
2020年の一年間の作品を収めた第14歌集。
臼歯にはまだ力あり噛むことが命ながらへるためならば噛む
鳥を見に行かうかと言へば鳥よりもうれしさうな声それを待つてゐた
迷ふこと少したのしゑ街中の漢方薬店にて蛇に遇ふ
三月は帽子の欲しくなる季節こころと身体(からだ)のずれを正さむ
食卓にナイフもフォークもなくなりぬ老いの二人に必要のなく
わたしの代はりに死んだ金魚がゐるといふ連れ合ひのこゑを聞く夏の朝
三歳の萌々夏(ももか)は歌ふ〈パプリカ〉をときに全身をうごかしながら
退職記念の時計も遅れがちになり沈みがちなる梟のこゑ
充電の完了ランプ灯りゐてシェーバーは夜の孤独ふかめつ
あしたより雨は降りつぎ亡き母の写真にひらく紺のあさがほ
1首目、噛むこと、食べることは人間が生きるうえで一番の基本だ。
2首目、結句に深い喜びが滲む。意欲があるのがまずは大事である。
3首目、道に迷ったため思い掛けないものと巡り合うことができた。
4首目、心は春を感じているのに気候や身体は冬のままなのだろう。
5首目、昔ながらの和食中心の食生活なら箸だけで十分に間に合う。
6首目、妻の言葉をどう捉えたらいいか。声が宙吊りになったよう。
7首目、楽しそうに歌う様子が目に浮かぶ。幼子ならではの明るさ。
8首目、遅れがちな時計や梟の鳴き声に自らの老いの深まりを思う。
9首目、電気が充ちた一方でシェーバー内部は完全に停止している。
10首目、「ひらく」がいい。今開いたかのような動きを感じさせる。
2024年5月5日、いりの舎、3000円。