2018年03月05日

「角川短歌」 2018年3月号


佐藤通雅さんの歌壇時評に『風のおとうと』のことを取り上げていただいた。タイトルは「肉と人の問題」。歌集に収めた「肉と人」9首、「肉と人、ふたたび」5首について論じたものである。

作品の出来はともかくとして、このテーマに私が強いこだわりを持っているのは確かだ。私は選歌で落とされた歌は基本的に歌集には入れないのだけれど、「肉と人」(「塔」2014年4月号初出)は例外で、落ちた歌も入れている。思い入れの強さゆえである。

実はこのテーマについてはその後も歌に詠んでいて、

 ・肉と人(「現代短歌」2015年1月号)13首
 ・肉について(「現代短歌」2015年10月号)20首

と続いていく。興味のある方は、あわせてお読みください。

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2018年02月01日

おさやことり・橋爪志保「あきふゆ」


先日の文フリ京都で購入。
「はるなつ」に続く一冊で、発行・編集は吉岡太朗。
http://matsutanka.seesaa.net/article/453691447.html

7首の連作が一人2篇ずつ、計4篇載っている。

 目を細めにらむみたいに紅葉見るきみを守れば失うだろう
                    橋爪志保「日々」

上句は視力の悪い人などが時々見せる仕種。結句は「(きみを)失うだろう」という意味で読んだ。守ろうとするとかえって失ってしまうという予感。

 川べりで暮らす小さな猫をまた見かけた 浮いた背骨をなでた
                    橋爪志保「日々」

下句の「見かけた」「浮いた」「なでた」がカエサルの「来た、見た、勝った」みたいで心地良い。「浮いた背骨」は少し痩せている感じだろう。

 かげろうのはねのふるえのてにすくうみずはこのよのひかりにぬれて
                    おさやことり「ひかりにぬれて」

おさやことり作品はすべて平仮名表記。二句「ふるえの」は「震えのように」という感じか。掌に掬うことによって初めて光の中で揺らめく水。

 じてんしゃにふたつのみみをのせてゆくよるがひやしたあけがたのまち
                    おさやことり「ひかりにぬれて」

二つの耳だけが無防備に寒さに晒されている。下句の「よるがひやした」に発見があっていい。最も気温が低いのは明け方の日の出直前である。

 シャカシャカと振ってたのしいホッカイロ きみの願いをかなえてあげる
                    橋爪志保「着地」

明るい無邪気さと根拠のない全能感に満ちた一首。どこが良いのかうまく説明できない。K音の響きだろうか。内容と韻律がうまく合っているように感じる。

 おおみそかおしょうがつにもようびあることのしずかなきみのみじたく
                    おさやことり「ゆのためてある」

12月31日も1月1日も、おそらく君はカレンダー通りに仕事があるのだろう。休みであれば関係のない「曜日」を意識せざるを得ないのだ。

2018年1月21日。


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2017年12月16日

「六花」vol.2 の続き


大松達知さんが「見せ消ちの光―『風のおとうと』を例に」という文章を書いている。短歌に出てくる否定表現をもとに『風のおとうと』を分析したもので、短歌全般に通じるすぐれた内容となっている。

歌集を読むことには、点滅する幻の光をつぎつぎに追うような感覚がある。現実の生活とは異なる定型のリズムに一瞬入り込み、すぐに出る。そしてまた次の歌のリズムに入り、すぐに出てゆく。その繰り返し。直前の光の残像はありながら、一瞬一瞬、消えてまた灯る光を見つづけるのが歌集の読み方だろう。

短歌における否定表現については、永田さんの見せ消ち理論(?)のほかに、真中さんの歌からもだいぶ学んだように思う。

前号に続いて僕も文章を書いている。タイトルは「狂歌から短歌へ」。

短歌史を考える際には、「和歌から短歌」という一本の流れだけでなく、「狂歌から短歌」というもう一つの流れを視野に入れておく必要がある。

というのが結論。文中にも引いているが、これは安田純生さんと吉岡生夫さんの文章や講演から学んだ部分が多い。特に口語短歌の歴史を考える際に、狂歌は無視できない存在だろうと思っている。

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2017年12月14日

「六花」vol.2


著者 :
六花書林
発売日 : 2017-11-21

「とっておきの詩歌」というテーマで歌人・俳人20名が文章を寄せている。いずれも書き手の熱意が伝わってくる文章ばかりで、読み応えがある。時流に全く乗っていない感じがまたいい。

取り上げられている詩歌をいくつかご紹介しよう。

 いづくにか潜みてゐたるわれの泡からだ沈むるときに離れ来
                          二宮冬鳥
 雪原と柱時計が暮れはじむ        松村禎三
   白に就て
 松林の中には魚の骨が落ちてゐる
 (私はそれを三度も見たことがある)
                          尾形亀之助
 ふれあえば消えてしまうと思うほどつがいの蝶のもつれて淡し
                          筒井富栄

編集後記によれば、六花書林は創業十二周年を迎えて十三年目に入ったと言う。「創業の直前に生まれた子が来春には小学校を卒業する」とあって、しみじみとした気分になった。

2017年12月5日、六花書林、700円。

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2017年12月08日

「黒日傘」第8号


高島裕さんの個人誌。
特集は「父」、ゲストは岡井隆。
毎回テーマとゲストの選びがいい。

 小さきひとの足持ち上げて尻を拭く。この喜びはいづくより湧く
 哺乳瓶の剛(つよ)さを深く信じつつ熱湯注ぎ氷に浸ける
                      高島裕「百日の空」

「この春に長女が生まれた」という作者の子育ての歌。第1歌集『旧制度(アンシャン・レジーム』(1999年)から読み続けているので、読者としても感慨深いものがある。1首目はおむつを替えているところ。「小さきひと」がいい。2首目は粉ミルクを作りながら哺乳瓶の耐久性に注目しているのが面白い。

 茂吉歌集に父が書き入れし言(こと)の葉(は)をさむき雨降る夕ぐれに
 読む
 傷がないのに痛いつてことがある。父は居ないのに日向(ひなた)だけ
 ある                   岡井隆「父、三十首」

1首目、岡井の父は斎藤茂吉門下の歌人であった。その父の書いた文字を読みながらもの思いに耽っている。2首目、亡くなった後も父の存在感がどこかに残り続けているのだ。

 昭和六十二年製造の天ぷら粉、母の冷蔵庫の隅にひそみゐき
 川のやうになりて危険さへ覚ゆるに古書研究会のアナウンス長閑
 (のどか)                高島裕「甲午拾遺」

1首目、施設に入った母の家で見つけた天ぷら粉。「昭和六十二年」と言えば今から30年も前だ。2首目は大雨となった京都の古本まつりの光景。何となく古書店ならではという感じがする。

2017年11月30日、TOY、600円。

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2017年12月07日

「柊と南天」第0号


「塔」の昭和48年〜49年生まれの会員5名による同人誌。

 でもたぶんぽかんと明るいこの窓が失うことにもっとも近い
 山里に蛙の声をききながら夜の広さを確かめている
                       乙部真実

1首目、明るさと喪失感はどこか通じ合うものがある。「でも」という入り方と平仮名の多さが印象的。2首目、あちこちから聞こえる蛙の鳴き声に空間の広がりを感じている。

 くさむらに足踏みいればぬかるみはきのうの雨をあふれさせたり
                       中田明子

「きのうの雨」という表現がいい。ぬかるみから滲み出る水は、作者の心にある何かの感情のようでもある。

 芽キャベツのひとつひとつを湯に落としつつさよならを受け入れてゆく
                       池田行謙

芽キャベツを茎からもいで湯がいているところ。「落とし/つつ」の句跨りに、自分を納得させるまでの逡巡が滲む。

 画のなかの森の小道の明るさよ秋になりても実をつけぬ森
 画のなかの風を感じて吾が身体(からだ)粗き点描にほどけてゆけり
                       加茂直樹

絵の中の世界と現実の世界が交錯する歌。1首目、「実をつけぬ」と言うことによって、反対に実を付けるイメージが立ち上がる。2首目、絵を見ているうちに私が絵の一部になっていくような感覚。

 健闘と呼ばるる勝ちはなしひたひたと蛇口を落つる水滴の冴ゆ
                       永田 淳

「健闘」は、負けたけどよく頑張ったという時に使う言葉。でも、負けは負けなので素直には喜べない複雑な感じがするのだろう。

淳さんが「創刊の辞」に

 一九七〇年生まれの塔会員、つまり松村正直、荻原伸、梶原さい子、芦田美香がやたらと仲良しイメージを演出していることに対抗したかった

と書いている。
いえいえ、そんなことはないですって。(笑)

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2017年11月27日

「心の花」2017年11月号


佐佐木幸綱さんが「「家」のこと2」というエッセイを書いている。

 私の「家の記憶」は、本郷区(現・文京区)西片町十番地の三軒の家からはじまる。西片町十番地はかつての備後福山藩主・阿部家の広大な屋敷跡を分割したため、その名残で、「い」から「と」までに分けられ、さらに、いノ何号、ろノ何号……という番地がつけられている。
 私は、生まれてから高校卒業までに、「にノ四十号」(だったと思う。記憶ちがいかもしれない)、「いノ十六号」、「ろノ五号」、三軒の家に数年ずつ住んだ。「にノ四十号」は借家、「いノ十六号」は信綱の家、「ろノ五号」は父・治綱名義の家。

この「西片町」については、以前このブログで触れたことがある。
http://matsutanka.seesaa.net/article/387139056.html
(2013年3月5日、西片町)

西片町の歴史や住んだ人々のことを調べるだけでも、随分と面白いだろうなと思う。一度東京へ行った時にゆっくり歩き回ってみたいと思いつつ、いまだに実現していない。

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2017年11月18日

「週刊新潮」11月23日号


現在発売中の「週刊新潮」11月23日号の新々句歌歳時記で、
俵万智さんに『風のおとうと』の歌を引いていただきました。

この世では出会うことなき大根と昆布をひとつ鍋に沈めつ


  P1050975.JPG

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2017年11月16日

「現代短歌」2017年12月号


前号の中西亮太さんの評論「誰が桐谷侃三だったのか」を受けて、中西さんと篠弘さんの対談(インタビュー)「歌集『六月』をめぐって」が掲載されている。全10ページ。

これがすこぶる面白い。篠さんの博識ぶりと記憶力の確かさに驚かされる。さすがに短歌史の第一人者といった感じだ。それと、自ら「善麿の最後の弟子」を名乗るだけあって、土岐善麿の人となりや考え方がとてもよく伝わってくる内容であった。

「僕は東京生まれの東京育ちでもありましたし」「土岐さんの批評は東京人の僕の感性に合うところがありました」という発言は、篠さんと善麿のつながりを考える上で大事な側面だろう。

善麿は味わい深い歌を数多く残しているが、今ではあまり取り上げられなくなってしまった歌人の一人と言っていい。それは「土岐さんは自分の結社を持っていなかった」ことも理由の一つになっているように感じる。

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2017年10月15日

「現代短歌」2017年11月


中西亮太さんの評論「誰が桐谷侃三だったのか」が12頁にわたって掲載されている。

これは、すごい。短歌史における定説を覆す新資料の発見と、地道な裏付けに基づく緻密な論考である。桐谷侃三に興味がある方も、名前は聞いたことがあるけど・・・という方も、誰それ?という方も、ぜひお読みください。1940年当時の短歌をめぐる状況がありありと甦ってくる内容となっています。

こうした優れた評論を載せることは、短歌雑誌の大事な役割と言っていいだろう。

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2017年10月13日

「ととと」 5号


白石瑞紀・永田愛・藤田千鶴の3名によるネットプリント。A3判×2枚。

10首×3名の短歌と、永田さんの「愛の一首」、藤田さんの童話「とびらひらく」、白石さんの「うろうろ☆MUSEUM」が載っている。

今回は9月9日発行ということで、月に関する歌が多かった。

 いつまでも冷めないスープとろとろの月の煮込みを蓮華にすくう
                         藤田千鶴
 もうすこし待てばかなうというように叶(かなう)のなかに十字架はある
                         永田 愛
 静かなる水面に月の道はありたましひならば行けるだらうか
                         白石瑞紀

1首目、「月の煮込み」という表現から、フカヒレのスープをイメージして読んだ。身体の芯まで温まる美味しさ。
2首目、「叶」という文字の中の「十」を「十字架」と捉えた歌。「かなう」ことを祈る歌であるが、むしろ叶わない悲しみが感じられる。
3首目、湖や池に真っ直ぐにのびている光の帯。その先にはいったい何があるのか。身体は行けないが、魂はそこをたどって行くのだ。

2017年9月9日、モノクロ40円、カラー120円。


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2017年10月12日

「ぱらぷりゅい」


関西在住の女性歌人12名による同人誌。
参加者は、岩尾淳子、江戸雪、大森静佳、尾崎まゆみ、河野美砂子、沙羅みなみ、中津昌子、野田かおり、前田康子、松城ゆき、やすたけまり、山下泉。
「ぱらぷりゅい」はフランス語で傘のことらしい。

全員の連作12首と、互いの第1歌集の批評、年表、歌会記など盛り沢山な内容となっている。全88ページ。山階基の手になる装幀・デザインも素敵だ。

 山火事のようだ怒りは背中からひたりひたりと夜空をのぼる
                        江戸雪
 紫陽花の重さを知っているひとだ 心のほかは何も見せない
                        大森静佳
 文学を解する猫は眠りをり陽のうつろひを鼻に感じて
                        野田かおり
 彗星と細字で書けばペン先に夜の光の集まり始む
                        前田康子
 さやうなら薄い衣をまとはせて金の油へ鰯を放す
                        松城ゆき
 ざんねんな探偵としてわれはわれに雇われいたり今日も推理す
                        山下泉

1首目、怒りの激しさや身体感覚がよく伝わってくる。何とも怖い。
2首目、下句がおもしろい。「心は見せない」なら普通なのだが。
3首目、下句がいかにも眠っている猫という感じがする。
4首目、「彗星」には横線がとても多いので、丁寧に書いている感じ。
5首目、鰯の天ぷらを作っているだけなのだが、歌にすると美しい。
6首目、あまり有能な探偵ではないのだろう。問題は解決できないまま。

2017年9月18日、500円。

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2017年10月05日

「歌壇」2017年10月号


特集は「覚醒する子規―生誕一五〇年」。

三枝ミ之と長谷川櫂の対談「子規が遺したもの」が非常に面白い。子規の俳句・短歌史における位置付けの変更を迫るものだ。

印象に残った発言をいくつか引いてみよう。

子規は実は近代俳句なり近代短歌の創始者ではなくて、中継者だったのではないかという考え方です。(長谷川)
だけど茂吉は子規に行く。あれ、なぜだろう。一つは、子規と茂吉の共通点が一高文化で(三枝)
(芭蕉と一茶の)有名な二つの俳句を比べると「かはづ」から「かえる」に変わっている。これはすごいことだ。(三枝)
晶子は江戸時代の歌謡や狂歌を栄養源としていたので、漢語や俗語の使い方がかなり自由になっている。(三枝)
方法論を提示した子規や虚子は、ある意味で自分が唱えた方法論から自由でいられる。(長谷川)

どれを取っても刺激的で示唆に富む発言ばかり。こうした歴史の捉え直しがあってこそ、新たに特集を組む意味があるというものだろう。

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2017年10月03日

「鴨川短歌」


田島千捺、牛尾今日子、橋爪志保、濱田友郎、土岐友浩の5名による同人誌。連作10首×5名と合評「わたしの好きな一首」が載っている。

途切れつつながい工事の音がしてせつなく終わる昼過ぎにいた
                       田島千捺

断続的に聞こえていた工事の音が止んだ後の空虚感のようなもの。休日の自分の部屋で一人ぼうっとしているのだと思う。

駅までの長い夕陽を浴びながら歩かせている夏のからだを
                       牛尾今日子

「歩いている」ではなく「歩かせている」が面白い。身体と心が少し離れている感じ。「長い」は影の長さでもあり、道の長さでもある。

じょうろじゃなくてあれでカレーを出す店と、言いつつきみの形どるあれ
                       牛尾今日子

確かによく見かけるのに名前は知らない。調べてみるとカレーソースポットなどと呼ぶらしい。二人のやり取りが目に見えるようだ。

目を閉じてまぶたの裏に見とれてる 根が水を吸うように泣きたい
                       橋爪志保

目をつぶって涙を堪えているのか。下句の比喩が魅力的。切羽詰まった泣き方ではなく、健康的で自然な感じの泣き方ということだろう。

シャープ・ペンシルで描かれるほおづきの朝は美しさの庭だった
                       濱田友郎

三句の「ほおづきの」は「ほおづきのように」という意味で受け取った。輪郭のくっきりした感じがする朝の庭の美しさ。

回想の出町柳は寒すぎてあなたは白いティペットを巻く
                       土岐友浩

ティペットはふわっとした肩掛けのこと。その場面を思い出すたびに、あなたよりも「白いティペット」の印象が甦ってくるのだろう。

合評「わたしの好きな一首」は、それぞれが挙げた好きな歌について全員で話し合っている。Skypeのやり取りが元になっているので、同じ人の発言が何回も続くことがあって最初は戸惑ったが、慣れると大丈夫。

濱田: 韻律は、歌のインナーマッスルみたいな感じで、隠れて活躍している。みたいな感じでいてほしいですよね
牛尾: でもなんというか、最近はそこまでほむほむのパラダイムで歌評をしようという志向はみんな無さめですよね

五名の読みの深さとともに、互いに信頼して何でも話せる関係であることが伝わってくる。中でも濱田さんの発言は抜群に楽しくて、反射神経やネーミングのセンスの良さを感じる。こういう人が一人いると歌会は盛り上がるだろうな。

2017年9月18日、200円。

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2017年09月29日

「三十一番」「三十一回裏」


谷じゃこ編集・発行の同人誌を2冊、文フリ大阪で購入。

相撲と短歌のアンソロジー「三十一番」。
9名の相撲に関する短歌5〜7首とエッセイ、さらに「ご贔屓力士・一首」が載っている。

 立会いの瞬間息を吸う音がこんな後ろの椅子席にまで
                   谷じゃこ

テレビでは味わえない生観戦の醍醐味。溜席(砂かぶり)やマス席ではなく土俵から離れた椅子席まで、息の音が聞こえてくるとは!

 最後まで見届けてこそ大相撲 弓取り式はエンドロールだ
                   のにし

テレビ中継を見ていると弓取り式の途中でぞろぞろと帰り始める人が多い。なるほど、確かに映画館の光景とよく似ている。

 十両の取組をする年下の安美錦関を励ますこころ
                   生沼義朗

ベテラン安美錦は38歳。短歌の世界ならまだまだ若手と呼ばれる年齢だ。秋場所では優勝決定戦まで進み、来場所はまた幕内に帰ってくる。

野球と短歌のアンソロジー「三十一回裏」。
13名の野球に関する短歌5〜7首とエッセイ、さらに「オススメ野球本」が載っている。

 いっぺんにふたりが死んでいくところ観たいから野球につれてって
                   石畑由紀子

上句はぎょっとする言い回しだが、結句まで来て野球のことだとわかる。併殺(ダプルプレー)とか刺殺とか盗塁とか、野球用語はけっこう物騒だ。

 右中間を球はころがる耳寝かせ森に分け入るうさぎのように
                   小野田光

三句以下の比喩がおもしろい。まるで実際の白いうさぎが球場をぴょんぴょんと跳ね回っているような気分になる。

 しきしまの日本の夏の終わるころ各地に届く甲子園の砂
                   蓮

「甲子園の砂」の観点から詠んでいるのがおもしろい。夏の高校野球は各都道府県の代表が出場するので、全国各地に砂が運ばれるわけだ。

表紙やデザインも凝っていて、とてもオシャレ。
短歌を楽しんでいる雰囲気がよく伝わってくる。

2017年9月18日、各350円。

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2017年09月24日

おさやことり・橋爪志保「はるなつ」


文学フリマ大阪で購入した同人誌。
発行・編集は吉岡太朗。

おさやことり「ゆきとけやなぎ」「とりわけしづか」、橋爪志保「階段」「夢中」と、7首の連作が計4篇載っている。

さきっぽのほうだけはながさいていてむしろゆきとけやなぎのような
                     おさやことり

おさやことりの歌は全部ひらがな。雪柳の咲き始めの光景だろう。満開ではないので雪が解けているように見えるのだ。

みかづきがまるさのなかにみえているないことにされたぶぶんのこくて
                     おさやことり

三日月の光っている部分ではなく、見えていない部分に着目したのが面白い。

花曇り きみのあたまはアルパカとスパゲッティをあわせた匂い
                     橋爪志保

きっと心地良い匂いなのだろう。音の並べ方のうまい作者で、「あたま」→「アルパカ」の「あ」、「アルパカ」→「スパゲッティ」の「パ」という感じに音が音を導いていく。

ピクルスをきみはパンから抜きとって花のまばらな川原へ放つ
                     橋爪志保

ハンバーガーなどに入っているピクルスが嫌いなのだろう。下句、「はな」「まばら」「かわら」「はなつ」とA音が続く。

まだひるのつづきのようなあかるさにそらはりとますしけんしをなし
                     おさやことり

夕方になって、青いリトマス試験紙が赤くなるように徐々に空の色合いが変化していく。

逃しても取れてもきっとはしゃいでるこの世は長い流しそうめん
                     橋爪志保

下句の妙な断定に惹かれる。「長い」「流し」の音の響きが効果的なのだろう。

「おさやことり」(OSAYAKOTORI)という名前は「吉岡太朗」(YOSIOKATARO)のアナグラムということか。

2017年9月18日発行。

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2017年09月20日

「日本近代文学館」館報第279号


「日本近代文学館」の館報第279号が届いた。
http://www.bungakukan.or.jp/cat-whatsnew/9556/

「館蔵資料から=未発表資料紹介 佐佐木信綱宛書簡」を毎号楽しみにしているのだが、今号には北原白秋の信綱宛書簡が2点紹介されていた。

そのうち1点は昭和14年12月31日消印のもので、「啓上 御懇書ならびに筆墨忝く拝受かへつて恐縮に奉存候今は御祝のおしるしまでいささかのもの差出申候につき御笑納たまはり度存候 夢殿につき御厚情難有く御礼申上候」とある。

信綱からもらった手紙のお礼と、祝いの品を送ったこと、そして前月に白秋が刊行した歌集『夢殿』に対する信綱の好意へのお礼という内容だ。

白秋と信綱の関係については、昭和12年の「愛国行進曲」の歌詞の審査の場で喧嘩をして終生和解しなかったという伝説がある。

これについては、既に渡英子が「信綱と白秋―喧嘩顛末記」(「佐佐木信綱研究」第3號)で誤りを正している。また、マンガ「月に吠えらんねえ」の作者清家雪子のブログにも「白秋VS信綱〜解決編」(2016年11月24日)という詳しい記事が載っている。

今回の館報に載った昭和14年の白秋の書簡もまた、先の伝説の誤りを裏付ける証拠の一つと言って良いだろう。

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2017年09月15日

いわて故郷文芸部ひっつみ「ひっつみ本」


岩手県出身者、在住者が参加する同人誌。
8名が参加して、それぞれ短歌7首(or詩1編)+随筆を発表している。

巻頭には「どなたもどうぞお入りください/決してご遠慮がありません」と、宮沢賢治の『注文の多い料理店』風な前書きがあり、岩手への愛を感じさせる。

ストーブの効いた部屋から雪を見る 出会う前他人だったのか僕らは
                         逢坂みずき

出会う前は当然他人だったはずなのだが、ずっと前からお互いに知っているような感じがするのだ。冬の部屋に相手と二人きりという場面だろう。

甘すぎるカルーアミルクが二つあり元は一つの愛だったよう
                         木下知子

下句の発想がおもしろい。一つの愛が二つに分かれてしまったのか。コーヒーリキュールに牛乳を混ぜるカクテルの色合いや甘さが、うまく合っている。

噛めるひかり啜れるひかり飲めるひかり祈りのように盛岡冷麺
                         工藤玲音

四句目までは何のことかわからずに読んでいって、結句でなるほどと思う。盛岡冷麺の強いコシやつやつやした光沢の感じが印象的に描かれた歌だ。

ポケットにビールの缶をねじこんで花のいかだで旅ができるね
                         佐々木萌

手ぶらでビールの缶だけを持って花見をしているのだろう。水面に浮かぶ花筏に乗ってどこまでも行けそうな楽しい気分になっている。

どれくらいのテレビか聞かれ箸を置き空中に書くわたしのテレビ
                         武田穂佳

一緒に食事をしている相手からテレビの大きさを聞かれたのだ。何インチといった数字ではなく、指で四角を書いているところに臨場感がある。

エッセイはどれも若々しさの感じられる内容で、読んでいて楽しかった。特に木下知子「標識」が印象に残った。

「ひっつみ」という会の名前は、岩手の郷土料理で、すいとんの一種のことらしい。

岩手に何か関係のある食べ物がいい、と思い、わんこそば、とか、じゃじゃ麺、とか考えたものの、ひっつみ、という言葉の耳たぶほふどのやわらかさ、あたたかさから、この名前に落ち着きました。

という説明がある。肝腎の「ひっつみ」がどんな料理かという説明がないところがいい。地元の人にとっては当り前のものだから、説明の必要を感じないのだろう。そんなところにも岩手への愛を感じる。

2017年6月11日、300円。

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2017年08月27日

「短歌人」2017年9月号


編集室雁信(編集後記)に小池光さんが、こんなことを書いている。

●歌集が次々に出て慶賀に耐えないが歌集というものは売るものでも売れるものでもなく差し上げるものである。少し分厚い名刺である。名刺だから差し上げて、それでなんの余得も欲してはならない。差し上げた未知の人から返事がきたりして嬉しいものだ。それで十分と思わねばならぬ。

随分と思い切った書き方をしているが、読んでいて気持ちがいい。最近の小池さんらしいとも思う。十年くらい前まではみんなこういう感じで歌集を出していたわけで、「歌集は名刺代わり」という言葉もよく聞いた。

近年、歌集を売ろうとする試みや努力が出版社や歌人の間にも広がりつつある。それはそれで大事なことだと思う。お金の問題はやはり馬鹿にできないのであって、歌集が売れて作者の経済的な負担が少なくなれば随分と歌集出版の風景も違ってくるだろう。

その一方で、歌集が売れないことを別に悲観する必要もない。売れる・売れないというのは、短歌にとって本質ではないからだ。最終的には、自分の納得のいく歌ができるかどうかという問題であろう。

もちろん、売れるに越したことはなくて、僕自身、本を出すたびにベストセラーになることを思い描く。でも、小池さんの書いている「それで十分」という心構えも忘れずにいたいと思う。

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2017年08月15日

「短歌往来」2017年9月号


米川千嘉子「つるつるの世」33首から、はじめの5首を引く。

 「お嬢さんの金魚」の歌よ水槽はとぷとぷとぷと夏のひかりに
 九州に豪雨はつづき七年間会ふことなき河野裕子さんをおもふ
 河野さんの「ちりひりひ」とか「妙(めう)な」とか ひるがほは首しろく
 咲きだす
 アホなことはどれほどどれだけ積み上がりし この七年を知らぬひる
 がほ
 河野さんのあかあか赤ままの良妻のうた その幸ひはいまもそよぐや

2010年に河野裕子さんが亡くなって、早くも7年が過ぎた。
河野さんを偲びつつ、移りゆく時代に思いを馳せているのだろう。

河野さんの歌がいくつも踏まえられている。

 お嬢さんの金魚よねと水槽のうへから言へりええと言つて泳ぐ
                      『歩く』
 ちりひりひ、ちりちりちりちり、ひひひひひ、ふと一葉(ひとは)笑ひ出し
 たり神の山              『体力』
 眠りゐる息子の妙(めう)な存在感 体力使ひて眠りゐるなり
                      『体力』
 美しく齢を取りたいと言ふ人をアホかと思ひ寝るまへも思ふ
                      『母系』
 良妻であること何で悪かろか日向の赤まま扱(しご)きて歩む
                      『紅』

こんなふうに古い歌を思い出しながら、歌を読んでいくのも楽しい。

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2017年08月14日

「上終歌会01」


2016年8月から京都芸術大学文芸表現学科の学生を中心に行っている「上終(かみはて)歌会」のメンバーの出した冊子。記念すべき第1号。

 赤青黄緑紫白黒と何もなかった日の帰り道
                     小林哲史

上句の色の羅列が「何もなかった」につながるのが面白い。色だけをぼんやり見ていたようでもあるし、本当は何かあった日なのかもしれないとも思う。

 記憶の雪は四十五度にふっている窓の対角にきらきらとして
                     中野愛菜

「四十五度」がいい。風まじりの氷の粒のような雪が斜めに窓を横切っていく。ふるさとの家で見た光景だろうか。記憶に今も鮮やかに残っているのだ。

 帽子だけ持って飛び乗る上り線窓の指紋が富士に重なる
                     鵜飼慶樹

上句のリズムや内容に若さと勢いがある。下句は一転して非常にうまい写生で、技術の確かさを感じる。東海道線で東京方面へ向かうところか。

 はなびらがあなたの胸にすべりこむはなびらだけが気づく心音
                     中山文花

淡い恋の歌。相手の着ているTシャツの首のあたりから桜の花びらが入っていくのが見えたのだろう。君の心臓に触れてその音を聴いてみたいという思い。

 バースデーケーキに墓標立てる彼うちくだかれたうちくだかれた
                     森本菜央

下句がいい。ひらがな表記が呪文のようでもあるし、「打ち砕かれた」という言葉が解体して、「抱かれた」や「枯れた」が浮んでくるようにも読める。上句の蠟燭を「墓標」に見立てているのも、意外性があって印象に残る。

2017年8月1日発行。

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2017年08月11日

第六回琅玕忌だより


P1050802.JPG

「第六回琅玕忌だより」が発行されました。(非売品)

今年2月18日に熊本で行われた琅玕忌(石田比呂志さんを偲ぶ集まり)の内容がまとめられたもので、私の講演「短歌の骨法―石田比呂志の歌の魅力」も載っています。

手元に4部ありますので、欲しい方はメールでご連絡ください。
先着順、無料です。 【残部なくなりました 8月12日】

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2017年08月03日

「かりん」 2017年8月号


池谷しげみさんの「発送作業を終えて」という文章を、しみじとした思いで読んだ。

 「かりん」は創刊以来、手作り感を大切にして、発送作業も手書きをつづけてきました。根本的なこころざしに変わりはありませんが、来年の創刊四十周年を機に、時代に即したやりかたを徐々に採りいれようと、模索をはじめています。
 手始めに、発送作業を外部に委託することとなり、すでに七月号から新システムに移行しています。

つまり、これまで自分たちで行ってきた結社誌の発送作業を、外部の会社に委託することになったというわけだ。それに伴って宛名も手書きではなく、印刷されたラベルになるのである。

これまで四十年近く、毎月一回、発行所(馬場さんのご自宅)に集まって発送作業をされていたのだという。きっと大変なことも多い一方で、楽しい集まりでもあったのだろう。時代の移り変わりとはいえ、ずっと続いてきたことが終わるのは寂しいことである。

「塔」ではもう随分前から発送作業は印刷所に委託している。でも、その前は古賀泰子さんのお宅で発送作業をしていたと聞いたことがある。

合理化できるところは合理化してというのは「塔」でも進めている路線だし、実際にそうしていかないと、この時代に結社を存続させていくことはできない。でも、本当に合理化だけを考えるなら、結社を解散するのが一番ということになってしまう。そのバランスをどのように取っていけば良いのか、結社の今後のかじ取りは非常に難しい。

池谷さんの文章の最後には、宛名書きや会費チェック、袋詰めと荷造りを担当されていた方々のお名前が列記されている。必ずしも歌壇的に有名な方ばかりではない。でも、そうした方々の力があって初めて、結社は成り立っているのである。そのことを常に心に置いておきたいと思う。

長い間、本当にお疲れさまでした。
書いていて、涙が出てきた。

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2017年07月23日

「短歌往来」2017年8月号(その2)


特集「30代歌人の現在」より。

 ねぢれたるコースロープをほどきゆく会はなくなつたひとがゐさうで
                      楠 誓英

上句はプールでよく見かける行為だが、下句へのつながりが不思議でおもしろい。「ねぢれたる」と「会はなくなつた」が微妙に響き合う。

 白鶴は雪の味せり 立ち飲みに夜がゆっくり降りてくるころ
                      大平千賀

上句の「白鶴」「雪」という白いイメージと下句の夜の暗さが、互いを引き立て合う。「降りてくる」という動詞の選びがいい。「更けてくる」ではダメ。

 切る前のすいくわのやうな匂ひだなあ家族になつて九年目の夏
                      澤村斉美

家族にも歴史がある。今は「切る前のすいくわ」のように、瑞々しくて青臭い匂いがしているのだろう。まだ、切った後の西瓜ではないのだ。

 知覧茶のしづくとなりてわがのどに少年兵のからだかぐはし
                      柳澤美晴

知覧はかつて特攻隊の基地があった町。茶の産地としても知られている。「しづく」「のど」「からだ」「かぐはし」の平仮名が効果的。何ともすごい歌だ。

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2017年07月22日

「短歌往来」2017年8月号(その1)


特集は「30代歌人の現在」。
32名の作品12首が載っている。男女16名ずつ。

目次には「作品十首+春の季の愛誦歌」とあるが、どこかの段階で変更になったのだろう。

 その胸につめたい蝶を貼りつけて人は死ぬ海鳴りが聞こえる
                        服部真里子

「つめたい蝶」は人の魂のようでもあり、また胸の前で合掌した手のようでもある。海鳴りがあの世から呼んでいるかのように部屋にまで響いている。

 敦盛の享年ほどの幾人(いくたり)か机に伏せたるまま動かざり
                        田口綾子

平敦盛は満14、5歳で亡くなったので、この歌も中学校の教室の場面だろう。授業中に居眠りする生徒というのも、考えてみれば平和な光景である。

 西瓜畑に西瓜太りて逃げられぬこの世のあおい天井が見ゆ
                        小島なお

この世からは誰も逃げ出すことができない。追い詰められていくような圧迫感。「あおい天井」が良くて、空にも蓋がされているように感じるのだ。

 うつしみをまぶたのなかに容れこんで夜を地蔵になるわたしたち
                        吉岡太朗

上句の感覚がおもしろい。身体が丸ごと閉じた目の中へ入ってしまう感じ。そして固い地蔵に変身したかのように、静かに眠るのである。

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2017年07月15日

『山西省』の検閲のこと


「歌壇」2017年8月号掲載の島田修三「PPBの検閲」に、次のような文章がある。

途中、事前から事後検閲に変わったが、PPBの検閲制度は昭和二四年一〇月まで続く。とはいえ、例えば、この期間に刊行され、中国兵との凄惨な戦闘シーンもある宮柊二の『山西省』の歌が削除されたという話は聞かない。

占領軍による検閲についての話であるが、実は『山西省』は検閲によって原稿を没収された経緯がある。

これは既に多くの人が指摘している事実であって、例えば、今年刊行された佐藤通雅著『宮柊二『山西省』論』には、次のように書かれている。

この検閲政策は、一九四五年九月から四九年九月までつづけられ、膨大な既刊本が焚書の憂き目に会った。また、事前検閲によって改変を余儀なくされる例が続出する。改変どころか、出版自体が不許可となり、没収される場合もあった。『山西省』もそういうなかの一つだ。

この時に没収された原稿は、幸いなことにプランゲ文庫に残っており、現在では中山礼治『山西省の世界』(1998年)で読むことができる。
http://www.hiiragi-shobo.co.jp/?p=109

また、プランゲ文庫の「検閲処分を受けた一般図書、ゲラ、手書き原稿」はネットでも公開されている。
https://www.lib.umd.edu/binaries/content/assets/public/prange/censored-books-and-pamphlets_07282016.pdf

この一覧表で宮柊二『山西省』を探すと、1946年3月7日に「Manuscript」(原稿)が「Suppressed」(出版禁止)、「Withdrawn」(取り下げ)という処分を課されたことがわかる。

占領軍による検閲の実態については現在も不透明な部分が多いが、その中にあって『山西省』は最も研究が進んでいる一冊と言っていい。それを「『山西省』の歌が削除されたという話は聞かない」と書くのは、ちょっと不用意ではないだろうか。

*中西さんのコメントを受けて「これは明らかな間違いだ」という部分を削除しました。(2017.7.17)

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2017年07月14日

「ととと」4号


白石瑞紀・永田愛・藤田千鶴の3名の作品を載せたネットプリント。
A3判×2枚。
今回は7月7日の発行ということで、誰かのことを想う歌が多かった。

 ぬばたまの夜の川面は銀河ゆゑ人が立ち入るところにあらず
                    白石瑞紀 「ほたる」
 あたらしい花火にあらたな火を点すあなたの指はとてもきれいで
                    永田 愛 「火」
 貝殻のなかの螺旋に腰掛けて聴いているよう灯りちいさし
                    藤田千鶴 「音楽と夢のあわい」

札幌の居酒屋「ととと」のレポートも載っている。
「鶏と豆富と魚」で「ととと」という名前なのだとか。
「魚=とと」なのだろう。

2017年7月7日、白黒40円、カラー200円。

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2017年07月13日

文藝別冊「俵万智」


副題は「史上最強の三十一文字」。

『サラダ記念日』刊行から30年。版元である河出書房新社から俵万智のムックが出るのも感慨深いものがある。表紙の写真も『サラダ記念日』と同じポーズになっていて、センスがいい。

いろいろと載っているのだが、俵万智と穂村弘のスペシャル対談「「俵万智」になる方法」だけでも十分に元が取れる内容だ。穂村さんの分析力はやはりすごい。

 これは仮説なんだけど、究極の一首を求めるみたいな感覚が歌人のなかにはあるんだと思う。
 ネガティヴィなもののほうが詠いやすいってのは事実なんだけど、その一方で近代以降の短歌にある根本的な生命への肯定感の問題があると思うんだ。

引用だけではうまく伝わらないけれど、どちらも短歌の本質的な問題を突いていて、すぐれた短歌論になっている。

2017年6月30日、河出書房新社、1300円。


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2017年07月11日

「九大短歌」第5号


全48ページ。印象に残った歌をいくつか引く。

 共通のゲームが好きというだけの友達、母というだけの他人
                     長友重樹

「母というだけの他人」に驚く。確かに母といえども他人であるのは間違いない。下句の句割れ・句跨りがうまく働いている。

 心療内科に通うぼくたちやわらかな心の皮膚を一枚はがす
                     菊竹胡乃美

カウンセリングを受けている場面だろう。皮を一枚そっと剝がすように、少しずつ自分の心を打ち明けていくのだ。

 君の描くハートは隙間が空いていていつもわたしが少し描き足す
                     金子有旗

ハートマークの線がきちんとつながっていないのが作者には気になる。完全なハートになるように描き足すところが微笑ましい。

 部屋じゅうの鶴の群れから逃げだして飛行機になる千一枚目
                     松本里佳子

折紙で千羽鶴を折ったあとの「千一枚目」。そう言えば千羽鶴は鶴だけれども糸に吊るされて、自由に空を飛ぶことがない。

 屋根裏に額を寄せてぼくの記憶をぼくらの記憶にする双子たち
                     松本里佳子

互いの額をくっつけ合うと、記憶を共有できるのだろう。SFかオカルトみたいな発想で、笹公人さんや石川美南さんの作風を思わせる。

 東京の人はかぶってないからと駅で帽子を脱げるおとうと
                     狩峰隆希

地方から東京に出てきて、自分のファッションを恥ずかしがる弟。自分でなく弟の話だけに、より痛ましさを感じる。

他には、「牧水・短歌甲子園」経験者4名による誌上座談会が面白かった(ただし前半の互いの歌の批評はもの足りない)。現在、盛岡市主催の「全国高校生短歌大会」(短歌甲子園)と日向市主催の「牧水・短歌甲子園」の二つが行なわれているが、これは統一できないのだろうか。

2017年6月10日、九州大学短歌会、500円。


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2017年07月03日

「岡大短歌5」


五首連作+「岡山」エッセイ(9名+OG7名)、学年×五首連作(6名)、一首評、往復書簡、「第三回学生短歌バトル2017記」という盛り沢山な内容で、全80ページ。

 額から降りてくる手がのどを避け心臓を避けていく 冬だった
                        山田成海

恋の場面。「のど」や「心臓」に触れてほしいという思い。結句の一字空けが効果的で、鮮烈に甦ってくる感じがある。

 クラシックバレエを辞めた足先が体の前の陽に触れたがる
                        川上まなみ

立っている時につま先が無意識に動くことがあるのだろう。かつてバレエを習っていた時の名残が身体に残っている。

 瞬間を覚えていること その奥でらくだが閉じる分厚い瞼
                        加瀬はる

記憶の鮮やかさと脳の奥から甦る不思議な感じがよく表れている。下句のイメージへの飛躍が抜群に良い。

 おまえよりおまえのにおう暮れの森すすめばここが脳だと気づく
                        加瀬はる

今は目の前にいない相手なのだけれど、濃厚にその存在を感じているのだろう。襞の多い脳は、なるほど森に似ている。

 白菜の水分なのか白菜が水分なのかぼこぼこと溢れ始めた鍋を
 見まもる                  上本彩加

5・7・5・7・5・7・7という長い歌。白菜が煮えてくたくたになっていく感じがよく出ている。

 地獄へ連れてきてくれてありがとう 燃え立つ畔のかがよひを行く
                        森下理紗

「曼珠沙華(リコリス)」という一連の歌。曼珠沙華の咲いている畦道を歩いているところ。「ありがとう」が強く響く。

 この兵士は確かこのあと死ぬはずだ故郷の森を語ったあとで
                        森永理恵

かつて見たことのある映画を再び見ているところか。主人公ではないけれど、印象的な人物。故郷の思い出を話す場面の後で戦死するのだろう。

 重力のこびりついてるヒラメ筋洗ってそのまま布団に沈む
                        加瀬はる

ヒラメ筋はふくらはぎの筋肉。よく歩いて疲れているのだろう。まるで筋肉を取り出して洗っているみたいな表現がおもしろい。

 崩しても崩してもいのち箸先が死んだシシャモの腹をまさぐる
                        山田成海

題詠「ししゃも」。シシャモの腹の中にある卵の粒の一つ一つが「いのち」であることを、あらためて気づかされる。

2017年6月10日、岡山大学短歌会、400円。

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2017年06月21日

「Tri」第5号

短歌史に関する評論同人誌。今回のテーマは「ろんそう!」。
寺井龍哉、大井学、浅野大輝、濱松哲朗、花笠海月の計5篇の論考が載っている。A5判、104ページという厚さ。

濱松哲朗「これからの「短歌史」のために」は、2007年の佐佐木幸綱と私の論争を取り上げたもの。

あの論争が不毛な言い争いに終わってしまったのはなぜなのか。濱松は双方が前提とする文脈が大きく違っていたことを、佐佐木と私それぞれの作品や評論なども踏まえて丁寧に論じている。

非常にスリリングでおもしろく、また、納得のいく内容であった。

私は論争の当事者だったわけだが、当事者だからと言って論争の全体図がわかっているわけではなく、むしろ当事者ゆえに見えない部分が多いのだろうと思う。今回、濱松さんの詳しい解説を読んで、初めて「なるほど、そうだったのか!」と気づくところがたくさんあった。

松村の評論は、一首のうちに描かれた〈われ〉以上に、その〈われ〉に課せられた「運命」や、そう書かざるを得なかった「作者」の「運命」を追ったものが多い。
松村は時に「行動を選択しない〈われ〉」を作中に描くことがある。

こうした指摘も、自分ではあまり意識していなかったけれど、確かにそうだなと思う。自分の中にある何かが、評論にも歌にもやはり抜きがたく滲み出ているのだろう。

2017年5月7日、H2O企画、700円。

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2017年06月14日

「アララギ」 昭和17年2月号


 P1050716.JPG

用があって古い「アララギ」を読んでいる。
昭和17年2月号。

前年12月8日の真珠湾攻撃や12月10日のマレー沖海戦の華々しい戦果が、多くの歌となって誌面に載っている。

ペンシルバニヤに命中したる直後にて空中魚雷の白き雷跡
(らいせき)            山口茂吉
ほふり得しレキシントンの轟きを自ら聞きて還りたる艦(ふね)
                   佐藤佐太郎

高安家の人々の歌も載っている。

巨艦(おほきふね)ほふりはてむと身をもちて火炎に入りし
稚(わか)きますらを      高安やす子
戦はいづちと思へばせきあへぬ心となりて空を仰ぎつ
                   高安国世
今まさに艦勇ましく戦ふに灯火管制下二人の吾子は眠れり
                   高安和子

それぞれ「二月集 其一」「壬午集(土屋文明選)其三)」「壬午集 其一」に掲載。

ちなみに表紙の絵は、マネの「エミール・ゾラの肖像」。
http://art.pro.tok2.com/M/Manet/z047.htm

扉に茂吉がこの絵の鑑賞を書いている。
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2017年06月04日

廣野翔一個人誌 「浚渫」

「連作2篇」「日記」「エッセイ」の三部構成。
連作は「泥、そして花びら」30首と「春祭、post-truth」14首。

喉仏持たずやさしき春の鳩からくりのごと空へ弾けつ

「喉仏持たず」という把握が面白い。「からくりのごと」は最初鳩時計かと思ったが、手品師がハンカチから出す鳩の感じかもしれない。

溶接の面(おもて)に闇は広がりて蛍の火には触れず 触れたし

作業の現場の歌。溶接の火花を蛍の光に喩えているのだろう。結句の一字空けに力がある。

生活に仕事がやがて混ざりゆく鉄芯入りの靴で外へと

仕事で使う安全靴を履いて、休日などにちょっと外へ出掛けるところか。「鉄芯入りの靴」がいい。

聴力が先に捉えて振り返るヘリコプターに土踏まず見ゆ

ヘリコプターの脚(スキッド)を「土踏まず」と表現したのだろう。音が先に聞こえてくる感じもよくわかる。

移民の孫が移民を拒む寂しさの中でもうすぐ築かれる壁

移民の国アメリカで建設が進む国境の壁。トランプ大統領の当選後の時事的な話題を詠んだ歌だ。

歩きつつアップルパイを食べているpost-truthの時代の中で

上句の軽さと下句の不安感の取り合わせが現代的。初句・二句の「あ」の頭韻や、「プ」「パ」「po」の音の響かせ方がうまい。

2017年5月7日発行、500円。
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2017年05月17日

「歌壇」2017年6月号

小谷奈央「沼杉」20首がいい。かなり良い一連だと思う。

全体にひらがなが多く柔らかな詠みぶりが印象的。植物や生き物がたくさん出てくる。頭の中で思いを巡らせつつ自然の中を歩いているのだが、両者がない交ぜになっている感じもあって面白い。

からっぽと人に言われてかんがえるからっぽをいま繁縷が蔽う

誰かに「君はからっぽだ」とか「頭をからっぽにしろ」とか言われて、その意味を考えているのだろう。下句は空地や庭に繁縷がはびこるイメージ。

枯れ草のいろのつばさが揚がるとき辺りにあかるい音がちらばる

ひばりの明るい鳴き声が聞こえてくる場面。「ひばり」と言わずに表しているのがいい。大伴家持の「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」を思い出す。

やったことひとつずつ消しやらなかったことはリストにそのままのこる

「やることリスト」を作って一つ一つ消しているのだ。やったことよりもやらなかったことの方が、後々までリストだけでなく胸にも残る。

なだらかな草の斜面を越えて行く小さな虫とぶつかりながら

蚊柱などだろうか。上句だけなら何でもないのだが、下句に体感があることで、ぐっと臨場感のある歌になった。

にんげんは笛だったからここで死ぬこともそのうち笛になるんだ

人間の身体が管であることから笛が出てきたのだと読む。一連の中でピークとなっている力強い歌。笛が人間になって、やがてまた笛に戻っていくということか。1首目の「からっぽ」とも響き合う。

たんたんと離れてゆけばつまずきぬ沼杉の根はここまで伸びる

水辺に生えている木。思わぬ場所まで気根が延びていたのだ。おそらく好きな木なのだろうが、逃げられないような不気味さも感じる。
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2017年05月13日

時評いくつか

各結社誌の時評欄には必ず目を通すようにしているが、毎月かなり充実していると思う。

「八雁」5月号の渡辺幸一「「合評余滴」について思うこと」は、率直で歯に衣着せぬ書き方が印象的であった。歌をめぐる議論の大切さを述べた文章である。

大切なのは「誰の作品のどこがいいか(あるいは悪いか)、その理由は何か」を具体的に明らかにすることである。当然ながらそうでなければ議論は始まらない。

歌壇の現状や歌の批判などをする際に、一般論ではなく具体的な人名や作品を挙げることの大切さを指摘していて、確かにその通りだと思う。この点、歌人は少し優しすぎるのかもしれない。

「梁」92号の上村典子「「読み」は金字塔」は、短歌の読みについての話。いくつもの話題を挙げているのだが、「ね」や「レチサンス」の話もあって、ちょうど「角川短歌」5月号の歌壇時評に私も書いたところだったので、面白かった。

「未来」5月号の服部真里子「内的要請と外的要請」は山中千瀬や石井辰彦の折句の歌を挙げて、「作者の内面の表白」という短歌観に疑問を呈したもの。

作者が内面を表白した歌が、名歌となることは確かにある。しかしその確率は、外的要請が名歌を生む確率とさほど変わらないのではないか。(・・・)作者自身の「表白」より、外的要請によってにじみ出てしまう何かの方が、作者を深く反映することはないだろうか。

これは確かにその通りだと思うところがあって、例えば「題詠」と「自由題」で一首ずつ歌を出してもらったりすると、外的要請のある「題詠」の方が意外と良い歌が多かったりする。

(ただし、そもそも短歌においては「定型」が最大の外的要請になっているのではないかという疑問もある。)

「短歌研究」5月号の短歌時評「歌読みは何を信じるか」では、高島裕が「人の〈本心〉がまず実体として存在し、短歌作品は、言葉によってその〈本心〉を表現したもの(であるべき)だ」という短歌観を批判しており、服部の指摘ともつながる内容だと感じた。

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2017年05月03日

「未来」2017年5月号

昨年「未来」に電撃的(僕のイメージ)に復帰した高島裕さんのインタビューが載っている。全8ページ。聞き手は錦見映理子さん。

高島さんの歌や人生の軌跡がよくまとまっていて、とても良かった。

みんな、親がアメリカに旅行に行ったとか仕事で行ったとかそういう話をしているなか、私が「父はマレーシアに戦争に行きました」っていうと大笑いされて(笑)
最初の頃は都市的な猥雑さを歌にしていましたけど、そのうち、そういうものを忌むようになって、「伝統詩としての短歌」というところに自分の根拠を求めるようになったんです。
やっぱり、私は岡井さんの弟子だっていうことですよね。岡井さんから学んだことは絶大だと思います。
歌である以上、今を生きている命のリアリティがないとだめなわけで、今を生きている以上、様式的な美からははみ出すことが常にあるわけです。
妻のグラフィックデザイナーの石崎悠子と出会ったということが大きいですね。他者の力で自分が変わっていくのに驚いたし、いい形で変わっていける相手だったんです。

どれも歌人高島裕や高島の歌を論じる際に、大事なポイントと言って良いだろう。今後の活躍がますます楽しみである。

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2017年04月25日

平井弘インタビュー

「塔」2017年3月号・4月号に掲載された平井弘インタビュー「恥ずかしさの文体」が、とてもおもしろい。平井さんのファンは必読だと思うし、短歌の文体や口語、他者、社会詠の問題を考えるヒントもたくさん出てくる。

私が歌を作り始めた頃一番影響を受けたのは相良宏ですね。
あと作家で言えば、最初の頃は大江健三郎の影響はもうたくさん受けてます。
短歌というのは、やっぱり一人称の詩型だから、相手を見るときにどうしても自分の投影になっちゃうんですね。どうしてもその相手は他者としての性格をなくしちゃってるんですよ。
主体のねじれがあると嫌われますけど、私の歌の中ではそれが無意識にいっぱい出てくるんですよ。
多義性は絶対手放したくないし、手放せないんですよね。私の歌から多義性取ったらもう何も残らない。
安倍政権が悪いったって、対者を倒したらそれでいいのかというと、そういう問題じゃないと思う。選んだ自分たちの方が変わらないと、安倍さん倒したところで何も本質は変わらないですよ。

最初から最後まで、驚くほど率直に語って下さっている。
記憶も思考も非常に明晰で、やはりただ者ではないという感じだ。
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2017年03月21日

「羽根と根」 5号

10名の同人の作品が載っている。数は14首、26首、22首、20首、10首、50首、10首、8首、10首、47首と、人によって大きく違う。

コンビニの前のベンチにほそぼそと煙草燃やして薄着のふたり
野球部がまた野球部を連れてくるそろそろやめたいなこのバイト
        中村美智「きみはファンキーモンキーベイベー」

1首目、「吸って」ではなく「燃やして」なのがいい。特に何をしているでもない感じ。
2首目、同じ野球部の仲間をバイトに引き込んだのだ。バイトする人たちの中で大きな勢力になっていくのが鬱陶しい。

近況は途中で爪にある白いところがないって話に変わる
脚注をさがす半分手のひらを今のページのはさんでおいて
信じることと信じるふりをすることの間にモッコウバラがあふれる
        牛尾今日子「にんにくを刻む」

1首目、近況を話しながら爪をいじったりしていたのだろう。
2首目、「脚注をさがす」で切れる。「元のページ」ではなく「今のページ」としたところに臨場感がある。
3首目、少し翳りのある上句とモッコウバラのひたすらな明るさの取り合わせが印象的。

ボーダーを着てボーダーの服買いに行くのはながいきの
おまじない   橋爪志保「世界中の鳥の名前」

「服買いに/行くのはながい/きのおまじない」の句跨りが面白い。イ音が響く。

渡るとき渡り廊下は保ちたり川の澱みのごとき暗さを
自習する時間を人は窓に向くときおり鳥の眼差しをして
辞めるのも選択だろうと笑いあう辞めたるのちの選択もなく
樹を植えるように机をそろえればまた教室にゆうぐれはくる
        坂井ユリ「花器の欠片が散らばるごとく」

1首目、学校の渡り廊下が持っている独特の質感。
2首目、「時間を人は窓に向く」の助詞の使い方がいい。
3首目、仕事を辞めてしまえばその後はないという現実の厳しさ。
4首目、「樹を植えるように」という比喩がにいい。一台ずつ一人で丁寧に揃えていく。

忘れたら思い出すだけ どの鞄にも入れっぱなしのハンド
クリーム    佐伯紺「いつでも急な雨に備えて」

初二句の言い切りに明るさがある。三句以下との取り合わせも面白い。とにかく大丈夫という安心感がある。

2016年11月23日、500円。

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2017年02月06日

橋本喜典さん

2月号の総合誌を読んでいて気づいたのだが、「角川短歌」「短歌研究」「歌壇」の巻頭作品の最初がすべて橋本喜典さんである。

聞こえざる耳傾けて聞かむとし目の前にある天婦羅食へず
                 「角川短歌」2月号
わが思惟はいま活発にうごきをり雨に打たるる石見つつゐて
                 「短歌研究」2月号
亡くなりしひとはこの世に会へぬなりその当然をなぜまた思ふ
                 「歌壇」2月号

それぞれ31首、15首、20首の連作。「現代短歌」2月号にも7首載っているので、あわせて実に73首(!)だ。

橋本さんは昨年11月に歌集『行きて帰る』を出されたので、それを受けて原稿依頼したところ、たまたま重なったということだろう。しかも、巻頭作品が何人かいる時は年齢順に並べるのが慣習なので、3誌とも橋本さんが一番最初になったわけである。

このあたりに総合誌の編集方法の限界を見ることもできるわけだが、橋本さんに注目が集まること自体はとても嬉しいことだ。『行きて帰る』も味わいのある良い歌集であった。
http://matsutanka.seesaa.net/article/443295594.html

結社誌「まひる野」の巻頭も橋本さんである。

歓びと驚きとそして可憐さを まあ。の一字に伝ふる手紙
                  「まひる野」2月号

後記によれば、橋本さんは昨年末を持って「まひる野」の編集委員を退任されたとのこと。

○昨年十二月を以て編集委員(運営委員)を辞することにしました。視覚障害が進み選歌の責任が十分に果たせないと判断したことが最大の理由です。昭和23年夏、入会するや編集のお手伝いから始まって、編集・運営に関するすべてを経験し、じつに多くのことを学びました。七十年近い作家生活の根源にはこれらの仕事による「まひる野」への愛着がありました。もちろん退会するわけではありません。これからは一会員として作品を(時には文章も)発表したいと思います。多くの病気をかかえる身ですが、この書屋爽庵でたのしく歌の生活をつづけたいと念じています。ときにはどうぞ、お尋ねください。(橋本)

書き写しているだけで涙がこぼれそうになる。
長年たずさわってきた役割を離れて、今どんなにか寂しいことだろう。
本当にお疲れさまでした。

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2017年01月20日

「現代短歌」2月号(その2)

もう一つ感じたのは、沖縄に関する特集で樺太の話を出してもらえたことに対する喜びである。沖縄と樺太では全く関係ないと思う人もいるかもしれない。でも、歴史をさかのぼり、近代国民国家としての「日本」の成り立ちを考えれば、沖縄と樺太にはいくつもの共通点がある。

例えば、『樺太を訪れた歌人たち』の最初の「北見志保子とオタスの杜」の中で、私は北方少数民族に対する現在の目から見れば差別的な意識や扱いについて触れた。本の中に載せた当時の絵葉書には「オロツコ土人」というキャプションが付いている。

この「土人」という言葉は、昨年大きな話題となった。今回の特集の中でも何人もの歌人が、沖縄で警備にあたる機動隊員が「土人」という言葉を発した問題を歌に詠んでいる。つまり、戦前の樺太で起きていた出来事を国家の「中央―周辺」という問題として捉え直せば、それは現在の沖縄の問題にもつながってくる話なのだ。

私は「戦前」の「樺太」について調べているけれど、それは単に過去の、既に終ってしまった、現在とは無関係のことをほじくり返すということではない。すべては現在に深くつながる問題として興味を持っているのである。

昨年末に新聞の取材を受けた時もちょうどそういう話をしたところだったので、今回の光森さんの文章をとても嬉しく読んだのであった。

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2017年01月19日

「現代短歌」2月号(その1)

「沖縄を詠む」という特集が63ページにわたって組まれていて、じっくりと読んだ。この特集については、また別の場所で書こうと思う。

ここでは一点だけ。
光森裕樹さんの文章の最初に僕の名前が出ているのに驚いた。

松村正直がサハリンを訪れたことを知ったのは、昨年の夏だった。樺太についての連載が「短歌往来」で展開されていた頃から、その情熱が松村を現地に導く予感はあった。それが実現したということが頭の中を一日中巡り、夜更けになって急に涙が溢れた。

ええっ! 何で泣いているの? とびっくりする。
光森さんとは特に親しい間柄でもなく、批評会などの場で何度か会ったことがあるだけだ。

でも、光森さんの2ページの文章を読んでみて、いろいろと自分なりに納得するところがあった。

一つは、光森さんも書いているように、私は『樺太を訪れた歌人たち』という本を書いただけでなく、自分もまた「樺太を訪れた歌人たち」の一人になったのだな、ということである。これは、今回言われてみて初めて気づいたことだった。

短歌には、きっとこんなふうに人を動かす力があるのだろう。詠む人や読む人の心を動かすだけでなく、実際に人の身体を動かし、人生を動かすことがある。短歌はそれだけの力を持っているのだ。(つづく)

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2016年12月17日

「角川短歌年鑑」平成29年版

座談会「現代短歌は新しい局面に入ったのか」。
参加者は川野里子・大辻隆弘・魚村晋太郎・永井祐・佐佐木定綱・阿波野巧也。

タイトルがどうなのかなとは思うけれど(毎年のようにこんなことを言っている気がする)、座談会自体は面白かった。特に印象に残ったのが、永井祐さんの二つの発言。

口語短歌の拡大というのは、おのずからモチーフの拡大になるのではないかと。つまり青春とか成熟拒否的なメンタリティ以外のものを描けるようになることを意味しているのではないかと思います。
平たく言うと短歌とは何々であるということが限りなく言いにくくなっていった結果、短歌とは五七五七七であるというトートロジーが最強になるみたいなこと。

発言の最後の結論部分だけ引いたのでわかりにくいかもしれないが、どちらも刺激的かつ緻密で説得力のある内容であった。

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2016年12月13日

「六花」vol.1

「詩歌―気になるモノ、こと、人」というテーマで18人が文章を書いている(私も書いています)ほか、菊池孝彦さんの高瀬一誌論と花笠海月さんの「六花書林10.5周年記念フェア」のレポートが載っている。

http://rikkasyorin.com/rikka.html

これは、かなり面白い。
短歌総合誌の特集なんかより、よっぽど面白いかもしれない。

みんな自分の興味のままに書いているので、雑多というかバラエティに富んでいるのだが、書き手の熱意がそれぞれに伝わってきて楽しい。

菫ほどな小さき人に生れたし 漱石
   (田中亜美「菫ほどな」)
そもそも透谷や芭蕉の言葉を射程に入れて、歌を読んだり、詠もうとしたりすること自体馬鹿げているといわれれば、それに返す言葉を、残念ながら今の僕は持っていない。
   (難波一義「透谷が問い続けるもの」)
先だって行われた大島史洋氏の「迢空賞」授賞パーティーで見た阿木津を思い出した。
   (岡崎裕美子「土屋文明記念館」へ行った)

この三つは全く関係のない文章なのだが、先日の現代歌人集会秋季大会で聴いた阿木津英さんの講演「芭蕉以後のうた〜玉城徹を考える」に不思議とつながってくる。

「ひとまず年一回刊行を目標とする」とのことなので、次号を楽しみに待ちたい。

2016年12月5日、六花書林、700円。

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2016年11月22日

「短歌往来」2016年12月号

あちこちで短歌に関する文章を書いているが、こちらの意図がうまく伝わらないことも多い。

「短歌往来」12月号の評論月評に田中教子さんが次のように書いている。

「角川短歌」二〇一六年十一月号には「創作における装飾」と題する特集が組まれている。この「装飾」は「虚構」と同義にとらえられ、事実(リアリズム)か虚構(反リアリズム)か、という方法論への問いかけとなっている。
先ずリアリズム肯定派は、松村正直氏と楠誓英氏である。

えっ、と読んでいてびっくりしてしまう。

「角川短歌」で私は、一番最初に「事実か虚構かの二分法」に疑問を呈し、

事実と虚構とはそんなに明確に分けられるものなのだろうか。

と書いた。「そもそも芸術というものは、すべて事実と虚構の微妙な境界の上に成り立っているものである」とも書いた。

それなのに、勝手に「リアリズム肯定派」に分類されてしまうのだ。そういう単純で図式的な分類こそ、私が一番排除したかったものであるのに。

こういう反応を読むと、文章を書くことが何だか虚しいことのような気がしてしまう。

posted by 松村正直 at 20:11| Comment(0) | 短歌誌・同人誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月12日

「九大短歌」第四号

全32ページ、中綴じ。最近の学生短歌会の機関誌には立派な装丁のものも多いのだが、これは手作り感のある素朴な仕上がり。誌面を見る限り主に4名で活動しているようで、楽しそうな会の雰囲気が伝わってくる。

主なき千度の春に削られて飛べない梅に触れる霧雨
                 松本里佳子

太宰府吟行で詠まれた歌。千年の風雪に耐えてきた「飛梅」の姿が彷彿とする。

とろろわさび牛丼辛くて東京のすき家でこっそりたくさん泣いた
                 真崎愛

一人で牛丼を食べて涙を流す。「東京」で何かつらいことがあったのかもしれない。

教卓に潜ればふかく沈みゆく水兵リーベぼくたちの船
                 松本里佳子

かくれんぼでもしているところか。「潜れば」「沈み」「水兵」「船」と縁語のように言葉が続く。「ぼくの船」を「ぼくたちの船」に変えたところがいい。

青い実に並べる歯形どうしてもべつべつの地獄におちてゆく
                 松本里佳子

一緒の地獄に落ちることはできないということだろう。果実に付いた「歯形」と「地獄」の取り合わせがうまい。

平地より五度は低い、と説明をここでも聞いて風呂へくだりつ
                 山下翔

「温泉」50首から。雲仙の温泉宿での歌。雲仙は涼しいというのが謳い文句になっているのだろう。かぎ括弧がないのがいい。

正直に話さうとして説明がややこしくなるを湯に浮かべたり
                 山下翔

「きみ」と湯につかりながら、作者には何か話さなくてはならないことがあるようだ。でも、なかなか言い出せない。

この夏をいかに過ごしてゐるならむ花火のひとつでも見てれば
いいが              山下翔

母のことを詠んだ歌。しばらく会っていないようだ。なかなか会いに行けない事情があるのかもしれない。

「温泉」50首はかなり読ませる連作だと思う。「きみ」との関係や、家族の形、母に対する思いなど、作者の心の微妙な揺らぎが丁寧に詠まれている。具体的な事情ははっきりとはわからないけれど、それは別にわかる必要もない。どの家族にもそれぞれの事情があって、だからこそ哀しくも愛しいのだ。

2016年10月30日、300円。

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2016年10月28日

「レ・パピエ・シアンU」2016年10月号

特集「佐藤佐太郎を読む」に大辻隆弘さんが書いている評論「冗語のちから」が良い。佐太郎短歌のかなり本質的な部分に迫る内容だ。

短歌は、短い歌、と書く。が、実際に歌を作る時、短いと感じる事はほとんどない。短歌はいつも長すぎる。

これは、ある程度短歌を続けてきた人には、よくわかる感覚だろう。初心者の頃はぎゅうぎゅうに言葉を詰め込んで、それでも31音に入り切らなかったりするのだが、短歌に慣れてくると逆に31音は長すぎるくらいなのだ。

大辻は佐太郎の歌によく出てくる「あるときは」「おしなべて」「おほよそに」「あらかじめ」「ひとしきり」「をりをりに」「おのづから」などを例に挙げて、次のように言う。

佐太郎は「何も足さない言葉」を実に豊富に駆使する歌人である。彼はそれを「冗語」と呼んだ。ほとんど意味を付与しない言葉を一首のなかにサラリと挿入する。それによって歌が驚くほどのびやかになる。
歌の叙述内容は、極限まで削ぎ落とす。省略を利かせ、事象のエッセンスだけを精錬する。その上で、そこに出来た間隙に何でもない、ほとんど意味内容のない、しかし、調べの美しさを醸し出す「冗語」を入れる。

非常に鋭い指摘であり、短歌にとって大切なことを言っている。

カルチャーセンターで短歌を教えていると、「結句が要らない」といった批評をすることがしばしばある。四句目までで意味としては十分ということだ。けれども、そう指摘すると、生徒さんは元の結句の代わりに得てしてさらに不要な結句を持って来ようとする。

特別な意味を持たない言葉で字数を埋めるというのは、実はけっこう難しいことなのだ。

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2016年10月27日

角川「短歌」2016年11月号

穂村弘さんの「熱い犬」31首が、何だかおもしろい。
(以下、ネタバレあり。まだ作品を読んでいない方はご注意下さい)

熱い犬という不思議な食べ物から赤と黄色があふれだす夏

1首目。ホットドッグからはみ出す原色のケチャップとマスタード。

海からの風きらめけば逆立ちのケチャップ逆立ちのマスタード

5首目まで来てまるで答え合わせをしているみたいに、この歌がある。「逆立ちの/ケチャップ逆立/ちのマスタード」の句跨りが効果的。

さっきまで食べていたのに上空を旋回してるホットドッグよ

7首目。突然、ホットドッグが空を飛ぶ。なぜ???

そして、ホットドッグのことなどすっかり忘れかけていた31首目(最後の歌)になって

僕たちの指を少しも傷つけずホットドッグを攫っていった

おお! 鳥(トンビ?)に持って行かれたわけか! だから「旋回してる」んだ。

7首目から31首目へ、こんなに間を空けて話がつながることにグッと来た。

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2016年10月21日

「現代短歌」2016年11月号

特集「わたしの誌面批評」がおもしろい。
28名が短歌総合誌についての率直な意見を述べている。

共感したものをいくつか引こう。

【安田純生】
一例をあげると、俳諧(俳句)や川柳、歌謡の歌詞、さらに狂歌といった隣接のジャンルと短歌との繋がりを視野に入れた企画である。
【坂井修一】
委員の選評は、賞の価値が重くなるほど短い感想文となる傾向があるように見えます。これはなぜでしょうか。選者にはもっときちんとした説明責任があるのではないでしょうか。
【藤島秀憲】
依頼原稿を送った後で、ダメ出しというものをされたことがない。わたしが優秀なのではなく、書き直しなどのダメ出しの習慣が総合誌にはないのだろう。あっても良いと思う。
【佐藤弓生】
短歌誌は「総合誌」ではなく「専門誌」と称すればいいのに、とも思う。
【光森裕樹】
執筆依頼の際に原稿料もご連絡いただけますか。「業界の慣習」と言われれば黙す他ありませんが、時代にそぐわない悪習だと思います。

こうした意見を受けて編集者が編集後記に書いていることも、なかなかすごい。

☆編集者の仕事は一義的には、原稿の依頼です。寄せられた作品、評論、エッセイ、コラム等の質がその号の質を決定します。言い換えれば、一本の原稿がその号の水準を引き上げます。そういう原稿に接する瞬間に、編集者の幸福はあります。
☆しかし、そんな幸福を与えてくれる書き手は残念ながら、そう多くはない。

あれこれ文句ばかり言ってないで歌人はもっと良い原稿を書けよ、ということか。これは、奮起を促しているのか、喧嘩を売っているのか、どっちなんだろう。

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2016年10月20日

「梁」91号

九州の歌人を中心とした「現代短歌・南の会」発行の同人誌。
大森静佳さんの連載「河野裕子の歌鏡」がいよいよ最終回を迎えた。

86号から全6回にわたって河野さんの歌集15冊を読み進めていった力作である。何よりも引用歌の選びや一首一首の読みが光っている。これは評論にとって非常に大切なことだ。

今回は『母系』『葦舟』『蟬声』の3歌集について論じている。

晩年の河野の歌について、特に言葉や文体に即して論じた文章は、現時点ではまだ少ない。

とある通り、病気や死をめぐる境涯や物語ばかりが語られがち晩年の河野について、冷静にその歌の持つ魅力や特徴を丁寧に解き明かしている。

自分一人では支えきれないような現実の重さを、少しだけ植物や花に預けるような、縋るような文体が、晩年の河野にはあった。
口語では「詠嘆」が難しいと言われているが、河野はそこのところを「〜よ」「ああ」「なんと」「どんなに」、あるいはこそあど言葉や命令形、疑問形などを縦横無尽に駆使して、とても息遣い豊かな文体を生み出している。
晩年の河野裕子は、その文体からしても精神のありようからしても、呼びかけの歌人であり、対話の歌人であった。それを考えると、後期の河野裕子の口語化は、偶然や時代の要請、影響というのみならず、やはり紛れなく必然のものだったのではないだろうか。

こうした指摘は、大森が河野の歌を読み解く中で自らつかみ取ったものばかりだ。だからこそ、読んでいて楽しく生き生きとした評論になっているのである。

いずれ一冊の本にまとめられる日を楽しみに待ちたい。

2016年10月20日、現代短歌・南の会、1500円。

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2016年08月13日

人と関わる手段?

「うた新聞」8月号に、石井僚一が「四半世紀歌会」という文章を書いている。

谷川由里子という人がいて二〇一六年六月某日都内某所にて「四半世紀歌会」というものを開いた。二十五年に一度行われるというメンバー固定のスペシャルな歌会だ。ぼくのところにもその招待状が届いた。

と始まり、最後は

「四半世紀歌会」の次の開催は二〇四一年だ。そのときに自分が何をしているかさっぱり想像がつかないけれども、この歌会には参加するのは間違いない、死んでも参加しようじゃないか。本当の言葉なら未来にも現前化するだろう。否、現前化させるのだ。ぼくは「四半世紀歌会」という言葉を、そして谷川由里子という人をすっかり信じてしまっている。四半世紀後に必ず会える。

と終わる。

この内輪のノリは一体何なんだろう。中学校の卒業アルバムか? 
自閉していて、まったく外部の人に届かない話を延々と続けている。

これを読んで思い出したのが、「ユリイカ」8月号に同じく石井が書いている「たたたたたたた魂の走る部屋」という文章だ。

僕は短歌をやっている人が好きなのだ。人と関わる手段がたまたま歌会というものだっただけで僕の興味は最後には人に帰着する。僕は歌会を信じるということ以上に、歌会という場に集う人たちを信じているし、愛している。

「人と関わる手段」として、石井は歌会をやっているらしい。そこが根本的に私とは違う。短歌を通じて人との関わりが増えることはあるけれど、友達作りのために短歌をやるというのはどうなのか。

まあ、大学のサークル活動のノリということなのだろう。
そう考えれば、別に不思議でも何でもない話なのかもしれない。


posted by 松村正直 at 12:42| Comment(3) | 短歌誌・同人誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする