1969年に新潮社より刊行された単行本に「果たし得てない約束」(1970年)を追加して文庫化したもの。
1967年から69年にかけて発表した論文4篇と、いいだももとの対談「政治行為の象徴性について」、一橋大学、早稲田大学、茨城大学で行われたティーチイン「国家革新の原理」が収められている。
三島が繰り返し述べているのは、戦後民主主義体制の日本社会の欺瞞と、共産主義が行政権を持つと言論の自由が奪われること、文化にとって欠かせない言論の自由を守るために天皇を日本文化の象徴として護るということだ。
そうした考えには別に同意しないが、60年近く経った今読んでも示唆に富む話が多い。
われわれは新宿動乱で、モッブ化がどのような働きをするかつぶさに見た。あのモッブ化は日本の何ものかを象徴している。あのモッブ化こそは、日本の、自分の生活を大切にしながら刺戟を期待し、変化を期待する民衆の何ものかを象徴している。
私は、明治以来のいわゆる純文学に、剣道の場面が一つもあらわれないことを奇異に感じる、いかに多くの蒼ざめた不健全な肉体の登場人物が、あたかも餓鬼草紙のように、近代文学に跋扈していることだろう。
政治上のアナーキズムとは、エロティシズム上のルストモルトと相接近した観念であって、地上に実現されずサドの牢獄の中における幻想裡でしか実現されぬ理想的観念なのである。
私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております。共産主義の粛清のほうが数が多いだけ、始末が悪い。
1968年に起きたキング牧師やロバート・ケネディ上院議員暗殺事件を受けての話だが、近年でも安倍元首相銃撃事件やトランプ暗殺未遂事件などが起きていることを思い出す。
これはチェコというものが社会主義に対して甘い夢をつなぎ、一方では国際間の力と力による均衡というものの計算をしそこなったところからきたんだと思います。これはチェコが冷戦及び平和共存の時代を生きて、平和共存の論理というものを信じ過ぎて、計算し過ぎて、足を出し過ぎ、そこで失敗した。
1968年の「プラハの春」と「チェコ事件」についての話。2022年から続くロシアによるウクライナ侵攻を考えるとき、こうした冷徹な観点も必要なのかもしれない。
2006年11月10日第1刷、2019年10月5日第8刷。
ちくま文庫、780円。


