以前、『文学傑作選 鎌倉遊覧』に収録されている嘉村礒多の「滑川畔にて」が強く印象に残った。
https://matsutanka.seesaa.net/article/514911985.html
他にも嘉村の作品を読んでみたいと思って買ったのが本書。小説8篇、随筆6篇、書簡6通が収められ、「私小説の極北」と称される作家の世界がたっぷりと味わえる。
作品の内容とは別に、大正から昭和にかけての暮らしの様子が窺える描写が随所にあった。
天気の良い日には崖上から眠りを誘うような物売りの声が長閑に聞えて来た。「草花や、草花や」が、「ナスの苗、キウリの苗、ヒメユリの苗」という声に変ったかと思うと瞬く間に「ドジョウはよござい、ドジョウ」に代り、やがて初夏の新緑をこめた輝かしい爽やかな空気の波が漂うて来て、金魚売りの声がそちこちの路地から聞えて来た。
季節ごとにさまざまな振売りの声が行き交っていたことがわかる。今では竿竹売りと石焼芋くらいになってしまったけれど。
きょう立秋なのに秋立たばこそ、朝来一トむらの草を揺がす風もなく、午前六時の気温は例年の平均七十三度を凌ぐこと四度、七十七度を示し、午前十時半遂に今年最高の九十五度余九十六度近きを示し
気温が摂氏ではなく華氏で表されている。今では国内で華氏を見かけることはほとんどないが、戦前はけっこう用いられていたようだ。華氏77度は摂氏25度、華氏96度は摂氏35度くらい。今に比べればまだマシかも。
キューピー射的というのは、ユキが銀座の百貨店で買って帰った子供への土産だった。初めはチャンチャン坊主とばかし思っていたが、よく見るとメリケンで、それ等七人のキューピー兵隊を鉄砲で撃って、命中して倒れた兵隊の背中に書いてある西洋数字を加えて、勝ち負けを争うように出来ていた。
ネットで調べたところ、下記のような商品であったようだ。
https://utuszd.hojago.ru.com/index.php?main_page=product_info&products_id=35152
「チャンチャン坊主」と「メリケン」という言葉が対比的に使われているのが目に付く。「メリケン」がアメリカン(アメリカ製)を意味することを踏まえると、「チャンチャン坊主」は中国製を侮蔑した言い方と思われる。こんなところにも、昭和初期の日本人の対中感情が滲み出ている。
2024年3月15日、岩波文庫、910円。


