私は中学時代から文学志望であったが、家の医業を継ぐために文科受験を許されず、興味なき医科に入ることとなったので、暇さえあれば文学書を耽読して僅かに自ら慰めていた。
秋櫻子の家は祖父の代からの産婦人科医。
のちに佐佐木幸綱が生まれたときに担当したのも秋櫻子。
ここで思い出すのは高安国世のこと。高安も同じく医者の家系に生まれ高校は理科であったにもかかわらず、大学は文学部に入りドイツ文学者になった。「早春、医科の試験準備中、永年ためらひしてゐた心を遂に決して、生涯を文学に捧げることにし、父母にも嘆願し説得して、文学部に志望した」(『Vorfrühling』巻頭歌の詞書)
昭和三年になって、私の家では震災後仮普請にしたままの病院を、本建築に改める準備にかかった。父はすでに老齢なので、私がすべての責任を負わなければならなかった。(…)私は、はじめから医師の仕事が好きでなく、父の命令でやむなく医科に入ったので、病院経営よりも俳句の方がはるかに面白いのであるが、ここまで来るとそんなことを言って居られなかった。
このあたり、震災で焼失した病院の再建に奔走する斎藤茂吉の苦悩を思い出す。
空穂は当時、歌集「青水沫」の歌を詠んでいた時代で、四十二三歳、気力が充実していた。やさしい人柄でありながら、歌の指導にはきびしく、歌会に於ては必ず参加者の歌を全部批評した。
空穂はよく日常の生活に取材した歌を詠む。それは一見平凡で、誰でも考え得ることなのだが、空穂によって詠まれると、不思議なひびきを以て読者の胸につたわる。これが調べの力なのである。
秋櫻子は2年間、宇都野研主宰の「朝の光」に所属して窪田空穂の指導を受けたことがある。このあたりも、後に「調べ」を唱えるきっかけになったのかもしれない。
この頃、斎藤茂吉の「短歌写生の説」という本が上梓された。私は早速読んで見た。ある日発行所へ行くと、平素読書をあまりしたことのない虚子も読んでいて、次の漫談会にはこれをとりあげて見たい。そうして茂吉とは面識があるから、招聘して共に話し合ったら有益であろうと言った。
写生や写実、主観と客観の問題は俳句と短歌に共通するもの。ジャンルを超えた意見交換はいつの時代においても大事なことだと思う。

