2025年04月20日

伏見と仁丹看板

私の住んでいる伏見(京都市伏見区)は、もともと城下町・宿場町・港町として発展した場所で、京都とは別の町であった。

先日読んだ『京都を歩けば「仁丹」にあたる』を手掛かりに、その名残を探して歩く。


 DSC02550.JPG

民家の2階に設置された仁丹看板。

よく見ると「伏見区」ではなく「伏見市」新町三丁目と書いてある。


 DSC02551.JPG

こちらも同じく「伏見市」京町大黒町。

『京都を歩けば「仁丹」にあたる』では次のように説明されている。

 昭和になって京都市は「大京都市」をうたって周辺町村の編入を進めていく。当然のことながら伏見町も対象になった。しかし、伏見町は吸収合併ではなく、あくまで対等合併にこだわった。伏見市への昇格はそのためで、昇格からわずか700日後の1931(昭和6)年4月に伏見市は周辺の深草町や下鳥羽村などとともに編入され、広大な伏見区が誕生した。

つまり、これらの看板が設置されたのは、1929年5月(伏見市への昇格)から1931年4月(京都市への編入)までの間ということになる。

なんとも貴重な歴史の証人ではないか。

一方で、仁丹看板は年々その数を減らしているらしい。もともと古い家屋に設置されているものが多いので、建物の解体に伴って取り外されたり廃棄されたりしているのだ。

今回も本をもとに探した3枚のうちの1枚は見つからなかった。新しい家が建っていたので、おそらく取り外されてしまったのだろう。


 DSC02555.JPG

代わりに(?)見つけたのがこの石柱。

「桝形町」「皇紀二千六百年記念」とある。伏見を歩いていて見つかる記念碑は御大典記念(1928年)と皇紀二千六百年記念(1940年)のものが圧倒的に多い。

駐車場の角に傾いて立っているけれど、いつもまでもお元気で!

posted by 松村正直 at 17:56| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。