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韻律、「我」と「我々」、物語と物、読みと批評と対話など、大事な話題が次々と出てくる。印象に残った発言を引いておこう。
川野 韻律は身体性や文体でもあるんですが、もう少しレベルの違う、もう少し遠い高いところで響いている音楽のようなものでもある。祈りに近いものですが、そういう音楽が韻文には託されてきたのではないかと思います。
吉川 短歌は元々頭韻的で、五七五七七のはじめの音にアクセントがあった。それが最近脚韻的になってきて、頭韻的に読んだらつまらないけど、脚韻的に読むとリズム的な面白さが生じる歌が出てきたのでしょう。ラップはだいたい脚韻です。
内山 あくまで一側面として笹井賞の作品をはじめとした若い人の歌があるけれど、そうではない歌も若い人のなかで山ほどあるはずです。そちらがないことにされるのは怖いことだと思います。
吉川 能もそうですね。ワキというのは悲劇があったところに訪ねていって、そこにいる霊と交信することによって土地を鎮める役割ですからね。
山崎 一方で、「多声」であるということは、ちょっとした掛け違いで、怖いことに結びつく可能性もあると思っていて。最近の歌集だと千種創一さんの『あやとり』を面白く読んだのですが、戦時下に少女だった祖母に成り代わって書かれた作品が、同時に祖母の身体性を乗っ取ることになっていないか。
川野 茂吉の歌への共感ですが、共感を交えて読むといっそう強く思うのは、共感には外側が必要じゃないかということなんです。まさに茂吉の難点は茂吉の外側がないことだと思う。そしてすごく危険なのは、おそらく茂吉を読む人にとっても茂吉の外側がなくなってしまう。
全23ページという分量で、非常に読み応えがある。4名の参加者が言いたいこと、言うべきことを言い合っていて、ところどころハラハラする場面もあるのだけれど、それでいいのだろう。それぞれの本気度がよく伝わってきた。
『短歌って何?と訊いてみた』のあとがきに川野は、「この試みの場がさらに別の問いを産み、あたらしい対話となりますように。数々の論点は、問いの形で開かれています」と記している。まさに、その言葉が実現したような座談会だったと思う。

