宣長は京都遊学ののちは終生松阪を動こうとはしなかったが、そのころの松阪はすでに見てきたようにかなり自由な町人都市であり、その商業をつうじて江戸、京都、大阪とは密接に結ばれ、そのうえ宣長自身諸国に有能な門人を持っていたので、その情報と協力とを受けることができた。
宣長の学問が成熟する背景にはこの小津、長井、さらには小西家などの経済力があったのだが、ことに長井家は春村の小西家とともに宣長に多大な援助をおくりつづけた。長井家には二百五十両という宣長の借金証文が残っていて表装されていたそうである。
松阪という町の経済力や文化資本が、本居宣長の学問を生み出す豊かな土壌となっていたのである。それは、さらに春庭や小津久足、松浦武四郎らを生んでいくことになる。
次に、春庭と大平の関係について。
以後、春庭は本居大平厄介という名義になった。春庭は年願を果たせて、安堵をおぼえたであろう。それとともに、本来ならば自分が相続するところであり、失明の悲運があらためて身にしみたであろうし、大平にいささかの嫉妬をおぼえなかったとは決していえないだろう。
大平はこんなふうにまで血統をいいたてるのである、大平は宣長の最古参の門人として実子同様にかわいがられ、春庭の失明のために家督をついだが、血筋を受けていないことに、いつも一種の負い目を持ちつづけていたのであろう。
春庭は幼い頃より宣長から英才教育を受け、宣長の助手のような役目を果たしてきたが、失明のために家督相続から身を引いた。代わりに相続したのが7歳年上で養子になっていた大平である。
二人は表面的には終生穏やかな関係を保ち続けたけれど、どちらも内心は複雑な思いがあったにちがいない。もし失明していなければ、春庭の学問はどうなっていただろうか。
『詞の八衢』『詞の通路』を越えてさらに多くの業績を残せたかもしれないし、一方で、失明という不運や苦しみがあったからこそ、それらの業績を残せたという見方もできるかもしれない。