2024年09月10日

小田桐夕歌集『ドッグイヤー』


「塔」所属の作者の第1歌集。

輪郭のぱりりとかるい鯛焼きに口をあてつつ熱を食(は)みゆく
沸点がたぶんことなるひととゐる紅さるすべり白さるすべり
駅と駅をつなぐ通路の側面のひとつにて買ふ志津屋あんぱん
アイスからホットにかへて珈琲のカップを朝の両手につつむ
串刺しにまはりつづける馬たちのつやの瞳に映るひとびと
借りるね、といひあふ距離を家と呼びひるすぎの窓わづかに開ける
真冬にはしろく固まるはちみつの、やさしさはなぜあとからわかる
猪とナイロンともに植ゑられて手にかろやかな楕円のブラシ
このあたり霧が深くて。窓の外(と)の白さを見つつ看護師がいふ
あつまればこゑの厚みは増すらしく雀の群れのかたちが分かる

1首目、バリの食感とあんこの熱さ。「熱を食み」が巧みな表現だ。
2首目、自分の沸点だけでなく相手の沸点を知っておくことも大切。
3首目、地下のの通路の側面に埋め込まれたように店が並んでいる。
4首目、季節の変化の描き方が鮮やか。手のひらに温もりを感じる。
5首目、回転木馬を串刺しと捉えると、途端に残酷な世界に見える。
6首目、一緒に暮らす、家族になるとはこういうことかもしれない。
7首目、上句と下句の取り合わせがいい。時間が経って変わるもの。
8首目、上句から下句への展開がおもしろい。猪の毛の話であった。
9首目、映画のワンシーンのような美しさ。日常とは異なる世界だ。
10首目、鳴き声を聴いていると雀らの数や位置が目に浮かぶのだ。

2024年5月27日、六花書林、2500円。

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2024年09月07日

堀静香歌集『みじかい曲』


「かばん」所属の作者の第1歌集。

夜道ならぐんぐん進む自転車よハイツやハイムがいっとう好きだ
行かなかった祭りのあとの静けさの金木犀のつぼみの震え
ふた粒ならべるコアラのマーチふたつとも少しかなしい顔をしている
笑いながら見せ合っていた歯や歯ぐき一房のえのきをほぐしつつ
ゆうへい、と唇を湿らせてみる ひとの名前と思えばやさしい
きれぎれのこうふくだろうあなたからレーズンパンを受け取る夕べ
トンネルのすべてに名前があることの どこにもいないぼくらの子ども
考えるときに眉毛を抜く癖ははじめはどちらかのものだった
風のない午後にふたりで出かければ気まぐれに手をつないだりする
風邪の名残りのあなたはちょっと遅れて笑う乾いた米粒をひからせて

1首目、音の響きが楽しい。やや古風な「いっとう」が効いている。
2首目、「行かなかった」に滲む寂しさと秋の季節感がうまく合う。
3首目、かなしく見えてしまう心境なのだろう。「ふた粒」がいい。
4首目、「歯や歯ぐき」と「えのき」のイメージがよく重なり合う。
5首目、音だけ聞くと雄平などの名前にも思えるし幽閉にも思える。
6首目、「こうふく」も幸福であると同時に降伏でもあるのだろう。
7首目、上句から下句への展開が印象的だ。産道に似ているのかも。
8首目、今では二人とも同じ癖があってどちらが先だったかは不明。
9首目、ごくごく自然な幸福感が出ていてシンプルだが気持ちいい。
10首目、韻律的にも少し遅れる感じ。米粒は顔に付いているのか。

2024年6月17日、左右社、1800円。

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2024年09月04日

吉川宏志歌集『叡電のほとり』


副題は「短歌日記2023」。

ふらんす堂の短歌日記シリーズの14冊目で、2023年1月1日から12月31日までの365首を収めた第10歌集。

新年のなかに二つの「ん」の音の朝の陽のさす道を踏みゆく
まだ会いしことはなけれど娘(こ)の彼が看病に来ていると聞くのみ
雨のあと登りきたりし寺庭に泥跳ねをつけカタクリが咲く
夜のうちに十センチほど積もりたる偽のメールをつぎつぎに消す
菜の花の収穫をする人ありて軍手のなかの刃物は見えず
梅雨のあめ夜半(よわ)にやみたりチッチッと時計の針の音よみがえる
戦時下もコンビニは開いているだろう氷のすきまに珈琲そそぐ
比叡より落ちくる水のひとつにて梅谷川の暗きを渡る
背表紙を金(きん)に照らせる秋の陽のたちまち消えてうすやみの部屋
青く輝(て)る海に差し出す牲(にえ)のごと灯台は岩のうえに立ちたり

1首目、小さな発見がいい。『青蟬』の「冬」の字の歌を思い出す。
2首目、これだけで離れて暮らす娘が風邪など引いた状況とわかる。
3首目「泥跳ねをつけ」という細かな観察がいい。解像度が上がる。
4首目、雪の話かなと思って読み進めると下句で意外な展開が待つ。
5首目、菜の花と刃物のイメージの対比が「見えず」により際立つ。
6首目、時計の音はずっと変らないのだが静かでないと聞こえない。
7首目「氷のすきま」という表現の工夫が上句の想像を支えている。
8首目、雰囲気と味わいのある歌。「梅谷川」の名前が効いている。
9首目、日暮れの短い時間だけ、窓から射す光が本棚まで届くのだ。
10首目、灯台を「牲」と見たのが印象的。自然の美しさと厳しさ。

短歌に添えられた短文では、うさぎとぬいぐるみの話が2回出てくるのが印象に残った。4月5日と10月11日。「新年」の歌と同じで、人間は一つだと気にならないが二つだと気になるのだろう。

このウサギも先日亡くなったと聞いた。

2024年7月29日、ふらんす堂、2200円。

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2024年09月03日

小島ゆかり歌集『はるかなる虹』


2020年末から2024年初めまでの作品468首を収めた第16歌集。

似た顔の全員ちがふ顔が来て飲み食ひをする正月の家
陽のなかを吹く風すこし老犬はながき舌しまひわすれて眠る
三つ目の角に見えつつ歩いても歩いても遠いサルビアの花
深秋の街より帰り姉さんと呼びたき大き柿ひとつ食む
滅びゆく途中のからだ春の日は痛む右手に蝶がまつはる
猛暑日の刃物重たく腫れ物のやうな完熟トマトを切りぬ
ねむりつつかぜに吹かるるあしうらの地図の山河の谿深くなる
手術後の母はさびしい鳥の貌 車椅子ごと母を受け取る
フランスパンをレタスざくつとはみだしてはみだすものが光る三月
近づくとき遠ざかるときこの町のどのバス停にも母が佇む

1首目、血縁関係のある者同士、それぞれ似ていて違うのが面白い。
2首目、舌が出ている姿を「しまひわすれて」と描いたのが印象的。
3首目、赤色がよく目立つ花。遠近感が狂うような夏の暑さを思う。
4首目、「姉さん」がユニーク。どっしりとした頼もしさを感じる。
5首目、私たちの身体はいつでも「滅びゆく途中のからだ」なのだ。
6首目、夏の気怠い感じがよく出ている。刃物と腫れ物が響き合う。
7首目、足裏の凹凸が意識されるのだろう。山河に喩えたのがいい。
8首目、既に車椅子が母の一部になっている。「受け取る」も哀切。
9首目、早春の季節感。内側に縮こまっていたものが広がり始める。
10首目、バスに乗っている間も気が付けば母の姿を探してしまう。

2024年7月7日、短歌研究社、3000円。

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2024年08月29日

早川晃央歌集『こいつら』


「コスモス」「COCOON」所属の作者の第1歌集。

デパートの屋上になお一プレイ三十円のゲーム作動す
平日の昼間の安売りスーパーに男性客は意外と多い
ローソンとナチュラルローソン向かい合い利益を競う新宿の夜
メシを食うときも辺りを気にかけるカラスのような生き方は嫌だ
飛行機の翼が塵で黒くなり空はきれいでないことを知る
見上げれば綿菓子であり見下ろせば流氷らしく雲は見えたり
松屋では機械が飯を入れておりしゃもじは飯を整えている
銭湯の男子トイレのウォシュレット無数の男の尻を洗えり
食べられるために食べさせられているフィードロットの牛の静けさ
立ち食いの蕎麦すする人を後ろから見ればお辞儀をしているようだ

1首目、かなりレトロな雰囲気の屋上遊園地。「三十円」がいい。
2首目、平日の昼間=仕事というのも一つの固定観念でしかない。
3首目、微妙に客層が違う。客単価や利益率の比較など面白そう。
4首目、他者や世間に怯えずに、安心して生きていきたいものだ。
5首目、発見の歌。澄んだ青空に見えても大気中には汚れがある。
6首目「綿菓子」はよく聞くが、「流氷」は個性的な見方だろう。
7首目、ご飯をよそうはずの「しゃもじ」が整え役になっている。
8首目、どのトイレでも同じことなのだが「銭湯」だと生々しい。
9首目、もうすぐ殺されるとは知らず肥育場で餌を食べている牛。
10首目、蕎麦を啜るたびに上下する頭に会社員の悲哀を見るか。

2024年7月11日、六花書林、2300円。

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2024年08月23日

井口可奈歌集『わるく思わないで』

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第11回現代短歌社賞を受賞した作者の第1歌集。

わたしたち、って主語をおおきくつかってることわかってて梔子の花
なんでこんなに暑いんだっけドトールの気をゆるしたらやられる感じ
そばかすをコンシーラーで隠さずにドリンクバーでたまに触って
ぶかぶかのTシャツを着るひとのではなくじぶんので過去はたまねぎ
テーブルががたついていてレシートをたくさん挟んできたまま帰る
それからは専門学校生としてひとのからだを曲げて暮らした
車から降りてくるひとおおすぎて、乗りなおすことができなさそうだ
夕暮れに鳩とんできて空欄に自由記述をながく書いてる
ゆっくりと値札を剥がす家族には言えないことを思い浮かべて
イベントの後のけだるさたこ焼きのために切られたぶつぎりの蛸

1首目、若干の後ろめたさを感じながら話す。結句の収め方がいい。
2首目、くらくらするような暑さ。下句の軽快な言い回しが楽しい。
3首目、隠さないことで前向きに捉えることができ、愛着も覚える。
4首目、伸び切ったのか、体形が変化したのか。結句がおもしろい。
5首目、一度挟んだら帰る時にわざわざ取り外したりしないものだ。
6首目、整体師や理学療法士になる学校か。散文のような文体の妙。
7首目、バスなどでも相当たくさんの人が一台に乗っていたりする。
8首目「はい・いいえ」や番号ではとても答えられない思いがある。
9首目、上下の取り合わせに実感がある。わずか数秒の話だけれど。
10首目、たこ焼きになれなかった蛸はこの後どうなるのだろうか。

2024年4月29日、現代短歌社、2500円。

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2024年08月19日

内藤明歌集『三年有半』

著者 : 内藤明
砂子屋書房
発売日 : 2024-02-27

2019年から2023年までの約3年半の作品494首を収めた第7歌集。

入間川(いるまがは)高麗川(こまがは)毛呂川(もろがは)越辺川(をつぺがは)越えて逢ひたり都幾川(ときがは)の辺に
親四人送りおほせて卓上に桃と蜻蛉(あきつ)の猪口を置きたり
感染(うつ)るのは怖くはないが伝染(うつ)すのを恐れて今日も人に逢はざる
右へ切る形のままに三輪車路上にありてだあれもゐない
無防備に四肢投げ出して畳には猫のひらきが時々動く
底知れぬキャピタリズムの渦潮に朱塗りの椀はくるくる廻る
zoom会議の〈退出〉に触れもどりゆく冬の小部屋に西日が射せり
行きがけに投函せんとポケットに入れた葉書が食卓に在り
雨音の濃くまた淡く息づくを聴いてゐるなり人のかたへに
磨かれて板目艶めくカウンター仕切られてありアクリル板に

1首目、埼玉県西部。五本の川の名前が歴史や風土をを感じさせる。
2首目、夫婦で晩酌している場面と読んだ。しみじみとした味わい。
3首目「感染(うつ)る」と「伝染(うつ)す」の使い分けに納得。
4首目、上句の描写に三輪車から降りる子どもの姿が浮かび上がる。
5首目、アジのひらきではなく「猫のひらき」。警戒心ゼロである。
6首目、一寸法師の椀をイメージしたがjapan(漆器)の意味かも。
7首目、画面の中の世界から現実の部屋に戻ってきた感覚が鮮やか。
8首目、入れたはずが入れてなかったし、すっかり忘れていたのだ。
9首目、相聞歌。雨音と人の気配や息遣いが入り混じるような感覚。
10首目、立派な分厚い木の板に対して何とも安っぽいアクリル板。

2024年3月13日、砂子屋書房、3000円。

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2024年08月13日

花山多佳子歌集『三本のやまぼふし』

 hanayama.jpg

それぞれにかくも異なる犬つれて人びとあるく夜明けの道を
年とりて気がつきやすくこのごろは手袋おとせばかならず拾ふ
電線をコイルのやうに巻く蔓は夢みるごとし根つこ断たれて
一メートルほど上空にひらひらと凧連れて児はむやみに走る
大声で「カメ」と言ふ子は亀ゐるを告ぐるにあらず亀を呼ぶなり
低気圧近づきたれば頭(づ)のなかをうしろへうしろへ魚が泳ぐ
冬の陽はただあたたかくテーブルの胡桃の影に凹凸のなし
えんぺらを抜き墨袋ぬき軟骨をぬきてなめらかな空洞とせり
数日を置きても固きアボカドのクレヨンのやうな食感をはむ
伝染病はいつしか感染症となり自己責任の気配濃くなる

2015年から2020年までの作品494首を収めた第12歌集。
読み終えると付箋だらけになってしまう面白さ。

1首目、一口に犬と言ってもチワワも柴犬もシベリアンハスキーも。
2首目、以前はよく紛失したのだろう。話の展開にユーモアがある。
3首目、結句で光景がはっきりする。もう生きてはいない蔓なのだ。
4首目「連れて」という動詞が絶妙。高々と空に上がることはない。
5首目、大人と違って亀に向かって「カメ」と呼び掛けているのだ。
6首目、気圧の変化の影響を独特な身体感覚で表現していて面白い。
7首目、発見の歌。実物の胡桃には細かな凹凸があるが影にはない。
8首目、イカを調理する時の様子。「なめらかな空洞」が印象的だ。
9首目、下句の比喩がいい。食感とともに色合いもクレヨンっぽい。
10首目「うつす」と「うつる」、どちらに重点を置くのかが違う。

2024年7月11日、砂子屋書房、3000円。

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2024年08月11日

浦河奈々歌集『硝子のあひる』


「かりん」所属の作者の第3歌集。

スワロフスキーの硝子のあひる口あけてなにか訴ふ飾り棚の中
「ゆるされない」と誰かいひけり喪服なる人々のなか靴脱ぎをれば
ブルーベリー小鉢一杯摘んできて昼寝の夫の腹の上(へ)に置く
育ちゆくいのちの濃さに圧されつつ水平に差し出すお年玉
ただそこにゐることですら戦ひで椿は舐めるやうに見られる
ダックスフントは濡れた黒目の頭(づ)を捩りひとを見ながら曳かれてゆきぬ
麻雀は四人家族の遊びにて遥かな昭和の正月あはれ
こぶのやうに夫のとなりにゐるわれは夫に出さるる茶を享けて置く
車椅子押し始めればわれの胃のあたり漂ふ父のあたまは
隣室に吊せるみちのく風鈴がしづかに鳴る日、岸にゐるわれ

1首目、巻頭歌でタイトルとなった一首。作者自身の姿でもあろう。
2首目、強い口調に思わず手が止まる。濃密な人間関係の表れる場。
3首目、ユーモラスだが少しくらい手伝ってくれてもと思うのかも。
4首目、子を持たない作者の複雑な思いが滲む。「水平に」がいい。
5首目、上句が印象的な言い回しだ。椿は女性の喩でもあるだろう。
6首目、まだ行きたくないのに無理やり連れていかれる犬の哀しさ。
7首目、四人が標準家庭と言われていた頃にぴったりの遊びだった。
8首目、添えもののような存在にされていることへの鬱屈した心情。
9首目、「胃のあたり漂ふ」がいい。父への労わりと寂しさが深い。
10首目、風鈴の音を聞きながら、川岸あるいは此岸を感じている。

2024年6月12日、短歌研究社、2200円。

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2024年07月30日

天野匠歌集『逃走の猿』

2003年から2016年の作品308首を収めた第1歌集。

駅前に聳える高級マンションといえど見た目は板チョコに似る
ラタトゥイユ平らげしのち思いおり閉経のまえに死にたる母か
あやまてばたちまち死者の出る仕事リフトに吊りて人を移しぬ
呑みながら話題の輪からそれてゆくさびしさもちて海ぶどう食む
東京の迷路浮き彫りとなるまでを成人の日の雪ふりやまず
独り居の父に金庫の開けかたを教わるゆうべこれで三度目
全盲の老女に降っているのかと問われて気づく硝子の雪に
アナウンスのこえ三重にかさなれる新宿駅に快速を待つ
この世へと押し出してやる枝豆のつややかな照り食えば楽しも
哄笑の起こらぬ施設 談笑はところどころに咲きて立冬

1首目、「高級マンション」と「板チョコ」の何とも驚くべき落差。
2首目、若くして亡くなった母。上句のシーンからの展開が鮮やか。
3首目、入浴介助の場面だろう。モノではなく人の命を預かる仕事。
4首目、「海ぶどう」のぷちぷちした歯触りに寂しさを噛み締める。
5首目、道路の部分だけ黒く残る。迷いの多い人生の象徴のように。
6首目、もしもの時に備えてなのだが、「三度目」が何とも哀しい。
7首目、窓の外に降る雪の気配を老女は敏感に感じ取ったのだろう。
8首目、「三重」はあまりない。多くの列車が発着する駅ならでは。
9首目、莢の中の暗闇にある時はまだ「この世」ではなかったのだ。
10首目、老人介護施設の様子。ゆっくりと穏やかな時間が過ぎる。

2016年5月20日、本阿弥書店、2700円。

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2024年07月24日

椛沢知世歌集『あおむけの踊り場であおむけ』


第4回笹井宏之賞大賞を受賞した「塔」所属の作者の第1歌集。

水着から砂がこぼれる昨年の砂がこぼれて手首をつたう
冬の肘のかさつきに似た陽を浴びて広場の鳩にパンくずをやる
手のひらを水面に重ね吸い付いてくる水 つかめばすり抜ける水
うたたねの妹の口があいている飴を食べるか聞くとうなずく
おかえりと犬のしっぽがふくらます春の風船はちきれそうな
わるぐちとぐちの違いがわからない 鳩の身体に追いつく頭
夜の川に映る集合住宅は洗いたての髪の毛のよう
見つめれば犬の瞳におさまって手のひらから肘舐められていく
そういえば定食屋さんもうないねと言われるまではたしかにあった
めがさめてしめった布団から部屋がはなれていくゆっくりとだんだん
起き上がるまでのアラーム一つずつ消して朝から降る天気雨
人差し指握って離す 握られてできたみたいなゆびのいでたち
思いっきりぶつけた脛の残像が新宿の夜のクレープ屋さん

1首目、結句がいい。一年前の夏の記憶が体感とともに甦るようだ。
2首目、比喩が面白い。「かさつき」と「パンくず」の質感も似る。
3首目、同じ水であるのに粘り気を感じたりさらさらしてたりする。
4首目、妹の歌はどれも妙に存在感がある。日常のだらっとした姿。
5首目、喜んでいる犬の気持ちが「春の風船」により可視化された。
6首目、頻りに前後に動く鳩の頭は体に追い付こうとしていたのか。
7首目、かなり距離のある比喩だが、不思議と納得させる力がある。
8首目、犬の黒目に自分の全身が映っている。犬と私の距離の近さ。
9首目、以前から無くなっていたのだが認識としては今消えた感じ。
10首目、布団=部屋の睡眠の状態から次第に空間が生まれてくる。
11首目、時間差で3個以上の目覚ましが鳴る。全体の流れがいい。
12首目、まるで粘土を手のひらで摑んで生まれたような形である。
13首目、二つの出来事が記憶の中で強く結び付いているのだろう。

2024年7月6日、書肆侃侃房、1800円。

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2024年07月10日

黒木三千代歌集『クウェート』

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第2歌集。ニューウェイブ女性歌集叢書5。

咬むための耳としてあるやはらかきクウェートにしてひしと咬みにき
  91・1・17
ペルシャ湾から「サダームヘ愛をこめて」まことに愛は迅くみなぎる
西側の二枚の舌がしんしんと嬲(なぶ)りしパレスチナにあらぬか
想ひ出といふやはらかな実りには敷藁が要(い)る、ぬくき敷藁
なにものと知れぬ獣に飾らるる壺ありてこの国のこんとん
この家のまはり坂ばかり 大いなる中華鍋の底ゆ日に一度出る
男でも女でもなく人間と言へといふとも桶と樽はちがふ
花鳥図に百年咲きて芍薬のひかりやうやう褪せゆくらしも 奈良県立美術館
すべての葉動かぬ桃の木はありつ 鈍牛(どんぎう)のやうな夏を感じる
戦利品・商品として女ある 野葡萄をこそ提げてゆくべきに
〈雌伏〉といひ〈雄飛〉といふを 〈奸婦〉といひ〈悍婦〉といふを 寂しみて繰る
赤松も蓖麻(ひま)もこぞりて戦争をせし日本を思ひつつゐる

1首目、湾岸戦争の歌。戦争と性愛を重ね合わせた表現が印象的だ。
2首目、艦艇から発射された巡航ミサイルに記された落書きだろう。
3首目、イギリスの二枚舌外交に始まる歴史。「嬲」の字が強烈だ。
4首目、思い出は単なる記憶とは違い、熟成されて育ってゆくもの。
5首目、混沌(カオス)でもあり渾沌(中国神話の動物)でもある。
6首目、「中華鍋」の比喩が面白い。地形的に窪地に家があるのだ。
7首目、性別は関係ないと思いつつも、現実には身体の違いがある。
8首目、絵の中の芍薬が100年生き続けているように詠まれている。
9首目、日差しが強く風も吹かない暑い昼。「鈍牛」の比喩がいい。
10首目、女性の扱いに対する異議申立て。下句に強い矜持を示す。
11首目、言葉のジェンダー格差。後半は女性だけに使われる言葉。
12首目、戦争末期には松根油やひまし油まで何もかもが使われた。

高野公彦の解説「比喩と諧謔」の最後の部分が目を引く。

歌のスタイルとか韻律の面で岡井隆の影響が見られる。影響といふより、意欲的な接近であるかもしれない。第三歌集では〈岡井ふう〉が払拭されてゐることを希ふ。

かなり率直な書き方だ。こうした批判的な文言は、最近の歌集ではほとんど見かけなくなったように思う。

1994年3月1日、本阿弥書店、2500円。

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2024年07月03日

川村有史歌集『ブンバップ』

著者 : 川村有史
書肆侃侃房
発売日 : 2024-04-02

第1歌集。
タイトルの「ブンバップ」はヒップホップの用語らしい。

オリックス楽天アコム武富士母は貧乏なので歌を聴いてる
ヘッドスピンずっと回ってヘッドスピン止まらないことが美しい夜
父親がコンビニエンスストアから持って帰ってくる生パスタ
傘を差す人が歩道に立っていて陽が射したので日傘の人に
とびだすなキケンぼうやが飛び出ていて猛暑日続けばいいと思った
僕にでもわかる星座が描いてあるあれはたしかカシオペヤ 確か
ぼくの横を速い二輪が抜けてって前のセダンがパトカーになる
友達のジュニアが話しかけてくる親とは違うサイズで僕に
行進はたぶんそれなりにできる子どもの僕がやったのだから
はたらいてシャワーを浴びる日々あるある 緑地公園にふえる紫陽花

1首目、語順がいい。最初は野球の話かと思ったら消費者金融の話。
2首目、このままずっと夜が続いてここが世界の中心であるような。
3首目、「持って帰って」とあるので買ったのではない感じがする。
4首目、モノは変わらないのに「傘」から「日傘」に認識が変わる。
5首目、飛び出し坊や自身が飛び出していることに対するツッコミ。
6首目、「わかる」と言ってから自信がなくなっていくのが面白い。
7首目、スピード違反のバイクを見つけて追い掛ける覆面パトカー。
8首目、大きさは違うけれど顔かたちは似ていて相似形なのだろう。
9首目、小学生の頃にやって以来大人になると行進する機会がない。
10首目、仕事と睡眠を繰り返す日々に気が付けば紫陽花が満開だ。

ラップのような韻の踏み方や音の響かせ方が歌集の大きな特徴となっている。例えば、連作「退屈とバイブス」は「退屈」と「バイブス」がどちらも AIUU で響き合う。

〈怪物をだいぶ疲れた面持ちの男の人が追い出す映画〉の「怪物」「だいぶ(つ)」も同じ原理で、音の響きが言葉を呼び込んでいるのだろう。

〈ビルボードチャートをちゃんと追っている友達とポテトLを終える〉の「チャート」と「ちゃんと」、「トL(エル)」と「終える」なども、内容と言うよりは音が優先されている。

2024年4月9日、書肆侃侃房、1800円。

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2024年06月21日

金田光世歌集『遠浅の空』


「塔」所属の作者の第1歌集。

遠浅の海は広がる生徒らがSと発音する教室に
草原に干されたままの両膝が風化してゆく前に帰らう
船上のやうに明かりの揺れてゐるタイ料理屋にエビの皮を剝く
黒猫のあゆみはしづかぬおぬおと浮き沈みする両肩の骨
日曜が等間隔に訪れて忘れたくないことが消えてゆく
泣く代はりに武田百合子の文章を読めば土曜も終はりに近い
八月の夕暮れ時は室外機のやうに心を放つておきたい
納豆の糸の切れつつひかり帯びて微笑みたるか半跏思惟像
エコバッグ背負へば軽し背負はれて物見遊山の牛蒡、長葱
明るさは極まりながら蜂蜜のなかに季節は静止してゐる

1首目、S音の響きが波の引いていく音を思わせて幻の海が見える。
2首目、長いことじっと座っていたのだろう。「風化」が印象的だ。
3首目、吊り下げられたイルミネーション。別世界の雰囲気がある。
4首目、猫の身体や動きををよく捉えている。「ぬおぬお」がいい。
5首目、「等間隔」に発見がある。いつの間にか遠ざかってしまう。
6首目、悲しい時の対処法。武田百合子を読むと心が落ち着くのだ。
7首目、比喩がおもしろい。人間の心は体の外には出せないけれど。
8首目、上句から下句への飛躍が鮮やか。頬へと伸びる指先の感じ。
9首目、おんぶされた子どものようにエコバッグから先が出ている。
10首目、蜂蜜の明るさは花が咲いていた季節の明るさだったのか。

2024年4月29日、青磁社、2500円。

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2024年06月17日

阿木津英『短歌講座キャラバン』


著者が1988年から2008年まで、20年間にわたってカルチャーセンターで作っていた冊子「旅隊(キャラバン)」の後記71篇と、受講生の歌集の跋文5篇を収めている。

後記はどれも1〜4ページ程度の短い文章だが、著者の主張や短歌観が明確に記されていて印象深い。誰が相手でも手加減せずに本気で取り組んでいたことがよくわかる。

自分の既知の世界を、ことばという記号によって連想して「これはよく分かります」などと言って共感するのが歌ではない。それは要するに自分の体験を反芻しているのにすぎない。
自分の作品の弁解をしない。これは、歌会をするときのもっとも基本的な態度であって、くどくどと自分の歌の弁解を始める人に「弁解はいらない」という叱責の声が飛ぶのを、わたしは若い頃しばしば聞いた。
推敲ということは、本当に難しい。自分の歌ほど、わからないものはないからである。下手な推敲をするより、新しい気持ちで、新しい歌を作った方がいい場合も少なくない。しかし、まったく推敲ということを考えないのも、やはり進歩がなかろう。
賞められようとする気持を捨てて下さい。確かに賞められることはうれしい。しかし、それは自分が行っていることのオマケである。賞めことばで釣られようというのは、自分を幼児の位置に卑しめることではないか。賞められようと賞められまいと、なすべきことをなすのが一人前の大人というものだろう。
自分が自分の歌のもっとも厳しい批評者であるのが、本来のありようだ。人の目はごまかせても、自分の目はごまかせない。自分の物足りない歌を毎日ながめて、自分の何が不足なのか、ここをのりこえるにはどうすればいいのか、考えるのだ。

きっぱりとした物言いも著者の持ち味で、読んでいて気持ちがいい。以前、5年にわたってご一緒した現代短歌社賞の選考会でも常にそうであった。

2016年6月11日、現代短歌社新書、1204円。

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2024年06月12日

大辻隆弘歌集『橡と石垣』

著者 : 大辻隆弘
砂子屋書房
発売日 : 2024-04-03

2015年から2022年までの414首を収めた第10歌集。

糞(まり)を痢(ひ)る直前にかくをろをろと土をまさぐる夕べの犬は
手のひらに顔を覆へり手のひらは顔を覆ふにちやうどよき幅
川べりを歩みつつ読む歌のうへに雨粒は落ち雨となりたり
先生をするのが好きで好きでたまらない若きらを憂しとまでは言はねど
曳き舟を舫(もや)ふロープは毛羽だちて水の面(つら)すれすれに撓みぬ
「あり得たかも知れぬ人生」などはない八つ手の花がなまじろく咲く
「杉はもうそろそろ終り」と言ふこゑがマスクの底の息ゆ漏れ来ぬ
みづ浅きなかに苦しむ鯉ありて脊梁といふは常にのたうつ
うつくしき蔦の紅葉を引き剝がしけさ冷えびえとしたる石垣
それぞれに大帝の名を享け継ぎてウラジーミル・プーチン、ウォロディミル・ゼレンスキー

1首目、「まり」「ひる」という古語が印象的。犬の本能的な仕種。
2首目、もちろん顔を覆うために手があるわけではないのだけれど。
3首目、ぽつんと一滴が落ちて、それから本格的な雨になっていく。
4首目、夢や希望に溢れた若い教員に対する羨望も混じった反発心。
5首目、描写が細かく丁寧。水に浸からず「すれすれ」なのがいい。
6首目、あれこれ空想してみたところで人生は誰にでも一度きりだ。
7首目、花粉の話だろう。花粉症の人の辛そうな様子が目に浮かぶ。
8首目、鯉が背をくねらせている姿から人間の苦しみへ思いは及ぶ。
9首目、色彩を失って寒々とした石垣。もとの姿に戻っただけだが。
10首目、ロシアとウクライナの歴史には共通する部分が多くある。

2024年4月14日、砂子屋書房、3000円。

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2024年05月29日

石田比呂志『片雲の風』

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「シリーズ・私を語る」の一冊。1996年11月25日から翌年1月23日まで、熊本日日新聞の夕刊に45回にわたって連載された文章をまとめたもの。誕生から67歳に至る自らの半生を振り返っている。

石田比呂志の短歌もおもしろいが、文章も実に味わい深い。山崎方代のエッセイにちょっと似ている。時おり自虐を織り交ぜつつも、その裏に自らの信念を貫く強い自負が感じられる。

それ(啄木の『一握の砂』)を開いて読んだ時の感動をどう言い表せばよいのであろうか。言うに言葉を持たないが、あえて言えば、地獄で仏に出会ったというか、とにかく救世主に出会った気分で(…)
そこから投稿した歌が新聞歌壇に載った。たかが新聞歌壇というなかれ、自分の歌が生まれて初めて活字になった感動は本人でなければ分からない。

このあたり、私にも同じ覚えがあるので強く共感する。

以前、石田比呂志と松下竜一の関係についてブログに書いたことがあるのだが、そのあたりの事情もよくわかった。
https://matsutanka.seesaa.net/article/387138409.html

この時期私は仕事らしい仕事もせずに(いつもそうだが)昼間から焼酎に酔い喰らっていたが、その私の部屋の裏に『豆腐屋の四季』で有名になる松下竜一氏が住んでいて、後には奇縁を結ぶことになる。

石田と松下の貴重なツーショットも載っている。

最後に真面目な短歌についての話も引いておこう。

「牙」も結社だから、選歌、添削という教育的側面、歌会という指導的側面のあることは否定できない。が、それはあくまでも側面であって根本は一人一人が自得、独創してゆく世界だ。つまり芸は先達から恩恵を受けることはあっても、授受という形での継承はあり得ない。

生前にお会いできなかったのが何とも残念だ。

1997年4月21日、熊本日日新聞社、1238円。

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2024年05月23日

ファブリ歌集『リモーネ、リモーネ』


イタリア生まれで「未来」所属の作者の第1歌集。

カン・ハンナ『まだまだです』(2019)などと同じく、日本語を母語としない作者の歌集だ。

頭から食べ始めればたい焼きの笑顔が消えてさびしい昼は
数学の長い講義に比べたら静かなトイレは天国である
味気ないひとりの白いキッチンでゆでたうどんは夜中の食事
食堂のアクリル板に囲まれて僕らはまるで囚人のよう
駅前でチラシ一枚もらっても選挙権なき僕はどうする
夕やけの喫茶店まだ残ってる紅茶のカップに秋のみずうみ
リモーネはレモンレモンはリモーネで今日はすっぱいものが食べたい
雨音でぐっすり眠る人もいる頭痛がひどくなる僕もいる
ラーメンの優しい湯気が食卓を囲んで今夜は喜多方にいる
わが故郷サルデーニャ島に渡ろうとして赤べこはリュックに入る

1首目、笑顔という捉え方が面白い。顔がなくなると無惨な感じだ。
2首目、大勢の人がいる教室とトイレの個室という違いでもあろう。
3首目、素うどんに違いない。「白い」がうまくて、うどんも白い。
4首目、「囲」「囚」「人」の漢字が視覚的にも内容を伝えている。
5首目、日本に住む外国人の参政権について考えさせられる内容だ。
6首目、カップの底に残った紅茶を夕焼けに染まる湖面に見立てた。
7首目、イタリア語のレモン。呼び方を変えると別のものに感じる。
8首目、夜に降る雨の音。人によって好き嫌いが違うことに気づく。
9首目、音の響きの心地よい一首。「喜多方」がうまう効いている。
10首目、土産に買った赤べこ。青い海を渡る赤い牛が目に浮かぶ。

2023年10月18日、喜怒哀楽書房、1000円。

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2024年05月13日

渡英子歌集『しづかな街』

著者 : 渡英子
本阿弥書店
発売日 : 2024-03-01

2015年から2022年までの作品を収めた第5歌集。
旅の歌、沖縄の歌、近代短歌に関する歌が目に付く。

もうこんなに大きくなつて姪や甥は銀のやんまを追ふこともせず
階段で本読む吾にこゑをあぐ春夜トイレに起きたる夫は
水行して日本に近づく人あらむ漁船をしづかに操りながら
那覇におかず台北に置きし帝大を大王椰子の並木に仰ぐ
夕道のどこかで淋しくなつてしまふ子を抱き上げてしばらく揺らす
ひとり鍋をあをきガス火に煮る夕べ君の嫌ひな春菊刻む
腰に巻くサルーンを選ぶヒンドゥーの寺に詣でるたびびとわれは
粥炊いて土鍋の罅を糊塗すれば湯気曇りして玻璃は息づく
肉太(ししぶと)の左千夫をはさみ歩(あり)く日の千樫と茂吉は右に左に
〈大東亜〉と〈太平洋〉ではちがふと思(も)ふ三文字なれど戦争のうへ

1首目、甥や姪が小さな子どもだった頃の姿が下句から髣髴とする。
2首目、さぞかし驚いたことだろう。階段にも本が積んであるのだ。
3首目、北朝鮮の不審船。「水行」は魏志倭人伝の記述を思わせる。
4首目、台湾と朝鮮には帝国大学が存在した。沖縄との扱いの違い。
5首目、いわゆる黄昏泣き。幼児を抱いてあやす様子が目に浮かぶ。
6首目、君と一緒の時に春菊は入れられないから、ちょっと嬉しい。
7首目、自分が外国人の観光客であることを、あらためて意識する。
8首目、糊を塗るという意味で「糊塗」を使っているのが印象的だ。
9首目、アララギの盟友であった二人。その後を思うと味わい深い。
10首目、どのように名付けるかで戦争の性格や構図が違ってくる。

2024年3月1日、本阿弥書店、2800円。

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2024年05月08日

前川佐美雄『秀歌十二月』


1971年に筑摩書房から刊行された単行本を文庫化したもの。

もともと1964年に大阪読売新聞に連載した文章をまとめて、1965年に筑摩書房の「グリーンベルト」シリーズの1冊として刊行された本である。


万葉集から古今、新古今、近世和歌、近代短歌までの計154首を取り上げて、鑑賞文を記している。磐姫皇后、柿本人麿、大伯皇女、大伴家持、西行法師、式子内親王、源実朝、藤原定家、伏見院、田安宗武、橘曙覧、落合直文、正岡子規、与謝野晶子、会津八一など。

1月から12月まで時期ごとに分けて、一人につき2首のペースで鑑賞していて読みやすい。近代歌人については、著者との関わりなどのエピソードも交えている。

この歌の発表されたころだったろう。落ちぶれた茂吉の姿が新聞か雑誌に載ったことがある。(…)私は胸のつまる思いをした。たちまちそれを十五首の歌に作り「斎藤茂吉氏におくる」と題して、書き下し歌集『紅梅』に収めた。
吉井勇がある時、突然私に晶子の「白桜」はいいよと話し出したことがある。晶子の歌は初期だけだ、あとはしようがないといつもいう勇であっただけに、私は不思議な思いをしたが(…)
千亦は昭和十七年七十四歳で亡くなるまで、一生を水難救済会のためにつくした。(…)誠実、また任侠の人で多くの歌人が恩に浴した。古泉千樫、新井洸しかり、若き日の私もその一人である。

また、歌の背後にあるものを必要以上に推測し過ぎないように注意している点も印象に残った。

けれどもそれは考える必要がない。背後に考えるのはさしつかえないとしても、それを表に出していうと、歌をそこなうことになるだろう。ことばにあらわされただけを、その調べだけを感じとればよいのだ。
これは憶測で、憶測はなるたけしない方がよいが、(…)けれどもそれを口にしてはいけないのだ。ことばに出していうと歌を傷つける。感じとっておくだけでよいのである。

口にしてはいけないと自ら戒めつつ、それでも結局書いているのが面白い。そのあたりのせめぎ合いも、歌の鑑賞の見どころと言っていいだろう。

2023年5月11日、講談社学術文庫、1050円。

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2024年05月06日

丸地卓也歌集『フイルム』


「かりん」所属の作者の第1歌集。2017年から2023年までの作品を収めている。仕事や社会問題に関する歌が多い。

永遠に上りつづける階段のだまし絵のなかの勤め人たち
舗装路に大穴のあくニュースあり洞の上行くスーツのひとら
からだ中ひかる警備の男いて闇に溶けないこともかなしい
七割が再現部分の土器ありきその三割を縄文と呼ぶ
春の水からだを通って抜けていく鯉の肉わずか甘くしながら
枝先の蟻や蛞蝓てらてらの四十五リットル袋に入れられ
病窓の灯り灯りにいのちあり冬の夜ことに明るくみえる
五百羅漢のようにぽつぽつ立っている通学区域のおじいさんたち
おむつからおむつに終わる人生よボクサーパンツが風に揺れてる
弟の挽歌を毎年つくるべしわが黒き森の枯れないように

1首目、エッシャーの絵の中にいるように繰り返される日々が続く。
2首目、思いがけぬ落とし穴は道路の下だけでなくあちこちにある。
3首目、暗闇の中に一人だけ光って仕事している警備員の孤独な姿。
4首目、修復が目立っていて縄文土器と呼ぶのを少しためらう感じ。
5首目、下句がいい。季節によって池の鯉の体も変化するのだろう。
6首目、剪定された枝とともにゴミ袋へと入った虫がなまなましい。
7首目、夜に灯る部屋の明かりは入院患者一人一人の命の証である。
8首目、登下校の時間帯の見守り。「五百羅漢」の比喩が印象的だ。
9首目、ボクサーパンツを穿いたまま一生を終えられる人は少ない。
10首目、弟の死の意味を問い続ける覚悟でもあり苦しさでもある。

2024年3月26日、角川書店、2200円。

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2024年04月25日

黒木三千代歌集『草の譜』

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『貴妃の脂』(1989年)、『クウェート』(1994年)に続く第3歌集。30年ぶりの歌集ということになる。幼少期の回想の歌や恋の歌が印象に残った。

桃の葉が指(および)のやうに垂るる午後 重たいおとうさまの文鎮
樹の影をうつして池は昏れはじむ墨溜りのくらさまでもう少し
薬袋(やくたい)を柳葉包丁に裂き開けて祖母が押し殺しゐしもの知らず
すれつからし あばずれ みづてん きらきらとをみなごだけが被(き)せられし笠
桃の花ぼつと明るし牛乳(ぎうちち)はよく嚙んでから飲むと習ひき
「元少年」といふ不可思議な日本語がひらひらとせり朝の郵便受(ポスト)に
だし喰ひのお砂糖喰ひの棒鱈がわが家一年分の砂糖を食ひき
何をして食べてゐるのか分からない叔父などがむかしどの家にもをりし
両切りのピースのつよいニコチンはあなたの若さだつた 髪も強(こは)かりき
言はずとも分かつてゐるといふひとにどんなわたしが見えてゐるのか
ブラウシュバルツのインクをときみが言ふからに銀座伊東屋までの春雪(しゆんせつ)
入院をすれば家族の手の中の光年よりも遠いこひびと

1首目、若くして亡くなった父親。「おとうさま」に時代を感じる。
2首目、池の水面の暮れゆく様子には心の翳りに通じるものがある。
3首目、女性ゆえに耐え忍んできたものが、きっと祖母にもあった。
4首目、性的に奔放な人物を悪く言う言葉だが、男性には使わない。
5首目、昭和の頃の懐かしい教え。あれは何のためだったのだろう。
6首目、少年犯罪を犯した人物が成人した後にだけ使う特別な用語。
7首目、京都の正月の伝統的な食べ物。手間のかかることで有名だ。
8首目、ジャック・タチ「ぼくの伯父さん」もフーテンの寅さんも。
9首目、元気だった頃の恋人の姿。煙草を吸う人も減ってしまった。
10首目、言葉にしなくても分かり合えるというのは本当かどうか。
11首目、万年筆と輸入物のインクを使う昔ながらの学者肌の人物。
12首目、入院や死の場面には家族以外は立ち入ることができない。

2024年1月21日、砂子屋書房、3000円。

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2024年04月21日

佐太郎関連のおススメ本

先日のオンライン講座「作歌の現場から」では、「てにをはの使い方」というテーマで引かれた10首のうち4首が佐藤佐太郎の歌であった。さすが佐太郎という感じ。

佐太郎や助詞の使い方についてさらに詳しく知りたい方のために、いくつかおススメの本を挙げておこう。

○佐藤佐太郎『短歌を作るこころ』(1985年)

佐太郎は作品だけでなく歌論や入門書や自歌自註も多く書いていて、短歌作りの理論を詳しく記している。本書はその一つで、代表的な歌論「純粋短歌」(1953年)も収録されているので便利。「日本の古本屋」で1000円以内で買える。

○大辻隆弘『佐藤佐太郎』(2018年)

「コレクション歌人選」の一冊。先日の講座でゲストとしてお迎えした大辻さんが佐太郎の歌から50首を選んで鑑賞を書いている。「てにをはの使い方」についても詳しい。
https://matsutanka.seesaa.net/article/463994081.html

○秋葉四郎『短歌清話 佐藤佐太郎随聞』(上)(下)(2009年)

佐太郎に師事した著者が昭和45年から61年までの師の言行について日録風に記した本。かつての師弟関係の濃密さに圧倒されるとともに、佐太郎の人となりがよくわかる内容となっている。上下巻あわせて1050ページに及ぶ大作だが、佐太郎沼にハマった人にはぜひ読んでほしい。
https://matsutanka.seesaa.net/article/415463275.html
https://matsutanka.seesaa.net/article/415518232.html
https://matsutanka.seesaa.net/article/416110859.html
https://matsutanka.seesaa.net/article/416149775.html

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2024年04月19日

今井聡『ただごと歌百十首』


副題は「奥村晃作のうた」。

奥村晃作の第1歌集『三齢幼虫』(1979年)から最終歌集『蜘蛛の歌』(2023年)までの18冊から110首を選んで鑑賞文を記した本。

長年奥村に師事してきた著者ならではの深い分析が随所に光る。また、親しい者しか知らないような奥村の個人的なエピソードも出てくるのも楽しい。

社会的・人間的規制の内側にあって、却ってひらめくような「ワイルドネス(本能)」といったものの光・力動というものを、奥村ただごと歌は常に掲出し、あぶり出している。
奥村の思想の根底、「一つの」「一人の」という、イデア志向があることに幾度か触れてきた。一つのこと、一人の行動・思考が、状況を動かす。そしてその一つの、一人の営為によって、奥村の認識が「改まる」のだということ。
奥村は徒歩及び自転車のひとであり、自動車乃至自動車社会を様々な角度から詠う。
奥村の現代ただごと歌、それは情(こころ)の歌であり、それは物に即して、こころの余計な装飾を避け(かなしい、寂しい等)その流れを示していくもの。
奥村がただごと歌で示していること、それを哲学的な面で捉えるのならば「我々は何を、知っている、分かったと言い得るのか」その範囲とは何処までを言えるのか、ということだろうと、私は解釈している。

1首につき1〜2ページ程度の鑑賞文という構成で、とても読みやすい。いろいろな歌人について、こうしたスタイルの本が出るといいなと思う。

最後に、110首の中から特に印象に残った歌を引こう。

縄跳びを教へんと子等を集め来て最も高く跳びをり妻が/『三齢幼虫』
大男といふべきわれが甥姪(おひめひ)と同じ千円の鰻丼(うなどん)を待つ/『鴇色の足』
タラバガニ白肉(しろにく)ムシムシ腹一杯食べて手を拭きわれにかへりぬ/『都市空間』
転倒の瞬間ダメかと思ったが打つべき箇所を打って立ち上がる/『ピシリと決まる』
スティックに切りしニンジン分け持ちて子らは腹ペコ山羊へと向かう/『ビビッと動く』

コスモス叢書の番号が「第1234編」であるのも、この本によく合っている気がする。

2024年2月20日、六花書林、2000円。

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2024年04月13日

楠誓英歌集『薄明穹』

著者 : 楠誓英
短歌研究社
発売日 : 2024-01-17

第3歌集。

モザイクのタイルをおほふ草の中お風呂ではしやぐ子らの声せり
てのひらの菌を殺せば遠つ世の仏陀のまなこに翳のさしたり
崖ぞひの軒にそよげる鯉のぼり岩肌に尾を削られながら
石段(いしきだ)の泥(ひぢ)は乾けり台風ののちを流れて炎暑の川は
陰惨に抜かれし牛の舌に似てジャーマンアイリスくらき花弁よ
草原を過ぎゆく雲のかげのなか白きイーゼル残されたまま
本当の名は知らぬまま離(か)れしひとの恥骨あたりのほくろをおもふ
開かれたポストの中を下がりゐる牛の胃袋のごとき見てゐつ
父を憎む少年ひとりをみつめゐる理科室の隅の貂の義眼は
ひしめける真鯉の口をぬひてゆくすずしき貌の鳰(にほ)の一羽は

1首目、廃屋の風呂場だった所からその家の子たちの声が聞こえる。
2首目、手の消毒をすることは仏教の不殺生の教えに反するのかも。
3首目、下句がいい。風にそよぐたびに岩に擦れてしまうのだろう。
4首目、増水した時の名残の泥がこびりつき無惨な姿を見せている。
5首目、かなり個性的な連想だ。牛タンを食べるために抜かれた舌。
6首目、夢の中の風景のよう。絵を描いていた人は消えてしまった。
7首目、本名を知らない相手との性愛の記憶。下句がなまなましい。
8首目、郵便ポストの中にセットされている回収袋。比喩が印象的。
9首目、少年時代の回想か。剝製の貂の義眼と少年の暗い眼を思う。
10首目、関わりを持たない鯉と鳰。でも官能的な雰囲気を感じる。

2024年1月17日、短歌研究社、2100円。

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2024年04月07日

江田浩司『短歌にとって友情とは何か』

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「北冬」の連載をもとにした第T部「短歌にとって友情とは何か」と第U部「寺山修司をめぐる断想」をあわせて一冊にまとめた評論集。

中心となる第T部では、石川啄木と金田一京助、岡井隆と相良宏、与謝野晶子と山川登美子、小中英之と小野茂樹などの関係を例に、友情とは何かについて考察している。

どのような親密な関係も、幸福の絶頂にあるとき、関係の崩壊は密かに気がつかないところで進行している。
孤独でなければ、友情の真の意味が理解できないのであれば寂しいが、孤独なるが故に、友情の持つ崇高さに触れることができるのならば、孤独であることの豊かさが友情とともに花開くこともあるだろう。

こうした友情論とともに印象に残ったのは、本歌取りや批評に関する鋭い指摘である。

「本歌取り」による歌の世界の重層性は、単に新しく創造された歌のことだけを指しているのではありません。本歌とそれに基づく歌との相互の世界が、創造を基点として、どちらにも拓かれてゆくことが必要とされているのです。
批評は、自分の短歌の好みを語る場でも、自己の短歌観の正当性を主張する場でもない。あくまでも、テクストに即し、その可能性を追求する場であり、テクストの読みを批評の言葉として提示する場である。

一つ気になったのは「斎藤茂吉と吉井勇」について論じた章に「二人に親密な交友関係があったわけではない。むしろ、勇と茂吉が、このような歌を送り合ったのには意外の感がある」と書いている部分だ。

細川光洋『吉井勇の旅鞄』は、『斎藤茂吉全歌集』に収録されていない茂吉の吉井勇宛の書簡24通(京都府立京都学・歴彩館所蔵)があることを述べた上で、次のように記している。

若き日に長崎で歓楽をともにし、「ダンスホール事件」ではともに妻と別居して冬の時代を過ごした二人は、心と心の深いところで通じ合う間柄であった。

これは二人の関係を考える上で大切なポイントだろうと思う。

https://gendaitanka.thebase.in/items/83845387

2024年2月26日、現代短歌社新書、1800円。

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2024年04月01日

三井修歌集『天使領』


ビルの影、木の影、我が影 一方(ひとかた)に倒れて都心の休日静か
春の夜のシフォンケーキはほぼ空気 ほろほろ空気を零しつつ食む
空也吐く小仏ほどの幽(かそ)けさに秋の夕暮れ鳥渡りゆく
大洋を航(ゆ)くべかりしに街をゆく我の肩より垂るる帆布は
明日の朝摘果さるべき実も容れてビニールハウスにメロンしずけし
あまたなる耳が夕陽に透きながら交差してゆく渋谷駅前
支払いを終えたる人はその杖を再び取りて歩み始めぬ
小さなる甕棺ありて小さなる骨が小さき石を抱きいる
八月の銀河が蒼く展(ひら)く下 紐解けやすき靴にて歩む
三人(みたり)して眠れば雪の下にても温かからむ能登の父母兄(ふぼあに)

1首目、本体は大きさも形も異なるけれど、影は同じ方向に伸びる。
2首目「ケーキ」と「空気」の音が響き合う。何とも軽やかな印象。
3首目、有名な空也上人像を用いた見立てと遠近感が実に鮮やかだ。
4首目、一澤帆布製のかばん。帆船や海への憧れを胸に秘めている。
5首目、メロンだけでなく人間の運命のことなども思わされる歌だ。
6首目、耳に着目したのがいい。スクランブル交差点を行き交う耳。
7首目、特別なことは何も言ってないのに、これで十分に歌になる。
8首目、縄文時代の抱石葬。「小さ」の繰り返しが悲しみを伝える。
9首目、上句と下句の取り合わせがいい。天上の銀河と地上の靴紐。
10首目、故郷の墓に眠る肉親たち。能登の風土への心寄せが滲む。

2024年1月25日、角川文化振興財団、2800円。

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2024年03月20日

大松達知歌集『ばんじろう』


2017年から2022年の作品597首を収めた第6歌集。

そこはかとなく冬は来てこんにゃくをパパの匂いと言うむすめあり
生まれたる日は水曜日ゆびさきを五センチ四方すべらせて知る
十二年生きたるという岩牡蠣を食いて穏やかならずこころは
アルタイル見つつ思えり地球ではない方にゆく光のゆくえ
鶏ももの三百グラム買うときの、ちょっと出ちゃっていいですか? 好き
いつか訊かんとして訊かざりき「教師なんて馬鹿のしごと」と言いし父のこころ
〈選べる〉は〈選ばなくてはならない〉でコーヒーブラック、ホットで先で
ヘアピンをしている男子なぜだめかだれもわからず会議が長い
この店のウエットティッシュしょぼくなるこうして日本しょぼくなりゆく
耐熱、の表示を信じ、信じない、注ぎながらにそっと念じる

1首目、娘とのやり取りがユーモラスに詠まれ、微苦笑を誘われる。
2首目、スマホで検索するだけでいろいろなことがわかってしまう。
3首目、1年1年少しずつ成長した命だが、食べるのは一瞬のこと。
4首目、光は全方向に放たれているのだが誰に見られることもない。
5首目、昔ながらの対面販売の肉屋さん。温かみのある会話がいい。
6首目、亡き父の言葉。仕事に関しては互いに譲れないものがある。
7首目、自分の意志で選択するのは自由なようでいて強制でもある。
8首目、これまでダメだったからダメといった考え方は今も根強い。
9首目、経費削減のためなのだろう。昔はおしぼりが一般的だった。
10首目、信じつつ信じてないという心のありように気付かされる。

2024年1月25日、六花書林、2500円。

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2024年03月18日

三枝ミ之『佐佐木信綱と短歌の百年』


佐佐木信綱の作品や歌論を中心に、近代以降の短歌の歴史を追った評論集。370ページという厚さだが、論旨がすっきりしていて文章も読みやすい。おススメの一冊。

佐佐木信綱(1862-1973)に着目することで、和歌・短歌史の見え方が従来とは違ってくる。また、満91歳まで生きた信綱の人生をたどることで、明治・大正・昭和(戦前・戦後)という時代の変遷がひとつの流れとして浮かび上がってくる。

正岡子規や与謝野鉄幹の和歌革新と信綱のそれは大きく違う。わかりやすく言えば、革新のために遺産を切るか、逆に担い直すか、そこが違う。
佐佐木信綱は、和歌短歌の千三百年を視野に収めながら、短歌百年の革新を貫いた歌人である。
近代以降の短歌百年を〈自我の詩〉や〈写生〉という自己表現の尺度で括っていいのか、それだけでは落ち着かないのではないか。そんな思いが私の中で徐々に大きくなったことが信綱へ向かわせた。

これは、近代以降の「短歌」を1300年の歴史の中で新たに捉え直す試みと言っていいだろう。国文学者として『日本歌学史』や『校本万葉集』を刊行し、『梁塵秘抄』や大隈言道『草径集』などを発掘した信綱は、和歌と短歌をつなぐ最大のキーパーソンである。

題詠をめぐる旧派と新派の違いの話もおもしろい。

「燕」は「毎年春来り秋去りて、雁とゆきかはる意をよむ」ものだった。「燕」という題を受けて、若燕の飛翔の初々しさを詠むのはダメということになる。大切なのは旧派和歌の題詠には題を詠み込むための作法が必須だったという点である。
題詠から折々の歌へ。これが和歌革新のポイントだが、題による歌作を子規や鉄幹たちもさかんに試みており、『思草』にも題詠の場による歌は少なくなく、例の観潮楼歌会も題詠歌会と見ることができる。ただ、彼等は旧派和歌の題詠が守っていた厳密なルールからは自由で、題は自由な発想のための刺激材だった。

現在よく行われている「題詠」も、要するにこの流れにあるわけだ。

そして、信綱の歌の特徴について。

信綱は細やかな描写よりも風景の大づかみな把握を得意とする歌人である。
短歌には「晴(はれ)の歌」と「褻(け)の歌」がある。公の場を意識した晴の歌、プライベートな日常性が褻の歌。近代以降は「明星」の「自我の詩」に表れるように褻の歌、生活の歌の時代となった。(…)それも大切な領域だが、しかし信綱は歌によってもろもろを愛でる領域を大切にした。

「晴の歌」というのは、現代短歌がもっとも失ってしまったものと言っていいかもしれない。私もそうした歌はほとんど詠んだことがない。今後の短歌を考える上で重要な指摘だと思う。

最後になるが、信綱の「おのがじしに」というスタンスが前川佐美雄という個性的な歌人を生んだという話も印象的だった。歌柄が違っても歌人の系譜はやはり大きな影響力を持っているのだ。

2023年9月1日、角川書店、3000円。

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2024年03月03日

渡辺松男歌集『時間の神の蝸牛』


626首を収めた第11歌集。

〈ゆふやけをひきずるやうにゆつくりとじかんのかみのまひまひつぶり〉という歌があるので、タイトルの蝸牛は「かたつむり」ではなく「まいまいつぶり」と読むのかな。

きみ逝きてきみの見しものみな消えき日光の鹿も尾根ゆくわれも
距離おきて認めあひをり赤城神社榛名神社の大杉同士
放し飼ひのごときにあれど柵ありぬ柵までゆかず豚ねむりをり
いまだれもきてをらざればわれはゐて乙見湖畔のきくざきいちげ
白い火を地につきさしてゐるごとし遠くにならぶ白木蓮(はくもくれん)は
親不知けふぬかれたり吾とともにやがて焼かるることまぬかれて
花といひ散りたるといひ悲しむに一連のながれにゐるともおもふ
簡易宿泊所におもへらく天井の染みもここまで旅してきたる
人体を余分と思(も)へば駅伝に襷が宙を移動しつづく
労働の消えたるごとしうつとりと鏝(こて)から壁のうまれたるとき
待つといふまぶしきことをしてをりぬをんなの子朱の傘をまはして
立葵バスケット部とバレー部の姉妹ならべるごときに高き
待たされてゐるあひだにて鉄道とこの道出会ふところ雨おつ
鍵盤をきれいといふ子ゆびさきを渓流の魚のやうにうごかす
みづみづとはだかをまとふ柿わかばはだかみられてうれしきわかば

1首目、きみの死によってともに過ごした自分の一部も消えるのだ。
2首目、どちらも立派な杉なのだろう。何百年も前からのライバル。
3首目、柵に囲まれていることを知らないで豚は生きているのかも。
4首目、肉体のない魂や幽霊みたいな「われ」が湖畔に立っている。
5首目、上を向いて咲く白木蓮を「白い火」と見立てたのが印象的。
6首目、三句以下に驚く。自分が死後に焼かれる姿を想像している。
7首目、咲いて散るまでが一つの出来事。人生も同じかもしれない。
8首目、布団だけがあるような安宿。流れ流れてやってきた感じだ。
9首目、確かに大事なのは人体ではなく襷。利己的な遺伝子みたい。
10首目、作業中は塗り跡が見えるけれど仕上がると跡が残らない。
11首目、待つというのは未来があること。下句の描写が鮮やかだ。
12首目、23音も使った長い比喩。漫画のようで抜群におもしろい。
13首目、踏切と言わないのが巧み。別に何でもない場面だけれど。
14首目、白と黒の鍵盤がまるで渓流のながれのように見えてくる。
15首目、つやつやと明るい柿若葉。生命力の溢れる様子が伝わる。

あとがきに「ほとんど記憶と想像で詠んでゐるため、歌はあちこちへ飛びます」とある。肉体の不如意が心の自由を生み出しているのかもしれない。

2023年12月20日、書肆侃侃房、2600円。

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2024年02月27日

正岡豊歌集『白い箱』

masaoka.jpg


1990年刊行の『四月の魚』以降の約30年の作品を収めた第2歌集。
https://gendaitanka.thebase.in/items/81329836

みたこともないのにぼくの心臓のいろのゆうべの天の橋立
月光に触れることなく生きるのも愉悦というかシロシタカレイ
愛はときにはさんま定食 むらさきのひかりに浮かぶきみの横顔
洗濯機の上の突っ張り棒にきょう二枚のバスタオルの天の河
湯の中で踊る一枚のだしこぶは明るい独身の叔父さんである
歌は石でも雲でもなくて校庭のすみれの空を刺すのぼり棒
細胞膜はあっても細胞壁はないわたしとあなたでのぼるやまなみ
午後二時のぼくらがおりたあとのバス二人の老婆のしゃべる宇宙だ
タイカレーふたりで食べにいくのです 蘭鋳を闇に泳がせたまま
「午後」と「紅茶」のようにきわどく一ヵ所で繋がっているきわどく深く

1首目、夕焼けに染まる天の橋立。心臓の色に喩えたのが印象的だ。
2首目、大分県日出町の名産。海の底に棲む鰈と月光の取り合わせ。
3首目、初二句に驚かされる。日常の中にある愛の豊かさを感じる。
4首目、一枚でなく二枚なのがポイント。二人の暮らしを思わせる。
5首目、下句の断定に妙に説得力がある。気ままに生きている感じ。
6首目「校庭の隅」かと思うとそうではなく「菫の空」とつながる。
7首目、上句の親密な感じがいい。動物だから当り前なのだけれど。
8首目、まるで別世界のような空間に、二人の声だけが満ちていく。
9首目、部屋の電気を消しただけなのに、下句に深い味わいがある。
10首目「午後の紅茶」の「の」が持っている強引なまでの接続力。

2023年12月13日、現代短歌社、2700円。

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2024年02月25日

小林幸子歌集『日暈』

著者 : 小林幸子
本阿弥書店
発売日 : 2023-10-06

2018年から2023年の作品496首を収めた第9歌集。

猫のこと話してをれば猫の耳すこし大きくなりて立ちたる
川こえて倒れたる樹のよろこびは月光の夜にけものを渡す
公園のつつじのはなの生垣をあるくすずめはときどき沈む
山をゆく五人家族でありし日の筑波山にはふたたびゆかず
廃線の橋わたりゆく紅葉の谷間より湧く霧踏みながら
調剤を待つまの窓にカーブスのマシンを走るひと見えてをり
つつつつと歩きて道をわたりゆく喫水線の白きせきれい
橡のはな数へゐるとき風がふき天辺からまたかぞへなほせり
ちりとりの先でみみずを剝がしたり白じろとSの形がのこる
柳川の堀端に咲くくれなゐの椿はみづに散るほかはなき

1首目、自分のことが話題になっていると感づいているのだろうか。
2首目、思いがけない形で橋となり生きものたちの役に立っている。
3首目、見え隠れする様子を「ときどき沈む」と表現したのがいい。
4首目、かつての家族旅行のことを懐かしく寂しく思い出している。
5首目「霧踏みながら」がいい。高所を歩くときの不安感が伝わる。
6首目、薬局で座っている人とフィットネスクラブで走っている人。
7首目、背が黒くて腹が白いセグロセキレイ。「喫水線」が絶妙だ。
8首目、枝葉が揺れてどこまで数えたかわからなくなってしまった。
9首目、乾いてこびり付いていたみみずの死骸。なまなましい描写。
10首目、そこで咲いたからには堀の水に落ちる運命になっている。

2023年10月1日、本阿弥書店、2700円。

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2024年02月19日

俵万智歌集『アボカドの種』


375首を収めた第7歌集。

ウクライナ今日は曇りというように戦況を聞く霜月の朝
はちみつのような言葉を注がれて深夜わたしは幸せな壺
占領のかさぶたありて牛乳は946ミリリットル
ベランダで見るときよりも窓枠を額縁にした月が明るい
角あわせ夏のおりがみ折るようにスイカを冷やす麦茶を沸かす
一撃でずんと倒れるイノシシのもう動かないガラスの目玉
シトーレンにバター滲みゆく冬の午後 可視化できない子の心あり
「おなしゃす」はお願いしますのことらしいコンビニ振り込み二日以内に
九十の父と八十六の母しーんと暮らす晩翠通り
言葉とは心の翼と思うときことばのこばこのこばとをとばす

1首目、毎日耳にしているうちにだんだん慣れてしまうことの怖さ。
2首目、身体中に嬉しい言葉がたっぷりと満ち溢れていくイメージ。
3首目、沖縄ではアメリカ占領時にガロンを使っていた影響が残る。
4首目、外より室内で見る方が明るく感じるのが面白い。額縁効果。
5首目、夏の定番であるスイカと麦茶が暮らしの様式になっている。
6首目、「ガラスの目玉」が印象的。既に命を宿さない目の感じだ。
7首目、堅いパンとバターの様子が息子の心のありようと呼応する。
8首目、子から届く振込依頼のLINEの言葉。私の息子もよく使う。
9首目、詩人の土井晩翠にちなむ仙台の道路名が晩年を感じさせる。
10首目、こ・と・ばの音をひらがなでリズミカルに用いて鮮やか。

2023年10月30日、角川文化振興財団、1400円。

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2024年02月05日

奥村晃作歌集『蜘蛛の歌』


353首を収めた第19歌集。
あとがきに「短歌人生の総括としての最終歌集を出したいと思い、出すことにした」とある。

武蔵小杉のタワーマンションに多摩川も入れてスマホの写真に収む
動物園生まれの子象が走りたりそれなりに広い敷き砂の上を
壮年の体の癌はバリリバリリ音立てて増殖するとぞ聞けり
向き合って一言も言葉交わすなく交互に黒石白石を置く
コロナウイルスのお蔭で東京の秋の空とことん澄みて浮かぶ白雲
前線で戦う兵士こそあわれウクライナのまたロシアの若者あわれ
黄の花が咲けば目立ちて線路沿いにセイタカアワダチソウ群れて咲く見ゆ
無尽から帰宅の父はごきげんでラバウル小唄を歌い踊りき
22階の部屋に目覚めて朝食は38階、バイキングとぞ
「五月雨を集めてすずし最上川」芭蕉の詠みし発句ぞこれは

1首目、縦と横、人工物と自然の取り合わせが印象的な一枚になる。
2首目「それなりに」がいい。本来の環境とは比べるべくもないが。
3首目、まさか本当に音がするわけではないだろうが、何とも怖い。
4首目、仲が悪いのかと思ったらそうではなく囲碁をしている場面。
5首目、コロナ禍の弊害は多く歌に詠まれたが、これは良かった点。
6首目、利権とも大義とも関わりのないところで死んでいく兵たち。
7首目、花の咲く時以外はあまり意識して見ていないことに気付く。
8首目、地域の寄り合い的な宴会。戦時歌謡を歌う父のもの悲しさ。
9首目、高層ホテルに泊まるとまるで空中都市に住んでいるみたい。
10首目、大石田に残る芭蕉の直筆。『奥の細道』では「早し」に。

2023年12月19日、六花書林、2600円。
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2024年01月29日

金川宏歌集『アステリズム』

著者 : 金川宏
書肆侃侃房
発売日 : 2023-11-07

第4歌集。

死んでからも木の葉のように吹き溜まる音符よそんなに鳴らされたいか
そのオノで、と言いかけてみずをしたたらせ動かぬ森よ ならばわたしが
水草にくるぶしをゆるくつかまれて人生という金色の午後
ヒトハヒトヲコロシテキタソシテコレカラモ 三月、黄と青やがて漆黒
孤がはらむとおき中心わたくしというまぼろしへ引き絞る弦
くらぐらとひとのかたちをゆるされて虹顕つみずのうえを越えゆく
駅は燃え寺院は沈み思ひ出のやうに風吹く 帰らうかもう
傘ふたつ野に消えゆきて春浅き墓のほとりは薄日射したり
夕闇はふかぶかとして過ぎしものと未だすぎざるもの揺らす橋
溶鉱炉しづまりがたく屹(た)つゆゑに町つらぬきて青ふかき河

1首目、生きている音を残すためには、音符にしなくてはならない。
2首目、斧で切れと森が迫るのか。対峙する緊張感と迫力を感じる。
3首目、しがらみと安らぎがないまぜになったような人生の後半戦。
4首目、ウクライナへの侵攻。止むことなく続く戦禍の歴史を思う。
5首目、孤は弧に通じる。円弧によって中心が浮かび上がってくる。
6首目、水たまりの明るさを越える時に自らの身体の暗さを感じる。
7首目、廃墟のような世界を眺めている。でも帰る場所はあるのか。
8首目、写実の歌として美しい。雨上がりの日差しと野にある墓と。
9首目、夕闇も橋も二つの世界に跨るもの。その境目の揺らぐ感じ。
10首目、火と水のイメージを最大限に生み出す言葉の取り合わせ。

2023年11月13日、書肆侃侃房、2000円。

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2024年01月26日

香川ヒサ歌集『The quiet light on my journey』

 kagawa.jpg


2015年から2023年までの作品381首を収めた第9歌集。

アルプスの地下水詰めしボトル買ふ土の匂ひのせぬ地下駅に
讃美歌で始め讃美歌で終へる会今年度予算決める時にも
その中を生きるほかなき今の世のキッチンに洗ふグラスが薄い
喜んで伺ひますと返信す感情は約束できないものを
新聞とテレビに目と耳塞がれてゐたがスマホに手も塞がれる
「はやぶさ2」が小惑星より採り来れば岩のかけらを寿ぎてをり
音もなく光の襞より現れし蝶は入りたり光の襞へ
マスクした人の不安が満杯の十六両編成「のぞみ」発車す
マーケットで買ふ生姜入りビスケットさくさく歳晩過ぎますやうに
肖像画に見る見も知らぬ人の顔セリーナ・シスルウェイトの顔

1首目、現代人の日常だが言葉にすると実に奇妙なことをしている。
2首目、全く縁のなさそうな二つのことが同じ場で行われる不思議。
3首目、一瞬で壊れてしまいそうな危うさの中で日々を生きている。
4首目、実際に伺う段階になって自分が喜んでいるかはわからない。
5首目、メディアの発達に人間の感覚や思考が次々と侵されていく。
6首目、マスコミによる過剰な盛り上げ方を皮肉っぽく詠んでいる。
7首目、明るい日差しの中を飛ぶ蝶。「光の襞」という表現が巧み。
8首目、1300人もの人々が感染を怖れて全員マスクしている空間。
9首目、上句が「さくさく」を導く序詞になっている。楽しそうだ。
10首目、絵に描かれ美術館に展示され死後も長く見られ続ける人。

近代短歌を本歌取りした歌も何首かある。

金色の小さき鳥の形した銀杏か百年散り続けをり
金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に
/与謝野晶子『恋衣』(1905)
このくにの空を飛ぶとき悲しみしかりがねをりけむ大震災後も
このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へ向かふ雨夜かりがね
/斎藤茂吉『小園』(1949)

2023年12月24日、ながらみ書房、2200円。

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2024年01月19日

福士りか歌集『大空のコントラバス』

2018年から2023年までの作品400首を収めた第5歌集。
雪国の暮らしやコロナ禍における学校の様子が印象に残る。

花寿司と白酒を母と祖母に供ふささやかなれど雛の家なる
病院の売店に旅の雑誌あり表紙の隅が少しめくれて
矢印のかたちとなりて海恋ふるスルメ炙れば潮の香のたつ
例ふれば東京タワーのてつぺんにゐるらし深き十和田湖の澄む
集落に墓所あれば村の畑には花を植ゑたる一畝のあり
黙食といふ新習慣にほつとする生徒ゐるらむみんながひとり
雪原は真つ白な海 満ち潮の二月去り引き潮の三月
冷え込んだ体育館に整列す生徒ら兵馬俑のたたずまひして
あぶり出せば「メメント・モリ」と浮き出でむ薄墨いろの欠礼はがきは
除雪機の排雪筒に詰まりたる雪を掻き出す摘便のごと

1首目、毎年欠かさず祝っているのだろう。女三代の系譜を感じる。
2首目、入院中の患者が元気になったらと思って眺めたのだろうか。
3首目、初二句の見立てが面白い。海の方角を指しているみたいだ。
4首目、水深327メートルなので東京タワーがほぼすっぽり収まる。
5首目、町と違って墓参り用の花は買うのではなく畑で育てている。
6首目、友達の少ない子や一人が好きな子には、むしろありがたい。
7首目、冬から春への移り変わりを雪の量の変化で感じ取っている。
8首目、長年勤めた学校の退任式。「兵馬俑」の比喩が実に印象的。
9首目、誰もがいつかは死ぬことをあらためて感じ考えさせられる。
10首目、雪深い土地に暮らす人ならではの歌。扱いに慣れている。

2023年11月20日、柊書房、2300円。

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2024年01月13日

富田睦子歌集『声は霧雨』

 tomita.jpg

2018年から2021年までの作品381首を収めた第3歌集。
中学生の娘やコロナ禍を詠んだ歌が多い。

プリキュアの玩具開ければ乾電池ふるびてしろき結晶を吹く
うずら豆ひよこ豆はた白花豆まめを煮るとき耳はたのしむ
めくるめく、と言うときかすか日めくりは海からきたる風にはためく
流し場のワタより滲む虹色は地中の管を流れゆくなり
夕暮れのイオンのレジは忙しき人らが並び迷子の心地す
無糖紅茶を一気飲みして荷物から体重へ水の重さを移す
リモート授業の動画を二倍速で見て一日の淡し家居のむすめ
九十度机の向きを変えてみるわれへ近づく鳥と半月
予定なき盆の休みの朝寝坊マッコウクジラの家族のように
まだ親に決定権のあるからだ問診表にサインを入れる

1首目、かつて娘が遊んでいた玩具。歳月の経過をあらためて思う。
2首目、豆によって色や形、煮えるまでの時間なども違うのだろう。
3首目「めくるめく」という言葉が引き寄せてくる明るいイメージ。
4首目、暗い下水道の中を流れていく鮮やかな虹色を思い浮かべる。
5首目、自分ひとり周囲からぽつんと取り残されてしまった気分だ。
6首目、総重量は変らないけれど、荷物が軽くなると運ぶのは楽だ。
7首目、学校には授業以外に大切なことがたくさんあったと気付く。
8首目、座る向きを変えるだけで見える世界が変わり気分も変わる。
9首目、ゆったりとした音の響きや韻律が内容とうまく合っている。
10首目、やがてワクチン接種に親の同意の要らない年齢を迎える。

2023年11月30日、砂子屋書房、3000円。

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2024年01月09日

大辻隆弘『岡井隆の百首』


「歌人入門」シリーズの9冊目。

これまでのラインナップは石川啄木、斎藤茂吉、北原白秋、森鷗外、寺山修司、山崎方代、落合直文。どれもコンパクトで読みやすく、歌人の名歌や代表作、歌風の変遷、生涯などを知ることができる。

本書は岡井隆の短歌100首を引いて解釈・鑑賞するだけでなく、解説「調べのうたびと」を含め随所に岡井隆論が展開されるところに読み応えがある。

後年、彼が盛んに用いる理念化や抽象化の萌芽がすでに明確に表れている一首である。
短歌は究極のところ歌であり調べである、という岡井の韻律重視の考え方が垣間見える一首である。
アララギで培ったこのような写生の技術がこの歌の上句にも生かされている。写生はいつの時代も岡井の基底なのだ。

また、初期歌篇「O」から遺歌集『阿婆世』までの全36冊から満遍なく歌を選んでいるのが大きな特徴だ。まだ評価の定まっていない1990年代以降の岡井の歌についても積極的に取り上げている。

以前、角川短歌の座談会で永田和宏が「岡井隆を論じるのなら、最後まで論じなければあかん。だけど岡井隆の意義を論じるなら、『人生の視える場所』で終えたほうがいいと思う」(2020年10月号)と述べたことがある。

それに対して、この本では100首のうち59首が『人生の視える場所』より後の歌集から引かれている。その選びに著者の主張がはっきり表れていると言っていいだろう。

2023年11月20日、ふらんす堂、1700円。

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2024年01月06日

山階基歌集『夜を着こなせたなら』



384首を収めた第2歌集。

頰に雨あたりはじめる風のなか生きているのに慣れるのはいつ
冷えきったあばらにうすく印を烙くように聴診器はいくたびも
皿を置くときみは煙草をやめていた秋にしばらくそのままの皿
荷ほどきと荷造りの間を生きている夜はガムテープが剝がれてひらく
へたなりに卓球台をぴんぽんと跳ねればやたらはだける浴衣
剝げかけた青の針金ハンガーはシャツの気配をのこして揺れる
アーモンドフィッシュを皿にざらざらとおいで心にならない心
番台に小銭ならべてよく冷えた壜にざらりと刷られた牛よ
カラオケのぶあつい本を思い出す膝にかばんを預かるうちに
缶の緑はそのまま味にマウンテンデュー・スプライト・セブンアップよ

1首目、雨の冷たさを頰に感じながら慣れることのない人生を思う。
2首目、聴診器が胸へと当てられる感触を烙印に喩えたのが印象的。
3首目、灰皿を「皿」と言ったのがいい。使われない灰皿の寂しさ。
4首目、引っ越しから次の引っ越しまでの仮初のような生活が続く。
5首目、温泉などに泊まって遊ぶ卓球。ついつい力が入ってしまう。
6首目、上句の細かな描写がいい。剝き出しになったハンガーの姿。
7首目、まだはっきりと形を持たない感情に餌を与えているみたい。
8首目、銭湯や牛乳と言わず表すのが巧み。使い古された壜の感じ。
9首目、電車の席に座って、立っている人の鞄を持つ場面が浮かぶ。
10首目、味覚と視覚の共感覚。缶ジュースの味と色が一体になる。

2023年11月10日、短歌研究社、2000円。

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2023年12月28日

北山あさひ歌集『ヒューマン・ライツ』


318首を収めた第2歌集。

晩夏(おそなつ)のレモンを切り分けるナイフ 連帯してもしなくてもいい
『「育ちがいい人」だけが知っていること』という本ぜんぶ燃やして焼き芋
木は雪を、雪は硝子をくすぐって冬の終わりの始まりしずか
ワカサギのように心が反り返る怒っているのに元気と言われて
紙詰まりを放置されたるコピー機のつめたき胸へ手を差し入れる
サイダーのキャップを捻る瞬間に「元気だった?」と声がして 夏は
サモトラケのニケの両腕 妹と長く長く母を奪い合いたり
豆腐とはまず水の味、豆の味おわるころお坊さんの味なり
まよなかの雪をしずかに吸いながらみずうみ、傷はゆっくり癒える
てぶくろの指にすいっと縄暖簾分けて真冬の顔を見せたり

1首目、遠い昔に聞いた「連帯を求めて孤立を恐れず」を思い出す。
2首目「育ちがいい」という言葉への反発。「焼き芋」が真骨頂だ。
3首目、雪解けの様子だろうか。「くすぐって」に春の予感が滲む。
4首目、動きのある直喩が印象的だ。怒りが伝わらないもどかしさ。
5首目、コピー機が擬人化され、まるで悩みを取り除いているよう。
6首目、映画のワンシーンのように爽やか。炭酸の弾ける音がする。
7首目、姉妹で両腕を引っ張り合った末に腕がもぎ取れてしまった。
8首目「お坊さんの味」がいい。豆腐は精進料理にもよく使われる。
9首目、傷の癒え方のイメージ。「吸い」という動詞の選びがいい。
10首目、居酒屋などに入って来る人の姿。映像がよく目に浮かぶ。

2023年11月6日、左右社、1800円。

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2023年12月24日

島内景二『和歌の黄昏 短歌の夜明け』


2014年から2016年まで「短歌往来」に連載された「短歌の近代」(全36回)に序章や終章などを追加して一冊にまとめた本。

「古今和歌集」「伊勢物語」「源氏物語」を中心とした和歌文化をどのように現代に継承できるかという観点から、江戸〜明治時代にかけての和歌・短歌の流れを捉え直している。

二十一世紀の短歌が、新たなる開花と見事なる結実の季節に向かうためには、近代短歌がとっくの昔に乗り越えたと錯覚し、実のところはまったく乗り越えていなかった「和歌」の長所と短所を、今一度、再確認しておく必要があると思う。

こうした問題意識のもとに、中島広足、蓮田善明、本居宣長、明治天皇、近藤芳樹、橘守部、香川景樹、正岡子規、大和田建樹、落合直文、樋口一葉、森鷗外、与謝野鉄幹、与謝野晶子、佐佐木信綱、窪田空穂、若山牧水、原阿佐緒、北原白秋、石川啄木、斎藤茂吉、島木赤彦、伊藤左千夫らの和歌・短歌を取り上げて読み解いている。

貞門の特徴は「言語遊戯」だと言われることもあるが、絶対に「遊戯」ではない。『新古今和歌集』の歌風が、「遊戯的」であるとか「現実逃避的」だと言われることがあっても、まったくそうではないのと同じことである。
子規は、宗武の和歌が、目にしたものをありのままに詠んだ「嘱目」の写実詠ではなく、王朝和歌の伝統の中から生まれたことを知っている。(…)だが、伝統の上に立体的に重ね合された和歌ではなく、一回きりの歌、すなわち「平面的」な和歌であると、意図的・戦略的に解釈し直してみせ、(…)近代短歌の扉を力強く、こじ開けた。
狂歌は、「和歌ではない」ことを逆手にとって、漢語や俗語などを、制限なしで使用できる特権を得た。その用語の自由を、「発想の自由」にまで突き詰めた。言わば、和歌の「タブー」から完全に解放されたのだ。
十一世紀の『源氏物語』の時代から、十二世紀の院政期までの王朝和文を基準として体系化されたのが、正統的な文語文法である。そうではない「バーチャル文語」の一種が、近代文語なのだ。
明治の文明開化期には、ヨーロッパ文明が大量になだれこんだ。『源氏物語』では日本を近代化できない。『源氏物語』では殖産興業・富国強兵を達成できないという焦りが、『万葉集』に実際以上の強いイメージをもたせた。これが『万葉集』の不幸だった。

本書の根幹をなす構想は非常に大きなものだ。江戸時代の和学者・北村季吟が集大成した「異文化統合システム」としての「源氏文化=和歌文化」と、国学者・本居宣長の「異文化排斥の思想」である「もののあはれ」を比較・対照するという文化史観に立っている。

その当否については何とも言えない。やや図式的過ぎるような気もする。けれども、和歌から近代短歌への流れを考える上でとても示唆に富む内容であるのは間違いない。

2019年9月30日、花鳥社、2800円。

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2023年12月22日

土岐友浩歌集『ナムタル』

235首を収めた第3歌集。

それぞれの影にもたれる黒松の遊歩道から海が見えるよ
松原の空はまばらに曇りつつサマータイムはまだ先のこと
ウミネコよ半日だけの旅行者の仮面をつけて串焼きを買う
狂うってよくないですよ手のなかの日が暮れるまで竜頭をいじる
低く飛ぶ 高くも飛べる サンマルクカフェを横切る夏のつばめは
年の瀬の摂津富田に逃げ込んでエデンの園の顚末を訊く
芸術は爆発してもいいけれどお一人様で餃子を食べる
人間のかたちに近いつぶつぶを数えてみたら青に変わった
山茱萸の実をふるわせて心にはむしろかたちがあると気がつく
ひとりでは心もとない豆腐屋のランチに人が並びはじめる

1首目「もたれる」という動詞の選びがいい。松が傾いている感じ。
2首目「松原」「まばら」の音が響き合う。「ま」の音は下句にも。
3首目「ウミネコ」と「串焼き」がいかにも旅先という感じである。
4首目、人間が狂うのかと思って読むと結句で時計の話だとわかる。
5首目、燕が夏空を自在に飛ぶ姿が初二句からうまく伝わってくる。
6首目「富田」「混んで」「エデン」と響き合う音が耳に心地よい。
7首目、岡本太郎のCMの激しいイメージから一転して下句は静か。
8首目、上句の言い方がおもしろい。歩行者用信号のLEDのことだ。
9首目、風に揺れる「山茱萸の実」が心の形をイメージさせたのか。
10首目、自分以外はみんなグループなどで店に来ているのだろう。

2023年9月10日、私家版、2000円。

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2023年12月11日

川野里子歌集『ウォーターリリー』


第8歌集。

明確な方法意識に基づく連作によって、ベトナム戦争、カンボジア虐殺、ダイヤモンド・プリンセス、コロナ禍、広島、伊方原発、沖縄戦、辺野古、タイタニック、小林多喜二、オウム真理教など、過去や現在のさまざまな社会問題を詠んでいる。

困難な状況に置かれた人々、虐げられた人々に心を寄せる姿勢が一貫している。

ブレーキとアクセル踏みまちがへたといふ日本(につぽん)がそしてある老人が
ショーウィンドウの隅にカナブンころがれり新墓なればみづから光り
世界中のゴミうちあげられてゐる渚となりし息子棲む部屋
明けない夜はない のだけれど子の部屋に目覚まし時計三つを拾ふ
しらじらと花びらよりそひ花筏ながれゆくなり誰をも乗せず
淋しとふ文字が千体立ちつくす三十三間堂どれが妣なる
あまたなる蟻おほいなるキャラメルを襲ひつつあり昼のしづけさ
ぽつてりと玉子を落としソース塗り焦がしてゐたりここが爆心地
どこまでもドミノのやうにならぶ墓きらきらと倒れ永眠は来む
もがく蟻籠めたる琥珀うつくしき秋の陽は来てわたしを浸す

1首目、高齢者ドライバーによる事故に日本社会の縮図を見ている。
2首目、死骸がそのまま自らの墓になっているという発想が印象的。
3首目、上句の比喩が強烈。足の踏み場もないほど散らかっている。
4首目、信じる気持ちと迷う気持ちが二句の途中の一字空けに滲む。
5首目、結句に発見がある。筏は筏でも人を乗せることのない筏だ。
6首目、千体千手観音立像を「淋」という字に見立てたのが鮮やか。
7首目、拡大した映像を見ているような生々しさ。「襲ひ」がいい。
8首目、広島を詠んだ一連にある歌。お好み焼きと原爆のイメージ。
9首目、墓の最後はどうなるのか。日本の墓事情を考えさせられる。
10首目、いつしか私も樹脂のような陽射しに閉じ込められていく。

2023年8月10日、短歌研究社、2200円。

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2023年12月09日

時田則雄歌集『売買川』

著者 : 時田則雄
ながらみ書房
発売日 : 2023-12-01

帯広で農業を営む作者の第13歌集。タイトルは「うりかりがわ」。

トラクター積乱雲に向かひつつ進む馬鈴薯の花ふるはせて
細く長く林檎の皮を剝く妻を見てをり黄なる目玉の猫が
長靴のなかでいちにち過ごしたる指を湯槽で解してをりぬ
バックホー巨大な穴を掘り終へて影を伸ばしてゐるなりゆふべ
奪ふやうにスイートコーンを捥いでゐる肩まで白い霧に濡れつつ
蝉時雨浴びつつ墓を洗ひをり母の背中を洗ひしやうに
牛糞堆肥積みたるダンプ白き湯気たなびかせつつ国道を行く
新雪を蹴散らし駆けて来し馬の眼に映りゐる青き空
新しい地下足袋履いて草を取る百五十間畝に添ひつつ
光りつつ蛇口より出づる棒状の水もて顔面洗ひてをりぬ

1首目、トラクターや積乱雲の力強さが下句の繊細さを引き立てる。
2首目、われが見ているのかと思って読んでいくと最後に猫が登場。
3首目、縮こまって固くなった足の指に血が流れ疲れが取れていく。
4首目、一仕事終えて、人間なら腰や背中を伸ばしたりするところ。
5首目、「奪ふやうに」が印象的だ。早朝に収獲しているのだろう。
6首目、墓石を洗う時の手の動きによって生前の母の姿を思い出す。
7首目、堆肥が醗酵して熱を発している。北海道ならではの光景だ。
8首目、一面の雪景色と青空。生き生きした馬の動きが目に浮かぶ。
9首目、数詞が効果的。150間は約272メートル。黙々と草を取る。
10首目、「棒状の水」がいい。肉体を使う労働の充実感が伝わる。

2023年12月1日、ながらみ書房、2300円。

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2023年12月05日

阿木津英『女のかたち・歌のかたち』


「西日本新聞」に1995年1月から7月にかけて連載した「女のかたち・歌のかたち」を中心に、20世紀の女性歌人の歌について記した文章をまとめた本。

みどり子の甘き肉借りて笑(え)む者は夜の淵にわれの来歴を問ふ/米川千嘉子『一夏』
子も夫も遠ざけひとり吐きてをりくちなはのごとく身を捩(よぢ)りつつ/秋山佐和子『空に響る樹々』
売り箱の中に仔を産む奴智鮫(どちざめ)に人ら競いて値をつけにけり/川合雅世『貝の浜』
すこしづつ書をよみては窓により外をながめてたのしかりけり/三ヶ島葭子『定本 三ヶ島葭子全歌集』
水桶にすべり落ちたる寒の烏賊いのちなきものはただに下降す/稲葉京子『槐の傘』

引用されている歌や鑑賞が良く、100年にわたる女性歌人の苦闘や輝きが浮かび上がってくる。新書版のコンパクトな内容だが、著者の視野の広さと考察の深さが印象に残った。

2023年8月4日、短歌研究社、1500円。

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2023年11月30日

久々湊盈子歌集『非在の星』


第11歌集。

百目柿日にけに熟れゆく今年から無人となりし町会長の家
仮定法過去に遊びてうつらうつら正月三日風花が散る
ここまでは積りますから、雪染みの壁を指差す新潟のひと
先頭集団を脱落してゆくランナーのほっと力を抜くが見えたり
読むべき本は読みたき本にあらずして秋の夜長はつくづく長い
通り雨に追われて入りし古書店に買いたる『らいてう自伝』百円
不定愁訴と腰痛を嘆く友のメール返信はせず歩きに出でつ
くじら雲しだいにほどけ子くじらをいくつも産みぬ午後のいっとき
奈良岡朋子死してサリバン先生もワーニャもニーナも共に死にたり
川の面に触るるばかりに枝垂れてさくらはおのれの艶(えん)を見ており

1首目、施設に入ったのか亡くなったのか。柿が収穫されずに残る。
2首目、いろいろな空想を楽しみながらのんびりと家で過ごす正月。
3首目、冬の大変さを嘆きつつもどこか自慢しているようでもある。
4首目、気持ちの切れた瞬間が画面越しにはっきりとわかったのだ。
5首目、義務で読まなくてはならない本。なかなか読み終わらない。
6首目、雨宿りだけでは悪いので購入。100円がかわいそうな安さ。
7首目、頻繁にメールが来るのだろう。時には放っておくのも必要。
8首目、雲のほどける様子をくじらの出産に喩えたのがおもしろい。
9首目、役者の死はその人が舞台で演じた数多くの役の死でもある。
10首目、水面に映る自分の姿を見ようとしているとの発想がいい。

2023年10月15日、典々堂、3000円。

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2023年11月24日

『渾沌と革新の明治文化』のつづき

文学・美術のさまざまなジャンルの論考が載っている本書の中で、歌人に最も関わりの深いのは、松澤俊二「「折衷」考 ― 落合直文のつなぐ思考と実践」だ。

従来、和歌革新運動を論じる際に「折衷派」としてあまり評価の高くなかった落合直文を取り上げ、彼の果たした役割や立ち位置の重要性を指摘している。

つまり、「折衷」は当時の社会におけるあらゆる領域で試みられた普遍的な方法だった。人々は既存の価値や習慣、文物等を新たに出来したそれらとの間で突き合わせ、切磋してより良いものに加工し、身辺に取り込もうとした。明治開化期に人となった落合がその方法に親和性を示すのは当然だった。
総じて言えば、彼の「折衷」の基底には、つなぐ発想が見いだされるように思う。意見の異なる歌人や流派をつなぐ、和歌に他の文学や芸術ジャンルのエッセンスをつなぐ、地方と中央をアソシエーションや雑誌メディアでつなぐ、若者を良師に出会わせ、和歌につなぐ、伝統と現在をつなぐ、古い題詠を、〈創意〉やオリジナリティといった新しい文学上の規範とつなぐ…。こうした発想を土台として落合の「折衷」は様々に思考・実践されていたのではないか。

私たちはどうしても目に付きやすい派手な言挙げや行動に目を向けがちだ。しかし、こうした地道な実践こそが和歌革新の流れを生んだ点を見逃してはならないのだろう。

「新」か「旧」かの二項対立ではなく、双方の良い点を生かしてつなぐという考え方は、さまざまな分断の広がる現代において、ますます大事になってくるものだと思う。

梶原さい子は今年刊行された『落合直文の百首』の解説に、

直文の本当の手柄は、このように、いろいろなものを結びつけることにあったのではなだろうか。新派と旧派。ベテランと若手。都会と地方。江戸から明治の、激しい過渡期に本当に必要だったのは、このような存在だったのではないか。

と書いている。松澤の論考は多くの資料をもとにこの意見を実証したものと言っていいだろう。

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2023年11月23日

濱田美枝子『女人短歌』


副題は「小さなるものの芽生えを、奪うことなかれ」。

男性中心の社会や歌壇にあって、女性歌人が結集して1949年に創刊した「女人短歌」。その創刊に至る経緯や女性歌人たちの活躍、そして1997年の終刊までの歴史を豊富な資料に当たって描き出した力作である。

登場するのは、五島美代子、長沢美津、阿部静枝、北見志保子、山田あき、生方たつゑ、葛原妙子、森岡貞香、真鍋美恵子など。中でも、五島と長沢が「女人短歌」において果たした役割を、著者は高く評価している。

これまで特に着目して論じられることはなかったが、筆者自身が長年研究してきた歌人五島美代子の存在が大きく関わっていることが確認できた。また、歌人長沢美津は、創立から終刊に至るまで、欠くことのできない大きな存在であることも意義深いものであった。

この二人がともに子を自死で亡くしていることも印象深い。

五島美代子は長女ひとみを一九五〇(昭和二五)年に亡くした。長沢の三男弘夫の死は、その四年後の出来事である。『女人短歌』の思想。実務の両輪となって活躍してきた五島と長沢に、図らずも同じ不幸が襲ったのである。

「女人短歌」が192号の雑誌を発行しただけでなく、「女人短歌叢書」として624冊もの歌集を刊行していたことを初めて知った。そこには葛原妙子『橙黄』、森岡貞香『白蛾』、真鍋美恵子『玻璃』、雨宮雅子『鶴の夜明けぬ』などの名歌集も多く含まれている。

「女人短歌」の終刊は1997年12月。「アララギ」の終刊と同じ時であった。「アララギ」が近代から戦後にかけて一貫して男性中心の歌壇の象徴的存在であったことを思えば、それは偶然の一致ではないのかもしれない。

「女人短歌」は国会図書館の個人向け送信サービスで全号読むことができる。今後、さらに研究が進んでいくのではないだろうか。

2023年6月26日、書肆侃侃房、2200円。

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2023年11月20日

井上泰至編『渾沌(カオス)と革新の明治文化』


副題は「文学・美術における新旧対立と連続性」。

日本近代の「文学」の特性を考える場合、旧来の漢詩・和歌・俳句・演劇・美術の近代化への対応を見逃すことはできない。一見独立しているかに見えるこれら諸ジャンルの近代化への対応は、「旧派」と「新派」の相克・通底という点で、相互に関連している。

という問題意識をもとに行われた領域横断的な研究の成果を、15名の執筆者が「絵画」「和歌・俳句」「小説」「戦争とメディア」の4部門で記している。和歌から短歌への流れを考える上でも興味のある話ばかりだ。

日本絵画史において日本画というものは、はじめから存在したのではなく、洋画が生まれたことによって日本画という概念が誕生したという整理になる。
/古田亮「明治絵画における新旧の問題」
後の近代短歌の流れから逆算して短歌史を語る危険性を忘れてはならない。『明星』一派の動きは、歌壇全体からすれば局所的なものに過ぎず、むしろ佐佐木や金子薫園ら落合直文門下の、国語教育における和歌鑑賞と創作指導が、新たな波を下支えしていく面を忘れてはならない。
/井上泰至「子規旧派攻撃前後」
俳諧の場合は、明治中頃に正岡子規が登場して以降にいわゆる「新派」が形成されても、少なくとも昭和戦中期までは江戸時代的な「旧派」俳諧が「日本」の各地域で嗜まれていた。
/伴野文亮「「旧派」俳諧と教化」

歴史的な流れを捉えるには、現在の目で見るのではなく過去の時点に立ち返って考えなければならないこと、他のジャンルの動向にも視野を広げる必要があることなど、大事な指摘がいくつも出てくる。

2023年7月18日、勉誠出版、2800円。

posted by 松村正直 at 21:38| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする