2025年01月05日

久々湊盈子『加藤克巳の百首』


「歌人入門」シリーズの12冊目。
副題は「生きていることの実感」。

加藤克巳の歌100首の鑑賞と解説「歌人加藤克巳の出立」を収めている。70年以上にわたって歌を詠み、さまざまに作風を変えていった加藤の魅力がよく伝わってくる内容だ。

まつ白い腕が空からのびてくる抜かれゆく脳髄のけさの快感
/『螺旋階段』(1937年)
鶴はしづかに一本の脚でたちつづけるわらひのさざなみにかこまれながら
/『宇宙塵』(1956年)
かなしみとおかしさが一緒にやってくるトランペットトランペット野から山から
/『球体』(1969年)
たましいのあくがれいずるごとくして朴の高枝を花離れゆく
/『万象ゆれて』(1978年)
いとじりを撫でたりするなまだ早い老いぶるなんておかしいではないか
/『矩形の森』(1994年)

写実的な作風とは違うので、一首をどのように読み取るか、さまざまな迷いや試行錯誤が繰り返される。

いずれも超現実的な絵画を思わせるような作りだが、字面をそのまま追ってもつまらない。
高度成長期に入った日本経済の、成功を夢見て逸る青年の姿、などといった小賢しい講釈など抜きに味わってみたい。
いや、ここではそんな対比など思わずに発展をつづける大都会の光景としてのみ鑑賞すればいいのだろう。

画家の瑛九(1911−1960)との交友について知ることができたのも収穫だった。

隣市に住んでいたフォト・デッサンで世界的に著名な瑛九とも親交があり、歌集『宇宙塵』『球体』の表紙絵としたことを無上の喜びと語っていた。

加藤は与野市(現・さいたま市)、瑛九は浦和市(現・さいたま市)に住んでいた。新歌人集団が浦和で発足したことや、「浦和画家」と呼ばれる画家たちがいることを考えると、浦和が芸術・文化の大きな磁場であったことがよくわかる。

2024年10月11日、ふらんす堂、1700円。

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2025年01月04日

桑原憂太郎『現代短歌の行方』


第40回現代短歌評論賞を受賞した著者の初めての評論集。

全体が三章に分かれていて、Tは現代口語短歌に関する評論、Uは時評集、Vは歌論集となっている。日本語文法や物語論を踏まえた分析が随所に見られ、説得力のある内容となっている。

現在、様式化していると思われる特徴的な技法として、1動詞の終止形、2終助詞、3モダリティ、の三つの活用による技法について取り上げる。
近代短歌が「静止画的リアリズム」で、現代口語短歌が「動画的リアリズム」だとして、では、なぜ、現代口語短歌はこんな「動画的リアリズム」の手法をとることになったのか。
「私」のことを詠っていれば、〈私性〉ということにはならない。いくら実体験であろうが、短歌文芸で〈私性〉を彫琢するには、そのための技法というものが必要になる。
現代口語短歌には、こうした〈語り手〉の語りと〈主体〉の「心内語」の混然が現時点で確認できる。こうした〈私〉の混然は、少なくとも小説世界の文体では出現していないだろう。

あとがきに「しばらくは書くことが尽きることはないから、これからも短歌の世界で、あれやこれやと書き続けることになるのだろう」とある。今後のさらなる活躍が楽しみだ。

2024年9月30日、六花書林、2400円。

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2024年12月24日

斎藤美衣歌集『世界を信じる』


「コスモス」「COCOON」所属の作者の第1歌集。

仕事の歌、子育ての歌、日々のできごとや自身のこころと丁寧に向き合う様子がよく伝わってきた。

寝室の洋服簞笥のひきだしのひとつに潮のかをる段あり
電卓を支払調書のうへに置き鮭おにぎりのフィルムをはがす
夕飯のさなかに仕事の電話来て口はわれより上手に話す
なはとびをしばし休みて子はひとり五月の空を聴くごとくゐる
死んでゆくときは頭のほうから?と月見うどんをすすり子は問ふ
カステラのはづむ黄いろを切り分けぬ 切れば切るほどあかるくなりて
曇り日にチェロを負ふ人歩みゆくおとがひをふかく襟にうづめて
子の影はわれより長し面談を終へて冬日の陸橋を行く
消灯あとの部屋にからだを横たへてみな順々に胸の灯を消す
にんげんはほんたうはよいものでせう塩壺にしろき塩を足したり
なんの鍵か分からぬ鍵も付け替へるハワイ土産のキーホルダーに
うたがはず夫を社長と呼ぶ人のネクタイ光る午後の銀行
きみの書く「衣」の字はいつもやはらかい わたしはすこしやはらかくなる
夕焼けの町を歩けばわれでなく夕焼け空が歩み出すなり
雨音のひびきやさしく満ちる部屋生まれなかつた子のこゑ混じる

1首目、簞笥のなかの海。山田富士郎のコインロッカーの歌を思う。
2首目、忙しく仕事しながら簡単に食事を済ます様子が目に浮かぶ。
3首目、仕事以外のモードの時でも話すべきことは口が覚えている。
4首目、縄跳びで遊んでいる時よりも、何だか大人びた姿に見える。
5首目、子どもの発想や質問は大人には予想外で驚かされてしまう。
6首目、下句がいい。切断面が増えるにつれて黄の明るさが広がる。
7首目、内面まで見えてくるような描き方。下句の描写が実に的確。
8首目、相手は今何を考えているのだろうかと思いつつ無言で歩く。
9首目、入院時を回想した歌。同室の人がいてもやはり孤独である。
10首目、上句は『手袋を買いに』を思い出す。下句の具体がいい。
11首目、長年使っていなくても万一のことを思うと捨てられない。
12首目、無意識の男女差別が、仕事する女性にとって障害となる。
13首目、いつもの字を見て気持ちが落ち着く。「衣」ならではだ。
14首目、夕焼けの色合いや雲の移りゆく感じが生き生きと伝わる。
15首目、世間的には存在しなくても自分の中に確かにいた子の命。

2024年11月30日、典々堂、2700円。

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2024年12月14日

伊藤一彦『若山牧水の百首』


歌人入門シリーズの11冊目。
副題は「自然に漂う未来の人」。

牧水の歌100首の鑑賞と解説「未来の人」を収めている。牧水の書簡や随筆、妻喜志子の短歌なども引きながら、要所を押さえた鑑賞を行っている。また、誰がその歌を見出したのかに関する言及の多いことも特徴だ。

この歌を取りあげて解釈と鑑賞を行ったのは俵万智著『牧水の恋』が初めてである。
この歌を取りあげたのは馬場あき子以外にはいない。
白鳥の歌に優るとも劣らぬこの一首を見つけて推賞したのは佐佐木幸綱である。

その歌を最初に取り上げた人というのは、確かに大事な話だと思う。

生涯にわたって旅した牧水は岬を特に愛した。長女の名前を「みさき」と名づけている。
牧水には女体を歌った作品が少なくない。エロスの歌人でもある。
牧水は古典和歌の歌人のなかで西行を最も愛していた。
牧水は聴覚のすぐれた人だった。幼少期から谷川の音を聴き、鳥の声に耳を澄ましてきた。

牧水の生まれた宮崎に住み、牧水に関する本も多く出している著者だけに、こんなふうに牧水の特徴を次々といくつも挙げている。

藻草焚く青きけむりを透きて見ゆ裸体(はだか)の海女と暮れゆく海と/『独り歌へる』
草ふかき富士の裾野をゆく汽車のその食堂の朝の葡萄酒/『別離』
飲むなと叱り叱りながらに母がつぐうす暗き部屋の夜の酒のいろ/『みなかみ』
きゆうとつまめばぴいとなくひな人形、きゆうとつまみてぴいとなかする/『みなかみ』
昼は菜をあらひて夜はみみづからをみな子ひたる渓ばたの湯に/『くろ土』

牧水の歌をあらためて読み直してみたくなった。

2024年9月1日、ふらんす堂、1700円。

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2024年12月11日

加古陽歌集『夜明けのニュースデスク』


新聞社に勤める作者の第1歌集。

或る人々にはつけねばならぬでも二度はつけてはならぬ敬語のルール
殺された人は実名、自殺なら匿名、死者を分ける線あり
ワイパーが消し去るまでのうたかたの星座広がるフロントガラス
四引く一引く一引く一まぎれなく一人となれば広すぎる家
「よお」と言い笑顔みせればなぜ君は詫びる、なんにも悪くないのに
一日にすれば三千五百人。死はありふれたことではあるが
ネモフィラの宴に人も蜜蜂も舌を伸ばして群がっている
腹腔にマングローブを抱きながら〈大発(だいはつ)〉波に洗われており
消毒した人差し指を立てて入るサイゼリヤとはくちなしの花
南無阿弥陀仏(あんまんだぶ)南無阿弥陀仏に唱和する義母(はは)のスマホの「春の小川」は

1首目、皇室の人々のことだろう。新聞記事にはルールが存在する。
2首目、なぜ線引きされているのか、あらためてその理由を考える。
3首目、フロントガラスに付いた雨滴を星に見立てたのが印象的だ。
4首目、家族が一人また一人と減っていってついに自分だけになる。
5首目、ホスピスに入った部下の見舞い。痛切な思いが強く伝わる。
6首目、国内の死者の数。それでも一人の死に対して悲しみは深い。
7首目、次々と花の蜜を吸う蜜蜂とお喋りに興じている人間たちと。
8首目、ニューギニアで朽ちる上陸用舟艇。兵の死体を見るようだ。
9首目、一人で店に来たのだろう。くちなしの花が黙食につながる。
10首目、法要の席に流れる着メロ。読経と唱歌は相性が良さそう。

作者は本名の加古陽治として『一首のものがたり』などの本も出されている。
https://matsutanka.seesaa.net/article/439106767.html

2024年10月3日、ながらみ書房、2500円。
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2024年12月04日

川野芽生歌集『星の嵌め殺し』

著者 : 川野芽生
河出書房新社
発売日 : 2024-07-29

『Lilith』(2020年)に続く第2歌集。
装幀と作品世界がよく合っている。

産むことのなき軀より血を流し見下ろすはつなつの船着き場
落雷に狂ふこころのくらがりに苛々花開くライラック
弑逆のよろこびをもて園丁はむらさきの薔薇の首を落としぬ
撥条(ぜんまい)のほどくるやうに花は咲き地上は壊れゆく置時計
死者なべて身代はりなれば夕かげを羽織れるながき列に加はる
宇宙、しづかに膨張しつつ冷えてゆくからだを金の釦もて留む
縄を綯ふやうにおのれを捩(よじ)りつつ大樹は天をあきらめきれず
鯨骨を天井に吊りその下をゆきかふ魚の敬虔をもて
戦闘服のつもりで着たるノースリーブドレスの肩に触れてくる人
本ののど深く栞を差し込みぬ痛みのごとく記憶は走る

1首目、生理による心の翳りと海の明るさ。句跨りの「つ」が響く。
2首目、「落雷」「苛々」「開く」「ライラック」と音が連鎖する。
3首目、「園丁」という語の選択が日常を離れた世界を感じさせる。
4首目、撥条から時計への展開が鮮やか。神の視点で見ているよう。
5首目、人生とは死の順番を待つ行列に並ぶことなのかもしれない。
6首目、「冷えてゆく」が蝶番のように上句と下句をつないでいる。
7首目、バベルの塔のように天まで達しようとしてもがき苦しむ姿。
8首目、骨格標本から生前の海を泳ぐ鯨の姿が生々しく甦ってくる。
9首目、授賞式で受けたセクハラを詠んだ連作「party talk」から。
10首目、本にも人にも「のど」があり肉体的な痛みが想起される。

2024年7月30日、河出書房新社、2000円。

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2024年11月22日

吉植庄亮歌集『開墾』(その2)

路の上の牛の糞をばわが小田に放りこみつつ百姓われは
代田搔く親にすがりて牛の仔の無理無体にし乳のまむとす
五月雨の雨に重たき蓑ぬぎて田植がへりは夕映のそら
田の土の煮ゆる土用は吾命(わぎのち)にあくまでも暑しひびかひにけり
泥の手をわれは術(すべ)なみ二の腕にしたたる顔の汗をしごき捨つ
早稲いねの花ざかり田にちりうける花粉(はなこ)を池の鯉あがり食ふ
牛馬は草に放ちて遊ばしむ早苗振すぎてとみに閑けさ
遠き海を過ぎ居るといふ颱風は青天にかぎりなき雲を飛ばせり
田植傭人顔見知る頃は入れかはりこの多き人の中にぞ暮す
月にわたるわが家の田植のけふはてて大早苗振は星合の空
とどろきて花ざかり田に吹きあるる野分に一夜こころ揉まるる
冬に向ふ小庭の池のしづかなる鯉もくはれて少くなりぬ

1首目、牛糞は良い肥料になるので捨てずに田んぼの中へ放り込む。
2首目、牛は貴重な労働力。働く母牛に乳をねだる子牛が愛らしい。
3首目、レインコートなどはなく、雨の日は蓑をまとっての作業だ。
4首目、真夏の田んぼの中は煮えるように暑い。その中で一日働く。
5首目、手のひらは泥まみれなので二の腕で何度も顔面の汗を拭う。
6首目、水田の表面に浮かぶ稲の花粉を鯉がやってきて食べている。
7首目、早苗饗(さなぶり)は田植え終わりの祝い。ようやく一息。
8首目、雲の動きが台風の接近を告げている。天候は農業の生命線。
9首目、田植えの時期には多くの臨時雇いを集めての作業がつづく。
10首目、すべての田植えを終えるまで一か月かかる。星合は七夕。
11首目、暴風の吹き荒れる音を聞きながら、眠れない夜を過ごす。
12首目、鯉は趣味で飼うのではなく、寒い冬の貴重なタンパク源。

米の値の下りに下る嘆きつつ月夜明かきに稲を扱くなり
そろばんに合はざる米をつくりつつ百姓われの愚を押しとほす
生きがたき生活(たつき)に黙(もだ)す田作のその日暮しを政治救はず

凶作になっても豊作になっても米価次第で困窮する農村の状況を見るに見かねて、吉植は衆議院議員に立候補する。「農村問題の徹底的解決が必要となつて来た時、農民代表として推されて、私は立候補することになつた」とある。

1936(昭和11)年、千葉県第2区より出馬して当選。衆議院議員であった父庄一郎と同じ道を歩むことになった。

1941年1月1日、甲鳥書林。

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2024年11月21日

吉植庄亮歌集『開墾』(その1)

大正15(1926)年から10年間かけて印旛沼周辺を開墾し、計60町歩の水田にするまでの農作業の日々を詠んでいる。歌数は1000首を超えるが実に面白くて飽きない。

「開墾一年」から始まって「開墾十年」、その後に「附録」として衆議院議員になってからの歌が収められている。昭和初期の農村の疲弊を何とか打開したいという思いが滲む。

やがて戦争へと到る昭和の歴史の貴重な証言として読むこともできるだろう。

塩びきの鮭に茶漬をかき込みて開墾業(わざ)は腹減りにけり
いささかの傷には土をなすりつけて百姓われの恙もあらず
厩より首伸べて馬は土を嗅げり春雨はれてとみにぬくとし
きのふけふにはかに花に咲きにける菜は鶏(とり)にやり豚にたべさす
下男(しもべ)らと競ひ働(ばたらき)にはたらきてをりふし眠る直土のうへ
少女等に放りてくばる苗束の苗のちぎれは手に青青し
向日葵の花にかけ干す仕事着のしたたる汗は乾きたるらし
とり入るる西瓜は馬車に積みあまれり二つ三つ紅く土に割れたり
荒莚畳の上に敷き並めて籾はこぶ人ら土足にはこぶ
土の中に鋤きおこしたる寒蛙生きてゐる眼にものは見ぬらし
しやぼんの泡まねくぬりたるわが手足いよいよ黒し泡の中にて
家堀に養ふ鯉の日和田にあがりてけふも波を押し寄す

1首目、汗をかく作業には塩分が必要。茶漬けもさっと食べられる。
2首目、土で治してしまうところに百姓になった意気込みを感じる。
3首目、春雨が降って土が柔らかに匂う。馬は貴重な労働力である。
4首目、花の咲いてしまった菜花を急いで鶏や豚に餌として与える。
5首目、作者は大勢の人を雇う立場だが率先して自らも働いている。
6首目、田植えは少女たちの仕事。田にいる少女に苗を投げて渡す。
7首目、汗に濡れた仕事着を向日葵に掛けて乾しているのが印象的。
8首目、馬車の荷台からこぼれ落ちて割れた西瓜。豊作だったのだ。
9首目、まだ収獲小屋がないので母屋の部屋に籾を運び込んでいる。
10首目、春先に田起しをしていて掘り出してしまった冬眠中の蛙。
11首目、作業を終えて石鹸で手を洗うと泡が真っ黒になっていく。
12首目、堀と田は水路でつながっていて鯉は自由に行き来できる。

開墾作業の苦労と収穫の喜びが生き生きと伝わってくる。また、牛、馬、鶏、豚、七面鳥、鵞鳥、山羊、蛙、雲雀、雀、鶸、蝗、鯉など、多くの生きものが登場して賑やかだ。

1941年1月1日、甲鳥書林。

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2024年10月25日

門脇篤史歌集『自傾』

 kadowaki.jpg

『微風域』(2019年)に続く第2歌集。

牛乳の白き水面に生るるあわ野田琺瑯のはだへの熱に
断面にみづはにじみてしろがねの匙もて抉るキウイの果肉
マジックに書かれて198の文字アラのパックのおもてにたわむ
革靴を明日のために磨くときはつかにくゆる火薬のにほひ
みづからにめり込むやうなかたちして昼のオフィスに眠るひとびと
ひときれの鰤のくぐれるせうゆゆゑ暗き水面は輝きを帯ぶ
収集場所に立てかけらるる一本の箒かごみかわからざりけり
ツナ缶に満つる油を捨ててをり蓋の薄きに肉を堰き止め
定年を待たずに辞めるひとのため日暮れの花舗に花を見てゐる
真夜中をまたたいてゐる光源に近づくための脚立をのぼる
窓を向く席のひとつにひとをりて海みるごとく舗道を見つむ
つきだしの茄子の煮浸しつやつやと模様のちがふ皿に盛られて
祖母(おほはは)の漬けし梅干しおほきくて触れたるめしはくれなゐに染む
オピネルのうすき刃は手のひらのうへにのせたる豆腐にしづむ
少しだけ冷たき米の残りゐる冷凍炒飯よく混ぜて食ふ

1首目、琺瑯の鍋に牛乳を温めている様子。琺瑯の優しさを感じる。
2首目、半分に切ったキウイを食べるだけだが、描写と語順が巧み。
3首目、バーコードの値札でなくラップに直に値段が書かれている。
4首目、仕事のための靴なので戦いのイメージが生まれるのだろう。
5首目、デスクにうつ伏せになっている姿。上句の比喩が印象的だ。
6首目、醤油に鰤の脂が滲み出て虹のような色合いが生まれている。
7首目、ゴミとして捨てられた箒か収集場所を掃くための箒なのか。
8首目、日常生活で誰もがやっていることを、丁寧に描写している。
9首目、花束を買いに来たのだろうが「見てゐる」としたのがいい。
10首目「電球」と言わず「光源」としたことで星のように感じる。
11首目、ぼんやりと考えごとでもしているような眼差しが美しい。
12首目「模様のちがふ皿」がいかにも突き出しらしい感じがする。
13首目、下句の描写に亡くなった祖母への追慕の思いが深く滲む。
14首目、オピネルはフランスの刃物メーカー。力を入れず切れる。
15首目、電子レンジで温めた時に中の方にまだ冷たい部分が残る。

食べもの、お酒、煙草を詠んだ歌が多い。
徹底して暮らしの手触りや細部の描写にこだわっている。

2024年8月12日、現代短歌社、2700円。

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2024年10月23日

一ノ関忠人歌集『さねさし曇天』


第5歌集。

土瀝青(アスファルト)の罅割れに小さき草の色さがみの国に春来るらしも
古への絹街道(シルクロード)もかくやあらむ寧楽は異国の言語(ことば)に賑はふ
関節がにはかにゆるみだす気配こぶし、もくれんに白き花咲く
をちこちに蟬討死にす。いつのまにか天下分け目の合戦終る
壮大なる錯誤とおもふ。天皇位を継ぐための儀式も即身仏も
散水するホースを抱へ虹創る外国人労働者に笑顔ありけり
きび餅にきな粉をこぼし湯河原の旅をふりかへる妻と笑みつつ
窓の外をラクダの通るけはいする夢とはおもへどけだもの臭き
パプリカにトマト、まぐろのさしみなど赤きをそろへ妻の還暦
御殿場線の窓に来てゐる秋あかね駿河小山の駅に停車す

1首目、春は再生の季節。植物の生命力に明るさを感じ励まされる。
2首目、インバウンドに賑わう奈良から古代のシルクロードを思う。
3首目、冬が終って春が来る様子を身体の感覚に喩えたのが印象的。
4首目、気が付けば夏のピークも過ぎ蟬の亡骸が多く転がっている。
5首目、2019年の大嘗祭のために仮設された大嘗宮を見ての感慨。
6首目、解体現場で働く外国人労働者の笑顔に少しホッとする思い。
7首目、きび餅は湯河原名物。旅行から帰ってきた安堵感がにじむ。
8首目、「けだもの臭き」がいい。匂いのある夢というのは珍しい。
9首目、赤いちゃんちゃんこなどではなく、赤い色の食べ物で祝う。
10首目、富士山近くの小さな駅。のどかな旅の様子がよく伝わる。

2024年6月30日、砂子屋書房、3000円。

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2024年10月19日

久永草太歌集『命の部首』

 hisanaga.jpg

昨年、第34回歌壇賞を受賞した作者の第1歌集。

心臓の模式図として黒板に教授が描くハートうつくし
皮膚という袋縫う午後 漏れそうな命はきっと水みたいなもの
治す牛は北に、解剖する牛は南に繋がれている中庭
採算と命の値段のくらき溝 鶏の治療はついぞ習わず
その毒を使わず終える一世(ひとよ)あれセグロウミヘビにヒョウモンダコに
保育士の「おやすみなさい」に潜みたる命令形に影濃かりけり
定番は青ペンらしいベトナムに過ごせば青くなりゆく手帖
ロゼットは春待つかたち床じゅうに教科書ひらくその野に眠る
身離れのよさ褒められているカレイどんな気持ちで煮汁に沈む
おいしさの罪嚙みており嚙みておりかつて光っていたホタルイカ

1首目、ハートの形はもともと心臓の形であったことを再認識する。
2首目、袋の中の「水」に喩えることで命の危うさと大切さを思う。
3首目、人間の決めた命の線引きがはっきり目に見えてしまう場所。
4首目、鶏一羽を治療して助けても、値段が安くて採算が合わない。
5首目、有毒生物への見方が個性的。使わないに越したことはない。
6首目、おとなしく昼寝してほしい場面。命令形であると意識する。
7首目、爽やかで印象的な海外詠。日本では黒になっていくだろう。
8首目、タンポポのロゼットのように自分も新しい春を待っている。
9首目、「身離れのよさ」が完全に人間側の目線だと気付かされる。
10首目、海の中で鮮やかに発光するホタルイカ。その命を食べる。

2024年9月24日、本阿弥書店、2200円。

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2024年10月17日

藪内亮輔歌集『心臓の風化』


現代歌人シリーズ38。
『海蛇と珊瑚』(2018年)に続く第2歌集。

位置について よーい終はりのわたしたち とてもきれいなだけの夕暮れ
鞦韆はたれも乗らずに揺れてゐず風もふかずにこの世もあらず
沁み込んだ――滴(しづく)が。甃(いし)に。手のひらに。――血液といふ出口なき川
木から枝、枝からは葉が天へ向け逃れむと手を伸ばし花咲く
朝顔は薄く空気を螺旋せりあなたがゐないことでゐるけふ
iPhoneを落して映る壁紙が床に真冬の海をひらいた
雨に昏い部屋に明かりをつけながら梨を食む梨のなかにも雨が
ふとき本に圧死してゐる栞紐とりだせばまた冬が来てゐる
顔を連れて顔を川辺に坐らせる顔は炎のやうにうつむく
咲(ひら)くとはこはれることで総身をふるはせ春を泳ぐさくらは

1首目、始まることもなく終わってしまったという感覚だけが残る。
2首目、「鞦韆」から始まって、次々に言葉も世界も消えてしまう。
3首目、下句が印象的。確かに血液は身体の外へと出ることはない。
4首目、花とは地上から逃れようとする必死の抗いの姿だったのか。
5首目、不在であることが、かえって濃密に存在を感じさせるのだ。
6首目、スリープになっていた画面が点灯して寒々とした海を映す。
7首目、雨の中に部屋があり部屋の中に梨があり梨の中に雨がある。
8首目、「圧死」がいい。取り出してあげると栞紐も生き返るのだ。
9首目、顔を他者のように詠むことで思い詰めた様子が強く伝わる。
10首目、「咲く」と「こはれる」は正反対のようで実は同じこと。

箴言的な印象に残るフレーズが多く出てくる。

「あなた」「雨」「花」「火」「心」「死」といった言葉が頻出し、同じモチーフが繰り返し詠まれている。

2024年8月20日、書肆侃侃房、2400円。

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2024年10月14日

河路由佳『土岐善麿の百首』


副題は「生活派短歌の旗手」。
「歌人入門」シリーズの10冊目。

土岐善麿の短歌100首の鑑賞に加えて、解説「短歌といっしょに長距離を走り切った生活者」が載っている。

――to katareba,
‘Ya, ima omoeri shika ware mo’ to ii, tagaini,
  Yorokobishi koro! /『NAKIWARAI』

汗みどろの
顔をふりむけて、炎天の
 荷ぐるまひきがわれをば見たり。/『街上不平』

つぶら眼の首振り人形真夜中にひとりゑみして首ふらず居り/『初夏作品』

いきなり窓へ太陽が飛び込む、銀翼の左から下から右から/『土岐善麿新歌集作品T』

はじめより憂鬱な時代に生きたりしかば然かも感ぜずといふ人のわれよりも若き/『土岐善麿新歌集作品2 近詠』

鉄かぶと鍋に鋳直したく粥のふつふつ湧ける朝のしづけさ/『夏草』

わが鼻を小(ちい)さき指につまむもの天上天下この孫ばかり/『相聞抄』

長い人生をかけて実に多様な歌を詠み続けてきたことが、初期から晩年に至る100首を読むだけでもよくわかる。

土岐善麿は青年時代から晩年まで一貫して「歌人」と呼ばれることを厭い、短歌を経済活動に結びつけようとしなかった。頼まれて選者をつとめることはあったものの、自ら結社を組織せず、弟子をとらず、短歌の指導書や入門書は書かなかった。

『現代短歌全集』(筑摩書房)全17巻を見ると、土岐善麿の歌集は『黄昏に』『新歌集作品T』『六月』『遠隣集』の4冊が入っていて、これは北原白秋、窪田空穂、斎藤茂吉、土屋文明、若山牧水とならんで最多である。

その割に論じられることがあまり多くないのは、結社や弟子がないという点とも関係しているのかもしれない。

私は最近「啄木ごっこ」の連載で啄木の友人としての土岐善麿について書いたが、これまでの『短歌は記憶する』『樺太を訪れた歌人たち』『戦争の歌』『踊り場からの眺め』にも土岐善麿は出てくる。短歌史に関して何か書こうとすると、必ずあちこちで出会う人なのだ。

2024年6月8日、ふらんす堂、1700円。

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2024年10月01日

川島結佳子歌集『アキレスならば死んでるところ』

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「かりん」所属の作者の第2歌集。

起床して4秒でパソコン起動する在宅勤務にも慣れた冬の朝
どのような老女に私はなるのだろう押すとふかふかしているみかん
私が桃ならばここから腐るだろう太腿にある痣撫でている
シャーペンの先から芯を入れる眼をして蜜蜂を食おうとする猫
わたしがイカならば永遠に生きるだろう「産卵後すぐ死ぬ」と書かれて
空間を曲げつつ配達員の手を痺れさせつつ机は届く
お年玉もらうことなくあげることもなく一葉の無表情あり
冷蔵庫の闇にひっそり傷みゆくレタスは自らの水分で
人もなくて光もなくて真っ暗な花火大会翌夜の荒川
目を閉じて空腹だけになる私を吊り下げながら運ぶ地下鉄

1首目、始業時間ぎりぎりまで寝ていても大丈夫。「4秒」がいい。
2首目、上句と下句の取り合わせがおもしろい。浮き皮のみかんだ。
3首目、初句の入り方に意表を突かれる。傷みやすい果物である桃。
4首目、上句の比喩が個性的。集中して目にも力が入っているのだ。
5首目、出産してないことに対する複雑な思いをユーモアに包んで。
6首目、室内に運び入れるのが大変。「空間を曲げつつ」が印象的。
7首目、子どもや甥姪などがいないと、お年玉をあげる機会がない。
8首目、レタスのことを詠みつつ自らの身体のことも思うのだろう。
9首目、花火大会の歌は数多くあるけれど、翌日の夜の歌は珍しい。
10首目、身体が消え失せて空腹の意識だけが存在しているような。

2024年6月18日、現代短歌社、2200円。

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2024年09月10日

小田桐夕歌集『ドッグイヤー』


「塔」所属の作者の第1歌集。

輪郭のぱりりとかるい鯛焼きに口をあてつつ熱を食(は)みゆく
沸点がたぶんことなるひととゐる紅さるすべり白さるすべり
駅と駅をつなぐ通路の側面のひとつにて買ふ志津屋あんぱん
アイスからホットにかへて珈琲のカップを朝の両手につつむ
串刺しにまはりつづける馬たちのつやの瞳に映るひとびと
借りるね、といひあふ距離を家と呼びひるすぎの窓わづかに開ける
真冬にはしろく固まるはちみつの、やさしさはなぜあとからわかる
猪とナイロンともに植ゑられて手にかろやかな楕円のブラシ
このあたり霧が深くて。窓の外(と)の白さを見つつ看護師がいふ
あつまればこゑの厚みは増すらしく雀の群れのかたちが分かる

1首目、バリの食感とあんこの熱さ。「熱を食み」が巧みな表現だ。
2首目、自分の沸点だけでなく相手の沸点を知っておくことも大切。
3首目、地下のの通路の側面に埋め込まれたように店が並んでいる。
4首目、季節の変化の描き方が鮮やか。手のひらに温もりを感じる。
5首目、回転木馬を串刺しと捉えると、途端に残酷な世界に見える。
6首目、一緒に暮らす、家族になるとはこういうことかもしれない。
7首目、上句と下句の取り合わせがいい。時間が経って変わるもの。
8首目、上句から下句への展開がおもしろい。猪の毛の話であった。
9首目、映画のワンシーンのような美しさ。日常とは異なる世界だ。
10首目、鳴き声を聴いていると雀らの数や位置が目に浮かぶのだ。

2024年5月27日、六花書林、2500円。

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2024年09月07日

堀静香歌集『みじかい曲』


「かばん」所属の作者の第1歌集。

夜道ならぐんぐん進む自転車よハイツやハイムがいっとう好きだ
行かなかった祭りのあとの静けさの金木犀のつぼみの震え
ふた粒ならべるコアラのマーチふたつとも少しかなしい顔をしている
笑いながら見せ合っていた歯や歯ぐき一房のえのきをほぐしつつ
ゆうへい、と唇を湿らせてみる ひとの名前と思えばやさしい
きれぎれのこうふくだろうあなたからレーズンパンを受け取る夕べ
トンネルのすべてに名前があることの どこにもいないぼくらの子ども
考えるときに眉毛を抜く癖ははじめはどちらかのものだった
風のない午後にふたりで出かければ気まぐれに手をつないだりする
風邪の名残りのあなたはちょっと遅れて笑う乾いた米粒をひからせて

1首目、音の響きが楽しい。やや古風な「いっとう」が効いている。
2首目、「行かなかった」に滲む寂しさと秋の季節感がうまく合う。
3首目、かなしく見えてしまう心境なのだろう。「ふた粒」がいい。
4首目、「歯や歯ぐき」と「えのき」のイメージがよく重なり合う。
5首目、音だけ聞くと雄平などの名前にも思えるし幽閉にも思える。
6首目、「こうふく」も幸福であると同時に降伏でもあるのだろう。
7首目、上句から下句への展開が印象的だ。産道に似ているのかも。
8首目、今では二人とも同じ癖があってどちらが先だったかは不明。
9首目、ごくごく自然な幸福感が出ていてシンプルだが気持ちいい。
10首目、韻律的にも少し遅れる感じ。米粒は顔に付いているのか。

2024年6月17日、左右社、1800円。

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2024年09月04日

吉川宏志歌集『叡電のほとり』


副題は「短歌日記2023」。

ふらんす堂の短歌日記シリーズの14冊目で、2023年1月1日から12月31日までの365首を収めた第10歌集。

新年のなかに二つの「ん」の音の朝の陽のさす道を踏みゆく
まだ会いしことはなけれど娘(こ)の彼が看病に来ていると聞くのみ
雨のあと登りきたりし寺庭に泥跳ねをつけカタクリが咲く
夜のうちに十センチほど積もりたる偽のメールをつぎつぎに消す
菜の花の収穫をする人ありて軍手のなかの刃物は見えず
梅雨のあめ夜半(よわ)にやみたりチッチッと時計の針の音よみがえる
戦時下もコンビニは開いているだろう氷のすきまに珈琲そそぐ
比叡より落ちくる水のひとつにて梅谷川の暗きを渡る
背表紙を金(きん)に照らせる秋の陽のたちまち消えてうすやみの部屋
青く輝(て)る海に差し出す牲(にえ)のごと灯台は岩のうえに立ちたり

1首目、小さな発見がいい。『青蟬』の「冬」の字の歌を思い出す。
2首目、これだけで離れて暮らす娘が風邪など引いた状況とわかる。
3首目「泥跳ねをつけ」という細かな観察がいい。解像度が上がる。
4首目、雪の話かなと思って読み進めると下句で意外な展開が待つ。
5首目、菜の花と刃物のイメージの対比が「見えず」により際立つ。
6首目、時計の音はずっと変らないのだが静かでないと聞こえない。
7首目「氷のすきま」という表現の工夫が上句の想像を支えている。
8首目、雰囲気と味わいのある歌。「梅谷川」の名前が効いている。
9首目、日暮れの短い時間だけ、窓から射す光が本棚まで届くのだ。
10首目、灯台を「牲」と見たのが印象的。自然の美しさと厳しさ。

短歌に添えられた短文では、うさぎとぬいぐるみの話が2回出てくるのが印象に残った。4月5日と10月11日。「新年」の歌と同じで、人間は一つだと気にならないが二つだと気になるのだろう。

このウサギも先日亡くなったと聞いた。

2024年7月29日、ふらんす堂、2200円。

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2024年09月03日

小島ゆかり歌集『はるかなる虹』


2020年末から2024年初めまでの作品468首を収めた第16歌集。

似た顔の全員ちがふ顔が来て飲み食ひをする正月の家
陽のなかを吹く風すこし老犬はながき舌しまひわすれて眠る
三つ目の角に見えつつ歩いても歩いても遠いサルビアの花
深秋の街より帰り姉さんと呼びたき大き柿ひとつ食む
滅びゆく途中のからだ春の日は痛む右手に蝶がまつはる
猛暑日の刃物重たく腫れ物のやうな完熟トマトを切りぬ
ねむりつつかぜに吹かるるあしうらの地図の山河の谿深くなる
手術後の母はさびしい鳥の貌 車椅子ごと母を受け取る
フランスパンをレタスざくつとはみだしてはみだすものが光る三月
近づくとき遠ざかるときこの町のどのバス停にも母が佇む

1首目、血縁関係のある者同士、それぞれ似ていて違うのが面白い。
2首目、舌が出ている姿を「しまひわすれて」と描いたのが印象的。
3首目、赤色がよく目立つ花。遠近感が狂うような夏の暑さを思う。
4首目、「姉さん」がユニーク。どっしりとした頼もしさを感じる。
5首目、私たちの身体はいつでも「滅びゆく途中のからだ」なのだ。
6首目、夏の気怠い感じがよく出ている。刃物と腫れ物が響き合う。
7首目、足裏の凹凸が意識されるのだろう。山河に喩えたのがいい。
8首目、既に車椅子が母の一部になっている。「受け取る」も哀切。
9首目、早春の季節感。内側に縮こまっていたものが広がり始める。
10首目、バスに乗っている間も気が付けば母の姿を探してしまう。

2024年7月7日、短歌研究社、3000円。

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2024年08月29日

早川晃央歌集『こいつら』


「コスモス」「COCOON」所属の作者の第1歌集。

デパートの屋上になお一プレイ三十円のゲーム作動す
平日の昼間の安売りスーパーに男性客は意外と多い
ローソンとナチュラルローソン向かい合い利益を競う新宿の夜
メシを食うときも辺りを気にかけるカラスのような生き方は嫌だ
飛行機の翼が塵で黒くなり空はきれいでないことを知る
見上げれば綿菓子であり見下ろせば流氷らしく雲は見えたり
松屋では機械が飯を入れておりしゃもじは飯を整えている
銭湯の男子トイレのウォシュレット無数の男の尻を洗えり
食べられるために食べさせられているフィードロットの牛の静けさ
立ち食いの蕎麦すする人を後ろから見ればお辞儀をしているようだ

1首目、かなりレトロな雰囲気の屋上遊園地。「三十円」がいい。
2首目、平日の昼間=仕事というのも一つの固定観念でしかない。
3首目、微妙に客層が違う。客単価や利益率の比較など面白そう。
4首目、他者や世間に怯えずに、安心して生きていきたいものだ。
5首目、発見の歌。澄んだ青空に見えても大気中には汚れがある。
6首目「綿菓子」はよく聞くが、「流氷」は個性的な見方だろう。
7首目、ご飯をよそうはずの「しゃもじ」が整え役になっている。
8首目、どのトイレでも同じことなのだが「銭湯」だと生々しい。
9首目、もうすぐ殺されるとは知らず肥育場で餌を食べている牛。
10首目、蕎麦を啜るたびに上下する頭に会社員の悲哀を見るか。

2024年7月11日、六花書林、2300円。

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2024年08月23日

井口可奈歌集『わるく思わないで』

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第11回現代短歌社賞を受賞した作者の第1歌集。

わたしたち、って主語をおおきくつかってることわかってて梔子の花
なんでこんなに暑いんだっけドトールの気をゆるしたらやられる感じ
そばかすをコンシーラーで隠さずにドリンクバーでたまに触って
ぶかぶかのTシャツを着るひとのではなくじぶんので過去はたまねぎ
テーブルががたついていてレシートをたくさん挟んできたまま帰る
それからは専門学校生としてひとのからだを曲げて暮らした
車から降りてくるひとおおすぎて、乗りなおすことができなさそうだ
夕暮れに鳩とんできて空欄に自由記述をながく書いてる
ゆっくりと値札を剥がす家族には言えないことを思い浮かべて
イベントの後のけだるさたこ焼きのために切られたぶつぎりの蛸

1首目、若干の後ろめたさを感じながら話す。結句の収め方がいい。
2首目、くらくらするような暑さ。下句の軽快な言い回しが楽しい。
3首目、隠さないことで前向きに捉えることができ、愛着も覚える。
4首目、伸び切ったのか、体形が変化したのか。結句がおもしろい。
5首目、一度挟んだら帰る時にわざわざ取り外したりしないものだ。
6首目、整体師や理学療法士になる学校か。散文のような文体の妙。
7首目、バスなどでも相当たくさんの人が一台に乗っていたりする。
8首目「はい・いいえ」や番号ではとても答えられない思いがある。
9首目、上下の取り合わせに実感がある。わずか数秒の話だけれど。
10首目、たこ焼きになれなかった蛸はこの後どうなるのだろうか。

2024年4月29日、現代短歌社、2500円。

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2024年08月19日

内藤明歌集『三年有半』

著者 : 内藤明
砂子屋書房
発売日 : 2024-02-27

2019年から2023年までの約3年半の作品494首を収めた第7歌集。

入間川(いるまがは)高麗川(こまがは)毛呂川(もろがは)越辺川(をつぺがは)越えて逢ひたり都幾川(ときがは)の辺に
親四人送りおほせて卓上に桃と蜻蛉(あきつ)の猪口を置きたり
感染(うつ)るのは怖くはないが伝染(うつ)すのを恐れて今日も人に逢はざる
右へ切る形のままに三輪車路上にありてだあれもゐない
無防備に四肢投げ出して畳には猫のひらきが時々動く
底知れぬキャピタリズムの渦潮に朱塗りの椀はくるくる廻る
zoom会議の〈退出〉に触れもどりゆく冬の小部屋に西日が射せり
行きがけに投函せんとポケットに入れた葉書が食卓に在り
雨音の濃くまた淡く息づくを聴いてゐるなり人のかたへに
磨かれて板目艶めくカウンター仕切られてありアクリル板に

1首目、埼玉県西部。五本の川の名前が歴史や風土をを感じさせる。
2首目、夫婦で晩酌している場面と読んだ。しみじみとした味わい。
3首目「感染(うつ)る」と「伝染(うつ)す」の使い分けに納得。
4首目、上句の描写に三輪車から降りる子どもの姿が浮かび上がる。
5首目、アジのひらきではなく「猫のひらき」。警戒心ゼロである。
6首目、一寸法師の椀をイメージしたがjapan(漆器)の意味かも。
7首目、画面の中の世界から現実の部屋に戻ってきた感覚が鮮やか。
8首目、入れたはずが入れてなかったし、すっかり忘れていたのだ。
9首目、相聞歌。雨音と人の気配や息遣いが入り混じるような感覚。
10首目、立派な分厚い木の板に対して何とも安っぽいアクリル板。

2024年3月13日、砂子屋書房、3000円。

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2024年08月13日

花山多佳子歌集『三本のやまぼふし』

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それぞれにかくも異なる犬つれて人びとあるく夜明けの道を
年とりて気がつきやすくこのごろは手袋おとせばかならず拾ふ
電線をコイルのやうに巻く蔓は夢みるごとし根つこ断たれて
一メートルほど上空にひらひらと凧連れて児はむやみに走る
大声で「カメ」と言ふ子は亀ゐるを告ぐるにあらず亀を呼ぶなり
低気圧近づきたれば頭(づ)のなかをうしろへうしろへ魚が泳ぐ
冬の陽はただあたたかくテーブルの胡桃の影に凹凸のなし
えんぺらを抜き墨袋ぬき軟骨をぬきてなめらかな空洞とせり
数日を置きても固きアボカドのクレヨンのやうな食感をはむ
伝染病はいつしか感染症となり自己責任の気配濃くなる

2015年から2020年までの作品494首を収めた第12歌集。
読み終えると付箋だらけになってしまう面白さ。

1首目、一口に犬と言ってもチワワも柴犬もシベリアンハスキーも。
2首目、以前はよく紛失したのだろう。話の展開にユーモアがある。
3首目、結句で光景がはっきりする。もう生きてはいない蔓なのだ。
4首目「連れて」という動詞が絶妙。高々と空に上がることはない。
5首目、大人と違って亀に向かって「カメ」と呼び掛けているのだ。
6首目、気圧の変化の影響を独特な身体感覚で表現していて面白い。
7首目、発見の歌。実物の胡桃には細かな凹凸があるが影にはない。
8首目、イカを調理する時の様子。「なめらかな空洞」が印象的だ。
9首目、下句の比喩がいい。食感とともに色合いもクレヨンっぽい。
10首目「うつす」と「うつる」、どちらに重点を置くのかが違う。

2024年7月11日、砂子屋書房、3000円。

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2024年08月11日

浦河奈々歌集『硝子のあひる』


「かりん」所属の作者の第3歌集。

スワロフスキーの硝子のあひる口あけてなにか訴ふ飾り棚の中
「ゆるされない」と誰かいひけり喪服なる人々のなか靴脱ぎをれば
ブルーベリー小鉢一杯摘んできて昼寝の夫の腹の上(へ)に置く
育ちゆくいのちの濃さに圧されつつ水平に差し出すお年玉
ただそこにゐることですら戦ひで椿は舐めるやうに見られる
ダックスフントは濡れた黒目の頭(づ)を捩りひとを見ながら曳かれてゆきぬ
麻雀は四人家族の遊びにて遥かな昭和の正月あはれ
こぶのやうに夫のとなりにゐるわれは夫に出さるる茶を享けて置く
車椅子押し始めればわれの胃のあたり漂ふ父のあたまは
隣室に吊せるみちのく風鈴がしづかに鳴る日、岸にゐるわれ

1首目、巻頭歌でタイトルとなった一首。作者自身の姿でもあろう。
2首目、強い口調に思わず手が止まる。濃密な人間関係の表れる場。
3首目、ユーモラスだが少しくらい手伝ってくれてもと思うのかも。
4首目、子を持たない作者の複雑な思いが滲む。「水平に」がいい。
5首目、上句が印象的な言い回しだ。椿は女性の喩でもあるだろう。
6首目、まだ行きたくないのに無理やり連れていかれる犬の哀しさ。
7首目、四人が標準家庭と言われていた頃にぴったりの遊びだった。
8首目、添えもののような存在にされていることへの鬱屈した心情。
9首目、「胃のあたり漂ふ」がいい。父への労わりと寂しさが深い。
10首目、風鈴の音を聞きながら、川岸あるいは此岸を感じている。

2024年6月12日、短歌研究社、2200円。

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2024年07月30日

天野匠歌集『逃走の猿』

2003年から2016年の作品308首を収めた第1歌集。

駅前に聳える高級マンションといえど見た目は板チョコに似る
ラタトゥイユ平らげしのち思いおり閉経のまえに死にたる母か
あやまてばたちまち死者の出る仕事リフトに吊りて人を移しぬ
呑みながら話題の輪からそれてゆくさびしさもちて海ぶどう食む
東京の迷路浮き彫りとなるまでを成人の日の雪ふりやまず
独り居の父に金庫の開けかたを教わるゆうべこれで三度目
全盲の老女に降っているのかと問われて気づく硝子の雪に
アナウンスのこえ三重にかさなれる新宿駅に快速を待つ
この世へと押し出してやる枝豆のつややかな照り食えば楽しも
哄笑の起こらぬ施設 談笑はところどころに咲きて立冬

1首目、「高級マンション」と「板チョコ」の何とも驚くべき落差。
2首目、若くして亡くなった母。上句のシーンからの展開が鮮やか。
3首目、入浴介助の場面だろう。モノではなく人の命を預かる仕事。
4首目、「海ぶどう」のぷちぷちした歯触りに寂しさを噛み締める。
5首目、道路の部分だけ黒く残る。迷いの多い人生の象徴のように。
6首目、もしもの時に備えてなのだが、「三度目」が何とも哀しい。
7首目、窓の外に降る雪の気配を老女は敏感に感じ取ったのだろう。
8首目、「三重」はあまりない。多くの列車が発着する駅ならでは。
9首目、莢の中の暗闇にある時はまだ「この世」ではなかったのだ。
10首目、老人介護施設の様子。ゆっくりと穏やかな時間が過ぎる。

2016年5月20日、本阿弥書店、2700円。

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2024年07月24日

椛沢知世歌集『あおむけの踊り場であおむけ』


第4回笹井宏之賞大賞を受賞した「塔」所属の作者の第1歌集。

水着から砂がこぼれる昨年の砂がこぼれて手首をつたう
冬の肘のかさつきに似た陽を浴びて広場の鳩にパンくずをやる
手のひらを水面に重ね吸い付いてくる水 つかめばすり抜ける水
うたたねの妹の口があいている飴を食べるか聞くとうなずく
おかえりと犬のしっぽがふくらます春の風船はちきれそうな
わるぐちとぐちの違いがわからない 鳩の身体に追いつく頭
夜の川に映る集合住宅は洗いたての髪の毛のよう
見つめれば犬の瞳におさまって手のひらから肘舐められていく
そういえば定食屋さんもうないねと言われるまではたしかにあった
めがさめてしめった布団から部屋がはなれていくゆっくりとだんだん
起き上がるまでのアラーム一つずつ消して朝から降る天気雨
人差し指握って離す 握られてできたみたいなゆびのいでたち
思いっきりぶつけた脛の残像が新宿の夜のクレープ屋さん

1首目、結句がいい。一年前の夏の記憶が体感とともに甦るようだ。
2首目、比喩が面白い。「かさつき」と「パンくず」の質感も似る。
3首目、同じ水であるのに粘り気を感じたりさらさらしてたりする。
4首目、妹の歌はどれも妙に存在感がある。日常のだらっとした姿。
5首目、喜んでいる犬の気持ちが「春の風船」により可視化された。
6首目、頻りに前後に動く鳩の頭は体に追い付こうとしていたのか。
7首目、かなり距離のある比喩だが、不思議と納得させる力がある。
8首目、犬の黒目に自分の全身が映っている。犬と私の距離の近さ。
9首目、以前から無くなっていたのだが認識としては今消えた感じ。
10首目、布団=部屋の睡眠の状態から次第に空間が生まれてくる。
11首目、時間差で3個以上の目覚ましが鳴る。全体の流れがいい。
12首目、まるで粘土を手のひらで摑んで生まれたような形である。
13首目、二つの出来事が記憶の中で強く結び付いているのだろう。

2024年7月6日、書肆侃侃房、1800円。

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2024年07月10日

黒木三千代歌集『クウェート』

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第2歌集。ニューウェイブ女性歌集叢書5。

咬むための耳としてあるやはらかきクウェートにしてひしと咬みにき
  91・1・17
ペルシャ湾から「サダームヘ愛をこめて」まことに愛は迅くみなぎる
西側の二枚の舌がしんしんと嬲(なぶ)りしパレスチナにあらぬか
想ひ出といふやはらかな実りには敷藁が要(い)る、ぬくき敷藁
なにものと知れぬ獣に飾らるる壺ありてこの国のこんとん
この家のまはり坂ばかり 大いなる中華鍋の底ゆ日に一度出る
男でも女でもなく人間と言へといふとも桶と樽はちがふ
花鳥図に百年咲きて芍薬のひかりやうやう褪せゆくらしも 奈良県立美術館
すべての葉動かぬ桃の木はありつ 鈍牛(どんぎう)のやうな夏を感じる
戦利品・商品として女ある 野葡萄をこそ提げてゆくべきに
〈雌伏〉といひ〈雄飛〉といふを 〈奸婦〉といひ〈悍婦〉といふを 寂しみて繰る
赤松も蓖麻(ひま)もこぞりて戦争をせし日本を思ひつつゐる

1首目、湾岸戦争の歌。戦争と性愛を重ね合わせた表現が印象的だ。
2首目、艦艇から発射された巡航ミサイルに記された落書きだろう。
3首目、イギリスの二枚舌外交に始まる歴史。「嬲」の字が強烈だ。
4首目、思い出は単なる記憶とは違い、熟成されて育ってゆくもの。
5首目、混沌(カオス)でもあり渾沌(中国神話の動物)でもある。
6首目、「中華鍋」の比喩が面白い。地形的に窪地に家があるのだ。
7首目、性別は関係ないと思いつつも、現実には身体の違いがある。
8首目、絵の中の芍薬が100年生き続けているように詠まれている。
9首目、日差しが強く風も吹かない暑い昼。「鈍牛」の比喩がいい。
10首目、女性の扱いに対する異議申立て。下句に強い矜持を示す。
11首目、言葉のジェンダー格差。後半は女性だけに使われる言葉。
12首目、戦争末期には松根油やひまし油まで何もかもが使われた。

高野公彦の解説「比喩と諧謔」の最後の部分が目を引く。

歌のスタイルとか韻律の面で岡井隆の影響が見られる。影響といふより、意欲的な接近であるかもしれない。第三歌集では〈岡井ふう〉が払拭されてゐることを希ふ。

かなり率直な書き方だ。こうした批判的な文言は、最近の歌集ではほとんど見かけなくなったように思う。

1994年3月1日、本阿弥書店、2500円。

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2024年07月03日

川村有史歌集『ブンバップ』

著者 : 川村有史
書肆侃侃房
発売日 : 2024-04-02

第1歌集。
タイトルの「ブンバップ」はヒップホップの用語らしい。

オリックス楽天アコム武富士母は貧乏なので歌を聴いてる
ヘッドスピンずっと回ってヘッドスピン止まらないことが美しい夜
父親がコンビニエンスストアから持って帰ってくる生パスタ
傘を差す人が歩道に立っていて陽が射したので日傘の人に
とびだすなキケンぼうやが飛び出ていて猛暑日続けばいいと思った
僕にでもわかる星座が描いてあるあれはたしかカシオペヤ 確か
ぼくの横を速い二輪が抜けてって前のセダンがパトカーになる
友達のジュニアが話しかけてくる親とは違うサイズで僕に
行進はたぶんそれなりにできる子どもの僕がやったのだから
はたらいてシャワーを浴びる日々あるある 緑地公園にふえる紫陽花

1首目、語順がいい。最初は野球の話かと思ったら消費者金融の話。
2首目、このままずっと夜が続いてここが世界の中心であるような。
3首目、「持って帰って」とあるので買ったのではない感じがする。
4首目、モノは変わらないのに「傘」から「日傘」に認識が変わる。
5首目、飛び出し坊や自身が飛び出していることに対するツッコミ。
6首目、「わかる」と言ってから自信がなくなっていくのが面白い。
7首目、スピード違反のバイクを見つけて追い掛ける覆面パトカー。
8首目、大きさは違うけれど顔かたちは似ていて相似形なのだろう。
9首目、小学生の頃にやって以来大人になると行進する機会がない。
10首目、仕事と睡眠を繰り返す日々に気が付けば紫陽花が満開だ。

ラップのような韻の踏み方や音の響かせ方が歌集の大きな特徴となっている。例えば、連作「退屈とバイブス」は「退屈」と「バイブス」がどちらも AIUU で響き合う。

〈怪物をだいぶ疲れた面持ちの男の人が追い出す映画〉の「怪物」「だいぶ(つ)」も同じ原理で、音の響きが言葉を呼び込んでいるのだろう。

〈ビルボードチャートをちゃんと追っている友達とポテトLを終える〉の「チャート」と「ちゃんと」、「トL(エル)」と「終える」なども、内容と言うよりは音が優先されている。

2024年4月9日、書肆侃侃房、1800円。

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2024年06月21日

金田光世歌集『遠浅の空』


「塔」所属の作者の第1歌集。

遠浅の海は広がる生徒らがSと発音する教室に
草原に干されたままの両膝が風化してゆく前に帰らう
船上のやうに明かりの揺れてゐるタイ料理屋にエビの皮を剝く
黒猫のあゆみはしづかぬおぬおと浮き沈みする両肩の骨
日曜が等間隔に訪れて忘れたくないことが消えてゆく
泣く代はりに武田百合子の文章を読めば土曜も終はりに近い
八月の夕暮れ時は室外機のやうに心を放つておきたい
納豆の糸の切れつつひかり帯びて微笑みたるか半跏思惟像
エコバッグ背負へば軽し背負はれて物見遊山の牛蒡、長葱
明るさは極まりながら蜂蜜のなかに季節は静止してゐる

1首目、S音の響きが波の引いていく音を思わせて幻の海が見える。
2首目、長いことじっと座っていたのだろう。「風化」が印象的だ。
3首目、吊り下げられたイルミネーション。別世界の雰囲気がある。
4首目、猫の身体や動きををよく捉えている。「ぬおぬお」がいい。
5首目、「等間隔」に発見がある。いつの間にか遠ざかってしまう。
6首目、悲しい時の対処法。武田百合子を読むと心が落ち着くのだ。
7首目、比喩がおもしろい。人間の心は体の外には出せないけれど。
8首目、上句から下句への飛躍が鮮やか。頬へと伸びる指先の感じ。
9首目、おんぶされた子どものようにエコバッグから先が出ている。
10首目、蜂蜜の明るさは花が咲いていた季節の明るさだったのか。

2024年4月29日、青磁社、2500円。

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2024年06月17日

阿木津英『短歌講座キャラバン』


著者が1988年から2008年まで、20年間にわたってカルチャーセンターで作っていた冊子「旅隊(キャラバン)」の後記71篇と、受講生の歌集の跋文5篇を収めている。

後記はどれも1〜4ページ程度の短い文章だが、著者の主張や短歌観が明確に記されていて印象深い。誰が相手でも手加減せずに本気で取り組んでいたことがよくわかる。

自分の既知の世界を、ことばという記号によって連想して「これはよく分かります」などと言って共感するのが歌ではない。それは要するに自分の体験を反芻しているのにすぎない。
自分の作品の弁解をしない。これは、歌会をするときのもっとも基本的な態度であって、くどくどと自分の歌の弁解を始める人に「弁解はいらない」という叱責の声が飛ぶのを、わたしは若い頃しばしば聞いた。
推敲ということは、本当に難しい。自分の歌ほど、わからないものはないからである。下手な推敲をするより、新しい気持ちで、新しい歌を作った方がいい場合も少なくない。しかし、まったく推敲ということを考えないのも、やはり進歩がなかろう。
賞められようとする気持を捨てて下さい。確かに賞められることはうれしい。しかし、それは自分が行っていることのオマケである。賞めことばで釣られようというのは、自分を幼児の位置に卑しめることではないか。賞められようと賞められまいと、なすべきことをなすのが一人前の大人というものだろう。
自分が自分の歌のもっとも厳しい批評者であるのが、本来のありようだ。人の目はごまかせても、自分の目はごまかせない。自分の物足りない歌を毎日ながめて、自分の何が不足なのか、ここをのりこえるにはどうすればいいのか、考えるのだ。

きっぱりとした物言いも著者の持ち味で、読んでいて気持ちがいい。以前、5年にわたってご一緒した現代短歌社賞の選考会でも常にそうであった。

2016年6月11日、現代短歌社新書、1204円。

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2024年06月12日

大辻隆弘歌集『橡と石垣』

著者 : 大辻隆弘
砂子屋書房
発売日 : 2024-04-03

2015年から2022年までの414首を収めた第10歌集。

糞(まり)を痢(ひ)る直前にかくをろをろと土をまさぐる夕べの犬は
手のひらに顔を覆へり手のひらは顔を覆ふにちやうどよき幅
川べりを歩みつつ読む歌のうへに雨粒は落ち雨となりたり
先生をするのが好きで好きでたまらない若きらを憂しとまでは言はねど
曳き舟を舫(もや)ふロープは毛羽だちて水の面(つら)すれすれに撓みぬ
「あり得たかも知れぬ人生」などはない八つ手の花がなまじろく咲く
「杉はもうそろそろ終り」と言ふこゑがマスクの底の息ゆ漏れ来ぬ
みづ浅きなかに苦しむ鯉ありて脊梁といふは常にのたうつ
うつくしき蔦の紅葉を引き剝がしけさ冷えびえとしたる石垣
それぞれに大帝の名を享け継ぎてウラジーミル・プーチン、ウォロディミル・ゼレンスキー

1首目、「まり」「ひる」という古語が印象的。犬の本能的な仕種。
2首目、もちろん顔を覆うために手があるわけではないのだけれど。
3首目、ぽつんと一滴が落ちて、それから本格的な雨になっていく。
4首目、夢や希望に溢れた若い教員に対する羨望も混じった反発心。
5首目、描写が細かく丁寧。水に浸からず「すれすれ」なのがいい。
6首目、あれこれ空想してみたところで人生は誰にでも一度きりだ。
7首目、花粉の話だろう。花粉症の人の辛そうな様子が目に浮かぶ。
8首目、鯉が背をくねらせている姿から人間の苦しみへ思いは及ぶ。
9首目、色彩を失って寒々とした石垣。もとの姿に戻っただけだが。
10首目、ロシアとウクライナの歴史には共通する部分が多くある。

2024年4月14日、砂子屋書房、3000円。

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2024年05月29日

石田比呂志『片雲の風』

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「シリーズ・私を語る」の一冊。1996年11月25日から翌年1月23日まで、熊本日日新聞の夕刊に45回にわたって連載された文章をまとめたもの。誕生から67歳に至る自らの半生を振り返っている。

石田比呂志の短歌もおもしろいが、文章も実に味わい深い。山崎方代のエッセイにちょっと似ている。時おり自虐を織り交ぜつつも、その裏に自らの信念を貫く強い自負が感じられる。

それ(啄木の『一握の砂』)を開いて読んだ時の感動をどう言い表せばよいのであろうか。言うに言葉を持たないが、あえて言えば、地獄で仏に出会ったというか、とにかく救世主に出会った気分で(…)
そこから投稿した歌が新聞歌壇に載った。たかが新聞歌壇というなかれ、自分の歌が生まれて初めて活字になった感動は本人でなければ分からない。

このあたり、私にも同じ覚えがあるので強く共感する。

以前、石田比呂志と松下竜一の関係についてブログに書いたことがあるのだが、そのあたりの事情もよくわかった。
https://matsutanka.seesaa.net/article/387138409.html

この時期私は仕事らしい仕事もせずに(いつもそうだが)昼間から焼酎に酔い喰らっていたが、その私の部屋の裏に『豆腐屋の四季』で有名になる松下竜一氏が住んでいて、後には奇縁を結ぶことになる。

石田と松下の貴重なツーショットも載っている。

最後に真面目な短歌についての話も引いておこう。

「牙」も結社だから、選歌、添削という教育的側面、歌会という指導的側面のあることは否定できない。が、それはあくまでも側面であって根本は一人一人が自得、独創してゆく世界だ。つまり芸は先達から恩恵を受けることはあっても、授受という形での継承はあり得ない。

生前にお会いできなかったのが何とも残念だ。

1997年4月21日、熊本日日新聞社、1238円。

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2024年05月23日

ファブリ歌集『リモーネ、リモーネ』


イタリア生まれで「未来」所属の作者の第1歌集。

カン・ハンナ『まだまだです』(2019)などと同じく、日本語を母語としない作者の歌集だ。

頭から食べ始めればたい焼きの笑顔が消えてさびしい昼は
数学の長い講義に比べたら静かなトイレは天国である
味気ないひとりの白いキッチンでゆでたうどんは夜中の食事
食堂のアクリル板に囲まれて僕らはまるで囚人のよう
駅前でチラシ一枚もらっても選挙権なき僕はどうする
夕やけの喫茶店まだ残ってる紅茶のカップに秋のみずうみ
リモーネはレモンレモンはリモーネで今日はすっぱいものが食べたい
雨音でぐっすり眠る人もいる頭痛がひどくなる僕もいる
ラーメンの優しい湯気が食卓を囲んで今夜は喜多方にいる
わが故郷サルデーニャ島に渡ろうとして赤べこはリュックに入る

1首目、笑顔という捉え方が面白い。顔がなくなると無惨な感じだ。
2首目、大勢の人がいる教室とトイレの個室という違いでもあろう。
3首目、素うどんに違いない。「白い」がうまくて、うどんも白い。
4首目、「囲」「囚」「人」の漢字が視覚的にも内容を伝えている。
5首目、日本に住む外国人の参政権について考えさせられる内容だ。
6首目、カップの底に残った紅茶を夕焼けに染まる湖面に見立てた。
7首目、イタリア語のレモン。呼び方を変えると別のものに感じる。
8首目、夜に降る雨の音。人によって好き嫌いが違うことに気づく。
9首目、音の響きの心地よい一首。「喜多方」がうまう効いている。
10首目、土産に買った赤べこ。青い海を渡る赤い牛が目に浮かぶ。

2023年10月18日、喜怒哀楽書房、1000円。

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2024年05月13日

渡英子歌集『しづかな街』

著者 : 渡英子
本阿弥書店
発売日 : 2024-03-01

2015年から2022年までの作品を収めた第5歌集。
旅の歌、沖縄の歌、近代短歌に関する歌が目に付く。

もうこんなに大きくなつて姪や甥は銀のやんまを追ふこともせず
階段で本読む吾にこゑをあぐ春夜トイレに起きたる夫は
水行して日本に近づく人あらむ漁船をしづかに操りながら
那覇におかず台北に置きし帝大を大王椰子の並木に仰ぐ
夕道のどこかで淋しくなつてしまふ子を抱き上げてしばらく揺らす
ひとり鍋をあをきガス火に煮る夕べ君の嫌ひな春菊刻む
腰に巻くサルーンを選ぶヒンドゥーの寺に詣でるたびびとわれは
粥炊いて土鍋の罅を糊塗すれば湯気曇りして玻璃は息づく
肉太(ししぶと)の左千夫をはさみ歩(あり)く日の千樫と茂吉は右に左に
〈大東亜〉と〈太平洋〉ではちがふと思(も)ふ三文字なれど戦争のうへ

1首目、甥や姪が小さな子どもだった頃の姿が下句から髣髴とする。
2首目、さぞかし驚いたことだろう。階段にも本が積んであるのだ。
3首目、北朝鮮の不審船。「水行」は魏志倭人伝の記述を思わせる。
4首目、台湾と朝鮮には帝国大学が存在した。沖縄との扱いの違い。
5首目、いわゆる黄昏泣き。幼児を抱いてあやす様子が目に浮かぶ。
6首目、君と一緒の時に春菊は入れられないから、ちょっと嬉しい。
7首目、自分が外国人の観光客であることを、あらためて意識する。
8首目、糊を塗るという意味で「糊塗」を使っているのが印象的だ。
9首目、アララギの盟友であった二人。その後を思うと味わい深い。
10首目、どのように名付けるかで戦争の性格や構図が違ってくる。

2024年3月1日、本阿弥書店、2800円。

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2024年05月08日

前川佐美雄『秀歌十二月』


1971年に筑摩書房から刊行された単行本を文庫化したもの。

もともと1964年に大阪読売新聞に連載した文章をまとめて、1965年に筑摩書房の「グリーンベルト」シリーズの1冊として刊行された本である。


万葉集から古今、新古今、近世和歌、近代短歌までの計154首を取り上げて、鑑賞文を記している。磐姫皇后、柿本人麿、大伯皇女、大伴家持、西行法師、式子内親王、源実朝、藤原定家、伏見院、田安宗武、橘曙覧、落合直文、正岡子規、与謝野晶子、会津八一など。

1月から12月まで時期ごとに分けて、一人につき2首のペースで鑑賞していて読みやすい。近代歌人については、著者との関わりなどのエピソードも交えている。

この歌の発表されたころだったろう。落ちぶれた茂吉の姿が新聞か雑誌に載ったことがある。(…)私は胸のつまる思いをした。たちまちそれを十五首の歌に作り「斎藤茂吉氏におくる」と題して、書き下し歌集『紅梅』に収めた。
吉井勇がある時、突然私に晶子の「白桜」はいいよと話し出したことがある。晶子の歌は初期だけだ、あとはしようがないといつもいう勇であっただけに、私は不思議な思いをしたが(…)
千亦は昭和十七年七十四歳で亡くなるまで、一生を水難救済会のためにつくした。(…)誠実、また任侠の人で多くの歌人が恩に浴した。古泉千樫、新井洸しかり、若き日の私もその一人である。

また、歌の背後にあるものを必要以上に推測し過ぎないように注意している点も印象に残った。

けれどもそれは考える必要がない。背後に考えるのはさしつかえないとしても、それを表に出していうと、歌をそこなうことになるだろう。ことばにあらわされただけを、その調べだけを感じとればよいのだ。
これは憶測で、憶測はなるたけしない方がよいが、(…)けれどもそれを口にしてはいけないのだ。ことばに出していうと歌を傷つける。感じとっておくだけでよいのである。

口にしてはいけないと自ら戒めつつ、それでも結局書いているのが面白い。そのあたりのせめぎ合いも、歌の鑑賞の見どころと言っていいだろう。

2023年5月11日、講談社学術文庫、1050円。

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2024年05月06日

丸地卓也歌集『フイルム』


「かりん」所属の作者の第1歌集。2017年から2023年までの作品を収めている。仕事や社会問題に関する歌が多い。

永遠に上りつづける階段のだまし絵のなかの勤め人たち
舗装路に大穴のあくニュースあり洞の上行くスーツのひとら
からだ中ひかる警備の男いて闇に溶けないこともかなしい
七割が再現部分の土器ありきその三割を縄文と呼ぶ
春の水からだを通って抜けていく鯉の肉わずか甘くしながら
枝先の蟻や蛞蝓てらてらの四十五リットル袋に入れられ
病窓の灯り灯りにいのちあり冬の夜ことに明るくみえる
五百羅漢のようにぽつぽつ立っている通学区域のおじいさんたち
おむつからおむつに終わる人生よボクサーパンツが風に揺れてる
弟の挽歌を毎年つくるべしわが黒き森の枯れないように

1首目、エッシャーの絵の中にいるように繰り返される日々が続く。
2首目、思いがけぬ落とし穴は道路の下だけでなくあちこちにある。
3首目、暗闇の中に一人だけ光って仕事している警備員の孤独な姿。
4首目、修復が目立っていて縄文土器と呼ぶのを少しためらう感じ。
5首目、下句がいい。季節によって池の鯉の体も変化するのだろう。
6首目、剪定された枝とともにゴミ袋へと入った虫がなまなましい。
7首目、夜に灯る部屋の明かりは入院患者一人一人の命の証である。
8首目、登下校の時間帯の見守り。「五百羅漢」の比喩が印象的だ。
9首目、ボクサーパンツを穿いたまま一生を終えられる人は少ない。
10首目、弟の死の意味を問い続ける覚悟でもあり苦しさでもある。

2024年3月26日、角川書店、2200円。

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2024年04月25日

黒木三千代歌集『草の譜』

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『貴妃の脂』(1989年)、『クウェート』(1994年)に続く第3歌集。30年ぶりの歌集ということになる。幼少期の回想の歌や恋の歌が印象に残った。

桃の葉が指(および)のやうに垂るる午後 重たいおとうさまの文鎮
樹の影をうつして池は昏れはじむ墨溜りのくらさまでもう少し
薬袋(やくたい)を柳葉包丁に裂き開けて祖母が押し殺しゐしもの知らず
すれつからし あばずれ みづてん きらきらとをみなごだけが被(き)せられし笠
桃の花ぼつと明るし牛乳(ぎうちち)はよく嚙んでから飲むと習ひき
「元少年」といふ不可思議な日本語がひらひらとせり朝の郵便受(ポスト)に
だし喰ひのお砂糖喰ひの棒鱈がわが家一年分の砂糖を食ひき
何をして食べてゐるのか分からない叔父などがむかしどの家にもをりし
両切りのピースのつよいニコチンはあなたの若さだつた 髪も強(こは)かりき
言はずとも分かつてゐるといふひとにどんなわたしが見えてゐるのか
ブラウシュバルツのインクをときみが言ふからに銀座伊東屋までの春雪(しゆんせつ)
入院をすれば家族の手の中の光年よりも遠いこひびと

1首目、若くして亡くなった父親。「おとうさま」に時代を感じる。
2首目、池の水面の暮れゆく様子には心の翳りに通じるものがある。
3首目、女性ゆえに耐え忍んできたものが、きっと祖母にもあった。
4首目、性的に奔放な人物を悪く言う言葉だが、男性には使わない。
5首目、昭和の頃の懐かしい教え。あれは何のためだったのだろう。
6首目、少年犯罪を犯した人物が成人した後にだけ使う特別な用語。
7首目、京都の正月の伝統的な食べ物。手間のかかることで有名だ。
8首目、ジャック・タチ「ぼくの伯父さん」もフーテンの寅さんも。
9首目、元気だった頃の恋人の姿。煙草を吸う人も減ってしまった。
10首目、言葉にしなくても分かり合えるというのは本当かどうか。
11首目、万年筆と輸入物のインクを使う昔ながらの学者肌の人物。
12首目、入院や死の場面には家族以外は立ち入ることができない。

2024年1月21日、砂子屋書房、3000円。

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2024年04月21日

佐太郎関連のおススメ本

先日のオンライン講座「作歌の現場から」では、「てにをはの使い方」というテーマで引かれた10首のうち4首が佐藤佐太郎の歌であった。さすが佐太郎という感じ。

佐太郎や助詞の使い方についてさらに詳しく知りたい方のために、いくつかおススメの本を挙げておこう。

○佐藤佐太郎『短歌を作るこころ』(1985年)

佐太郎は作品だけでなく歌論や入門書や自歌自註も多く書いていて、短歌作りの理論を詳しく記している。本書はその一つで、代表的な歌論「純粋短歌」(1953年)も収録されているので便利。「日本の古本屋」で1000円以内で買える。

○大辻隆弘『佐藤佐太郎』(2018年)

「コレクション歌人選」の一冊。先日の講座でゲストとしてお迎えした大辻さんが佐太郎の歌から50首を選んで鑑賞を書いている。「てにをはの使い方」についても詳しい。
https://matsutanka.seesaa.net/article/463994081.html

○秋葉四郎『短歌清話 佐藤佐太郎随聞』(上)(下)(2009年)

佐太郎に師事した著者が昭和45年から61年までの師の言行について日録風に記した本。かつての師弟関係の濃密さに圧倒されるとともに、佐太郎の人となりがよくわかる内容となっている。上下巻あわせて1050ページに及ぶ大作だが、佐太郎沼にハマった人にはぜひ読んでほしい。
https://matsutanka.seesaa.net/article/415463275.html
https://matsutanka.seesaa.net/article/415518232.html
https://matsutanka.seesaa.net/article/416110859.html
https://matsutanka.seesaa.net/article/416149775.html

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2024年04月19日

今井聡『ただごと歌百十首』


副題は「奥村晃作のうた」。

奥村晃作の第1歌集『三齢幼虫』(1979年)から最終歌集『蜘蛛の歌』(2023年)までの18冊から110首を選んで鑑賞文を記した本。

長年奥村に師事してきた著者ならではの深い分析が随所に光る。また、親しい者しか知らないような奥村の個人的なエピソードも出てくるのも楽しい。

社会的・人間的規制の内側にあって、却ってひらめくような「ワイルドネス(本能)」といったものの光・力動というものを、奥村ただごと歌は常に掲出し、あぶり出している。
奥村の思想の根底、「一つの」「一人の」という、イデア志向があることに幾度か触れてきた。一つのこと、一人の行動・思考が、状況を動かす。そしてその一つの、一人の営為によって、奥村の認識が「改まる」のだということ。
奥村は徒歩及び自転車のひとであり、自動車乃至自動車社会を様々な角度から詠う。
奥村の現代ただごと歌、それは情(こころ)の歌であり、それは物に即して、こころの余計な装飾を避け(かなしい、寂しい等)その流れを示していくもの。
奥村がただごと歌で示していること、それを哲学的な面で捉えるのならば「我々は何を、知っている、分かったと言い得るのか」その範囲とは何処までを言えるのか、ということだろうと、私は解釈している。

1首につき1〜2ページ程度の鑑賞文という構成で、とても読みやすい。いろいろな歌人について、こうしたスタイルの本が出るといいなと思う。

最後に、110首の中から特に印象に残った歌を引こう。

縄跳びを教へんと子等を集め来て最も高く跳びをり妻が/『三齢幼虫』
大男といふべきわれが甥姪(おひめひ)と同じ千円の鰻丼(うなどん)を待つ/『鴇色の足』
タラバガニ白肉(しろにく)ムシムシ腹一杯食べて手を拭きわれにかへりぬ/『都市空間』
転倒の瞬間ダメかと思ったが打つべき箇所を打って立ち上がる/『ピシリと決まる』
スティックに切りしニンジン分け持ちて子らは腹ペコ山羊へと向かう/『ビビッと動く』

コスモス叢書の番号が「第1234編」であるのも、この本によく合っている気がする。

2024年2月20日、六花書林、2000円。

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2024年04月13日

楠誓英歌集『薄明穹』

著者 : 楠誓英
短歌研究社
発売日 : 2024-01-17

第3歌集。

モザイクのタイルをおほふ草の中お風呂ではしやぐ子らの声せり
てのひらの菌を殺せば遠つ世の仏陀のまなこに翳のさしたり
崖ぞひの軒にそよげる鯉のぼり岩肌に尾を削られながら
石段(いしきだ)の泥(ひぢ)は乾けり台風ののちを流れて炎暑の川は
陰惨に抜かれし牛の舌に似てジャーマンアイリスくらき花弁よ
草原を過ぎゆく雲のかげのなか白きイーゼル残されたまま
本当の名は知らぬまま離(か)れしひとの恥骨あたりのほくろをおもふ
開かれたポストの中を下がりゐる牛の胃袋のごとき見てゐつ
父を憎む少年ひとりをみつめゐる理科室の隅の貂の義眼は
ひしめける真鯉の口をぬひてゆくすずしき貌の鳰(にほ)の一羽は

1首目、廃屋の風呂場だった所からその家の子たちの声が聞こえる。
2首目、手の消毒をすることは仏教の不殺生の教えに反するのかも。
3首目、下句がいい。風にそよぐたびに岩に擦れてしまうのだろう。
4首目、増水した時の名残の泥がこびりつき無惨な姿を見せている。
5首目、かなり個性的な連想だ。牛タンを食べるために抜かれた舌。
6首目、夢の中の風景のよう。絵を描いていた人は消えてしまった。
7首目、本名を知らない相手との性愛の記憶。下句がなまなましい。
8首目、郵便ポストの中にセットされている回収袋。比喩が印象的。
9首目、少年時代の回想か。剝製の貂の義眼と少年の暗い眼を思う。
10首目、関わりを持たない鯉と鳰。でも官能的な雰囲気を感じる。

2024年1月17日、短歌研究社、2100円。

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2024年04月07日

江田浩司『短歌にとって友情とは何か』

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「北冬」の連載をもとにした第T部「短歌にとって友情とは何か」と第U部「寺山修司をめぐる断想」をあわせて一冊にまとめた評論集。

中心となる第T部では、石川啄木と金田一京助、岡井隆と相良宏、与謝野晶子と山川登美子、小中英之と小野茂樹などの関係を例に、友情とは何かについて考察している。

どのような親密な関係も、幸福の絶頂にあるとき、関係の崩壊は密かに気がつかないところで進行している。
孤独でなければ、友情の真の意味が理解できないのであれば寂しいが、孤独なるが故に、友情の持つ崇高さに触れることができるのならば、孤独であることの豊かさが友情とともに花開くこともあるだろう。

こうした友情論とともに印象に残ったのは、本歌取りや批評に関する鋭い指摘である。

「本歌取り」による歌の世界の重層性は、単に新しく創造された歌のことだけを指しているのではありません。本歌とそれに基づく歌との相互の世界が、創造を基点として、どちらにも拓かれてゆくことが必要とされているのです。
批評は、自分の短歌の好みを語る場でも、自己の短歌観の正当性を主張する場でもない。あくまでも、テクストに即し、その可能性を追求する場であり、テクストの読みを批評の言葉として提示する場である。

一つ気になったのは「斎藤茂吉と吉井勇」について論じた章に「二人に親密な交友関係があったわけではない。むしろ、勇と茂吉が、このような歌を送り合ったのには意外の感がある」と書いている部分だ。

細川光洋『吉井勇の旅鞄』は、『斎藤茂吉全歌集』に収録されていない茂吉の吉井勇宛の書簡24通(京都府立京都学・歴彩館所蔵)があることを述べた上で、次のように記している。

若き日に長崎で歓楽をともにし、「ダンスホール事件」ではともに妻と別居して冬の時代を過ごした二人は、心と心の深いところで通じ合う間柄であった。

これは二人の関係を考える上で大切なポイントだろうと思う。

https://gendaitanka.thebase.in/items/83845387

2024年2月26日、現代短歌社新書、1800円。

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2024年04月01日

三井修歌集『天使領』


ビルの影、木の影、我が影 一方(ひとかた)に倒れて都心の休日静か
春の夜のシフォンケーキはほぼ空気 ほろほろ空気を零しつつ食む
空也吐く小仏ほどの幽(かそ)けさに秋の夕暮れ鳥渡りゆく
大洋を航(ゆ)くべかりしに街をゆく我の肩より垂るる帆布は
明日の朝摘果さるべき実も容れてビニールハウスにメロンしずけし
あまたなる耳が夕陽に透きながら交差してゆく渋谷駅前
支払いを終えたる人はその杖を再び取りて歩み始めぬ
小さなる甕棺ありて小さなる骨が小さき石を抱きいる
八月の銀河が蒼く展(ひら)く下 紐解けやすき靴にて歩む
三人(みたり)して眠れば雪の下にても温かからむ能登の父母兄(ふぼあに)

1首目、本体は大きさも形も異なるけれど、影は同じ方向に伸びる。
2首目「ケーキ」と「空気」の音が響き合う。何とも軽やかな印象。
3首目、有名な空也上人像を用いた見立てと遠近感が実に鮮やかだ。
4首目、一澤帆布製のかばん。帆船や海への憧れを胸に秘めている。
5首目、メロンだけでなく人間の運命のことなども思わされる歌だ。
6首目、耳に着目したのがいい。スクランブル交差点を行き交う耳。
7首目、特別なことは何も言ってないのに、これで十分に歌になる。
8首目、縄文時代の抱石葬。「小さ」の繰り返しが悲しみを伝える。
9首目、上句と下句の取り合わせがいい。天上の銀河と地上の靴紐。
10首目、故郷の墓に眠る肉親たち。能登の風土への心寄せが滲む。

2024年1月25日、角川文化振興財団、2800円。

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2024年03月20日

大松達知歌集『ばんじろう』


2017年から2022年の作品597首を収めた第6歌集。

そこはかとなく冬は来てこんにゃくをパパの匂いと言うむすめあり
生まれたる日は水曜日ゆびさきを五センチ四方すべらせて知る
十二年生きたるという岩牡蠣を食いて穏やかならずこころは
アルタイル見つつ思えり地球ではない方にゆく光のゆくえ
鶏ももの三百グラム買うときの、ちょっと出ちゃっていいですか? 好き
いつか訊かんとして訊かざりき「教師なんて馬鹿のしごと」と言いし父のこころ
〈選べる〉は〈選ばなくてはならない〉でコーヒーブラック、ホットで先で
ヘアピンをしている男子なぜだめかだれもわからず会議が長い
この店のウエットティッシュしょぼくなるこうして日本しょぼくなりゆく
耐熱、の表示を信じ、信じない、注ぎながらにそっと念じる

1首目、娘とのやり取りがユーモラスに詠まれ、微苦笑を誘われる。
2首目、スマホで検索するだけでいろいろなことがわかってしまう。
3首目、1年1年少しずつ成長した命だが、食べるのは一瞬のこと。
4首目、光は全方向に放たれているのだが誰に見られることもない。
5首目、昔ながらの対面販売の肉屋さん。温かみのある会話がいい。
6首目、亡き父の言葉。仕事に関しては互いに譲れないものがある。
7首目、自分の意志で選択するのは自由なようでいて強制でもある。
8首目、これまでダメだったからダメといった考え方は今も根強い。
9首目、経費削減のためなのだろう。昔はおしぼりが一般的だった。
10首目、信じつつ信じてないという心のありように気付かされる。

2024年1月25日、六花書林、2500円。

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2024年03月18日

三枝ミ之『佐佐木信綱と短歌の百年』


佐佐木信綱の作品や歌論を中心に、近代以降の短歌の歴史を追った評論集。370ページという厚さだが、論旨がすっきりしていて文章も読みやすい。おススメの一冊。

佐佐木信綱(1862-1973)に着目することで、和歌・短歌史の見え方が従来とは違ってくる。また、満91歳まで生きた信綱の人生をたどることで、明治・大正・昭和(戦前・戦後)という時代の変遷がひとつの流れとして浮かび上がってくる。

正岡子規や与謝野鉄幹の和歌革新と信綱のそれは大きく違う。わかりやすく言えば、革新のために遺産を切るか、逆に担い直すか、そこが違う。
佐佐木信綱は、和歌短歌の千三百年を視野に収めながら、短歌百年の革新を貫いた歌人である。
近代以降の短歌百年を〈自我の詩〉や〈写生〉という自己表現の尺度で括っていいのか、それだけでは落ち着かないのではないか。そんな思いが私の中で徐々に大きくなったことが信綱へ向かわせた。

これは、近代以降の「短歌」を1300年の歴史の中で新たに捉え直す試みと言っていいだろう。国文学者として『日本歌学史』や『校本万葉集』を刊行し、『梁塵秘抄』や大隈言道『草径集』などを発掘した信綱は、和歌と短歌をつなぐ最大のキーパーソンである。

題詠をめぐる旧派と新派の違いの話もおもしろい。

「燕」は「毎年春来り秋去りて、雁とゆきかはる意をよむ」ものだった。「燕」という題を受けて、若燕の飛翔の初々しさを詠むのはダメということになる。大切なのは旧派和歌の題詠には題を詠み込むための作法が必須だったという点である。
題詠から折々の歌へ。これが和歌革新のポイントだが、題による歌作を子規や鉄幹たちもさかんに試みており、『思草』にも題詠の場による歌は少なくなく、例の観潮楼歌会も題詠歌会と見ることができる。ただ、彼等は旧派和歌の題詠が守っていた厳密なルールからは自由で、題は自由な発想のための刺激材だった。

現在よく行われている「題詠」も、要するにこの流れにあるわけだ。

そして、信綱の歌の特徴について。

信綱は細やかな描写よりも風景の大づかみな把握を得意とする歌人である。
短歌には「晴(はれ)の歌」と「褻(け)の歌」がある。公の場を意識した晴の歌、プライベートな日常性が褻の歌。近代以降は「明星」の「自我の詩」に表れるように褻の歌、生活の歌の時代となった。(…)それも大切な領域だが、しかし信綱は歌によってもろもろを愛でる領域を大切にした。

「晴の歌」というのは、現代短歌がもっとも失ってしまったものと言っていいかもしれない。私もそうした歌はほとんど詠んだことがない。今後の短歌を考える上で重要な指摘だと思う。

最後になるが、信綱の「おのがじしに」というスタンスが前川佐美雄という個性的な歌人を生んだという話も印象的だった。歌柄が違っても歌人の系譜はやはり大きな影響力を持っているのだ。

2023年9月1日、角川書店、3000円。

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2024年03月03日

渡辺松男歌集『時間の神の蝸牛』


626首を収めた第11歌集。

〈ゆふやけをひきずるやうにゆつくりとじかんのかみのまひまひつぶり〉という歌があるので、タイトルの蝸牛は「かたつむり」ではなく「まいまいつぶり」と読むのかな。

きみ逝きてきみの見しものみな消えき日光の鹿も尾根ゆくわれも
距離おきて認めあひをり赤城神社榛名神社の大杉同士
放し飼ひのごときにあれど柵ありぬ柵までゆかず豚ねむりをり
いまだれもきてをらざればわれはゐて乙見湖畔のきくざきいちげ
白い火を地につきさしてゐるごとし遠くにならぶ白木蓮(はくもくれん)は
親不知けふぬかれたり吾とともにやがて焼かるることまぬかれて
花といひ散りたるといひ悲しむに一連のながれにゐるともおもふ
簡易宿泊所におもへらく天井の染みもここまで旅してきたる
人体を余分と思(も)へば駅伝に襷が宙を移動しつづく
労働の消えたるごとしうつとりと鏝(こて)から壁のうまれたるとき
待つといふまぶしきことをしてをりぬをんなの子朱の傘をまはして
立葵バスケット部とバレー部の姉妹ならべるごときに高き
待たされてゐるあひだにて鉄道とこの道出会ふところ雨おつ
鍵盤をきれいといふ子ゆびさきを渓流の魚のやうにうごかす
みづみづとはだかをまとふ柿わかばはだかみられてうれしきわかば

1首目、きみの死によってともに過ごした自分の一部も消えるのだ。
2首目、どちらも立派な杉なのだろう。何百年も前からのライバル。
3首目、柵に囲まれていることを知らないで豚は生きているのかも。
4首目、肉体のない魂や幽霊みたいな「われ」が湖畔に立っている。
5首目、上を向いて咲く白木蓮を「白い火」と見立てたのが印象的。
6首目、三句以下に驚く。自分が死後に焼かれる姿を想像している。
7首目、咲いて散るまでが一つの出来事。人生も同じかもしれない。
8首目、布団だけがあるような安宿。流れ流れてやってきた感じだ。
9首目、確かに大事なのは人体ではなく襷。利己的な遺伝子みたい。
10首目、作業中は塗り跡が見えるけれど仕上がると跡が残らない。
11首目、待つというのは未来があること。下句の描写が鮮やかだ。
12首目、23音も使った長い比喩。漫画のようで抜群におもしろい。
13首目、踏切と言わないのが巧み。別に何でもない場面だけれど。
14首目、白と黒の鍵盤がまるで渓流のながれのように見えてくる。
15首目、つやつやと明るい柿若葉。生命力の溢れる様子が伝わる。

あとがきに「ほとんど記憶と想像で詠んでゐるため、歌はあちこちへ飛びます」とある。肉体の不如意が心の自由を生み出しているのかもしれない。

2023年12月20日、書肆侃侃房、2600円。

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2024年02月27日

正岡豊歌集『白い箱』

masaoka.jpg


1990年刊行の『四月の魚』以降の約30年の作品を収めた第2歌集。
https://gendaitanka.thebase.in/items/81329836

みたこともないのにぼくの心臓のいろのゆうべの天の橋立
月光に触れることなく生きるのも愉悦というかシロシタカレイ
愛はときにはさんま定食 むらさきのひかりに浮かぶきみの横顔
洗濯機の上の突っ張り棒にきょう二枚のバスタオルの天の河
湯の中で踊る一枚のだしこぶは明るい独身の叔父さんである
歌は石でも雲でもなくて校庭のすみれの空を刺すのぼり棒
細胞膜はあっても細胞壁はないわたしとあなたでのぼるやまなみ
午後二時のぼくらがおりたあとのバス二人の老婆のしゃべる宇宙だ
タイカレーふたりで食べにいくのです 蘭鋳を闇に泳がせたまま
「午後」と「紅茶」のようにきわどく一ヵ所で繋がっているきわどく深く

1首目、夕焼けに染まる天の橋立。心臓の色に喩えたのが印象的だ。
2首目、大分県日出町の名産。海の底に棲む鰈と月光の取り合わせ。
3首目、初二句に驚かされる。日常の中にある愛の豊かさを感じる。
4首目、一枚でなく二枚なのがポイント。二人の暮らしを思わせる。
5首目、下句の断定に妙に説得力がある。気ままに生きている感じ。
6首目「校庭の隅」かと思うとそうではなく「菫の空」とつながる。
7首目、上句の親密な感じがいい。動物だから当り前なのだけれど。
8首目、まるで別世界のような空間に、二人の声だけが満ちていく。
9首目、部屋の電気を消しただけなのに、下句に深い味わいがある。
10首目「午後の紅茶」の「の」が持っている強引なまでの接続力。

2023年12月13日、現代短歌社、2700円。

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2024年02月25日

小林幸子歌集『日暈』

著者 : 小林幸子
本阿弥書店
発売日 : 2023-10-06

2018年から2023年の作品496首を収めた第9歌集。

猫のこと話してをれば猫の耳すこし大きくなりて立ちたる
川こえて倒れたる樹のよろこびは月光の夜にけものを渡す
公園のつつじのはなの生垣をあるくすずめはときどき沈む
山をゆく五人家族でありし日の筑波山にはふたたびゆかず
廃線の橋わたりゆく紅葉の谷間より湧く霧踏みながら
調剤を待つまの窓にカーブスのマシンを走るひと見えてをり
つつつつと歩きて道をわたりゆく喫水線の白きせきれい
橡のはな数へゐるとき風がふき天辺からまたかぞへなほせり
ちりとりの先でみみずを剝がしたり白じろとSの形がのこる
柳川の堀端に咲くくれなゐの椿はみづに散るほかはなき

1首目、自分のことが話題になっていると感づいているのだろうか。
2首目、思いがけない形で橋となり生きものたちの役に立っている。
3首目、見え隠れする様子を「ときどき沈む」と表現したのがいい。
4首目、かつての家族旅行のことを懐かしく寂しく思い出している。
5首目「霧踏みながら」がいい。高所を歩くときの不安感が伝わる。
6首目、薬局で座っている人とフィットネスクラブで走っている人。
7首目、背が黒くて腹が白いセグロセキレイ。「喫水線」が絶妙だ。
8首目、枝葉が揺れてどこまで数えたかわからなくなってしまった。
9首目、乾いてこびり付いていたみみずの死骸。なまなましい描写。
10首目、そこで咲いたからには堀の水に落ちる運命になっている。

2023年10月1日、本阿弥書店、2700円。

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2024年02月19日

俵万智歌集『アボカドの種』


375首を収めた第7歌集。

ウクライナ今日は曇りというように戦況を聞く霜月の朝
はちみつのような言葉を注がれて深夜わたしは幸せな壺
占領のかさぶたありて牛乳は946ミリリットル
ベランダで見るときよりも窓枠を額縁にした月が明るい
角あわせ夏のおりがみ折るようにスイカを冷やす麦茶を沸かす
一撃でずんと倒れるイノシシのもう動かないガラスの目玉
シトーレンにバター滲みゆく冬の午後 可視化できない子の心あり
「おなしゃす」はお願いしますのことらしいコンビニ振り込み二日以内に
九十の父と八十六の母しーんと暮らす晩翠通り
言葉とは心の翼と思うときことばのこばこのこばとをとばす

1首目、毎日耳にしているうちにだんだん慣れてしまうことの怖さ。
2首目、身体中に嬉しい言葉がたっぷりと満ち溢れていくイメージ。
3首目、沖縄ではアメリカ占領時にガロンを使っていた影響が残る。
4首目、外より室内で見る方が明るく感じるのが面白い。額縁効果。
5首目、夏の定番であるスイカと麦茶が暮らしの様式になっている。
6首目、「ガラスの目玉」が印象的。既に命を宿さない目の感じだ。
7首目、堅いパンとバターの様子が息子の心のありようと呼応する。
8首目、子から届く振込依頼のLINEの言葉。私の息子もよく使う。
9首目、詩人の土井晩翠にちなむ仙台の道路名が晩年を感じさせる。
10首目、こ・と・ばの音をひらがなでリズミカルに用いて鮮やか。

2023年10月30日、角川文化振興財団、1400円。

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2024年02月05日

奥村晃作歌集『蜘蛛の歌』


353首を収めた第19歌集。
あとがきに「短歌人生の総括としての最終歌集を出したいと思い、出すことにした」とある。

武蔵小杉のタワーマンションに多摩川も入れてスマホの写真に収む
動物園生まれの子象が走りたりそれなりに広い敷き砂の上を
壮年の体の癌はバリリバリリ音立てて増殖するとぞ聞けり
向き合って一言も言葉交わすなく交互に黒石白石を置く
コロナウイルスのお蔭で東京の秋の空とことん澄みて浮かぶ白雲
前線で戦う兵士こそあわれウクライナのまたロシアの若者あわれ
黄の花が咲けば目立ちて線路沿いにセイタカアワダチソウ群れて咲く見ゆ
無尽から帰宅の父はごきげんでラバウル小唄を歌い踊りき
22階の部屋に目覚めて朝食は38階、バイキングとぞ
「五月雨を集めてすずし最上川」芭蕉の詠みし発句ぞこれは

1首目、縦と横、人工物と自然の取り合わせが印象的な一枚になる。
2首目「それなりに」がいい。本来の環境とは比べるべくもないが。
3首目、まさか本当に音がするわけではないだろうが、何とも怖い。
4首目、仲が悪いのかと思ったらそうではなく囲碁をしている場面。
5首目、コロナ禍の弊害は多く歌に詠まれたが、これは良かった点。
6首目、利権とも大義とも関わりのないところで死んでいく兵たち。
7首目、花の咲く時以外はあまり意識して見ていないことに気付く。
8首目、地域の寄り合い的な宴会。戦時歌謡を歌う父のもの悲しさ。
9首目、高層ホテルに泊まるとまるで空中都市に住んでいるみたい。
10首目、大石田に残る芭蕉の直筆。『奥の細道』では「早し」に。

2023年12月19日、六花書林、2600円。
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2024年01月29日

金川宏歌集『アステリズム』

著者 : 金川宏
書肆侃侃房
発売日 : 2023-11-07

第4歌集。

死んでからも木の葉のように吹き溜まる音符よそんなに鳴らされたいか
そのオノで、と言いかけてみずをしたたらせ動かぬ森よ ならばわたしが
水草にくるぶしをゆるくつかまれて人生という金色の午後
ヒトハヒトヲコロシテキタソシテコレカラモ 三月、黄と青やがて漆黒
孤がはらむとおき中心わたくしというまぼろしへ引き絞る弦
くらぐらとひとのかたちをゆるされて虹顕つみずのうえを越えゆく
駅は燃え寺院は沈み思ひ出のやうに風吹く 帰らうかもう
傘ふたつ野に消えゆきて春浅き墓のほとりは薄日射したり
夕闇はふかぶかとして過ぎしものと未だすぎざるもの揺らす橋
溶鉱炉しづまりがたく屹(た)つゆゑに町つらぬきて青ふかき河

1首目、生きている音を残すためには、音符にしなくてはならない。
2首目、斧で切れと森が迫るのか。対峙する緊張感と迫力を感じる。
3首目、しがらみと安らぎがないまぜになったような人生の後半戦。
4首目、ウクライナへの侵攻。止むことなく続く戦禍の歴史を思う。
5首目、孤は弧に通じる。円弧によって中心が浮かび上がってくる。
6首目、水たまりの明るさを越える時に自らの身体の暗さを感じる。
7首目、廃墟のような世界を眺めている。でも帰る場所はあるのか。
8首目、写実の歌として美しい。雨上がりの日差しと野にある墓と。
9首目、夕闇も橋も二つの世界に跨るもの。その境目の揺らぐ感じ。
10首目、火と水のイメージを最大限に生み出す言葉の取り合わせ。

2023年11月13日、書肆侃侃房、2000円。

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2024年01月26日

香川ヒサ歌集『The quiet light on my journey』

 kagawa.jpg


2015年から2023年までの作品381首を収めた第9歌集。

アルプスの地下水詰めしボトル買ふ土の匂ひのせぬ地下駅に
讃美歌で始め讃美歌で終へる会今年度予算決める時にも
その中を生きるほかなき今の世のキッチンに洗ふグラスが薄い
喜んで伺ひますと返信す感情は約束できないものを
新聞とテレビに目と耳塞がれてゐたがスマホに手も塞がれる
「はやぶさ2」が小惑星より採り来れば岩のかけらを寿ぎてをり
音もなく光の襞より現れし蝶は入りたり光の襞へ
マスクした人の不安が満杯の十六両編成「のぞみ」発車す
マーケットで買ふ生姜入りビスケットさくさく歳晩過ぎますやうに
肖像画に見る見も知らぬ人の顔セリーナ・シスルウェイトの顔

1首目、現代人の日常だが言葉にすると実に奇妙なことをしている。
2首目、全く縁のなさそうな二つのことが同じ場で行われる不思議。
3首目、一瞬で壊れてしまいそうな危うさの中で日々を生きている。
4首目、実際に伺う段階になって自分が喜んでいるかはわからない。
5首目、メディアの発達に人間の感覚や思考が次々と侵されていく。
6首目、マスコミによる過剰な盛り上げ方を皮肉っぽく詠んでいる。
7首目、明るい日差しの中を飛ぶ蝶。「光の襞」という表現が巧み。
8首目、1300人もの人々が感染を怖れて全員マスクしている空間。
9首目、上句が「さくさく」を導く序詞になっている。楽しそうだ。
10首目、絵に描かれ美術館に展示され死後も長く見られ続ける人。

近代短歌を本歌取りした歌も何首かある。

金色の小さき鳥の形した銀杏か百年散り続けをり
金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に
/与謝野晶子『恋衣』(1905)
このくにの空を飛ぶとき悲しみしかりがねをりけむ大震災後も
このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へ向かふ雨夜かりがね
/斎藤茂吉『小園』(1949)

2023年12月24日、ながらみ書房、2200円。

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