小さい裏門をはいると、そこに講堂がある。埃まみれの扉が壊れかかっている。古びた池の向こうには金堂の背面が廃屋のような姿を見せている。まわりの広場は雑草の繁るにまかせてあって、いかにも荒廃した古寺らしい気分を味わわせる。
大正7年の薬師寺の様子である。多くの建物が再建され白鳳期の伽藍が復興した現在とはまるで違う光景だ。
一方で、法隆寺金堂壁画の話なども出てくる。
この画こそは東洋絵画の絶頂である。剥落はずいぶんひどいが、その白い剥落面さえもこの画の新鮮な生き生きとした味を助けている。この画の前にあってはもうなにも考えるには及ばない。なんにも補う必要はない。ただながめて酔うのみである。
絶賛と言っていいだろう。けれども、この壁画は昭和24年に焼損してしまって今はもう見ることができない。
以下、雑学的な話を2つ。
恐らくそれは西域が特に仏教的であって、シヴァやインドラの快楽を憧憬するインド教に侵されていなかったからであろう。
こんなふうに、「インド教」という言葉が何度か出てくる。ヒンドゥー教のことである。調べてみると、インドもヒンドゥーもともに語源はサンスクリット語の「シンドゥ」Sindhu(川、インダス川)なので、インド教という言い方も成り立つわけだ。
こんな話をきいているうちに汽車は丹波市を通った。天理教の本場で、大きい会堂らしい建物が、変に陰鬱な感じを与えるほど、立ちならんでいる。
「丹波市」とあってびっくりする。丹波市(たんばし)と言えば、兵庫県の山間にある市だ。それがどうして奈良の話に出てくるのだろう?
これも調べてみてわかった。昭和29年に天理市ができるまで、丹波市町(たんばいちちょう)という自治体があったのだ。和辻の書いているのは、その丹波市(たんばいち)だったというわけである。
おもしろいな。

