先日読んだ『京都を歩けば「仁丹」にあたる』を手掛かりに、その名残を探して歩く。
民家の2階に設置された仁丹看板。
よく見ると「伏見区」ではなく「伏見市」新町三丁目と書いてある。
こちらも同じく「伏見市」京町大黒町。
『京都を歩けば「仁丹」にあたる』では次のように説明されている。
昭和になって京都市は「大京都市」をうたって周辺町村の編入を進めていく。当然のことながら伏見町も対象になった。しかし、伏見町は吸収合併ではなく、あくまで対等合併にこだわった。伏見市への昇格はそのためで、昇格からわずか700日後の1931(昭和6)年4月に伏見市は周辺の深草町や下鳥羽村などとともに編入され、広大な伏見区が誕生した。
つまり、これらの看板が設置されたのは、1929年5月(伏見市への昇格)から1931年4月(京都市への編入)までの間ということになる。
なんとも貴重な歴史の証人ではないか。
一方で、仁丹看板は年々その数を減らしているらしい。もともと古い家屋に設置されているものが多いので、建物の解体に伴って取り外されたり廃棄されたりしているのだ。
今回も本をもとに探した3枚のうちの1枚は見つからなかった。新しい家が建っていたので、おそらく取り外されてしまったのだろう。
代わりに(?)見つけたのがこの石柱。
「桝形町」「皇紀二千六百年記念」とある。伏見を歩いていて見つかる記念碑は御大典記念(1928年)と皇紀二千六百年記念(1940年)のものが圧倒的に多い。
駐車場の角に傾いて立っているけれど、いつもまでもお元気で!