2016年08月02日

「ユリイカ」 2016年8月号

特集「あたらしい短歌、ここにあります」。

特集とは関係なく、巻頭の中村稔「故旧哀傷・松田耕平」がすごくいい。

松田耕平さんは失格経営者として当時の東洋工業株式会社、現在のマツダ株式会社の社長職からの退陣を余儀なくされた方である。

という一文から始まり13ページ、少しも隙のない文章が続く。
まさに読ませる文章の見本という感じだ。

穂村弘と最果タヒの対談「ささやかな人生と不自由なことば」は、二人の率直なやり取りが印象に残る。

穂村さんの発言からいくつか。

僕は「なんで詩でも俳句でもなく短歌なんですか」って訊かれたときに、なんでハンマー投げの選手は円盤でも砲丸でもなくて、ハンマー投げるんだろうって思ったことがあって(笑)。
短歌は上手い人ほど、そこだけラインマーカーが引いてあるように見えることがある。「ここがツボだ」って。
(“あざとさ”みたいなことですか。)
仮に“あざとい”としても抗えない、なにか「味」みたいなものかなあ。
表現のための専用ツールである音楽や踊りだったら、現実の出来事からもっと独立した強さを持ち得るんじゃないか。でも、言語は短歌や詩の専用ツールじゃなくて、いわば兼用ツールだから、必ず意味の汚染を受けてしまう。

こうした鮮やかな比喩や的確な分析は、さすが穂村さんという感じがする。

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2016年07月01日

「黒日傘」第6号

高島裕の個人誌。特集は「日本」。ゲストは澤村斉美。

  幼い私のためだけのクリスマスだつた。
耶蘇嫌ひの祖母の面輪も照らしたるクリスマスケーキの蝋燭あはれ
公用語を英語に切り替へたときの膨大な「国益」を想へり
(座布団を足でずらした!)宰相に株価を上げてもらつて感謝

高島裕「残光の祖国」30首より。

「日本」についての作者の思いをかなり正面から詠った一連。1首目、今になって思い出す祖母の姿。2首目は「国益」という観点だけで判断して良いのかという問い。3首目の初二句はテレビに映った安倍首相の仕種を詠んだもの。

海の果ての日本列島しなやかに反りつつ春の鳥たちを待つ
十センチほど開きたる窓からの風のまんなか子が手を合はす
倒壊家屋映れば指がテレビを消す子を抱くわれはソファに在りて

澤村斉美「つばめつばめ」30首より。

子を産んで母となった作者。全体に柔らかな言葉遣いによって子の様子や母としての思いを詠んでいる。1首目、弓なりに反る日本列島の形を俯瞰したような大きな歌。2首目、「十センチ」「まんなか」といった言葉がうまい。3首目、小さな子には見せたくないという思いと、消すことへのある種の後ろめたさ。

ゴミ出しの未明の路地の白鼻芯、その白線の鮮やかならず
背景に桔梗を長く咲かせつつ真夏の母は健やかに笑む
便意怺(こら)へつつ見て回る春画展、人間といふ襞をかなしむ

高島裕「ひとたび」30首より。
高島の歌では日常を詠んだこちらの連作の方が私の好み。

1首目、「ハクビシン」は額から鼻にかけて白い線があるのが名前の由来。都会暮らしのためか、それがぼやけてしまっている。2首目、元気だった頃の母の写真であろう。3首目「人間といふ襞」が印象的。その襞が様々な喜びや悲しみを生み出すのだ。

2016年6月3日、TOY、600円。

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2016年05月26日

角川「短歌」2016年6月号

第50回迢空賞が発表になっている。
受賞作は大島史洋さんの歌集『ふくろう』。
http://matsutanka.seesaa.net/article/416896116.html

この歌集は兄の大島一洋さんの著書『介護はつらいよ』(小学館)とあわせて読むと、さらに味わいが深まるように思う。父・兄・弟という男3人の関係が浮かび上がってくる。

今回驚いたのは、高野公彦さん(選考委員)の選評だ。

「五冊の候補歌集の中で、私は水原紫苑の『光儀』にいちばん魅力を感じた という一文から始まって、最後まで水原作品についてだけ書いている。『ふくろう』には一切触れていない。これはなかなかスゴイことである。

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2016年05月02日

角川「短歌」2016年5月号

対談「31文字の扉―詩歌句の未来を語る」は、小池光(歌人)と大木あまり(俳人)。

最近の小池さんの発言や文章は、何でもはっきり言っていて面白い。

私の印象だと、フィクションの短歌ってやっぱり作った世界だから弱くなる。現実って強いからね。有無を言わせぬ力で運べるので。ほとんどありのままにしか今は作ろうと思わない。
短歌っていうのはね、最後まで私が出るんだよ。(・・・)我って書いてなくても我が出て、その我が何をしたか、何を思ったか、こうなったかという構造を、どうしても。俺に言わせれば。前衛短歌だって、大きな構造は同じなんだな。みんな、私がこうしました、こうしましたって作っている。
(人のものを)読まなくてはいけない。それを、今の若手に強く言いたい。ちゃんと歌を読めるような、リーディングね。読む力というか、読む常識を持つ。(・・・)歌会に行って若者がいてどういう批評をするかと聞いていると、全然分かっていない。そういう批評に度々遭遇するね。

かなり思い切ったことを言ってるなという気がする。
ここまで言い切っていいのかなという気もする。

でも、遠慮した言い方やバランスをとった発言よりも、こんなふうに自分の考えをはっきり言うことが大切なのだろう。異論・反論のある人は、またそれを自分で言えばいいのだから。


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2016年02月03日

「短歌」2016年2月号

阿波野巧也さんの歌壇時評「〈近代〉へのアクセス/永井祐の「人間」」を読んだ。そうだよなと思ったり、そうかなと思ったり、いろいろと議論したくなる内容だ。

とりあえず1点だけ。

短歌における人間の問題について、阿波野は

短歌に「人間」を見出して鑑賞するとき、作品群から作者像が結ばれるという主従関係は、壊されてはならない。作者情報を〈主〉、作品を〈従〉となして鑑賞した結果〈濃厚な人間〉が歌に現れる、という鑑賞態度ばかり取っていると、作品から作者像を結ぶという「読み」の営為は虚しいものとなってしまうだろう。

と述べる。基本的には私もこの考えに賛成である。
ただ、一番の問題は、短歌において「作品」と「作者情報」を明確に分けることが、非常に難しいという点にあるのではないか。

例えば、永井祐の歌を引いて阿波野は

これが永井の見えている世界であり、東京で生まれ育った永井自身に芽生えている感覚なのだと思うと、この歌の背後に平成の今を生きている人間がいるように感じられないだろうか。

と書く。でも、永井の「作品」のどこから「東京で生まれ育った」ということが読み取れるのだろう? それこそ「作者情報」ではないのかといった疑問が湧く。少なくとも時評に引かれている歌からは、そういったことはわからない。

永井の歌集『日本の中でたのしく暮らす』を読めば「東京」「山手線」「五反田駅」「池袋」「渋谷」「品川区」といった地名が出てきて、彼が現在東京に暮らしていることはわかる。けれども、東京に生まれたという点はどうか。

わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる

という歌から推し量ることは可能であるけれど、実際にはどうなのだろう。それよりも、歌集の最後に記された「1981年、東京都生まれ。」というプロフィールに依拠しているのではないかとの思いが拭えない。

どこまでが「作品」から純粋に読み取れることで、どこからが外部の「作者情報」なのかという問題は、無記名の歌を批評する歌会の場ならともかく、通常の歌集や歌人について論じる時には、明確に切り離せるものではないように思う。両者は渾然一体となっているのだ。

もちろん、だから切り離す必要がないと言っているわけではない。切り離して論じることで、短歌という詩型について見えてくるものも多い。けれども、実際にはなかなか切り離せないという点も、短歌の特徴として踏まえておく必要があるのではないだろうか。

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2016年01月28日

「短歌人」2016年2月号

編集室雁信(編集後記に当たるところ)に発行人の川田由布子さんが次のように書いていて、身につまされた。

●昨年十二月号に平成二十七年度の会計報告を掲載したが、残念ながらマイナスの収支であった。今後の会計の事情を考えると誌面の見直しが必要となり、まず三月号から作品の掲載数を減らすこととした。最大掲載数は同人は七首、会員1は六首、会員2は五首とする。一年かけて誌面を全面的に見直すことにしましたので皆様のご理解とご協力をお願いします。

どの結社も会計事情は似たようなものだろう。「塔」もまた会費収入だけでは足りずに、寄付や多くのボランティアによってかろうじて会計を支えている。

雑誌を定期刊行するというのは、非常にお金のかかることなのだ。

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2016年01月13日

「りとむ」2016年1月号

編集後記に今野寿美さんが「出づ」「出ず」の問題について書いている。

●文語「出づ」の新かな遣い表記は「出ず」と初歩の頃に教わった。そうすると「出(い)ず」なのか「出(で)ず」なのか紛らわしい例があるため、ある全国紙の歌壇では、これのみ新かな遣いでも「出づ」を許容していると聞いた。(・・・)広辞苑の場合、見出し語の下に(イヅ)【出づ】とあるが、(イヅ)は旧かな遣いを【出づ】はその漢字表記を示しているとみることができる。ということは「片づける」「基づく」などと同じく、「出づ」も発音表記は「いず」だが新・旧かな遣いともに「出づ」(ダ行)が適正だろう。

これまで新かなは「出ず」、旧かなは「出づ」と考えていたものを、新旧ともに「出づ」とするという考えであり、なるほどと思って読んだ。

「出づ」「出ず」問題は、結社誌の校正などをしていても頭を悩ませることが多い。有島武郎の名著にしても、岩波文庫では『生れ出ずる悩み』、新潮文庫や集英社文庫では『生れ出づる悩み』と表記が分かれている。

広辞苑の漢字表記は確かに【出づ】なのだが、こうした例は他にも【閉づ】【撫づ】【恥づ】【愛づ】などがあって、これらの新かな表記はどうするかという問題にも派生していく。

この4つの動詞にしても一様ではない。「撫ず」「愛ず」という表記には「出ず」と同じ違和感を覚える。それに対して「閉ず」「恥ず」は、(私の場合)あまり違和感がない。これは、日常使っている口語新かなで「撫でる」「愛でる」とダ行であるか、「閉じる」「恥じる」とザ行であるかという点が関係しているのだろう。

結局どうすればいいのか、結論を出すのは難しい。

私自身について言えば、「出ず」「撫ず」「愛ず」という表記はたぶん使わない。「出る」「撫でる」「愛でる」と口語を使うことによって回避できる問題であるからだ。

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2015年12月12日

角川「短歌年鑑」平成28年版

@ 篠弘「定型に欠かせない文語」に私の書いた時評が孫引き的に言及されているのだが、その要約の仕方に異議がある。

松村は言語学者で作歌する東郷雄二が、「ある」「いる」のような動作動詞のル形(いわゆる現在形)の終止は出来事感が薄い、何かが起きたという気がしないと、すでに論じていたことに首肯する。

東郷さんは短歌についての文章は書いているけれど「作歌」はしない。
それに「ある」「いる」は状態動詞であって動作動詞ではない。

私が引用した東郷さんの文章(「橄欖追放」第164回)は次の通り。

「ある」「いる」のような状態動詞のル形は現在の状態を表すが、動作動詞のル形は習慣的動作か、さもなくば意思未来を表す(ex.僕は明日東京に行く)。このためル形の終止は出来事感が薄い。何かが起きたという気がしないのである。

どうしてこの文章がそのまとめになってしまうのか、と残念に思う。

A 座談会「現代短歌のゆくえ」に参加してます。藤島秀憲、大井学(司会)、松村正直、大松達知、島田幸典、笹公人の6名。昨年から今年にかけて角川「短歌」にリレー評論を書いたメンバーなのだが、見事に結社に属する中年男性ばかりとなってしまった。

B 特集「話題の歌集を読む」で、服部真里子が小池光『思川の岸辺』について書いている。「水仙と盗聴」で話題になった二人の組み合わせだ。可能性としての死や「われ」の交換不可能性を論じた丁寧な内容なのだが、小池の妻の死には一言も触れていない。

無論あえて触れなかったのだろう。かなりの力技である。私は妻の死に触れなければこの歌集を論じたことにならないという立場なのだが、一方で服部の意志の強さや態度には清々しい印象さえ受ける。

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2015年11月27日

六花書林十周年

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六花書林(りっかしょりん)が創業10周年を迎えた。
その記念冊子に、私もお祝いの文章を書かせていただいた。

これまで、評論集『短歌は記憶する』(2010年)、評伝『高安国世の手紙』(2013年)、歌集『午前3時を過ぎて』(2014年)と、3冊の本をこの六花書林から刊行している。

このうち『高安国世の手紙』は、最初別の出版社に見積りを取ったところ、驚くほど高くて出版を諦めかけていたもの。六花書林のお蔭で3年間の連載を一冊にまとめることができた。

大辻隆弘著『近代短歌の範型』、『高瀬一誌全歌集』など、最近も注目すべき本を次々と出している。ますますのご発展を。

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2015年11月11日

「立命短歌」第3号

「顧問作品」「会員作品」「OB作品+ミニエッセイ」「エッセイ」「企画」「評論」「立命短歌史」「吟行」「前号評」「活動記録」「規約」と、充実した内容。全144ページ。

印象に残ったものを順番に挙げていく。

○エッセイ 菊池まどか「菊池まどかの電子書籍を買わない暮らし」

「少しくらい値段が高くても、ちゃんとしたものを売ってまっとうに商売をしている、小さな商店にお金をまわすことに決めたの」という友人エミリーの言葉に触れて、それを実践するようになる作者。私も共感する。以前だったら「何を青臭いこと言ってんの」と言われそうな内容なのだが、こういう「まっとう」な感覚が実は大事なのだ。

○会員作品
いつからかヒエラルキーの枠外に置かれたほうれん草のおひたし
                 加藤綾那
座らせてあなたに缶を手渡せばあらゆる花としてさくらばな
                 村松昌吉
新設の書架のひかりを浴びながらレーニン全集、とほい呼吸よ
                 濱松哲朗

○宮ア哲生「立命短歌史U」

「立命短歌」創刊号に掲載された「立命短歌史」の続編、補足編。
その後あらたに判明したことや見つかった資料などを取り上げつつ、第一次から第四次までの立命短歌会の歴史を描き出している。非常に緻密な内容で、資料の探索力にも驚かされる。

今後我々が立命短歌史を編んでいくにあたって、先代「立命短歌史」(1970年に書かれたもの:松村注)が明らかに出来なかったことをいかに盛り込めるかは、重要な課題点である。
立命短歌史について文章化するとき、思い起こせばいつも意識していることがある。それは、四〇年後の立命短歌会に所属する後輩に、見知らぬ先輩が通ってきた過去を学びたいとする後輩に、少しでも自分の調査事項、知識、考察を伝えたい、ということである。

40年前に書かれた文章を読みながら、40年後のことを意識する著者。歴史のバトンをつなぐこうした観点は、今、非常に大切なものだと思う。

○評論 濱松哲朗「坂田博義ノート〈前篇〉」

第3次立命短歌会に所属し、1961年に24歳の若さで亡くなった坂田博義について、残された作品や資料を丁寧に読みつつ、著者はその実像に迫っていく。

興味深かったのは、坂田が教育実習で訪れた北海道の中学校の校長が、坂田の父だったのではないかという推論である。その上で著者は「教員である父への思いの屈折」「家や父に対する坂田の屈折」を導き出す。こうした指摘は、たぶん初めてのことだろう。これは重要な点だと思うので、ぜひ確証を掴んでほしい。

坂田のライバルであった清原日出夫については、野一色容子さんの2冊の評伝によって、かなり詳細なことまでわかってきた。坂田博義についても、同じようにいろいろなことが明らかになっていくのを期待したい。

2015年9月20日、立命館大学短歌会、500円。

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2015年10月15日

「歌壇」2015年11月号

現在発売中の「歌壇」11月号に、「サハリンの息」30首を発表しました。
夏に1週間ほどサハリンを訪れた時のことを詠んだものです。
どうぞ、お読みください。

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2015年08月31日

「短歌往来」2015年9月号

「思い出の歌人」という特集があり、馬場あき子さんが2012年に亡くなった武川忠一さんのことを書いている。

お酒が入る席では、私は必ず武川さんの近くに座った。いい話、つまりけっこうきびしい批判が笑いの中できけるからだ。あの狭量が頭をもたげて放ってはおけなくなるのである。「あんたはなあ」とくればしめたもので、あとは「うそだ、うそだ」と防衛していればちくりちくりとやってくれるのが何だか浮き浮きとうれしいのである。

いい関係だなあと思う。年を取るとともに、みんななかなか本当のこと、まして批判めいたことは言ってくれなくなるものだ。それを武川さんは言ってくれたし、馬場さんも喜んで素直に聞いたのだろう。

そう言えば、馬場さんの歌集『記憶の森の時間』の中に、「武川さん」という一連があった。

語りたき武川忠一は耳遠しわれも八十を過ぎしよと叫ぶ
忠一は婉曲にして鈍刀をよそほひて斬りしよ夜更けて痛し
斬られることわかつてゐるが面白く武川忠一の隣に坐る

八十歳を過ぎた馬場あき子に意見できる人というのは、そう多くないにちがいない。長年にわたる二人の交友の深さを思うのである。


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2015年07月09日

「歌壇」2015年7月号

付箋なきバスの読書に謹呈票はさみ剥ぎたる帯も挟みぬ

島田幸典「鉛筆」12首より。

ちょっと変った状況であるが、歌人にはよくわかる歌だ。

バスの車内で歌集を読んでいて、好きな歌や気になる歌に付箋をつけようと思ったものの、あいにく手元に付箋がない。そこで、謹呈の紙(もらった歌集だったのだろう)や本の帯を挟んでおいたというのである。

私も付箋を忘れた時には、よくレシートやちぎった紙を挟んだりする。付箋をつけながら歌集を読むという人はきっと多いのだろう。あまりたくさん付け過ぎると、何が何だかわからなくなってしまうけれど。

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2015年07月08日

「短歌往来」2015年7月号

島内景二さんの連載「短歌の近代」は19回目。
タイトルは「大和田建樹の新体詩の戦略」。

鉄道唱歌の作詞者として知られている大和田建樹について取り上げている。

「汽笛一声」や「汽車」という漢語が、「たり」という文語と絶妙に入り交じり、融和している。歌詞には、洋語も混じる。

鉄道唱歌の成立事情については、以前、下記の本で読んだことがある。
 ・中村建治著 『「鉄道唱歌」の謎』
 http://matsutanka.seesaa.net/article/387139177.html

大和田はまた旧派和歌の歌人でもあり、歌集に『大和田建樹歌集』がある。

大和田は、狂歌にも当意即妙の冴えを見せ、俗語や漢語も自在に駆使した。だが、それらは「歌集」には含まれない。大和田建樹は、三十一音の短詩形においては、洋語はもちろん、漢語を交えない、純然たる旧派歌人だった。

ここに、狂歌と和歌の違いが端的に示されている。
大事なことは、同じ作者が狂歌も詠み和歌も詠んでいたことだろう。

「和歌」と「唱歌」、あるいは「和歌」と「狂歌」、こうした部分まで視野に含めないことには、明治の和歌革新運動の姿は見えてこないのである。

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2015年05月26日

「短歌研究」2015年6月号

大島史洋さんの「田井安曇のこと」という追悼文に注目した。
こんなことまで書いてしまって大丈夫なのかと、他人事ながら心配になる。

例えば、こんなところ。

近藤芳美は、田井安曇が「未来」を継ぐほうが心安らかに晩年を送ることができたであろう。そうなったとき「未来」は百貨店のような今の雑誌にはなっていず、まったく違うものとなっていたはずである。

あるいは、こんなところも。

私と田井さんは「未来」の仕事を一緒にやり、仲が良かったけれど、どこか、隔てを置いているようなところがあった。石田比呂志もそうだった。これは私が常に相手をどこか警戒させるような、妙な態度をとるせいなのだと思ってきたが、もう一つ、田井さんは私の背後にいる岡井を気にして或る程度以上のことは言わなかったような気がする。

もっといろいろ書いてあるのだが、引用はこれくらいにしておこう。
正直と言えば正直な感想だが、ちょっとびっくりした。

田井安曇も近藤芳美も石田比呂志も、もうこの世にはいない。
あるいは大島さんにも、自分が書き残しておかないといけないといった覚悟があるのかもしれない。

どうなんだろう。

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2015年05月04日

角川「短歌」2015年5月号

島田幸典さんの「論じられた佐藤佐太郎(2)―戦後短歌史の鏡像として」が、先月に引き続き面白かった。

「短歌に欠けるものを埋める革新論的方向性ではなく、欠陥と見えるもののなかに積極的な意義を見出す道を選んだ」佐太郎の歌論や作品が、長い間あまり理解されずに、しばしば批判されていた点を明らかにしている。

先日読んだ『斎藤茂吉言行』の昭和25年のところにも

卓に「日本歌人」十月号がおいてあった。国見純生の私にあてた公開状が載っている。それを先生は読む。途中から声をたてて読まれた。「然し不満は沢山あります。例えばその見つめ方にどういう具体的な基準があるのか或いはあなたは何を理念としてこの現実を生きているのかよく分かりません」という一節があった。先生はいわれた。「詩でこういうことを言ってはいけないんだ」。

といったやり取りがある。これは島田が取り上げている佐太郎批判とも重なるものだろう。

そうした中にあって、島田は上月昭雄の「佐藤佐太郎論」(「短歌」昭和37年8月号)を「出色のもの」として引き、

注目すべきは、上月がここに前衛短歌運動との接点を認める点にある。この運動が求めた「人工美」は佐太郎のそれとは別物だが、にもかかわらず佐太郎が先行して「現代の美のひとつの典型」を打ち出したからこそ、「新しい美学への大胆な営為」が推進されたと見るのである。

と述べる。佐太郎の歌を近代短歌の延長として捉えるのではなく、そこに前衛短歌にも通じる現代性を見出している点が、今から見ても示唆に富む。

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2015年04月10日

「うた新聞」2015年4月号

秋葉四郎と田村元の対談「酒と詩(うた)を友として」がとても面白い。
6面と11面の2ページにわたって続いている。

神田の鮟鱇料理の老舗「いせ源」で、二人は茂吉や佐太郎の歌を引きながら、そこに出てくる店や酒について語る。中でも、佐太郎の歌で有名な「酒店加六」がどこにあったのか、資料や地図をもとに突き止めた田村の話がすごい。

秋葉と田村は師弟の関係ではないが、佐太郎の書いた『茂吉随聞』、秋葉の書いた『短歌清話 佐藤佐太郎随聞』の系譜を受け継ぐような内容と言っていいだろう。

印象に残った発言を引く。

秋葉 (…)ひらめいたものは、あまりいじらない、推敲しない。若いときは推敲しないと駄目だよ。作歌を始めて五十年になると、あまり上手く作ろうという発想ではなくなってくる。

田村 もちろん「作品が第一」ということもあるんですが、作品の向こうにある作者の素顔みたいなもの、そういったものを伝えていきたいです。

昭和12年生まれの秋葉と昭和52年生まれの田村。40歳差の二人の息がぴったり合って、実に楽しい対談であった。

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2015年03月27日

角川「短歌」2015年4月号

島田幸典さんの評論「論じられた佐藤佐太郎(1)―戦後短歌史の鏡像として」が良かった。前衛短歌運動が盛り上がっていた昭和30年代に、佐太郎がどのように論じられてきたかをたどることで、戦後の短歌史を再検討しようというもの。

前衛短歌運動が主題・方法・私性の全面的「拡大」に革新の行方を見出そうとしていたとき、「純粋短歌論」はまさに対極的方向に活路を求めた。

佐太郎の立言は、一面において戦後の短歌が志向したものとの対照性を際立たせる。だが、同時に方法意識の鋭さ・強さという点で佐太郎は紛れもなく現代的であり(…)

時代・社会を詠えという強い圧力のもとで、純粋短歌論は孤独であった。

近代短歌が前衛短歌を経て現代短歌になったという従来の短歌史観では、佐太郎の歌業をうまく位置付けることができない。そういう意味でも、佐太郎に焦点を当てて戦後短歌史を捉え直そうというのは良い着眼点だと思う。この後どのように話が展開していくのか、次号が楽しみだ。

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2015年03月11日

「佐佐木信綱研究」第3號

第2号の「校歌・軍歌特集」に続いて、第3号は「新体詩特集」。
信綱の幅広いジャンルにわたる活動を視野に収めようという意図がよく伝わってくる内容だ。

座談会「新体詩とは何か?」の中で研究者の勝原晴希氏がいくつも興味深い論点を提示している。

(新体詩は)黙って読むと退屈なんだけれども、歌うと、あるいは歌っているのを聞くと、そんなに退屈でもない。

歌人たちは和歌を革新したというよりは、長歌を革新した。別の言い方をすると、歌人たちの和歌革新は、長歌の革新(改良)から始まったのではないでしょうか。

だいたい近代詩は藤村からというのが普通ですね。ただ現代詩になると、朔太郎からだと言う人と、昭和のモダニズムからだと言う人とちがってくるんです。現代詩の出発はどこからかというのは、まだはっきりとしてないですね。

誌面には明治26年の「國民之友」に発表された信綱の新体詩「長柄川」が掲載されている。五七調で385句も続く長い詩で、この年の8月に長良川の洪水により多数の死者が出た出来事を詠んでいる。声に出して読んでみると、なかなかいい。

編集後記には「和歌と短歌、短歌と歌、江戸と明治をつなぐ物として、新体詩の姿が浮かび上がってきた」とある。和歌と短歌、江戸と明治を「切断」ではなく「連続」として見る観点は、今後ますます大事になってくるに違いない。

2014年12月2日、佐佐木信綱研究会、1500円。

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2015年02月03日

「龍」2015年2月号

岡山の小見山輝さんを主宰とする龍短歌会の結社誌。
今月はなんと「九十代特集」が組まれている。
しかも20名もの参加があるのがすごい。

人形に服着せるごとゆつくりと腰かけて吾は着替へしてをり
               出井義子
店の客は日当り良きを褒めくれどわたしは店先ばかりに居れず
               武内重子
作りたる順に並べし干支の馬が貰はれて行くも順位崩さず
               長岡すみえ
夫の背骨つなぎてをりしこのボルト焼けずに残りて四年を経たり
               土屋智子
映されし航空写真に吾が家あり庭に出でヘリコプターに手を振りし
               福原千重

1首目、「人形に服着せるごと」という比喩に実感がある。身体がなかなか思い通りに動かず、時間がかかるのだ。
4首目は亡くなった夫の形見となったボルト。もとは単なる金属であったものが、今では夫の面影を感じさせる大切なものになっている。

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2015年01月20日

「合歓」第67号

「合歓」第67号(2015年1月)に、インタビュー「松村正直さんに聞く―短歌と時代、過去から現在へ」が掲載されました。聞き手は久々湊盈子さんです。

お読みになりたい方は、松村までご連絡ください。
コピーをお送りします。

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2015年01月18日

「中東短歌3」

中東をテーマに掲げた同人誌の第3号で、終刊号。
コンパクトなサイズの冊子ながら、短歌、評論、アラブ小説、対談、エッセイ、書評と盛り沢山な内容になっている。

サハラとは砂漠の意味とこの子には教えるだろう遠い春の日
                    柴田 瞳
偶然と故意のあいだの暗がりに水牛がいる、白く息吐き
                    千種創一

1首目、「この子」は妊娠中のわが子のこと。やがて生まれてくる子との会話を想像している。
2首目、抽象的な歌であるが、「水牛」になまなましい存在感がある。偶然とも故意ともはっきりしない出来事に対する疑いのような思い。

イブラヒーム・サムーイールの小説「このとき」(町川匙訳)は、サキの短編小説のような味わいがある。この作者と齋藤芳生の対談も面白かった。

サム (…)読書の味覚というのは、訓練なのです。良い作品を読めば、味覚もまた良くなるのです。そして「弱い」作品を大量に読むと、味覚も「弱く」なります。

中東情勢がますます混迷を深めていくなか、この同人誌がこれで終ってしまうのが残念でならない。

2014年10月10日、700円。

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2015年01月15日

「八雁」「未来」2014年1月号

「八雁」1月号で島田幸典さんが、「塔」60周年記念号掲載の座談会「編集部、この十年」に触れて下さった。結社の歌会について論じる中で

 松村 「選歌から学べ」とも言いますけど、普段まったく歌会に出ていないと、何をどう学べばいいのか、自分一人ではなかなか難しいですしね。

という発言も引用していただいた。
「未来」1月号では、黒瀬珂瀾さんの歌にこんな一首があった。

  「やさしい鮫」と「こわい鮫」とに区別して子の言うやさしい鮫とはイルカ 松村正直
 「やさしいバイクきた」と指さす土手をゆくカブが明日へと児をいざなへり

子どもの発想や言葉遣いは本当に自由だ。
島田さん、黒瀬さん、ありがとうございました。

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2014年12月29日

「外大短歌」第五号

幻影の花かざるべく花瓶より花抜き取りて生ごみに出す
                  上條素山
湯の中でジャスミンの葉がゆるく開き、謝るまでは許されていた
                  永山 源
かりかりに油まわして鶏を焼く よりよく生きる誓いのように
                  黒井いづみ
朝六時過ぎの着信 i phoneが震へた瞬間理解してゐた
                  藤松健介

上條作品、本物の花ではなく「幻影の花」を飾るという発想がいい。花瓶の上に残像が浮かんでくるようだ。藤松作品は祖父の死を詠んだ一連の1首目。これだけで誰かの訃報であることが読み手にも伝わってくる。

評論では山城周「ジェンダーを持つ短歌」が良かった。服部恵典「「歌人」という男―新人賞選考座談会批判」(「本郷短歌」第3号)に続いて、歌人のジェンダー観を問うこうした指摘が若手歌人から出るのは頼もしい限りだ。

座談会「短歌と私、私たち」の中では、北海道の屯田兵の家系に生まれたという永山源さんの発言が印象に残った。

「屯田魂」っていう言葉が本当にあって、あの、フロンティアスピリットなんですね、要するに。(…)すべてにおいてその心を忘れちゃいけないなって思うことによって、屯田兵の子孫なんだからっていう、なんだろう、誇りじゃないんですけどそういう自負?みたいなものを抱いているんで、切り開いていくっていう……そういう感じですね。

こうした気持ちをいつまでも持ち続けてほしいと思う。

2014年11月1日発行、500円。

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2014年12月25日

角川「短歌」2015年1月号

「歌壇時評」がないことに驚く。
編集後記等でも何も触れていないので、詳細はわからない。
今月号だけ無いのか、今後ずっと無いのか。

そもそも2012年までの「歌壇時評」は2頁×1名だった。
それが2013年から4頁×1名となり、2014年7月号からは6頁×2名となった。

そして今回のゼロである。
12頁からゼロへ。
迷走しているとしか言いようがない。

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2014年12月24日

「穀物」創刊号(その2)

後半の歌から。

やめてしまふことの容易き生活の、ごらん青海苔まみれの箸を
読みさしの詩集のやうに街があり橋をわたると改行される
                濱松哲朗

濱松作品2首目、静かな人通りの少ない街を一人で歩いている感じ。「橋をわたると改行される」という発想がおもしろい。橋を渡って風景が切り替わる感じが、「改行」のイメージと重なり合い、まるで本の中に入り込んでしまったような不思議な雰囲気がただよう。

冬の朝また冷ややかに始まりて薄い光に眼を馴染ませぬ
雪がまた雪を濡らしてゆく道を行くんだ傘を前に傾げて
                廣野翔一
街灯にくくられてゐる自転車を4桁の数字で解き放つ
手羽先にやはり両手があることを骨にしながら濡れていく指
                山階 基

山階作品2首目、鶏の手羽先を食べながら、そこに右と左の二種類があることに気が付いたのだろう。考えてみれば当然のことであるが、こうして言われてみると生々しい。下句は脂にまみれていく自分の指を詠んでいるのだが、「手羽先」→「両手」→「指」という流れにあることで、まるで自分で自分の手を食べているような怖さを感じる。

一首評では、小林朗人さんが平岡直子作品の「悲しいだった」という言い方の分析をしているのがとても良かった。確かに「悲しかった」と「悲しいだった」では、読み手の感じるニュアンスはだいぶ違ってくる。

2014年11月24日、400円。

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2014年12月23日

「穀物」創刊号(その1)

同人8名の各20首と「二人称をよむ」「時間をよむ」というテーマの一首評が載っている。以下、前半の印象に残った歌から。

感ぜざるふるへに水が震へゐる卓上にこの夜を更かしたり
窓鎖して朴の花より位置高く眠れり都市に月わたる夜を
時計草散りゆくさまを知らざればその実在をすこしうたがふ
特急の窓に凭るるまどろみはやがて筋(すぢ)なす雨に倚りゐき
                小原奈実

小原作品2首目、背の高い朴の木に上を向いて咲く朴の花。マンションの部屋からその花がよく見下ろせるのだろう。月明かりの照らす空間に浮遊して寝ているような感覚がおもしろい。小原作品はどの歌を引こうか迷うほど良い歌の多い20首であった。

電話越しに怒鳴られている現実が電車の風に薄まっていく
                狩野悠佳子
たれかいまオルゴールの蓋閉ぢなむとしてゐる われに来(きた)るねむたさ
エル・ドラド、アヴァロン、エデン、シャングリラ 楽園の名がいだく濁音
                川野芽生

川野作品2首目、エル・ドラド(アンデス奥地の黄金郷)、アヴァロン(イギリスの伝説上の島)、エデン(旧約聖書の楽園)、シャングリラ(チベットの理想郷)のいずれにも濁音が入っている点に注目した歌。下句にも「が」「だ」「だ」と濁音があり、「いだく」「だくおん」という音の響き合いも良い。

憎むなら燃えて光っているうちに。看取るなら花の象(かたち)のうちに
                小林朗人


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2014年12月22日

「羽根と根」2号

「あなたの好きな歌集」という企画が面白い。
他のメンバーから薦められた歌集を読んで、評論を書くというもの。それだけでなく、その評論を読んで、さらに薦めた人がその評を書いている。

こういう機会がなかったら絶対に読まなかったというような歌集との出会いがあり、また評論評も単に同意したり褒めたりするだけでなく、「虫武の書き方はややミスリーディングなのではないかと感じた」(七戸雅人)、「この章はもう少しひとつひとつを詳細に追ってもよかったと思う」(虫武一俊)といった意見もあって、相互のやり取りによる深みを感じさせる。

以下、印象に残った作品を引く。

肩までをお湯に浸してこれまでとこれからのゆるいつなぎ目に今日
                佐伯 紺
そしてまたあなたはしろい足首をさらして春の鞦韆に立つ
                坂井ユリ
火縄銃渡来せしとき屋久島のいかなる耳はそばだちにけむ
                七戸雅人
公園に白いつつじがつつましくひらく力のなかを会いにいく
(そういうのはじめてだからもうちょっと待って。)外には樹を濡らす雨
スーパーの青果売り場にアボカドがきらめいていてぼくは手に取る
                阿波野巧也
「parents」エスが消えた日 伸びきった絆創膏が身体に溶ける
母親が父親もして母親もしているきっと花を枯らして
                上本彩加

佐伯作品は初二句の景と三句以下の心情との照応がうまい。
坂井作品は初句「そしてまた」がおもしろく「足首をさらして」の描写も良い。

七戸作品は、種子島に火縄銃が渡来した時に、隣りの屋久島の人(あるいは猿や鹿や樹木かもしれない)はどんなふうにその銃声を聞いただろうかという想像の歌。屋久島自体が耳をそばだてて聞いているような面白さがある。

阿波野作品は瑞々しい相聞歌。一首目、「つつじ」「つつましく」の音の響きが良く、結句の字余りに力がある。二首目、ちょっと読むのが照れくさいほどの初々しさ。三首目は「きらめいていて」→「ぼくは」のかすかなねじれに面白さがある。

上本作品は両親の離婚を読んだ歌に惹かれた。一首目は上句が鮮やかにその事実を伝えている。二首目の「きっと花を枯らして」は自分の夢や望みを犠牲にしてといったニュアンスだろう。僕の両親も別れているので、この寂しさは胸にしみる。

2014年11月24日発行、500円。

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2014年12月19日

「立命短歌」第二号(その3)

濱松哲朗の編集後記にも、小泉苳三の話が出てくる。

そんな小泉の残した蔵書「白楊荘文庫」から、第二次立命短歌会の合同歌集『火焔木』(一九四三年)を発見し、昨年の九月に、宮崎哲生と二人ですべて書き写しました。

おそらく複写が許されていないので書き写したのであろう。こういう努力が大切なのである。

それにしても、「白楊荘文庫」はもう少し外部に開かれても良いのではないでしょうか。近代短歌の歴史的資料として、研究者だけでなく歌人にとっても極めて有益なものであるはずなのに、閲覧できるのは学内関係者のみで、しかも担当教授のサインが必要です。

本当にその通りだと思う。せっかくの資料も死蔵されていては仕方がない。活用されてこその資料であろう。

以前、中西亮太さんのブログ「和爾、ネコ、ウタ」に、この白楊荘文庫のことが出てきた。白楊荘文庫で新芸術派の短歌誌「エスプリ」を見つけたという内容である。
(→http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/blog-entry-107.html

白楊荘文庫には、まだまだたくさんのお宝が眠っていそうだ。

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2014年12月18日

「立命短歌」第二号(その2)

「立命短歌」第二号には、「立命短歌会OB競詠」として昭和32年から49年に卒業したOB8名の各10首とエッセイが載っている。このような過去(短歌史)への向き合い方が「立命短歌」の特徴だと言っていいだろう。

その中で、井並敏光さんの「立命短歌会の預かりもの」というエッセイが心に残った。

一年先輩の西尾純一(西王燦)君が私の下宿に置いて行った立命短歌会の資料などが詰まった段ボール一箱は、私が第四次立命短歌会の最後の一人であるという事実を指し示すエビデンスとして四十余年私の書庫にあった。
今回、第五次立命短歌会の発足に際し、宮崎哲生君に引き継ぎが出来て喜んでいる次第である。

学生は4年で順々に卒業していってしまう。その「最後の一人」になってしまった心細さ。40年余り持ち続けていた資料は、第5次立命短歌会が発足しなければ永遠に日の目を見ることはなかったかもしれないのだ。

立命短歌会の歴史に関するものが、もう一つある。濱松哲朗の評論「立命短歌会史外伝―小泉苳三と立命館の「戦後」」である。これは、今号で最も注目すべき作品と言っていい。

濱松は、戦後「侵略主義宣伝に寄与した」との理由で立命館大学を追われた小泉苳三の歌を取り上げる。そして、戦前戦後の立命館大学の思想的な変化と、小泉が味わった苦汁を明らかにするのである。

丹念に資料に当っているだけでなく、文章が読みやすいので、小泉苳三について特に興味や知識がなくても十分に面白い。「立命短歌」のレベルの高さを感じさせる内容であった。

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2014年12月17日

「立命短歌」第二号(その1)

全122頁と、創刊号に続いて充実した内容である。
まずは印象に残った作品から。

墜落機を見にゆくような、わるいことしているつもりのふたりだったね
               安田 茜
もうずっと目蓋に夏が居座ってまぶしい 小鍋にチャイを煮出して
               稲本友香
べろべろに酒を飲みつつ何らかの方眼である部屋を見つめる
               村松昌吉
ひそやかな森に似ている理科室で蝶の時間を永遠にする
               北なづ菜
バス停がいくつも生えてくるような雨だねきつと海へ向かふね
               濱松哲朗
さういへば白い桔梗が咲いてゐた花といふには現実的な
               柳 文仁

安田作品は比喩がおもしろく、相手に語りかけるような文体に味がある。
稲本作品は「目蓋に夏が居座って」に実感があり上句と下句の取り合せもいい。
村松作品は酔った目に映る四角い部屋。前川佐美雄風である。
北作品は蝶の標本を作っているところか。静けさを感じる。
濱松作品は雨が降ってバス停が生えるという発想が楽しい。
柳作品は「現実的」という言葉が桔梗の雰囲気をよく表している。

濱松哲朗の評論「抽象性と自意識―小野茂樹の「整流器」と「私」に関する試論」は、小野茂樹が自らの作風について述べた「整流器」という言葉を手掛かりに、小野の歌の作り方や歌集のまとめ方を分析したもの。その分析を通じて、人物と作者と作中主体の関係や小野作品の「私」のあり方を考察している。

作者は自らの作品の読者となった時に初めて、おのれの作風を自覚するのであって、その逆ではない。
作品は解釈を誘発することはできるが、解釈を限定することはできないのである。

こうした箴言風の言い切りが、読んでいて心地よい。

2014年11月24日発行、500円。

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2014年12月08日

角川「短歌」2014年12月号

小池光の巻頭作品「球根」31首が良かった。

カーテンより朝光(あさかげ)の射す床上に猫のいのちはをはりてゐたり
なきがらの猫の首よりはづしたり金の鈴つきし赤き首輪を
すぎこしをおもへばあはれむすめ二人の婚礼があり妻の死があり
猫の骨壺妻の遺影とならびをり秋のつめたき雨は降りつつ
死のきはの猫が噛みたる指の傷四十日経てあはれなほりぬ

最初は「猫が死んだくらいで、なんて大袈裟な」と思ったのだが、読み進めていくうちに15年という歳月や奥さんの死のことが重なってきて、じわじわと胸に沁みた。

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2014年11月28日

「短歌人」2014年12月号

夏季集会における坪内稔典さんの講演「短歌的と俳句的」が掲載されている。その中にある次の部分に注目した。

例えば、〈たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ〉というのがありまして、これなんか、あちこちでよく引かれたりします。「たんぽぽのぽぽ」という言い方は、江戸時代の俳句にもしょっちゅう出て来る言い方で、(…)ある意味で、「たんぽぽのぽぽ」までは、今までの表現そのまま。ぼくがしたのは何かといえば、最後の「火事ですよ」と言っただけなんです。

この俳句については、河野裕子の「たんぽぽのぽぽのあたりをそっと撫で入り日は小さきひかりを収(しま)ふ」(『歳月』)の本歌取りだと思っていたので、「江戸時代の俳句にしょっちゅう出て来る言い方」というのに驚いた。

肝腎のその江戸時代の俳句というのが挙げられていないので、はっきりわからないのだが、「たんぽぽのぽぽのあたり」という言い方もあるのだろうか。少し調べてみたい話である。

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2014年11月24日

現代歌人集会秋季大会

12月7日に京都で現代歌人集会の秋季大会が開催されます。
皆さん、どうぞご参加下さい。

日時 平成26年12月7日(日) 午後1時開会(開場12時)
場所 アークホテル京都(TEL075−812−1111)

司会 松村正直理事

プログラム
 基調講演 大辻隆弘理事長

 公開インタビュー「桜は本当に美しいのか」
  ゲスト 水原紫苑氏
  聞き手 林和清副理事長

 第40回現代歌人集会賞授与式
  ・『青昏抄』楠誓英氏
  ・『日時計』沙羅みなみ氏
  選考経過報告 真中朋久理事

 総会 午後3時45分〜
  事業報告 永田淳理事
  会計報告 前田康子理事
  新入会員承認 島田幸典理事
  閉会の辞 中津昌子理事

 懇親会 午後4時30分〜6時30分
  (11月30日までにお申込み、キャンセル不可)

参加費 講演会1500円、懇親会6000円(当日お支払い下さい)

お申込 〒603-8045 京都市北区上賀茂豊田町40-1 Fax075-705-2839
    E-mail : seijisya@osk3.3web.ne.jp 永田淳まで

詳しくは→現代歌人集会秋季大会チラシ

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2014年11月17日

「現代短歌」2014年12月号

第1回佐藤佐太郎短歌賞が発表されている。
選考委員のコメント、『午前3時を過ぎて』(六花書林)の30首抄、私の受賞の言葉や略歴などが載っているので、どうぞお読みください。

第2回現代短歌社賞(300首)は、森垣岳「遺伝子の舟」が受賞。

両賞の授賞式は、12月3日(水)午後6時より、中野サンプラザにて行われます。会費8000円。参加のお申込みは現代短歌社(TEL 03−5804−7100)、または松村までお知らせ下さい。11月20日締切です。


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2014年11月05日

「八雁」2014年11月号

阿木津英さんの連載「続 欅の木の下で」(8)が心に沁みた。

「牙」の古い会員の方々の思い出を綴った文章で、そこには楽しい思い出もあれば、確執とも言うべき苦い思い出もあるのだが、そうしたすべてが歳月とともに赦されて、今では懐かしく温かな記憶として残っている。

わたしが、歌というものの良さを知ったのは、渡辺民恵さんや井上みつゑさん、そしていま名前の出た幸米二さん、こういった言うならば〈無名の歌人〉たちの、混じりけのないひたすらな歌への情熱が統べていたあの頃の「牙」においてである。

渡辺さんも井上さんも幸さんも、歌壇的に名の知られた歌人ではない。けれども、こうした人々を抜きに「結社」を語ることはできないのだ。そうした視点が、最近の結社を論じる文章には欠けているのではないだろうか。

「牙」出詠の毎月十首のみならず、数十首を石田のもとに持参しては、批評を乞う。出来の良い日もあっただろうが、出来の悪い日には遠慮会釈のない厳しい批評がとぶ。やおら渡辺さんは坐っていた座布団を滑り降り、それを両手で石田比呂志の頭の上に振りかぶって、「くやしぃーーっ」と打ちかかった話など、「牙」伝説の一つである。

いいなあ、と思う。場面がありありと目に浮かぶ。こんな光景が羨ましい。本当に歌が好きで好きで、本当に歌がうまくなりたいからこそ、「悔しい」という感情がほとばしり出るのだ。

総合誌に載っている「八雁」の広告には「地方性と無名性を尊重する」というコピーが付いている。その意味するところが、よくわかる気がした。

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2014年10月28日

「短歌人」2014年11月号

「父を歌う、父が詠う」という特集が組まれている。
「短歌人」の特集はいつも目の付けどころが良く、しかも内容も深い。
今回の特集も、評論8篇+競詠「父を詠う」+秀歌セレクションの計25ページという本格的なものになっている。

私の歌集からも、たくさん歌を引いていただいた。
そう言えば、第1歌集の頃から自分の父のことを詠んできたし、子どもが生まれてからは、父として自分の子のことも詠んできた。そんなことを振り返りながら、しばらく読み耽った。

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2014年10月21日

「棧橋」120号

1985年に創刊された同人誌「棧橋」の創刊30周年記念号&終刊号。
年4回の発行を30年間にわたって続けてきたわけで、同人誌としては前例のない長さであろう。

「「棧橋」終刊にあたって」という座談会が掲載されている。
出席者は、高野公彦、小島ゆかり、影山一男、桑原正紀、大松達知。
印象的な発言をいくつか引く。

「「棧橋」がなかったら「コスモス」をやめていたかもしれません。「コスモス」どころか、歌も続けてなかったかもしれません」 (大松)
「各自自由にやるということは、思い切った作品を作るということなんだけど、あんまり全員がそうはしてないなあ」 (高野)
「「棧橋」の作品をファックスで送って、受け取りましたというファックスを高野さんからいただいたりして、(…)そんな中で日本とも繋がっているし、歌とも繋がっていることで、自分が存在していいんだよって思えるそんな気持ちがありました」 (小島)
「やはりこういうものがないとなかなか持続しないし、持続しても短歌に燃えるという気概のようなものは出てこないですね」 (桑原)
「できればこれからは若い人たちが地域的にでもいいから集って、そのうち第二次「棧橋」が生まれたらいいし、何かのお手伝いくらいできたらいいと思います」 (影山)

「棧橋」が長年にわたって、人と人、人と短歌をつないできたことがよくわかる。
たいていの同人誌が数年で自然消滅していく中で、この持続力はまさに驚異的と言っていい。

お疲れさまでした。

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2014年10月14日

「現代短歌」2014年11月号

大井学さんが歌壇時評に「『結社』にのこされるもの」という文章を書いている。

大井は、結社の活動を「結社誌の発行」「歌会の運営」「大会等記念行事の企画運営」の三種類に大別し、さらにそのうちの「結社誌の発行」については「名簿管理システム」「費用管理システム」「出入稿管理システム」の三つに集約できると述べる。その上で、

おそらく、こうした結社の運営に必要な「業務」を考えた場合、代行サービスにアウトソーシングできないものはほとんど無いと言えるでしょう。
そこに発生している膨大な(ほぼ無賃の)労働は、やはり何等かの合理的な整理の対象としたほうが良いようにも思われます。

と記している。基本的な考え方や問題認識については同意する部分も多いのだが、自分が結社誌の編集長として10年間やってきたことが「アウトソーシング」できるものであり、「合理的な整理の対象」であると言われるのは、やはり寂しい。

私自身の結社に対する考えは、「塔」60周年記念号(2014年4月号)の「編集ノート」や座談会「編集部、この十年」、「現代短歌」2014年8月号の「高齢社会と結社」で述べてきたので、ここでは繰り返さない。

ただ、大井の考えに対しては、「そこまで言うのなら、歌作りもアウトソーシングすれば?」とか、「そもそも短歌なんてやらないのが一番合理的なのでは?」とか、そんな皮肉を言ってみたくなる。

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2014年09月24日

「短歌」2014年9月号

中部短歌会の結社誌「短歌」9月号に、井澤洋子さんの「佐々木実之氏のてがみ」という文章が載っている。1991年に井澤さんは「末の子の縁で知った」京大短歌会に入会依頼の手紙を送ったところ、佐々木氏から返事があったのだそうだ。

若い者と一緒に学ばれるという事にひっかかる。我々は我々を若いとおっしゃる方々に刺激を与える自信・実力はあります。しかしその刺激を求めて入会された方々は次に同様の刺激を求めて入ってくる方々に対して刺激たりえましょうか。
京大短歌には一応名の通った者がおりますがそういう意味の実力とかの話ではなく現代短歌の新しいページに何をつけ加えるかという熱意のない方はお断りしています。
我々は別に他人に刺激を与えるために集まっているのではない。しかし他人に刺激を与えられる位でなくては困るとも言えます。

本気の文章だなと思う。
若さゆえの傲慢と無礼はあるのだけれど、短歌に対する真っ直ぐな、偽りのない気持ちがひしひしと伝わってくる。今、こんな文章を書く人は誰もいないかもしれない。

手紙は最後に「本気で来ていただけるなら次会は・・・」という案内で終っている。そして、井澤さんはその手紙を23年間持ち続け、「ギブアップしそうになる度に己への叱責となった手紙」「かけがえのない宝」と呼んでいるのである。

真っ直ぐな、本気の言葉だけが人の胸には届くのだということを、あらためて教えられた気がする。

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2014年09月19日

「短歌研究」2014年10月号

作品季評に『午前3時を過ぎて』を取り上げていただいた。
評者は、小池光、さいとうなおこ、森本平の3名。
歌集の良い点や問題点、疑問点などを率直に指摘していただき、たいへん有難い内容であった。

歌集の小タイトルが「普通のタイトル」と「ギリシャ数字」に分れているのは、連作として発表した作品と、特に連作ではない折々の歌という分け方だったのだが、確かにわかりにくかったかもしれない。

他には、加藤治郎の特別寄稿「虚構の議論へ」が印象に残った。
選考委員としての本音がよく出ている文章である。

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2014年08月21日

「短歌研究」9月号

短歌研究新人賞が発表になっている。

原爆は公園に堕ちてよかつたと子の声に児の聲は応へぬ
              佐藤伊佐雄

という佳作(5首掲載)の一首が印象に残った。

広島の平和記念公園に来ている子が、「家がある所ではなく広い公園の上に落ちたので良かった」と言ったのだろう。もちろん、現在公園になっている場所にかつては家が建ち並んでいたことは、平和記念資料館の模型を見ればわかる。また最近ではCGによる復元作業なども行われていて、当時の様子を知ることができる。

公園に原爆が落ちたのではなく、原爆で何もなくなった場所が公園になったのだ。

でも、昨年広島に行った時に、うちの息子も全く同じようなことを言ったのであった。確かに今の風景だけを見るとそうとしか思えないのだろう。だからこそ、そこにかつては多くの家があり、多くの人々の暮らしがあったことを記録として残していく必要があるのだ。田邉雅章著『原爆が消した廣島』もそういう一冊である。

「児の聲」は原爆で亡くなった子供の声だと思う。「聲」という旧字を使うことによって、今の子供ではないことを表している。「応へぬ」の「ぬ」は完了ではなく、「応へず」という打消の意味として読んだ。戦後69年の歳月の経過とそれに伴う記憶の風化に対する危機感がよく伝わってくる一首である。

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2014年08月16日

「佐佐木信綱研究」第2號

佐佐木信綱研究会が年に2回発行する雑誌の3冊目(第0號からスタート)。
今回は「校歌・軍歌特集号」。

これまで歌人の側からはあまり取り上げられてこなかった信綱の校歌と軍歌について、詳細な調査や研究を行っている。校歌・軍歌の作詞の方法や、校歌・軍歌に対する信綱の考え方がよくわかる内容となっており、大きな成果と言っていいだろう。最後まで引き込まれて読み耽ってしまった。毎月の例会の充実ぶりがうかがえる。

次号では唱歌と新体詩を取り上げる予定とのこと。
この雑誌からはしばらく目が離せない。


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2014年07月18日

「短歌往来」2014年8月号

藤島秀憲の作品月評がおもしろい。

総合誌のこうした欄は、たいてい作品を褒めることに終始することが多いのだが、藤島は作品の問題点もきちんと指摘している。

7月号では小高賢を詠んだ挽歌について、「今詠み、発表する必要が、どれだけあるのか?」という問題を提起していたが、8月号でも、例えば永田和宏の作品に出てくる「あなた」について、はっきりと疑問を呈している。

こんなふうに正々堂々と誌面で自分の意見を述べるのは、実は意外にできないものなのだ。意見に対する賛否は別にして、その姿勢に深く共感する。


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2014年06月16日

「黒日傘」第3号

高島裕の個人誌。
今号の特集は「斎藤茂吉」。ゲストは内山晶太。

  斎藤茂吉記念館。
「極楽」を妻に見せむと来たりけり「極楽」を見て妻はよろこぶ /高島裕
雨晴れて夕日は差せり、硝子戸の向かうの庭に虫は耀(かがよ)ふ
まんまんと夕かがやきの最上川行くをし見つつ立ち去り難き

高島の「柿色の国」30首は、山形県の斎藤茂吉記念館や茂吉のふるさと金瓶、疎開先の大石田を訪れた一連。1首目の「極楽」は小便用のバケツのこと。2、3首目のような生命力のある自然詠は、最近では詠む人が少なく、高島ならではという感じがする。

また、30首のうち9首に「妻」が詠まれていることにも注目した。もう一つの連作「さざなみ」30首も8首に「妻」が出てくる。茂吉や靖国神社といった表のテーマに対して、裏のテーマとなっていると言っていいだろう。

  火炎のような言葉
焼き魚、焼かれながらに火を吐くとちいさき魚の胸あふれたり /内山晶太
  パイレートという煙草を買って、その中の美人の絵だけを
  とって中身をこの堀の水に棄てた
体操服棄てられてある用水路におとろえて冬の日のみずの色

内山晶太の「点をつなぐ」30首は、すべてに詞書が付いている。説明はどこにもないのだが、どれも茂吉の散文である。2首目の「パイレート・・・」は「三筋町界隈」の一文。茂吉の散文に触発されて歌を詠む、ある種の競演とも言うべき試みである。

2014年6月3日、TOY、600円。

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2014年06月09日

「ノーザン・ラッシュ」vol.1

石川美南と服部真里子による同人誌。
A6判、16ページ。

第1号のテーマは何と「爬虫類」。
二人の作品各20首と、服部さんの精巧なイラスト、石川さんの「爬虫類カフェに行く」というエッセイで構成されている。

日の光、月の光と順に浴び亀はひと日を動かずにいた/服部真里子
シダの葉の進化を語る店員の唇のはし乾いていたり

皮脱ぐとまた皮のある哀しみの関東平野なかほどの夏/石川美南
てらてらと光りてやまずわたしより先に脱皮をした友だちが

編集後記に服部さんが、爬虫類カフェにいたヤシヤモリが「水槽から逃げてしまい、今は店内のどこかにいるはず」という話を書いている。以前読んだ小林朋道さんの本にも、ヤモリが実験中に逃げ出して、3日目の夜にようやく捕まえる話があった。

2014年5月5日、500円。

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2014年06月01日

「現代短歌新聞」6月号

今日の京都は35.3℃まで気温が上がったそうだ。
どうりで暑いわけである。

恩田英明さんが「歌壇時評」の中で、私が角川「短歌」3月号で恩田さんの文章を批判したことに対して、反論を書かれている。私の疑問についても丁寧にお答えいただき、有難いことであった。

作者と作中主体の関係が、今回のやり取りにも関係している。
もう少し考えていきたい。


posted by 松村正直 at 16:02| Comment(0) | 短歌誌・同人誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月09日

「本郷短歌」第三号

東京大学本郷短歌会の発行する短歌誌。98ページ、500円。

折々に沈黙(しじま)へ櫂をさし入れて舟漕ぐやうな会話と思ふ
               安田百合絵
風みえて欅散りをり木版のごとくかするる西日のうちを
               小原奈実
水馬(あめんぼ)に馭せられ見いるみずたまりなべて記憶は上澄みを汲む
               千葉崇弘
朝焼けにうっすら染まった猫が来てひとつずつ消していく常夜灯
               鳥居 萌

7首連作×6名、12首連作×7名、20首連作×2名が載っている。
作品だけでなく評論が充実している点が大きな特徴だろう。
特に「短歌 ジェンダー ―身体・こころ・言葉―」という特集は読み応えがある。

・開かれた「私」 現代短歌における作者の位置(吉田瑞季)
・〈母性〉の圧力とその表現―大口玲子『トリサンナイタ』について、俵万智『プーさんの鼻』に触れつつ(宝珠山陽太)
・「歌人」という男―新人賞選考座談会批判(服部恵典)

3篇ともに文章がしっかりしていて、作者と作中主体の関係や短歌におけるジェンダーの問題を深く考えさせる内容となっている。

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2014年05月05日

「現代詩手帖」2014年5月号

先月号の吉田隼人さんの連載「短歌なんか嫌いです」の問題点を指摘した件
4月9日のブログ)についてであるが、今月の連載の末尾に、

*前号で「某誌の歌壇時評」としたのは「短歌」(角川学芸出版)二月号の松村正直さんの時評でした。

という注が付けられていた。

こういうふうに引用元さえ明らかにしていただければ、何の問題もない。
迅速な対応に感謝したい。


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2014年05月03日

「白珠」2014年5月号

安田純生さんが「しづもる・うつしゑ」という評論を書いている。

「しづもる」については、以前、増井元著『辞書の仕事』を読んだ時に、ブログの記事でも取り上げたことがある。安田さんは広辞苑に書かれている「明治時代に造られた歌語」という解説に対して、具体的な例を挙げて疑問を呈している。

こうした言葉に関する論証は安田さんの得意とするところで、非常に説得力がある。ぜひ多くの方に読んでほしい内容だ。


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