカバのすべてを見て回った。まずは、その熱意に驚かされる。

と言っても、旅も文章ものんびりしたものである。

これという目的があるわけではない。いや、目的を設けないことにした。俳句などは詠まないのである。そのかわり、せっかく訪ねるのだから一時間はカバの前にいよう、と決めた。

カバは水の中に沈んだりして動かないことが多いので、1時間見ているというのはなかなか大変だったようだ。カバの様子だけでなくいろいろな話が出てくる。

小学生のころ、父に連れられて地極めぐりをした。当時、私の村(現在の愛媛県伊方町)からは別府へゆく定期船が出ていた。(…)病院とか大きな買い物は別府へ行くのが私の村の習いであった。陸路よりも海路が便利な時代であり、別府はもっとも近い都会であった。(大分・別府 山地獄)
太平洋戦争末期の昭和十八年八月から九月にかけて、上野動物園の動物たちは戦時処分を受けた。ライオン、ゾウ、クマなどの猛獣が殺されたのだが、カバは処分を免れた。(…)だが、動物園の食糧事情が悪化し、昭和二十年四月一日に大太郎(十九歳)が、四月二十四日に京子(二十八歳)がカバ舎のすみで死去した。餓死だったらしい。(東京都恩賜上野動物園)

俳句もいくつか載っている。

横ずわりして水中の秋の河馬
桜散るあなたも河馬になりなさい
全国の河馬が口あけ桜咲く

いいなあ。カバ。
動物園に行きたくなってきた。

2008年11月13日第1刷、2009年7月6日第3刷。
岩波書店、1600円。

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2023年03月26日

佐々木央『ルポ動物園』


2008年から共同通信で「生きもの大好き」の連載を750回にわたって続けている著者が、動物園や水族館について記した本。全国各地を訪れて飼育担当者の話を聞き、歴史や現状、今後の課題について考察している。

アニマルウェルフェア(動物の福祉)、アニマルライツ(動物の権利)、環境エンリッチメント、生息環境展示、野生動物保護など、近年さまざまな観点から動物園の問題が指摘されるようになっている。

たとえば、ゾウは群れで暮らす動物だから、単独のオスメスのペアだけで飼うことは許されない。いま一頭か二頭だけで飼育している動物園は、それらの個体が死んだらゾウの飼育を諦めるか、現状よりはるかに広い土地と屋内施設を用意しなくてはならない。

動物園はこれからどのような道を進むべきなのか。人間と動物はどのような関係を結ぶことができるのか。いつかまた動物園に行って、ゆっくりと考えてみたい。

2022年11月10日、ちくま新書、940円。

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2023年03月22日

『ことば事始め』(その2)

今年に入って、池内紀が高校時代に短歌をやっていたことを知った。『ことば事始め』にも、その話が出てくる。高校の司書が歌人であったらしい。

あとで知ったのだが、その人は当地で歌人として知られた人だった。短歌雑誌を主宰している。戦争で夫を亡くして、高校の司書になった。

最初に読んだのは、石川啄木の歌集である。

とはいえ高校生には、歌人には何の関心もなかった。ただ啄木が気に入った。暗記するほど読んだ。チンプンカンプンの数学の時間は、啄木短歌を思い出していた。

そして「読むだけでなくつくってみたら」と司書にすすめられて、短歌を詠み始める。

一年あまりして短歌の腕はかなり上がっていたのだろう。短歌雑誌にチラホラ掲載されるようになった。同人誌から誘いを受けた。

けれども、その後、大学入試が迫ってきたこともあり池内は短歌から離れる。「気がつくと歌稿ノートは満パイだったが、つくる気持ちはうすれていた」というのが大きな理由だったようだ。

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