現代歌人シリーズ39。
第1歌集『友達ニ出会フノハ良イ事』(2003年)以来21年ぶりの第2歌集。2008年から2014年までカメラマンとしてニューヨークに住んだ日々が詠まれている。
転ぶのもしだいにうまくなるものか上手に転び子が立ち上がる
おのが心おのが歩みにおくれつつ聖堂のさむきくらがりをゆく
ひともわれも黄葉か流れの上に落ちしばしを絡みやがて隔たる
ツグミまで腹の出てゐる国にありむしろ痩せ気味の日本人われ
裏切りを未だ知らねば三歳は「どしてなの?」と幾たびも訊く
孤独にも金また銀の孤独あり 錆びたる鉄の孤独を吾に
カウチにて雌猫の背を撫でをれば鏡の中の妻と目が合ふ
一目見んと思(も)ふは思(も)へども座すほかなし半日白昼のつづく機中に
なにごとも差別のせゐにする人とせぬ人ありてけふも晴れの日
風船は風の船なり風吹けば小(ち)さき手を発ち風中を行く
1首目、小さな子の様子を見ての発見。転び方も上達するのである。
2首目、上句がいい。異国の教会の雰囲気に少し気圧される感じか。
3首目、別れた前妻を詠んだ歌。川面を流れる二枚の黄葉のように。
4首目、同じ鳥でも日米で姿が違うように痩せや肥満の基準も違う。
5首目、イソップ物語の裏切りの意味がわからずに尋ねてくる幼子。
6首目、格言みたいな響きがかっこいい。孤独にも種類があるのだ。
7首目、何となく気まずい感じ。妻が嫉妬するわけでもないのだが。
8首目、母危篤の報せを受けて帰国する。矢部版「死にたまふ母」。
9首目、差別が問題なのは前提としてその後の人の態度は分かれる。
10首目、風船が飛んで行っただけなのだが、言葉がとても美しい。
2024年12月28日、書肆侃侃房、2200円。
初めまして。短歌を学んでいる清水と申します。
突然で恐縮です。恥ずかしい質問なのですが、もしご存じならお教えいただけないでしょうか。
俳句を詠む人の筆名は「俳号」ですが、短歌の場合は「雅号」
けれども、「雅号」は和歌を詠むイメージでしっくりしません。
どう称するのが正しいのでしょうか。
お教えくだされば幸いです。
清水拝
私は本名で短歌をやっているので、そのあたりあまり詳しくはないのですが、確かに「雅号」は現代短歌ではあまり使わない言葉ですね。今は「筆名」や「ペンネーム」と呼ぶことが多いと思います。
お答えいただきありがとうございます。やはり決まった呼び方自体がない感じなのですね。
誰にも聞けずにモヤモヤしていたので、気が晴れました。
感謝いたします。
清水拝