カプスのその後の消息については僕は何も知らず、又何も知らうとはせず、それきり世に知られぬ生活の中に埋もれてしまつたのだらう位に想像してゐた。そんな方がかへつて、リルケにあんなに好い手紙を貰つた若い詩人の悲劇らしく奧床しいと考へてゐた
カプスの側から見れば相当に残酷なことを書いているように思う。しかし、こうした見方は堀や日本国内だけのものではなかった。『若き詩人への手紙 若き詩人F.X.カプスからの手紙11通を含む』(2022年)の編者エーリヒ・ウングラウプ(リルケ協会会長)は、「この文通について」に次のように書いている。
しかし、奇妙なことに、カプスの書いた手紙に対する関心が生じることはなかった。(…)そしてここからも長く続く伝説が生まれた。つまり、カプスはリルケに求められた詩人になる使命を果たすことができず、それゆえに大詩人に宛てた彼の手紙は公式には「残っていない」という伝説である。
実際にはカプスの手紙11通はリルケの文書館に保管されていた。それにもかかわらず、長年その存在は無視され続けてきたのである。
そこには、リルケの天才ぶりや高潔さを際立たせるために、カプスを不当に貶める評価が働いているように感じる。高安の訳者後記もまた、カプスに対する批判の後にリルケを讃える話が続く。
これほどのリルケの信頼に応えるのに、この有様はなんということであろうか、僕はしばし悲憤の涙にくれ、人間のあわれさに慟哭したのであった。それだけにリルケの高潔な生涯は、ますます僕たちに力をもって迫ってくるのである。孤独などを今どき持ち出すのは、時勢にかなわないことかも知れぬ。だが孤独を知らぬ文学者とは、そもそも何者であろうか。それ自身実りのない孤独を、あのように豊穣な孤独にまで持ち上げたリルケを、僕たちはいつまでも忘れることができない。
高安のこうした見方は、多くのリルケ愛好者と共通するものだったということだろう。一方でそれは、リルケの手紙の「相手」という役割だけを与えられたカプスの不幸を生んだのである。
「この文通について」には、カプスの残した言葉が記されている。
「リルケの手紙のおかげで、受け取っただけなのに、私は自分で書いたものによってよりもずっと有名になってしまいました。」
(この項つづく)