2025年10月16日

高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』


明治から現代にいたる日本文学の「文学史」について考察した一冊。小説・論文・詩・短歌などを引きながら、近代の「文学史」を作り上げてきた枠組みや前提自体を問い直している。

取り上げられている作品は、樋口一葉『にごりえ』『たけくらべ』、綿矢りさ『インストール』『You can keep it.』、赤木智弘『若者を見殺しにする国』、石川啄木「時代閉塞の現状」「ローマ字日記」、穂村弘『短歌の友人』、岡田利規『わたしたちの許された特別な時間の終わり』、川上未映子『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』、前田司郎『グレート生活アドベンチャー』、太宰治『津軽』、中原昌也『凶暴な放浪者』など。

一葉は、周囲で興隆しつつあった言文一致体によるリアリズムの文章に基づく小説というものを、「リアル」ではない、と感じたのではないでしょうか。
自然主義的リアリズムによってなにを表現できるのか――近代文学の黎明期を担うことになった、主として男性作家たちは、自然主義的リアリズムによって、わたしたちの「真実」を、すなわち人間の「内面」の「奥底」を描き出せると考えました。/しかし、ほんらい、「目に見えるもの」を「目に見えるように」描く自然主義的リアリズムで、「目に見えない」「内面」や「真実」を描き出すことなど可能なのでしょうか。
斎藤茂吉のことばが正規軍の使う武器ならば(塚本邦雄のことばが、特殊部隊が用いる、高度な兵器だとするなら)、ニューウェイヴの歌人たちは、いわばことばをゲリラ的な武器として用いたのです。
口語というものはわかりやすく、文章語とうものはわかりにくいという常識とは逆に、実は、わたしたちが喋っている口語というものにはほとんど意味がなく、いわば大半が単なる音であり、ノイズにすぎません。
わたしも、ここまで、この国の近代文学史というものを、明治十年代末に「始まり」、一九九〇年代のどこかで「終わり」を告げようとしているものだといってきたのです。

「文学史」について語りながら、そもそも現代において「文学史」が成り立つのかという問いを投げ掛ける内容となっている。

2009年2月20日、岩波書店、1700円。

posted by 松村正直 at 22:39| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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