昨年12月に亡くなった作者が、学生時代の1976年に書いて第13回文藝賞を受賞したデビュー作。
北海道出身で東京に暮らす20歳の主人公が、盛岡、渋民、函館、札幌、小樽、釧路と啄木の足跡をたどって故郷へ向かう物語。旅をしながら彼は、過去の出来事を振り返り、啄木について考え、自らの人生について思いをめぐらす。
啄木の短歌は、その簡素なことばの流れによって、深い想いをこめた風景の表情を甦らせてくれるのだった。それは彼の短歌が、固有の風景を歌っているのではなく、その中で異質の体験が触れ合う一つのひろがりとして、誰にも開かれている匿名の風景を歌っているためであるように、私には思われた。
北海道の標準語は、人工的に造られた中性語ではない。その言葉の重さは雪国特有の重さであり、同時に、アイヌ民族の叫びと流民の呟きと囚人の嘆きとが、濃霧に鳴り渡る鐘の響きのように重たげな調子となってこめられているからに他ならない。
歌はただ形式だけを持っており、内容はその形式に融け込むことによってのみ存在を許されていると言ってよいだろう。厳密に言って、それは内容ではない。歌は瞬間の白刃に截り取られたこころの形であり、一語一語にあらわれる心の動きは、ただ、かたちを析出するためにだけ三十一文字を流れていく。
もしかすると啄木は、いつもデエモンを凝視めながら生きていたのかもしれない。私たちは啄木という媒体を通して、その見えない貌を見、語られない言葉を聞いているのだろう。(…)彼はデエモンを祓うために歌うのであり、その容貌を見せるためにではなく、むしろ見せないために歌う。
ひたすら重たくて暗い小説である。そこがいい。
内容は全く違うけれど、同じく青春小説である柴田翔『されどわれらが日々―』を思い出した。
2022年9月20日、河出文庫、990円。