初出は「週刊朝日」1977年4月8日号〜8月19日号。
久しぶりに「街道をゆく」を読みたくなって、手に取った。
やっぱり面白い。
「蒙古塚・唐津」「平戸」「横瀬・長崎」をめぐりながら、つらつら歴史に関する蘊蓄を傾け、日本の文化ついて考察している。
この元寇は、軍事のかたちをとった普遍性の高い文明と、特殊な条件下で育った民族文化とのあいだの激突であったといってよく、つまりは日本が普遍的文明というおそるべきものに触れた最初の経験であったといっていい。
江戸時代の小藩というのは、津和野、宇和島、大村、飫肥などの諸藩の例でわかるように、大藩よりもかえって教養主義の傾向がつよかった。平戸藩が、何人かいる家老のうち、山鹿、葉山というふうに二人までも学問で名が通っていたというのは、壮観といっていい。
ヨーロッパの航海者というのは、じつに不遠慮なものであった。たとえば、幕末にいたっても、英国でできた海図には、九州、瀬戸内海あたりの島や岬、海峡の多くが英国名称になっていた。つまりは、かれらが「発見」したからである。
「街道をゆく」が書かれてから約半世紀。グローバルスタンダートについて考えるにしても、アメリカ・ロシア・中国との関係を考えるにしても、司馬の問題意識は今なお色褪せていない。
2008年10月30日、朝日文庫、540円。
さて西欧人が勝手につけた地名につきまして、明治期の宝塚近辺を撮影したと思われる写真に、“A JAPANESE HEALTH-RESORT, TANSANIA”というキャプションが付けられたものがあります。
タンサニアなんて、まるでアフリカの国名のようですが、どうやら宝塚が発祥で、当時すでにブランド名が定着していた「ウィルキンソン タンサン」のタンサン(炭酸)から名付けた地名のようです。
初めて見た時、勝手に地名を変えるな!と思いました。
体調はもう大丈夫です。
「TANSANIA」とは驚きです。一瞬何のことかと思いますね。でも、地名の問題というのは考えると根が深い気がします。植民地でも戦争でも、まずは地名を変えますからね。