つまり、彼はリルケの助言に反して通俗的な三文小説家になってしまったわけではなく、自らの意志を貫いて、自らの望んだ道を進んだ人だったのである。訳者後記に記された高安の見方は、かなり偏った一面的なものと言っていい。
さらに、ここで一つの事実を明らかにしよう。
私がこれまで伏せてきた話である。
高安国世訳の『若き詩人への手紙 若き女性への手紙』(新潮文庫)は1953(昭和28)年の発行である。その元になったのは、1949(昭和24)年に養徳社から出たもので、その時に訳者後記は書かれている。
もう一度、大事な箇所を引いてみよう。
この若き詩人フランツ・クサーファ・カプスは後年、リルケのこれほどの助言にもかかわらず、いわゆるジャーナリズムを頼って、ベルリンの絵入週刊新聞に、みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た。
この文章を読めば、ほとんどの人は高安がベルリン滞在中にカプスの小説が載った新聞を読んだと思うだろう。私も当然そう思っていた。
しかし、『高安国世の手紙』を書いていて気付いたのだが、高安が初めてドイツを訪れたのは1957(昭和32)年のことである。高安は戦前からドイツ留学を夢見ながら、身体が弱かったこともあって留学の機会を逃したのであった。
それなのに、なぜ1949(昭和24)年の文章に「ベルリンの絵入週刊新聞」が出てくるのか? ここに、おそらくこれまで公になっていない秘密が隠されている。
(この項つづく)