糸魚川産の翡翠は海わたり新羅の王の冠をかざりき
/田宮朋子『光に濡れる』
新潟県の糸魚川で採れた翡翠が朝鮮半島の古代の王冠の装飾に使われているのだろう。日本海を渡って人や物が行き来した交易の歴史が感じられる一首である。
https://www.asahi.com/articles/ASND40BR7NCSPTFC00J.html
作者は新潟に生まれ新潟に住んでいる人で、歌集にも新潟の地名が数多く出てくる。また、新潟の風土や暮らしを詠んだ歌も多い。
そうした流れの中でこの歌を詠むと、そこには故郷に対する誇りや矜持が滲んでいるように感じる。
今の日本においては東京をはじめとした太平洋ベルト地帯に人や物や交易が集中しているが、かつてはそうでなかった。日本海側が交易の最前線だったのである。
短歌の「私性」(わたくしせい)についてはいろいろな定義の仕方があるし、賛否両論さまざまな議論があるのだが、私の考えるのは「作者が誰であるかによって歌の価値が変わる」という側面である。
例えば、この「糸魚川産…」の歌が私の詠んだものだったと仮定してみよう。
私は新潟県(糸魚川)とはまったく関わりがない。すると、この歌は旅先や本などで知った歴史ネタを詠んだだけの歌ということになる。そこには当然、「故郷に対する誇りや矜持」は含まれない。
つまり、作者が田宮さんであるか私であるかによって歌の価値が違ってくる。私が作者だった場合に比べて、田宮さんが作者のときの方が歌の価値が高く、良い歌になるのである。
短歌の「私性」とはそういうことだと思う。
そんなことでいいのかとか、作品自体の価値で決めるべきだとか、いろいろ反論はあるに違いない。でも、これは良し悪しとか、こうあるべきとかいった話ではなく、短歌にはそういう性質があるのではないか。私はそう考えている。

