信綱が地元に寄贈した「石薬師文庫」前に立つ歌碑。
ふるさとの鈴鹿の嶺呂の秋の雲あふぎつつ思ふ父とありし日を
佐佐木信綱
傾けてバイクを駆れる群が行く鈴鹿の山は父祖のふるさと
佐佐木幸綱
信綱の歌に出てくる「嶺呂」(ねろ)は万葉集に見られる上代東国方言で「嶺」(みね、ね)のこと。「父」は国学者・歌人の佐々木弘綱(1828-1891)。
信綱生家前を通る旧東海道。
街道沿いに家があるというのは、ネットなどのなかった当時かなり大きなメリットだったにちがいない。探検家・著述家として活躍した松浦武四郎の生家が伊勢街道沿いにあったことなどを思い出す。
浄福寺前にある「佐々木弘綱翁紀念碑」。
姓が「佐々木」であることに注目。「佐佐木」が使われ始めるのは信綱が1903年に中国を訪れてからのこと。
同じ場所にある佐佐木幸綱の歌碑。
「しゃくなげを愛し短歌をすずか嶺を愛し石薬師を愛したる人」
これは祖父の信綱のこと。
旧東海道石薬師宿の南北約1.8キロが「信綱かるた道」と名付けられ、あちこちに信綱の歌計50首が掲示されている。
「いきいきと目をかがやかし幸綱が高らかに歌ふチューリップのうた」
「幼きは幼きどちのものがたり葡萄のかげに月かたぶきぬ」
「蝉時雨石薬師寺は広重の画に見るがごとみどり深しも」
このあたりの旧東海道は車通りも少なく、信綱の歌を探しながら歩くのにちょうどいい。