午前十時、―私達を乗せた連絡船宗谷丸は北海道最端のピリオド稚内を静かに離れた。こゝから樺太のアニワ湾深く大泊港に達するには八時間もかゝるのだ。
稚内から船で樺太の大泊に渡っている。
私が2015年にサハリンを訪れた際にもこの航路はあって、「アインス宗谷」が5時間で結んでいた。(残念ながら現在は廃止)
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私の隣りには威儀を正した布教師らしいのが乗つてゐた。(…)彼はそのあまり偉厳あり過ぎる為に却つて滑稽に見える鬚を持つて、幾十年か過して来た信念を失はずに新しい世界へ踏込んで行くのであらうか。併し樺太は例外なく未だ宗教に於てもコスモポリタンである。伝統の力も薄い代りに新しいものをはねつけはしない。
布教のために樺太へ向かう人の姿。
私が樺太に関心を持つようになったきっかけは出口王仁三郎『東北日記』を読んだからである。そこには東北、北海道、さらに樺太へ布教の旅をする様子が描かれていた。
明治期の啄木にもこんな歌がある。
樺太に入りて
新しき宗教を創(はじ)めむといふ
友なりしかな
/石川啄木『一握の砂』
戦国時代や明治時代にキリスト教の宣教師が日本へやって来たように、宗教家は常に新しい土地を目指すものなのだろう。
限りなく懐しい老いた人々は死んで行く。若い人は自分達の風習を忘れ、言葉を捨て、日本人の粗悪な風のみ習はうとしてゐる。少女はそのだゝつ広い顔にクリームを塗り、若者は汗臭い垢だらけの身体にネクタイのない背広を着て得々と敷香の街を歩く。それは私には、廻らぬ舌で英語を喋舌るよりももつとチグハグで、何か悲惨な感じすら与へられた。
北緯50度の国境に近い敷香(しすか)の町で、ウィルタやニヴフなど樺太先住民の住む「オタスの杜」のことを思う場面。
先住民の若者たちが日本の習俗に染まっていく様子を痛ましい思いで眺めている。先住民に同情的な記述だが、こうした内容を現在の目でどう評価するかは難しい問題だ。
先日読んだ『イザベラ・バードと侍ボーイ』の中の、伊東(伊藤)とバードのやり取りを思い出す。
――そんなことを言う西洋人と、初めて会いました。みんな、日本は遅れた国だと言うし、日本人も、そう思っています――
――西洋の真似をするから、そう思うんでしょ。ここのところ日本人は西洋化が進んでいるって、誇りにしているみたいだけれど、誇るべきものを間違えてるわ――
寒川にも(小説中の)バードにも差別意識はあまり感じないけれど、それは相手に対する優越感を当然のものとしているからでもある。同情が既に差別だという考え方もあるだろう。
でも、こうした問題を考える際には、やはり時代背景を踏まえる必要がある。現在の目で裁断するのではなく、当時の一般的な感覚や考えに比べてどうだったのかという観点も忘れてはならない。

