「佐賀偉人伝」シリーズの8番。
昨年、唐津を訪れてから辰野金吾のことがいろいろと気になっている。辰野の建築について考えることは、日本の近代について考えることでもある。
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辰野らがコンドルに学んだ時期は、わずか二年半であった。この期間が長いか短いか。どうも、辰野にとっては、これまで言われてきたほどコンドルからの強い影響を受けていないのではないかと思われる節がある。
工部大学校は、この時点で唯一の工学教育機関だったわけではなかった。文部省管轄の高等教育機関である東京大学においても、理学部の中ではあるが工学教育が行われていたのである。工部大学校は、帝国大学発足を前に、この東京大学に吸収合併された弱者であった。
ここには、宿敵妻木率いる政府営繕組織対東京帝国大学建築学科という建築界における対立の構図があるわけだが、同時に辰野が主導したグループの立場の弱さも見えることに注意が必要である。
「辰野式」の語は、実は辰野存命時の文献には見つけることができない。辰野没後の文献や、当時を回顧する話の中にぽつぽつと現れる。昭和八年には文献上で確認できるので、それ以前から使われていたことがわかる。ただ、かつての使われ方には、多少の皮肉が込められているようだ。
こういった話を読むと、辰野の建築家人生はけっして順風満帆だったわけではないことがよくわかる。運や時代に恵まれた部分もあるが、やはり本人の愚直な努力が実を結んだのだと言っていいだろう。
2014年3月20日、佐賀県立佐賀城本丸歴史館、952円。


