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井泉」(編集発行人 竹村紀年子)は隔月刊の結社誌。春日井建が亡くなったあと、2005年に「中部短歌」から分れて創刊された。
この結社誌の特徴は散文に力を入れていることで、今号にも連載や評伝を含めて5編の文章が掲載されている。中でも「リレー評論」は「井泉」の目玉企画とも言えるもので、数号にわたって一つのテーマを設定し、結社外の歌人も招いて評論を書かせている。
これまでに「ほんとうっぽい歌とうそっぽい歌について」「短歌の私性について」「今日の家族の歌」といったテーマがあり、いずれも面白く読んできた。今回は前々号、前号に続いて〈短歌の「修辞レベルでの武装解除」を考える〉というテーマのもと、棚木恒寿「武装解除のゆくえ」、佐藤晶「「私」の範囲」の2本の評論が掲載されている。
それぞれの評論の中身にまでは立ち入らないが、一点だけ気になったことがある。それは二人がそれぞれ永井祐の同じ歌を引いているのだが、その表記が異なっていることだ。
あの青い電車にもしもぶつかればはねとばされたりするんだろうな
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな
「はねとばされ」と「はね飛ばされ」、一体どちらが正しいのだろう。残念なことに、ともに出典が書かれていない。この歌はあちこちで引かれている有名な歌なので、そうした文章をいくつか見てみたが、不思議なことに誰も出典を明記していない。しかも、この二通りの表記が混在して、まかり通っている。
例えば山田富士郎「ユルタンカを超えて」(「短歌現代」2009年9月号)には、穂村弘の「棒立ちの歌」(「みぎわ」2004年8月号、『短歌の友人』にも収録)からの孫引きとして、この永井の歌が引かれている。しかし、その「棒立ちの歌」を見ても出典は書かれていない。
ああでもない、こうでもないと調べた末に、ようやくこの歌の初出が2002年の「短歌WAVE」創刊号であることがわかった。この号に第1回北溟短歌賞次席作品として、永井の「総力戦」100首が載っており、「あの青い・・・」の歌はその中に含まれている。結局、正しい表記は後者の「あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな」の方であった。
別に引用ミスについてとやかく言っているわけではない。どちらの表記が正しいのかさえ不明瞭なままに議論が続いていることに驚いたのだ。もう10年近くにもわたって、多くの人が孫引きに孫引きを重ね、直接原典に当たることをせずに、この歌についての議論を繰り返してきたということだろう。そう思うと、何ともむなしい気持ちになるのである。