海軍軍楽隊の隊士として短歌を始め、「アララギ」で釈迢空の弟子となり、後に北原白秋にも師事した。1937(昭和12)年に「短歌公論」(のちに「歌道」と改名)を創刊し、戦中は傷痍軍人の歌の顕彰に務めた人物だ。
真っ直ぐな性格で思い込みが強く、トラブルメーカー的な存在でもあったようで、エピソードに事欠かない。いくつか挙げてみよう。
まずは、「アララギ」で迢空を信奉する若者たちが島木赤彦に対して反発する場面。
大正十年一月号ではついに同情者の一人由利貞三が赤彦に抗議の申し入れをした。「これらの歌(土田耕平の歌)に対して、その評言を聞き、余りに鑑賞程度の異ふのを黙つてをれなくなつて、このことを書きました」という抗議文を、赤彦は「談話欄」に掲載し(…)
/阿木津英『アララギの釋迢空』
これは、やがて迢空の「アララギ」退会へとつながっていく。
次に、大正13年に北原白秋、前田夕暮、古泉千樫、土岐善麿らによって創刊された歌誌「日光」が、昭和2年9月号から由利貞三をはじめとした白秋門下の編集になった場面。
この間隙を突くように登場したのが由利貞三であったのである。白秋は「日光の思ひ出」では、由利の名前を挙げず、「北原白秋編輯」という六字が、「日光」の表紙に冠せられることを固辞したが、「雑誌が出来たのを見ると、出てゐる」と当時の状況を吐露している。白秋の反対を押し切っての由利の独断であった。
/渡英子『メロディアの笛U』
これは、やがて「日光」の解散へとつながっていく。
昭和10年、由利は斎藤茂吉の発表した短歌が自作の模倣ではないかとの手紙を茂吉に送る。その回答が「由利貞三君に答へる」として「アララギ」昭和10年12月号の「童馬山房夜話」に載った。
自分の雑誌のアララギの歌さへ読む暇のない僕が、アララギを去った由利君の歌を、短歌雑誌の誌上で注意して読む暇などあるものではない。縦しんばそれを読んだとしても、大正十五年の由利君の歌を記憶してゐて、昭和十年に歌を作るのに、それを真似るなどといふことは、僕にとつては不可能なことである。
/『斎藤茂吉全歌集 第八巻』
念のため、両者の歌を引いておこう。
谿底よりさやかに立てり鉾杉の盛りの若葉白きまで青し
/由利貞三「白珠」大正15年10月号
うつせみの吾が見つつゐる茱萸の実は黒きまで紅(あけ)極まりにけり
/斎藤茂吉 「アララギ」昭和10年7月号
はっきり言って全然似ていない。茂吉の肩を持つわけではないが、これで手紙を送って来られても困ってしまうと思う。由利としては色に関して「○○まで××」と表したところに自信があったのだろうが、この程度の類似はざらにある話だ。
茂吉も迷惑そうに次のように書いている。
失礼な言分かも知れんが、僕はそれほど由利君の歌に重きを置いてゐないのである。もつと端的に言へば、由利君の歌などは眼中にないのである。
由利貞三はこんなふうに、短歌史のあちこちに顔を出す。
やがて由利は「歌道報国」を掲げて日本皇道歌会を組織し、昭和12年に歌誌「短歌公論」(のち「歌道」)を創刊する。
昭和17年に日本皇道歌会が発行した『白衣勇士誠忠歌集』は由利の編集によるもので、解説やあとがきを由利が書いている。
「白衣勇士誠忠歌集」は、支那事変の御楯となつた戦傷病勇士達が、大東亜聖業に捧げた尊い鮮血の記録であり、殪れて尚熄まぬ忠魂の叫びである。
日本皇道歌会に於ては、支那事変発生以前から 明治天皇御製 教育勅語 軍人勅諭拝光の生活実践を念として、「しきしまのみち」による人格錬成の歌会を設立し、昭和十二年六月以来其の錬成機関として月刊誌「歌道」を発行して今日に及んでゐる。
由利の一本気な性格が天皇や国家への忠誠という路線に向かったのは、ある意味でわかりやすい道筋だと思う。
そんな由利は戦後どうしていたのかと思って調べたところ、昭和20年に亡くなっていた。昭和20年3月10日。おそらく東京大空襲で亡くなったのだろう。44歳。
そうだったのか……。

