『若き詩人への手紙』は1929(昭和4)年にドイツのインゼル書店で出版された。日本では武田昌一が京大独逸文学研究会発行の雑誌「カスタニエン」の第6冊から第10冊にかけて計5回にわたって「或る若き詩人に送れる手紙」として翻訳し、1935(昭和10)年に『リルケの手紙』(若き一詩人への手紙・若き一婦人への手紙)として出版している。
堀はドイツ語の原書か翻訳で『若き詩人への手紙』を読み、カプスの名前を覚えていたわけだ。
さて、ここで問題になるのは、堀の文章と高安の訳者後記の関係である。両者には共通する点が多いが、高安は堀の文章を元に訳者後記を書いたわけではないと思う。
堀の文章の書かれた1937年、高安は3月に京都帝国大学を卒業して4月から大学院に進学している。堀の文章の舞台となった独逸文化研究所は高安の通う大学のすぐそばにあった。しかも高安は「O君」こと大山定一とも深い関わりがある。『高安国世全歌集』の年譜には1935(昭和10)年のところに、
京都ドイツ文化研究所講師として京都へ戻ったドイツ文学科の先輩、大山定一を訪ね、尊敬と親愛の念を抱く。大山を中心とする独文卒業者たちの研究同人誌『カスタニエン』の同人となる。
とある。つまり、高安は大山と交流があり、独逸文化研究所にも出入りしていたのだろう。
高安はそこで大山から堀辰雄やカプスの話を聞き、実際にカプスの小説の載っている新聞を見たにちがいない。なぜなら、堀の文章では「独逸の新聞」とだけあるのに対して、高安は「ベルリンの絵入週刊新聞」と細かく書いているからだ。訳者後記に「僕はこの眼で見た」とあるのは、その新聞を見たという意味なのだ。
「ベルリンの絵入週刊新聞」とは、おそらくBerliner illustrierte Zeitungのことである。1894年創刊の写真週刊誌で、イラストや写真を豊富に使った紙面と連載小説が人気を呼び、1920年代終わりには200万部を超える発行部数を誇った。
そんな新聞に小説を連載するのは文学者として成功した姿と言っていいと思うのだが、堀や高安はそのようには受け取らなかった。彼らは「胸の痛くなるやうな気がした」(堀)のであり、「悲しむべき事実」(高安)と捉えたのである。
(この項つづく)