副題は「近代和歌・短歌の社会史」。
松澤俊二さんの本はどれも面白い。
・『「よむ」ことの近代』
https://matsutanka.seesaa.net/article/413190947.html
・『プロレタリア短歌』
https://matsutanka.seesaa.net/article/464578041.html
本書は11篇の論文で成り立っている。一つ一つの論文は完結した内容になっているが、全体を貫くテーマは「つながり」である。明治から昭和戦前にかけての和歌・短歌の動きを、「つながり」という観点を踏まえて様々な角度から再検討している。
著者が関心を寄せるのは、「旧派和歌」「戦争期のアンソロジー」「雑誌の投稿歌」「プロレタリア短歌」などである。現在の歌壇や短歌史においては、文学的な価値が低いとして取り上げられることの少ないものばかりだ。
それらの分析を通じて著者は、私たちが当り前だと考えている「自己表現」「個性」「文学」といった短歌観が相対化していく。個人ではなく共同体に軸を置いて見ることで、短歌には文学的価値だけでない広がりや豊かさがあることを教えてくれるのだ。
落合は「歌学」誌において、現代の言葉でいえばファシリテーター(facilitator)役を務めていたのだと思い至る。その役割は、人びとの意見を引き出し、整理して、議論の場を活性化させることである。自身が積極的に見解を述べ、場を主導することを目的とはしない。
とりわけ注目したいのは、アンソロジーが戦死者を悼む機能を持っていたこと、また近しい人びとを失った悲痛の情を遺族・知友が告白する場でもあったことである。そして、そうした悲嘆を他者と分かち合う場でもあったことだ。
プロレタリア短歌が類型的で拙劣なものと見なされてきたのは、短歌作品の魅力や価値を決定するのが「個性」であるという認識が、評者たちには自明だったからではないか。
これまで「新派」中心の「近代短歌史」はすでに多く著されている。しかし、「旧派」と名指しされた人びとの歌と活動実態の解明はまだまだこれからの課題である。そしていつか両者を総合させた「近代和歌・短歌史」が記される必要があるのだろう。
私たちの知っている和歌・短歌史は、いわば勝ち組の短歌史である。「新派和歌〜近代短歌〜現代短歌」という一直線の記述から、旧派和歌の歌人たちは完全に排除されている。でも、それは本当の歴史の姿ではない。
本書を読んで一番に感じたのは、「文学としての短歌」以外にも短歌には多くの側面があるということだ。ざっと思い付くだけでも、「コミュニケーションとしての短歌」「グリーフケアとしての短歌」「セルフカウンセリングとしての短歌」「言葉遊びとしての短歌」など。そこに、現代における短歌の新たな役割や意義を見出すこともできるだろう。
短歌をやっていると、歌の感想をもらったり、歌会に参加したり、結社に入ったり、同人誌を出したり、自然と「つながり」が生まれてくる。これは、短歌という(ある意味で)不完全な詩型がもたらす効用なのかもしれない。
2025年10月10日、明治書院、7500円。



すみません、かなり酔っ払った状態で、思ったことをそのまま書いてしまいました。失礼を何卒ご海容ください。
1日1首、いいですね。
ふらんす堂のHPに毎年連載される「短歌日記」や、それを書籍化した歌集などを思い出しました。