最後に考えたいのは、高安がどうして訳者後記に次のような誤解を招く書き方をしたのかという問題である。
ただ残念なことに、この若き詩人フランツ・クサーファ・カプスは後年、リルケのこれほどの助言にもかかわらず、いわゆるジャーナリズムを頼って、ベルリンの絵入週刊新聞に、みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た。
先にも書いた通り、この文章を読んだ多くの人は高安がベルリン滞在中にカプスの小説を読んだと思うだろう。「この眼で見た」という強い言い方からは、高安がカプスの姿を見たような印象さえ受ける。
それは、高安のカプスに対する批判を正当なものに感じさせる力を持ったのではないか。実際に現地で見てきた人の話だから間違いないといった印象を読者は植え付けられるのだ。
しかし、実際には高安は日本にいて、独逸文化研究所がドイツから取り寄せていた新聞を読んだに過ぎない。そもそも、何回かの新聞の連載小説を読んだだけでカプスの人生を論じることなど本来はできないことなのである。
もちろん、高安は嘘を書いているわけではない。「ベルリンの絵入週刊新聞に、みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た」。この書き方にどこにも嘘はない。でも、それは読者をミスリードする要素を含んだものであった。
嘘はつくことなく、それでいて読者には高安がベルリンにいたかのように感じさせる巧妙な書き方と言っていい。どこまで意識的なものだったかはわからないが、この書き方には高安の或るコンプレックスが滲んでいるように思う。それは、戦前にドイツに留学できなかったというコンプレックスである。
高安が「ベルリンの絵入週刊新聞」を読んだ1937(昭和12)年の11月に、京都帝国大学文学部独文科で高安と同級であった谷友幸が、フリードリッヒ・ヴイルヘルム大学(ベルリン大学)に留学した。ライバルでもあった二人の間に、ここで大きな差が生まれたのであった。(この問題については、以前『高安国世の手紙』に詳しく書いた)
戦後の1949(昭和24)年に訳者後記を書いた時に、高安は何を考えたのだろう。心のどこかに潜んでいた思いが、自分が実際には行けなかったベルリンに「いたかのように感じさせる」書き方を生んだのではなかったか。
その時の高安の頭にあったベルリンは、戦前の華やかな姿であっただろう。そんなベルリンも、もう第二次世界大戦の戦禍によって幻のものになってしまったのだ。
高安は戦後3回にわたってヨーロッパを訪れているが、東西ドイツの分裂もあり、一度もベルリンを訪れることはなく1984年に亡くなった。一方のカプスは、戦後は東ドイツで活動し1966年に東ベルリンで亡くなった。そんなところにも、運命の不思議を感じるのである。
(この項おわり)