話は戦前にさかのぼる。
その文章とは堀辰雄「夏の手紙 立原道造に」である。初出は「新潮」1937(昭和12)年9月号で、『雉子日記』(1940年)にも収められている。
少し長くなるが、該当部分をすべて引用しよう。
僕はこなひだ京都に滞在してゐたとき、或日、独逸文化研究所にO君を訪ねて行つたことがある。O君はまだ来てゐられなかつたので、僕はしばらく大きな応接間で一人きり待たされてゐた。――僕はそこでぼんやりと煙草を二三服したのち、何気なく傍らの卓子の上に置いてあつた独逸の新聞の束を手にとつて、ばらばらとめくつてゐると、それへ毎号絵入小説を連載してゐる作者の名前がどこかで見覚えのあるやうな気がしてきたが、そのうちその小説の第一回の冒頭にその作者のことが写真と共に小さく紹介してあるのを見ると、それはリルケがあの有名な手紙を書いて与へた往年の若き詩人――フランツ・クサヴェア・カプスなんだ。あのカプスがいまはこんな絵入小説を書いてゐるのか、と僕はしばらく自分自身の眼を疑つた。が、まさしくカプスだ。もつとも、あの「若き詩人への手紙」の序文のなかで、カプス自身、生活のためにリルケが彼に踏みこませまいと気づかつてゐたやうな領域へいつか追ひやられてしまつてゐるのを嘆いてゐたことを読んで知つてはゐたが、――そのカプスのその後の消息については僕は何も知らず、又何も知らうとはせず、それきり世に知られぬ生活の中に埋もれてしまつたのだらう位に想像してゐた。そんな方がかへつて、リルケにあんなに好い手紙を貰つた若い詩人の悲劇らしく奧床しいと考へてゐたが、そのカプスがいまはこんな仕事をしてゐるのか、と思ふと、僕はそれを拾ひ読みして見ようなんていふ好奇心すら起らず、ただなんだか胸の痛くなるやうな気がしたばかりだつた。
そのうちにO君が漸く来たので、それを見せるとO君もそれを知らずにゐて、一驚して読んでゐたが、そんなカプスのことから僕達の話はいつかリルケの方に移つていつた。僕なんぞよりもずつとよくリルケを読んでゐるO君にいろいろな話を聞いてゐるうちに、自分のリルケの本といへば殆ど全部其処に置きつ放しにしてある山里の方が変になつかしくなつて、僕はなんだかかうやつて京都や奈良をぶらぶら歩きまはつてゐるのに一種の悔いに似た気もちさへ感ぜられてきて仕方がなかつた……
文中に出てくる「独逸文化研究所」はドイツ文化の普及のために1933(昭和8)年に設立された社団法人で、京都帝国大学のすぐ近く(現在の京都大学高等学院のある場所)にあった。
「O君」はドイツ文学者の大山定一(1904‐1974)である。リルケの翻訳も数多くしており、高安にとっては9歳年上の京都帝国大学文学部独文科の先輩にあたる。
高安の記した「ベルリンの絵入週刊新聞」は、この1937(昭和12)年の場面に出てくるものなのであった。
(この項つづく)