また、そこには研究が国の力を示すものであるという当時の考えや、樺太という植民地の問題点も記されている。
さうした研究で纏つたものはドイツにしかないのだ。彼は又三年間の難行苦行を続け乍ら、国語の文献に行詰りを生じ他国での発表論文に拠らなければならぬとはその国の敗退を意味するものだ、と思ふ。
只何でもないそれだけをやらないと云ふのは、この植民地官吏が皆個人主義で、島の発展よりも金を貯めて内地へ引き上げようとしてゐるからだ
また、父 菅原繁蔵に寄せる作者の思いは「野鳥」や跋文にはっきりと示されている。
親爺を見ろ! 親爺を! 分布にかけては駆け出しの教授なんか足下にも及ばないんだ、それが民間に居ると云ふだけで、下級官吏にはいぢめられ大学からは冷笑される!(「野鳥」)
父は自分で育て上げたあの職場を、悪質な下級官吏の策動に依つて、去らなければならなくなつたのだ! 孤独で只管荒野を歩いて来た父、独学で生一本で、職場の純潔を叫び続けた父、一体何処にこの不正を訴へればいゝのか!(「跋」)
この本が刊行される前年の1940(昭和15)年に、菅原は長年勤めた樺太庁博物館を辞めることになったのであった。
もちろん、それだけではない。樺太という土地自体も、やがて日本のものではなくなってしまうのである。


ところが意に添わぬ公職に請われて再び就くことになり、退職後の趣味は中断せざるを得なくなりました。その後ほどなくして父は病(リンパ腫)に倒れました。
父が亡くなって20年ぐらいしてから自宅を整理していたら、父の部屋から新聞紙に包まれた物が出てきました。何だろうと思って開けてみると枯葉の束でした。父が寛解の間に、母と一緒にヨーロッパを旅行した時に、各都市で拾ってきたものでした。
取っておいても仕方がないのでバサッと捨てましたが、菅原繁蔵のエピソードを読んで、全然性格は違うようですが、ふと父のことを思い出しました。
植物の好きな人らしいエピソードですね。
「草人」にも、「さく葉」(押し葉)標本の話が出てきます。(「さく」は「月+昔」)
「さく葉庫には数万を数へる夥しいさく葉標本が重つてゐる。(…)彼は研究以外にも時折出して見る。そして圧縮されてカサカサの葉つぱから、思ひ出の一つ一つを広げようとする。」
他人が見てもわかりませんが、本人が見れば一枚一枚に思い出が詰まっているのでしょう。