2026年04月10日

吉川宏志『一九七〇年代短歌史』(その3)

この本は「短歌研究」に連載した文章をまとめて一冊にしているのだが、随所に補注という形で歌集の紹介が追加されている。これについて、吉川は「あとがき」で次のように説明している。

記述の方法としては、一九七〇年代に起きたさまざまなトピックを取り上げ、それに関連する歌や評論を読解していくというスタイルを選んだ。ただこの方法には、トピックと合致しない作品が抜け落ちてしまうというデメリットがある。そこで、補注という形で、一九七〇年代に刊行された歌集の中の歌をいくつか紹介するようにした。

補注で取り上げられたのは、田井安曇『水のほとり』、大西民子『雲の地図』、北沢郁子『春のかぎり』、志垣澄幸『空壜のある風景』、田谷鋭『水晶の座』、佐藤通雅『薄明の谷』、稲葉京子『柊の門』、雨宮雅子『鶴の夜明けぬ』など、どちらかと言うと地味な歌集である。

でも、そこにきちんと触れていることが、この本に対する信頼感を高めている。歴史とは何か、どのように短歌史を記せば良いのか、といった深い問い掛けが、ここには含まれているように思うのだ。

最後にもう一つ。

本書の大きな特徴として、前衛短歌史観から自由になったということが挙げられるだろう。これまでの歌壇は良くも悪くも前衛短歌の磁場が強力で、短歌史についても前衛短歌とその流れで説明されることが多かった。

それは塚本邦雄や岡井隆といった論作ともに傑出した存在があっただけでなく、三枝ミ之や永田和宏といった後続世代も前衛短歌の強い影響下に短歌を始めたためである。

この本はそうした画一的な見方からは離れて、前衛の流れもそれ以外の流れも対等に扱っている。

寺山が名づけた〈前衛狩り〉とい言葉には非常にインパクトがあった。そのため、「狩り」を行った旧世代が悪だというイメージが生まれた。しかし、歴史では多面的な見方が必要であり、前衛派以外からは、ジャーナリズムの偏向ととらえられていたことも、十分注意しておくべきだろう。
だが、前衛短歌を中心に置く史観に対して、別の史観を提示する試みを「暴論」という言葉で否定すべきではないだろう。どの立場から見るかによって、歴史の姿は変化するわけで、一つの史観だけが正しいとは言えないからである。

歴史は見方によって、描き方によって、価値観によって、ルビンの壺のように「地」と「図」が反転するものだ。1970年代から50年という歳月が経過したことで、ようやくこうしたバランスの良い記述が可能になったのだと思う。

2026年1月15日、短歌研究社、3000円。

posted by 松村正直 at 20:37| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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